父母の恩徳はいのちなり

自然界に入り、ふと感じたことがありました。すべての生き物たちには父母があります。父母なしで生きているものはありません。父母は空気のように当たり前に存在しているものですから今更考えないのかもしれませんが、そこにはとても重要なことが隠れています。

私たちの今を思うとき、そこまで連綿とつなげてくださった父母から辿っていくとずっと先の祖までたどり着きます。しかしその祖とは何かといえば、その祖はあまりにも遠大であり観えません。なぜならその祖にもまた父母があるからです。

同じように私たち自然界の生き物の父母をずっと辿っていくと、地球や宇宙の先に祖があります。しかしその祖にもまた父母があるのです。

どこまでたどれば父母の元に逢えるのか、その元が分からないから父母の存在は偉大なのです。中江藤樹が父母の恩徳は天よりも高く海よりも深しといいましたが、私なら「父母の恩徳はいのちなり」です。

父母の元とは何か、それは此処に活かされている自分。この自分の中に存在するいのちです。そのいのちの中で、私たちは父母に出会うのです。

もっとも遠大なものは、もっとも卑近にこそあるものです。私たちが気づきもしないところにこそ、真の存在は永遠に生き続けているからです。

いのちの大切さなど教えられるものではありません、いのちは父母そのものですから常に自分の中に存在するということに気づくだけということでしょう。

人間は何かあるとき、父母を辿っていくといいように思います。そこにあるいのちの息吹に触れて目覚めていくように思います。人類史はいよいよ過渡期に入りますから、しっかりと父母の恩徳を意識しながら歩みを強めていきたいと思います。

 

自然の時機

昨日、念願の水田づくりを無事に行うことができました。

光と水と風、そして土の調和の中で私を含めた生き物たちが共生する地球の喜ぶ田んぼから自然を学べることに感謝しています。

振り返ってみると、時間が経てば過去に起きた出来事はすべて意味がありつながっていることを実感します。なぜあの時はできなかったことが今はできるのか、なぜあの時はならなかったのかを内省すると、タイミングが合わなかったということがわかります。

その時は焦りのあまり、思い通りにいかないことに挫折をしたり一喜一憂したりと大変でしたが時間をかけて継続していけばあの時の苦労が今に活かされていることを実感するのです。

人生には必要な時期に必要な体験というものがあるように思います。いくら早く早くと焦ってみても、無理やり力技でその時は乗り切ったにせよ、タイミングが合わないのであればことは為りません。

そう思うとき、如何にことが為るには長い月日が必要なのかということを実感するのです。

言い換えれば必要な月日があって事は為るということです。

自然体というものも同じく、長い月日をかけてタイミングを合わせていく中でもっとも相応しい時処位に応じた行動ができるかどうかということなのでしょう。心で浮かんだことが形に為って行くまでには自然と一体になってその時機が訪れるのを信じて待ち続けなければなりません。

それは頭で思うとおりにすることではなく、心が感じるものを感じたままに味わい、感謝のままに周囲に支えてくださっていること、周囲が助けてくださっている実感を覚えるときに時機は実感できるように思います。その時機を実感するためにも、信を入れて過ごした長い月日が必要なのです。

自然というものは信じれば信じるほどに裏切りません。それは必ず善いことにしてくださるからです、それを天や神様、もしくは地球や宇宙と呼んでもいいのかもしれません。そういうものに包まれる中で私たちは呼吸をし脈動を打ち、めぐり会いを通じて活かされているのでしょう。

如何に自分が自然と一体の中に活かされているかを思うとき産まれてきた幸福に出会えるのです。心は常に自然とつながっていることを忘れてはいけません、だからこそ自然に待つ力を伸ばしていくのが修養の本質なのでしょう。

心の実践を積み上げて、味わい深い学びを楽しんでいきたいと思います。

循環の見性

自然に身をおき、自然と共生して農を行う実践をしていると如何に自分から自然に近づき、そして自然と一体になることの有難さを実感します。それと同時に都市に身を置き、人間社会に身をおき人間と協調しながら行う実践もまた有難さを実感します。

しかし都市の方では実感できないものがこの野生の自然の中に存在するものです。

人間は思い通りになることや思い通りにすることが最善のように感じるものです。特に都市の中では人間がルールを定め、そのルールに従って社會を存在させています。目に見えるところがうまく機能していれば、また大多数の人たちが快適であるならばうまくいっていると思わせています。その反面、目には見えないところで様々な不自然を発生させています。

