身体の声

体調を崩して数日経ってみると色々と身体の声がはっきり聴こえはじめてきます。人間はつい当たり前に存在するものについてのことはまるで自分のものの一部にもなったかのように感謝を忘れて大切にしなくなりますが、何かあったり失ってみたりするとその有難さや大切さに気づくように思います。

聴くというのは、まず自分自身の身体の声を聴き、そののち心の声を聴けるようになることが肝要で最初から発する声に耳を傾けようとはしないその姿勢にこそ問題があるように思います。

養生法の一つに、石塚左玄の「食養」というものがあります。これは「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の病気の原因は食にあるとし人の心を清浄にするには血液を清浄に、そして血液を清浄にするには食物を清浄にすることであるとも言いました。

日頃どんな食生活をしているか、そのものが何よりも養生法において重要であるといいうことです。その日頃の食生活が乱れ、バランスを崩すような生活を続けていていざ体調を崩して民間療法をやったとしてもそれでは手遅れなことがほとんどです。

なぜなら民間療法はそもそも自然に沿った生き方をしている人たちが病気の時に取り組んだ治癒法であり、今の時代のように農薬や合成添加物、スピードや効率で栄養過多になって偏った食生活の人たちが今更やってもすぐに効果が出ることは考えにくいからです。

民間療法をやるのなら、そもそもの日頃の食生活や生き方そのものから改善しなければその民間療法も活きてこないということです。如何に今の時代の食が乱れているか、昨今の世の中を見渡せば観えてくるものです。

対処療法というものは、どうしようもなくなった問題を「これよりもマシ」という比較の中で行われていきます。本来の問題とは向き合わず受け止めず、そこを只管避けて通ろうとする、変わらないのは自分自身なのが対処療法です。しかし根源治癒の方は、これよりもマシという欲望を断ち切ったのち、日頃から丁寧に生き方の方から変えていくものです。自分が間違っていることに気づいたらすぐに変わる、それが根源治癒です。

治癒というのは、自然に直るということです。

自然に直るには、そもそも人間は何が自然だったかというものを深める必要がります。その時、石塚左玄はこういうことも言っています。「人類穀物動物論」「一物全体」「身土不二」「陰陽調和」など、本来人類がどういう食べ方をしてきたかをとことん突き詰めているのです。何をもって自然かといえば、そのはじまりを知ることです。

そしてこの石塚左玄には、「食養道歌」というものがあります。二宮尊徳にも道歌がありますが、その道を深めた人たちの言葉は心に沁みます。

「臼歯持つ人は粒食う動物よ。肉や野菜は心して食え」
「円心ある穀類多く食ひなば、智仁勇義の道に富むなり」
「動かずば動かぬものをおもに食い、動き動かば動くもの食え」
「海国の魚と塩とに富む土地は、山や畑に生ふるもの食え」
「大陸の麦と薯とに育つ人。勤めて食えよ肉や卵を」
「塩風の温味ありける火の本を、さます薬は野菜なりけり」
「遠海の北と雪との水国は寒さ凌ぎに肉を食うべし」
「潮風の吹き入る土地は身の為に食ふて欲しい豆と野菜を」
「山里は塩の漬物食うが好し、肉と魚との代用するなり」
「牛と魚鳥や玉子とかはれども海鹽と同じものとこそ知れ」
「魚や塩得るによしなき山里は、鳥獣の肉を食うべし」
「塩風に吹かるる土地の人々は、夏気となるや殊に菜食え」
「飯食うて、程よく肉を嗜まば、身も壮健で智も才もあり」
「肴屋はさかなのように動けども、八百屋の如く静かではなし」
「春苦味、夏は酢の物、秋辛味、冬は脂肪と合点して食え」
「献立は海の品なら山のもの。臭い物には野菜合わせよ」

これれは、すべてほどほど、中庸であることが説かれているように思います。足るを知り、ほどほどの善さを自覚するものは健やかなりということでしょう。今の時代、誘惑ばかりがありますから己に打ち克つにはやはり自分自身との対話を静かに行っていくしかないのではないかと今回の病を得て実感しました。

