タイミング~一期一会~

種にも蒔き時、収穫時があるように物事にもタイミングというものがあります。

いくらこちらが都合よく計算していても、天候や周りの雑草、土地や気温など様々な環境、そのもの自体の育成の状況によって異なっています。

本来、タイミングというものはお互いの関係性によって育まれていきます。

つまりは、お互いが準備していなければタイミングもお互いに合わさないということです。

この準備をするというところにお互いの信頼関係という絆があるということです。

たとえば、植物でいえばいつの時期にどのようなことが起きるのか、その時、自分がどうするのかを予め予想しておきます。そうすることで、よく全体を観察し微妙にズレてしまう自分の方のタイミングを微細に調整しつづけることができます。

これは仕事でも同じです、タイミングが合うというのはいつも相手に合わせて自分の予定を調整しているからできることです。これは単に合わせているのではありません。これは積極的に自分の方からその仕事に取り組むのです、言い換えれば準備しているということです。

よく突然ほかの予定が入ったのでという言い訳や、急に出来事があったのでという言い方でタイミングが合わないといわれることがあります。しかし人間、どうしても何とかしたいと思うのならば準備を徹底的に行い、その時のタイミングがズレナイように工夫するのです。

それでも思い通りにならないのが自然ですが、自然に合わせるようになるのならば全体のために自分をもっと使い、それが徹頭徹尾すべて準備であるということを実践することで近づいていくように思います。

準備には、事前準備、今の準備、事後の準備というものがあります。

これは常に準備を怠らないという意味で、いつもタイミングが間違わないように創意工夫して努力しているということです。そしてそれは全体への気配りと配慮、つまりは思いやりを欠かさないということです。

たとえば、もしも生き物の世話をするのならこちらの都合で世話はできないものです。動物でも昆虫でもそうですが、きめ細かくそのもののいのちと接して、心で対話をしていくのです。それは思い込みや決めつけというものを乗り越えて、傾聴、共感、受容、感謝しつつ心を全体に合わせて気持ちを離さないということです。

意識は離れますが、心は思いやることで離れません。
意識は顕在意識ですが、心は潜在意識です。
この潜在意識は心が動かしますから、頭で計算しなくても心は全自動で働くのです。

心を遣うということは、相手のことを自分のことのように感じるということでしょう。これができないからタイミングがなかなか合わなくなるのでしょう。タイミングというのは、「一期一会」のことです。

奇跡のような時を過ごしながら、その時を無駄にしてはいないか。

今しかできないことに生き切っているかは、その人の生き方であり死に方です。生きていても頭で計算ばかりして生きた屍のような時間を無駄にするような人生にならないよう、自己一心の実践を大切にしていきたいと思います。

人間関係

人は世間の常識を当たり前だと思い込みます。そして自分の都合でより当たり前意識というものは刷り込まれていくものです。

会社だからこれをしてもらって当然、夫婦だから当然、上司部下なのだから当然、国民なのだから当然、親子だから当然、親友だから当然、兄弟だから当然と、お金を払っているのだから当然、等々、何でも当然かのように錯覚してしまうのです。

特により親しい間柄になると相互依存しますから余計に当たり前意識というものは根付いてしまうのです。しかしここに自我が優先される大きな落とし穴があるのです。

世間では、外側から観察した「当然」という名の常識があります。たとえば親子なのだからは当然、つまり親は子どもの面倒をみる責任と義務があり、子は親の面倒をみる責任と義務があると世間では常識としています。

しかしこれは当然だから親子なのではなく、実は「当たり前ではない」関係が存在しているのです。お互いにお互いを尊敬し感謝し、そして親子をさせていただける有難さを実感することではじめて親子に為っていくのです。

他にも上司部下でも同じです、これは当たり前ではなくお互いを尊重し尊敬し合い、感謝し助け合うことではじめて上司部下に為っていくのです。その絆を結び、深めて高めることで有難さを実感できるようになり、上司部下であることに感謝できるのです。もしこれを上司なのだから部下の世話をするのは当たり前、また部下の面倒をみるのが当たり前だと、それを常識だとしてみるとします。

