真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。

試行錯誤~楽しみを湧き出す~

自然農の田んぼではありとあらゆるものを毎年チャレンジしています。作物も毎年同じものを同じ場所でやることもあれば、異なる環境でやってみることもあります。水はけや日当たり、また他の草草や虫たちの繁殖の状況、今年の天候の様子や土のかおりや植え方、育て方など毎回少しずつ試行錯誤しています。そうして試行錯誤した後は、振り返り内省するのです。このやってみては振り返り、観察しては改善できる、この面白さは遊びそのものです。これは別に田んぼや畑だけをやっているのではなく、仕事でも同じように私は試行錯誤と内省をするのでよく周りから”楽しそう”と言われることが多くあります。

しかしその分、試行錯誤をしている最中は他人から誤解されることも多くあります。目標はどこにあるのかや、ポリシーがないのではないかや、ふざけ過ぎではないかなどです。その時は、周りも心配してくれてそのままではダメだと私に修正を求めてきます。もちろんダメなのかもしれないけれど試行錯誤したいのだと説明しては放り投げたりせず必ず実現させるからと伝え時間が解決するのを待っています。

この試行錯誤とは何かということです。

試行錯誤を辞書で調べると(新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。)とあります。しかし私にはもっと本質的な意味が試行錯誤そのものに隠れているように思います。

それは子どもの時の可能性、つまりはアイデアや発明につながっている遊び心や余裕、好奇心を発揮させるものがあるということです。

例えば、仕事でも目標や計画通りに進めようとする人がいます。もちろん、結果と目標があってその通りにいけば自ずから求めたものは手に入ります、つまり正解を求めて正解したのです。しかしそのやり方が果たして面白いかといえば私には面白く感じず敢えて様々なことに挑戦しながら辿りつく方が楽しいと感じるのです。教科書通りに教科書をなぞって出す答えではなく、試行錯誤こそが答えだという信念通りに進む答えです。

実際の人生も同じように、計画通りではないけれどいつも計画以上のことが発生するのは様々なことを試行錯誤しているのを已まないからです。この試行錯誤という考え方は、「この方法もやってみよう、この方法も試してみよう、あの方法ではどうだろう」といつも心が夢中にワクワクドキドキとそのものへの取り組みを心底楽しんでいる状態です。もはや四六時中同じことを考えては、もっとああしてみたらどうか、もっとこうしてみたらどうかと試したいことてんこ盛りです。

実際に先ほどの自然農でも実際は苦労の方が多く、肉体的にも精神的にも過剰なエネルギーを使っています。しかし、それをもし結果のためにただ決められた通りにやるだけならこれは続かないように思います。自然農を楽しめるのは、自然から学び観察をし、それを実践する中で上手くいかないことが多いからこそ面白いのです。

他人からは趣味だから楽しいと言われることがありますがこれは趣味だから楽しいはずはありません。何を取り組むことでさえ、試行錯誤できるから楽しくなっていくのです。つまりは趣味にしてしまうほど試行錯誤をしたのです。特にきつい仕事や大変だと思えるからこそ、自分の好奇心が枯れないように様々なことを試してみてはちょっとずつ変えてみて挑戦しているうちに次第に楽しい心が湧きでてきて趣味になるのです。

試行錯誤というのは、子どもの遊びに似ています。目標ばかりを押し付けられ、計画通りにいくことがもっとも正しいと刷り込まれると「もっとこうしてみよう」という楽しむ発想が消えていくように思います。厳しいプレッシャーの中で、正確無比にやっていこうとし過ぎては楽しくない日々でも無理に納得している人もいます。しかしそれがかえって生産性が落ちてアイデアが失われ、無機質に作業に没頭しているではかえって効率も効果も下がるかもしれません。

同じ遣るのなら、同じやらないといけないことなら、どうせなら思い切って試行錯誤を楽しもうと転換して取り組むことで子どものように遊び心や余裕、試行錯誤を味わえるように思います。

子どもは夢中で遊びこむ中で人生の大切な智慧を自分で会得していきます。人生は常に子どもから学び方を学び直す必要を感じる日々です。そして子どもが憧れる大人とは、子どものそういう試行錯誤を失っていないユニークな大人ではないかと私は思います。