「あらゆる静寂に耳を凝らし、深淵から届く声に耳を傾け、その澄んだ音を聴け」(藍杜静海)

今年も最初から転じる出来事ばかりが続いていますが、学び直しがはじまっていることに感謝し、体験させていただけることの御蔭様に恩返しをしていきたいと思います。

 

民間療法の本質

今回、民間療法を試していく中で一つの発見がありました。この民間療法は日頃取り組んでいる自然農と同じで、もともと備わっている自然治癒を援助し支えるやり方で行われていたということです。

現在の西洋の薬は確かに緊急時には必要ですが、病原体にだけに対してだけではなく同時に身体にも影響を加えてしまいます。副作用があるということは、病原体を攻撃するために多少の犠牲をはらっても手段を選ばずに薬で殲滅させようという考え方です。

それに対して古来から伝わる先祖たちが伝承してきた民間療法は、もともと身体には自然治癒が備わっているためそれをどう発揮できるように手伝うか、また援護するかという観点で薬を用いています。そのため副作用はありません。

例えば、喉の痛みについては「はちみつ大根飴」や「緑茶のうがい」、「生姜茶」の療法を用いましたがこれは扁桃腺で自助免疫が外部からのウイルスや細菌の侵入を防ごうと攻防を繰り広げています。その時、はちみつが抗酸化作用で殺菌を助け、緑茶のカテキンが同じように殺菌をし、大根が炎症や痛みを和らげ、生姜が体温を中から暖め免疫が活動しやすくなるようにと援護します。

つまり古来の薬はすべてにおいて自然治癒を「援護」するものであり、病原体を倒すためのものではないということです。これは人間にはそもそも自然治癒が備わっていると信じられており、その自然治癒が働きやすいようにと配慮しながら暮らしてきたのです。

これは自然農も同じで、作物その物のもつ育つチカラを邪魔しません。どうしても外敵に負けそうな時だけ、援護します。するともともと持っている元気が出てきて、逆境を撥ね退けて負けそうな時よりもずっと強く逞しく活き活きと育っていきます。その生きるチカラ、その元気溌溂さを見るとき、実は逆境は善いものだと信じさせるものです。

人間の身体も同じくもともと持っている元気がでなくなったのは自分の自然治癒力を信じず、西洋の薬に頼りますます元気がなくなってしまっているように思います。これは薬だけに限った話ではありません。何でも目に見えて効果がありそうなものに飛びつき、本来の自分自身の中にあるものを信じようとしなくなっているようにも思います。自分の免疫で治すことは確かに信じるチカラが必要であり、治るかどうかが分からない状態で苦しみが続くのですから調子が悪いとより不安になるのは仕方がないことなのかもしれません。

しかし見方を転じてみれば病気になってしまった原因を見つめるよい機会でもあり、苦しみを受け止めてそれを民間療法を用いて恢復ができるのなら自然に身体は以前よりも益して元気が漲ってくるように思います。

最後に整理すると、自然に沿って治そうとするものが民間療法であり人工的に意図的に治そうとするものが現代医療といっていいかもしれません。先祖たちの伝承された民間療法を試していたら、先祖たちが如何に自然に寄り添った暮らしを永い期間ずっと行ってきたか、そしてそれが如何に優れて素晴らしかったものなのかを身体で感じます。

自然を征服することができても果たしてそれが幸せなのかどうかは疑問です。自然物の一つとしての人間なのは自明の理なのですから、自然物のチカラが自分に具わっていることを自覚することの方が信じるチカラを得て自然一体に安心できるように思います。

子ども達のためにも、自然農と同じく民間療法としてのものもできる限り掘り起し探し出し少しでも多くのものを伝承していけるよう生き方を遺していきたいと思います。

 

民間療法の智慧

先日から風邪をひいてしまい喉が腫れ高熱が出たために日頃、社内で実践しているはちみつ大根飴をつくって自分の体験で効果を試しています。このはちみつ大根飴は、江戸時代頃からあった民間療法だそうでもともと大根の持つ消炎効果とはちみつの持つ抗酸化作用を組み合わせたものです。

