自認~手放す実践~

人間は頭がいいと思い込んでいても実際はおかしなことをしていることが多いものです。人間の半分には理念や初心、本心といった自分もいますが同時にそうではない動物の欲のようなものもあります。遠くを観ては本来の将来像を思い近づいていく自分と、目先のことに執着して囚われる自分もいます。

そういう時は、大切なものや理念をどれだけ優先できるかということや如何に己の我執を手放していくかということが大事になっていくのでしょう。

昔、猿を題材にした話を聴いたことがあり「手放す」ことを考える際の参考になります。

一つ目は「ひょうたん猿」の話です。

「アルジェリアのカビール地方の農民は、ひょうたんを木にしっかりとくくりつけ、中に米粒を入れておく。ひょうたんには、サルの手がちょうど入るくらいの穴が開いている。夜になると、サルは木のところに来てひょうたんの穴に手を突っ込み、米粒をわしづかみにする。そして握った手をそのまま引き抜こうとするのだが、きつくて抜けない。手をゆるめればいいのに、そこまで知恵が回らないのだ。夜が明けると農民に生け捕りにされるわけだが、その時のサルは、米粒をしっかり握りしめたまま実に間の抜けた顔をしているという。」(自助論 S.スマイルズ 三笠書房)

一度せっかく掴んだものを手放したくないから囚われてしまうという事例です。これは過去の自分の栄光や、せっかく掴んだ今の環境や状況、財産などを手放したくないばかりに大切なことを見失ってしまうという事例です。

また猿にはもう一つ「朝三暮四」というのがあります。

「この言葉は、およそ2400年前、中国で生まれました。きっかけは、狙公(そこう)という人物と猿のエサをめぐる物語です。猿が大好きな狙公ですが、お金に困り、これまで猿の好きなだけあげていたエサのトチの実を、朝三つ、夕方四つに減らそうとしました。猿たちは怒り出しました。そこで、朝四つ、夕方三つするからと言ったのです。すると、猿たちは、大喜びしました。このように、目先の違いにとらわれて本当は同じ結果なのに気付かないことをたとえて使われます。また、狙公が猿をごまかしたように、言葉たくみに人をだますという意味でも使われます。」(NHK for school)

これも猿は目先に囚われてしまっていて言葉巧みに操られても本当のことがよく分かっていないという意味になります。結局は、その場しのぎで一喜一憂し、本質や理念と向き合うことをやめて何のためにと思い出さない日々を送ってしまうと次第に猿の故事で使われるようになってしまうのでしょう。

これらは何が捨てられないから手放せないのでしょうか、それは自分中心の考え方だったり周りからの評価だったり、自分の持つ自己イメージだったり、プライドや自我というものがほとんどです。一見自分を大事にしていそうで、本来の自分を大事にしていないということが起きているのです。

禅語に「放下著」(ほうげじゃく)というものがあります。

「放下」とは投げ捨てる、ほうり出す等の意味で何ものにも執着をもたず一切をさっぱりと棄て去ることで「著」は動詞につける助辞です。如何に手放すかは、その人が自分自身で自分を認めるしかありません。

自分を認め自分を受け容れるというのは、今の自分を丸ごと受け止めるということに似ています。そこには弱い自分、情けない自分、許せない自分、等々、自分では認めたくもない自分もあるのかもしれません。しかしそれが反転してプライドになり、頑固になり、強い我執になって囚われていくのです。

自分を認めることは大変かもしれませんが、自分自身が自分を認めない限りその人自身を認めることができません。今を生き切るためにも、過去の執着を手放す努力はいつの時代も欠かせないものです。生きていれば常に自分自身が変わっていきますから、そのたびに新しい自分に出会い今を受け容れて前向きに歩んでいくしかありません。

しかし人間は自分がどうありたいかと決めた理想の自分に向かって挑戦し続けていくのなら、いつの日か必ず憧れた自分に近づいていくと私は思います。自分の都合よくはいかないから苦しく辛いのですが、それは次第に自認という諦観、つまりは手放す実践によって本来の自分自身に近づいていきます。

