子ども心を忘れない

星の王子様という小説絵本があります。昔、とても好きで何度も読んだことがありますが改めて読み直すと作者の親友への思いが伝わってきて仕合わせな気持ちになります。その親友は心の友であり、その人の子ども心のことです。そして子ども心とは、子どもだったころの心です。

星の王子様の中でも、「大人は子どもだったことを忘れている」という内容の箇所があります。大人になるということがどういうことか、そしてかつては大人はみんな子どもだったということが何を意味するか、そういうことを心に語り掛けてきます。

子どもというのは、大人のいうところの無意味な時間を沢山持つものです。こんなことをして何になるのといった大人の都合はほとんど子どもには無意味です。この意味があることと意味がないことの間に、子ども心があることに気づきます。

私自身も子ども心は何かと聞かれれば、好奇心とは言いますが好奇とは何かということです。不思議なことに満ちていることを感じるチカラともいい、英語ではセンスオブワンダーとも言いました。実際は、心は時間を超越したところにあり、心が”懸けた”ところに常に心はあります。

だからこそ遠回りしたり道草をしたり、遊びこんだり暇を持て余したり、そんな中にこそ子ども心は生きています。子ども心を見失うというのは、時間に追われ日々を忙しくして初心を忘れてしまうことを言います。

大人になっても子ども心を失わないでいるためには信念が必要です。信念をもって本質を守り、周りに流されずに自分自身主人公で居続けることで子ども心は忘れられることはありません。

子ども心を忘れることがもしも大人になることであれば、大人になることは心を捨て去ることだという定義になるかもしれません。しかし大人になることが子ども心を忘れないでいることであるのなら、その大人は自分らしくとても立派な生き方をする人物になったということになるのかもしれません。

信念に生きるというのは、心を忘れず心がけを実践するということです。

どんな時代でどんな環境があったとしても、子ども心を守りたいと願うのなら子ども心のままに生きて子どもたちが元気づくようにしてあげたいと思います。子どもが子どもらしくいられる環境というのは、子ども心をみんなが忘れていない環境のことです。

それだけの心の余裕、それだけの心の豊かさを優先してみんなが天命のままに心安らかに暮らしていける福世かな世界になったということでもあります。

「大切なことは目には見えないし心で読まなければわからない、そして子どもは初心のままの姿、心はあるがままの無心、大切なことは日々の心がけです」

子どものように心のままで生きていた時代があったことをいつまでも忘れないように本命本業としての”見守る”ことを現場に拡げていきたいと思います。

 

久しく永い時間のモノサシ~棲み分けの智慧~

畑に出て来年の高菜のお世話をしていると、周りには夏草から秋草に入れ替わってきています。一年の同じ場所を分け合って他の草草は生きています。これを棲み分けとも言いますが、生き物たちの絶妙な棲み分けには感動します。これは場所に限らず、明るい時間と暗い時間、夏と冬、地下と地上、冷と熱、様々なところに移動しては棲み分けます。

地球は一つしかありませんから、一つの場所を同じ種がずっと占有していてはそこで争いが起こります。これは自然界のものが、共生を優先していることを物語ります。共生とは譲り合いのことで、進んで争わないということです。常に自然界では和を優先して生き物たちは久しく生きながらえてきました。

競争していないはずはないといいますが、実際は長い目でみて競争はせず共生しているのです。目先のことだけをみれば、競争して勝ち残ったものだけが生き残るとも捉えられますがそんな修羅のみの世界で生き物たちは暮らしているわけではありません。末永く久しく生き残るために、敢えて厳しい環境に身をおいて生き延びようとしたけで進んで争いたいと思って生きている生き物はありません。

その証拠に、生き物たちは多くをとり過ぎることはありません。その時、必要な分だけを分けてもらうのです。自然が循環して、自分の行いが長い年月でどのようになるのかを自覚するからこその棲み分けです。

つまり棲み分けとは、常に久しく永い時間のモノサシがあるからこそできることです。人間は、久しく永い時間のモノサシを捨ててきているのかもしれません。自分の代のことや自分の心配ばかりをし、目先の競争や保身に一喜一憂してはそのために資源も何もかも浪費するという考え方は果たして久しく永い時間のモノサシにはどう映るでしょうか。

生き残るというのは、決して厳しいだけではなく自然の豊かな恩恵の中で幸せに暮らす時間を与えていただいたという捉え方もできるはずです。いのちがこの世に存在するというのは、それだけ自然の愛や真心を受け続けることができるということです、まさにここが自然の楽園であり極楽浄土です。

