高菜実践

無事に今年の分の高菜を収穫することができました。昨年よりも見た目もよく中身もしっかりした高菜にめぐりを繰り返す中で育つ逞しさを実感します。

ふり返ってみると、めぐりを繰り返すことで生命は強くなるように思います。それを進化と呼ぶのかもしれません。一日一日をめぐり、一年一年をめぐり、百年をめぐり、千年をめぐり、万年をめぐる。生命はずっとめぐりを通して今の生命になってきたのです。

昨年よりも今年がよくできたのは、ひとつのめぐりをこの場所で一緒に越えた証なのではないかと感じるのです。その証拠に、昨年よりもより手に懐いてくる感じや、そのものが今どんな状態なのかを身近に感じるのです。

御互いに必要と仕合い共生関係を結ぶ中で、私たちはお互いに強くなっていきます。進化発展し合うのは、お互いの心の通じ合いに由るのではないかと私には実感するのです。

山川草木、鳥獣虫菌にいたるすべてのものには心があります。

その心を通じ合わせていくことで、はじめて互いの存在を認め合い助け合い見守り合う関係を結べるのです。自然から離れるのではなく、自然に近づいていくことで私たちはいのちを食べ食べられるという信頼関係を結べます。

この地球の中で生きているからこそ、その地球の土の上で地球一体になって仲良く暮らしてきたのでしょう。震災からはじまった自然農の実践、そしてご縁からはじまった高菜漬けですが思い返せばこのめぐりから沢山の学びをいただいています。

つながりを大切に、時間をかけて手間暇と手塩にかける有難さを忘れないように実践を高めてくれる菜、これが高菜だと定め、精進していきたいと思います。

一期一会の糸

日々は様々な出来事が滝のように流れていきますが、人の一生は誰にせよ当たり前ではないことに包まれています。当たり前ではないことを言い換えればそれを「奇跡」と呼びます。

人の運命は人それぞれで異なり、霊妙数奇な組み合わせによってご縁が彩られます。あの時、あの一瞬で自分が変わったという体験が今の自分に出会わせています。

そう考えてみると、どれだけ必死に今を大切に生き切るかというのが当たり前ではない奇跡を味わえるということになるのです。

奇跡とはラテン語の古語によれば「驚き」のことを指します。驚きとは人智を超えた何か偉大な力が働いているということです。この驚いた出来事に遭遇する、その奇跡がミラクルという言葉になっていきます。

それに対して日本では御蔭様や有難い、勿体ないという言霊があります。これもまた奇跡に出会うからこそ顕現する言葉です。

人間はなんでも自分の思い通りにしていくことに執着する人や、自分の野心や願望ばかりに囚われていると、足元にある本当の倖せや、他人様から頂戴した思いやりや真心に気づかなくなるものです。そういうときは驚く心や感謝の心を忘れてしまっているかもしれません。

人は自分勝手で生きているのではなく自分が全体に活かされているという一期一会の実感は、当たり前ではないという奇跡の今を歩んでいく中でこそはじめて磨かれていくように思います。

出会いで人格を高めるということは、全体に活かされていることをいつも学び気づき直すということでしょう。

数奇な運命を生きるわたしと、数奇な運命をいただくわたし。
この「驚き」と「感謝」こそが一期一会の糸を結びます。

悠久のめぐりのなかで出会う自己との内省と対話こそ生活の基本です。

一期一会は私の自戒ですが、時は誰にせよ等しく過ぎ去っていきます。いちいち小我に呑まれてできそうにもないことに妄想を走らせず、自分の野望や願望に固執せず、二度とない今に素直心を定めて、訪れ来たものを選ばずに一期一会の糸を紡いでいきたいと思います。

御米

私たちは親祖よりずっと御米を食べて暮らしてきました。

それは国内にある様々な遺跡の中から、炭化した御米が発掘されていることからわかります。縄文遺跡の以前は、陸稲を中心に栽培され、弥生遺跡以後は、水田を中心に栽培されています。