すると、すぐに関係が崩れていきますしお互いが自分の都合を相手に押し付けるようになってしまいます。これではどちらかが我慢をしたり無理をしますから限度がきたら関係はまた崩れてしまいます。

畢竟、人間関係は「思いやり」ですから、どちらかの思いやりが足りていないと相手を傷つけてしまったり相手を苦しめてしまったりするのです。

人間関係の思いやりというのは、相手を思いやることで自分自身が如何にその存在に救わているのかを自覚することです。相手がいなければ周囲がいなければ今の自分は存在できていません。また過去の人たちがいなければ今の自分がないのです。

そういう様々な御蔭様の中で私たちは存在を活かされています。つまりは必要とし合っていきているのです。必要とする関係の中に感謝がありますから、大事なことは思いやりを忘れないようにしていくことだと思います。

人間関係を守るというのは、離れていても相手のことをいつも思いやっていることです。自分が大変だからと周りとのつながりを断絶しないことかもしれません。自らが大変な時こそ、周りの人たちへの感謝を忘れないことかもしれません。

私もつい色々と肩の荷が増えていくと自分のことを心配しすぎることがあります。そもそも自他を信じているのですから、自分のことよりも周囲を思いやれる強さと優しさを持ちたいと思います。

「思いやり」とは一つ一つのことに「心を入れる」ことです。

日々の実践に真心を籠めて、形骸化しないように魂と人格を磨いていきたいと思います。

今と人を大切に~一期一会~

人間は誰かを思いやることで礼儀を学びますが、その礼儀は感謝を忘れないということにつながっています。

そもそも親しい仲になるというのは、お互いに分かり合っている関係のことです。お互いの性格を知り、お互いのことを信頼し合うから親しくなっていきます。そしてそういう関係が当たり前になってくると、遠慮がなくなり失礼なことをしてしまいます。

失礼とは、読んで字のごとく礼を失したということで当たり前のことをしなくなっていくのです。思いやりや気遣いが足りず、相手の存在を蔑ろにしてしまいます。これは人にだけ関係することではなく、あって当たり前やこうあるべきであるのは当然だというような思い込みは感謝を忘れている証拠です。

自分が今、生きていることや、自分が助けられていること、自分が健康であることや、自分が必要とされていることなども当たり前のことだと思ってしまえば感謝はなくなっていきます。感謝がなくなってくれば傲慢になりますから、言葉や態度がとても相手を傷つけてしまうのです。

あって当たり前というものはない、それは人生は一期一会であるからです。

この今はもう二度と戻ってきませんし、このご縁は二度と同じようにはなりません。いつまでも続くことはないからこそ、何よりも大事にしようとする生き方が必要なのでしょう。今の時代は、お金を中心にしたつながりや、肩書きを中心にしたつながりが優先され、形式的な関係の中で常識を優先しようとしてしまいます。

取引先という言葉であったり、上司部下であったり、雇用関係であっても何かそこに当たり前といった常識から物事を決めつけて人に接するような風潮もあります。しかし本来のご縁は一期一会ですから、そこに常に「礼儀」があるということなのです。

礼儀とは、相手を思いやり、当たり前ではないことに感謝していることで実践されるのでしょう。私はまだまだで、自分のことばかりを考えては親しい人への言葉も丁寧にはなりません。天が自分に与えてくださっているのは天が真摯に苦悩するこんな自分の姿を憐れんで使わしていただいた大切なご縁です。

人生を振り返ってみても、いつも大事な局面で応援し励まし、一人ではない、いつも見守っていますよといってご縁をくださっているように思います。それはまるで父母の恩徳のように、有難いものだったように思います。

親しい仲とは、親と仲の字で構成されます。これは親しいというのは、親との関係のようなものということです。いついかなる時も見守ってくださっていることを自分自身が忘れないことが「親しき仲にも礼儀あり」ということなのかもしれません。

