自分の磨き方~朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり~

昨日、臥竜塾の塾頭に依頼され高杉晋作の生き様についての談義を一緒に行う機会をいただきました。思えば開塾の時に、草莽崛起と記帳した本の言葉の御縁から繋がっていることを感じ有難い気持ちになりました。

何年もかけて人が成長していく様子や、塾生たちが実力を備えていく姿を拝見することは御互いの学んだ期間を確認することにもなり改めて初心に帰る貴重な時間になりました。

高杉晋作についての印象は風雲児というイメージがほとんどです。しかしその日記を紐解き読み込んでいくと、親を思う親孝行の心境や吉田松陰先生を慕い一所懸命に先生の遺訓を守ろうという誠実な姿が観えてきます。また大義を優先し自分のことなど度外視してでも純粋に道を探究し学を深め実践を愉しんでいる子どものような姿もまた観えてきます。

その時代時代に、死生観を持ち必死に生きた人は学問が成熟しています。高杉晋作は『少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。』とあります。論語にある「古之学者為己、今之学者為人」にあるように、死生観を持つ志士の学問は世間から有名になり評価されるためにするものではなく唯一人自分自身の人格を練り上げるためにあるのでしょう。

本来の学問は道ですから、最初から高杉晋作は道を求め続けていたのでしょう。それが吉田松陰との同行した約1年の薫風により花開いていくのです。本気の師弟関係というものは、その真心に決した覚悟があってのものです。今のように知識をただ教えるための偽りの師弟関係ではなく、その道と志が同じくしてこそ本物の師弟ではないかと私は思います。

吉田松陰は「師道(しどう)を興(おこ)さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」と言います。

直言直行、必ず実行せよと弟子たちに語りかけるのは即ち本物の師弟の道、つまりは本物の学問を指導しようとしたからに他なりません。このような本気の情熱で語り掛けるなら、その弟子たちの志は養分を得て大きく開花していくように思います。人と人の一期一会の御縁というものは、まるで道中にある大義という糸を通して紡ぎ合っていく一反の織物のようです。

最後に、私が高杉晋作の日記の中で深く共感する一文があります。それは野山獄「先生を慕うてようやく野山獄」と書いた獄中日記の中にあります。

自叙(甲子四月、西海一狂生東行、野山獄北局第二舎南窓の下に題)

「予、下獄の初め既往を悔い、将来を思い、茫然として黙坐し、身を省み心を責む。すでにしておもえらく我れすでに獄に下る。死測るべからず、何ぞ身を省み、心を責むるを用いん。ただ、槁木死灰死を待つのみ。一日、自ら悟りて日く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。これ、聖賢の道、何ぞ區々たる禪僧の所為を傚わん。よって書を獄吏に借り、かつ読み、かつ感ず。或いは涕涙衣を沾し、或いは慷慨腕を扼す。感じ去り、感じ来り、窮極あるなし。乃槁木死灰に向くは人道に非ざるを知る。しこうして朝に聞き夕べに死すは眞楽量るなしとす。心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。これ文、やむをえざる所以を記すなり。」

どんな時であっても人の道は、生死は度外視しても道を学び続けることであるという魂の言葉。つまり朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりという本物の学問を師と一緒に歩んでいたのだろうと感じ、そこには孔子や老子、仏陀もかつては学んだ境地に達しているように感じます。

こういう言葉を実践と内省に由って日々に高め、体験の中で自らを磨き貫いていた高杉晋作の日記の数々には今でも魂が揺さぶられる思いがします。どんなことがあっても龍になると決めた生き方と生き様からもう一度、”自分の磨き方”を見直していきたいと思います。

御縁と機会に深く感謝しています。少し熱が入り過ぎましたが、志士との語り合いはどんなときにも愉しいものです。その場の中に、見守られている有難さを改めて実感しました。

ありがとうございました。

 

虫の目~いのちの原点~

ファーブル昆虫記というものがあります。これはフランスのジャン・アンリ・ファーブル<1823-1915>の代表作であり、世界各国で翻訳されているものです。

虫の観察をするだけではなく、その虫の心に入り込んで虫の気持ちになって豊かな文章で紹介する昆虫記は私たちにいのちの価値について深く考えさせられるものがあります。

「全ての生き物は平等であり、それぞれの役割がある」という信念のもと、世間では見向きもしないような虫の生態を30年以上観察して新たな発見を次々に記した実践には感動するものばかりです。