そもそも私たちは自然の一部ですから何と共生をするのかを選択して生きています。この共生とはなくてはならないいのち同根、生死一道の関係のことです。その共生の相手に御米を選んだというのが私たちの親祖です。

人は食べたものでできているものです。何を今まで食べてきたかを観れば、その人のからだが何でできているのか、どこからでてきているのかが理解できます。その元を知ることが自分を知ることであり、その根を確かめることが自分を実現させることのように私は思います。

日本の全ての行事は御米と一緒に学んできたことがカタチになっているものです。それが今では私たちが一番長く食べてきたものを育てたことがないということに大変な危険を覚えます。古来からあるものから離れるということは、自分たちの姿を正しく理解できなくなるということでもあるからです。

御米作りというものは、一生涯の働きであり、御米を食べるということは私たちがなんであるかを知るただ一つの道だと私は感じています。

日本の自然思想家であり医者である安藤昌益という人物がいます。この方の「自然真営道」という著書の中で下記の一文があります。ここに御米とは何かということの真実が書かれているように思うので紹介します。

「米(こめ)は神と同音、米(よね)は世根、稲は寿根(いのちね)の略。稲荷とは人の神身皆稲なれば人常に稲を荷(にな)ふ意。飯は命師(めし)又は身師(みし)の転訛。寿(いのち)は飯中(いいのうち)の略。迷は米吾(わ)を去りて他にゆく意。即ち食を離れた時の心理状態に名づけしものである」

つまり古来、御米こそ日本人のいのちの糧であり心であったということです。

自分がどこから来たのかというのは、これからどこへ向かえばいいのかを自覚する唯一の鍵です。その鍵こそ私は御米であると確信しています。

今年もまた自然に沿った御米作りがはじまりますが、ここで御米から学んだことを後世のために譲り、そして人類の初心のために活かしていきたいと思います。

 

執らわれない

人が一人前に仕事ができるようになるというのは、様々が定義があるように思います。例えばそれは技術力が極まりミスがなくなることという人もいれば、結果が出せるようになるという人もいます。しかし私が思う一人前は思いやりで仕事ができるようになることであり、なるべく周りに迷惑をかけないようにしていくことのように思っています。

実際、人として当たり前のことができればそういうことは少なくなってきます。しかし実際にそれは大変に難しく、日常の挨拶から片付け、情報共有や労い、御礼など言い出せばきりがありませんが心構えができてその一つ一つのことを実践できつつも同時に一つのことに執らわれない心を如何に持てるかということが大切ではないかと齢と体験を経るたびに思えるからです。

どれだけ自分に打ち克ち我儘をしないで周りを思いやれるかは人間人格修養の一生の課題かとは思いますが、仕事というのはその人格を磨くための大切な機会になっているように私は思います。仕事が面白いのは、そういう自分の心を高め磨くリハビリにもなっているからです。

私がよく讀み直す大好きな本の一つに、千日回峰行を満行された塩沼亮潤さんがいます。この方の著書「執らわれない」(PHP研究所)の中にはその人生体験の中で得られたことを自分の言葉にして紹介している箇所がたくさんあります。

ここで仕事の思いやりについていくつかご紹介します。

『自分が正しいからと言って、強さが先行して優しさに欠けたり、心配りが足りなかったりすると、陰で涙を流す人がいたりします。ちょっとした加減で微妙に変化する人生は、方程式のように毎回同じようにはいきません。』

人は得てしてうまくいったパターンにとらわれてしまうと自分が正しいと思い込みます、そしてそれをやることが一番なのだと周囲を省みずに強引に進めていると周りを知らず知らずに傷つけてしまうものです。独りよがりの正義は思いやりを内包しませんから、正しいよりも楽しい方を選んだり、正しいからいいではなく真心を籠めるという力をつけなければなかなかみんなが倖せになるような行動ができないものです。私もいつも気を付けていますが、どうしても理想と現実の中にある中で頭で思い込み刷り込みに負けて真心や感謝が欠けると人間関係に失敗をしてしまうことばかりです。

