自然の世界

私たちは無意識に自分の観えている世界が世界だと信じ込んでいます。しかし実際に虫の目や動物の目には同じものが観えているとは限りません。また目がついていないと思われている生き物、菌類や植物でさえその感覚器官を通して観えている世界があるのが実際の世界です。

例えば、色であっても私たちが観ているように花が観えているかどうかは分かりません。それはまるで特別な嗅覚で花のあるところを探し当てる昆虫たちや、生き物の残り香をかぎ分ける動物たちのように私たちには臭わないものでも彼らには臭うのです。

色も同じく、紫外線や毒のあるなし、危険かどうかも彼らはその模様や色で識別しているのではないかと思います。以前、庭先で一緒に暮らしている烏骨鶏の小屋にアシナガバチの巣ができたのでそれを切り取り下に落としたことがあります。もう成虫になり飛べる状態で下に何匹も落ちましたが烏骨鶏はそれを食べようともしませんでした。日頃あらゆる虫を食べるのに、一切食べようとも近づこうともしませんでしたからきっと彼らの持つ臭いや色、模様、何かが気になるのでしょう。

私自身も、昆虫や生き物と触れるとき、なんとなく嫌な予感があるものは毒があったり攻撃的であったり、気分が悪くなったりしたことがあります。無意識ですが、昔は観えていた感覚が残っているのかもしれません。

私たちは知識がなくても本能というものがあります。その本能は、知識を持つ以前から体験や経験、または感覚を進化させて他の生き物と同じように自然界の中で生きていくための智慧として発達発展させてきたように思います。

今になってみたら、人間のみの人工社会の中で森や自然の中にいるわけではないのでそういう感覚は減退していくのでしょうがあの虫たちや動物たちはその感覚がなければ自然では生きてはいけません。

自然に照らせばどのような意識で自分がいるのか、その観えている世界が変わっているということの自覚が必要です。自分が観たい世界があるのなら、その観たい世界に合わせていくことでそれまで観得なかった世界が近づいてくるように思います。そのものを理解するのなら、そのものに近づく努力と実践があってはじめて近づくのでしょう。

自然の智慧は、そのものに近づこうと本能から真似をするところからはじまります。そして本能を呼び覚ますのは、もともとの野生を取り戻していくということです。そしてそれは自然に近づいて自然と共に暮らしていく中で研ぎ澄まされていくのでしょう。知識で暗記する以前の祖神たちは、きっとその自然の世界が当たり前に観えていたのでしょう。

本来の自然の世界が分かるとなってはじめて、あらゆる多様な自分を獲得していくことができるのかもしれません。変化成長のコツはこの自然からの獲得に由るように思います。子ども達のためにも、自然からの学び直しの自己実践を譲り遺していきたいと思います。

 

自然の直観力~観察の智慧~

自然を深め、自然と向き合っていると、自分たちの気づいていないことがまだ沢山あることに気づけるものです。例えば、身近な虫たちのことを観察してみても驚くことが多く、そこから不思議な能力を駆使して自然界を生き残ってきた智慧を学べるものです。

私は幼い頃から虫が大好きでしたから、虫を発見しては観察を愉しんでいました。諺の「一寸の虫にも五分の魂」の意味も、虫たちと直に接していたら自明します。その智慧のすごさと創意工夫と多様性の創造力には感動することばかりです。

虫のことを考えるとき有名な人物に「ファーブル昆虫記」を書いた「ジャン・アンリ・ファーブル」がいます。虫と直に接するということが、如何に人智を超えた智慧を学べるかということに於いて観察の重要性を生き方の実践で示された方でした。

その言葉には「観ることは知ることである」というものであったり、「現実は常に公式からはみ出すものだ」ということであったり、実際に「観察」することが如何に大切であるかということを仰っています。

人はすぐに自分自身の目や手、耳や鼻、五感を使おうとせずに物事を知識を使って分かった気になってしまうものです。しかし真実を知るということは、自分自身を使って観るということです。自分自身で観ることもせずに簡単に分かろうとすること自体が本来の姿を見失わせます。自然本来の学問の在り方にも警鐘を鳴らしているように私は思います。膨大な時間をかけることや、大変で面倒なことや、労苦を惜しまないでからだを動かして観察することこそが何よりも大切であるということを教えてくださいます。

