顕彰の証

陰ながら善行を積み上げてくことを陰徳といいます。

顕彰という言葉がありますが、あれはその人の陰ながらの功績や善行、真心を忘れないという意味で使われます。彰という字は、明らかになるという字で、同じく顕という字もはっきりと明らかになるという意味です。

これは何が明らかになるのかといえば、目には見えないけれど偉大な恩徳が明らかになっているという意味です。

吉田松陰は、自分が正しいと信じて実地実行するのならば誰が分かってもらえなくても後の世に同じ聖人の道を志すものたちがいつかは自分のことを分かってくれるから気にせずに突き進めと弟子たちや自分を叱咤し善行を積むことを優先した人物でした。

それは留魂録にも、生死を度外視というものの中に確かな徳を積むことの価値を述べています。そしてそれはやはり死して彰かになっているものであり、後の世の志士たちに顕かにされていくのです。

表彰というものは、その陰徳を顕かにしていくものです。

その人が自分が信じた正しい道を踏み固めるとき、誰がわかってくれなくてもどんなに評価してもらえなくても、それを観ているものがあることを全体に伝えること。決して目立たなくても、決して覚えてもらえなくても、その人が積み上げたことが後の世に偉大な功績を遺したことをはっきりと明らかにすることが社會をよりよくしていくことにもなるのです。

今の時代は、表彰というとすぐに人を操作したりとか動かすためにとかいいます。しかし本来はそういうものではありません。

祖先や古人たちは、善いことがいつも観えていました。心が澄み善行や陰徳を常に観える目がありました。だから人が陰ながらやっているのを察して讃えて、常にそういうものを見つけよう、そういうものを育てて守っていこうとする真心や思いやりがありました。

今ではそういう陰徳を観ようとはせずに、見た目や結果がよかったものだけを褒め称え、その陰で目立たずに地味に世の中のことを憂い、平和な社會のためにと徳を積む人たちに気づかなくなってきました。

昔、「木を植える男」という絵本を読んだことがあります。その絵本にはある荒れ果てた村を、一人の男が生涯を懸けてどんぐりの種を植え続けて後世にその村が豊かな森林や水に溢れ、たくさんの家族が移り住み幸せに平和に暮らす村になった話です。

あの絵本にも、表彰や顕彰という意味が籠められています。

そういうことを忘れてしまう組織や社會というものの中に欲や悪行を蔓延らせる何かが潜んでいる気が私にはします。

これから考えようとしてしている私たちの顕彰の仕組みは、子どもたちにそういう陰徳を忘れてほしくないという祈りと願い、そしてそういうものを私たち大人が何よりも大切にしていきたいという覚悟です。

出会いはいつも私に有難い贈り物をいただけます、ご縁こそが御蔭様でありそれが顕彰の証ですからしっかりと受け止めていきたいと思います。

健康

人間は、健康であるということが何よりも大切であるように思います。

身体の不調が起きると、精神や心が乱れます。また精神や心の不調が起きれば身体が乱れます。健康というのはバランスのことであり、そのバランスが崩れるから本来の自然からかけ離れた生活を送り不調が起きるともいえます。

自然というものも、気候の変動から日々の気温の変化、また全体との変質で常に変わりつづけて已むことはありません。そんな中で生活する私たちも自然の一部ですからその変化に巻き込まれ続けていくのです。

何も変化のない日など送れるわけはなく、いくら本人が変化を避けようとしても人の老化と同じく変化していないものはないのですから日々に変わりつづけていく必要が生じます。

身体の健康管理は、目に見えやすく体調の不調や病気の兆候によってはやめに察知することができます。たとえば、皮膚に出てきたり、下痢をしたり、熱がでたり、頭痛がしたりと、身体がバランスを崩す時には崩れてきているサインがあります。それを治癒するには、食事や睡眠を改善し規則正しい生活を心がけたりすることで次第に回復していきます。

また難しいのが心の健康管理です。心は目には見えにくく自分が不調かどうかを察知する方法があまりありません。しかしよく観てみれば、自分が忙しい時や余裕がない時、他人を不信がるときや人と一緒にやりたくないとき、もしくは未来のことや過去のことばかりに思い煩っているときは心のバランスが崩れているサインでもあります。それを治癒するにも、深呼吸をして心を落ち着かせたり、思いやりに触れたり、内省を規則正しく行うことで次第に回復していきます。