試行錯誤できる有難さを感謝のままに、常に日々新たに楽しみを湧き出す実践をしていきたいと思います。

忘れてはいけない視点

人は物事をどれだけ長い目で観るかで物事の視方が変わっていきます。

自然はとても長いときを生きていて、自分だけの人生などを考えている暇がありません。何万年も何千万年も変化を已まずこの地球で生きることを許されているということを味わい楽しんでいるかのようです。

全ての「いのち」には自立というものがあります。

例えば、親子がいて幼い頃は守られますがある時期からは自分でやることを促され自立していきます。猿であろうが犬であろうが、鳥であろうが親が子に対してある時期を境にそれまで分けていた食べ物を一切分けない姿をみかけます。

ここに一つの気づきがあります。

長い目でみたら親は必ず先に死んでいきます。死んだら子どもは自分で生きていかなければなりません。見た目には親が子を突き放し大変厳しいように見えても実際は深い慈愛から行っているものです。その時に生きて往けず死んでしまう子どもがいて可哀想だと思いますが、長い目でみたらそれを乗り越えていかなければ先々にもっと辛いことが起きることを知っているのです。長い目でみるとそれは甘やかしているのかどうかは一目瞭然です。自然の親子は長い目で観て善くないことは絶対に善くないとして厳慈に透徹するのです。真の愛情というものは、狭い視野た短慮では理解できず長い目で深慮するときにこそ実感するものだと私は思います。彼ら自然の親子の愛情は少しも変わらず「いのち一切の愛」を丸ごと与え続けて悔いはありません。

自然というものは偉大な長い時間を長い目で考えて活動しています。

今の時代の私たちはとかく短い時間の短い目で物事を考えてしまいます。全ての中心に自分を置いてしまえば、視野も狭くなり余計に目先の問題だけに終始してしまうのでしょう。今は生き方の実践というものをあまり優先されなくなったのでしょうが、昔の生き方を守っているインディアンや少数民族たち、古老たちが語る言葉には何代も廻ることを優先させる文化があります。

自然は悠久の時をもっています。

その悠久の時に自分を合わせるとき、長い視野の実践が如何に自然の智慧そのものであることを自覚するのでしょう。情報化社会のスピード重視の変化の中で、長い目でなど死語になりつつありますが本来の視点は「いのち」や「生き方」にあることを子どもたちのためにも私たち大人が忘れてはいけない視点であると思います。

刷り込みに負けない胆力、刷り込みに流されない信念、そういうものを長い目を通して培っていきたいと思います。ここまで「いのち」をつないでくださった方々たちのご縁があって今の私が存在できているという真実は決して忘れてはならないと思います。

子ども達のためにも長い目で見守っていきたいと思います。

 

「とはいえ」のない世界~子どものままに~

先日、ニュースを見ていたらアマゾンではダムが乱立をはじめ、各地の少数民族たちが移住を迫られているということを知りました。世界の奥地には、私たちのような文明が影響を受けていない場所がたくさんあります。人類は多様化し、それぞれの生き方を自らで選びそれぞれに環境と一体になって生き残ってきましたがグローバリゼーションは地球の隅々まで広がっていきます。

経済だけを優先し、今さえよければいいと突き進んでいく姿に未来への深い危惧を感じてなりません。世界は今、覇権もアメリカから中国へと移動をはじめていてまた均衡が崩れて乱れる予感もします。しかし同時に、私たちはどこかで立ち止まりまた深く内省しなければこのままでは取り返しのつかないことになるのではないかとも感じます。

今から23年前に、世界で最初の「地球サミット」がブラジルのリオで開催されました。その時、カナダ出身のセヴァン=カリス・スズキさん(当時12歳)がお小遣いをためてブラジルにやってきてそのサミットで世界に向かって発信したことは今でも「伝説のスピーチ」として語り継がれています。

その中の一文に大人たちに向かって子どもが訴えるとても心に響く文章があります。

「If you don’t know how to fix it, please stop breaking it.」(もうこれ以上、直し方のわからないものを壊し続けるのをどうかやめてください。)

これは大人の人たちへもうこれ以上、自然破壊をやめてくださいという訴えです。原発であれシェールガスであれ石油であれダムであれ、目先の損得に負けて国益があり便利だからと今の大人たち皆がそれをやってしまい長い目で観たら大変なことだと分かっていても直さないならそのツケは全部子ども達へ先送りです。どうかそれに気づき、そういう生き方を改心してくださいと世界へ訴えたのです。