ファーブルはまたこうも言います。

「学者というのは文句を言いたがるものなんだよ。私はこの目で昆虫を観ているんだからね。反対する人は自分で観察してみればいいのだ。きっと私と同じ結果が得られるだろう。」

これは昆虫に限られたものではなく、実践して道を深めてきた人の発言であることはすぐに分かります。文句を言う前に一緒に実践してみれば、同じ結果が観えるということなのでしょう。

虫の世界を知るということは、直接虫に触れて観察することで得られます。そしてそれは虫だけではなく、自然というものはすべて触れて観察し直感するものです。それが本来の自然の道、かんながらの道だからです。

自然を観察し直感する力こそが、虫や草花、動物たちの意識と視野であり自然のちからです。道を知るための自然の学び直しは続いていますが、観察力を磨き、自分の刷り込みを取り払い、自分の意識を変えて子どもたちの未来のためにも、確かなものを伝承していきたいと思います。

 

純粋無垢な真心~素直さ~

この仕事をしながらいつも思うことが素直さの持つ伸びる力です。

伸びている人に共通するのは素直さとはいいますが、その姿を目の当たりにすると本当にこの力の持つ神秘を感じます。誰かが自らの体験で掴んだ智慧を、丸ごと吸収してはそれを活かすことができる力です。

同じように接しても、その人のことを信頼して素直に聴ける関係がある人は言われたことを信じています。頭で疑ったり、知識で推察したりすることなどなく、先に信じているのだから素のままに改善していくことができます。この素のままでいるという関係は信じているということと同じになっているのです。

人はもっとも分からないのが自分のことだとも言えます。

もっとも身近にいるくせに、その自分のことはほとんど自分では分かっていません。むしろ他人に指摘された方が、自分のことはよく分かります。自分で自分のことを勘違いしているから直すことができず、自分のことを理解してくださる信頼できる人に自分のどこを直せばいいかを聴いた方が素のままで直すことができるのです。

なぜ自分のことがもっとも分からないのか、それは自分が錯覚してしまうからです。こうありたいと思ったり、こうあってほしいと考えたり、こうあるべきだと押し付けたりしているうちに自分自身が歪んでいき、素であることよりも無理に自分をつくってしまうのが人間というものです。

しかしそうしてしまうと、自分のことを自分が間違って認識しはじめ、様々なことが無理やり調整していかなければならなくなります。例えば、本来は亀なのに鳥のように空を飛べると勘違いしたり、魚なのに陸を駆け巡るチーターだと勘違いしたり、笑えない話ですが実際にはそんな変なことを繰り返すのが人間です。

それを見た周りは、気持ちはわかるのですがその人ができないことはすぐに察します。しかしそれをその人がなかなか受け止めようとしないから、改善もまた進まないとも言えるのです。

そういう時に、信頼できる人があなたはこうだからと本来の自分の姿を観てくださって、こうしたらいいとその人の徳性に合わせて指導してくれたなら本来の自分に気づくことができるように思います。しかしその徳を聴こうとしていなければどんなに親切に教えてくださっていても聴いてはいませんから気づくこともありません。

人の話を聴く時に「ああ、そうだったのか」と常に聴ける姿勢がある人こそが素直な人です。心の対話を素直な自分と交わすことができ、さらに人とも心の対話を素直にかわすことができる人。そういう人が本質的に素直な人ということなのでしょう。

素直さを持つには、まず心の対話ができること、そして人の話を聴けることができなければ維持することもできません。自分を気にしすぎて周りの評価が気になって、聴く気がない頑固な姿では心の対話からもっとも遠い存在になってしまいます。

常に人との御縁を大切に、他人を尊重しながら自分のことを知っている人に自分を教えて貰い、純粋無垢な真心との対話を続けながら天に向かって自分を直しぐんぐん伸びる生長の仕合せを楽しんでいきたいと思います。

 

見守り合い~人間愛の社會~

昨日、39回目GTの保育環境セミナーが開催しました。

ふり返ってみると、もう13年ほど前からスタートし毎年続けてこれたことに有難い思いとその間ご縁があった先生方が今の現場でご活躍しているのを思うと感慨深い気がします。