『みんなのためにと思って行動しているときに、何か一つのことにとらわれすぎると、周囲との隔たりができたり、ものごとが裏目に出て、逆にみんなに迷惑をかけてしまうことがあります。』

よく法理法則では「部分最適ではなく全体最適を」という言い方をします。人は自分の考えに固執するのではなく、よく周りの意見を聴き相手を慮り譲歩しながら歩むならあまり行動が裏目に出ることもないように思います。きっとこれでいいはずだという思い込みは、不確定な状態では頼りになるのもしれませんがいつも心を周囲に開いていたり、真心や思いやりを忘れないように小まめに自己内省していき聴く姿勢を正していくことが本質的に迷惑をあまりかけない方法かもしれません。

どちらにしても「執らわれない」という塩沼亮潤さんが目指す理想が、私が目標にする姿と一致してその生き方に共感することばかりです。離れていても共に歩んでいる道があること、真っ直ぐに歩まれているその有難い存在に深い感謝を覚えます。

『強くなんかない。清くなんかない。唯そうありたいと、願い続けているだけ。人の一生はみじかい。いかなる道を歩もうか。思いなやむことなく、唯この道をひたすらに。』

執らわれない実践を積み重ねて歩んでいきたいと思います。

奇跡の今

人類は何万年も前からこの地球で暮らしていたことが遺跡からわかっています。宇宙はどこまで広がっているのか、またどこからはじまったのかも興味があるかもしれませんが同時に人類はどこから来たのかというルーツについても同じく興味があるものです。

そうして時間というものを考えてみると、いつはじまりいつおわるのかは誰にもわからないことに気づきます。ある生き物は7日間で生死をめぐり、ある生き物は数千年で生死をめぐります。生死の長さはそれぞれにとって異なり、人間が定めた時間を物差しにしてみると短命、長命と分別しています。

しかし実際の生物たちは、過ぎた過去のことを憂い、まだ見ぬ未来のこと憂いているか、時間という概念がもしもないのならそういうことを思い煩うこともないように思うのです。

例えば人類があと5万年生きようとします、すると5万年をどう生きるのかを悩めば悩むほどにありとあらゆる準備をしなければなりません。文明を発展させては、もしも地球が滅んだ時のためにと宇宙にも脱出していかなければなりません。そのためにありとあらゆるテクノロジーを開発していくのでしょう。

しかし実際はどうかといえば、宇宙の大きさからみても私たちが準備してもどうにもならないものもあります。太陽が爆発したらおしまいですし、ブラックホールが急に出現してもおしまいです。地球の中にいても急に大噴火が発生し氷河期がきても大変ですし、大地震で大津波がくるかもしれません。何が起きるかはだれでもわかりません。これは決して対処しなくていいというわけではなく、あまりそういうことばかりを考えていたら本当の今という現実から離れてしまわないかということです。

生物たちは今の一瞬一瞬を面白く楽しく過ごしています。どんなことがあっても今から離れずに今を生き切っていきます。そこには自分が7日の生命かどうかなど煩わず、もしくは1000年であろうが関係がありません。今日一日、この今の一瞬一瞬を大事にしていきます。心を今から離さないといった方がいいかもしれません。そうして今から離れないからこそ沢山の奇跡に出会っていくように思います。

よく考えれば、この先のことを憂うよりも今があることがどれだけ有難いことか、昔のことをくよくよするよりも今があることがどれだけ御蔭様であるか、物事の善い方を感じることができることは仕合せなことです。