それからもう23年経ちましたが一向にそのようにはならず、謙虚に奥地で何代先のことまで考えて何千年も何万年も生き抜いてきた少数民族たちとその自然文化も破壊していくでは、人類の未来が心配になるばかりです。

またこの少女は続いてスピーチで語り掛けます。

「小学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世の中でどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、争いをしないこと、話しあいで解決すること、他人を尊重すること、ちらかしたら自分でかたずけること、ほかの生き物をむやみに傷つけないこと、分かちあうこと、そして欲ばらないこと。ならばなぜ、あなたがた大人は、私たち子どもに「するな」ということを、自分達はしているのですか?」

これらの中には大人たちがよく用いる「とはいえ」ばかりがあることに気づきます。子ども第一義の中心にある「大人のとはいえを取り除く」というのは、言行不一致の生き方を改善しようとする生き方の事です。子どもを思うなら、自分の実践の先に自分の子どもたちの実践が続いていくことを自覚するべきです。

そして子どものことを真摯に思いやり、人類の未来に確かなものを譲っていくのなら今の自分たちの生き方を見つめなければなりません。それは善か悪ではなく、自分が決心した生き方をそれぞれが実践していくということではないかと私は思います。子ども人権宣言のヤヌシュ・コルチャックもいいます、私たちは「大きくなった子どもなのだ」と、だからこそ大人か子どもかではなく子どものままに子どもを見つめる必要があるのです。

そしてその少女はスピーチの最期にはこう締めくくりました。

「わたしたち子どもの未来のことなんて、みなさんの議題の中にすら入っていないじゃないですか。みなさんは、私たち子どもの未来のことを本当に考えてくれているのですか?私のお父さんは、いつも、「人間の価値は、何を言ったかではなく、何をしたかで決まる」と言っています。でも、私は、あなたがた大人がこの地球に対していることを見て、泣いています。それでも、あなたがた大人はいつも私たち子どもを愛していると言います。本当なのでしょうか?もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを言葉でなく、行動で示してください。」と。

私たち人類は何万年もこの地球で、生きることを許されてきた存在です。人口も80億を超えたといいます、この先、私たちはどのように暮らしていくのか。子ども達はこの先、何を指標に自分たちを生きていくのか。問題ばかりをみては問題を先送りするのを当然にするのではなく、今はもうすでに答えを生きる時代に入っていると思います。

如何に自分の答えを持つか、そして自分の答えに正直に生きるか、時代は人類に最大の試練を与える時期に入ってきたかもしれません。この時代に産まれてきたことを誇りにして志のままに希望を歩んでいきたいと思います。

私たち日本の文化が、必ず世界に役に立つ日が来るはずです。その日まで、真摯に直向きに生き方の原点回帰と改善を続けていきたいと思います。

 

自分を変える~刷り込みを取り払うこと~

人間は動機の目的を常に初心や理念で腹に据え、自ら掃除をするかのように我欲や私心を取り払わずに何かに執らわれてしまうと本質を見失ってしまうものです。そもそも何のためにやっているのかを自分自身が忘れてしまい、自分がこうしたいやああしたいといった執着に囚われてしまえばありのままに視野を広げて素直に物事を観ることができなくなるものです。

以前、小林正観さんの「MUST」くんと、「としこ」さんという話を知ったことがあります。このMUSTくんというのは、「ねばならない」という状況になっている人で、もう一人のとしこさんは「とらわれない・しばられない・こだわらない」の頭文字の略で、「融通無碍」の状況になっていると言います。

このねばならないというものがあればあるほど刷り込みが深くなっているのではないかと私は思うのです。例えば「親子はこうあらねばならない」「会社はこうあらねばならない」「私はこうあらねばならない」「社長はこうあらねばならない」「部下はこうあらねばならない」「世の中はこうあらねばならない」など、これらも全て自分の刷り込みに縛られている元凶でありそれをどう断念し手放すかということが肝心なのです。これらの「ねば」ならない人を総称して冗談でしょうが「ねばねばした人」と呼ぶそうです。

またとしこさん「とらわれない・こだわらない・しばられない」の方は、「それもいいね」「そうなったら嬉しいね」「だったらこうできるね」「転じてみてら面白いかも」というように、視野も広く心も寛く、あっという間に「物の視方」を変えて自分の方を変化することができます。こういう状態を素直というもので、それは単にその人がポリシーがないからそうなっているのではなく、確かな理念や初心を忘れずに揺らぐことがない信念があるから変化を楽しんでいくことができるのです。

