本当の失敗とは何か

人は失敗をすることで成長していきます。成功か失敗かの二元論で育ってきてしまうと極度に失敗しないでいよう、優等生であろうとするものです。特に失敗をキャリアに傷がついたと思っている人は、結局は何もしようとはしなかった人ということになります。

失敗の御蔭で人は自分の間違いに気づけます。本来は失敗か成功かではなく、その後の方が大切だということです。ある人は失敗してもそこから学び、それを糧に次の挑戦に活かす人がいます。またある人は成功してもそこに奢らずに謙虚に成功が失敗ではなかったかと自分を戒め一つ一つを大切に積み上げていく人もいます。

また反対に、失敗をしなかったり、成功したらそれっきりになったり、それが本当の意味の失敗であることには気づかずにいつまでも変わらない人もいます。変化というものは、学び続ける姿勢であることでありそれは失敗か成功かに一喜一憂するようなことではないのです。

新しいことに挑戦するのは確かに不安ですし時折怪我をするものです。しかし何度か繰り返しているうちに「コツ」が次第に掴めてくるものです。それと同時に、自分の何が間違ったのかという自分自身にある癖に気づけるのです。例えば、事前準備をいい加減に済ませてあとからそれを修正するのに時間がかかる癖があるとか、集中力が途切れるとすぐに雑になってしまう癖とか、失敗を通して自分の至らなさに気づけるものです。また同時に失敗から立ち上がることで、自分の中にある信念や奥行きに気づき、自分にはこんなに諦めない癖があったのかと感心したりもします。

つまり人間はみんな、この失敗と成功の体験を通して学ぶのです。学ばないことがもっとも勿体ないことであり、それは失敗も成功もせずに無難に何もしないでいることのようにも思います。

考えて何もしないよりは、実行してみて考える方が学びが深くなりますしその方がワクワクドキドキと心が動き続けます。この逆にある格言に「失敗する人には二種類ある。考えたけれども実践しなかった人と、実践したけど考えなかった人だ」とあります。どちらも失敗なのは、学ばなかったということでしょう。

失敗は何か大きな出来事によって決まるのではなく、日々を学ぼうとしないことによってすり寄ってくるように思います。学ばない日はすでに失敗だとしたら、何もしない何も考えない日こそ失敗であったとも言えます。

成功や失敗の二元論ではない成功とは、日々に学び続ける積極的人生を送るということです。それは失敗を恐れずに挑戦するということです。そして挑戦とは失敗した後にやってくるものですから挑戦し続けるというのは失敗し続けるということです。

最後に本田宗一郎の言葉です。

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そして、その実を結んだ1%の成功が現在の私である。私の現在が成功というのなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。私の仕事は失敗の連続であった。」

「失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。」

失敗の中に真の価値があると、この失敗しないことを畏れようとする心が人を積極的に甦らせ活きらせるように私は思います。子どもたちのためにも失敗から学ぶ姿を示していきたいと思います。

奥深さの感性

先日、ミマモリストのブログに「物事の深さ」に気づくことで未熟さが分かったとありました。人間が今に変化をし続けていくことは、この奥深さを知り続けるのようにも私は思います。

この奥深さについて少し深めてみようと思います。

「奥深い」を辞書でひくと「表から遠い。また、ずっと奥まで続いている。」「意味が深い。簡単には究めがたい。」とあります。言い換えるのなら、分かることがない世界とも言えます。知識では知りようがない場所、到底辿り着けようのない次元のようなものです。例えるのなら宇宙の果てのようなところが奥深いところというのでしょう。

この奥深さは知れば知るほどに自分の未熟さが分かります。この時の未熟さとは、自分が知らなかったことを知り、分かった気になっていたことが分かり、如何に自分は知った気になっていただけだったのかを自覚するのです。それにもう一つは、自然の畏敬を感じるかのように如何に自分がちっぽけな存在であったかということに気づくのです。奥深さに気づけるというのは、謙虚で素直な状態であるということでもあります。

