全体意識

人間は自分のことをわかってほしい、認めてほしい、愛してほしいと求める生き物です。もともと自分のことを自分が分かっていないからわかってほしいわけで、認めていないから認めてほしい、愛していないから愛してほしいと願うように思います。

自分というもののことを考えれば考えるほど、自分の心配をすればするほどにその渦の中に巻き込まれるものです。もともと「私」という字は、自分の手の腕を自分の方へと曲げている字でできているといいます。自分の側へと引き寄せようとする姿です。自分の思い通りにしようというのが私利私欲です。人間はみんな誰しも自分勝手ですから如何に自分が利他で生きるかというのは人生の課題であろうと思います。

利他とは、先ほどのことでいえばわかってもらうよりもわかってあげたいと思うこと、認められるよりも認めようとすること、愛されるよりも愛したいと思うようなことです。

言い換えれば自分の方へと引き寄せるのではなく、周囲のことを思いやる方へと与えるということです。自分のことを分かってもらいたいと思いながら相手のことを分かるということは難しいものです。これは風呂に葉を浮かべてこちらに引き寄せようとすると葉が離れていくのに似ています。本来引き寄せたいのなら、向こうへと波を送った方が戻ってくるのです。これが自然です。

自然というものは、与える人が何より与えられ、奪う人は奪われる、周りを活かす人が自分が活かせるというものです。自分を如何に全体のために活かしていくか、それは利他の生き方に転じるということです。

利他とは自分は我慢して人のために尽くすことではありません。みんなの仕合せが自分の仕合せになっていることです。自分の生き方や働き方、その生活のすべてが誰かのお役に立っている状態のことです。それは無理をしているのではなく、自分自身が生きていること、働けることに仕合せを実感している状態です。

京セラの稲盛和夫さんがこういう言葉を遺しています。自分というものを修養していくのに如何に矛盾を包有しつつ前進していくべきかを述べています。とても共感する内容なので紹介します。

『強い思い、情熱は成功をもたらします。しかし、それが私利私欲から生じたものであれば、成功は長続きしないでしょう。

人間にとって何が正しいかということに対して鈍感になり、自分だけが良ければよいという方向へ突き進み始めるようになると、はじめは成功をもたらしてくれたその情熱が、やがては失敗の原因にもなるのです。

理想としては、「私利私欲を捨て、世のため人のために」という形の完全に利他的で純粋な願望を持つことが一番良いことです。

ところが、人間にとって、生きるための私利私欲は自己保存のために不可欠なものなのですから、それを完全に捨て去ることはまず不可能です。

しかし、一方でその利己的な欲望の肥大化を抑制するために、努力することが必要となってくるのです。

‘’せめて、働く目的を「自分のため」から「集団のため」へと変えるべきです。‘’利己から利他へと目的を移すことにより、願望の純粋さが増すことでしょう。』

働き方の目的を、自分のためから全体のためにと転換しきるかどうかが利己から利他へと転じるコツなのでしょう。その全体をどこまで拡げられるかが視野の広さや視野の深さですから怠らないで精進していくことだと思います。それが点を線にして面にするという生き方につながっていきます、つまり「全体の中で活きる」(=ハタラキ)ということです。

頭で考えるようなことでもありませんから、もっと夢を大きくして「偉大」な世界に身を置けるように周囲の人たちの志を応援していきたいと思います。

禮の本質~真の豊かさ~

先日から礼について深めているとインスピレーションがありました。礼とは本来、禮と書きますがその意味に納得したのでそれを書いてみます。

そもそも禮の中にある豊かさについて考えてみると、如何にその豊かさというものの観点の違いがその人に影響を与えているかがわかります。

例えば、もので貧しい人はもので豊かになろうとします。なので常にものを得ては豊かさを感じますから常に自分が持っているかどうかによって豊かさを感じます。逆にものをたくさん持っていても豊かではない人も多い時代ですから、豊かさとはものではないことはわかります。そこには常に手に届かないようなものばかりをいつも望んでいますから次第に不平や不満ばかりを並べては傲慢になりますから余計に豊かさから遠ざかっていきます。