私もよく「なんでもいい人」と勘違いされることがありますが、実際は理念や初心、本質には徹底的にこだわります。なぜならそれが全ての動機の理由であり、それがやりたいから自分を変化させていきたいからです。相手を変えようと思えば思うほどに執らわれは深くなりますし面白くなくなってきます。しかし自分の方が変わればいいと、物事の観方を変えてしまえば嬉しい楽しい仕合せと感じることが増えるのです。

しかし人はいくらこれらの理論を頭で理解しても実際にはそれはできないものです。現実は頭で考えたようにはラクにはいかず、常に現実を変えるには「現」場+「実」践という現=実の方を変えなければ信が身につかないものだからです。物事を観方を変えるということであったにせよ、それは実際に自分の方を変える実践を日々に積み重ねて年数を経ていかないとできるようにはなりません。簡単に分かったからと現実が変わるわけではなく、それ相応の実践と体験を経て本質から外れにくくなってくるのです。

だからこそ何よりも「信じること」と「実践すること」が大切なのです。

相手と自分との執着で「こうあらねば、あああらねば」と投げつけ合ってはねばねば粘着して身動き取れない人間関係を続けていても御互いに苦しいだけです。せっかくのご縁なのだからと思い切って一緒に新しいことにチャレンジしようとか、新しい自分に出会えるかもとか、新しい発見があるかもとか心を気楽に笑って取り組むことでねばねばもまた解きほぐされていくように思います。

人間は誰しも剣豪宮本武蔵のように「無の境地へ」とはなかなかいきませんが、しかし本質や理念を少し自分よりも優先し自分の執らわれに気づくようには努力していきたいものです。自分がどうしても行き詰り生きづらいのは我執がこびりついているからでそれを理念の実践によって仲間たちと一緒に一つ一つ取り除いていけばそのうち心もまた楽になっていくように思います。

私たちの仕事は「子ども第一義」、子どもが憧れる生き方を譲ることを優先するのだから今の社会や今までの過去の柵から沁み付いた自分の刷り込みや執らわれを一つ一つ丁寧に向き合い実践により取り除いていきたいと思います。

自分が変わる機会というのは人生では何度でも出会えます。そのつど、感謝の心で変わらせていただける仕合せに出会った御縁を大切にして無二の一期一会を味わっていきたいと思います。

ありがとうございます。

力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。

 

実践の価値

「習慣は第二の天性なり」という言葉があります。これは身についた習慣は、知らぬ間に深く浸み込みいつしか生まれつきの性質のようになるということを言う意味です。

この習慣というものは、その人の考え方の癖であり生き方の癖でもあります。その人がどのような癖を持っているかは、人に言われてみなければなかなか分からないものです。なくて七癖とも言いますが、自分には癖がないといくら思っていても他人からみれば沢山あるというのと同じようにその人だけが気づかない癖を持っているものです。

その癖は時として、その人の人生の癖になりますから同じような失敗を何度も繰り返したり、またはその癖の御蔭様で人生が好転し続けていくというものもあります。例えば、素顔の笑顔が多い人はその分、心と感情と行動のバランスが一致することが多いですから他人から信頼され可愛がられていきます。他にはつい自分勝手なことばかり優先してしまう人はまわりから疎まれてしまいます。自分自身では生まれつきだからと最初から決めつけてしまっていますが、実はその癖は自分の人生の習慣によって形成されているということです。

この習慣を見つめ、習慣を変えることができる人は自分を変えることができる人です。自分を変えたいのに変わらないと周りに矢印を向ける前に、自分の習慣は果たして変わっているのかと自分に矢印を向けることで習慣という癖に向き合っていることになると私は思います。

その習慣を変えるために必要なコツは「実践」することです。

実践とは、一言でいえば「執らわれない」ことです。頭で考えているうちは習慣は変わらず、癖も直すことはできません。自ら考えないで日々に前進するには、そこに考えないで済むような何かを持ち続けることで一つの事に執着しない自分をもつ必要があります。

人は何かを悟ればそれに固執しますし、もしくは何かを思えばそれに執着します。そんなことをしてしまえばまた習慣と癖がこびりついてしまいますから、新たな実践を日々に継続することでそういう執らわれをなくしていこうとするのです。

