志の意義~親孝行~

今年は大河ドラマで吉田松陰に関することに触れる機会が多いため、今まで見聞きし調べてきたことを何回かに分けて深めてみたいと思います。

吉田松陰は脱藩をしたり、ペリーの黒船に乗ったり、討幕を訴えたりと危険なことばかりを繰り返した我儘な人物ということをよく誤解されます。当然、人間は封建的なものを持っていますから秩序を乱すようなことをすれば排斥されてしまうものです。特に明治維新前の時代は思想をはじめ言論から行動まで非常に強く抑え込まれていた時代ですから危険人物の中では突出していたとも思われていたのでしょう。

先日も吉田松陰のことについて他人に聞かれましたが、親に迷惑をかけて周囲に迷惑をかけてなんて勝手な人だという人がいましたが決してそうではないのです。

吉田松陰はいつも自分が行ったことで親に申し訳ない、周りの家族に、親族に、お世話になった方々にと涙しながら前進した人物でした。脱藩の時は、毎晩のように涙を流して親の安否を心配し続け、ペリーの時は有志の師の佐久間象山先生の安否を気遣い続け、牢獄に入れられ私塾を開き討幕を訴えて兄は失職し両親も仕事がなくなり、養父の責任も巻き込み、申し訳なさに涙涙しながらも志を貫き至誠を通し真心を盡した生き方の人でした。

それは手紙や詩の中にたくさん残っています。

「知るや否や親を思う連夜の涙、天衷自ら万人同じきあり」(分かっているのだろうか、両親のことを心配し流している連夜の涙を、人間には必ず天から与えられている情があるのだから私もまた同じなのです)

「吾が家の父母兄弟いずれもつつがなきに候や」(我が家の父母兄弟はいずれもご無事であろうか)

「これからは、拙者は兄弟の代わりに此の世の禍を受け合うから、兄弟中は拙者の代わりに父母へ孝行してくれるがよい。左様あれば、つづまるところ兄弟中皆よくなりて、果ては父母様のおしあわせ、また子供が見習い候えば子供のため、これほど目出度き事はないではないか」(これから私は兄弟の代わりにこの世の災難を請け合うから皆はどうか両親に孝行してください、そうであればみんな家族は仲良く両親も仕合せで子どもがそれを見習えばきっとめでたいことだから)

最期の別れでは、母親に元気な姿で帰ってくると約束し母親を安心させ旅だち、処刑前に遺した詩が「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」(私が両親を思いやる心以上に私を思ってくれる両親の真心、今日の私の死の知らせをどう思うだろうか)とするのです。

このような人物が我儘で自分勝手に生きたわけはありません。吉田松陰は何よりも孝行を大切にし、忠義を盡して、至誠に生きた人物なのはすぐにわかります。激しい一面だけを見ては危険な人物というところだけを見ては、世の中の批評はあったけれど、内面や内心、本心はとても思いやりのある優しく純粋で正直な子どものような人だったのです。

自らを「情人」であるといつも言っていた松陰は常に立つときその情に於いて煩悶するがそれでも往く、「慈母の愛、父淑の責めは人情の堪え難きところ、唯だ非常の人のみ能く非常のことを為す。孔孟の国を去り、釈迦の山に入る、皆常情にあらざるなり」という。孔子も孟子も自ら家族を遺して国を去り、釈迦もまた同じように山に入っていったように決して比べられない大事なもののために覚悟するのだと自戒し言うのです。

自分の真心を信じてくださる両親に甘えつつも、同時にそのことで多大な迷惑をかけてしまう苦悩に煩悶し涙する日々の中「已むにやまれぬ大和魂」(それでもやめることはできない私の善心)という言葉は、それでも已めるわけにはいかないという透徹した純粋で正直なその人の心魂から吐出す信念の血言霊だったのではないかと私は思います。

本当に未来を憂い、世界の将来を心配し、人々の行く末を案じるのなら魂の先輩から志の本意を学ばなければなりません。私たちは単に義理か人情かではなく、志ということがどれだけ苦労の実践実行と関与しているのかを自覚しなければなりません。親孝行の中に大切な教えは全て入っているように思います。