またもう一つ別の観点での豊かさには、持っているか持っていないかという自分にとって損か得かというものではなく真の豊かさというものがあります。それは御蔭様でたくさん見守られていることを感じたり、善いご縁をいただき人生が一期一会に導かれることに感激したり、当たり前ではない日常の些細なことの中に仕合せを味わったり、自分が今あることが如何に有難いことかということに感謝できたりしている中に存在します。それはものではとても買えないものばかりであり、すべては手に届く範囲内にあるものです。

ここから考えてみてもわかりますが、結局はその人の生き方、観点の違いで豊かさというのは変わっているのがわかります。真に豊かな人は、愉しむ力がありますしご恩返しをしていく歓びがあります。

禮というのは、豊かさを示すと書いていますが衣食足りて礼節を知るというものまずその真の豊かさに気づけてはじめて本来の禮が理解できるということかもしれません。

今の社會は物質経済ですから、持っている人と持っていない人で貧富の差はますます開いていきます。本来、日本という国は十分すぎるほど豊かになっているのにも関わらず自殺者は増えて貧困もまた広がっているというおかしなことが起きている国です。それは豊かさの質をはき違えているからであり、それは真の豊かさを重んじる社會ではなくなってきているということなのでしょう。

人は本来、何のために生きるのか、何のために働くのか、そういうことに立脚して見直してみると如何に真の豊かさを求めているのかがわかります。人を尊重すればするほどにその真の豊かさの御蔭様を皆で感謝して共有しながら幸福感を味わうことが大事なのかはすぐに自明します。

真の豊かさとは何か、そして真の貧しさとは何か、そこには観点を変える必要があり、観点が変わることで社會もまた変わっていくのでしょう。わざわざ、一番豊かさを感じられるものを忙しいという理由でつまらなくしたり、もっとも豊かさを得ている一緒に働けることをお座なりするというのでは真の豊かさは遠ざかるばかりです。

何を持っているか持っていないかではなく、何に恵まれ何を与えてくださっているか、感謝する心に豊かさが示されるのが禮の本質なのかもしれません。

禮が廃れている今の時代だからこそ、本物の禮儀を実践していきたいと思います。

四季のめぐり~一生のめぐり~

自然農の大豆を観察していると、また新しい発見がありました。もともとマメ科に限らず、植物には一生のめぐりがあります。四季に合わせて、四季に沿ってその時期に必要な生を全うします。

その生のめぐりにはその生に必要なことを真摯に行っているのです。これは人間でも同じことが起きていますが、植物にもまた同じことが起きています。

例えば、冬から春にかけては「根をはります」、この時期は目立ちませんが地中にしっかりとした根を伸ばしていく時期です。その根が深いほどに、その後の成長が決まってきます。土の上から見ても何も変化がありませんが、土中ではしっかりとはりめぐらせていきます。

春から夏に向けては「葉が生い茂ります」、この時期の葉勢は凄まじく若葉から成長して青々と空に向かって広がっていきます。光や風を存分に浴びて光合成をして栄養分を蓄えながら成長していきます。見た目にもぐんぐん大きく成長していくのがわかり、活動の強さを実感します。

そして夏から秋にかけては「実をつけます」、この時期は葉勢は弱まり虫たちがたくさんその葉を食べていきます。余計なエネルギーは葉に使わず、実をつけるためだけに集中します。たとえ犠牲があるとしてもそれはあきらめて実をつけることだけに特化して他を捨てていきます。もう実をつける時期であることを悟った植物には迷いはありません。葉が食べられ落ちていっても気にもせず実になることを信じています。

最後に秋から冬にかけては「種をのこします」、この時期は種になるためにすべてのいのちをその種に傾けます。枯れていくのは、すべての生をその種に送るためです。生き残ろうとそのまま種も葉も残そうとするのではなく、文字通り全身全霊でその種に全エネルギーを送り込みます。その結果として枯れてしまいますが、それでも種を残すことが生き残ることだと自覚する植物たちは枯れることを厭いません。種になるというのはその生を全うしたということですから、次世代へと望みを託しては種だけになります。