見守る保育を通して、子どもたちを見守り、子ども同士で見守り、大人同士で見守り、社會を見守り、未来を見守り、世界を見守る。

この見守ることの実践は、人と人との思いやりを通して何が人間として優先されることで幸せになるかを新たにする「道」のように思います。人間を深く愛するということが具体的にどのようなことを大切に生きることか、生き方そのものが保育そのものになっていますから奥が深いのでしょう。

昨日の藤森平司代表の講演の中で、「見守る保育の特徴は、子ども自身に解決させること。例えば子ども同士のケンカは子ども同士で解決させる。それはゼロ歳からできる。」とありました。これも、子どもを信じ、周りの大人も信じているから可能になりますがそこには深い見守り愛があります。また「その子ができないのなら他の子に頼めるようにする、先生が解決するのではなく将来の為にも子ども同士で解決できるようにする」ともありました。自立もチーム保育というものも、如何に自分が全て解決すればいいわけではなく、周りに頼み合い見守り合う関係をどう築くかということになります。常に「見守り合い」を優先しているのです。

講演を拝聴しながら、保育を通して人々を愛することでどのような社會を目指しているか、そしてどのように社會が平和になるか、同じように見守り合う社會(仁の世界)を築こうとした孔子のことを思い出しました。

孔子は論語でこういいます。

「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」〈顔淵篇〉 「子貢、問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕か。」〈衛霊公篇〉。

思いやりとは何か、それは人を愛すること、そして一生行うことは思いやりを実践することだと相手の身になって、相手の立場になって、思いやることだと。

これは「見守り合い」のことだと私には感じます。

最初は省みることもなく、礼も分からず律することもできませんから自分勝手に自分自身の思いしか出てこないかもしれませんが、しかし日々の見守り合いを通して自他の境目がなくなってきて御互いの思いが現れてきます。その思いを互いに大切に尊重していれば次第に思いやりになってきます。思いやりは、常に相手の心に寄り添って相手の立場を慮り御互いに助け合うことで愛が通い合うように思います。子ども達を信じて見守れば、子どもはみんな自然に見守り合いの中にいますから子どもから学んで子どもから自分を観直していけば子どもが創りたい本当の社會を邪魔しないでいられるようにも思います。

人類と人間の可能性を信じるからこそ、見守り合う社會も信じることができるのでしょう。この十数年で周りが変わってきた成長を省みながら、次第に子どもたちが将来築いていく社會が変わっていくのを感じて有難く思いました。

引き続き、志業に邁進していきたいと思います。

 

 

思いやりの根~自分自身の在り処~

人は自分を大切にできる人が周りの人をも大切にすることができます。

もっとも身近な自分自身との付き合い方のことなどは、あまり考えないのでしょうが実際は自分への接し方が他の人への接し方にもなっています。自分に厳しすぎる人は他人にも厳しくなっていきますし、自分を認めない人は周りの人も認めません。自他というものは鏡のように互いに映り込みますから自分の心がどうなっているかを観てはじめて相手の姿が現れます。

自分自身がどうなっているのかを自覚することは、相手をあるがままに受け容れるためにも必要なことのように思います。

しかし人は相手のことを自分勝手な見方で推測しては間違えているものです。相手を思いやるよりも自我自尊心を無理に守ろうとしては自分からみてどう見えるかや自分がどう見られるかばかりを気にしていて相手の気持ちになって相手の立場で物事を感じるという手間を省いてしまうものです。

思いやりというのは、相手がもしも自分だったらと考えて理解していくことに似ています。だからこそ、自分が思う相手がどうこうではなくもしも相手が自分自身ならと立場を置き換えて考えて慮れば次第に思いやりが通じ合っていくように思います。

その際、自分の心が鏡のように澄んでいるのなら相手の心に通じ合えますがもしも自分の心が感情や先入観で濁っていたら自他が見えなくなるのかもしれません。

自分自身が相手の立場になるのは、相手に共感することができるからです。この共感する力があるというのは、思いやることができるとも言えます。すぐに共感して泣いてしまったり、すぐに共感して感動するのは、その心に「思いやりの根」があるからです。