親孝行をするというのは、志を練り上げる第一の徳です。

子ども心に憧れた松陰はいつも心の中に居ます。時機を心待ちにしているのなら、いつの日か同じ境地に近づけるのでしょうか。これからも何をもって親とし、何をもって孝行とするか、その志の意義をよくよく考えて生き切っていきたいと思います。

十全円満~光と闇~

世の中には光と闇があります、もしくは陰と陽という言葉を使います。光には光の特性(動)、闇には闇の特性(静)があります。これは表裏という関係ではなく、表裏のない同質のものです。

例えば、光があれば陰が発生します。光と陰があることでそのものは顕現します。宇宙に星がなければ宇宙を感じることはありませんし、宇宙がなければ星も見えません。お互いが存在し合うことではじめてそのものの存在が確認できるのです。つまりは光と闇や陰と陽ではなく光も闇も陰も陽も同質であるということです。

全てを十全に捉えるという観点があります。

それは光も水も空も風も土も同じものであるという考え方で全ては欠けているものは一つもないということです。私たちは物事を観察するときに、あるやないという見方をします。しかしあるとかないとか言っていると、十全であることがわからなくなってきます。

自分というものを中心にばかり物事を考えて観てはあるとかないとかを見分けていても、本来すべてを存在している宇宙自然の廻りのことなどは実感できなくなってしまうものです。欠けていないのであれば失っていないわけですから、なくなることがないという世界。

そういうやったことがゴミで消えるのではなく、それが巡っているだけであるという意識。あるかないかではなく、巡りゆくのだということを自覚するとき、人は初めて循環の理に触れ、自分がどう生きるべきかについて自問自答するように私には思えるのです。

自分が生きているうちのことだけを考えては欲を貪り、自分が死んでしまえば後は知らないというように無責任になってしまえば、巡っているいのちのことなどは考えなくなるのかもしれません。

人間はいのちある存在ですから、そのいのちは形を換えては様々なところを廻り巡ってまた戻ってきます。仏教の輪廻転生のように、いのちを殺しては食べてそれを排泄していく私たちのいのちもまた他の生きものを通じて地球の中を廻りつづけていきます。

いのちを粗末にするというのは、巡りを大切に考えないということです。そしてそれは分けて考えるからです。分けない実践というものは、自分を中心にばかり物事を考えずそもそも一つの存在なのだから自分の影響を自覚して生きるということです。

他人事にしない人生と言ってもいいし、自他一体にする人生と言ってもいいかもしれません。明日は我が身、あの人は未来の私であり過去の私だと思えるか、全てを自分事とできる思いやりの実践です。

光と闇があるように、人間もまた光と闇でできています。

十全円満そのものを分けさえしなければ人間ははじめて本物の人間となりうるということです。人間の持つ業の深さを沈み内省しつつ、いのちを輝かせて魂を磨いていきたいと思います。

 

信念会~ふり返り~

昨日、社内で新しい年を迎えて昨年の御蔭様に感謝とともに熊野神社に参拝し昼からは七草粥、また夕方からは一年のふり返りを兼ねて新年会(信念会)を行いました。

今年は書初めではなく、磨き初めという初実践もはじまり皆で貝に字を彫り込みその貝をピカピカに磨くという実践を行いました。磨ける仕合せ、磨いたら光という有難さ、何より磨いている自分自身が感謝に包まれるという体験をできたように思います。皆で磨き合えるというご縁もまた、天の絶妙な計らいかと思うと勇気づけられ励まされるのは同じように志した仲間がいるという安心感かもしれません。

また信念会では、一年間で約1万枚にも及ぶ写真の中から厳選されてムービー化されたものを観ながらふり返りを味わいました。毎日は、怒涛の如く過ぎていきます。充実していることも忘れるほどに様々な課題や出来事に遭遇します。

しかしふり返りを大切にしていないのならばどうしても目先の問題に囚われ、物事のマイナスな面ばかりに感情が揺さぶられたり、事物の不安な側面ばかりが視えてしまったりするものです。ふり返りをしていくと、実はとても有難いご縁であったとか、本当は見守ってくださった多くの方々の御蔭様であったとか、善い方、素敵な方、仕合せな方を観ては今の自分に対して天が与えてくださっているすべてに感謝することができるように思うのです。