たとえば、先日都内の下水道を見学する機会がありました。その際に、如何に私たちが日々に下水に流すゴミがどのように処理されて海に流されるのかを確認すると、いくら科学が発展したからといっても許容量を超えるものを力技で乗り切ろうとしてもそこにはどうしても不自然があるのだということを実感したのです。ほかにも産業廃棄物の問題も、ゴミ問題もそうですが見たくないものは見せないという都市の中で問題は起きていないようにしてしまうのが都市化ということでしょう。

人間は都合が悪くなると、見なかったことにしたり、見えなくすることで意識にもあがってこないようにするものです。もし下水がなかったなら、川がむき出しですから流している汚物が悪臭を放ったり、川の生き物が死滅して浮いていたならば、怖くて簡単には洗剤や油などを流せるはずはありません。

そもそも生き物はいないということが大前提ですからそうなるのでしょうが、結局は海に出たときにはその処理されたものが流れ出て、ゴミは加工したものを最終的にはどこかに廃棄集積されているのです。

それに比べ、自然界の中には一切の無駄もゴミも発生することはありません。自然の許容量の中で循環し、目に見えるところでその作業がすべて行われます。生き物たちも自分たちの精いっぱいの生活が他の生活を支援することを知っています。

一つ一つのいのちは、自然の循環の中に生きていて等身大でかつ清浄です。たとえ思い通りにいかなくても、それぞれが自然に合わせて野生しているのです。そこにはありのままにあるがままにいても全部丸ごと完全に善いことにしてくれる環境があるのです。

自然界には天敵がいますが、その天敵とは自分さえよければいいという欲のことです。この欲が出てくれば循環から外れますから自らで自らを滅ぼしてしまいます。なので、自然淘汰といって自然の循環に帰るように自らで数を減らしていくものです。そのために、天敵に頼り、身を任せたりもするのです。

人間の天敵も同じく人間ですがその欲を助長するのは、見えなくすることなのでしょう。自然の循環を見えなくすることで、どこかを隠してしまうことで人間は騙されてしまうのです。全部を見通せば自然に帰ることができるのでしょうが、どこかを隠すから不自然になるのです。

言い換えれば「なかったことにする」ということで不自然は広がっていくのです。歴史も然り、環境も然り、生き方も然り、決して誤魔化したり隠したりできないものですから、真実を直視して如何に自らを大いなる自然の循環に合わせていくかでこれからの人類の存続がかかっているように思います。

真理とは誰かに操作されるものではなく、自然体になることを学ぶ中で出てくる単なる形です。

せっかくこれだけのことを遣らせていただいているのだから、人類も成長して方向が大転換する学び直しができないものかと考えています。本当に豊かな社會を人間が調和するならば自然はより明るく緩やかに楽しめるように思います。

教えられることばかりでまだまだ形にできませんが、有難く実践から学び直していきたいと思います。

自然の一部

よく刷り込みの一つに、善悪や陰陽というものがあります。

人間は、自分を中心に右とか左とかを分けて考えてしまうものです。本来は混ざり合った渾然一体になったものを仕分けては、これは太陽だとか月だとか、小さなくなれば男とか女とかに分けて理解していきます。

本来、自然の一部であると認識すればそれはそのまま自然であるという認識ができますが分けたところから考えているから違うものとしてどうしても同じと思うことができなくなるのです。

宇宙というものも大きいものですが、宇宙を認識するのに太陽系とか銀河とか色々と目に見えるところを分けてはさも宇宙はそういうものであると認識してはじめて宇宙を語れると勘違いしてしまうのです。

そういうものをなくして、全てが一体善であるという風に考えることができればまた観方も考え方も変わるように思います。

先日、子どもが疲れて眠るのでどうしようかという話がありました。これは疲れていることを悪いと思っているから悩んでいるのであり、疲れることは善いことだと思えていないから問題が起きていたのです。本来は、子どもが疲れるのは決して悪いことだけではありません、一生懸命に遊びこんで楽しいからこそ、その後バタンと眠ってしまうのです。その疲れは、充実した疲れというものもあるのです。

大人が疲れが悪いと決めつける前に、疲れもまた善しと思えるかどうかはそもそもの自然の一部としてそのものを感じていれば理解できるように思います。自分の中にあるこうすべきだという決めつけが邪魔をすることでいろいろなことが歪んでいくのです。