簡単ですが、四季のめぐりにあわせて観察したものを書いてみました。人間もこれに近いものがあるように思います。根をはるために信念を醸成する時期、芽を出しては真摯に活動する時期、実をつけるために自分の犠牲を払い余計なものを捨て去るとき、そして種を残すために望みを託して全うするときという具合です。

その時期その時期、四季のめぐりにあわせて全力で生き切った証として次世代へと受け継がれていくのが生死のめぐり、そして生き方であり観念です。人の一生は真摯に生き切ることではじめて自分の生に出会います。自分探しなどしなくたって、真摯に真心で寸分惜しまず大義のために生きていれば自ずから本当の自分に出会っています。

植物たちも自分というものを持ち合わせませんが、真摯に生き切るとききっとそこに真実の自分の生に出会っているのではないかと私には思えます。自分をどうつくりあげていくのかは、その生き方によるものですが自然の生き物たちはそういう意味では本当に立派に生き抜いています。

身近な自然の生命から学ぶことが本当に沢山ありすぎて、古人たちはきっとここから宇宙のめぐりや自然の循環をも観得ていたのでしょう。悠久の流れや、広大なめぐりを直感できる自分を育てていきたいと思います。

自然の智慧~恩蔭様~

昨日、無事に福岡農園で自然農の御米を収穫することができました。有難いことにたくさんの方々のご支援と見守りの御蔭様をもってこの日が迎えられたことに感無量の気持ちです。

思い返せばもうこの実践を開始してから早4年、東北の震災と原発事故のことがあり、二度とあの当時の気持ちを忘れないようにと決心しはじめた実践です。あの時、人間が地球の一部であるという自覚が消失していくことが如何に悍ましい結果を発生させてしまうのかを自覚したからです。

今思い返せば、自然農をして何をしたかったのかを省みると自然に沿った生き方を自らの背中を通して子どもたちの身近に実感させてあげたかったのかもしれません。

この4年間、特に3年目までは数々の困難の連続でした。病害から虫害、水害、台風などの天災に加え、人間関係の問題などで悔しい思いをたくさんしました。ほぼ無収穫の状態が続くというのは何とも複雑な気持ちでしたが、周りの有難いアドバイスが心に沁みました。

本当に多くの人たちが要所要所で応援と支援を与えていただきました。

ふり返ると最初のアドバイスは、「手前から少しずつ行うこと」、そして「小さくはじめること」、「年々ちょっとずつ増やしていくこと」、「できる範囲からコツコツやること」など積小為大の法則について実践してきました。小さいことには普遍があり、小さいものを為すものは必ず大きなものもできるという智慧を得ました。

次のアドバイスは、「自分の眼と手と真心を使うこと」、「草は根もとから切ること」、「幼少期に負けてしまわないように見守ること」、「目を離さず手を放しいつも観ていること」、「草も虫も一緒に暮らせるようにしてあげること」、「微生物たちの発酵場にすること」などです。ここから、如何に手間暇をかけさせてもらうことを学びました。自然を自分がコントロールするのではなく、自然に心を寄り添いいのちを慈しむように謙虚に実践させていただくと周りから自然に善くなっていくという智慧を得ました。

また次には、「天にお任せして気楽であること」、「どんな時も自然を信じていること」、「人間を信頼して任せること」、「毎日、初心を忘れずに祈りを捧げること」、「頂いたご恩を忘れないで報いること」、「四季のめぐり、そして準備を怠らぬこと」、「生き物たちの安心できる生活環境を守ってあげること」など如何に信じるという祈りに似た精進が自他自然を活かすのかという智慧を学びました。

智慧を思うとき、自分が求める智慧は、自分のためではなく子どもたちや世界のために必要だと思うからです。永続してきた私たちの祖先からの今をつなぎ結ぶのが私たちのお役目ですから心と志はいつも天高い一点のみを観つめています。魂が次第に減退している今の時代に、どうすれば魂がより磨かれるか、王道を歩む人たちを増やしていくのか、それは生き方を変えることで伝えていくことができるように思います。