見守られることは当たり前ではないということを自覚し、自分も見守らせていただけることも当たり前にしないと覚悟することが礼儀を重んじることかもしれません。二度とない出会いをしているのが人生ですから、今と人を大切にしていきたいと思います。

愉快な仲間

昨日、久しぶりに共に苦労を分かち合った園長先生と一緒に会食をすることができました。

今では別の組織へ移動し、改革の担い手として新しい道を切り開こうとしていらっしゃいます。

歩んだ道が確かだったかどうかは時間が経つことで観えてきます。共に何を信じて実践してきたか、そして何を信じて生きてきたかが道跡として遺っているからです。思い出話に花が咲きましたが仕合せだった出来事にすべて美化されていきました。今の仕合せに出会うということが本当の幸福なのかもしれません。

善いご縁をいただけるということは運命であるようにも思います。人は自分が生きようとする生き方で仲間を集めてご縁が広がります。生き方が運命を決め、運命が人生を決めていきます。誰と出会うか、そしてどう生きるのかはその人のものですから学問の有難さ、仲間のお蔭さまに涙がでます。

私は最初に創った理念ブックのはじめのページに次の論語を書きました。

「子曰わく、与に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。」

道中では色々な方々とのご縁がありますが、その一つ一つの出会いが深い意味があります。みんな道は一人で歩みます、しかし道中は語り合うこと、支え合うことができるのです。それが人生の美しさなのかもしれません。

その方が何より素晴らしいことは「愉しむ」ことを忘れないことです。思い返せばお会いしたときから、苦しいことがあっても愉しむ方でした。そして神仏の御加護だと謙虚に真摯に学ぶ方でした。今でも本当に理想を志して大変な中で奮闘しているのではないかと察しましたが愚痴ひとつ溢さずに「知らないことが沢山で毎日が愉しい」と快活に語られる姿に歩みかたの醍醐味と覚悟の仕方を教えていただきました。

「おもしろきことなきこの世をおもしろく」という高杉晋作の言葉は、ひょっとすると全ての人生の責任は自分のものなのだから自分の人生を愉しむのだという志を立てよと仲間を激励しているのかもしれないと実感しました。

ご縁は本当に不思議で日々に辿っていけば、目の前にいる人も目の前にいない人もそこでは確かな糸と絆で結び合っていますから出会いは何よりの学びです。

そして出会いを実感するとき、同時に誠に有難きは生きているということです。

生きてさえいれば、いのちさえあれば愉しみも希望もそこに全部丸ごと存在します。

昨日の気づきから自分は愉しみをまだまだ存分に伸ばしていけると実感しました。仲間や同志、先達が愉快な背中でそれを語り掛けてきます。あんまり真面目に頑張りすぎて悩まないこともまた道の福処世術なのかもしれませんね。

生きているこのいのち、どのような華を咲かせるかは人生の終焉の愉しみですから唯一の自らの天与の道を明るく素直に小唄でも口ずさみながら朗らかに歩んでいきたいと思います。

また一緒に道中を愉快な仲間たちと味わい語り合える日が楽しみになりました。
有難うございました。

バカになる生き方~神家人~

吉田松陰の松下村塾に高杉晋作がいます。

学問を同じくし、志を高めて生涯を貫いた同志として松陰亡き後燦然とその性を時代に発揮します。行動力と勇気と責任感がある人物であるのはその人の生き方からも実感できるものが多く、その遺した言葉からは魂の情熱を感じます。

人は志を立てるなら狂人となることを恐れないというのは、他人から愚かだといわれようが為すべきことを為すということに求道者としての使命を実感します。この愚か者でありつつ求めよというのはあのアップルのスティーブジョブズの学生へ向けたスピーチの中で残した「Stay hungry, Stay foolish.」と同じ言葉です。