他にも、ストレスは悪いものだと決めつけてストレスを毛嫌いしますがストレスがあるということは元気になっているということでもあるのです。多少厳しい中にいることで野生的な本能も働きだしますし、様々なものが自然の一部として感じることができます。野山に行き、自然に触れれば虫たちに攻撃されたり、寒暖冷気を浴びたりもしますが、その分、自分の内面にあるものが活性化していくのですからストレスもまた充実している方がいいのです。

病気でも然りで、病気とは自然治癒ですから病気になることを悪いと決めつけて自分を責めたりする人がいますが病気は治そうと身体が自然の一部として頑張っているのだからそれも悪いことではないのです。免疫のちからで、鼻水が出たり熱がでたりと気分はよくなくても身体にとっては治癒の最中ですから自然の一部なのだから幸福なことなのです。

天候と同じように、雨が降れば嫌がり晴れれば喜ぶというのは自分が中心になって自分の都合でそれを良し悪しにするだけであり、天候は常に善であるというのが自然であるように思います。雨が降れば、それまでの乾きを潤し、晴れればいのちに光を与えて満たされます。そのどちらにとっても善いことだと思えることが丸ごと一体善というものの考え方です。

これは良いとか悪いとかそういうものを思う前に、自分に矢印を向けて「全部善いこととして」取り組んでいるか、感謝の心で自他を思いやり「全部善いことにしよう」と遣り切っているか、そういうものの中に自然を実感する妙法があるように私は思います。

マイナス思考というものも、不安からくるものですが楽観的に善いことだと思えるのは感謝の心をいつも忘れないからかもしれません。すでに自然の一部であることは、天地は元の父母であるのだから安心の境地で善いことだと信じることが何よりも自然と一体であることなのかもしれません。

徳に報いるということが何か、徳も善なのだから自然でありたいと思います。

武士道精神

子どもの頃、父の影響で少林寺拳法を習っていたことがあります。約、4年間ほど通い色々なことを教わりましたが古武道を習い始めることでその時の記憶が甦ります。あの当時は、分からないことも子ども心には色々な教えが残っているものです。

少林寺拳法というものは、ただ相手に勝てばいいとか喧嘩をして負けなければいいというものではないことは習い始めてすぐに気づくものです。実際には、様々な行動規範を習います。私が一番驚いたのが、自分からは戦わないということを教わったときです。

では何のためにと思ったのですが、それは「力愛不二」という考え方があるからです。これは、慈悲心や正義感に溢れていても、力がなければ、誰かの役に立ったり、助けたりすることはできないということを教わります。また、そこにどれだけ力があっても、誇りや信念がなければ、正しい力の使い方もできません。

本物の強さというものは、相手を思いやることにあると教わるのです。相手を思いやるからこそ、守りに徹し、守ることから戦わないことを学ぶのです。

私は武道の本質というのは、それも思いやりや優しさから産まれるのではないかと実感します。無駄な戦いは避けたい、それは相手を思いやるからです。そして大切なものを守りたいと思うからこそ強くなる必要があるのです。

私の尊敬する師も、大切なものを守る時にはまるで不動明王のような威厳がでています。いつも圧倒されますが、あの強さは優しさや思いやりからだったということが理解できてきています。

正義というものも相手を思いやらない正義など、たいした正義ではないように思います。本物の正義とは、相手を思いやるからこそ御互いを活かし合い天に対しての正義=至誠を貫くことができるようにも思います。

流鏑馬の宗家からも先日、「本物の強さは戦わないことだ」と教えていただきました。

やはり古武道の源流は、自然一体の境地、つまりは「真心」にあるのでしょう。真心を学ぶには、優しさと強さを兼ね備えた真の武士道精神を持ち合わせる必要があるように思います。それを大和魂といい、ヤマトタケルから今の私たちまで連綿と継承した民族の血脈というものでしょう。

なぜ今、此処で私が古武道なのか、少しずつ意味が自明してくる中で、子どもたちを守れる真の強さと優しさを身に着けたいと実感しています。里が応援し、願いを届けてくださり未熟な私を鍛えてくださっていることを有難く感じています。

道に終わりはなく、道は無窮ですから今、来ているものに感謝しつつ歩んでいきたいと思います。

最適な距離感

自然農の実践をしながら3年目になりますが、毎年実験していく中で失敗も多いのですが収穫もまた多くあります。

昨年は、小麦をあらゆる方法で蒔いてみてその成果を試してみましたがその一つ一つが意味があり、過ぎてみて観察してみるとどのように蒔けば善かったのかが観えてきます。

これは仕事でも何でもそうですが、何でも好奇心で熟慮してみて挑戦し、はじめたら諦めずに遣り遂げてみて、その後、省察する中で自然に意味が着いてくるのを静かに待つのと同じです。