人生とは旅のようなものです。

目的地に行けないことばかりを悩んでは不平不満を並べるよりも、旅をしている最中を楽しんだ方が旅をふり返ったときにまた行きたいねと感じるものです。旅はふり返りながら歩むことにこそ真価真楽があるということです。

奇跡に出会った喜び、仲間に回り逢う仕合せ、そういうものを分かち合うご縁がある。

ご縁を大切に素直に学べることに感謝して、精進を味わっていきたいと思います。

時間の使い方~未来の自分~

人は自分の時間の使い方でその人の人生観が観えてきます、一度しかない人生を何に遣っているかは時間が証明します。時間とは何か、それが人生とも言えます、その時間にどれだけの意味と感謝を持つかでその質は変化していくように思います。

志を持ち実践し継続するという時間こそ、その人の天命に応じる生き方かもしれません。

自分の時間であるけれど、それは他人のための時間でもある。

そう考えることができるならば、その人はスケジュールというものを有意義に使えるように思えます。なぜなら人はみんなご縁で結ばれていて、そのご縁に感謝すればするほどに自分の時間は大切な誰かのために使いたいと願うようになるからです。不思議なことですが、自分の事ばかり考えて自分の時間ばかりを持つ人ほど時間を持て余してしまいます。いつも誰かの役に立ちたい、誰かのために力になりたい、だからこそ誰かのために成長したいと願う人は無限の時間を持っています。

論語に、「夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す」(雍也第六の三十)があります。

これは弟子の子貢が孔子に人を救うことについて尋ねた質問への問答です。私の意訳と解釈ですが子貢は、人々を多くの災難から救い施し豊かにするのが真心の人ですかと尋ねます。すると孔子は、それができたら真心の人ではなく聖人だ、古代の聖帝の尭・舜ですらそれができなくて苦労されたのだ。

そしてここからが上記の有名な一文「己を立てようとして他人を立て、己達さんと欲して他人を達す」の意味ですが、真心の人は自分が立ちたいと願えば他人を同時に立て、自分が達したいと思えば同時に他人を立てる、つまり他人のことも自分のことのように思いやることができる、まるで自他一体なのだよと言います。

このことは、私のかんながらの道にも通じるものがあります。つまりは真心の実践とは自他を分けないということ、つまりは思いやるということです。逆説ですが、他人を立てることができる人だから自分で立つことができます、そして他人を達させることができる人だからこそ自分も達するのです。

私は自分のために成長したいのではなく、その他人の力になりたい、助けられる技術や仕組み、救えるための法則を学びたいと真摯に祈り探し深めつづけて歩んできました。するとその力は自分のために必要なのではなく、力になりたい誰かのために必要になるのです。自分が達したいと思う願いの本質は、相手があってのものだからこそ自他を達することができるのです。

人間は自分と他人とをどこかで選別しています。まさか目の前の人が自分だとは思わないものです。しかしよく考えてみると、自分とは何か、それは関わる人たちとの出会いに由って存在しているものであり、それによって変化していく存在です。

その自分という物は、単に自分と認識できる範囲の小さな自分ではなく世界丸ごと含まれた中にある自分という存在もあるのです。つまりは、自分とは相手であり相手が自分という世界のことです。

自分が助けたその人に由って同時に自分が助けられているという事実、自分が真心で実践したことが相手の真心に通じて同じ実践ができることも全ては自分というものの認識の別に由るのです。

人間には外見では同じようなことをしている人でも実際に実践するとその深さが異なることに気づきます。自他一体も、同時というのも、己というものの捉え方一つということなのでしょう。

自分の周りを仕合せにできる人は、自分も仕合せになる人です。

全てを真心と思いやりのために時間を遣え生きれる人が、常に己に克っている人ということなのでしょう。分けない実践、選ばない実践、全ての人を未来の自分だと思える実践を引き続き深めていきたいと思います。