高杉晋作はそれをこう言います。

「少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。」

愚者と思われる人になっているというのは、一途であるということです。自分の真の使命のために一心不乱、わき目も振らずに突き進む集中力がなければ物事は大成することはありません。私も直感を信じる人間ですから、色々な雑念をかき分けながらも真心を尽くそう、誤解されても遣りきろうと発奮してはふざけた自分を味わっています。

「天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。」

これも私の生き方と同じです。

思いを形にしていくというのは、その志を磨くということです。そしてその志は実践と実行してのみ心が働くのです。その例として下記のような言葉もあります。

「心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。」

「戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい。」

戦う前に負けるというのは、戦わないから負けるということです。戦って負けるのではなく、戦わないのも負けなのだということを言い切るのです。そして思っていることを口に出せるというのは、心が行動に直結しているということです。まずはやってみるのだという、草莽崛起する志を自らが示すことを忘れないのです。

心は思っているだけでは成長せず、実地行動してこそはじめて育つものですから自らが勇猛果敢に取り組むところにこそ息づくのでしょう。

「シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ。そのためには、奴隷になっても、下僕になっても構わない。」

ここからも自分の保身ではなく、「何のために」ということを決して忘れない生き方があります。保身とは何のために行うのかを忘れるときにこそ行う自己満足のようなものです。そんなことでは世界を変える前に自分を変えることすらできなくなるのです。

人間の人生は短く、やるかやらないかは自分次第ですからできるできないを物差しにするのではなく何のために生きるのかを物差しにすることが志なのでしょう。大事な局面で自分のことや相手のことばかりを考えるのではなく、全体の仕合せ、世の中の幸福のためにどう生きるのかを覚悟することが志士の心得なのかもしれません。

歪んだ正義を振りかざす前に、本来の大義に生きた人たちのことを思い、その人たちに恥じないように自分を見つめることが初志を定めることなのかもしれません。

高杉晋作は維新の原動力の一人だと思いますが、「おもしろきことのなきこの世をおもしろく」生きたかったのだと思います。その愚かな一言を参考に、真面目も糞真面目も乗り越えてふざけきって歌舞いていきたいと思います。本質で観たらすぐに自明することですが本当に自分が真面目だというのなら、真面目風をさっさとやめてしまった方がまだ真面目なのです。

「これよりは神家男児の腕前お目に懸け申すべく」

それが神家で生きる神家人らしさと背中を育てていきたいと思います。

世間からいくらバカだと言われようが、おかしなことを考えると思われようが、自分には全くそれは志には関係がないことです。

私が子どもだったなら、いつも子ども心に憧れるようなかっこいい大人の生き方を最期の最期まで時処位を見逃さず生き切っていきたいと思います。

真心の醸成(志道と志事)

吉田松陰の志というものは、多くの志士の心を動かしました。

そこには志というものが何か、そしてそれは何をもって志が育っているのかということを自らの背中を通して塾生に語り掛けました。周囲からは狂人と呼ばれ、危険人物として疎まれました。

本来、志高く歩む人を理解するというのは周りからみれば変人の類なのかもしれません。一般的な姿と考え方も異なり、見た目も異なり、素行も異なるのは、常識の枠に囚われることがないからです。

吉田松陰もその時代には常識的に理解されず、それでもそれを貫きました。たとえば、友との約束のために脱藩をします、今では外国に亡命するくらいのことです。そのあと黒船に乗ろうとします、これは宇宙船に乗るようなものです。そして安政の大獄の真っただ中、仮保釈中に老中暗殺のために武器を藩に願い出ます、これなどは仮出所中に銃や武器を国家や裁判所に貰いたいと嘆願するようなものです。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という言葉も遺ります。塾生たちに遺した言葉には「諸君、狂いたまえ」などという言葉も残っています。これなどは、「もっとおかしくなりなさい、遣り切りなさい」と他人と異なってもいいからもっと変人になることを奨めているのです。