自分が掴んで放さないものは一体何か、静かに自分を向き合ってみて一つ一つを学び直して福にしていきたいと思います。子ども達の勇気になっていけるような生き方を実践していきたいと思います。

 

 

 

 

本物の暮らし~魂の伝承~

昨日は石見銀山にある群言堂本店に訪問し、他郷阿部家を見学し松場登美様と御縁をいただくことができました。

ここの全てを見学しながらすぐに実感するのは、随所に心の風景のようなふるさとの懐かしさです。場所場所に配置されているものはすべて御縁から頂いたものしかなく、その一つ一つにはすべて物語があります。天から授かったものを大切に向き合っていく生き方が、その気配りの随所に顕れていて絶妙な安心感に包まれる空間がありました。

そして松場登美様のお話の中で何より感動したのは、「暮らしの基本」のお話です。

そもそも人間に与えられているものには宗教、哲学、芸術があるといいます。そしてそれは暮らしの中に存在しているものです。その基本として感謝する気持ちが宗教であり、哲学は学問ではなく美しく生きることであり、芸術は子どものようにアーティストであることだといいます。そして暮らしの中にある長い間の文化が如何に美しいかを思い出すことが大切であるといいそのモノサシは「正しいかどうかよりも美しいかどうか」だと仰っていました。

私たちが本来持っていた暮らしはどこからか分断され今では経済優先、効率優先、お金ばかりで「もったいない」の意味もすり替えられてしまいました。本来のもったいないという”御縁をつむぐ”ような考え方ではなく、単に貧乏性のような用いられ方になってしまっているように私は思います。

私たちの暮らしを後回しにしてきたツケは、必ずこれからの子ども達にまわってしまいます。どんな未来にもどんな事業にも暮らしは欠かせないものですから「本物の暮らし」を見つめ直す時代に入っているように思います。如何にこれからの日本にかつての「本物の暮らし」といった根のある生き方を遺していくか、それは古いものか新しいものかではないのですから子ども達にその根を譲っていくために私たちもしっかりと実践しなければと改めて気づき直すことができました。

文化が壊れていくなかで何を遺していけばいいか、時代の変遷の中で何を大切に譲っていけばいいか、それは「本物の暮らし」であり、「先祖たちの真心」、それは「美しい生き方」であると確認しました。そして悠久のもの、古いものの全てには”魂が宿っている”からこそその魂が慶ぶ生き方や使い方をしていきたいと思います。

そしてこれからもずっと子どもは私たちの未来であり、子どもたちは先祖から譲られてきたクニの宝です。その子どもたちに何が遺せるか、そういう視点からカグヤでも今回の御縁を活かし実践を根気強く発信していきたいと思います。

御蔭様の奇妙な御縁に心から感謝しております。次回は、一家総出でぜひお伺いしてお世話になります。ありがとうございました。

 

いのちとは何か~病の根源~

昨日、あうん健康庵の小松健治先生にお会いすることができました。「医者が学んだ祈りの力 自然治癒のパワーを細胞に取り込む生き方」(幻冬舎)が出版された時にすぐに手に取り拝読した際に、私と自然観が同じでしたのでずっとお会いしたいと思っていました。

治療の前に対話を通して教えてくださったのが「自然治癒は楽になる」ということです。この楽になるというのは、自然の生き方になると楽(素直)になるという意味を直感しました。素直ではないことがあれば、病気というものが天から与えられてカラダがそれを見せて気づかせてくださる。

そのことに対して、どれだけ自分が素直になって向き合い執着を手放し、心、魂、肉体、つまりはカラダを直していくかということではないかとお話を通して私は実感しました。かつて、常岡一郎さんが「病は天からの手紙」ということを仰っていました。そしてその人がその手紙を読んで如何に自ら「手放せるか」ということについてのやり取りをお聴きしたことがあります。

そのことと同じように、自らが長い年月でつくってきた執着や固執がカラダに沁み付いたものをどのように素直になって自然治癒していくかということを感じました。自然治癒には勇気が必要で、自然と向き合い、不自然を直す勇気が要ります。その勇気は希望になり、その人のカラダを原点回帰していくことができるように思います。私たちのカラダもまた自然の一部分でつながっていますから信じて手放すことによって元気に戻っていくのでしょう。