よく考えてみると、どんな小さな虫であっても親兄弟や家族がいます。産まれてきているということはそこに親がいて子がいて他の生き物を食べて土に帰ります。人間とまったく同じようにそこにはいのちのめぐりと暮らしが存在します。

そしてそのいのちは、厳しい自然の中で深く慈しみ、必死でいのちを育んでいきます。ファーブル昆虫記の中にも、フンコロガシが大切に子育てをしている様子や、他の虫たちがそれぞれにいのちをかけて子孫を残し家族を守る様子などが書かれています。

人間だけが偉そうにして見えなくなったものをファーブルは同じ生き物(いのち)の目線で謙虚に暖かく観ているのです。それに気づけないのは自分都合を優先し虫を虫けらと思い、人間が最上で虫は下等であるという考え方の中に人間の傲慢さが潜んでいるように思います。

ファーブルの虫から学ぶ姿勢の中に、同じ地球の生き物として尊重があります。

同じ生き物としての自分を再認識しつつ、そのいのちが自然に活かされていることを虫の目をとおして思い出し、虫たちの生き方を通していのちの原点に気づき、本来の謙虚さを学び直していきたいと思います。

 

 

モチベーション~気力を育てる~

人間には気力というものがあります。やる気、本気、意気、活気、士気、元気など、心の底から湧き上がってくる気を使って物事に取り組みます。

気力というのは、目的に対してどれくらいの気が出ているかということです。この気魄というものがモチベーションであり、気を用いることで物事は成就しますし本気であるから人は真に成長します。モチベーションは義務感では発生せず、自由意思によって発揮されていくものです。

それに対してモチベーションがなくなることを無気力といいます。つまりやる気が出ないという状態です。自分自身を他人から責任を負わされている状態にしていることが義務感であり、自分から責任を持つ状態が責任感です。

結局人は自分の人生ですから、他人から責任を背負わされるのか、自分から責任を背負うかでまったくその根本にある「気」が変わってきます。本気というものは、自分から責任を持つと決心するから出てくるものです。他人のせいにしながら何かをやっているから心が枯れてきて無気力になっていきます。気力は自分に矢印を向けて、何があっても自己責任であると覚悟を決めるから滾々と本気が湧き上がってくるのです。

ではなぜこんな当たり前のことができなくなってしまうのかということです。

それは私は義務教育にあったのではないかと思います。人は教育のことを云々言いますが、その前についている「義務」についてはあまり重要視していません。そもそも義務で教育するということ自体が、やる気のない人間を育成することであり自由にしていくことで人はやる気を育てていくのです。

自由というのは義務に対する自由という意味ではありません。

人間は誰でも自分の人生を自分で決めることができ、その責任感が備われば自分の人生を歩むことができるのです。それを誰かに決めてもらうばかりで義務感で生きていくと自分の人生を歩んでいる実感が持てなくなります。

これこそが人間の気力を失わせ、人間の本気を消失させていく理由なのです。

本気の人間になるということがモチベーションを持つということです。モチベーションが上がったり下がったりしていると勘違いしますが、ようは自分から背負うと決めているかということに尽きるように思います。なぜなら自分の人生の責任は自分にしかとれないからです。

何かの物事や何かの仕事をするとき、常に決断が必要です。その決断とは何か、それは自己責任にするということなのです。他人のせいではチカラがでなくても、自分のせいとするなら人はチカラが漲ります。

一度きりの人生なのだから、自分の内面に存在する気を育てていくことで心に栄養を与えてぐんぐんと伸びていくことが野生の植生であり、自然界の中で活き活きと懸命に楽しく生きるいのちの智慧です。

気力を育てるには、自分の人生に積極的に責任を持ってもらうことです。そのためにも自分から選択して自分で決めるということの大切さを、義務教育ではなく見守るを通して子ども達に本気の生き方を譲っていきたいと思います。

発酵の智慧~直感と技術~

昨日、発酵場の高菜漬けの高菜の漬け直しをしました。

基本は木樽に丸ごとお任せですが、気になるときに開いてみると塩加減が足りなかったり、漬物石がズレていたりと、毎回、ちょっとずつ色々と改善しなければなりません。発酵場は狭く中腰での作業は大変骨が折れるものですが、漬物を触りながら発酵具合を確かめるのは心安まる手作業です。