なぜこうすればこうなるとわかっていながらもこれをやり遂げたのか、そこには本人にしかわからないものがあったのだろうと私は思います。

吉田松陰の立志という生き方はまずこれらの言葉に見られます。

「志を立てて、以って万事の源となす」「志定まれば、気盛んなり。」

すべては志からはじまり、そして志におわるという意味でしょう。そして志は覚悟が決まれば、気が満ち溢れ燃えているはずだというのです。

そして孟子の下記の言葉を引用して「講孟余話」という授業の中で弟子たちに発奮激励を語ります。

「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」

意訳ですが(志士ならば道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟し、真の勇士は志のためならばいつ首をとられてもよいと覚悟を決めているのだ)という意味です。

そしてここにはこう続きます。「書を読むの要は、是れ等の語に於て反復熟思すべし 」と。

志士が本を読む意味は、これは孟子のいうところを繰り返し繰り返し読み直しその書いている本人の真心に透徹するまで思うことであると。読むというのは単に字を読めばいいのではなく、志で道を切り開く同志を思いそれに志心を奮い立たせていくということでしょう。

吉田松陰の志道というものは、決して仕事ではなく志事であったのです。

言い換えれば、人生を懸けて志を貫こうとし、それを塾生たちが感じ取ったのです。吉田松陰は出来合いの指導などを行っていたのではないのです。では塾で何を行ったのか、それは志道と志事を実践していたのです。

その塾生の一人、高杉晋作はこう言残します。

「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大ばか者なり」

そしてもう一人、高杉と合わせて塾生の双璧と呼ばれた久坂玄瑞の言葉で締めくくります。

「私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない」

私の志も、あの天高く広がる宇宙のほかに知る人はいないという心境です。別に誰に分かってもらう必要もないし、誰に知ってもらう必要はない、ただ自分の志道を貫くだけというのがこの志の道の目指すところなのでしょう。

色々な出会いがあり今がありますが、易経の「潜龍用いるなかれ」、その信念を日々に棲む水面に憂いつつもその真心を醸成し、確固不抜の志を高めていきたいと思います。

立志という生き方

人にはそれぞれに生き方というものがあります、同時に働き方というものもあります。私たちは生き方と働き方を一致するということを目指していますが、これは志を育てるためです。

そもそも志というものは、最初から誰でも持っているわけではりません。生き方を定め、言行一致させていく中ではじめて志は育っていきます。そしてその志は、様々な現実の中の紆余曲折、艱難辛苦の中で、それでも自分は生き方を貫けたかどうか、言い換えれば道を切り開き脚下の実践を遣り切ることができたのかという内省により醸成されていくものです。

志を持つのも育てるのもその人次第です。

途中でそれを已めてしまえば、世の中の安逸の中であっという間に自分の生を終えてしまいます。人の人生はとても短く、志を育てていかなければ気がつけば何をやっていたのかと悔いてしまうことにもなりかねません。自分の生き方と向き合うのは自分にしかできませんから、それに生き方には嘘がありませんし他人のせいにもできませんから志とはもっとも身近で自分のことを信頼する伴侶そのものになっていきます。

吉田松陰は、塾生との手紙のやり取りの中でその志が育つような数々の叱咤激励を送っています。

たとえば、塾生の山田顕義へは「立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。 身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。 百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ。 」と記します。

これは私の意訳ですから意味が違ってくるかもしれませんが敢えて訳すと、「志を立てるのならば他人と異なることを恐れてはいけない、世俗のことや常識の中でそれを実践するのはとても難しいことだ。しかし世間の常識に囚われれば自分の身の保身ばかりを思い煩い、目先の安楽安逸に流されるばかりになるのです。百年という月日は一瞬に過ぎないのですから、君子は決して現状に甘んじるんではなく志に生きるのですよ。」と。

これは山田顕義が15歳の元服(成人式)の時に、吉田松陰が扇に書いて送ったものですが何を優先してあなたは生きるべきかとその初心を塾生に自らの生き様で与えています。

そしてさらに感動的で印象に残る叱咤激励に塾生の高杉晋作に送った手紙があります。
そこにはこうあります。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。」