心を動かし、身体を動かし、精神を継続することでそこに意味があることに気づきます。その意味をどれだけ深く厚く自分のものにし、質の高いものにしていけるかというのが日々の実践と姿勢によるものだと感じます。

何かをトライした日は、トライしただけの充実があり、何もしなかった日は何もしなかった日としての虚しさがあるということです。日々のルーティンに流されているだけでも一日はあっという間に終わりますから、いくら怠惰な気持ちがあったにせよそこに打ち克って苦しくても楽しい方を選んでいけばその日の終わりは幸福感を実感できるように思います。

頭で考えていることを如何に打ち負かすかは、天命に任せつつ自分を信じる力に比例するものです。自信とは、結果が出たから持つものではなく自分にとって苦しい方を選択して善いことになると信じた質量によって得られるのではないかは私は感じています。

さて自然農の話に戻せば、今回は麦の空間について学び直すことができました。

これは麦に限らず、全ての植物には空間というものが必用です。

地上で生きていくには、その生き物がのびのびと安心してお互いを尊重し合う距離感が要ります。これは麦がある一定の距離と空間を保障しあうことで他の雑草を抑制できるという意味です。これは、稲にも言えることでその風土や環境にあわせてどのくらいの幅で育つのが他の雑草と共生できるかということでしょう。

麦一つでも空間が開き過ぎても狭すぎてもよくなく、ちょうど善いバランスの所を手探りで掴まなければなりません。これらの農の実践のむずかしさと面白さは、これらの自然の技術の習得にあるように思います。

自然をよく観察し、どのようにすれば最適な空間と距離感になるのか、また他の虫たちや気候などとの調整の中に、自分の思い込みを外す必要が出てきます。

そしてこの空間の理解というのは、そのものを育ててみてはじめて観えてくるものです。ちょうど虫にも他の野草にも野菜にも人間にも最適な距離感をどう観出していくかは育成してみて気づく智慧なのでしょう。

見守る保育を学ぶ中で、他分野から深めていますが御蔭様で新たな感覚も芽生えてきています。育てているつもりが育てていただいているのはいつも自分の方です。

田畑に感謝しつつ、丁寧に学びとっていきたいと思います。

童心

アナと雪の女王という映画が大ヒットしています。

拝見すると内容もさることながら、ディズニーが温故知新しているところが随所にみられとても参考になりました。時代の変化とともに、その本質は失わずに最先端の技術や世の中のニーズを的確に捉えていくところ、またその作品の背景にある人々の思いなどが映像に投影されていました。

それは私なりの解釈ですが、「童心を忘れない、感動を忘れない、家族愛を忘れない、時代をリードするのを忘れない」、これらに尽きているのではないかと思います。今年はディズニーとのご縁があり、この4つを随所に実感することができました。

刷新していくことや革新していくことは、仕事を楽しんでいるということです。夢を追う仕事という物は、常に夢を追い続けること、初心を忘れないことをいうように思います。人はすぐに形式的な仕事観や自分自身の持つ社会というものの固定概念で仕事を無機質なものに変えてしまうものです。

実際は、やっていることは夢であるのだから夢のように働くというのは生き方そのものを決心した初心のままで常に内省を続けるということかもしれません。実践する本人が子どものような好奇心を持っていなければ、好奇心を引き寄せるような出来事は起きないのかもしれません。

今回の作品は、人間が誰にでも持つ心の傷についての内容でした。

人間というのは、心の傷を負うことでありのままの自分を受け容れることができなくなります。その傷が深ければ深いほどに、自己嫌悪になり自己否定をしてしまうことです。そうなると、自分のような人間は幸せになってはいけないのだと自己抑制し自分を自分で痛めつけたり、自分を自分で追い込んだりと孤独になっていくものです。

子どものむき出しになった純粋無垢な心に傷が入ると、もう誰も傷つけたくないと思ってしまうのでしょう。子どもは考えていませんから何が傷をつけてしまうのか分かっていません、悪気がなかったはずですが大切なものを傷つけてしまった悲しみから自分で自分を責めてしまうのです。

傷が癒えようとすれば癒えるほどに忘れないようにすぐに傷つけるのだから傷跡がしっかりと残ってしまうのでしょう。

その傷は、他の誰かからの愛や自分自身への許しによって得られるのでしょうが今を善くしていこうと努力していくことで少しずつですがその古傷が誇りになっていくように思います。傷を治すというのは、決して傷を消してしまうことではありません。