大根には、イソチオシアネートという消炎のための物質、そして酵素としてアミラーゼ、プロテアーゼ、リパーゼなどがあり消化を助けることが分かっています。またはちみつについては紀元前から人間は薬用として使われていたことが分かっています。具体的には、はちみつ中に存在するグルコースオキシダーゼという酵素が、はちみつの表面に触れている空気中の酸素に働き過酸化水素という物質をつくります。それが強烈な殺菌効果と、消炎効果があるようです。

子どもの咳止めには「はちみつ」をというくらい、昔から重宝されてきたようです。

これらは民間療法といって、古くから民間の生活の中で伝承されてきた智慧ですが自然に沿って暮らしてきた先祖たちが早くから大根とはちみつの効果を知って、生活の智慧にしてきたのです。

昔の人たちは観察力がとても優れていました。それはきっと自然を観察して自然から学んでいたからに他なりません。文字や言葉で学んでいるのではなく、自然そのものをよく観察してそこから智慧を生活に取り込んでいったのです。

今の時代のように、何でも便利に人工的なもので囲まれた都市型の生活をしていたらそういう観察力は減退していくようにも思います。本来の観察力は、自然によって磨かれるものだからです。

天然自然物を活用することは、自分自身の感性が磨かれることになります。

これらの民間療法の効果は、誰にでも覿面に効果があるかどうかはわかりませんがこれらを実践することによって先祖たちが如何に今の自分たちよりも自然に寄り添い優れた観察力を発揮したかがはっきりします。

先祖の智慧を伝承することは、温故知新の生き方を学び直すことにもつながります。

この機会もまた有難い経験にして、子ども達へ伝承していきたいと思います。

2016のテーマ

昨年も本当の多くの方々の御蔭様と見守りをいただき無事に一年を過ごすことが出来ました。光に影が付き纏うように、常に自分が生きて周りに活かされていることが存在しています。私たちは一人では決して生きられず、生物非生物に至るまであらゆるものの存在の御力をいただきこの世に存続することができています。

このように当たり前の存在ではない、「有難い存在」にいついかなる時も気づける自分でいようと思っていますが、恵まれすぎると足るを知らなくなるのが人間の慾です。

よく考えてみると、全てを必然と思えるかということが足るを知り今に感謝する妙法なのかもしれません。人はこんなはずではないと物事に不平不満を思うより、これは何を教えてくださっているのか、何を与えてくださっているのかと謙虚に素直になるのなら物事は全て必然であることしか発生していないと気付くものです。

どんな禍も転じて福にしていく生き方というのは、運命を信じて天命を守り人事を盡すということのように思います。そのためにも日々に分相応を守り吾唯足知の境地を得るために今年も御蔭様の実践を精進していきたいと思います。

昨年は、「時代に翻弄されず初心を忘れない」ことをテーマにしていましたが、その初心や理念に見守られた有難い一年を過ごすことが出来ました。今年、メンターからいただいたテーマは「もののはじまりを知る」ということです。

これは時代時代で変化が著しく人は翻弄されてしまうものです。例えば、新しいものが入ってくると古いものが否定されたりしますがそれが新しいか古いかではなくそのものが何であるのか、つまり本質を常に捉えることが大事なことだと私は聴きました。

そしてその時、伝統とか、伝承、文化とか、始まりを知ることが、翻弄されないためにとても効果があるとのことです。なぜならどんなに新しく発見されて過去のものを否定されたとしても伝承は否定されることがないからです。この「もののはじまりを知る」ことは、大元が一体何かということを知るということです。そしてそれを知ることこそが初心であり、本質を守ることです。

時代が変わっても、道は太古の昔からはじまりずっと今に繋がっています。

そしてそれを鑑みると今此処に繋げてくださった多くの方々の御蔭様がいつまでも息づいていることに気づき感謝の念がこみ上げてきます。降り積もるこの葉をかき分けて先人たちの足跡を観て学び、その真心を丁寧に継承し子ども達に譲っていけるようまず自分たちが初心を忘れないで実践を高めていきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

 

祈りの実践

先日、あうん健康庵にて有難い真心の籠った最幸のおもてなしをいただき私たちにも一生の思い出ができました。御縁は本当に有難く、「祈りの力」という小松先生の著書のタイトルに惹かれて知人からご紹介をいただいてから自然治癒ということの本質について深めることができています。