人が元気がなくなるのも病気になるのも、不自然なことを続けていくからです。不自然が分かるというのは、それまでの刷り込みが取り払わられるということです。まず自分の刷り込みに気付けるかどうかは、自分のカラダから出てきた兆しを素直に受け止めることができ、その上で素直に手放すことができるかによります。

古語にある「病は気から」というのは「元気ではなくなる」という意味なのでしょう。本来、私たちには元気があるのだから自然から与えられるチカラを存分に与えられるからカラダのままで御気楽極楽に生きていきたいと思います。

小松庵主と奥様にお会いできたことで、本来の人間の根本、そして病の根源とは何かを考え直す新たな機会になりました。いのちといのりによる自然治癒の生き方を体現し伝承しつつ、引き続き子どもたちが安心して暮らしていける世の中を譲っていくためにも、学びを深めて実践を高めていきたいと思います。

一期一会のご縁に深く感謝しております。

 

虫の目~いのちの原点~

ファーブル昆虫記というものがあります。これはフランスのジャン・アンリ・ファーブル<1823-1915>の代表作であり、世界各国で翻訳されているものです。

虫の観察をするだけではなく、その虫の心に入り込んで虫の気持ちになって豊かな文章で紹介する昆虫記は私たちにいのちの価値について深く考えさせられるものがあります。

「全ての生き物は平等であり、それぞれの役割がある」という信念のもと、世間では見向きもしないような虫の生態を30年以上観察して新たな発見を次々に記した実践には感動するものばかりです。

よく考えてみると、どんな小さな虫であっても親兄弟や家族がいます。産まれてきているということはそこに親がいて子がいて他の生き物を食べて土に帰ります。人間とまったく同じようにそこにはいのちのめぐりと暮らしが存在します。

そしてそのいのちは、厳しい自然の中で深く慈しみ、必死でいのちを育んでいきます。ファーブル昆虫記の中にも、フンコロガシが大切に子育てをしている様子や、他の虫たちがそれぞれにいのちをかけて子孫を残し家族を守る様子などが書かれています。

人間だけが偉そうにして見えなくなったものをファーブルは同じ生き物(いのち)の目線で謙虚に暖かく観ているのです。それに気づけないのは自分都合を優先し虫を虫けらと思い、人間が最上で虫は下等であるという考え方の中に人間の傲慢さが潜んでいるように思います。

ファーブルの虫から学ぶ姿勢の中に、同じ地球の生き物として尊重があります。

同じ生き物としての自分を再認識しつつ、そのいのちが自然に活かされていることを虫の目をとおして思い出し、虫たちの生き方を通していのちの原点に気づき、本来の謙虚さを学び直していきたいと思います。

 

 

モチベーション~気力を育てる~

人間には気力というものがあります。やる気、本気、意気、活気、士気、元気など、心の底から湧き上がってくる気を使って物事に取り組みます。

気力というのは、目的に対してどれくらいの気が出ているかということです。この気魄というものがモチベーションであり、気を用いることで物事は成就しますし本気であるから人は真に成長します。モチベーションは義務感では発生せず、自由意思によって発揮されていくものです。

それに対してモチベーションがなくなることを無気力といいます。つまりやる気が出ないという状態です。自分自身を他人から責任を負わされている状態にしていることが義務感であり、自分から責任を持つ状態が責任感です。

結局人は自分の人生ですから、他人から責任を背負わされるのか、自分から責任を背負うかでまったくその根本にある「気」が変わってきます。本気というものは、自分から責任を持つと決心するから出てくるものです。他人のせいにしながら何かをやっているから心が枯れてきて無気力になっていきます。気力は自分に矢印を向けて、何があっても自己責任であると覚悟を決めるから滾々と本気が湧き上がってくるのです。

ではなぜこんな当たり前のことができなくなってしまうのかということです。

それは私は義務教育にあったのではないかと思います。人は教育のことを云々言いますが、その前についている「義務」についてはあまり重要視していません。そもそも義務で教育するということ自体が、やる気のない人間を育成することであり自由にしていくことで人はやる気を育てていくのです。