結局人は、何をしているかではなくどうあるのかということがすべてにおいて中心になっているのでしょう。

私は本当に沢山の方々との出会いに恵まれ、いつもかけがえのないものを頂戴しています。これを皆さんに還元できるようになる日がいつ来るのかはよくわかりません。しかしいただいているものを共有し御恩返しをしたいという気持ちは日々に膨大に増えていきます。

今回の実践でもっとも印象深かった素晴らしい智慧は、「ゆるし」です。ゆるしというのはいつも見守りの中で得られます。今回もこんな私のこともゆるしてくださって自然は一緒に様々な仕合せの時を共有してくださいました。

引き続き学びが続けられることに何より感謝し、尊いいのちの歩みを止めずかんながらの道を歩ませていただきたいと思います。

真の発酵人~地球が喜ぶか~

人間の腸内には今わかっている範囲で100種類以上、100兆以上の膨大な微生物が生息しています。その微生物群の状況は、人間の指紋と同じく一人ひとり同じものはまったくないといいます。つまり、その人の体の状態に合わせてバランスよく微生物が配置されているということです。

この微生物たちが人間を活かしているのは、この微生物が食事をしたものを消化して発酵することで人間のエネルギーに転換されるからです。これは植物の根粒菌と同じく、土の栄養も根っ子の微生物がいなければエネルギーに転換されないように人間の根も同じく腸の微生物が栄養を転換しているのです。その根粒菌が死滅すれば植物が死滅するように、人間の腸内細菌が死滅すれば同じく死滅するのです。

その腸内細菌は、常にバランスを維持しています。健康も不健康も、その人の腸内の微生物の環境によって左右されていきます。よく生活の立て直しは、食の立て直しからといわれる所以もまたその腸内のバランスを立て直すことをいうのです。

先日、ナショナルジオグラフィックのニュース(「Nature」誌オンライン版に9月17日)で興味深い記事がありました。

「「ただより高いものはない」という言葉があるが、最新の研究によると、“カロリーゼロ”食品に使われる人工甘味料にも当てはまるようだ。イスラエルの研究チームは17日、サッカリンなどの人工甘味料は腸内細菌を変化させて血糖値レベルを引き上げる可能性があると発表した。砂糖の代用品である人工甘味料が、避けるべき状況を逆に招いていることになる。」

これは砂糖も人口甘味料も同じく、腸内細菌のバランスが炎症に傾き血糖値を変化させてしまっているということです。結局は添加物というものが腸内に与えている影響がとても大きいということを結論付けます。

今の時代は、日常は意識していませんが今の日本では年間平均4キロの合成添加物を摂取していることになっています。これを10年続ければ当然40キロ、20年では80キロというように自分の体重を超えるほどのものを摂取し続けているのです。

ひとたび合成添加物が入ってくると乳酸菌よりも、その添加物を分解吸収しようと日頃は日和見でいる菌や敢えて炎症を起こすような悪玉菌が活動してエネルギー転換しようとします。そうすると腸内のバランスもまた崩れ、それが人体に影響を及ぼし調子を悪くしてしまうのです。

昔から日本人が大事にしてきた「菌食」というのは、乳酸菌発酵食のことです。菌食をやめれば心身のバランスが崩れると言われるのもその理由からです。昔から大事にしていた味噌汁などの麹、漬物などの乳酸酵母菌、玄米などが持つ玄米発酵などをやめて安易にお菓子やコンビニで買えるようなもので代用するから心身の調和が保てなくなってきているのです。

体というのは心と密接で、病気になれば体だけではなく心にもダメージを受けますから心を健康にするのは体が健康でなければなりません。心身を健康に保つというのは、食生活を改善するということです。そして食生活というのは、言い換えれば生き方ですから生き方を改善するということになります。

眼には見えないところで、私たちは微生物たちのハタラキによってこの体を動かしていくことができます。微生物たちがエネルギーを細胞へと送り届けて体を動かすことができます。細胞の中のミトコンドリアも核がありますから元は微生物だったのではないかと私は思います。

つまりここから導き出される推察では私たちの体はまるで微生物そのものということになります。人間の便1グラムに100~1000億の微生物ですから毎日排泄するということは日々に膨大な微生物が役割を終えて一緒に排泄され続けているのです。そう考えてみても微生物を殺すような抗生物質も、洗剤も薬品も、それがまわりまわって自分たちの体を痛めつけていることを忘れはいけません。