このブログもそうですが、実践していくことは今に集中することでもあり、また自分の中にある執らわれに気付き、それを改善していくことができるからです。上手くいくとか上手くいかないとかよりも決心したことを実践することが何よりも価値があるように私は思います。

自分自身を変革する心は、こうありたいという理想の自分から来ています。自らの理想に向かって視野を広げ、かけがえのない日々に感謝を置き据えて、させていただけることを深く味わって実践を楽しんでいきたいと思います。

自他一体のフィードバック~おもてなし~

人は相手の立場に立つことで相手のことを深く理解できます。

以前、ホスピタリティについてあるニューヨークで大変有名なレストラン経営者ダニーマイヤーさんの話を聴いたことがあります。

その際に「ホスピタリティを高めるには、相手の『ありがとう』に対して『それはなぜですか?』を集めていけばいいだけです」とありました。お客様へのおもてなしは、相手が嬉しいと思うこと、有難いと思うことを集めていけばいいとありました。

実際は簡単なことですがそれを継続して実践していくには仕組みが要ります。

人間は放っておけばいつも自分本位でばかり物事を考えます。自分の興味関心のみに追われ忙しくしては自己保守に終始してしまうものです。そうやっていつも自分の事ばかり考えて自分の感情でばかり事実を見ていたら、相手の気持ちに共感することを忘れてしまうのでしょう。

ホスピタリティとはいつもどんな時でも相手の心に寄り添っているものです。心を寄り添うことも怠り、自分のやりたいことばかりを周りに押し付け、心を合わせもしない、それを決してコミュニケーションとは呼ばないように思います。対話というのは自分の要求を押し付けるのではなく、どれだけ心を寄せることができたかということです。そして心を寄せるものだけが真の行動と真のアイデアをカタチにしていくことができるように思います。

思いやりや真の優しさというものは、一事でいえば”心を寄せ続けてそれをかたちにしていく”ことであり、それを毎日小さなことを積み重ねることで自他一体の場所に表裏なしの人格が磨かれるようにも思います。自分を心配しすぎて心を寄せないから心を亡くし頭で考えて何かを急にやろうとしても、付け焼刃では付け焼刃の結果しか訪れません。相手を自分そのものになるくらい、相手の心に寄り添うことが相手に安心され信頼される人になっていきます。コミュニケーションの本質は人は相手を通じて自分を見つめ、そして自分の心を見つめて大切にすることで相手の心を見つめ大切にするのです。

相手ばかりをみては矢印を相手に向けるだけになったり、自分だけを見ては自分にだけ矢印を向けるのではなく、相手は自分かもしれない、自分が相手だったかもしれないといつも思いやることではじめて仕事も本物になっていくのでしょう。そういう人がご縁を感じ、御蔭様が観得て、感謝のままでいられるのです。

すぐになんでも自分で一杯にする前に、もっと相手を喜ばせたいや有難うと言われたいと心楽しく身近でできる小さなおもてなしに取り組んでいくことでおもてなしのできる素直な心もまた育っていくのかもしれません。

お客様からのありがとうを自他一体のフィードバックを通して一つ一つカタチにしていきたいと思います。

自尊感情

先日、自尊感情について考える機会がありました。自尊感情とは何か、それは私の言葉では自己認識のことです。自己認識とは、自分がどうしたいのかを自分が素直に理解できるということです。自分自身の気持ちが感情を含めて分かっている、もしくは自分自身であることを肯定できているという状態のことです。

論語にこういう一文があります。

『子曰、人之生也直、罔之生也幸而免』(子曰く、人の生くるや直し。これをしいて生くるや、幸いにして免がるるなり)

意訳ですが人は自分の素直でなければ真に正しく生きることができない。これまで生きてこられたのは運が善かっただけだという意味です。他にも論語の中には、正しいことを理解できるには本当の意味で自分自身を素直に理解できなければ難しいという言葉や、克己心の中で自分を知ることの大切さを何度も語り掛けます。

これは自分自身との付き合いにおいてどれだけ自然体であるか、言い換えれば素直であるかが大切だということです。人は実際は外側で発生する失敗は、ほとんど全ては自分自身になれないことで発生します。つい他人の評価や、自分を何かと比べて評価することで自己認識していますが本当の自分の心に素直になれないから問題がいつまでも解決することがなく繰り返されてしまうのです。