傷があるからこそ、その傷の御蔭で今はとても強くなったとか、愛せるようになったとか、大事にできるようになったとか、その傷を感謝に換えるほどに善い今にしていこうとすることのように思います。

傷つけた方も、傷つけられた方も、その傷の御蔭で善くなったと思えるようになることがお互いの縁を有難く受け止めることなのかもしれません。なかなかこれはご縁ですが丸ごと受け容れるのは本当に難しいことだと思いますが、時間が経つことで次第に未熟だった自分のことも丸ごと理解できるようになるのかもしれません。

人間の子どものような優しい心は、純粋で純真なものです。

その純粋な純真な心を育て見守るのは、周囲の大人たちの思いやりがあってこそのように思います。子どもが迷い苦しむときに、どのような手を差し伸べることができるか、そこにこそ社會の価値があるようにも思います。

どんな出会いがあるのかワクワクしますが、一つ一つを大切にしていきたいと思います。

地球での実践

先週から地球に関するご縁を様々なところでいただいています。

そもそも自分というものから世界を見た時に感じるものと、地球というものから世界を見た時に感じるものは異なるものです。

例えば、この国は誰のためのものかと聞けば国民とか国家とか、首相だとか色々と言われそうですが本来はこの国は地球のためのものです。それ以外の国々もみんな地球のためにあるもののように思います。

言い換えれば、草花から木々、虫たちから動物にいたるまで地球に生息するものは地球のためにあるものです。地球のためというのは、地球であるということであり、私たちはその地球の一部として存在しているということを忘れてはいけないということでしょう。

いくら人間の社会の中で、大きな戦争などにより滅びそうなことが起きたにせよそれはあくまで人間の中で起きることです。しかしもしも巨大隕石など地球にとって致命的な出来事が起きれば地球の中にいる生きもの全てに影響がでてくるものです。

私たちは存在が大きすぎるものを意識することは少なくなっているものです。太陽や月、地球はあって当たり前、空気や水や土もそのままであるのは気にすることもないように思います。しかし、それが一つでもなくなれば、人間社会の問題どころではなくなりすぐに生命の危機にさらされてしまうのです。

よく考えてみれば、平和ボケというものは地球の一部であったことを忘れてしまうことなのかもしれません。世の中がいくら不安定といっても、本来の自然災害の危険に比べればそれは想像できるものだからです。

私たちは地球をコントロールすることなどできないはずですが、できると錯覚するのは人間だけの世界で物事を考えていることの証明なのです。そういう人間社会の枠組みの中で、居心地が良い状態が続くことで本来の自然ということもまた錯覚していくのでしょう。

一度、人間社会から離れて自然の一部であることを実感すれば苦しみもまた少し遠のくのかもしれません。聖人が自然と一体となる修行を行うのは、自然から学び、その自然を人心の中に透過していく必要がからでしょう。

自然を透過するといえば、自然の実践に長けていたかの空海もまた、そのような地球人としての生き方と具体的な仕組みを通して、この人の世が持つ様々な苦しみを見抜き地球の一部としての真理を表現し自然と人間の融和した生き方に貢献された方だったのかもしれません。

私たちは地球のものですから、地球のためにあるような生き方を考えていきたいものです。
地球人のいのちとしての実践とは何か、日々に気づきを改善につなげていきたいと思います。

林檎聖人~地球人~

昨日、奇跡のりんごの映画で有名な木村秋則さんの講演会にクルーと参加してきました。
自然栽培という、新しい栽培方法を提唱されその農法を拡げるために活動されていました。

今の慣行農法では、地球が疲れてしまうということで肥料や農薬を使わないで自分の目と手を代わりにして育てていこうという考え方で実践されているものです。

講演では、最初に大小のりんごをポケットから取り出して 「最初はこんなに小さなりんごが30年経ち今ではこんなに大きくなりました」と語りかけ、これが現実ですと見せてくれました。その上で「本来、農の世界はものの大小が判断基準ではないのです」と言います。続いて「りんごは、毎年今年はこれで一生懸命だった、来年はもっと頑張るよと言ってくれているんです」と話す姿にまるでりんごそのものが喋っているかのような自他一体の姿を拝見しました。

世界中ではまだまだ人間の食糧の確保のために常に新しい肥料や農薬が沢山使われ、大量生産されています。りんごも同じく、消費があるから生産するのですがとにかく大量にと生産されることで土はどんどん疲弊してきています。