畢竟、今を大切に生きるということが心でいつも奇跡を感じる方法かもしれません。

奇跡の星に生まれて奇跡の星に今あることが愉しいのでしょう。

ありのままに正しく物事をみるためにも今を愉しみたいと思います。

心の実践

人は共感することで相手のことを深く理解していくことができます。この共感とは単に相手を知ればいいということではないことはすぐにわかります。しかし実際、共感をするということが何かということを理解している人は少ないように思います。

例えば、相手の話を聴くということがあります。これも単に話を聞けばいいのではなく、聴くというのは相手のことを自分のことのように関心をもっているか、もしくはどれだけ自分が心をありのままに開いているかということが関係します。

しかし実際は関心も心も開くこともなく、心を遣わないままに頭が先に出て心が入らないことがあったりするように思うのです。それを自分で気づける人は修正できますが人間が幼いころから大人の社会を身に着けるために世渡りが上手くなって刷り込まれてくる過程でその心の実践を忘れてしまうことがあるように思うのです。

それでは心の実践とは何かということです。

極端な例かもしれませんが、1990年、フランス人の野生動物専門カメラマンを両親にアフリカのナミビアで生まれたティッピという少女がいます。10歳になるまで、原住民たちと共にアフリカの野生動物に囲まれて育ち、生まれつきどんな野生動物とでも仲良くなれたと言います。

この子の動物と戯れている写真を見たら、まるで兄弟か家族のように動物たちと仲良くなっています。動物たちもその子に警戒せず、その子も警戒しません。本来の野生動物は食べ食べられる本能がありますが、生命の進化を観ていたらその相手ではないと思えば自然に近づくことができるのかもしれません。

その中でその子がこういう言葉を語っています。

「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」

ここに共感するということの真意が潜んでいるように私にも感じます。相手が心を開かないのは自分が先に心を開かないからです。そうして開かないからこそ相手は自分に対して心を開いている分しか開いてくださらないのです。

まず自分が心を開くのは相手が先に心を開いてくれてからという人もいますが、人が自ら共感するというのは自分の心をまず開いてから行うことをいうのでしょう。もちろん、心を開けば傷つく時は大きな痛みを伴うかもしれません。しかしそれ以上に相手を思いやり、もしくはそれ以上に冒険したいという気持ちがあれば心はいつも先に出てきてくれるようにも思います。

勿論幼いころの心の傷や痛みは古傷となって今でもズキズキするかもしれません。しかしその傷や痛みは相手を分かろうとした痛みであり、相手を近づこうと冒険した証の傷なのですから自分の誇りであり、また勲章なのです。

仲良くなり助け合いわかり合う共感とは、心のかかわりつながりを持つことです。

小さな勇気を振り絞り小さな一歩を踏み出すことで心は開いていきます。
自然はいつも私たちに心をまるごと開いてくださっています。

仲間に出会える倖せのためにも、敢えて自分から裸になる心の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

故郷~初心の拠所~

人には故郷があるように、人の心にも故郷があるように思います。

先日、ある学校方々と面談をする中で「子どもたちがまたいつか帰ってこれるような学校にしたい」という言葉を何度も聴きました。そこには、我が子のように思い子どもを見つめる暖かい眼差しも同時に実感しました。

子どもにとっては未来への一つの通過点であったにせよ、そこを起点にして人生が強くなったり人生が豊かになること、生きていく上での大切な節目になることを祈り学校は存在するのかもしれません。

そもそも故郷というのはその人の風土や心の初心であり原点です。

その原点に帰ろうと思えるのは、そこで暮らした善き思い出を頼りに世の中へ羽ばたいていこうとする心境でもあろうと思います。田舎から都会に出て、社會の中で自分らしく自分の役割を全うする。その中においては様々な困難や試練、あるいは倖せや奇跡にめぐり会うのでしょう。

そんな時、ふと今の自分があるのは何があったからだろうと立ち止まるとき原風景が顕れるのです。それを心の原風景といってもいいかもしれません。愉しかった思い出、幸せだった仲間や先生たちとの邂逅、その人を支えるのはその人が信じ合っている家族や仲間と暮らした物語です。