循環型社會の本質~一緒に生きる~

昨年は、社業を通してなんでも一人でやるのではなくみんなで協力しシャッフルすることから大切なことを学び直しました。

何でも一人でできる社会は、なんでも自分の都合で物事を進めることができる便利な社会です。人は自分の都合でできることを良しとして、自分の好き勝手にできることを自由だと勘違いしてしまうと不便さというものは排除するものとなってしまいます。

しかしこの不便さというのは、そこに誰かへの思いやりがあったり自分が誰かのために義務を甘受するようなやさしさがあるのです。

循環型社會とは何か、それを昨年は思い知りました。

それは誰かの都合で動かない社會です。それは家族がみんなで協力して助け合う社會です。言い換えれば、全てを必要とし全てを活かしている社會です。そしてそれは不便の中、面倒の中にこそあるのです。

昨年、皆で取り組む実践の中で便利に一人で簡単に進めるよりも、たとえ不便でも面倒でも一緒にやる方が周りのためになっていることを実感しました。誰か一人だけが頑張るのではなく、みんなで力を合わせることでパワーもエネルギーもすべて循環します。

今の時代はパワーやエネルギーを一つのためだけに使い切りますが、しかし江戸時代などはみんなでそれを振り分けて役割分担をして活かし切りました。この使い切るという発想が自分の都合で起こり、この活かし切るという発想が自他一体で行われているのはすぐに自明します。

そもそも循環というものは、周りを思いやっているかということです。自分だけが良ければいいでもなく、自分がやっていればいいではなく、「一緒にやる」といった中庸の場所で物事に取り組むことができているかということです。

一緒にというのは、運命共同体です。私の言葉では自他一体になっているということです。相手が自分であり、自分は相手なのです。自分さえよければいいという考え方が社會を便利さに走らせ、周りを思いやろうとする社會こそが不便であっても一緒にやろうと思える社會を創造するのです。要はどこまで相手や周りのことを思いやって一緒にと思っているかです。自分の成長だけを思う人と、周りの成長まで思いやる人では同じ動きをしていてもエネルギーは循環するかしないかの差が産まれるのです。

子どもにどちらの社會を遺してあげたいか、それはみんな心では分かっているはずです。だからといってその便利さの恩恵を受けている今の文明や時代を否定する気はなく、むしろ有難いのだからもう一段場を高めてその中でも「一緒にどこまで為れるか」が今に生きる私たちの大切な課題なのではないかと私は思うのです。

循環型社會とは、ただ環境をそうすればいいというわけではなく、其処に住まい、此処に生きる全てのいのちと運命共同体になるということです。つまりは「一緒に生きよう」とすることです。

視野を広くして悠久の歴史に今を照らせば、今までもずっとみんなで一緒に地球の中で生きぬいてきました。苦しいときもつらいときも、楽しいときも悲しいときもいつも周りをみては同じいのちを慈しみ愛して生きてきました。

視野を狭くするから自分さえよければと思うのでしょうが、連綿と続いて継承されてきたいのちの姿かたちが今の「自分たち」なのだから過去が悠久の長さがあったように、未来をも悠久の長さで考えないといけません。

今年はさらにすべてを分けずにもう一歩深く踏み込んでみたいと思っています。これは循環が単に共生という言葉ではなく、「一緒」の方が循環の本質に近いのではないかと感じているからです。いのちと生活ということがどのような実践と環境なのか、それをこの時代、今此処ではどうなのかを突き詰めてみたいからです。

一緒に行うことの真価を、全ての機会を活かし切りクルーたちと一緒に深め、志のままに挑戦し試してみたいと思います。

観察眼~心の実力~

外は急に寒くなり、雪も降って冬景色です。

動物たちは小さく丸くなって寒さをしのいでいますが、人間は数々の暖房器具、防寒衣服に包まれてぬくぬくとしています。

今は水も水道をひねればすぐに出てきますし、火もガスコンロを回せばすぐにつきます。また空調によって室内の温度も自由に調整でき、食べ物はコンビニに行けば何でも買えます。調べたいものがあればインターネットで検索できるし、買い物もボタン一つで購入しそれがすぐに自宅に届きます。暇があればテレビをつければ娯楽番組が流れますし、音楽だって聴きたいものはすぐにダウンロードできる時代です。人間関係も同じく、お金さえあればと面倒なことを避けて関わっている人も増えています。