人間には感情というものがあります。

よく感情を押し殺して我慢して感情と自分を分けている人がいます。しかしこれは本当の自分ではありません。自分の感情を含めて自分自身ですから、自分の中にある感情を肯定して自分自身と認識しなければいつまでも他の人との心を結び和合していくことができません。

自分自身との和合ができるということがあって人との和合もまたできるからです。その和合をするには、「心から笑う」ことができたり、「自分自身が納得している」ことであったり、「自分の心を開く」ことができていることだとも思います。

自分自身のことを自分自身がどのように認識しているかは、その人の人生観を決め、その他の人たちの価値観を決めてしまいます。丸ごとの自分を受け容れるとき、人は本当の意味で自分に自信を持つように思います。丸ごとの自分の中に感情があることを受け止めるということは自尊感情を大切にするということです。

自分を我慢して自分を粗末にしてきたら結局は同じように人を我慢させ人を粗末にしてしまう人になってしまいます。「自分はどうしたいのか」という気持ちの方と向き合うことで人は本当の自分自身に出会い自分を大切にすることができるように思います。

自分は天から与えられた存在だからこそ、その自分を大切にすることが天に報いるということかもしれません。自分自身を大切にする真心をもって周りの人たちのことを同じように思いやれるということが素直な自分自身になるということかもしれません。

自分が自分でいられなかった社會のツケは、子どもたちの心に深い影を残してしまいます。社會を変えるということは、これらの刷り込みを取り払い自分自身でいい、あなたのままでいいという環境を醸成していくことです。

自他に無理をしないその人になっていけるよう、自分自身が素直を体現し、その人の刷り込みを取り払えるよう祈りの実践を高めて直向きに真心を盡していきたいと思います。

集団の自立~教えずに助ける~

自立の中には個の自立と集団の自立というものがあるように思います。いくら個を強くしてもそれは個の自立ではなく、本来の個が本当の意味で強くなるには集団の自立が必要だと思うのです。

そもそも自立というものは、一人だけで立つことを言うのではなく集団の中で自分を立てることができるということです。言い換えれば、他の人がいる中で自分を役立てることができるということです。人は一人では生きてはいけません、簡単にいっても最低二人いなければ子孫もできません。社會をつくる動物ですから、人間社會の中で様々なことをカバーし合って生きているのが私たちとも言えます。

しかし子ども時代から振り返ってみると、なんでも一人でできる子どもになるように育てられたような気がします。自分のことは自分でするのが自立だと言われ、できないのは自分のせいだと教え込まれてきました。迷惑をかけるなと言われては、迷惑をかけないで生きるようにと教えられます。

実際の社會に出て観たら迷惑をかけないなどということはありません。人間が一人生きていくのには本当に多くの方々の有難い助けがあってはじめて生きていくことができます。それは活かされているという言い方でもいいのですが、私たちは周囲があってはじめて自分を存在させていくことができます。

自分の存在を肯定できるというのは、周りの存在も肯定できるということです。それは有って当たり前の存在であり、まるで家族のようなものです。存在そのものが何かのお役に立っているという実感です。しかし一たび自分が認められていないと感じてしまうなら、無理をしてでも認めてもらおうと頑張ってしまいまた個ばかりを強くしようとして集団の邪魔になってしまったりします。

集団を強くするというのは、周囲に感謝して周囲を活かすということです。そして同時に自分の得意や持ち味を存分に発揮して周りを援けるということです。教えてばかりで助けず、できない人に無理にさせようとして最後はツケ放すでは集団が強くなることはないと思います。個が強いとか弱いとかを言っているのではなく、個別に一斉に個ばかりを強くしようとして、その人が孤立無援になってしまっては人間社會の生きる力を思うとき、それは本末転倒ではないかと思います。

人はどんなに頑張っても一人でやるには限界があります、だからこそ多くの人たちと一緒に協力をして偉大なことを成し遂げます。人類の生き延びてきた能力をわざわざ捨てるようなことを選択することは遺伝子も望んでいないから苦しいのです。もっと楽しい方を選択し、協力和合してお互いの持ち味で周りをカバーする生き方に換えていくことでその人の個の自立は実現するように思います。

刷り込みが多く今までの習慣を変えるのは大変ですが、よくよく内省を深め新しいあり方のモデルを創造していきたいと思います。