今のよく出回る漬物は、化学調味料を使ったり、防腐剤を入れたり、着色したりと発酵する時間をかけずに楽に漬物風として作られることがほとんどです。見た目は本物風にパッケージしていますが、発酵の時間すらかけていないものです。安心で美味しいものよりも、形が良くお金になるものが優先されています。むしろその刷り込みも功をなし、今では安心で美味しいものの定義が本物風の方が本物と逆転してしまいました。

特に人工添加物については悍ましく、ほとんど原料が本物ではないものを用いて加工されます。飲み物、食べ物も白い粉類と水さえあればどんな味でも偽造でき、色の粉と香料さえ足せば目と舌をうまく騙せます。そして残りは腐らないように殺菌、漂白、防腐剤で菌の発生そのものを抑え込みます。

昨日の漬物の中には三年目のものがあります。

一年に数度漬け直しをするだけで熟成したうまみや味わいがあり、漬け直しさえしていれば防腐剤に頼らずに長期に保存することができます。防腐剤で半年の消費期限だとか書かれていますが、漬物は漬け直していればいくらでも腐ることはありません。

発酵とは保存の仕組みですから、防腐剤などは要らないのです。

自然というものは、必ずそのものを分解して土に還すように菌が発生してそのものを食べて消化していくものです。これは菌類に限らず、全ての自然は還元循環しますから発生するのは自然のことです。これを無理やりに抑え込もうという発想自体が無理があり、それが腸内に入ることで腸内の菌類の活動にどのような影響を与えるのかはすぐにわかりそうなものです。

腐敗するための菌を発酵する菌に代わってもらい菌の新しい暮らしの寝床にすることで発酵菌に食べ物を保存してもらうことで自然そのものを邪魔しないで一緒に生きていく共生の智慧なのです。そしてそういう暮らし方のことが熟練の智慧であり、熟練の智慧を持つ職人文化があるというのが本来の私たち日本人の美徳であったとも思います。

手間暇かけて熟成させていくというのは、生き方を通しての実践が必要です。毎回、失敗と改善を繰り返し、面倒でも「カラダで覚える」必要があります。それが本物であり、それが自然だからです。

毎年、漬け具合材料、その時の心境や手入れによって微妙に異なりますから手で触れ香りを確かめ、舌で味わい、場の空気を感じるというように五感をフル稼働して”直感と技術”を磨き学ぶのが本来の自然の姿です。

発酵の智慧は、日々の偽造に刷り込まれそうな私たちに大切なことを思い出させてくれます。道は偽造できませんから発酵は道です、その後に技術があって人は自然が何かを自明自得するのでしょう。

当たり前のことまで分からなくなってしまう人工的な社会の中で、本物の自然に触れることで本来の智慧、「カラダで学ぶ」ことを呼び戻していきたいと思います。発酵を通して昔から変わらずに大切にしてきた直感と技術、熟練して磨くことの真価を子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

 

世界の平安

全ての出来事というの物は、直接的なものと間接的なもので出来上がっているものです。それは直接目に見えるところと、間接的に観えるものが合わさっているともいえます。人は視野狭窄になると、目に見える直接的なところだけで物事を判断してしまうものです。しかし実際の物事は、目に見えないところの間接的な効果によって顕れてくるものです。

こういうことが分かるには、眼だけではなく心眼のようなものも同時に働かせることで気づけるように思います。そしてその訓練は、内省と振り返りによって行うものです。

例えば、過去のことを思い出すとします。その際、あの過去のことが生じたのは一体何が原因であったかということを見出していきます。すると、あの時の出会いがそうだったとか、あの時の行いが繋がっていたとか、あの時が運命の分かれ道だったとか、様々なことを思い出されます。そして今を見つめると、天の助けがあったとか、実践をしてきたからだとか、生き方が変わったからだとか、夢を信じたからだったとか、様々なことを振り返ります。

そうやって内省と振り返りを通して、人は直接的にも間接的にも、生じたご縁に気づきそのすべてを実感することで出来事や物事を全体を観ることができるように思うのです。もしそのように全体を素直に観ることができるのならば人間は方向を見失うことが少なくなるように思います。いや、言い換えれば人類は方向を見失わないのではないかとも思うのです。