その根をどう伸ばしていくかは、自分の心を澄まし相手の立場に立って行動し、思いやりの実践を高めていくことのように思います。自分自身との正対の仕方を、その真心の実践と、誠の姿勢を精進していきたいと思います。

一同心同体験~偏見を取り払う~

人間は偏見の塊とも言えます。このブログを書いている私自身もある偏見を持っています。普段知っている、分かっているという認識や意識は、そのほとんどが過去に刷り込まれた偏見で、それを自分勝手に頭で理解しているに過ぎません。新しい説が出てくればその説が偏見になって知っていることになる、そういう風に知らないと知ることの間には偏見しかないものです。

しかし実際は、心を澄まし謙虚に聴く姿勢になって自然を眺める虚心坦懐の素直な自分に近づきたいと起きた出来事や体験を深く掘り下げ、その中から本質を掴み取り真っ新な自分を確認していくことが学問修行とも言えます。

実際に偏見が素直に変わるには、自分の偏見を疑うといった謙虚な姿勢が必要のように思います。相手の話を聞いてそれを自分の中の偏見と照らして否定していても、何も学ぶものがなく、相手が言わんとすることを実際に試してみてそれを自らも同体験によって理解するのとは意味が異なります。

この同体験をするというのは、楽をしないということです。体験を避けて通ろうとすれば、知識で補えると勘違いしますが実際には体験で得た智慧を聴くのならその同体験を自分もやってみるしかありません。話や本で見聞きしたのと、体験で真実を掴んだとは理解が異なるからです。

自分がその同体験をしてみて、その中から気づいたことや感じたことをもう一度素直に聴く、その自我や偏見を超えて学ぼうとする姿にこそ虚心坦懐のあるがままの世界が観えてくると思います。

実際に世界というのは、人によって見え方が異なります。それはその人の志の質量であったり、その人の人生のテーマの軽重であったり、同じものを見ていても同じものが観えているということはまずありません。

しかし自分の憧れる人や、自分が尊敬する人、自分が追い求めている人が、どんな風に世界が観えているのだろうかというのは関心があり、その人が観ている世界に近づきたい、その人と同じ体験を一緒に味わってみたいと思うから、今の自分の偏見や刷り込みなどを捨て去っても真っ新な自分のままに新しい自分を創っていきたいと思うのが進化成長のようにも思います。

子ども達は様々な大人に憧れ、自分もああなりたいなと願うものです。その純粋な願いは、自分の偏見が云々とかはなくあるがままに聴く素直で謙虚な姿勢、驚きと感動をもってワクワクドキドキ遊ぶかのように好奇心のままに学びを楽しんでいます。

教育によって、もしくは知識によって、偏見ばかりを身に着けてしまうとそのうち聴く姿勢が斜めになってしまい偏見は増えて磨かれて正論は分かってもあるがままの本質や、虚心坦懐で感じる真実が観えなくなるかもしれません。本来、自分の知らない体験をしている人に出会い、その体験から気づきを教えてもらい、それを自分でやってみて掴むことほど楽しく幸せなことはありません。自分を変えていく面白さと楽しさを知った人は、向上を死ぬまで已むことはありません。そして成長の速度も質量も、偏見がなくなっていく分に比例して益々伸び栄えていきます。

素直さというのは、簡単に言えば楽を選ばず手間暇を楽しむ境地に似ています。メンドクサイことを避けず、大変だと思うことを敢えて味わい、目だけに頼らず、耳だけに頼らず、五感フル動員、まさに全身全霊で同体験で学ぼうと真摯に取り組むことでその素直な姿勢が磨かれていくように思います。

本来の学びの意味は子どものように感動する心を失わないためにあるとも言えます。感動する心、好奇心はその一同心を持つ人との同体験によって増幅していきます。人生は一度きりですからご縁があったことが学びの機縁ですから一緒に考えていくことや一緒に体験していくことを大事に、同体験からでしか観えないその人の矛盾の魂を味わって理解を深めていきたいと思います。

矛盾

矛盾というものはとても大切なもののように思います。

分からないままに理解する力というのは、そのものを自分の価値観や偏見、知識で分かるということではなく、そのままあるがままに理解するとき矛盾を内包することができます。