その豊かさや仕合わせを感じられないということは不幸なことかもしれません。本来のモノサシを取り戻し、子ども達に悠久の時を譲っていきたいと感じるばかりです。日々に本業を通して伝承していきたいと思います。

ほのぼの

先日、「ほのぼの」(仄仄)という言霊に気づかせていただく機会がありました。私たちがおもてなしで心を籠めて取り組んでいる実践を「ほのぼのする」と表現してくださった方がいたからです。

この「ほのぼの」というのは、心を顕す言葉であり「心暖まる」「心和らぐ」、他には「心が癒される」という意味になります。人には心がありますから、心がいつも豊かで仕合わせであるというのはこのような心の通じ合いがあって感じるものです。

今の時代は、日々にやることに追われ急ぎ焦り心を籠めるということもなくなってきました。心を亡くしていてまるで人形やマシーンのようになってしまえばそのうち心の在り処がなくなり心は疲れ切ってしまうかもしれません。

もしも自分の心を亡くしたままに歩んでしまったら本心がどこにあるのかもわからなくなってしまっているかもしれません。現代の社会問題の中に、根強く残る自分らしさの消失はこの真心を見失うことからはじまっているように思います。自他を尊重することや、自分自身が調和することもすべてはこの心の在り方に懸っています。

人は、心の在り方次第では観えている世界は異なっていきます。同じこと同じ現象、同じ環境が合ってもある人には天国、ある人には地獄であることがあります。いくら世間で幸せだと評されようとその人の心次第では不幸であり、いくら世間でかわいそうだと同情されてもその人の心次第では幸せなのです。

人生はその人の心次第ですから、人生をより善くするのは心がけです。心がけが歪んでいたらその心もまた歪みます。心がけが澄んでいるのならその人の心もまた素直になっていきます。

どう生きるのかは自分にしか左右できず、それは全てにおいて心がけが決めます。

その方から「心の田に日々に種を蒔くこと」を教えていただきました。これは心がけのことです。どんな心がけで日々に生きるかはその人次第、悪因悪果、善因善果、それはもう随分前に自分が蒔いた種が芽を出して今に現れただけのことです。誰のせいでもありません、すべては自分のせいですから言い訳はできません。

如何に日々に福行の種子を蒔くかが、福世かな世界を信じて見守るための要諦です。活かされているいのちを輝かすためにも、子ども達の未来が明るく仕合わせになるためにも、自分自身の心がけがすべてを決めてしまいます。

心を亡くしている人が多いからこそ、私たちは「ほのぼのと働いて」いきたいと思います。教えていただいたことを実践し、また御恩返しに生きていきたいと思います。ありがとうございます

天与の持ち味

人間にはそれぞれにその人のもつ持ち味というものがあります。その持ち味とは、良いとか悪いとかではなくその味があるということです。それぞれの味をどのように活かして美味しいものにしていくかはそのものの活かし方にあるようにも思います。

本来、素材というものはそれぞれに味があります。素材の味をひきだすという言い方もしますが、素材はそのままの方が美味しいと感じるものです。料理にも考え方があり、料理人の都合で仕立てていく料理と、素材の都合にあわせて仕立てていく料理があります。

私たちがいつも会社で食べている自然食の弁当は素材に合わせてメニューを決めて、素材に合わせて料理をしています。料理人は素材をどのように活かせばいいかを考えて、その素材が活きるように合わせていきます。ようは活かすも活かさないも料理人の意識に由るということです。

在るものを活かすという考え方は、老子の「足るを知る」という自然観が顕れます。自然界はとても豊かです、それは多様性に満ちているからです。それぞれに個性があり、それぞれに特性を発揮していのちを謳歌しているのが自然界の豊かさです。老子は、足るを知るものは富むといい、あるものを活かそうとするものは豊かであると言います。

このあるものを活かすという考え方は、ないものねだりをしないということです。ないものねだりは比較することからはじまります、世の中は常に評価がありその評価に基づき裁いていますから常に比較されてしまうものです。しかし、ないものねだりをしても自分は自分、その人はその人ですから素直にその魅力や持ち味を認める方が仕合わせだと私は思います。

そしてもしもその人を比較しない本来の持ち味に気づいたなら、その魅力をどう磨いていくか、そして伸ばしていくか、皆の御役に立てていけばいいかを一緒に考えていけばいいと思うのです。

生物非生物に関わらず、それぞれには天与の持ち味があります。自然が与えてくださったそのものの豊かさを皆で味わっていくことは、生きていく仕合わせ、そして存在する歓び、心の充足、魂の邂逅のようにも感じます。