また先に知っていれば不安も恐怖もないのでしょうが、知れば知るほどに好奇心の方は働かなくなってきます。不思議を思ったり、未知を感じようと思う感性は奥深さに近づきたいと思うところから出てくるものです。

学問の醍醐味もまたそこにあり、人は出来事や体験したことを振り返り内省することでその味わったことのない新しい価値に気づき、学び直すことができるように思います。

知りえない、分からないからこそそこに奥深さがある。奥深さとは感性なのです。そして人生の奥行きが深くなるのは、「その体験をどのように感じことができるようになったか」ということだと私は思います。

福に転じるチカラというのは、この奥深さのことを指します。

どんな出来事や物事であっても、それをどのように感じてどのように捉えるかはその奥深さの感性の中にあるものです。私たちの会社の戒訓の一つ、「分かった気にならない」は道を歩むものとしての大切な徳目です。

引き続き、子どもたちの歩んでくる道が未知の面白さ、好奇心に溢れる楽園になるように奥深さの感性を磨き上げていきたいと思います。

 

 

暗闇の色

先日、古民家甦生を実践する聴福庵の板を渋墨で仕上げていきました。この渋墨とは、柿渋(渋柿の未熟な果実を粉砕し圧搾して得られた汁液を発酵、熟成させたもの)と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたものです。古来からある伝統技術であり、防虫・防腐効果のある天然塗料として家屋のあらゆるところに使われてきたものです。

今は耐久性や作業性の良いペンキやラッカーなどの油性・化学塗料の普及で渋墨はほぼ消滅しているといいます。

この渋墨の上品な黒色は、化学合成のオイルステインで出てくる黒ではないことは一目瞭然でわかります。古民家甦生を通して暮らしも復古創新している最中ですが私が取り組んでいる炭とこの渋墨の相性はとてもよくあらゆる場所で重宝しています。

そもそも隙間の多い日本家屋は、外界の自然と離れずに一体につながったまま存在している家屋ですから防虫はとても重要です。さらに高温多湿で常に水気が多い部屋ですから防腐もまた重要です。

伝統の智慧は風土の影響を受けて発達しますからこの渋墨は日本の気候風土そのものが産んだ最高の技術の一つです。

柿渋は以前のブログで書きましたが、この渋墨はその柿渋に松煙といった煤を混ざるという発想。これは暮らしから出てきたのではないかと私は思うのです。囲炉裏で松を燃やせば煤が出ますが、その煤が壁につくと奥行のある深い黒が出てきます。そして煤がつけば虫が来ないというのを先祖は経験から知っていたのでしょう。それに発酵する清酒を入れることで、塗料として合成する。よくできた仕組みを感じながら塗るたびに出てくる色の深さにうっとりしてきます。

松煙の色は、炭の持つ色にとても似ています。

私はこの炭の色がとても好きで、夜の深い闇の色を観ているようで穏やかな気持ちになってきます。闇が失われてきた時代、どこでも電気が明々とつき都会は暗くなる時がありません。まるで闇を遠ざけているかのような現代です。

しかしこの闇は、心の時間を与えてくれるものであり休む時間を持たせてくれるものです。この闇の時間があるからこそ、いのちのエネルギーは甦生します。私が炭やこの闇の色にこだわるのはこの古民家が子どもたちの心を癒すように願うからです。

引き続き、渋墨を用いて深い奥行のある墨の色、暗闇を創出していきたいと思います。

自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

自分らしさ

自分らしさという言葉があります。昨今はこの「自分らしく」という言葉をよく聞くようになりましたが、これは自分らしくいられない人が増えてきているということでもあります。

自分らしさとは何かということを少し深めてみようと思います。

そもそも自分らしさというのは、自然体の自分ということです。自分らしくいることを無理しない、つまり自分のままでいいという状態です。それは誰の評価や結果、期待や比較などで自分を作り上げようと無理し頑張ろうとしないということです。