それに精神の健康管理もありますが、自分の志がどうなっているのかなどは考えることもありません。精神が不調になってくると怠惰になったり、自分に甘くなっていきます。志を忘れたり、何のためにという本質を見失ってしまいます。これも精神が不調をきたしているのです。常に日々に真剣に一心一事に打ち込み、規則正しく自らを練磨し修養に努めることで同じく次第に回復していくのです。

身体、心、精神と書きましたがこれらは分かれているものではありません。これらはお互いにつながりあっていますから、これをバランスよく維持していくのが健康であるということです。その健康というものを維持するのの本質は、規則正しいかどうか、道理に合っているか、そして実践しているかどうかです。

これらは「実践」によって調和するものですから、実践なくして健康であるということは考えられないのです。実践することができるというのは自分がバランスを崩さないという規則正しい生活をする覚悟を決めているからできるともいえます。

つまり長くなりましたが、実践できていれば健康であり、健康であるというのは実践ができているということなのです。

実践をせずに、色々とやってみてもそれは結局はバランスが崩れたままに直そうとすることに似ていて結局は崩れてしまいます。そうならないようにするには、常に健康を維持していく精進こそが何よりも世の中に自分を役立てて自然体になっていく真理なのでしょう。

最後に実践人の家の森信三さんの言葉で締めくくります。

「人生二度なし、真理は現実の真っ只中にあり」

空想も妄想でもなく、ただ目の前にあるものは現実だという事実、現場実践の今、此処というのがバランスの調和した場所であることを忘れず健康である正しい日々を学び続けていきたいと思います。

全体観~トータルビジョン~

物事には大きく二つの見方があるように思います。

これは自分を中心に見ている世界と、全体から観えている自分という視点です。

これは例えれば、人間でいえば自然から離れている自分か、自然の一部としての自分かという見方と同じです。もしも人間が自然の一部として考えていれば自分勝手な身勝手なことは繰り返しません。しかしもしも自然と人間が離れて、人間の一部に自然があると思えば自然は自分の思い通りにしてしまおうとするのです。

この利己的な考え方というのは、何でも自分の思い通りにしたいという欲望のことです。思い通りにしたいと思うばかり、自分の我執が固定概念に束縛されそのことから苦しみが起きてきます。その苦しみは、思い通りになっているときは満足し、思い通りにいかないときは周りに不満を向けていくのです。それを我慢しても、思い通りにしたいという欲望に呑まれているのですから結局は他人のせいにしたり言い訳ばかりになってしまうのです。他人の言うことをいつまでも素直に聴けない頑固な人もこの自分中心の考えに呑まれている人に多いように思います。

人間は我儘になってくると利己的になり、謙虚になってくると利他的になるように思います。

そしてこの利他的な考え方というのは、「全体からみたときの自分の視野が持てる」ということです。言い換えれば、物事や自分を全体の一部としてトータルで客観視することができるということです。

自分が所属している会社、その会社の業界、業界が集まった大きな経済、時代の潮流、国家の方針、アジアの眺望、世界の趨勢にいたるまで全体から観ることができれば如何に自分がその一部であり、自分が何をすることがもっとも世の中の御役に立つのかを自覚するのです。

しかしこれが自分からの視点だけになれば、自分の所属する会社や身近な人たちだけに囚われて自分の思い通りにならないことばかりをなんとかしようとして動かそうとするのです。よく考えなくてもすぐにわかるはずですが、自分が動かそうとしたって自分の身体ですらそんなにうまく動かせないのに全体を動かすなどはできるはずがありません。それにそもそも会社がある御蔭様で自分が働くことができるのですからその会社の一部である自分が何でも自分勝手にして善いわけがありません。自分勝手の自由というのは自由の本質ではないのです。

ただし、もしも全体の一部としての自分を自覚していれば全体にあわせて何が最適か、何が最善かを省みて正しい行動はとっていくことはできるのです。自然農も然り、循環も然り、真理も然り、本質も然り、理念も然り、これらはすべて全体観から和合したものです。その全体を慮り自分を周りのためにと自分から活かしていくならそれは自由自在の境地に近づいていきます。

私も日々の理念を省みて、如何に自然と一体になっているか、如何に自他一体になっているか、如何に実践しているかというように、自分中心ではなく全体中心の思考によって自らの判断基準を設けています。社會は共生と貢献で自分を役立てるのが自立だからです。