みんな違ってみんないいとは、みんな善いのは異なるからだ、つまりは誰かの御役に立てるということです。そのお役に立てる部分を活かしていくことが、豊かに仕合せに生きられる本筋です。

子ども達があるがままにいのち輝く存在になるように、比較競争の刷り込みをみつめ、持ち味から楽しく変わっていけるように実践を続けていきたいと思います。

学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

経営ではなく理念

人はその時々の決断で何を優先するのかをはっきりさせていきます。人生は選択の連続ですが、その時々の選択に何をもってくるかでその後の方向性が決まっていくものです。

つまり優先順位があるということです。

世の中には無数の答えが存在します。それはその時々の優先順位があるという意味と同じです。そして優先順位とはその目的に対して行われるものですから、優先順位を決めた時はその目的を自分はもとより周りも確認するということです。

その人が何をもっとも大切にしたいかという方向性、何を大事に生きるかという初心を自他へ表明することになります。これが組織においては多大な影響が出てくるのです。

よく経営か理念かと組織論では語られることがあります。理念経営をしていますとかいう声も聞きますが実際は経営理念になっているだけで経営の中に理念を付け足しただけにすぎません。経営するための方法論として理念を置いているだけになっているところが多い様に思います。

理念とは目的です、経営は目標です。目的がなくなれば目標しかありませんから、目標を達することが正解になります。しかし目標だけをやっていて正解になってしまえば、目的は忘れてしまうものです。本来、目的があれば目標はなくても問題がない様に思います。目的意識がある人は自ずから必ずその目的に近づいていきます。目的に合わせて自分の方を変え続けていく人は、理念を実践する人とも言えます。経営は実践とは言いません。

本来、目的(理念)をはっきりさせておかなければ人は何のためにやっているのかがわからなくなります。そうなると目標に囚われ、目標ばかりを優先するようになります。目標は達成すれば充実感が得られますが、目的は心の充足感が得られるように思います。人間は心があるから人間ですから、充足感というものは心の状態ですから人間が心を失わないためにも必要だと思います。

シンプルに言えば「目的を忘れずに実践することが理念を優先する」ということです。その目的がもしもズレているのなら、すぐに自分の方を修正しなければなりません。この「何のために」を明確にすることが本来のリーダーの役割であり、一人ひとりがリーダーシップを発揮するにはこの目的を理解し合わせなければできません。

目指す目的を一緒に観て、それぞれが自分に打ち克って実践していくからこそ御互いのことを尊重し楽しく豊かに働くことが出来るようになります。何のためにというのは、初心の自分を取り戻すための大切な鏡です。

その鏡に映るものがもしも目的や理念でないのなら、鏡には初心とは別のものがいつも映り込むことになるでしょう。目的を忘れて日々の些事や雑事ばかりを優先していたらそのうち些事や雑事の方が大事なことのように勘違いしていくのが人間です。そうならないようにしていくための環境づくりこそがリーダーの真の役割かもしれません。そして目的があるからこそ、理念と経営が一致していき本物になっていくように思います。本物であるということの定義は、そこに嘘偽りのない本質そのもの、”理念が経営になっている”ということ、つまりは古語に言う「中庸であり至誠の存在になった」ということです。

日々に関わる人たちと皆で一緒に優先している目的を忘れない克己の工夫を用意していきたいものです。理念を実践するということの本来の意味を、自分たちの姿によって伝承していきたいと思います。

人生の王道~自分の根を掘り下げること~

私たちは自分のルーツを知ることで、それまでどのように生きてきたかといった歴史が辿ってきた道のりを学ぶことができます。自分の世代だけを謳歌しようといった風潮の中、本来の教育が失われてきているのではないかと思います。

日本の心や日本人の精神、それらのことを伝承されている文化や道具に触れていると本来、先祖たちがどのような生き方をしてきたかを学び直すことができます。自分の根っこを知ることは、自分がどこに根を据えていけばいいのかを学ぶことです。教育の醍醐味とは、自分が何ものなのかを知ることでもあります。そしてこれからどのように生きていけばいいのかを示す入口でもあります。

技術や能力ばかりを教え、道徳も単なる正しいことばかりを並べては良いことだと大人が子どもに一方的に押し付けてもそれで道徳観を身に付けることはないように思います。大人たちの人生観をはじめ、生き方や働き方の背中を通して子ども達は直感していきますから、自分がまず日本人になっているかということが肝要だと思います。

