四季のめぐり~一生のめぐり~

自然農の大豆を観察していると、また新しい発見がありました。もともとマメ科に限らず、植物には一生のめぐりがあります。四季に合わせて、四季に沿ってその時期に必要な生を全うします。

その生のめぐりにはその生に必要なことを真摯に行っているのです。これは人間でも同じことが起きていますが、植物にもまた同じことが起きています。

例えば、冬から春にかけては「根をはります」、この時期は目立ちませんが地中にしっかりとした根を伸ばしていく時期です。その根が深いほどに、その後の成長が決まってきます。土の上から見ても何も変化がありませんが、土中ではしっかりとはりめぐらせていきます。

春から夏に向けては「葉が生い茂ります」、この時期の葉勢は凄まじく若葉から成長して青々と空に向かって広がっていきます。光や風を存分に浴びて光合成をして栄養分を蓄えながら成長していきます。見た目にもぐんぐん大きく成長していくのがわかり、活動の強さを実感します。

そして夏から秋にかけては「実をつけます」、この時期は葉勢は弱まり虫たちがたくさんその葉を食べていきます。余計なエネルギーは葉に使わず、実をつけるためだけに集中します。たとえ犠牲があるとしてもそれはあきらめて実をつけることだけに特化して他を捨てていきます。もう実をつける時期であることを悟った植物には迷いはありません。葉が食べられ落ちていっても気にもせず実になることを信じています。

最後に秋から冬にかけては「種をのこします」、この時期は種になるためにすべてのいのちをその種に傾けます。枯れていくのは、すべての生をその種に送るためです。生き残ろうとそのまま種も葉も残そうとするのではなく、文字通り全身全霊でその種に全エネルギーを送り込みます。その結果として枯れてしまいますが、それでも種を残すことが生き残ることだと自覚する植物たちは枯れることを厭いません。種になるというのはその生を全うしたということですから、次世代へと望みを託しては種だけになります。

簡単ですが、四季のめぐりにあわせて観察したものを書いてみました。人間もこれに近いものがあるように思います。根をはるために信念を醸成する時期、芽を出しては真摯に活動する時期、実をつけるために自分の犠牲を払い余計なものを捨て去るとき、そして種を残すために望みを託して全うするときという具合です。

その時期その時期、四季のめぐりにあわせて全力で生き切った証として次世代へと受け継がれていくのが生死のめぐり、そして生き方であり観念です。人の一生は真摯に生き切ることではじめて自分の生に出会います。自分探しなどしなくたって、真摯に真心で寸分惜しまず大義のために生きていれば自ずから本当の自分に出会っています。

植物たちも自分というものを持ち合わせませんが、真摯に生き切るとききっとそこに真実の自分の生に出会っているのではないかと私には思えます。自分をどうつくりあげていくのかは、その生き方によるものですが自然の生き物たちはそういう意味では本当に立派に生き抜いています。

身近な自然の生命から学ぶことが本当に沢山ありすぎて、古人たちはきっとここから宇宙のめぐりや自然の循環をも観得ていたのでしょう。悠久の流れや、広大なめぐりを直感できる自分を育てていきたいと思います。

種の継承(観念の種)

動物も植物にも環境適合というものがあります。

産まれてからどのようなものを食べ、どのような環境で、どのように生きているかによってその変化を受け容れます。どのような場所に産まれ落ちるかで、その産まれた場所が最初からあった「当たり前」の環境になります。

そうなると、それが自分の故郷になるのです。生き物たちは、自分の産まれ故郷を知っているように思います。その産まれた環境のことをいつまでも覚えていますし、その中で自分の進化を確認するからです。幼いときに、与えられた環境が大変大きな影響をそのあとの一生に関係します。

以前、オオカミに育てられた少女のニュースがありましたが人間としての言葉も表情もほとんどなかったといわれます。他にも他の種の動物に育てられた子どもは、自分を同じ種の仲間だと勘違いして育つものです。身近な烏骨鶏も幼少期に草を与えれば草を食べますが、最初から人口餌のみ与えれば草を食べなくなってしまいます。それくらい最初の環境というのは影響を与えるのです。