全体観がある人は、自分の実践が如何に世界に影響を与えるのかを自明しています。しかし頭でばかり考えて実践せずに、行動もしない人というのは自分中心の欲望に囚われています。頭で考えるということ自体が自然から離れている行為ですし、脳みそはいつも自分のことしか考えないようにできているのです。

その点、心はいつも全体に開いているものです。心が開いている人は、頭で考えませんから常に行動と実践を優先し、心がつながっている世界の影響力を自覚していきます。他人に迷惑をかけるということも心はすぐに知覚しますが脳みそは他人の迷惑など顧みることはありません。なぜなら脳みそは計算はできても、実践はできないからです。ある意味で心を澄ますというのは脳みそばかりを使わないという意味でしょう。

常に全体の一部である自分自身を自覚してこそはじめて所属する価値を理解するのです。人間は色々な人たちにや自然に支えられて生きていられ、その自分が全体の一部であるからこそ自分がいい加減な行動はしてはいけない、自分の生き方や働き方が所属するところから世界に向かって開いていてその波紋や波動を放っていることを忘れてはいけないと思うのです。

今の時代、自分中心の利己的な考え方が増えているのは自然から離れて暮らしているからでしょう。自然の一部として暮らしていたころはいつもみんなを家族のように親しみ、常に相手のことや周りのことを思いやり生活していくことができていたように思います。

だからといって時代のせいにするのはおかしく反って今はそれを自らで実践し取り組む時代だと念じ、自然の一部、全体の一部としての自分自身を役立てて貢献していこうと思います。本来の客観視とは冷めた見方ではなく、全体の観方のことを言うのです。

人生はトータルですから、常にトータルで観る目を養っていきたいと思います。

真心の日々~御縁~

人は色々な出来事に日々に出会いますがそのご縁をキャッチできているかどうかは、その心が澄んでいるかどうかに由るものです。いくら一期一会の出会いがその場にあっても、ひとたび自分の心が曇ってしまえばその出会いに気づかずにご縁を活かすことができません。

ご縁を活かせるというのは、その意味を味わい尽くして感謝できているときにできるものです。そしてそれはまず自分の心の穢れを洗い清めていく中で心を澄ましていくことのように思います。

人は出会いによって人生が変わっていくものです。

思い返しても、あの時あの人に出会わなければ今はなかったと思うことばかりでしょう。それに今自分がどんな方々に出会っているか、その出会いを導いてくださっている方はどんな人かと思えば、自分にとって素晴らしいご縁をいつもつないでいただく方は自分の仕合せを導いてくださる導師なのです。

導師の御蔭で素晴らしい先生と出会い、導師の御蔭で素晴らしい仲間と出会い、導師の御蔭で素晴らしいご縁と出会う、その導師はいつも思いやりと真心で自分自身の出会いがより善いものに導かれるように祈りご縁をつないでくださっているのです。

天は公平無私です。それは誰かを選ぶのではなく、その人その人に素晴らしいご縁を与えてくださっているからです。ご縁に気づける自分があるなら我執を手放すこともでき、より自分のご縁に有難く感謝しながら自らの道を切り拓く幸せを実感できるように思います。

将軍家剣術指南役の柳生家にこのような家訓が遺っています。

「小才は、縁に出合いて縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。」

剣術指南というのは、生き方指南です。武士道というものは道徳規範ですからどのように人格を磨き修養するかを示したモデルの生き方のことです。そして柳生家はこれを活人剣と言いました。

この活人というものは、ご縁をキャッチしてご縁を大切にできる人ということでしょう。それは今の自分が如何にご縁によって支えられているか、今の自分が如何に偉大で複雑不思議な糸の絡み合いやつながりによってできているか、今の自分があるのが何の御蔭であるのかを決して忘れてはいないということです。

畢竟、今の自分がある御蔭様に気づける人こそが自他を活かす第一級の人物だということです。

私は御蔭様で本当に多くの素晴らしい人たちや先生方、導師や恩師、本物の人物に支えられ今があります。今のお仕事をいただいているのも、今の人たちの御役に立てるようになっているのも、それはご縁を大切にしてきた自分へのご褒美かもしれません。有難く戴きますという真心の日々が今の自分のご縁を豊かにしてくださっているのです。