稲盛和夫さんの著書に「人生の王道」(日経BP社)があります。その中の教育の項目にこのように書かれます。

「一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の祖先がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。
今の教育現場は、日本という国について教えることにあまりにも腰が引けています。グローバルに生きる時代だからこそ軸足をしっかりと据えなければ、日本人は世界の中で「根なし草」になってしまいます。日本の成り立ち、特に近代になってからの世界の中における日本の位置づけを教育の現場できちんと子供たちに教えるべきです。そのうえでこれからの日本がどういう道を歩んでいったらよいのか考えるべきではないでしょうか。」

世界が一つになってきているからこそ、自分の根がどうなっているのかを知り、それぞれの民族がその風土の中でどのように生きてきたのかが重要になるのです。地球の中には、それぞれに国土というものがあります。気候や風習、そして全ての生き物がその場所に順応し、自然に沿った生き方をして個性を磨いてきました。

十羽一絡げのように、同じものが世界に溢れてもそれは多様性を発揮しているわけではありません。多様性を発揮するには、それぞれの風土で育まれた伝統と伝承、その生き方をしてきた人物が自然の智慧を存分に発揮して、他の風土と一緒一体になって新しい地球上での住み分けを考えていかなければなりません。

世界が一つになるとき、御互いを思いやり持続可能な社會を維持できるのは軸足がしっかりと日本人として根をはっているものだけが可能です。世界に出て真に活躍できうる本物の国際人物とは、単に経営が上手だから認められるのではなく、その人が日本人の心と魂を存分に発揮することができてはじめて世界から認められます。

人生の王道というものは、自分の根を掘り下げていくことだと私は思います。

掘り下げることがない人生は、まるで浮草のように流れてはどこかに消えていきます。せっかく生まれてきて一期一会の人生をいただいたのならば、自分の根を深めて自分の根からの養分で一生の花を咲かせて実をつけ種を遺していきたいものです。

日々の実践が根を深めることを助けます。

引き続き、日本の心、日本人としての生き方を学び直していきたいと思います。

大和魂と大和心~人であるために~

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。

この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。

そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。

この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。

かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。

つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。

心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。

人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。

今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。

本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。

先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。

自己肯定感と自己信頼

最近、自己肯定感について考える機会がありました。もともと自己肯定感とは自信のことです。自分に自信がある人は自己肯定感があり、自信が少ない人が自己肯定感が低いと言います。自己肯定感が高い人は、自分自身を信頼することができますから自分自身のことを安心してコントロールしていくことができます。しかし自己肯定感が低い人は、自分自身のことが不安ですからコントロールすることがうまくできなくなります。

つまり自己信頼ができるかできないかというのは、自分自身を活かしていく上で大変重要なことになります。

それではなぜ自己肯定感が低くなるかということです。

これは一概には言えませんが、まず自分自身との信頼を築けないことに理由がある様に思います。自分が決めたことがやり遂げられなかったり、自分の初心を自分が忘れてしまったり、忙しくして自分がこうありたいと思う自分を放り出してしまったりするときに、罪悪感から自分を嫌悪するようになります。自分自身を自分自身が裏切るのですから自己信頼は、自己不信に変わります。これが自己肯定感が低くなる大きな理由ではないかと思います。

人は社會の中で、自分以外の人たちと信頼関係を築いていきます。それはどういうものかといえば、周りにあわせて信頼してもらおうではなく「自分自身が自分との約束を守り、できることはやる!」というように誠実に取り組んでいくことで周りもまた次第に信頼をしてくださるようになります。これは自己信頼でも同じで、自分自身が決めたことを実践し続けることで自分への信頼感は高まっていきます。つまり自分はできることはやると決めたことを遣り続けているのです。

しかし自己信頼が低い人は、自分のできることをやろうとはせずできないことばかりに文句を言ってはできることもしなくなっていきます。つまりは自己不信の状態を続けてしまいます。

自分自身が自分にできることを精一杯やり遂げていたら、次第にできることは増えていき何でもできると思えるようになります。しかしできないことばかりを考えてはできることまでやらなくなれば、次第にできないことばかりが増えてどんなことでもできないと思えるようになってしまいます。

自己信頼というのは、小さな日々の自分との約束の積み重ねによって築き上がっていきます。そしてこれができる人がはじめて周りとの信頼関係を積み上げて築いていくことができます。

できるできないから入るのではなく、「人事を盡そう」、「やれることはやろう」とやっていくことで次第にできるかできないかではなく、「実践する」という境地に入る様に思います。