自由というのは義務に対する自由という意味ではありません。

人間は誰でも自分の人生を自分で決めることができ、その責任感が備われば自分の人生を歩むことができるのです。それを誰かに決めてもらうばかりで義務感で生きていくと自分の人生を歩んでいる実感が持てなくなります。

これこそが人間の気力を失わせ、人間の本気を消失させていく理由なのです。

本気の人間になるということがモチベーションを持つということです。モチベーションが上がったり下がったりしていると勘違いしますが、ようは自分から背負うと決めているかということに尽きるように思います。なぜなら自分の人生の責任は自分にしかとれないからです。

何かの物事や何かの仕事をするとき、常に決断が必要です。その決断とは何か、それは自己責任にするということなのです。他人のせいではチカラがでなくても、自分のせいとするなら人はチカラが漲ります。

一度きりの人生なのだから、自分の内面に存在する気を育てていくことで心に栄養を与えてぐんぐんと伸びていくことが野生の植生であり、自然界の中で活き活きと懸命に楽しく生きるいのちの智慧です。

気力を育てるには、自分の人生に積極的に責任を持ってもらうことです。そのためにも自分から選択して自分で決めるということの大切さを、義務教育ではなく見守るを通して子ども達に本気の生き方を譲っていきたいと思います。

発酵の智慧~直感と技術~

昨日、発酵場の高菜漬けの高菜の漬け直しをしました。

基本は木樽に丸ごとお任せですが、気になるときに開いてみると塩加減が足りなかったり、漬物石がズレていたりと、毎回、ちょっとずつ色々と改善しなければなりません。発酵場は狭く中腰での作業は大変骨が折れるものですが、漬物を触りながら発酵具合を確かめるのは心安まる手作業です。

今のよく出回る漬物は、化学調味料を使ったり、防腐剤を入れたり、着色したりと発酵する時間をかけずに楽に漬物風として作られることがほとんどです。見た目は本物風にパッケージしていますが、発酵の時間すらかけていないものです。安心で美味しいものよりも、形が良くお金になるものが優先されています。むしろその刷り込みも功をなし、今では安心で美味しいものの定義が本物風の方が本物と逆転してしまいました。

特に人工添加物については悍ましく、ほとんど原料が本物ではないものを用いて加工されます。飲み物、食べ物も白い粉類と水さえあればどんな味でも偽造でき、色の粉と香料さえ足せば目と舌をうまく騙せます。そして残りは腐らないように殺菌、漂白、防腐剤で菌の発生そのものを抑え込みます。

昨日の漬物の中には三年目のものがあります。

一年に数度漬け直しをするだけで熟成したうまみや味わいがあり、漬け直しさえしていれば防腐剤に頼らずに長期に保存することができます。防腐剤で半年の消費期限だとか書かれていますが、漬物は漬け直していればいくらでも腐ることはありません。

発酵とは保存の仕組みですから、防腐剤などは要らないのです。

自然というものは、必ずそのものを分解して土に還すように菌が発生してそのものを食べて消化していくものです。これは菌類に限らず、全ての自然は還元循環しますから発生するのは自然のことです。これを無理やりに抑え込もうという発想自体が無理があり、それが腸内に入ることで腸内の菌類の活動にどのような影響を与えるのかはすぐにわかりそうなものです。

腐敗するための菌を発酵する菌に代わってもらい菌の新しい暮らしの寝床にすることで発酵菌に食べ物を保存してもらうことで自然そのものを邪魔しないで一緒に生きていく共生の智慧なのです。そしてそういう暮らし方のことが熟練の智慧であり、熟練の智慧を持つ職人文化があるというのが本来の私たち日本人の美徳であったとも思います。

手間暇かけて熟成させていくというのは、生き方を通しての実践が必要です。毎回、失敗と改善を繰り返し、面倒でも「カラダで覚える」必要があります。それが本物であり、それが自然だからです。

毎年、漬け具合材料、その時の心境や手入れによって微妙に異なりますから手で触れ香りを確かめ、舌で味わい、場の空気を感じるというように五感をフル稼働して”直感と技術”を磨き学ぶのが本来の自然の姿です。