なぜ人工添加物がよくないのか、なぜ抗菌農薬がよくないのか、これは自分たちの体が何でできているのかを自覚すれば自ずから自明すると思います。

微生物たちが喜ぶものを日頃から摂取していくというのは、いつも微生物の御蔭て活かされているという感謝の気持ちを忘れない実践になります。日頃目には見えないけれど、確かな存在に活かされいる、見守られているという謙虚な心があることでまた微生物もお役に立ちたいと真の発酵をしてくださるはずです。

眼には見えないものへの感謝を忘れるとき、人は発酵しなくなるときなのでしょう。腸内の微生物を並べたら地球2周半ほどの長さになるそうです。私たちの中に膨大ないのちを活かしているということは、地球が私たちを活かしているのと似ています。地球が喜ぶ生き方かどうか、これは真の発酵人につながる思想ですが私もそれを体得していきたいと思います。

真の発酵力~醸し出す人~

自然の中の技術の一つに発酵というものがあります。この発酵というものは先祖が自然の中から取り出した技術の一つですが、まさに自然の仕組みを取り出した叡智そのものです。

発酵というのは、発酵と腐敗という言い方をしますが発酵だけが発酵だけではなく腐敗もまた発酵の一つです。どちらも微生物のハタラキですが、真の発酵はそれが全体のお役に立つようになるときに行われているものです。

私の会社でも善いか悪いかとかなく、丸ごとで善い、それを至善と言ってすべてが一円に融合して全体のためにお役に立てることを尊ぶ一円観という生き方があります。それをファシリテーターと呼んでいますが、これも真の発酵と同じです。

人が発酵するとき、それは自然に沿った生き方をしているときです。自然は変化をし続けていますから、謙虚である素直な人は常に自分を自然に沿って「自分がお役をさせていただける有難さ」を噛みしめながら日々に精進していきます。まるで微生物が次々に自分のお役目を全うして醸し出していくように自我欲などを入れずまわりのためにいのちを活かしていきます。

どこか不自然な人は心と体のバランスを崩しています。自分がしていることに文句を言い、自他を責めては日々を味わうことをせずに流されていきます。そうなると変化することを嫌うようになり停滞し、醸していくことができなくなります。

醸し出す人というのは、その人が発酵する生き方をしているときです。これを自然酒の酒蔵で有名な寺田啓佐さんはこう言います。

『発酵している人っていうのは、みんな楽しそうで、素敵なんですね。私が「発酵しているなあ」と思う人の中に、宮沢賢治という、有名な岩手県花巻出身の作家がいます。みなさんもご存知のとおり、「雨ニモ負ケズ」には、「決して怒らず、いつも静かに笑っている。そしてあらゆることに自分を勘定に入れない」という言葉がありますね。つまり「おれが、おれが」じゃないんですね。自分は後回しで、人が先なんです。「苦労したことのない人は、自分を先にしたがる」と自分の師匠もいっていましたけれども、本当にそうだと思います。』(新日本文芸協会)

とあります。

今のような競争社会では、我先に自分のことをまず守るということをして勝ち組とか勝ち残ったとかをさも価値があるかのように勘違いしてしまうのかもしれません。自分のことを考えるよりも、相手のことを思いやったり、自分や相手を責めるよりも、周りのために真心を盡そうとしたりということもまた少なくなってきたのかもしれません。

しかし実際、お役に立てる仕合せというのは、自分が謙虚に素直である時にだけ実感できるものではないでしょうか。そしてそれが「真の発酵」のハタラキであると私は思うのです。

寺田啓佐さんは「うれしき」「たのしき」「ありがたき」を発酵の『神酒ひびき』と呼んで大切にしています。発酵していくと変わっていく、変わっていくと自然に沿った生き方になり以上の3つに近づいていくと仰います。

つまり自分が真に発酵しているかどうかの確認というのは、自分の生き方がどうなっているかということです。自分の生き方がいつも周りに「うれしい」「たのしい」「ありがたい」という意識を与えているか、もしくは「つらい」「くるしい」「めんどくさい」という意識を与えているか、それは自分がどのような日々の自分の生き方を通して発酵場を醸しているかに由るのです。