今の時代は、間接的なことに対する意識が失われつつあります。振り返りと内省をする時間がないほどに何か急いでいるような気がしてなりません。別にただ早いという意味ではなく、内省し振り返る時間がなくなってきているのです。

目に見えるところばかりを見て生きるのは忙しくなるだけで思いやりを優先できなくなってきます。本来は、多くの間接的な見守りによって現実の世界は生じてきたのだからそこに対する感謝の心があってこそ御蔭様の有難さに気づけるものです。

一度、眼を半分だけ閉じて心の眼を半分だけ開き、同じ目で全体を丸ごと見つめその偉大な御蔭様に気づけるのなら如何に御縁を結べた思いやりで今につながっているかといった人類の初心をも思い出させていけるように思います。

大切な気づきを共有することで、心の平安も得られ世の中の平安も広がります。何を優先して生きていくか、力強く実践を高めていきたいと思います。

 

人類の未来予測

昨日、新潟のカマキリ博士こと酒井與喜夫先生にお会いすることができました。以前、「カマキリは大雪を知っていた」(人間選書)を拝読し感動してずっとお会いしたいと思っていた方です。

お話をお聴きしていると、その範囲は丸ごと自然全体に及び、カマキリだけに限らずあらゆる生き物たちの声を聴いて未来を予測していました。それは単なる天気予報ではなく、人類の未来の予測といってもいいかもしれません。

人類がこれからどう生きていくか、自然災害に対してどう生き残っていくか、本来の私たちが長年何を大切に暮らしてきたかを考えさせられる機会になりました。

昔から私たちは「民間伝承」というものが口伝でたくさん残っています。それは先祖たちが、長年の自然の観察をもとに分析してきた財産とも言えます。それらはすべてマグレではなく、場数によって得られた智慧です。

例えば、本来の農家の農は、自然に精通している農の農です。今の農は、農学を優先しあまり自然の姿からの洞察を重要視しません。本来の職業の本質は、昔は学ではなく道としてすべてそのもの(自然)と対話する中で磨き上げれてきた智慧集類とも言えます。

道から離れて文字や記憶にある学だけを正しいと信じるということ自体が自然を見失っていった原因ではないかと思います。文字や記憶にないものは、そのものが必死に生きているという現実味です。現場というものは、常に真摯であり必死です。生き残るために必死ですから本来の本能が働いています。今のように平和ボケしてなまってしまったセンスではなく、本来のセンスがハタラキあらゆるものを感受感得できたように思います。

そういう目に見えないものを観る力があってこそ、見えるものを素直に観ることができるように思います。世の中は、常に見える世界と見えない世界が合わさって丸ごと動いています。見える世界ばかりを知って、さもそれだけが正しいと思い込めば見えない世界があることを信じなくなります。もしくは見えない世界だけを信じて、見える世界をなおざりにすると見える世界が知らせてくる兆しすら感じられなくなります。

自然を見つめるとき、それは見える世界と見えない世界の両方”丸ごと”で理解していくのが自然そのものの智慧の理解であろうと思います。そしてそれは、自分の手と足、目と耳、全ての感覚を遣って「カラダ」で理解していくものです。「カラダ」は見える見えないに関わらず、全身全霊で必死ですから本来の智慧を感受できるのでしょう。

それが自然の智慧そのものであり、私たちに具わっている生きる力の源流です。

酒井先生の毎年1万キロに及ぶ、数十年の観察を通した生き方から自然の周波数とは何か、本来の未来予測とは何か、そして結びの中にある声聞縁覚とは何かをもう一度見つめ直す有難い機会になりました。様々なことを学ぶには第一に謙虚さが必要で、その謙虚さは常に丸ごとで自然に寄り添うことを肝に命じたいと思います。

自然界の生き物の中でもっとも自然災害に弱いのが人間ですから、その人間がこの先の気候変動の中でどう生きていけばいいか、子ども達にも自分たちの生き方が譲れるようにさらに実践を高めて精進していきたいと思います。

有難うございました。

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

持ち味を活かす~一心同体感~

人はチームを考える際に、信不信というものがあるように思います。

そもそも信じている人の組み合わせと、そもそも疑っている人の組み合わせはそのでき上がった関係もまた異なっているのです。これは縁起でもそうですが、常に善因を結んでいく人は善果が得られ、悪因を結んでいくものは悪因を得ます。好循環も悪循環も、その根本にあるのは自らの心ということです。