少し羅列してみてもそこに何の不便さもなく、「便利」に囲まれて生きていると言っても過言ではありません。これらの便利さと引き換えに失ったものの本質は、じっくりと考えて物事を判断する観察眼ではないかとも思えます。

年越しに火を焚き、薪をくべ満天の星空を眺めながらゆっくりと思想に耽る時間がありました。昔の人たちは変化をじっくりと考える時間があり、物事の判断をとても長いスパンで検討して決断をしてきました。今は、情報化社会の中で何でも簡単便利に迅速に快適になることが何よりも優先されています。欲望を中和するような時間も持てず、目先の快楽のために精神が怠惰に流されてしまうのかもしれません。

観察眼とは、心を感じる力です。

心で感じたり、心で動いたり、心で取り組むという心の力、言い換えれば真心の実践を行うには観察眼がいるのです。相手と心を通じ合わせたり、全体のために心を配ったり、心を籠めて丁寧に接するというのは、そこに心が入っているのに気づきます。

心無いことをしたり、心を入れなかったり、心がけもなくなれば、頭でわかった気になり過去の知識からこんなものだろうと忙殺してしまいます。心は目には見えませんから気づこうとしなければあっという間に観えなくなるものです。心で観るという習慣を持つには、自分が心をいつも遣っていく生き方をしなければなりません。それはよく面倒くさいといって人が自分からやりたがらないことを敢えて自ら進んでやることでその観察眼が磨かれるのです。

森のイスキアの佐藤初女さんにこういう言葉があります。

「私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。「(おむすびの祈り 集英社)」

心を失い、心を遣わないでいるとすぐに人は不安になり不信になり自我感情に呑まれてしまうものです。平常心や心の平安は常に心を感じるから視野も広くなり絶対安心の世界に住むことができます。

観察眼とは手間暇の実践です、手間暇という心を遣うそのひと手間こその中に心が籠っているからこそ「実践」を蔑ろにしてはならないと改めて思います。「凡事徹底」という言葉も、心を遣い観察眼を磨く智慧の一つということです。

人間生活の中でいくら面倒と感じても御蔭様の心を持ってもうひと手間ができるようになれば心の実力が備わってきていると考えていいと思います。今年も、雑さを戒め、自然の精妙さと丹精をモデルにして心がけ、かんながらの道を求めていきたいと思います。

2015年のテーマ

昨年も本当に沢山の有難いご縁をいただいた一年になりました。毎年、当たり前ではない出来事に恵まれ、日々に充実するのは一日一日が最期だと感じているからかもしれません。

人生はあって当たり前のものではなく、勿体ないものです。今の自分が今此処にあるのはそこには由緒があります。これは単に私だけの人生ではなく、連綿とはじまりから今まで続いている人たちがあってその中に自分も居るのです。

先祖代々から今まで、数々の困難や苦難を生き延び、私にまでいのちをつないでくださった方々に感謝を思わない日はありません。今の私が存在するのは、本当に偉大な御蔭様で成り立っています。決して私個人で生きるのではなく、志古人に生きたいと願うばかりです。

子どもたちのために生きようと志した日からずっと、自分の生を何のために遣おうかと覚悟を定めてきた日々でしたがいつも感じることは、祖神祖先への畏敬と慈愛への感謝ばかりです。有難くいただいた一期一会のいのちですから、悔いのない日々を魂に応じて従いつつ信念をもって歩ませていただきたいと思います。

また今年も師とテーマを共有することができました。ご縁をいただいてから十二年の歳月、共に錆びずに磨き続けて道と学問を共有できるものをいただけるのは真心の為せることだと師の恩沢洪大に心より感謝の念が湧いてきます。

今年のテーマは、「時代に翻弄されず、初心を忘れない」ということです。

変化の時は近くを見ては酔ってしまうものです、そうではなく夢を持ち常に本質でいることを忘れないということです。単に頭で理解すると簡単な言葉ですが、実際は今までの毎年のテーマの総合力が必要でこれが分かるにはまた沢山の実践が必要です。