このようなご縁をいただけていることになんとも感謝しようがありませんから、少しでも恩徳に報いることができるように自分の生き方を通してもっと周囲の御役に立てるように精進し、道を修め道を弘め、後世の人たちのためにも謙虚と素直さを忘れずに真心の日々をつなげて歩み続けていきたいと思います。

自然と至善

自然農を実践し4年目になりますが、ようやく田畑が落ち着いてきたようにも思います。

もちろん、常に天候も変化し田畑の様子も変化し、その生態系の中にいる私を含めた生き物たちも変化しますから常に学びは尽きません。

人間というものは、脳の機能を使いある程度知識が入れば理解したものが記憶によって運用されていくものです。それがマンネリでもあり、変化を感じる力を落としてしまうようにも思います。好奇心や謙虚さがあれば学びは常に新しいものになりますが、常に学びたい、常に学ぼうと機会を逃さずに内省を続けて楽しんでいれば自ずからあるがままに今を生きることができるように思います。

自然の世界では、どの生き物も今に最善を尽くしていきます。後のことや先のことなどを思い煩うこともなく、今を一生懸命に生き切ります。生きるために、生き抜くために自分の与えられた場所で自分の与えられた生を本気で生き抜いています。

最善というものは、人生を遣りきるということです。遣りきるということは、丹誠と真心を籠めて自分にできうるすべてのことを出し惜しみなく正直に実践することです。

古語に人事を尽くして天命を待つという言葉があります。半分は自分の誠で、残りの半分は天の誠で万事それこそが善いことであるという意味だと私は解釈しています。

今の時代は、何でも満たされて安逸安全な中で暮らしていますから危機感というものを喪失し、本来の「生活」ということの本義も忘れてしまっているのかもしれません。遣りきるという言葉であっても、単にやったかやっていないか、やれたかやれていないかのレベルのことを思っている人も増えてきました。

遣りきるというのは、いのちの言葉ですからいのちを懸ける言葉です。

これはいのちを遣りきるということであり、いのちすべてを懸けましたかという自問自答を行うということです。眠いとかだるいとか、やりたくないとか、楽したいとか、明日にしようとか、めんどくさいとか、いろいろと理由をつけては自分に負けてはいのちを使い切ろうとはしません。

これでは今を生きることからも逃れて、結局は自分に甘えてしまっていることになります。

自分で決めたことを自分で実践するということは、人事を尽くすということです。そうして真摯に自分のいのちを懸けているから天がそれに感応して他力が入ってくるように思います。自信というものは、そういう自力を尽くしている中で他力が入ることを悟ることを言うのかもしれません。

最善と尽くすとは、至善のことであり、それが自然であるということです。

自然農には、半分は自力、半分は他力を学ぶ最幸の土壌現場があります。他人のことをとやかく言う前に自分は本当にいのちを懸けてそれに取り組んだか、常に内省と自問自答をもって一度しかない一期一会の人生を愉しんで駆け抜けていきたいと思います。

出会いに感謝しています、有難うございます。

当たり前の仕切り直し

日々に生活をしていると様々なご縁に出会います。

そのご縁は、不思議なもので人に出会うことで人は刺激され成長しあっていくのです。そういう一つ一つに導かれるご縁によって今の自分は存在しているともいえます。

あの時、あの出会いと別れがあったからこそ今の自分があるのです。そう思うとき、私たちの仕合せとは一体何のことだろうかと考えるのです。

人は当たり前であることの奇跡が当たり前になっていくことで当たり前が分からなくなっていくものです。よく考えてみると、太陽があり、四季があり、水があり、空気があり、食べ物があり、体があり、さらにはもっと目を凝らせば健康があり、家族があり、仲間があり、機会があり、仕事がありとありとあらゆるものに恵まれて自分があることに気づきます。

人は半分の幸せと半分の不幸があればどうしても不幸の方ばかりに目を向けます。もしくは半分の不足と半分の足があれば不足の方ばかりに愚痴をこぼしてしまうものです。しかしないものよりもあるものの中に当たり前ではない奇跡があるように思うのです。

失ったものを思うよりもそのことから得たものを、ないもの得ようと焦るよりも今あるものを探すことを見つめてみると如何に自分が偉大ないただきものとご縁に導かれて存在させていただいているのかを実感するのです。