これはそのままに味わってほしいものです。吉田松陰と高杉晋作が如何に志で絆を結び、共に不二の道を切り開いていたのかが分かり感動します。死を前にしての、生を語り、その生き方を示しています。

そして志を立てることを最期に述べます。

「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

これは私の人生観からの意訳ですが、「もし死んだとしても志がそれで立てられるのならいつでも死んでもいい。しかし生きて志が立てられるのなら生きることだ。常に志を求め言うのなら、常に自らの生死のことなどは度外視して志は語るものだ。」

「立志」という生き方。

これを実現したのが松下村塾なのでしょう。

孟子はこう言い遺します。

「自ら反りみて縮くんば、千万人といへども、吾往かん」

そして孔子はこう言い遺します。

「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」

引き続き、君子の道とは何かを自問自答しつつ覚悟を育てていきたいと思います。

 

自律と礼

ここ数日で自由のことを深めてきましたが、自由と同時に用いられる自律について自分なりに整理してみようと思います。

この自律というものは何かといえば、自由の中で自らが道徳的に人格を高め自ずから周囲への思いやりで行動することができることをいいます。これは他人に対する礼儀作法の礼のことです。

なんでも自由となれば、当然そこに法律というルールがあります。これは法によって律するという意味ですが、周りに迷惑をかけないようにこれが正しいというルールを社會によって定めます。たとえば、赤信号は渡らないのは法律によって従う義務があり、それを破るものは罰するという具合です。

しかしそのような法律は、いくらでも無限につくり設定することができますからもしもすべてを法律で縛ろうとすればするほどにこの世の中は暮らしにくくなっていくのです。今の時代は、見ての通りありとあらゆるところに変な法律が蔓延っています。道路交通法などというものも、何もここまでしなくてもというくらいきめ細かく出来上がっています。

危険をすれば法律で縛り、それを破れば罰するとしても本来の自覚が罰によっては芽生えないのだからイタチごっこは続くだけです。しかし人間自身の自律を育てていこうとしないのならば、永遠に法律でばかりで解決を検討しないといけません。法律さえ守っていればあとは全部自由だなどという考え方になってしまえば、さらに事態は悪化していくのは火をみるよりも明らかです。

だからこそ人間には自律というものがあります。

これは自ら自由の中で、如何に人格を高め一流人としての礼儀を弁える人物になるか、それを目指していこうというものです。江戸時代に流行した小笠原流礼法も、本来は武士の礼法だったものが庶民の中に反映され江戸しぐさなどという文化にまで発展しました。

お互いを自ら思いやり、行動していこう。その所作から作法から自らを律していこうとする、社會の中で他や仲間に迷惑をかけないということを尊ぶように自らが律していたのです。

よりよい社會というものには、あまり厳しい法律も罰則もありません。本来、治世が行き届き平和で安心な穏やかな社會は、お互いにつねにお互いを見守り合い、助け合い、譲り合い、協力し合い、相互扶助とつながりに満ちた幸福の和の社會です。

それは一人一人が自らを育て、人格を高めていく中で実現するように思います。

自律というものは主体的でなければできません。それは自らが自らでで周りのことを思いやり、愛に溢れた社會をどのように築いていくか、そういう人と人がつながりや絆、ご縁に感謝し感動し感激する社會をどのように育てていくかということであろうとも思うのです。

自分から自分を律するというのは、礼の心を学ぶということでしょう。

孔子は論語で礼をこう語ります、

「己に克ちて、礼に復るを、仁となす。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。」と。

かなりの意訳かもしれませんが、「自分自身の我儘を堪えて、自分を律し相手のことを思いやることで幸福な社會はできあがってくる。もしも一日自分に打ち克って誰かのために自律できるのなら、世の中は必ず思いやりに満ちるようになる。愛のある社會をつくるのかどうかは、あなた自身、そうあなた次第なのです。」

自由の中にある自律というものは、自分が社會の大切な一員だということを忘れないということです。その自分が法律だけにしたがったり、きまりは守っているのだからと自分勝手にふるまえばその陰に必ずその我儘を押し付けている誰かがいるのです。その我儘がさらに厳しい法律をつくり、そしてその我儘が社會から愛を奪うことにつながっていきつながりも絆も断裂させていくのです。