夢を持つからこそ人はブレずに一つにいのちを盡していけます。時代が変化の時こそ、夢に向かって真摯に自分自身と正対して独立自尊の努力をできるかが大切になってきます。

世界は次第に激動期に入ってきています。どんなに寒く凍ったような闇夜がきても、明けない朝はなく、太陽が昇らないことはありません。私たちは地球にいるいのちの一つですから万事転じて安心し、信じた福世かな時代に換えていくのみです。

常に初心を忘れずに人類共通の夢の実現のために自分自身の真心を盡し切ってつながりの中で篤く貢献していきたいと願います。

今年も天恩に対して謙虚に、人恩に対して素直に、仲間を愛し思いやり、同志を勇気づけ励まし、師を真心で援け、後輩を命懸けで導き、子どもたちを深く信じ、清く正しい心で社會を広く明るく照らせるように、自然の道、かんながらを歩ませていただきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

磨く①~磨徳道楽~

今年は貝磨きの体験から磨くそのものの価値について再認識することができました。気づくことはできていましたが、気づきに気づくということには到達していなかったように思います。ここで磨くということをもう一度、整理して深めてみたいと思います。

磨くという字で思い浮かべる四字熟語には、「切磋琢磨」や「磨斧作針」があります。

「切磋琢磨」は中国の「詩経」の中で 「切」は骨や象牙を切ることで「磋」はそれらを研ぐことだとし、細工師の技工や完成した細工品に喩えて切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き向上することを言いました。

そして「磨斧作針」の方は、学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいるとき老女に出会い、鉄の斧を磨いて針を作っていた老女の行動から努力、根気の強さに反省し李白は学問に励むようになったことから、惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することを言いました。

どちらにしてもここでの「磨く」というのは、忍耐と根気によって継続して実践を続けて已まないことを例えています。

磨くというのは、単に摩擦していることではないことがここでわかります。一見、無理で難しいと分かっていることであっても諦めずに励むことでどんな石でも磨けば光る玉になることを示しています。つまりは、そのものの対象に問題があるのではなく磨く本人にこそ問題があることに気づけるのです。

例えば、気付くという一つの実践があります。継続して実践していける人というのは、関心を失うことがありません。あのエジソンが何千回、何万回の実験と努力を通して新たな発見・発明を産み出したように根気強く丁寧に気付きを内省する人は同じ実践をしていても必ず確かに磨かれていきます。

それは本人が気づこうとするかどうかに由るからです。

単に同じことをしているから磨かれるのではなく、もっと改善していこう、そこから大切なことを気づいていこう、心を澄まして感応していこう、気付いたことを次に活かそう、「発見=気づき(徳)=発明」と精進するものではじめて磨くことができるからです。

「玉磨かざれば光なし」という故事があります。

この「玉」は丸い形の宝石のことで、 宝石が原石のまま磨かれなければ美しい光を放たないのと同じように、人もどんなに才能があっても、学問や修業を怠れば立派な人間にはなれないということ。これは 『礼記・学記』に「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」という言葉よりの引用です。

人が道を歩むということは、日々に気づくということです。そして日々に気づく人は次第に徳が引き出されその器が出来上がってくるということでしょう。

磨く楽しみというのは道を歩んでいる愉しみであり、玉を磨くというのは徳を引き出していく歓びなのでしょう。

産まれてきては生きる意味を味わいたいのが人生です。その一度きりの人生がどのような自分を与えられたにしても、その人生をより善くしていきたいと誰もが願うものです。

生きている間、磨ける仕合せを味わいつつ実践を盡していきたいと思います。

魂の指南書~循環する魂~

17歳の頃から数えて21年間、毎年、この時期に山口県の萩市にある松陰神社に参拝にきています。ここには青年期より憧れた吉田松陰の魂が息づいていて、自分の生き方と照らし合わせては四季を振り返っています。