現在は、無理をしてでも頑張っても自分の与えられた役割を果たそうとする人が増えています。本来の自分ではやらないようなことでも誰かから与えられた役割や立場を守るために頑張ろうとするのです。その役目がピタリと合う人はいいのでしょうが、実際は能力主義や結果主義、個人主義が背景にありますから、何とかできなければ無理をして頑張って頑張れなくなったらもう無理だと倒れてしまいます。その段階においては楽しいや面白いといった好奇心も枯渇していることもほとんどです。そして自分らしくいられないと別の自分らしくいられるところを求めてはさ迷うのです。

実際は自分には無理なことがあることを自覚し、無理なことを頑張ろうではなく得意なところを活かして苦手なところは周りに頼るというのが自分らしくいられるということです。認め合い、プロセスを大切にし、助け合い協力することが背景になっているところは安心して自然体でいられます。できるところをやればいい、無理をしなくてもいいという安心感はいつでも仲間が見守ってくれているという安心感に包まれます。

このように自分らしくというのは決して自分だけでできるものではなく、その周囲の環境や仲間の存在によって感じられるものということになります。信頼し合う関係は、認め合うことからはじまります。当然周囲にその環境があっても、自分のことを認めず他人のことも一切認めようとしない人は自分らしくいられなくなります。

自分らしくいるために、如何に自分から周囲を認め、周囲もその人を認めるか。その人らしさとはその人を丸ごと認めていくということです。

私たちが目指している人間社會は誰かだけが誰かによってつくられ、本来の自分になれず無理をして一人だけ苦しむようなものではありません。これまでもみんなで一緒に生きてきたのが人類の叡智だからこそ、感謝のままにみんなが一緒に楽しく仕合せに暮らせるように一人一人を尊重し思いやることが自分らしさであることを実践で示していく必要があると思います。

多様な異なりがあっても、認め合っていけばそこには自分らしくいられる人たちの個性が活きていきます。好奇心もまたそういうところで発揮されていきます。これだけの個性がある人間が増えていくことは、それだけ助け合える機会が増えていくとうことです。

人口80億人の時代が来ていますが、これだけの個性が増えたことが仕合せに思います。この人類が協力し合い生きていく社會を夢見て、今日も理念研修に臨みたいと思います。

心の豊かさ

古民家甦生を通じて古いものを修繕していると誰もがその光景をみて「懐かしい」と感じます。その懐かしいと感じるものは何か、それは心の豊かさです。懐かしさとは人の心の中にあります。

今の時代は、過剰な貨幣経済が発達しお金の方が物よりも溢れかえっています。都会にいけば手に入らないものはほとんどありません。家電製品であったり生活用品であっても簡単に購入できます。

しかしちょっとしか使われずもっといいものがあれば購入して古いものは廃棄されます。本来、昔の先祖たちはものを大事に最後まで使い切りました。それを見立てるとも言います。

私が尊敬している鞍馬寺の貫主様も、壊れた茶碗を花瓶に見立ててお花を活けていました。こうやって使えなくなったものを別の形にして活かそうとする。その心の豊かさは私たち先祖たちがずっと大切にしてきた心です。

この心を知る時、私たちは豊かさとは何かの本質に出会えるのです。

心の豊かな人とは、もったいないそのいのちを使い切る人です。同様にもったいないその一期一会のご縁を活かす人です。

二度とないものをもっと大切に使い切ろうとする心は別にゴミを捨てないとか、節約しようとすればいいのではありません。今までお役にたってきたいのちを慈しみ愛おしむ心、いのちが宿っているものへの思いやりと感謝、それは自分がこの世で暮らしていける仕合せを味わっている人生の豊かさです。