自分が愛されているという実感を持てる社會というものは、自律によって出来上がってくるように私は思います。そしてそれは自由の中でこそ真に試されるのです。自由だからこそ、如何に我儘を乗り越えて誰かのために自分を使っていくことができるのか。

人間はそういう時にこそ、道徳心が伸びていくのだと思います。自律を支えるというのは、自分を変えるということなのかもしれません。平和な社會の責任者が自分ということを忘れずに、礼と法を学びなおしていきたいと思います。

自由と責任

自由の関する責任についてもう少しだけ掘り下げてみます。

責任というものはそもそも人間を信頼しないというマネージメント下では押し付けられたり与えられたりするものです。世の中では、責任というものは取らされるという考え方をもっている人も多くいます。一人で多くを抱え込み、一人で全部の負担を負うようなことをするのもこの責任というものの認識がかかわっています。

しかしもし責任をそもそも人間を信頼するというマネージメント下で動いているとしたらそれは認められている証拠をしての責任感が育ちます。これは自分も組織の中で自立した一人として認められているのだからその役割や責任を果たしたいという具合です。周りが認めてくれているというのは、仲間のために協力したいと実感するということです。

信頼するというのは認めているということですが、自分が認められていると実感すればするほどに周りの人たちのために貢献したいと思うようになるのです。

これが集団というものです。そしてこの集団というものにも、そこにはどのような集団になっているかという理念によって集団での働き方も異なっているのです。

本来は集団というものは、お互いが認め合うところで集まって何かを為す組織です。そこがもし目的だけを重んじ、人間は卑下して効率や生産性のみを追求する組織になれば人は入れ替えがきくパーツのようになってしまいます。そうなると人は、信頼で関係を結べず誰かによって管理されることで集団を形成しようとします。そうなると個々がバラバラにならないようにすることがもっとも重要なマネージメントになるのです。

しかしもし集団が人間を尊重しつつ目的を達成するとなれば、非生産性な時間や非効率であってもそれが幸福につながるのならばと対話を大切にする組織になるのなら人間はますます周囲を信頼しその集団を大切にしようとするのです。

そうなれば管理するのではなく、見守り合い助け合い協力し合うといった組織になるのです。これは得意なところを活かしあいみんなで一緒に乗り越えていこうといった総力を合わせたマネージメントになります。

畢竟、責任というものはその人間がどれだけ自分を周囲へ貢献していこうとしているか、その社會の中で自分から周りのためにと協力をしていくかということに尽きるように思います。それは感謝が根っこにあるからこそ自分からもっと任せてもらえるようなことを実現したいと願うのです。

より善い社會貢献をしていこうと願う心に責任が一緒にあるのだから、責任を学び続けるためには常に認め合い助け合う風土を醸成していくことが何よりではないかと思います。自由というものは、信じるということです。

信じることが自由なのだから、信じられているからこそ自由を実感し、その自由を得ているからこそ自立しようと願う。そして自立できていると実感したとき、自分自身の責任に出会うのでしょう。

責任があるところには自由があり、自由があるところには自立があり、自立があるところには信頼があり、信頼があるところには感謝があるのです。

人間尊重の大切さというのは、お互いを同じ人間として大切にしていこうとする思いやりや真心があります。どのようなマネージメントを用いるかは、そのリーダーの考え方でしょうが人材を流用するだけか、それとも人材を育成するか、短期的にみるか長期的にみるかはその人次第です。

子どもたちの未来のことを思えばどちらを選べばいいのかはすぐに理解できます。保育や教育に関わる会社だからこそ常に責任を正しく理解できるように精進していきたいと思います。

自由という教育の本義

自由について掘り下げてみましたが、畢竟、自由は「責任」というものの自覚にたどり着くように思います。

そもそも自分自身の人生の責任を自分で持つということは当たり前のことですがもっとも難しいことと思います。責任というものの自覚も、感謝の自覚と同じく安易に知識で習得できるものではありません。