発酵の智慧は、日々の偽造に刷り込まれそうな私たちに大切なことを思い出させてくれます。道は偽造できませんから発酵は道です、その後に技術があって人は自然が何かを自明自得するのでしょう。

当たり前のことまで分からなくなってしまう人工的な社会の中で、本物の自然に触れることで本来の智慧、「カラダで学ぶ」ことを呼び戻していきたいと思います。発酵を通して昔から変わらずに大切にしてきた直感と技術、熟練して磨くことの真価を子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

 

人生一生一期一会

人と人の間にはご縁というものがあります。毎日、人は何かしらに出会いますが同じ道を一緒に歩む中でご縁が深かったということに気づけるものです。どのようなご縁なのか、それは後々ふり返ってみれば自然に明らかになってくるものですがご縁の最中には感情もありますからなかなか気づけないものです。

ご縁というものは、感謝を土台に心を澄ませていくことで観えてくるようにも思います。それは仲間であったり家族であったりパートナーであったり、呼び名は色々とありますがつまりは「一緒」であったということです。

人はご縁を活かせるかどうかで、その人の人生の物語の質量が変わります。

同じご縁であっても、気づかない人、気づく人、また活かす人では全く異なる世界で生きているとも言えます。気づかない人は、自分にも気づかず、気づく人は、自分に出会い、活かす人は自他一体に生きていきます。

そうやってご縁もまた道ですから、5級、3級、初段、達人と、修行練磨することで次第に発達していくようにも思います。そしてもしもご縁の達人になったなら、柳生家の家訓のように「袖をする縁をも活かす」境地に達するのかもしれません。

松下幸之助さんも「人との縁・つながりは大切なもの。縁あることを喜び、誠意と熱意でお互いのつながりをより強めたい。」と仰っていました。素直の達人もまた、ご縁の尊さを活かす人だったということでしょう。

人の縁組というものは、まさに神業でありなぜこの人と一緒に生きるようになったかは神のみぞ知るかのような神秘的なものを感じます。御互いに一緒に生きることに真摯であり、真心と本気の覚悟で必死に生きていくから絆もまたより一層強くなり、繋がりもまた厚く結べます。

昨日の一円対話の振り返りの中である方が「ここにこなければ私はこんな体験ができなかった、この出会いがなければ私は気づけなかった。一生の宝物にします。」と心を澄ませ素直に仰いました。

今の自分をこれまで育ててくださったのはまさにご縁の御蔭様です。

そのご縁の御蔭様を大切にできる人は、ご縁を一生大事に生きている人です。私自身もこれからもどのような縁組であったとしても、誠実に真心と情熱、本気と熱意で踏み込んで”一緒御縁”の感謝をまわりに御恩返ししていきたいと思います。

人生一生一期一会。

いつまでもご縁のままに歩んで往きたいと思います。

世界の平安

全ての出来事というの物は、直接的なものと間接的なもので出来上がっているものです。それは直接目に見えるところと、間接的に観えるものが合わさっているともいえます。人は視野狭窄になると、目に見える直接的なところだけで物事を判断してしまうものです。しかし実際の物事は、目に見えないところの間接的な効果によって顕れてくるものです。

こういうことが分かるには、眼だけではなく心眼のようなものも同時に働かせることで気づけるように思います。そしてその訓練は、内省と振り返りによって行うものです。

例えば、過去のことを思い出すとします。その際、あの過去のことが生じたのは一体何が原因であったかということを見出していきます。すると、あの時の出会いがそうだったとか、あの時の行いが繋がっていたとか、あの時が運命の分かれ道だったとか、様々なことを思い出されます。そして今を見つめると、天の助けがあったとか、実践をしてきたからだとか、生き方が変わったからだとか、夢を信じたからだったとか、様々なことを振り返ります。

そうやって内省と振り返りを通して、人は直接的にも間接的にも、生じたご縁に気づきそのすべてを実感することで出来事や物事を全体を観ることができるように思うのです。もしそのように全体を素直に観ることができるのならば人間は方向を見失うことが少なくなるように思います。いや、言い換えれば人類は方向を見失わないのではないかとも思うのです。