これは自然が適合できるように進化の法則を組み込まれているように思います。環境の変化に対して、種(子孫)は適合していくという仕組みがあるのです。そうやって種は多様化し、環境の変化にあわせて増減を繰り返して種を遺したのでしょう。

種というのは、その時代に自分たちが生きるために存在するものではなく生き残るために存在するのが種です。そもそもの目的が、自分の生を謳歌することではなく、如何に生き残るかということに重きが置かれます。その生き残りの戦略を助けているのが生を謳歌することでもあります。

自然界は、自他の分かれ目がなくそのものが地球と一体になっていますから種の継承は当たり前の仕組みなのです。しかしその種の継承とは単に種を遺せばいいかというとそういうわけではありません。単に種だけをとって残しても、果たしてその種を残したかと言い切れるかということです。それは生き方(観念)のことを言っています。

今の人たちは、長いスパンで種について考えるのではなく自分のことを考えすぎるようになっていると思います。種を遺すには自分の生を全うし生き切ることでハタラキますが、どうも今は種が残らないような生き方を大人たちが残している場面が多いような気がします。

急激な環境変化に対して、その生き方が果たして種にどのような影響を及ぼすのかは疑問に思います。よく生きた生は、その生の周りに大切な「観念」が育ちます。その観念をみて学ぶ種がのちのちその観念によって救われ、また新たな観念を醸成し引き継いでいくのではないかと私は思います。

目に見えるものばかりを残そうとしますが、本来は目には見えていない大切な「観念」を種は継承しているのです。何が大事かを忘れずに実践を積み上げていきたいと思います。

本物の技術~徳技術~

昨日のCNNニュース(2014.9.21)で中国の人たちが米国のトウモロコシの種を盗んで問題になっているという報道がありました。この理由は、近年トウモロコシの輸入や生産が多くなっている中国国内用の需要のために必要だからとのことです。そのために長い時間かけて研究された遺伝子組み換えし交雑された種と干ばつや害虫に耐用しているテクノロジーを安易に国内の生産に実用したいようです。米国もその技術が盗まれないように国家をあげて機密保持に取り組んでいるようです。

急な経済成長と人口増加に環境や食がついてこないから需要が急増している分、誰かにとってはビジネスチャンスなのでしょう。しかしこの出来事全体に何か視野の狭さと短さを感じてしまいます。

そもそも、最初にこの技術について思うのですが米国では長年土を痛めつけるような農法を行い、地下水脈をあるだけ使い切り、農薬を散布し害虫を駆除してきたことで酷い干ばつが起きているといわれます。干ばつが起きれば農業は打撃を受けますから、その干ばつに耐えるだけの作物を遺伝子組み換えによって育てます。それでも酷い干ばつの場合は、さらにそれに耐用する種を育てます。まさに、気が付けば見た目はトウモロコシでも中身は別物になっているかもしれません。

また害虫といっても、いつも虫を全滅させているからお互いに食べる相手が見つからず一つの種類だけが大量に発生することで害虫になるのです。自然界のバランスを崩しておいてそれを人間の思い通りにしようとするテクノロジーをばかりを優先してきたら干ばつが急激に発生して砂漠化が進んでいるのです。

中国も急な経済発展で北京の周りには工場が増産され、今ではPM2.5をはじめ様々な化学物質が都市の空を覆い、年に晴れ間が実感できるのも2,3日ほどとのことです。砂漠も年々首都に近づいてきていますからこんな状況をまた打開するために人間都合のテクノロジーを駆使しても焼け石に水なのです。

先祖や祖神は、とても長い目で広い視野で物事を捉えました。目先の欲望を優先したらどういうことになるかを戒め、いつも自然とのバランスを優先してきました。私たちの存在が自然の一部であることを忘れませんでした。人間だけがいる世界だとは思っていませんでした。