本来、知識というものは分類分けられたものです。自然界を観ればすぐに分かりますが、空は空とし海は海とす、川や池や湖、それらの境界線を定義しては無理やりに分けて物事を理解しているのが知識とも言えます。その定義などは、単につけた人の物の視方の問題で何かあればコロコロと変わりますから理解の仕方もまた沢山あります。

そういうものを頭で理解しても、分類が分かっただけであってそのものの本質やそのものの真実に覚めたわけではありませんからそれは分かった気になっているだけで本来の真実を理解したわけではありません。

例えば「循環」という言葉があります。自然は循環しているよといくらいっても、循環そのもののことをどれだけ知っているかということが分かっても循環の切り取った一部を表現しても循環が理解できるわけではありません。なぜならあまりにも壮大無辺、あまりにも微細緻密であるため言葉にできないからです。言葉による分類分けというものは、どこまでいっても狭い範囲内での御互いに共通認識を持つための一つのモノサシですからそれを知っていることは真実を理解したこととは異なるのです。

そこで矛盾が必要です。

この矛盾というものは「分からない」ということです。分からないという答えがあるということを学校では教えてはくれません。分からないという答えは教科書にはありません。問題があれば答えがある、答えがあるから問題ができるのです。しかし実際の自然の中に入ったり人生を見つめれば分からないことばかりです。

分からないからできないという発想を持つならば、できたらわかったのだと錯覚してはできないことを卑下したり、できることに傲慢になったりと、結局はその人は分かっていないということが分からない人になってしまうのです。分かった気になるというのは、矛盾を捨ててしまうことです。

矛盾とは、空は空として見ない、海は海として見ない、川も池も湖もそのままの姿で観ることができるということです。それは虫を虫と見ず、草も草と見ず、そのままの自然なままで理解するということです。

それは言い換えれば「刷り込みがない状態」で見えるということです。直感するという言い方でもいいし、感覚が掴むといってもいいかもしれません。

人間は知識が邪魔をし、いちいち太陽をみれば太陽とし雲を見れば雲といいますがじゃあ今朝の雨模様の空をみてこの不思議をどれだけ理解しているでしょうか。「水蒸気が集まって冷えて雨になって降っている梅雨時期の空」などということが分かったからと、この霊妙不思議な宇宙や自然の法則や真理などとは関係がないことは自明の理です。

矛盾を内包し分からないままでいるということは、それだけ本質を追求し本当は何かとわかった気にならない物の視方をして自分の刷り込みを取り払う努力をしていることなのでしょう。

教え込まれたことは何だったか、分かった気になっているものは一体何か、まずは自分自身にそれを問い、本来自分が知りたいことが何か、本当の真実は何か、そういうことを自覚していくことで矛盾の有難さに気づけるように思います。

矛盾のままで観えるというのは単に知識で補えるのではなく、魂のままであることができるようになったと言えるのかもしれません。そのものが観えるというのは、自分自身がそのままの姿であるということですから魂が観ようとしたものが魂のままに観得たということなのでしょう。どれくらい研ぎ澄ませていけばそうなるのか、その人の道の実践と修行次第です。

引き続き、子どもと一緒に真善美を学び続けて好奇心のままに矛盾を楽しんでいきたいと思います。

感謝の性根

人は歩むを進めていく中で、遠くを視たり近くを視たりしながら前へと進んでいくものです。しかし実際は、遠くを視ることもなく足元も視ないで歩みちゃんと歩こうとはしていないように思います。

なぜ理念や初心が必要なのか、そこはちゃんと遠くを視てはブレずに歩んでいかなければ方向を見失ってしまうからです。そしてなぜ内省と実践が必要なのか、そこは足元にあるものを視て全て自分にとって大切な意味があると着実に歩んでいかなければ体験を喪失してしまうからです。

まるで遠くの星を見つめながら足元の花を愛でることや、夢のような景観を楽しみながら手の中にあるコップの水を溢さないようなことは、「歩む」という本質において何よりも欠かせないことのように思います。

目先か将来かではなく、「今、此処」をどれだけ真摯に受け止めているかで目先も将来も大切にできるように思います。それは単に視方だけではなく、組織の在り方にとっても同じことがいえるように思うのです。理念か協力かではなく、理念も協力も大切だと実践するときにだけ、今、此処が生きているからです。