大事なのは善くしていこうとする「明るく前進」していこうとする気持ち、お役に立とうとする「清々しく前転」していこうとする気持ち、言い換えればどんなことにもヘコタレズに歩んでいける力こそ醸し出す人ということになります。だから腐敗したからと腐っていてはだめで、それをも善いことにしようとすることで真の発酵がハタラクのです。

最後に寺田啓佐さんはこう締めくくります。

「これは宇宙の法則の反映だと思っているんですね。健康のもとであり、幸せになるコツであり、運命をプラスに持っていく、つまりツキをもたらす、そういう秘訣が隠されているものなんです。こんな風に、正しいことよりも、楽しいことをして、自分の信じた大好きな道を歩んでいくのが、発酵に向かう生き方なんです」

どんなことがあってもすべて善いことにしていく力、自然の道。私のいう「かんながらの道」も同じく、禍転じて福となし好循環を創りだしていくという生き方です。発酵も腐敗も全部善いことにしてしまう力こそ元気で明るく楽しく幸せな人としてのいのちの持つ本来の力ということでしょう。

自然に適うと人は生き方が自然になっていきます。余計なことをせず邪魔をしなくなれば融通無碍の愉しい世界が待っているのでしょう。日々に転じて醸して道を歩んでいきたいと思います。

 

善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。

視野とは何か

人は同じ実践をしていても、その実践の徳があります。何のための実践なのかというのは、実践が本質的かどうかということです。

以前、田舎の小さな村に宿泊したときに早朝にお坊さんが鐘を鳴らす音が村中に響いていました。毎朝、同じ時間に起きて毎日、同じように鐘を打ってくださっています。これを村人たちは毎朝聴いてから目覚め一日を過ごします、そして夕方また同じ時間に鐘を聴くのです。これは単に時間を知らせているのではないことはすぐに察することができます。

無事で一日が過ごせて無事に一日が終えることができた、その有難い見守りに感謝しているということです。

しかし、仮にその鐘を打つ人が自分が鐘を打ってやっているんだという気持ちで打っていたらどうでしょうか、ひょっとしたら朝から煩いなと村人は感じるかもしれません。実際はそんなことはないのでしょうが、きっとお坊さんは今日も私が鐘を打たせていただいている、心を澄ませてその感謝報恩をしていきたいと「実践」しているのでしょう。

つまり実践というものは、自分がやっているという傲慢な感覚ではなく、有難く自分がさせていただけるという感謝で行うことが実践の本質なのです。

実践風というものは、どこか実践までも自分だけのものにしてしまいます。本来、実践とは自覚があってのものです。自分の存在が多くの人たちのお役に立っているという自覚、自分の体験はたくさんの方々のためになっているという自覚、つまりは自分は「何ものかによって活かされている」という自覚をもってはじめて実践が正しく行えるように思うのです。

謙虚な心がなければ、素直な心でなければ、周りから活かされているという自覚がありません。周りに迷惑をかけても気にならない人というのは周りを意識することもありません。礼を失し、思いやりに欠け、常に行動が自分中心になってしまいます。

よく考えてみなくてもすぐにわかることに「健康」がありますが、毎日健康で過ごさせてもらえることだって決して当たり前のことではありません。親からいただいた大切な身体、祖先や天から分けていただいた徳で生きていることができています。よくよく「見渡して観直せば」如何に自分が多くのものに恵まれ満たされていることに気づくはずです。それもすべて決して当たり前のことではありません。

そういう気持ちを常に忘れないことが謙虚素直の体現である「正直な実践」につながっていくように私は思います。

自分でいっぱいのときは周りの感謝が観えなくなるのが人間です。だからこそ自分の人生体験は常に誰かの励ましになっている、自分の存在が誰かの支えになっているという「リーダー(主人公)としての自覚」を持つことで視野もまた広がっていくと思います。

視野が狭い人はどこか自分を存分に活かせていないように思います。視野が広い人はいつも真心で自分を活かしていくことができています。仕事でも、仕事をするという意識と、仕事をさせていただけるという意識では、働く愉しさも仕事の歓びもまた変わってくるのでしょう。