気が付けば、人間だけがすべてかのようにふるまい、周りの生き物たちのことを思いやらず、自分たちだけに良いようにと競争しては奪い合い、自分勝手な正義を振りかざしてはさもそれが絶対かのように思い込んでいます。そんな中で生まれてくる最新の技術というものは、すぐに人間の思い通りにできる技術のことです。果たしてそれが本物の技術なのかと思えるのです。人間だけが認める技術など、たいしたことはなく、それはむしろ小手先の便利な技術のことです。

本物の技術とは、自然が認める技術です。それは悠久の時を経てもいまだに褪せないか、自然全体を活かしているか、無理をせずに自然の道に沿って謙虚に人間が生きようとするか、そういう技術です。

私はそれを徳技術と呼びます。発酵もその徳技術の一つですし、杜づくりや治水も同じく徳を重んじます。今の時代のような徳を重んじない技術はすべて人間都合です。何が徳かではなく、何が得かの時代ですから技術もまた得する人たちによって奪い合いその技術が適応されていくのでしょう。

本物の職人がいなくなってきたのも、そういう得を社會が重んじているからでしょう。短期的にはメリットがあっても、長期的には大変なデメリットになると知っていてもそれを誰かがやれば我先にと飛びつくのが流行というものですから、いつの時代も不易と流行は変わらないのです。

中国の古典、「易経」に、「時流にのる者は時流によって滅ぶ。君子は時流にのってはならない。時中しなければならない。」にありますがここからも不易と流行に時中するのが徳に根差しているということが分かります。

長くなりましたが、今こそ「徳」というものがなんであるかを研究する必要があると思います。孔子は論語を通して為政者のための学問を実践したといわれます、為政者のためとはなぜか、それは政治が悪なのではなく政治を行う人間を善くしようとしたためです。

その政治を善くする人間を育てる人間学には何よりも徳を重んじます。以前、致知出版社を訪問した際に社長から「徳」と書きなさいと言われたことが今ではしみじみとその意味の深淵さに触れています。

人間がどうなっているかで、その技術も変わるということがこれではっきりしたように思います。人間が自然のバランスを維持できていた時のような本物の技術が消えていく昨今にとても心苦しく子どもたちのことを思えば嘆きたくなります。

しかしだからこそ、自分たちが正しくその文化を継承していけばそれを拾ってくれる人もいるはずです。思い出せなくなるくらい目先のことに流されてしまわないように、地に根差し自然から学ぶことを忘れないでいたいと思います。

本物の技術は人を救うだけではなく、世界を救う技術なのですから。まだまだ研鑽を積み、今の人たちが価値がないと捨てた技術を太古に思いを馳せて拾って広めていきたいと思います。見守るという信の技術もまた今の時代に必要な技術です、一緒に実践し深め広めていきたいと思います。

自然の智慧~恩蔭様~

昨日、無事に福岡農園で自然農の御米を収穫することができました。有難いことにたくさんの方々のご支援と見守りの御蔭様をもってこの日が迎えられたことに感無量の気持ちです。

思い返せばもうこの実践を開始してから早4年、東北の震災と原発事故のことがあり、二度とあの当時の気持ちを忘れないようにと決心しはじめた実践です。あの時、人間が地球の一部であるという自覚が消失していくことが如何に悍ましい結果を発生させてしまうのかを自覚したからです。

今思い返せば、自然農をして何をしたかったのかを省みると自然に沿った生き方を自らの背中を通して子どもたちの身近に実感させてあげたかったのかもしれません。

この4年間、特に3年目までは数々の困難の連続でした。病害から虫害、水害、台風などの天災に加え、人間関係の問題などで悔しい思いをたくさんしました。ほぼ無収穫の状態が続くというのは何とも複雑な気持ちでしたが、周りの有難いアドバイスが心に沁みました。

本当に多くの人たちが要所要所で応援と支援を与えていただきました。

ふり返ると最初のアドバイスは、「手前から少しずつ行うこと」、そして「小さくはじめること」、「年々ちょっとずつ増やしていくこと」、「できる範囲からコツコツやること」など積小為大の法則について実践してきました。小さいことには普遍があり、小さいものを為すものは必ず大きなものもできるという智慧を得ました。

