自律と礼

ここ数日で自由のことを深めてきましたが、自由と同時に用いられる自律について自分なりに整理してみようと思います。

この自律というものは何かといえば、自由の中で自らが道徳的に人格を高め自ずから周囲への思いやりで行動することができることをいいます。これは他人に対する礼儀作法の礼のことです。

なんでも自由となれば、当然そこに法律というルールがあります。これは法によって律するという意味ですが、周りに迷惑をかけないようにこれが正しいというルールを社會によって定めます。たとえば、赤信号は渡らないのは法律によって従う義務があり、それを破るものは罰するという具合です。

しかしそのような法律は、いくらでも無限につくり設定することができますからもしもすべてを法律で縛ろうとすればするほどにこの世の中は暮らしにくくなっていくのです。今の時代は、見ての通りありとあらゆるところに変な法律が蔓延っています。道路交通法などというものも、何もここまでしなくてもというくらいきめ細かく出来上がっています。

危険をすれば法律で縛り、それを破れば罰するとしても本来の自覚が罰によっては芽生えないのだからイタチごっこは続くだけです。しかし人間自身の自律を育てていこうとしないのならば、永遠に法律でばかりで解決を検討しないといけません。法律さえ守っていればあとは全部自由だなどという考え方になってしまえば、さらに事態は悪化していくのは火をみるよりも明らかです。

だからこそ人間には自律というものがあります。

これは自ら自由の中で、如何に人格を高め一流人としての礼儀を弁える人物になるか、それを目指していこうというものです。江戸時代に流行した小笠原流礼法も、本来は武士の礼法だったものが庶民の中に反映され江戸しぐさなどという文化にまで発展しました。

お互いを自ら思いやり、行動していこう。その所作から作法から自らを律していこうとする、社會の中で他や仲間に迷惑をかけないということを尊ぶように自らが律していたのです。

よりよい社會というものには、あまり厳しい法律も罰則もありません。本来、治世が行き届き平和で安心な穏やかな社會は、お互いにつねにお互いを見守り合い、助け合い、譲り合い、協力し合い、相互扶助とつながりに満ちた幸福の和の社會です。

それは一人一人が自らを育て、人格を高めていく中で実現するように思います。

自律というものは主体的でなければできません。それは自らが自らでで周りのことを思いやり、愛に溢れた社會をどのように築いていくか、そういう人と人がつながりや絆、ご縁に感謝し感動し感激する社會をどのように育てていくかということであろうとも思うのです。

自分から自分を律するというのは、礼の心を学ぶということでしょう。

孔子は論語で礼をこう語ります、

「己に克ちて、礼に復るを、仁となす。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。」と。

かなりの意訳かもしれませんが、「自分自身の我儘を堪えて、自分を律し相手のことを思いやることで幸福な社會はできあがってくる。もしも一日自分に打ち克って誰かのために自律できるのなら、世の中は必ず思いやりに満ちるようになる。愛のある社會をつくるのかどうかは、あなた自身、そうあなた次第なのです。」

自由の中にある自律というものは、自分が社會の大切な一員だということを忘れないということです。その自分が法律だけにしたがったり、きまりは守っているのだからと自分勝手にふるまえばその陰に必ずその我儘を押し付けている誰かがいるのです。その我儘がさらに厳しい法律をつくり、そしてその我儘が社會から愛を奪うことにつながっていきつながりも絆も断裂させていくのです。

自分が愛されているという実感を持てる社會というものは、自律によって出来上がってくるように私は思います。そしてそれは自由の中でこそ真に試されるのです。自由だからこそ、如何に我儘を乗り越えて誰かのために自分を使っていくことができるのか。

人間はそういう時にこそ、道徳心が伸びていくのだと思います。自律を支えるというのは、自分を変えるということなのかもしれません。平和な社會の責任者が自分ということを忘れずに、礼と法を学びなおしていきたいと思います。

  1. コメント

    会社を家族、家庭と思った瞬間から、当事者意識が芽生えます。しかし、知らぬうちに、世の中の概念に引き戻され、雇用の意識になっている瞬間があるのだと思います。いつも一家から考える癖、習慣はこれから少しずつ、実践と共に積み重なっていくと思いますが、まずは目の前の事から自律を深めて行きたいと思います。

  2. コメント

    日々の振り返りとともに先週、先々週も見ていく大事さを感じています。忙しいとつい目の前のことばかりにとらわれ、ちょっと先にことは考えても、ちょっと前のことは次から次へと忘れています。繰り返し振り返り感謝を味わうのは新たな発見です。ここからまた積み重ねていきたいと思います。「●」

  3. コメント

    何を基準にして自らを律していくのかと心に問えば、自分の心の中にある純粋な善の部分だということが分かります。どうあるべきかは既に心は分かっている、それにどれだけ素直に自分が応えることが出来るかどうかが人間力を試されるところなのだと感じます。自らの信を高めるためにも外圧によらず自分の良心に従っていきたいて思います。

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