今の時代は、間接的なことに対する意識が失われつつあります。振り返りと内省をする時間がないほどに何か急いでいるような気がしてなりません。別にただ早いという意味ではなく、内省し振り返る時間がなくなってきているのです。

目に見えるところばかりを見て生きるのは忙しくなるだけで思いやりを優先できなくなってきます。本来は、多くの間接的な見守りによって現実の世界は生じてきたのだからそこに対する感謝の心があってこそ御蔭様の有難さに気づけるものです。

一度、眼を半分だけ閉じて心の眼を半分だけ開き、同じ目で全体を丸ごと見つめその偉大な御蔭様に気づけるのなら如何に御縁を結べた思いやりで今につながっているかといった人類の初心をも思い出させていけるように思います。

大切な気づきを共有することで、心の平安も得られ世の中の平安も広がります。何を優先して生きていくか、力強く実践を高めていきたいと思います。

 

人類の未来予測

昨日、新潟のカマキリ博士こと酒井與喜夫先生にお会いすることができました。以前、「カマキリは大雪を知っていた」(人間選書)を拝読し感動してずっとお会いしたいと思っていた方です。

お話をお聴きしていると、その範囲は丸ごと自然全体に及び、カマキリだけに限らずあらゆる生き物たちの声を聴いて未来を予測していました。それは単なる天気予報ではなく、人類の未来の予測といってもいいかもしれません。

人類がこれからどう生きていくか、自然災害に対してどう生き残っていくか、本来の私たちが長年何を大切に暮らしてきたかを考えさせられる機会になりました。

昔から私たちは「民間伝承」というものが口伝でたくさん残っています。それは先祖たちが、長年の自然の観察をもとに分析してきた財産とも言えます。それらはすべてマグレではなく、場数によって得られた智慧です。

例えば、本来の農家の農は、自然に精通している農の農です。今の農は、農学を優先しあまり自然の姿からの洞察を重要視しません。本来の職業の本質は、昔は学ではなく道としてすべてそのもの(自然)と対話する中で磨き上げれてきた智慧集類とも言えます。

道から離れて文字や記憶にある学だけを正しいと信じるということ自体が自然を見失っていった原因ではないかと思います。文字や記憶にないものは、そのものが必死に生きているという現実味です。現場というものは、常に真摯であり必死です。生き残るために必死ですから本来の本能が働いています。今のように平和ボケしてなまってしまったセンスではなく、本来のセンスがハタラキあらゆるものを感受感得できたように思います。

そういう目に見えないものを観る力があってこそ、見えるものを素直に観ることができるように思います。世の中は、常に見える世界と見えない世界が合わさって丸ごと動いています。見える世界ばかりを知って、さもそれだけが正しいと思い込めば見えない世界があることを信じなくなります。もしくは見えない世界だけを信じて、見える世界をなおざりにすると見える世界が知らせてくる兆しすら感じられなくなります。

自然を見つめるとき、それは見える世界と見えない世界の両方”丸ごと”で理解していくのが自然そのものの智慧の理解であろうと思います。そしてそれは、自分の手と足、目と耳、全ての感覚を遣って「カラダ」で理解していくものです。「カラダ」は見える見えないに関わらず、全身全霊で必死ですから本来の智慧を感受できるのでしょう。

それが自然の智慧そのものであり、私たちに具わっている生きる力の源流です。

酒井先生の毎年1万キロに及ぶ、数十年の観察を通した生き方から自然の周波数とは何か、本来の未来予測とは何か、そして結びの中にある声聞縁覚とは何かをもう一度見つめ直す有難い機会になりました。様々なことを学ぶには第一に謙虚さが必要で、その謙虚さは常に丸ごとで自然に寄り添うことを肝に命じたいと思います。

自然界の生き物の中でもっとも自然災害に弱いのが人間ですから、その人間がこの先の気候変動の中でどう生きていけばいいか、子ども達にも自分たちの生き方が譲れるようにさらに実践を高めて精進していきたいと思います。

有難うございました。

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。