次のアドバイスは、「自分の眼と手と真心を使うこと」、「草は根もとから切ること」、「幼少期に負けてしまわないように見守ること」、「目を離さず手を放しいつも観ていること」、「草も虫も一緒に暮らせるようにしてあげること」、「微生物たちの発酵場にすること」などです。ここから、如何に手間暇をかけさせてもらうことを学びました。自然を自分がコントロールするのではなく、自然に心を寄り添いいのちを慈しむように謙虚に実践させていただくと周りから自然に善くなっていくという智慧を得ました。

また次には、「天にお任せして気楽であること」、「どんな時も自然を信じていること」、「人間を信頼して任せること」、「毎日、初心を忘れずに祈りを捧げること」、「頂いたご恩を忘れないで報いること」、「四季のめぐり、そして準備を怠らぬこと」、「生き物たちの安心できる生活環境を守ってあげること」など如何に信じるという祈りに似た精進が自他自然を活かすのかという智慧を学びました。

智慧を思うとき、自分が求める智慧は、自分のためではなく子どもたちや世界のために必要だと思うからです。永続してきた私たちの祖先からの今をつなぎ結ぶのが私たちのお役目ですから心と志はいつも天高い一点のみを観つめています。魂が次第に減退している今の時代に、どうすれば魂がより磨かれるか、王道を歩む人たちを増やしていくのか、それは生き方を変えることで伝えていくことができるように思います。

結局人は、何をしているかではなくどうあるのかということがすべてにおいて中心になっているのでしょう。

私は本当に沢山の方々との出会いに恵まれ、いつもかけがえのないものを頂戴しています。これを皆さんに還元できるようになる日がいつ来るのかはよくわかりません。しかしいただいているものを共有し御恩返しをしたいという気持ちは日々に膨大に増えていきます。

今回の実践でもっとも印象深かった素晴らしい智慧は、「ゆるし」です。ゆるしというのはいつも見守りの中で得られます。今回もこんな私のこともゆるしてくださって自然は一緒に様々な仕合せの時を共有してくださいました。

引き続き学びが続けられることに何より感謝し、尊いいのちの歩みを止めずかんながらの道を歩ませていただきたいと思います。

真の発酵人~地球が喜ぶか~

人間の腸内には今わかっている範囲で100種類以上、100兆以上の膨大な微生物が生息しています。その微生物群の状況は、人間の指紋と同じく一人ひとり同じものはまったくないといいます。つまり、その人の体の状態に合わせてバランスよく微生物が配置されているということです。

この微生物たちが人間を活かしているのは、この微生物が食事をしたものを消化して発酵することで人間のエネルギーに転換されるからです。これは植物の根粒菌と同じく、土の栄養も根っ子の微生物がいなければエネルギーに転換されないように人間の根も同じく腸の微生物が栄養を転換しているのです。その根粒菌が死滅すれば植物が死滅するように、人間の腸内細菌が死滅すれば同じく死滅するのです。

その腸内細菌は、常にバランスを維持しています。健康も不健康も、その人の腸内の微生物の環境によって左右されていきます。よく生活の立て直しは、食の立て直しからといわれる所以もまたその腸内のバランスを立て直すことをいうのです。

先日、ナショナルジオグラフィックのニュース(「Nature」誌オンライン版に9月17日)で興味深い記事がありました。

「「ただより高いものはない」という言葉があるが、最新の研究によると、“カロリーゼロ”食品に使われる人工甘味料にも当てはまるようだ。イスラエルの研究チームは17日、サッカリンなどの人工甘味料は腸内細菌を変化させて血糖値レベルを引き上げる可能性があると発表した。砂糖の代用品である人工甘味料が、避けるべき状況を逆に招いていることになる。」

これは砂糖も人口甘味料も同じく、腸内細菌のバランスが炎症に傾き血糖値を変化させてしまっているということです。結局は添加物というものが腸内に与えている影響がとても大きいということを結論付けます。