人は当たり前ではなかったなと反省し感謝するとき、より当たり前ではないものに目が向くのかもしれません。ないものばかりを嘆くより、あるものを大切にしていく生き方が当たり前にせずに仕合せに暮らしていく働き方なのかもしれません。

「餡を増やそう」と私利私欲を優先しないとやっていますが、色々なことが起き、もっと優しい心や配慮をかけてあげられなかったかと反省すると私自身この当たり前の仕切り直しをしたい気持ちです。

どんな体験も当たり前ではない一期一会のご縁なのですから、すべては有難きと丸ごと受けさせていただき、そこで失ったものよりもそのことでいただいたことの方へと心を転じていつもご縁の素晴らしさに感謝していけるよう「日々の自己一心」の研鑽と訓練を続けていきたいと思います。

心はご縁により無限無垢に生長し広がりつづけます。

自分の体験は必ず誰かの役に立つのだから、精いっぱいに道を歩み無邪気な子どもが自然にあらゆることができるようになるように自分もまたそうありたいと思います。

樹霊~偉大イチョウ~

樹霊を深めていく中で、種の不思議な力を再発見します。

世界には巨樹というものがたくさんあります。それは数百年から数千年をかけて、長い年月で育ち存在する木々たちです。あらゆる時代の風雪に耐え、あらゆる困難を乗り越えて大地に根をはりその土地を見守りつづけています。

先日、樹齢200年の銀杏の巨樹を眺めていたらその前で頭を下げて通り過ぎる人たちを見かけます。人間は、御蔭様に気づくとき何があるのかわからないけれどいつも見守ってくださっている存在に御礼や感謝をしたくなるのかもしれません。

ただ立っている木にどうしても頭を下げたくなるのは、そこに棲む鎮守の使命感に感謝の心が感応しているのかもしれません。

私はこう思うのです。

一番最初にその種を蒔いた人がいたこと。その人がどのような願いを籠めてその種を蒔いたのか、そして稚樹から育て花をつけ実り、それを毎年毎年繰り返し見守っていく中でその樹は見守る存在になったのではないかと。

巨樹というのは、それだけ長い時間、人々の願いや祈りを共にしてきた存在なのです。

あの巨樹も一番最初は小さな種からはじまり、それがあれだけの偉大な存在になっていく、そこに願いに生きること、祈りを信じることの大切さを伝えている気がするのです。私の願いもあの大イチョウのように人間を信じたいと思うのです。

そのことからその大イチョウの種を分けていただき今では私の傍で芽生えてくれています。その幼い姿に自分の境遇を感じて、心を励ましてくれています。樹霊のはじまりは、その種に気づくということなのでしょう。

最後に私の好きな先生の一人、東井義雄さんの「大イチョウ」の詩があります。

「校庭の、天にそびえる大いちょうも、昔は一粒のいちょうの実だったんだ。一粒のいちょうの実に、あんなにすばらしい大いちょうになる力がかくれていたんだ。君の、あなたの体の中にも、すばらしい未来をつくる、不思議な力がこもっているんだよ。それらが、芽が出たい、芽が出たいとウズウズしているんだ。めでたい、めでたいと叫んでいるんだよ。今年は、その芽をぞんぶんに伸ばしてみせる年にしようではないか。さあ、どんなすばらしい芽を出させてみせてくれるか、楽しみでしょうがない」

これは子どもたちにお年玉としてイチョウの種に顔を書き、その中に添えた手紙の抜粋ですが今ではその種が樹霊となり偉大なイチョウになってこの国のあちこちに芽生えてきています。

私の信念も理念もまだまだヨチヨチ歩きの幼児のようですが、その心には人間を深く愛する真心があります。いつの日か、長い年月を耐えうるような根を持ちたいと願い日々に向き合うのみです。

『子どもから おとなが生まれる 子どもから 新しい日本が生まれる 子どもから 新しい世界が生まれる 子どもこそ おとなの父』(東井義雄)

世界の巨樹は必ずたくさんのいのち、子どもたちの未来を見守り続けてくれています。どんなに他人が自分を分かってもらえなくても気にせずに子ども第一主義を信じて一歩一歩の道を前進していきたいと思います。

 

樹霊から思うこと~祈りに生きる~

樹霊という言葉があります。

これは大辞林には「老木に宿っている霊」と書かれていますが、数百年から数千年の老木には霊が宿っているような様子があり、神道では神の依代として崇められてきました。それを樹霊があると呼んだのでしょう。