様々な人生の中での有難い体験を通して、一つ一つを実地で学び、その学びが何だったのかと慎み内省し、それを噛締め玩味し、消化し、排出してこそはじめて自分のものとして体得会得できるものです。

いくら頭で分かったからといってもそれが実地実践で体得会得したものではないのなら現実の世界ではそれはまったく役に立つことはありません。実践で役立つ真の知恵というものは、須らく自らが行動と実践により経験し掴み取った成果であり、何もしないで文字だけを読んでいても行動や実践の量が不足すれば単に分かった気になるのです。人生には訓練が必要ですがそれはめんどくさがらず謙虚な気持ちで全部徹頭徹尾体験するという向上心と志です。

そしてこの「責任」というものを学ぶためには、「自由」な環境が必要です。

人間は、自分の人生に責任を持つには他人のせいにはしないということを学び取らなければなりません。他人のせいになっている人生の責任は、所詮他人の仕業であり他人の責任であり、自分のことにはなっていません。それは自分自身の人生ではありません。

仕事でも同じく、自分の仕事だと思っていないというのは責任をはき違えているということです。これは自分のやること、これは自分のことではないという考え方はとても縛られた狭い視野での考え方です。本来は、丸ごとすべてが自分の仕事と思えているか、丸ごとすべてが自分の責任と実感しているかというのが正しい自覚というものです。

もっと簡単に言えば、自分の身に起きるすべての出来事は周りと一緒に動いている。世界は自分を含む世界であり、その世界にどう生きるかで世界は変わっていくという意識というものです。自分一人くらいは別に何もしなくてもいいではないかという意識では決してないという意味です。

たとえば、自由の環境下に人間が置かれてみますと自分勝手なことをやろうが何もしないがその人次第です。しかし、世界によく目を開き、自分が世界に存在する価値を自覚し、自分を存在させてくださっている皆様とのつながりを実感するとき、はじめて「自分の人生の責任」を自らが持たねばならないことに気づくのです。

そしてその自分一人の尊い人生を正しく歩まなければならないと直感したとき、はじめて責任を持つのは自分ではないか、責任を育てていくのは自分自身ではないかと常に教えが其処で入るのです。

これは責任は育てていくものだという考え方が大前提ですが、これは関係性の中で育っていく産物です。社會に出て社會人としての自覚を持つというのは「責任」というものを自覚するということに尽きるのです。社會に出てまでいつまでも学生ではないとよく新人が叱られるのはこの社會性の中にある自らの存在の責任の自覚が伴っていないと言われているのです。

そしてその責任とは、他人から与えられる責任ではなく、自らが自覚する責任感、つまりは責任感とは社會の中で自分が存在することに対する正しい自覚、自分の人生の責任を果たすということです。

自分の人生の責任を果たすというのは、自分にしかできないことで世の中に貢献するということです。シンプルに言えば、「つながっているのだから毎日出し惜しみせずに全身全霊で精いっぱい自分を出し切り役割と全うする」ということです。

そうやってはじめて自分の人生の責任は、自由な環境によって醸成されるものです。

自由という信に満ちた環境があってはじめての個々の自立と自律なのです。本来のリーダーが自由に生きるモデルを示すのに「自由にしていい責任は自分が取る」というのは、奥深いことで自他が自立することをそのリーダーは自らで信じているのです。

信じるという実践を形を変えてリーダーが示すもの、それが自由なのです。

信の顕現である感謝の心のように、この責任の心というものもいのちの幸福を目指すものです。自由な環境下で仲間たちと一緒に自分の責任を果たせる人というのは、見守り合う中で信じ合った絆を優先するために自分を律し自立できた人です。

畢竟、自分の人生を信じられる人だけが自分の人生の責任を持てる人なのです。

自由をテーマに、人間形成と人材育成の教育の本質を引き続き深めてみたいと思います。