そもそも「いのり」というものをどのように定義するか、そこに祈りのチカラを自覚するかどうかの差異があるように思います。日々に「祈りの力」を実践するものこそが、その祈りによって世の中が働いていることを知る様に私は思います。

かつて「代表的日本人」を著し、世界に日本人の徳を弘めた内村鑑三が「聖書之研究」の中で「祈りの特権」という語録を遺しています。

『人は窮すれば人に頼む。人の援助を得て窮地を脱せんとする。そして人の援助の絶えし時に行詰りたりと云う。彼は、おのれに祈祷の特権あるを忘れるからである。何がなくとも祈る心はある。これさえあれば、われに万物ありである。』

私の意訳ですが、「人が困窮すれば誰かに助けを求めそれが尽きた時、行詰るといいます。しかしこの時、自分には祈りがあるという実践、その初心を忘れているからそうなるのです。どんなものが不足しても祈る実践はできないことはない、つまりこれさえあるのなら自分には万物が足りているのです。」

人は祈ることを忘れることで困窮していきます。言い換えれば祈らないから困窮するのです。この祈りというのはピンチこそ祈るのではなく、やはり日々に初心を祈ることのようにおもいます。この祈りの特権というのは、人が素直になり謙虚になる唯一の方法です。困窮して行詰るのは自己中心的で自利にばかりに心を奪われてしまうからとも言えます。もしも利他に生き、三方よしの全体のためにと人事を盡して天命を待つ生き方をしているのなら困窮ではなく天から与えていただいた試練だと感じるものです。

それは「試されごとは頼まれごと」という言葉もありますが、それだけ天が頼ってくださっていると感じる感じ方もあるのです。試練は「初志」を鍛錬し、「初心」をも研磨してくれますからその試練によって人は養分を得て養生し成長するとも言えます。

話を戻せば、祈りの力というものは日々に初心を忘れない実践を行ういます。それは理想を信じる中で魂を純粋にし、魂のままに遣りきっていくことに似ています。

世界には同じようにこの世に産まれてきて何かを直感し、生き方を変えて一隅を照らしともに世の中を明るく美しくしようと実践する方々が沢山います。そういう人たちと一緒に祈り続けるのなら、いつの日か必ず人類は目覚め安心の世の中を築いていくはずです時、大事なことは真心と思いやりを忘れずに一緒にいつまでも祈りの実践を行うことのように思いますそうすることでたとえ時代り変わっても伝承され継承され、その祈りは永遠になり無限の刻を歩み続けていきます。

「祈り」は人間に与えられた「至大至高の叡智」であるということです。

最後に内村鑑三はこう締めくくります。

『祈祷の哲理を解せずといえども、祈祷の実力を知る。われは弱き人である。されども祈祷の人である。ゆえに強くせられ、また人を強くすることができる。大なるかな、祈祷の特権。』

未来がどうなるかは、今の自分の祈りの実践によります。倦まず飽かず怠らず、精進を続けて子どもたちの未来のために祈りを積み重ねて研ぎ澄まし、祈りそのものに近づいていきたいと思います。

心が優先

今の時代は知識が豊富になり、何でも解決方法をインターネットをはじめ本を読んですぐに活用することができます。しかし同時に、優先順位が求められている時代に入ったとも言えます。

例えば料理をする際、食べたいものを考えてレシピを検索します。そしてレシピをみたすぐにその通りに料理をすればある程度はおいしいものはすぐにできてしまいます。つまり頭で考えた通りに頭で近づけていくことができるとも言えます。その際、注意する必要があるのは先に心を優先してから頭を使っているかということです。

ここでは頭と心という言い方をしますが、頭でいいなと思ったことをやるのではなく、まず先に真心や思いやりを優先しその後にその具体的な方法として頭を使うという意味です。今の時代は知識が豊富になり便利になることで心は使わず頭だけでやっていることが増えたとも言えます。