先日から樹木について深めていますが、銀杏の巨樹の新芽を見守りつつ学び直しています。

以前、宮大工の西岡常一さんの著書や映像の中で法隆寺の木について語る場面がありました。千年生きた木だからこそ千年の建物ができる、千年の木には千年の釘がいるといって和釘の重要性を説いていました。

その際、千年生きた木には何か千年生きた霊が宿っているのではないかと直感したのを覚えています。それは木に限らず、石なども同じです。以前、偶然に拾った石英の石を鑑定していただいときにここまでくるのに1億年といわれました。そこには1億年の石霊が宿っているように私には実感して感動したのを覚えています。

人間はこれらの長い年月の霊と寄り添うときにだけ、永続してきた今を実感できるように思えます。

今の時代はそういう長い年月の霊を大切にせずに、現代文明の知識の方がさも優っているかのように軽々しく破壊していきます。宿っているものの価値を感じず、ただの物体としてしか感じられなくなっているところにいのちを感じる感度も、それを見守り大切に伝承していこうとする民度も喪失してきたように思えます。

司馬遼太郎が「樹霊」という著書の中でこう語ります。

「人間の暮らしから樹霊の連り添いと樹霊への崇敬の心をうしなったときに、人間の精神がいかに荒涼としてくるかをうすうす気づいて、おびえるような気持でいる」

人間以外の生き物がいないと思い違いをし、人間だけが生きているのだと周りの生き物をエサかのようにいのちを蔑ろにし、それだけ生きながらえようとすることへの気持ち悪さ。いのちをいただくのではなく単なる食べ物、感謝で大切にするのではなく単なる道具と化していく心の貧しさを実感するのです。

人間は人間だけで生きるものではなく、色々な生き物の中に人間がいるだけです。心が亡くなってくれば人は、そこに宿る霊を感じることもできなくなるのかもしれません。

伝承してきたものは実はそのものに宿った霊(魂)こそにあるのかもしれません。八百万の神々という思想は、心が優しく思いやりに満ちた社會を存続していくための先人の智慧の結晶だったのでしょう。

子どもたちに遺した先人の思いやりや願いは今を生きる私たちの実践する姿の中に宿っています。いつまでもその霊魂を感じられ、霊魂を入れられる祈りを大切にした生き方をこれからも選んでいきたいと思います。

 

真心の醸成(志道と志事)

吉田松陰の志というものは、多くの志士の心を動かしました。

そこには志というものが何か、そしてそれは何をもって志が育っているのかということを自らの背中を通して塾生に語り掛けました。周囲からは狂人と呼ばれ、危険人物として疎まれました。

本来、志高く歩む人を理解するというのは周りからみれば変人の類なのかもしれません。一般的な姿と考え方も異なり、見た目も異なり、素行も異なるのは、常識の枠に囚われることがないからです。

吉田松陰もその時代には常識的に理解されず、それでもそれを貫きました。たとえば、友との約束のために脱藩をします、今では外国に亡命するくらいのことです。そのあと黒船に乗ろうとします、これは宇宙船に乗るようなものです。そして安政の大獄の真っただ中、仮保釈中に老中暗殺のために武器を藩に願い出ます、これなどは仮出所中に銃や武器を国家や裁判所に貰いたいと嘆願するようなものです。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という言葉も遺ります。塾生たちに遺した言葉には「諸君、狂いたまえ」などという言葉も残っています。これなどは、「もっとおかしくなりなさい、遣り切りなさい」と他人と異なってもいいからもっと変人になることを奨めているのです。

なぜこうすればこうなるとわかっていながらもこれをやり遂げたのか、そこには本人にしかわからないものがあったのだろうと私は思います。

吉田松陰の立志という生き方はまずこれらの言葉に見られます。

「志を立てて、以って万事の源となす」「志定まれば、気盛んなり。」

すべては志からはじまり、そして志におわるという意味でしょう。そして志は覚悟が決まれば、気が満ち溢れ燃えているはずだというのです。

そして孟子の下記の言葉を引用して「講孟余話」という授業の中で弟子たちに発奮激励を語ります。

「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」

意訳ですが(志士ならば道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟し、真の勇士は志のためならばいつ首をとられてもよいと覚悟を決めているのだ)という意味です。