実践するのは、自分に打ち克つためでもあります。自分自身の自我欲に負けて怠惰になるのではなく、自分自身の理想や初心に対して正直にいる自分を誇りに思えるようになることで人は自己信頼ができるようになります。

昔ある方から「誰がみているかみていないかではない、一番身近で自分が見ているではないか」ということを教えていただいたことがあります。自分を誤魔化すことが増えていけばそのうち周りの人にまで誤魔化すようになります。自分自身の不信は、次第に周囲への不信になり、自己信頼の欠落は周りからの信頼の欠損にもなっていきます。

社會は、見えない約束事で成り立っていますからそれを自ら先に破壊すれば社會が安心して平和に保つことができなくなります。一番身近な自分を責めては罪を擦り付けるのではなく、できることを背一杯やってできないことは周りに頼るという本来の信頼関係を築くことです。

周りに頼れる人は、自分のできることは精一杯やる人だから周りに安心して頼れるのです。周りに頼れない人は自分にできることもやっていないと思った方がいいでしょう。

結局は、どんなことも未来は今の自分の実践次第なのですから変わらないものを嘆きどうにもならないことにいつも悲嘆にくれては何もしないよりも、自分が変えていけるものは何かを見つめてできることをやっていくしかありません。「人事を盡して天命を待つ」心がけで、実践を積み重ねて自己信頼、周囲の信頼を勝ち得ることが善い組織のみならず善い社會を形成する要です。引き続き「実践」の大切さを伝えていきたいと思います。

真心の薫り~日本人の心~

昨日、「たたら製鉄」のことを書きましたがたたら製鉄とは日本古来の製鉄法で祖先が営々として築き上げた日本独特の製鉄法で千年以上の歴史をもつそうです。

そもそも「たたら」という言葉は「ふいご」を意味する言葉のようです。日本書紀には神武天皇のお后になる雲の姫、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのひめのみこと)がいます。蹈鞴と書いてたたらと読みますが、蹈鞴は踏みふいごのことです。

この蹈鞴で鉄を吹くことから鉄を製錬する炉もたたらというようになります。そして漢字で鑪と書いてたたらと読ませます。さらに炉全体を収める大きな家屋(高殿)、さらにはこれら全体を含めた製鉄工場もたたらと言うようになりました。

そしてこのたたら製鉄でつくる代表的なものが日本刀です。

日本刀の特徴はよく「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれます。これは矛盾を内包している言葉です。つまり「折れない」ためには鉄が柔らかくなければなりません。そして「曲がらない」と言うことは鉄が硬くなければなりません。つまり刀を柔らかくもあり硬くもある鉄で作るということになり矛盾があるのです。そしてその上で、よく切れるという事ですからここに日本人としての鐵をつくる心があります。

そして1000年経っても美しさを放ち続けると言われ、日本刀は日本人の魂を顕すものだとして世界で評価されています。

日本刀には、姿の良さ、刃文、沸、匂、映り、地肌の霊妙さなど、神秘的とも言える荘厳な美をもっています。そこには、玉鋼が姿かたちを換えていまもまだ生きています。

日本人のモノづくりの感性はすべてにおいて「いきもの」に接して、新たな「いのち」を吹き込むものです。あらゆる精霊を組み合わせて、新たなものへととけ合わせていくチカラ、そこに日本人のものづくりの真心があります。

これは決して鍛冶だけではなく、杜氏、宮大工、そして先日拝見した塩田職人などもすべては自然のものを大切に尊重して扱い、それを自然のカタチを壊さないように丁寧に別の御姿へと変えていく神技の極みです。

このプロセスの中にこそ、自然を崇拝して自然と共生してきた智慧があります。

私たちが忘れてはならないのは製鉄法ではなく、その中に籠められている日本人の心であろうと思います。どのような生き方をしてきたか、それをものづくりによって子子孫孫へと伝承されています。

先祖たちがどのように生きてきたか、そしてどのように生きてほしいかをものづくりの中に心を籠めて遺してくださった先祖たちに感謝の心が湧いてきます。子ども達にどうあってほしいか、永続して繁栄し心穏やかに仲睦まじく和を尊びいきてほしいと遺してくださった真心が薫ります。

真心の薫りがなくならないように、平成の時代でもそういう生き方をした人たちがいたと子どもたちに慕われるように自らの生き方で伝承し、それを遺し、子どもたちに真心を譲れるようにしっかりと日々の志事を通じて日本人の道具と暮らしを大切に守り精進していきたいと思います。