便利か非効率かではなく、心を優先しているかどうかということが大事なことなのです。

心を入れずに頭で生きていくことは確かに便利です。面倒であればあるほど心のチカラは生きてきますが、簡単便利であればあるほど頭は動いていきます。電気一つスイッチを入れればすぐに暖房がついて暖かくなるのと、薪や炭で火をおこし暖めていくのでは時間も労力もまったく異なります。しかし前者は心は使わなくてもすぐにできてしまいますが、後者はそこまでしてやりたいかというくらい時間も労力もかかり不便なものです。

頭で考えていてもコツは掴めませんが、心を優先して頭を使うことでコツは身に着いていきます。そうして心を遣って行動することを優先し、それを知識で深めていくことができるようになってくると自然との向き合いが上手になってきます。

先ほどの暖房一つでも、スイッチ一つで暖めるのか、手間暇かけても火をおこし暖めるのでは実践していることが異なります。自然を相手に日々に取り組むことは心を高めて五感を磨くことと同じです。

これからは機械がより高度に発展し、ロボットや人工知能が人間の代わりに働きはじめる時代ですからなおさら感性を磨き、人間にしかない直感を研ぎ澄まし、人間力を高めていく必要があります。それが心を優先するということです。

心を優先する訓練というものは、自然を相手に暮らしていくことです。発酵を学んだり、御米や野菜を自然に育て、生き物たちを慈しみながら一緒に生きていくことや、生活の中で必要な道具をかつての親祖からの伝承を学び直し受け継いでいくことも心を優先する実践になります。

もちろん情報化社会ですから頭脳を磨くことも大切なので、新しいものの価値もまた身に着ける必要がありますがそれは心が優先しての話です。心が優先しない技術や知識というものは本当に危険極まりないものです。それは自然を相手にする危険とは異なり、まるで欲の化け物を相手にするような危険が伴います。

人類はどう自分に打ち克つかというのは歴史の教訓の中で何度も気づかされます。栄枯盛衰、どんな文明も必ず滅びました。それは心が優先されなくなって滅んでいくのが分かります。真心や思いやり、仁とも言いますが時代が変わって技術がいくら進んでも大切な優先順位は間違わないぞというその時代その時代の人たちの信念が未来を決めているのでしょう。

子ども達のためにも、何を優先して生きていけばいいか、今の大人たちが変われば子どもが変わり、子どもが変われば未来もまた変わるのですから常に自分自身に矢印を向けて実践を積み重ねていきたいと思います。

 

白紙に透過する今

昨日は、社内の場をアレンジして古民家風にしてちゃぶ台にゴザ、間接照明を愉しみ望年会を行いました。館山から貝人こと福田さんも参加してくださり、来年早々にある貝磨きにつながる望年貝にもなりました。

有難いことに毎年、写真を振り返り毎月映像化しているトキメキムービーで一年を省みるとこの一年がただ過ぎ去ったものではなく如何に得難い邂逅の日々であったことを再認識できます。仲間と切磋琢磨し初心を忘れずに実績を積み重ねた日々、同じ目的に向かって御互いが支え合い励まし合い助け合い見守り合った日々、その一つ一つが大切な時間と解け合って今に至ります。

御縁を感じるのは、誰と一緒にどのように時を刻んだかといった生き様を振り返るときに強く感じます。そしてそのつながり、その絆の御蔭様にどれだけ自分が救われているかを思う時、はっきりと顕れてきます。

あたりまえではない存在とは一つまた一つと集積する時間の中にこそ住んでいます。それはまるで一生の砂時計のように、上にある砂が狭まった道を通り抜け下に落ちて溜まっていくように、循環しめぐり往く時の中で砂が転じて記憶と解け合い集積するかのようです。残りの人生をどのように使い、どのような砂を積み重ねていくかはその砂が入れ替わる瞬間の此処今この刻にこそあります。砂に思いと願いと祈りを篭めて透過することが一生を生き切るということかもしれません。

時代が変わっても、変わらないのは人間の一生です。

この時代に何を大切に生きるか、この時代にどのような御縁に結ばれて生きるか、御縁を活かすのは自分次第です。誰かに刷り込まれた常識を捨ててみて、思い込みに縛られる自分と別れてみて、頭で考えるのを一旦已めてみて、白紙で物事を観ることが素直になることのように思います。