今の時代は、日常は意識していませんが今の日本では年間平均4キロの合成添加物を摂取していることになっています。これを10年続ければ当然40キロ、20年では80キロというように自分の体重を超えるほどのものを摂取し続けているのです。

ひとたび合成添加物が入ってくると乳酸菌よりも、その添加物を分解吸収しようと日頃は日和見でいる菌や敢えて炎症を起こすような悪玉菌が活動してエネルギー転換しようとします。そうすると腸内のバランスもまた崩れ、それが人体に影響を及ぼし調子を悪くしてしまうのです。

昔から日本人が大事にしてきた「菌食」というのは、乳酸菌発酵食のことです。菌食をやめれば心身のバランスが崩れると言われるのもその理由からです。昔から大事にしていた味噌汁などの麹、漬物などの乳酸酵母菌、玄米などが持つ玄米発酵などをやめて安易にお菓子やコンビニで買えるようなもので代用するから心身の調和が保てなくなってきているのです。

体というのは心と密接で、病気になれば体だけではなく心にもダメージを受けますから心を健康にするのは体が健康でなければなりません。心身を健康に保つというのは、食生活を改善するということです。そして食生活というのは、言い換えれば生き方ですから生き方を改善するということになります。

眼には見えないところで、私たちは微生物たちのハタラキによってこの体を動かしていくことができます。微生物たちがエネルギーを細胞へと送り届けて体を動かすことができます。細胞の中のミトコンドリアも核がありますから元は微生物だったのではないかと私は思います。

つまりここから導き出される推察では私たちの体はまるで微生物そのものということになります。人間の便1グラムに100~1000億の微生物ですから毎日排泄するということは日々に膨大な微生物が役割を終えて一緒に排泄され続けているのです。そう考えてみても微生物を殺すような抗生物質も、洗剤も薬品も、それがまわりまわって自分たちの体を痛めつけていることを忘れはいけません。

なぜ人工添加物がよくないのか、なぜ抗菌農薬がよくないのか、これは自分たちの体が何でできているのかを自覚すれば自ずから自明すると思います。

微生物たちが喜ぶものを日頃から摂取していくというのは、いつも微生物の御蔭て活かされているという感謝の気持ちを忘れない実践になります。日頃目には見えないけれど、確かな存在に活かされいる、見守られているという謙虚な心があることでまた微生物もお役に立ちたいと真の発酵をしてくださるはずです。

眼には見えないものへの感謝を忘れるとき、人は発酵しなくなるときなのでしょう。腸内の微生物を並べたら地球2周半ほどの長さになるそうです。私たちの中に膨大ないのちを活かしているということは、地球が私たちを活かしているのと似ています。地球が喜ぶ生き方かどうか、これは真の発酵人につながる思想ですが私もそれを体得していきたいと思います。

真の発酵力~醸し出す人~

自然の中の技術の一つに発酵というものがあります。この発酵というものは先祖が自然の中から取り出した技術の一つですが、まさに自然の仕組みを取り出した叡智そのものです。

発酵というのは、発酵と腐敗という言い方をしますが発酵だけが発酵だけではなく腐敗もまた発酵の一つです。どちらも微生物のハタラキですが、真の発酵はそれが全体のお役に立つようになるときに行われているものです。

私の会社でも善いか悪いかとかなく、丸ごとで善い、それを至善と言ってすべてが一円に融合して全体のためにお役に立てることを尊ぶ一円観という生き方があります。それをファシリテーターと呼んでいますが、これも真の発酵と同じです。

人が発酵するとき、それは自然に沿った生き方をしているときです。自然は変化をし続けていますから、謙虚である素直な人は常に自分を自然に沿って「自分がお役をさせていただける有難さ」を噛みしめながら日々に精進していきます。まるで微生物が次々に自分のお役目を全うして醸し出していくように自我欲などを入れずまわりのためにいのちを活かしていきます。