この自らの心が信であるならば、一つのご縁でもその人の善いところを発見しその人のもっともすばらしいところを尊敬してご縁を結べます。しかし心が不信であるのなら、その人を疑い、その人のマイナスな一面を見て警戒したりしては縁を結べません。如何に自分が先に信じているかは、その後の関係に影響するのです。

先ほどのチームでいえば、不信というものを大前提に心に抱いていると能力だけを補う組織を目指すものです。つまり能力を使い合うためにいるわけだから、能力が足りないところだけを補い合うことでチームをつくるのです。しかし、信を大前提に心に抱いているチームになると、助け合うために一緒にいるのだから御互いの持ち味を活かしあう関係で仲間をつくるのです。

仕合わせな組み合わせというものは、相乗効果があるものです。それは能力の足し算ではなく、一緒にいる掛け算のようなものです。仕事だからと、それぞれが能力だけ合わせて済まそうとするのではなく、家族や仲間が大変だからとその時々で持ち味を活かし合おうとするのです。

この「持ち味が活かせる」という環境というのは、御互いに信が結べ大きな見守りの安心の中で助け合うことを優先するから居心地がよくなっていきます。心が安心した中で何かができるというのは、それだけ自分のもっているちからをすべて出し切ることができお役に立つことができます。逆に心が不安の中でいると、それだけ自分を出し切ることもできずまたお役に立ちにくくなってしまいます。

自分の心の置き所をどうするか、チームの一員として自分が何を優先するかが問われるのです。善いチームになるには、まず信じることが必要です。その信じるというのは、自分の持ち味を活かしてもらえるという安心感、そして自分も周りの持ち味を活かそうとする一体感が要ります。

一体感が持てるのなら、もうそれは役に立つ関係が築けているということです。自分の中にある心はどれだけ一緒一体感を持っているか、その内省と実践による学び、つまり素直と謙虚こそが自分を全体のために役に立て、働く仕合せを実感するための最大のコツだと私は思います。

人は誰かと一緒にやっているとき、その心は一つになります。

その一心同体感であることが本来の和の精神であり、祖親から譲り受けた唯一無二の徳宝です。この徳宝をどう引き出していくか、そして持ち味を活かすか、子ども達の未来のためにもまだまだ実践を積み深めていきたいと思います。

思いやりの根~自分自身の在り処~

人は自分を大切にできる人が周りの人をも大切にすることができます。

もっとも身近な自分自身との付き合い方のことなどは、あまり考えないのでしょうが実際は自分への接し方が他の人への接し方にもなっています。自分に厳しすぎる人は他人にも厳しくなっていきますし、自分を認めない人は周りの人も認めません。自他というものは鏡のように互いに映り込みますから自分の心がどうなっているかを観てはじめて相手の姿が現れます。

自分自身がどうなっているのかを自覚することは、相手をあるがままに受け容れるためにも必要なことのように思います。

しかし人は相手のことを自分勝手な見方で推測しては間違えているものです。相手を思いやるよりも自我自尊心を無理に守ろうとしては自分からみてどう見えるかや自分がどう見られるかばかりを気にしていて相手の気持ちになって相手の立場で物事を感じるという手間を省いてしまうものです。

思いやりというのは、相手がもしも自分だったらと考えて理解していくことに似ています。だからこそ、自分が思う相手がどうこうではなくもしも相手が自分自身ならと立場を置き換えて考えて慮れば次第に思いやりが通じ合っていくように思います。

その際、自分の心が鏡のように澄んでいるのなら相手の心に通じ合えますがもしも自分の心が感情や先入観で濁っていたら自他が見えなくなるのかもしれません。

自分自身が相手の立場になるのは、相手に共感することができるからです。この共感する力があるというのは、思いやることができるとも言えます。すぐに共感して泣いてしまったり、すぐに共感して感動するのは、その心に「思いやりの根」があるからです。

その根をどう伸ばしていくかは、自分の心を澄まし相手の立場に立って行動し、思いやりの実践を高めていくことのように思います。自分自身との正対の仕方を、その真心の実践と、誠の姿勢を精進していきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。