自然のまま~本質かどうか~

今年は自然農の畑と両親の耕す畑で高菜を栽培してみて、色々な発見がありました。自然農の畑の高菜は、大きくなく小さいものばかりです。もう5年間、無肥料無施肥でやっているものといえば近場の雑草を刈って敷き詰めるくらいです。それに比べて両親の畑は、肥料が残っているので私の高菜の6倍くらいの大きさになっています。実際に農協や農産物直売所では両親の畑の高菜の方が評判がいいはずです。大きくて肉厚な野菜は高く売れます。

しかしよくよく観察してみると、どの辺が異なっているのかということにすぐに気付きます。まず自然農の野菜は、根がとても強く茎がしっかりと強くなかなか収穫するときに簡単に切れません。全体的に小ぶりですが、ほとんど虫がついてなく食べられている形跡もありません。色つやがとても野性的で、収穫してからもなかなか腐りはじめません。高菜などは天日干ししてもすぐには萎れず、元気なままです。売るには大きくて肉厚ではないので価値が低いのですが、食べるには最高です。両親の畑の方は大きさと肉厚さはすごいのですが虫が大量についています。その虫を洗い流すのが一苦労で、これだけの虫を防除しようとすれば農薬を使わないと成り立たないのがすぐにわかります。

実際に大きくしようとすればするほど、大量に肉厚なものを作ろうとすればするほどに肥料が増えていきます。そして肥料が増えていけば虫も増えていきます。虫が増えていくから農薬も増えていくのです。この「大きくする」ということが如何に別の手間を増やしているのかということなのです。しかし大きくする理由はお金になるからです。お金にするために育てるのだから大きくした方が消費は増えるということです。作るときから消費をするために作るのだからエネルギーも使う道具や中身も消費するものを沢山使うことで経済効果が上げているのです。

しかしここで大きくしないと決めるとどうなるか、すると売れなくなります。売れなくなるのを諦めてしまえば消費は落ちていきます。食べていくにもお金がなければ食べていけないのだから食べていくものを作っているのにそれを作ってもお金にならなければ生活していけないという矛盾が発生してしまうのです。私のように兼業農家で行う場合は、自然に食べるものを育ててもそれで収穫して食べて別のことでお金は稼げばいいのですが実際は専業になるとやはり食べるものではなく売れるものを中心につくりはじめるのです。

消費するものか食べるものか、今の時代は消費者が消費するものを求めていますから食べるよりも消費材の方が価値が高く売り買いされていくのです。道具ひとつでも今は修理するよりも買い換えた方が安い時代です。プラスチック製品などは、最初から使い捨てるために大量消費できるように作られています。そもそも道具も使うものではなく消費するもの、食べ物も食べるものではなく消費するものなのです。

自然農は食べるものを作ります。消費にはあまり役に立ちませんが、その分、自然循環する農の暮らしが行え、食べる営みや育てる営み、自然と寄り添い生きていく智慧を学び生き方の方を自然大道に沿っていくことができます。

食べ物をつくることが本来の農であり、消費することが農ではありませんから如何に農を実践するかが自然農の醍醐味になります。美味しい食べものを育て、美味しい食べ物を加工する、そして美味しく食べてもらうこと。

美味しいものを作ることは大きくすることでもなく肉厚にすることでもありません。かえって自然の大きさのままにそれが小さくても自然の姿のままで育てることが美味しいものを作ることです。

この自然のままがいいという価値観は、常に「一体何のためにやるのか」という本質を外すことがありません。本来、人が自然が分かるのはそもそも何のために作るのか、それと深く正対しているから自然のままの意味が自明するのです。

引き続き、本物の漬物作り通し本質的に育てる感性を磨きたいと思います。

 

  1. コメント

    「一体何のためにやるのか」、この問いはいつも持っていたい、そう感じています。時によって同じ問いでも見せる表情を変えますが、それはお守りのようでもあります。先生方とお話しているとそもそも、何のために保育をするのかとそこに行き着きます。方法論は幾つかあるかもしれません。ただ、何のためにするのか、そこは私自身も日頃から繰り返し繰り返し振り返り、ひとつでも形にしていきたいと思います。

  2. コメント

    「それでは食べていけないから」と多くの職業が消えていきました。理念で始めた仕事が、経営のために方向転換を余儀なくされる例もたくさん見てきました。「生きるためにつくるのか、つくるために生きるのか?!」経済社会を生きるには、もう一段上の覚悟と智慧が必要です。「売れる味と大きさ」と「本来の味と大きさ」の違いをきちんと把握しておきたいと思います。

  3. コメント

    肥料が増え、虫が増え、農薬が増えるという「大きくする」のサイクルは、人間都合のあらゆることに置き換えが出来るように感じます。大本を誤ればその先も全て誤っていくことを思うと、いかに「何のため」を自分自身が大事に出来ているかが問われてきます。自他の「何のため」を守れる人になっていきたいと思います。

  4. コメント

    本質的かどうかは自分自身では分かりませんが、心が本質的でありたいと願っているかは分かります。心が思っている時は安心して自分を信じる事が出来ます。梅干しづくりも、保育園を選んだことも、味噌づくりも、やっている事よりも、心がどんなことを望んでいるのかをよく見て行かないと、気が付けば本質から外れていくのだと感じます。知識や技術で見せかけの行動になるのは、心が伴っていないときなのだと感じます。一に心、二に心、と念じても足りないくらいですが、目指すことを諦めず、
    歩んでいきたいと思います。

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