どこか不自然な人は心と体のバランスを崩しています。自分がしていることに文句を言い、自他を責めては日々を味わうことをせずに流されていきます。そうなると変化することを嫌うようになり停滞し、醸していくことができなくなります。

醸し出す人というのは、その人が発酵する生き方をしているときです。これを自然酒の酒蔵で有名な寺田啓佐さんはこう言います。

『発酵している人っていうのは、みんな楽しそうで、素敵なんですね。私が「発酵しているなあ」と思う人の中に、宮沢賢治という、有名な岩手県花巻出身の作家がいます。みなさんもご存知のとおり、「雨ニモ負ケズ」には、「決して怒らず、いつも静かに笑っている。そしてあらゆることに自分を勘定に入れない」という言葉がありますね。つまり「おれが、おれが」じゃないんですね。自分は後回しで、人が先なんです。「苦労したことのない人は、自分を先にしたがる」と自分の師匠もいっていましたけれども、本当にそうだと思います。』(新日本文芸協会)

とあります。

今のような競争社会では、我先に自分のことをまず守るということをして勝ち組とか勝ち残ったとかをさも価値があるかのように勘違いしてしまうのかもしれません。自分のことを考えるよりも、相手のことを思いやったり、自分や相手を責めるよりも、周りのために真心を盡そうとしたりということもまた少なくなってきたのかもしれません。

しかし実際、お役に立てる仕合せというのは、自分が謙虚に素直である時にだけ実感できるものではないでしょうか。そしてそれが「真の発酵」のハタラキであると私は思うのです。

寺田啓佐さんは「うれしき」「たのしき」「ありがたき」を発酵の『神酒ひびき』と呼んで大切にしています。発酵していくと変わっていく、変わっていくと自然に沿った生き方になり以上の3つに近づいていくと仰います。

つまり自分が真に発酵しているかどうかの確認というのは、自分の生き方がどうなっているかということです。自分の生き方がいつも周りに「うれしい」「たのしい」「ありがたい」という意識を与えているか、もしくは「つらい」「くるしい」「めんどくさい」という意識を与えているか、それは自分がどのような日々の自分の生き方を通して発酵場を醸しているかに由るのです。

大事なのは善くしていこうとする「明るく前進」していこうとする気持ち、お役に立とうとする「清々しく前転」していこうとする気持ち、言い換えればどんなことにもヘコタレズに歩んでいける力こそ醸し出す人ということになります。だから腐敗したからと腐っていてはだめで、それをも善いことにしようとすることで真の発酵がハタラクのです。

最後に寺田啓佐さんはこう締めくくります。

「これは宇宙の法則の反映だと思っているんですね。健康のもとであり、幸せになるコツであり、運命をプラスに持っていく、つまりツキをもたらす、そういう秘訣が隠されているものなんです。こんな風に、正しいことよりも、楽しいことをして、自分の信じた大好きな道を歩んでいくのが、発酵に向かう生き方なんです」

どんなことがあってもすべて善いことにしていく力、自然の道。私のいう「かんながらの道」も同じく、禍転じて福となし好循環を創りだしていくという生き方です。発酵も腐敗も全部善いことにしてしまう力こそ元気で明るく楽しく幸せな人としてのいのちの持つ本来の力ということでしょう。

自然に適うと人は生き方が自然になっていきます。余計なことをせず邪魔をしなくなれば融通無碍の愉しい世界が待っているのでしょう。日々に転じて醸して道を歩んでいきたいと思います。

 

善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。

視野とは何か

人は同じ実践をしていても、その実践の徳があります。何のための実践なのかというのは、実践が本質的かどうかということです。

以前、田舎の小さな村に宿泊したときに早朝にお坊さんが鐘を鳴らす音が村中に響いていました。毎朝、同じ時間に起きて毎日、同じように鐘を打ってくださっています。これを村人たちは毎朝聴いてから目覚め一日を過ごします、そして夕方また同じ時間に鐘を聴くのです。これは単に時間を知らせているのではないことはすぐに察することができます。