どうせ実践するのなら、その実践が御蔭様を感じる自分の真心でたくさんの方々の見守りになるようなものにしたいものです。

最後に先ほどのお坊さんの鐘ですが、きっと村人たちはその毎朝の鐘を一生涯ずっと聴き続けているうちにいつの日か心にその鐘の音が永遠に響き渡るようになるのでしょう。その日常の当たり前という偉大な御蔭様の有難さの徳の実践に感化され村全体が自然に心から感謝できるようになるのでしょう。その陰徳は、いつまでも心に鳴り響き、そのお坊さんが年老いていなくなってまた次の世代の新たなお坊さんになっても実践が続いていく鐘に「自分たちはいつも偉大な存在に見守られている」という自覚を互いに持てるようになっていくのでしょう。

見た目ばかりに捉われ察する力が減退してきた現代だからこそ、人間としてこうありたい、こうでいたいという自分像をしっかりと自覚して精進を積んでいきたいと思います。

正しい評価~実践する意味~

人は自分が人を評価する目がどうなっているのかということをメンテナンスすることがありません。自分自身の生き方から人の生き方が観得ますから、自分自身がどのような生き方をしているかが自他の評価になるのです。

人間には個々に価値観がありますからその人には観えていても他の人には観えないということが往々にしてあるということです。だから本当のことといくら言葉で語っても、その本当のことが分かるようになるにはその人と同じ実践を積み重ねてある一定の境地を体得することではじめて感得できるように思います。

「幸福の原点回帰」(文屋)というイエローハットの鍵山社長と伊那食品の塚越社長の著書の中で興味深い文章が書かれています。

『自分の体や手足を使って実践を重ねることが、いちばんだと思います。自分の体を使って実践によって、私たちは人の労働を正しく評価できるようになります。実践していない人には、他人の労働は自然現象のように見えるらしく、正しい評価ができません。たとえば、社員たちが職場をゴミだらけにして退社した後、深夜に清掃会社の人が来て掃除をします。翌朝、社員たちが出社したときには塵ひとつ落ちていないきれいな職場に戻っています。社員たちには、それがあたりまえの天然現象のように見えてしまうのです。そうした環境のもとで、人間はいとも簡単に傲慢になります。』

これは掃除で例えていますが、掃除だけの実践のことを言っているだけではありません。いくら頭でわかった気になっていくら誰もが説明しても理解しないのは、脳や人間の欲が自我に引き寄せる傲慢の方へ傾いてしまうからです。

正しい評価とは、同じ実践を積んでこそできうるもので実践なくして評価はないと私は思うのです。価値観というのは、その人の生き方といった価値観があるのですから同じ実践を通してはじめて人は評価を謙虚にできるように思います。何の実践をせずに自分の価値観を乗り越えて認めたり信じたり謙虚になることはないでしょう。

色々と会社で新しい実践を始めるときに、実践に対して色々と注文をつけてくることがあります。しかしそれは実践を通して本来学ぶもので先に文句を言うことではありません。実践を通して、もっとこうした方がいいのではないかという提案はこれは正しく評価できているということであり、実践をせずにこうした方がいいという提案はどこか評価が正しさからズレていることが多いのです。つまり正しさというのは、素直であるかということです。やってみなければわからないことを、その深さを体得しなければ理解しえないものをそのまま素直に実践してみるということができるということです。

本来の正しい評価というものは、実践による真実が的を得ているときにお互いが暗黙知の場所で理解し合うものです。それは師弟が察する中で掴み合うように、同志が苦難を伴にする中で握り合うように、確かな絆の中に存在しているように思います。

実践できるというのは、自分を大切なもののために変革しようとする素直さ、そして自分から大切な目的のために学び直そうとする謙虚さが合わさっているのです。

つまりどんなことも実践なくして評価なしということでしょう。シンプルに言えば、物事はやってみなければわからないということです。

実践の影響を与えるには、まず自分から真っ新な心でチャレンジし取り組んでみなければ誰にも何にも説得力もありません。誰かのために自分が実践することは、進んで大義のために自分を捧げる真心に似ています。その人のことを思いやるなら、自分から実践を積んでその人のためになるくらいの真心を持ちたいといつも思います。