魂の先輩に触れることで、どれだけ魂を磨いてきたか、体験を気づきに換えて如何に学問を深めたかを確認するのです。松陰神社の中にある、ある一角に心が穏やかに澄む場所があります。

同じように思想を遊ばせるとき、死生を超えたところで魂が触れ合うのかもしれません。ご縁は本当に不思議で、現実にはいない人であっても心中にはいつも生き続けている人がいます。自分もそういう生き方をし、子どもたちに永遠永劫の勇気を与えられるような大和の風土になりたいと願っています。

吉田松陰に留魂禄があります。これは死の直前に書かれたもので、いわば遺書のようなものです。この世と別れる最後の最期に記した思想は、魂の指南書とも言えます。命懸けで学び、命懸けで弟子たちに教えたものは何だったか、そこに全て籠められています。

「今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ 蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ 人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ 未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ 吾行年三十一 事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ 然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン 何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス 十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ 二十ハ自ラ二十ノ四時アリ 三十ハ自ラ三十ノ四時アリ 五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ 十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ 百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ 斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ 乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ 同志其是ヲ考思セヨ」

果たして今の私は吉田松陰のような循環を、今を本気で生き切っているか、自分の生が後の世の子どもたちの教えになるような生き様であるか、ここに来るといつも未熟な自分を恥じ入るばかりです。

いのちを懸けて教えてくださったその魂の生き方を、守り通したいと思う同志は今でも産まれ続けています。私のようなわかりづらい人間に着いてきてくださる方々、支えてくださる方々がいてくれるのも、どこかに吉田松陰の見守りがあってかもしれません。

人生とは「四時ノ順環」である。

魂も自然の循環であることをしかと肝に命じ、何事も至誠と真心、正直に素直にかんながらの道の実践を盡していきたいと思います。

 

 

 

昴年会~忘れるものと忘れないもの~

昨日、大掃除が終わった後、社内にゴザやちゃぶ台を出し古民家調にアレンジして忘年会を行いました。今年は魚醬を用いた出汁に、昔ながらの手作りで作られた練物を入れて美味しいおでんを皆で食べました。

また夕方からは、福岡の自然農園の田んぼではじめて無肥料無農薬で収穫した御米の籾摺りを手作業で行い、その玄米を伊賀焼の土鍋で炊いて一緒に食べました。それに自然発酵のマッコリや、ドイツの白ビール、自然酒やなつめやしの焼酎など、本物に囲まれた贅沢な素食を味わうことができました。

里山でもなく田舎でもなく古民家でもなく、都庁の隣の新宿のオフィスの中でも創意工夫すればいくらでも生き方も働き方も直すことができます。

また忘年会ということもあり、苦労は労いゆるしては、楽しいことはより楽しくなるように一年の思い出を深くじっくりと味わいます。なんだか忘年会というと、世間では大酒を飲み大騒ぎをして嫌なことを忘れてしまおうという勢いですが、私たちの場合は実践できたこと、またその仕合せ、御縁を味わい引き続き理念を大切にしようといったまるで同志と楽問をしているようで有難い時間になりました。

本能は本物を尊びます。それは本物を本能は感知することができるからです。私たちは古代から今まで、どのように暮らしてきたか、そこにはご縁を大切にし感謝をおもてなしに換え、心の穢れを祓い清めて魂を磨いていくようなことをしてきたのではないかと感じます。

冬至を過ぎ、新しい太陽が昇るとき祖神達は心を澄ませたのでしょう。

色々なことがあっても、一円観、全部善いことに転じていくのは「子ども第一主義」があるからです。理念に助けられ、初心に救けられ、道を歩んでいけます。忘年会を通して、忘れるものと忘れないものをまた再確認できました。

最後に、「昴」という星があります。

昴は一つの星ではなく、その星の周りに在る星々の星団のことを言います。一年一年、一人ひとりが時を経ることで内省により魂が磨かれ光輝きまるで一つの大きな星の光のように煌いていく・・・一人、深夜に公園を歩いて帰りながらそんな「昴年会」であったと感慨深い時間を過ごしていました。

来年もまた昨日のような光煌く昴年会になるように日々に信を入れ、素直に内省を深めて精進していきたいと思います。