心の豊かな人は、その存在が懐かしく感じます。こうやって先祖の心に触れて生きていけることは何もない中でも無尽蔵にある宝に出会っているようです。

子どもたちにも心の豊かさを譲っていけるように古民家甦生を楽しんで歩んでいきたいと思います。

言葉の原型

人間同士は言葉が使えますから言葉と単語を使ってコミュニケーションを取りますが古代は言葉がなかった時代があったといいます。それは今の動物や昆虫、そして植物と同様に単語以外の方法でコミュニケーションを取っていたそうです。

先日もある動物番組を見ていると、サバンナでライオンが空腹を感じて襲いはじめるとき周囲の動物はそれを事前に察知して逃げ始めます。しかし満腹で襲う気配がない時は、その真横で餌を食べるほど安心して素通りしていきます。この察知するや気配を感じるというのは、言葉以外のコミュニケーションとも言えます。

ある説に、人間は言葉を使うようになったのは心を隠すためというものがあります。自分の心が相手にわかってしまうと都合が悪いことで、人間の自我が自分を守り自分を隠すために言葉を使い始めたという説です。いちいち単語を並べては回りくどい言い方をすることで、自分の本心を隠し相手に読まれないようにと工夫するようになったといいます。そのことからコミュニケーションが次第に難しくなって発達して今にいたるというのです。

確かに人間関係での相談のほとんどが相手が何を考えているのかがわからないというものが多くあります。言葉の一端から相手が何を考えているのかを読み合おうとしては、お互いが疑心暗鬼になってしまうのです。心を開いていれば通じ合うものを、心を閉ざすことで読み合わなければならなくなるのです。

相手が何を考えているのかが分からなくなると人は不安になります。特に言葉を信じてもその行動が全く別であった場合、人は人を警戒するようになります。さらには不信になり、何も誰も信用しなくなるものです。

心を開いてくれたと思っても、それが本心ではない場合は後であれはなんだったのかと責め合うことにもなるのです。心を隠す技術として生まれたこの言葉は、人間の自我が創出したものかもしれません。そのことから生きづらくなって苦しくなったようにも思います。さらに今では、文字だけが独り歩きするような時代になっていますから言葉を操り民衆の感情を巧みに利用するようなことも増えてきています。広告や宣伝も言葉を使い過大に表現することで余計に言葉が歪んでいるようにも思います。

鳥や虫のように、そのままに発する言葉は言葉の原型でありその心のままに発する声が本当の声です。本当の声が聴けなくなったのは自分が心を閉ざしたからであり、心の中にある疑念が勝手に相手を歪める原因にもなっているのです。裏表なしの真心からの声が聴けるとき、人は自分が真心の声を発する人になっていることにも気づけます。

自分の心の声のままに従い生きている人はみんな正直です。正直とは素直であり、直は謙虚であるからさらに声なき声まで聴こえてきます。自分の心を開くというのは、声を聴く耳を持つということです。そして自分を守るのではなく、本心を守るという覚悟がいるのです。

人の話を素直に聴ける人は、自分の心の声も素直に聴けるようになります。そしていつも自分の本心と対話し続ける実践が必要です。

一人一人のその言葉の壁が取り払われるとき、安心した居場所ができます。それぞれが自分らしくいられて無理に感情を誤魔化さないでいられるような自然体で安心した居心地の善い場所を子どもたちに譲っていきたいと思います。

商人とは

今では商人とは何かということが曖昧になり、いわゆる商売をする人たちをみんな一括りに商人と呼びますがかつての商人とはどのようなものだったか近江商人の家訓や心得から深めてみようと思います。

近江商人は、鎌倉時代から昭和にかけて活躍した滋賀出身の商人集団のことを指しました。この商人の理念には「三方よし」という思想があります。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」というものです。

この三方よしの考え方は現在の日本的経営の一つにも例えられ、如何に世間の皆様によって最も善いことになるかを常に考え行動することが商人であると理念を定めています。また「利勤於真」(利ハ勤ルニ於イテ真ナリ)という実践徳目もあり、これは商人の利益はその任務に懸命に努力したことに対するおこぼれに過ぎないとし、勤労を優先し利益はその結果として出てきたものに過ぎないと真心を優先することを大事にしました。