個人の能力が高いというのもまた不足のないという意味なのでしょう。不足のない有り余る豊かさと引き換えに大切なものを見失わないでいたいものです。

実践できる有難さを感じつつ、今日も一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

 

実践の重み

今の時代は児童養護や教育や保育など、言葉で仕事が分業し分類されています。省庁も厚労省や文科省で分かれ、そのことから色々な弊害が出ています。ヨーロッパの視察でも、今は省庁が融合し子ども省というように、分かれているものを一つにしていこうとする動きがある中で私たちの国はなかなか変わることができません。

それぞれの利権や今までの絡み合った関係を紐解くのが難しいからかもしれません。しかし現場では、そのことで大変面倒なことになっています。

そもそも物事は分けて考えられないくらい密接につながっています。福祉や教育というものもわかれておらず、教育が改善されなければ福祉も改善されません。その関係は前足と後足のように前後しているもので、歩めばお互いに一歩一歩バランスよく足を出していかなければならないものです。

それを片足だけで進もうとすればすぐにコケてしまうのは自明の理です。しかし実際は、お互いに前足のせいだとか後足のせいだとか文句を言っては前に進まずに停滞するというのが現状のように思います。

もっと全体へ視野を広げ、何のための行うのかということを共有し語り合い全体システムを変更するようなことが必要な時代ではないかと痛感しています。部分ばかりを変えようと固執するのは分類分けられた場所でのみ考えようとするからです。縦割りか横割りかではなく、そのものの本質からそれぞれの分野分類の人たちが集まり全体システムを考えることなのでしょう。

そのためには対話が必要です。ただの対話ではなく、お互いを尊重し認めるといった対話です。しかし今は、お互いがいがみ合いお互いの業界の批判ばかりが目につき本来の大きな目的のためにと協力することがなかなかできないものです。人間はいつの時代も相手と協力する前に自我に負けてしまうのでしょう。自分に打ち克ってでも全体を優先しようとする人たちがいなければ時の流れに準じて変化することができないのです。

かつて坂本竜馬やその周囲のリーダーたちがやったようにもっと大きなもののためにと絵を描ける人物がなかなか出てこなくなったのかもしれません。自分の人生や世代よりも大事なことのためにのみ人は自我を超えられるのかもしれません。しかし時代がそういうものを顕現させるとしたら、今は焦らずにじっくりと時を待ちつつも休まずに自分のできる実践を積み上げていくしかないのではないかと感じています。

世界各地の諺や故事にはどこも「子どもは宝」だといわれ、子どもを大切にする国は永続的に発展繁栄するといわれます。子どもが大切にされるというのは、子どものことを大人たちがしっかりと考えて子どもたちに善き世界を譲っていこうとする思いやりのある社會が実現されているということです。

それは本来は国民国家みんなで真摯に真心で行うことのように思います。仕事でやることでもありません。なぜなら子どもは親からされたことを自分が親になり子どもにするようになるものです。そうやって真似も連鎖していき子どもは育っていきます。だとしたら、どのようなことを親(大人)が子どもにしていくかというのは将来の子どもたちがまた子どもたちへしていくことになるのです。

だからこそどのような生き方をしたか、そして何を譲り遺したかということは未来そのものに直結しているように思います。自分たちが実践する理由は、別に無理にやったりやらされたりとか感情論で語るものではなく、本質的に何のために行うのかを深めているから実践を積み上げていくのです。

一つ一つの実践が如何にどれだけの重みをもつのか、それは真の目的を忘れずに取り組んだものだけが知る志を実現する世界です。今日の実践も、明日の実践も、大河の一滴かもしれませんがそれが集まって大海になることを忘れずに本気の目的のために人生を遣い切っていきたいと心新たにする体験を得ました。

やらない人はすぐに人の批判ばかりをしては実践をしようとはしませんが、そんなことも言っていられないほどに現実は厳しさを増しています。現実を直視し、本当の理想の実現のために今日も大事に実践で世界を改善していきたいと思います。