結局は、どれだけ全ての物事を「自分に必要なことだ」と感じるかどうか。一つ一つのことを自分の価値観や偏見で裁いてはあれもこれもと目で追ってばかりで、目ばかりを疲労させるのではなく、目の前の足元にあるものをどれだけ大切なことだと味わっていけるか、そこに将来に対する姿勢や今に対する覚悟、過去に対する感謝が育ってくるように思うのです。

今、起きている全てのことは自分に必要なことであり必然だった。

そう感じるからこそ、全ての出来事を慈しむように味わっていく。その心が内省であり、その有難いご縁や機会を大切に遣わせていただきますというのがいのちの在り方であり、感謝の根がはっているいることのようにも思います。

如何に感謝の根を性根に入れるかは、その人の物の視方の鍛錬に由るもののように思います。全てのことに手を抜かないとは何でも真面目に頑張ればいいのではなく、どのことも全て感謝で有難くさせていただけることにもったいないことだと尽力していくことに似ています。つまり手を抜かないとは手伝うということです。

それを忘れ自分のやりたいことができないからと、目ばかりを疲れて目頭を押さえて眉をしかめていても笑顔もなくなり健康を損ない、楽しくもなくなってきます。手伝える仕合せを自覚することや、今、目の前にきた全てのことに感謝して選ばずに全身全霊でそのことを味わっていける方がよほどの将来のことや周りの人々のことを大切にしているようにも思います。

感謝の性根を伸ばし、今、此処の養分を素直に吸収して生長のご縁を味わっていきたいと思います。

心の持ち方~いま、ここ~

人は心の持ち方を学ぶために人生があるとも言えます。

嫌なことがあったときや辛いことがあったとき、そこからどう転じて学ぶかということができるかどうかでその人の成長が確認できるからです。そして心は自我や執着、また不安や恐怖によって出て来難くなってきます。どんなに足掻いてみてもそうなってしまうものは諦めるしかありませんから、その都度心の持ち方を変えて歩みを止めずに進んでいくしかないのも人生であろうと思います。

上手くいかないと思ったり、考えていた通りにいかないときは、どうしてもネガティブになります。そのネガティブさをどう転じてポジティブにしていくかが心の強さでもあり、心を持ち方次第ということです。

例えば、「いま、ここ」という心の持ち方があります。これは心が離れているとき、その心を取り戻すときに「今」に集中し、「此処」に在ることを確認します。すると、彷徨っていた意識が心の在り処を思い出し、心を取り戻すことができるようになる心の持ち方です。

世界では、「リジリエンス力」といって船が波に揺られてもまた元に戻るように、様々な荒波を受けてもそこから立ち直る力、立ち上がる力として注目されています。失敗を恐れず、果敢に挑戦し、失敗から学び失敗から成功へと転じていく力の根底に必須の心の持ち方であると定義しているのです。

これらはすべて「信じる力」の一部分ですが、如何に心が丸ごと信じているかを人は常に問われているともいえるのです。自分の考えの小さなに気付いたり、相手の考えを受け容れたり、人は自分の心の持ち方次第でその器を大きくもでき、また小さくもなります。

自分の成長というものは、如何に心の器を大きくしていけるかにあるようにも思います。そこには、心が現実の世界に負けない強さ、心の世界の方が現実よりも優先される信じる力が人生そのものの醍醐味を決めてしまうからかもしれません。

過去のことを悔いてみても仕方がありあせんし、未来のことを憂いてもどうしようもありません。そんな時は、過去は意味があったとしみじみと味わい、未来は面白くなりそうだとわくわくと感じる、そういう有難いご縁や御蔭様に感謝する心を今に取り戻して今のままでいいと開き直るなら人はみんな素直になっていけるのではないかとも思います。

この素直さというものは「いま、ここ」と密接につながっているように感じます。

子どものことを思えば、どう過ごしていたって時間が過ぎればそのうち子どもたちの時代になってしまいます。どうにかできるのは常に今だけですから、過去や未来を思い煩うよりも今できることに集中して禍福一円に今を味わい盡力していきたいと思います。

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。