近江商人には、商売十訓というものがあります。ここには近江商人の生き方の事例が紹介されています。

・商売は世のため、人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり
・店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何
・売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる
・資金の少なきを憂うなかれ、信用の足らざるを憂うべし
・無理に売るな、客の好むものも売るな、客のためになるものを売れ
・良きものを売るは善なり、良き品を広告して多く売ることはさらに善なり
・紙一枚でも景品はお客を喜ばせばる
・つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ
・正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ
・今日の損益を常に考えよ、今日の損益を明らかにしないでは、寝につかぬ習慣にせよ
・商売には好況、不況はない、いずれにしても儲けねばならぬ

ここに商人とはどういう生き方をすべきか、そして商人の志すものは何かが記されているように思います。特に近江商人は「陰徳善事」というものも掲げ、人知れず見返りを求めずに徳を積むことを重要視したといいます。

今ではすぐに職業や肩書、人気や流行から評価して人を観ますが、本来はその生き方をする人が何の職業をやっているかとその「人物の生き方」を観ることが本来の働き方の確認なのです。つまり古来の日本的精神、士魂を持った人が商才を使っただけでその風土の日本人の生き方がどうだったかということです。

世の中では働き方の改革と言われますが、その前に自分の生き方がどうなっているのかを見つめることが必要だと思います。単に会社の制度や取り組みを換えればいいのではなく、その根幹にある生き方を同時に換えることが働き方改革の本質だと私は思います。

商人として自分の生まれ落ちた天命の中で、しっかりと日本の心を持って働くということが商いを通して社會を善くしていくということです。その働き方は、常に自他も善く、そして世間も善く、それを喜びにして生きていくということです。

世の中の平和平安の祈りに生きたその生き方、働き方こそ商人の基本なのでしょう。日本の商人の道に私は誇りを思います。

引き続き社業を見つめながら日本的経営を学び直していきたいと思います。

民家甦生

私たちは日本語を用いる日本人ですが、世界には様々な民族が存在します。その民族はその風土と歴史によって独自の文化を発展させ、それをそれぞれの個性として大事に守ってきました。

その中には衣食住をはじめ、宗教、精神、生き方に至るまでそれぞれの独自の価値観を持ち先祖たちの生きざまが私たちの生きざまに色濃く滲み出ています。現在はどこの風土であっても、均一に画一的に同じ環境を用意することで金太郎飴のようにどこでも同じ風景になってきました。それは衣食住に限らず人間の精神も価値観もまた同様に単一化してきています。

これはある文明がそれまでの自然を征服し、どのような自然環境であっても自分たちの文明が凌駕しているという価値観の証明でもあります。この一つの価値観のみで世界を包むというのは、その気候風土の多種多様さを無視して自分が頂点として支配しようという考え方です。支配というものは、一つの価値観にしてしまうということです。そこから人間の中にある差別もまた生まれ、戦争の種を蒔いていきます。

お互いを尊重するというのは、それぞれの価値観を尊重するということです。それは多種多様な気候風土を尊重し、その中で暮らしてきた民族の精神と生きざまを尊重するということです。

民族の個性というものは、支配の歴史で語るものではなく自然との共生で語られるものです。その自然が風土として顕現してきたその土地の民族、それは生物多様性がある豊かで仕合せな永続する社會の実現です。

地球環境においても生物多様性は、それぞれがお互いを認め合い尊重し合う中で生み出してきた「自然の恩恵をみんなで分かち合う自然の仕組み」です。「誰も損することもなく、誰も得することもない世界。」それはお互いが思いやり豊かに地球と共に永遠に存在していくための唯一の方法です。