子どもだったころ、最初はみんな白紙で何でも自由でした。白紙に透過するのが自分の生き様であり生き方です。魂が信じたことをカタチにしていく世界というのは、執らわれないで純粋にどこまでいのちを透徹できるかにかかっているように私はおもいます。

どんな生き方をしてみるとどんな風になるのか、人生実験は飽くなき挑戦の日々です。子ども達に繋がっていくことを忘れず、一念一念を希望に換えて日々を遣りきっていきたいと思います。

道心と暮らし

「道心」という言葉があります。これは徳を高めて道を志す道徳心とも言えます。天台宗の開祖の最澄の有名な言葉に「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人曰く、経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす。即ち此れ国宝なり」があります。

これはクニの宝とは人々の中にある道徳心であり、道徳心がある人こそが本来国宝なのだと言い切ります。そしてその国宝こそがクニのかたすみのあちこちを照らす人々になっていくということです。

そもそも道徳とはいつからあるものなのか、それは今もはっきりしていません。しかし古来の人類が埋葬してあるものをみて、そこに御互いを思いやる心があったことを察し、宗教に発展しているとも言えます。

日本では神話の中で、大国主が数々の思いやりを遺しています。そして天照大御神も、真心を顕している「八尺瓊勾玉」を三種の神器の一つにしました。先祖たちが大切にしてきたものの中に道徳が入っていることに気づきます。

人間がもっとも人間として大切にしているものを忘れないこと、それを初心にして高め合おう磨き合おうと精進していく中にこそ道徳は息づいているように思います。

最澄はさらに「道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし」と言いました。

つまりは初心を忘れずに実践する人には、自ずから衣食住は伴ってくる。ここでの「衣食(えじき」とは「暮らし」のことです。初心を忘れない人は安心して暮らしていけるが、己に負けて初心を忘れ自分のことばかりを考えて自分勝手に生活している人には人を思いやる真心を見失い衣食住が次第に存在できなくなるということです。

「暮らし(衣食)」というものは、利他に生き、周りのために、全体のためにと自分を盡す人には自ずから備わっているもののように思います。自分優先で自分のことばかりを気にして自分に終始する人は暮らしが成り立たないのは、暮らしは「みんなの仕合わせのために生きる」中にしか存在しないからのように思います。人間は周りの御蔭様を何よりも尊重して生きる生き物であり、決して一人では暮らせないということです。

周りへの感謝を忘れ御蔭様をも思い出さないで、自分の身の心配ばかりしているようでは道心から離れているように思います。道心とは、周りの人たちの御役立ちできる生き方を貫いていくことであり、その生き方が世の中のかたすみを常に明るく支えているという意味でしょう。

「暮らし」を見直していくとき、どうしてもはじまりを意識します。そのはじまりは、道徳心に由ります。道徳心を忘れないためにも初心を実践し、日々に研鑽を積み、真心を盡していきたいと思います。

 

徳の御姿

先日、私のメンターの先生と10年目のテーマを確認する機会がありました。もう毎年毎年、この時期にテーマについてご挨拶をしテーマを共有し一年を振り返り10年にもなりました。

自信というものは決して結果に対してつくものではなく、自分の決心したことを実践してやり遂げる中で自ずからが信が積み上がっていくものです。私にとってはこれだけの期間に色々なことが起きながらも自分の信じた初心を貫くことができた御蔭様に心から感謝ともに自分に対する信頼にもなりました。

徳の高い先生と、道を一緒に同行できることは何よりも人生の仕合せです。

人は徳が磨かれ人格が高まれば高まるほどに道ができます。なぜならその徳に人が慕って集まってくるからです。私の尊敬するそのメンターの先生も、この10年以上御傍でご一緒していく中で多くの人たちが集まってきました。今でも全国各地から、いや世界からその人望を慕って人は集まってきます。不思議なことですが、自分が外に追い求めていかなくても自らが実践に由り思いやりや真心、その仁の姿を示すなら道中の同志たちが集まってくるように思うのです。