そしてここにはこう続きます。「書を読むの要は、是れ等の語に於て反復熟思すべし 」と。

志士が本を読む意味は、これは孟子のいうところを繰り返し繰り返し読み直しその書いている本人の真心に透徹するまで思うことであると。読むというのは単に字を読めばいいのではなく、志で道を切り開く同志を思いそれに志心を奮い立たせていくということでしょう。

吉田松陰の志道というものは、決して仕事ではなく志事であったのです。

言い換えれば、人生を懸けて志を貫こうとし、それを塾生たちが感じ取ったのです。吉田松陰は出来合いの指導などを行っていたのではないのです。では塾で何を行ったのか、それは志道と志事を実践していたのです。

その塾生の一人、高杉晋作はこう言残します。

「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大ばか者なり」

そしてもう一人、高杉と合わせて塾生の双璧と呼ばれた久坂玄瑞の言葉で締めくくります。

「私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない」

私の志も、あの天高く広がる宇宙のほかに知る人はいないという心境です。別に誰に分かってもらう必要もないし、誰に知ってもらう必要はない、ただ自分の志道を貫くだけというのがこの志の道の目指すところなのでしょう。

色々な出会いがあり今がありますが、易経の「潜龍用いるなかれ」、その信念を日々に棲む水面に憂いつつもその真心を醸成し、確固不抜の志を高めていきたいと思います。

立志という生き方

人にはそれぞれに生き方というものがあります、同時に働き方というものもあります。私たちは生き方と働き方を一致するということを目指していますが、これは志を育てるためです。

そもそも志というものは、最初から誰でも持っているわけではりません。生き方を定め、言行一致させていく中ではじめて志は育っていきます。そしてその志は、様々な現実の中の紆余曲折、艱難辛苦の中で、それでも自分は生き方を貫けたかどうか、言い換えれば道を切り開き脚下の実践を遣り切ることができたのかという内省により醸成されていくものです。

志を持つのも育てるのもその人次第です。

途中でそれを已めてしまえば、世の中の安逸の中であっという間に自分の生を終えてしまいます。人の人生はとても短く、志を育てていかなければ気がつけば何をやっていたのかと悔いてしまうことにもなりかねません。自分の生き方と向き合うのは自分にしかできませんから、それに生き方には嘘がありませんし他人のせいにもできませんから志とはもっとも身近で自分のことを信頼する伴侶そのものになっていきます。

吉田松陰は、塾生との手紙のやり取りの中でその志が育つような数々の叱咤激励を送っています。

たとえば、塾生の山田顕義へは「立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。 身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。 百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ。 」と記します。

これは私の意訳ですから意味が違ってくるかもしれませんが敢えて訳すと、「志を立てるのならば他人と異なることを恐れてはいけない、世俗のことや常識の中でそれを実践するのはとても難しいことだ。しかし世間の常識に囚われれば自分の身の保身ばかりを思い煩い、目先の安楽安逸に流されるばかりになるのです。百年という月日は一瞬に過ぎないのですから、君子は決して現状に甘んじるんではなく志に生きるのですよ。」と。

これは山田顕義が15歳の元服(成人式)の時に、吉田松陰が扇に書いて送ったものですが何を優先してあなたは生きるべきかとその初心を塾生に自らの生き様で与えています。

そしてさらに感動的で印象に残る叱咤激励に塾生の高杉晋作に送った手紙があります。
そこにはこうあります。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。」

これはそのままに味わってほしいものです。吉田松陰と高杉晋作が如何に志で絆を結び、共に不二の道を切り開いていたのかが分かり感動します。死を前にしての、生を語り、その生き方を示しています。

そして志を立てることを最期に述べます。

「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

これは私の人生観からの意訳ですが、「もし死んだとしても志がそれで立てられるのならいつでも死んでもいい。しかし生きて志が立てられるのなら生きることだ。常に志を求め言うのなら、常に自らの生死のことなどは度外視して志は語るものだ。」

「立志」という生き方。

これを実現したのが松下村塾なのでしょう。

孟子はこう言い遺します。

「自ら反りみて縮くんば、千万人といへども、吾往かん」

そして孔子はこう言い遺します。

「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」

引き続き、君子の道とは何かを自問自答しつつ覚悟を育てていきたいと思います。