文明と文化は丸ごと自然そのものとも言え、それは破壊と創造によって甦生していくものです。これは歴史が語るように、病気から回復し健康になり再び病気になるように常に繰り返しを已みません。調和は常に破壊と創造によって行われます。現在、人類の歴史で私たちが知っているのはまだまだ短いものですが、今は時代の転換期を控え長い目で観てもう一度色々とこれからどうなるのかを子どもたちのためにも見つめる必要があるように思います。

しかしそんなに遠い遠い先の将来のことを考えなくても、現在の多種多様な個性、また生物多様性が失われてくればそのうち絶滅の危機に瀕することは火を見るよりも明らかです。だからこそ自分の個性を大切にし、日本民族の個性を大切にし、大切な自分たちの風土を醸成し続けることを已めるわけにはいきません。

私が文化や暮らしを子どもたちに譲ろうとするその根底には、この時代の調和や転換期にどのように風土の歴史を伝承していくかということの一点に由ります。初心伝承とは、民族の初心の伝承です。

原点が失われればそれはもはや個性とは呼びません。

常に原点・初心を忘れず民家甦生を楽しみつつ転じて子どもたちにちゃんと受け渡したいと思います。

おかげさま

人間は感謝の中で暮らしていくことで自然の恩恵を受けることができます。これは人間関係でも同じく、御蔭様の中ではじめてお互いの存在の有難さの恩恵に気づけます。御蔭様という心は、何の御蔭で自分があるのかを忘れていないということでありそれは社會の一員である自分を自覚しているということでもあります。

相田みつを氏の詩にこういうものがあります。

『私の、このヘタな文字、つたない文章も、見てくれる人のおかげで書かせていただけるんです。〈おかげさん〉でないものは、この世に一ツもありません。みんな〈おかげさん〉で成り立っているんです』

また有名なものに『いいことはおかげさま わるいことは身から出た錆』というものもあります。おかげさまでないものはなく、全てはおかげさまであることを忘れたところから錆が出てくるというものです。

鉄製品を持っていればわかりますが、鉄は空気中の水分で必ず錆が出てきます。そのままに放置しておけばどんどん錆びついて朽ちていきます。刀なども錆びてしまえばもう輝きも消え切れないものになります。手入れをして磨き続けることで鉄は錆びません。

これを人間で例えれば、何が錆させていく原因になっているかということです。そして何を忘れると心がそうなっていくかということです。

もう一つおかげさまで有名な詩があります。私たちの会社にも玄関の近くにこの詩が掲げられています。

『夏が来ると「冬がいい」と言う
冬が来ると「夏がいい」と言う
太ると「痩せたい」と言い
痩せると「太りたい」と言う
忙しいと「暇になりたい」と言い
暇になると「忙しい方がいい」と言う
自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い
自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う

借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる
金を持てば 古びた女房が邪魔になる
所帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが
上を見て不平不満の明け暮れ
隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか
静かに考えてみるがよい
一体自分とは何なのか

親のおかげ
先生のおかげ
世間様のおかげの固まりが自分ではないか
つまらぬ自我妄執を捨てて
得手勝手を慎んだら
世の中はきっと明るくなるだろう

「俺が」、「俺が」を捨てて
「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい』

不平不満や文句は、自分中心で世の中がまわるのが当たり前だと錯覚しているのかもしれません。社會がなければ今の自分が今のように暮らしていくことはなく、今までの御恩がなければ今のように自分が育っていることもない。自分のことばかりを心配して自分のことばかりに執着して、自分の周りにある御蔭様に気づかなくなれば必ずその欲において自分の心から錆が出てくるように思います。

自我が強くなり、自我妄執に囚われれば自分我優先されてしまいます。そういう人が増えてしまったら感謝の循環が失われ社會が暗くなっていくかもしれません。

だからこそおかげさまを忘れないことを初心に据えることが、全てのことを福にし全てのことを転じて感謝に換える妙法だと思います。

引き続きおかげさまの磨きの旅を味わっていきたいと思います。