「桃李(とうり)もの言わざれども下(した)自(おのずか)ら蹊(みち)を成す」

これは中国の司馬遷、「史記」にある故事です。桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。つまり徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえで使われます。

自らを研鑽し、自らの徳を高めることで道は自然に姿かたちを顕現させます。

有難いことに、道中の中で物言わぬ道が何よりも学びを深めてくれます。人に出会うことは徳に出会う事であり、徳を学ぶことは道を歩むことです。

その人物の価値というものは、どのような生き方をしたか、そしてどのような生き様であったかということに尽きるように思います。そしてそれはその人の徳が顕すものです。如何に日々を生きるかが、生き様ですから一日一生と日々に初心を生き続けることが本来の人生を生き切ったということでしょう。

子ども達や次世代のために、今を焦らず弛まず己に打ち克ち、「桃李不言下自成蹊」と実践していきたいと思います。

ヒューマンスケール~手の届く範囲~

先日、ヒューマンスケールについての話を伺う機会がありました。これは辞書によれば「物の持ちやすさ、道具の使いやすさ、住宅の住みやすさなど、その物自体の大きさや人と空間との関係を、人間の身体や体の一部分の大きさを尺度にして考えること。人間の感覚や動きに適合した、適切な空間の規模や物の大きさのこと。身体尺度。」(goo辞書より)とあります。

昔、鞍馬寺に伺ったときに貫主様から「手の届く範囲」という御話をお聴きしたことがありました。人は手間暇や手仕事、手元や身近な手の届く範囲で生きていくことが大切という話です。

つい人は青い鳥症候群のように、遠いところや未来の彼方に宝があるように錯覚しますが実は足元にこそ本来の宝があるという考え方を持つと見方が転じていくものです。

手間暇をかける幸せや、身近な暮らしを味わう倖せ、そして大切な人たちと一緒に生きる歓びや、分相応に謙虚に日々の仕事を丁寧に進めていくことの豊かさ、これらはすべて「手の届く範囲」で行われるものです。

人間は原子力をはじめ、遺伝子組み換え、サイボーグ等々、地球を破壊するような様々な科学技術を便利に我が物顔で使っていますがとても使いこなしているようではありません。目にはみえないところまで手を伸ばし、手が届かない範囲まで手を出そうとしています。もう自分では制御不能の技術の中で、心は着いてこなくなっています。

人は本来、循環の一部ですから「分相応」という生き方を選んできました。よく身に余る光栄だとか、恐れ多いとか、もったいないというように自分に相応しいものがどれだけのものなのかを自覚していました。

しかし今は、身の丈を超えて無理をし、虚飾をして派手な生活を繰り返しているともいえます。大量生産大量消費の中で、経済のみを優先していくと分不相応な暮らしは広がるばかりです。日常よりも非日常を求めては、お金を使うために体を壊してお金のために大事なものを捨てていく始末です。

二宮尊徳は「分度」といって、分相応を定めてその中で生きることを説きました。自然体の生き方というのは、自分の身の丈にあった生活を続けていくことのように思います。人間は欲ばかりを肥大化させていけば、その欲によってヒューマンスケールを簡単に超えていきます。そしてもはや人間の生活ではない暮らしを送り、本来の人間らしい自然な姿が分からなくなっていくものです。

日々に何を食べていたか、どんなリズムで生きていたか、何を大切にしてきたか、その全ての「はじまり」すら思い出せなくなるところにこのヒューマンスケールで生きない問題があるように思います。

手の届く範囲いうのは、欲張らないということです。言い換えれば、自然の御蔭様に気づき感謝で生きていくということかもしれません。それはすべて手が届く範囲で実感できるものだからです。

手間暇、手仕事、手の込んだものはどれも「美しい仕事」になります。

この手の届く範囲にこそ私は「美しさ」を感じます。つまり美しい仕事はすべて手仕事なのです。そして美しい生き方というのは、分相応に生きている人が持てるものなのかもしれません。そしてそれが自然体の本質であり、人間らしさの本質かもしれません。

子ども達のためにも、時代が変わっても日常の初心、その「手の届く範囲」や足元の宝を忘れないように精進していきたいと思います。