そこには何の疑問も思わず、人間だけが生きているかのような錯覚に陥ることで畑の土がどんどん生きもののいない真っ白な無生物無機質な姿に変化してきています。本来の地球が喜ばないようなやり方で無理やりに働かせてしまうと豊かであった生態系もまた貧しくなって焦土のようになっていくのかもしれません。

そもそも農薬や肥料というものを足さないという考え方は、無理やりに育てないということです。そのものが育つのを見守るのですから、足す必要はなくよりそのものが育つような環境を手伝っていけばいいのです。言い換えれば私の言葉にすると、何もしないということでありそれは天に従うということです。無私と無我ともいってもいいかもしれません、そういう境地であるがままであることを尊ぶことで自明する環境こそが自然であるというように定義しています。

それは感謝を基盤にして、あるがままであるということですから人間が謙虚でいるということです。謙虚な心で育ち合うことや、素直な心で学び合う環境こそがもっとも自然に近づくことではないかと私は思います。

話を戻せば、最後に「今、耳に入ってくるニュースはミツバチがいなくなったとか蝶がいないとか、そういう話ばかり、今私たちは何をなすべきか、日本中の人達は未来のために真剣に考えてほしい。」とありました。そして続けて「運河や大河も最初は小さな川からはじまった、信じていけばそこに必ず立派な道ができる」と。

今、私たちも見守る保育という実践を拡げようと自分たちも実践を行いつつ、仕組みを創造し仲間を増やしていますが業界が異なっていても同じ志で生きる人たちが真摯に努力する姿を観ると勇気が湧いてきます。

決して一人ではないのだから、みんなで力を合わせて地球が喜ぶような生き方と働き方、太古の昔から日本人が大切にしてきた天照大御神を中心にした社會をもう一度、復興、復活させていきたいと心に誓いました。

常に時代はうねりをあげながら変化を已みません、自然環境も待ったなしで偉大に揺れ動いています。この先のことを思えば、この今が文明に課せられた最期のチャンスなのかもしれません。同じ地球の上に生きるものとして地下や根っこは同じ土から出でたいのちなのだから天の命じるままに、このいのちそのものを運んでいけるように自然から学び続けていきたいと思います。

 

真心が至誠

昔から人は真心を持って生きる事や、至誠であることは天を相手にしているという言い方をします。これは天というものの存在を実感し、その天に恥じないような生き方をしようと心掛けているということです。

これをお天道様という名で呼び、そのお天道様がいつも見守ってくださっているのだからそれに恥じないように生きて活きましょうという声掛けをして正直にその性を全うしていたのだと思います。

そもそもこの天とは何かといえば、天地自然のことです。大宇宙という言い方をしてもいいのかもしれませんが、私たちを活かしてくださっている偉大な存在のことをいうように思います。

例えば、私たちの身体は何もしなくても自分で成長し自分で回復していくものです。これは本能とも私たちは呼びますが実際は何かによってそうさせていただいているということです。つまりは私たちの身体も英語で言う何ものかサムシンググレートによって活かされているということです。

私たちが天を感じるというのは、そのサムシンググレートを感じているということでありその天の運行、天の恩恵を素直に正直に承れるようにしていることが謙虚でいるということであるように思います。

本来は天が活かしてくださっているのだから何もしなければその恩恵は享受できるのですが、しかし人間は我や私が入りますからそれをすぐに邪魔をしてしまうように思います。自分の我や私が入り込むことで丸ごと受け取ることができなくなり、運が悪くなっていくようにも思います。

天は人間を活かし、そして万物を丸ごと包み育むのだから必ず善くなるようにしてくださっているのです。だからこそ天を邪魔しないように生きていくこと、自分に与えてくださったものを選ばないこと、来たものは全て善いことになるように祈り取り組むこと、周りの全てを受け容れて一体となって丸ごと善いことになるのだと信じた実践を積んでいくことが徳を高め運がより善く開けていけるように私は思います。

西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、これは天が自分を愛してくださるように自分も人を愛する、それは天の真心のままに活かされますという覚悟ではないかと私は思います。

天人合一というのは、全てを一円の和の中で丸ごと善いことにしていく生き方のことです。言い換えれば、天に対しては謙虚、人に対しては素直でいるということであろうと思います。

人間は無我や無私になる時にだけ、すべての問題が自分の問題になるように思います。
自他一体とは、無我や無私のときにこそ実感でき同時というのもまた其処に存在します。

日々は学びの連続ですが、天に感謝し、全てを善いことにしていくよう内省したいと思います。
日々の有難い体験と学びという豊酬に心から感謝しています。