無事で一日が過ごせて無事に一日が終えることができた、その有難い見守りに感謝しているということです。

しかし、仮にその鐘を打つ人が自分が鐘を打ってやっているんだという気持ちで打っていたらどうでしょうか、ひょっとしたら朝から煩いなと村人は感じるかもしれません。実際はそんなことはないのでしょうが、きっとお坊さんは今日も私が鐘を打たせていただいている、心を澄ませてその感謝報恩をしていきたいと「実践」しているのでしょう。

つまり実践というものは、自分がやっているという傲慢な感覚ではなく、有難く自分がさせていただけるという感謝で行うことが実践の本質なのです。

実践風というものは、どこか実践までも自分だけのものにしてしまいます。本来、実践とは自覚があってのものです。自分の存在が多くの人たちのお役に立っているという自覚、自分の体験はたくさんの方々のためになっているという自覚、つまりは自分は「何ものかによって活かされている」という自覚をもってはじめて実践が正しく行えるように思うのです。

謙虚な心がなければ、素直な心でなければ、周りから活かされているという自覚がありません。周りに迷惑をかけても気にならない人というのは周りを意識することもありません。礼を失し、思いやりに欠け、常に行動が自分中心になってしまいます。

よく考えてみなくてもすぐにわかることに「健康」がありますが、毎日健康で過ごさせてもらえることだって決して当たり前のことではありません。親からいただいた大切な身体、祖先や天から分けていただいた徳で生きていることができています。よくよく「見渡して観直せば」如何に自分が多くのものに恵まれ満たされていることに気づくはずです。それもすべて決して当たり前のことではありません。

そういう気持ちを常に忘れないことが謙虚素直の体現である「正直な実践」につながっていくように私は思います。

自分でいっぱいのときは周りの感謝が観えなくなるのが人間です。だからこそ自分の人生体験は常に誰かの励ましになっている、自分の存在が誰かの支えになっているという「リーダー(主人公)としての自覚」を持つことで視野もまた広がっていくと思います。

視野が狭い人はどこか自分を存分に活かせていないように思います。視野が広い人はいつも真心で自分を活かしていくことができています。仕事でも、仕事をするという意識と、仕事をさせていただけるという意識では、働く愉しさも仕事の歓びもまた変わってくるのでしょう。

どうせ実践するのなら、その実践が御蔭様を感じる自分の真心でたくさんの方々の見守りになるようなものにしたいものです。

最後に先ほどのお坊さんの鐘ですが、きっと村人たちはその毎朝の鐘を一生涯ずっと聴き続けているうちにいつの日か心にその鐘の音が永遠に響き渡るようになるのでしょう。その日常の当たり前という偉大な御蔭様の有難さの徳の実践に感化され村全体が自然に心から感謝できるようになるのでしょう。その陰徳は、いつまでも心に鳴り響き、そのお坊さんが年老いていなくなってまた次の世代の新たなお坊さんになっても実践が続いていく鐘に「自分たちはいつも偉大な存在に見守られている」という自覚を互いに持てるようになっていくのでしょう。

見た目ばかりに捉われ察する力が減退してきた現代だからこそ、人間としてこうありたい、こうでいたいという自分像をしっかりと自覚して精進を積んでいきたいと思います。

3つ子の魂

「3つ子の魂100まで」という言葉があります。これは3歳までは魂のままという意味になります。では魂とは何かということですが、それを深めてみます。

そもそも人間には本能というものがあります。それはこれがやりたいと思う心です。人は納得するまでやりたいことをやることを発達と呼びます。発達はそのものがもっとも望むものを納得するまでやり遂げるとき満足する状態をいうように思うのです。

産まれて間もない本能のままの子どもが将来何をしたいのかを産まれてすぐから発達のために練習をはじめるのですから、それはもともと持っている魂の力であるといえるのです。これは自然本能の持つ作用ですが、魂の持つ作用です。

3つ子までが魂なのは、その年くらいまでは誰もその子どもの本能を抑止することができないからです。

どうしてもやりたいことがあるというのは、何がそうさせるのかということです。それは理屈や理論では証明できない已むに已まれぬものの存在です。

今の世間はそれを抑止することで魂を曇らせ世間の価値観に染まった錆びた大人にしていきますが、本来はその3つ子の魂を持ったままに純粋に育った人たちが大きくなり子どもたちにもそれを成し遂げてあげたいと信じることが他の人たちの仕合せを願う自分の生き方になるように思います。

自然界に於いても、ありとあらゆる生命がつながりの中で必要とし合い産まれてきます。そして誰が止めようともどんな境遇にあっても最期まで必死に自分の生を全うするのを已めることはありません。その運命がたとえ私たち人間からみたら悲惨に見えてもその魂は満足しているように思います。

良し悪しを大多数の人間の尺度と価値観で決めるのではなく、そのもののいのちがそのものらしく納得しているかどうかという尺度が「3つ子の魂」の求めるところです。そういうものをもしも100歳まで持てればその生はどれだけ満足したものかと思うのです。

人生は二度ありませんから、その人生が一度であるならばそのものがやりたいことを納得するまでやらせてあげたいのが天の真心と一体になることかもしれません。まだまだ実践が追い付いていませんが、真摯に正対し今、此処を研鑽していきたいと思います。

循環の学び

時代時代にはその時代のルールのようなものがあります。

たとえば、現在でいえば大量生産大量消費がルールでありその中でゲームをするかのようにその中身を競うようになっています。かつては少量生産少量消費や、大量生産少量消費の時代もありましたが生産性の向上によってその消費の質量も変化していくのです。

簡単に言えば、機械化や合理化によって大量に生産できることが前提で今の世界は出来上がっています。人口の増加も、経済の発展もそれを下支えしているのは大量に作り出すことができるということが大前提の仕組みがあるからです。

しかしもしもそれが何らかの理由で大量に生産できなくなったら今の世界の姿は一変するように思います。食糧に端を発してその後は様々なエネルギーの枯渇や労働者の減少、また原料の消失などでもしも少量になってしまえば消費はできなくなるからです。

消費にあわせて量を増やしてきたわけではなく、大量生産にあわせて消費をつくっていくのが今の経済ですから生産できない事態が起きることがもっとも問題になっていくのです。

しかし限りある資源を遣い切るような大量生産は次第に生産量が減退していくのは自明の理です。野菜や生産物でも、地力を肥料や農薬でふんだんに引き出して使い切っていますが土や環境も次第に疲弊してその地力が消失してきます。するとそこでの生産ができなくなり、生産力は次第に衰えていきます。

これは野菜や植物だけではなく、動物や人間もある一定以上の過剰な労力を引き出せば次第に生産力は衰えてしまうのです。少子化の問題も、経済の減退の問題も、食糧難の問題もすべては密接にその大量生産の課題に関係しているように私は思います。

だからこそ先を見据えて戦略が必要なように思うのです。

このまま大量生産を推し進めていても、いつの日か必ず資源は有限ですから枯渇するときがきます。枯渇してからではすべてが手遅れですから、如何に枯渇しないかを考えないといけません。

それは別の資源という考え方もありますが、その資源もまた有限ですからいつの日かすぐに枯渇するのです。持続可能な経済というのは、大量生産を転換する経済のことです。循環して一切の無駄を省くような少量生産でも大量消費できるような世界にしていくことです。

そのためには、そのものの価値をそのものの価値のままに活かしきり、それを遣い切っても尚、そのものが別の価値に転じていくような思想が必要です。永遠に無尽蔵に発生している豊富で多種多様な自然を丸ごと活かしきるというような発想です。

ものが豊富な時代から、ものがない時代へと移るときには、大きな転換を迫られます。きっと先祖たちはそれを以前体験し知っていたから循環の暮らしを守り続けてきていたのでしょう。

ここまで来たらもう止められませんが、既成のルールではなく新しいルールを引き直して子どもたちに未来を残せるように精進していくしかありません。どのような好循環を生み出すかは一人一人の生き方にかかっています。

循環の学びを形にしていきたいと思います。