心の強さというのは肉体とは異なり、単に厳しくすれば強くなるものではありません。人からの思いやりや真心、朋との信頼、志を歩む方々の姿、そういうものを一緒に歩んだ経験が心を強くしていきます。

その機会をどれだけ沢山の用意できるか、此処に居ていい、此処が居場所であるという体験をその子どもがどれだけ実感できるかに由るように思うのです。

人生は旅路です。

旅は元々居た場所に戻って来るからこそ楽しいものです。その元々の場所こそが故郷ということでしょう。その人が人間として如何なる初心を持つか、それは周りの大人たちの生き方に習って学ぶように私は思います。

卒業は一つの旅路に出るその人を初心の拠所として見送るということです。

素晴らしい学び合いを通して心の原風景を育てていく志事に改めて感動しました。

最後に子どもたちに希望を与える志事に魯迅の故郷の一節で締めくくります。

「希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

その希望、その初心が忘れられないように真心でお手伝いさせていただきたいと思います。

優しさと強さ~心の在り様~

人は「優しい」というのは、人の気持ちが自分のことのように分かるということでもあります。相手のことを思いやるから優しくなれますし、優しいのはその人の倖せを深く願う真心から来ています。

しかし優しいというのは強さが要ります。ある格言に「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる価値がない」というものもあります。

一見矛盾しているようですが、優しさと強さがあってこそ真心を発揮することができるからです。優しいだけでも強いだけでもそれは本質的な優しさではないように思います。

思い返してみると、学校の思い出にいじめがあります。大なり小なりいじめはありますが、いじめられる子、いじめる子に分かれてはお互いを傷つけあっていきます。しかし、その中でも優しい子どもは自分がいじめる側につくくらいならと学校に行かなくなっていきます。

不登校になる子どもには優しい子どもが多いというのは、優しさゆえに自分を責めてしまうからです。子どもは最初からみんな優しい心を持っているように思います。いのちを慈しむ”かわいそう”と感じる慈心の事です。

学校では、強くなれ、やさしさだけでは社会では通用しないぞと色々な圧力を各方面からかけられましたが、実社會に出てみたら確かにそんな社会もありました。しかし現実に社會を創る側にまわってみると、実は真逆で真心でなければ本質的には通用しないことを自覚するのです。

表面上周りに合わせて社会に慣れるのと、社會を本気で変えていこうと生きるのではその生き方がまったく異なっていきます。子どもたちのためにと社會を善い方へと変えていこうと思ったら優しさというものは必要不可欠です。そして表面上ではなく本質的な優しさを発揮していくために真の強さを持たなければ子どもを守ることはできません。

つまりは、優しく強いというのは子どもの周りの大人たちに必要なモデルであり、優しいままでいいから強くあるようにと見守り育てていくことが大事なのではないかと思うのです。

弱いから強くしよう、優しいから厳しくしようとするのは真心からではないような気がします。弱く優しいからこそ守ってあげよう、そしてそういう人たちを守る社會を育てていこうとするのが思いやりだと私には思います。

社會はどこでできてくるか、それは子どもたちの創りあげたい社會が今の社會です。私たち今の大人が作った社會を無理やりに子どもに押し付けるのではなく、子どもが望んでいる社會をよく見つめ、どうやったらその社會が実現するかを考え直して見守り育てていくのが私たち大人の使命だと感じます。

人を傷つけるくらいなら自分が傷つけばいいなどという自責の念で潰れそうな子どもたちをひとり孤独にしていては世の中から希望が失われていきます。希望を与えるには、強く優しい真心の実践が必要です。

自分が自分に打ち克つからこそ人を深く思いやれ、そして自分が希望を捨てずに最期まで諦めなかったからこそ目の前の人の心を強くしていくことができるように思います。常に優しさと強さは心の持ち方、心の在り様からはじまりますから、同志の学校教育に一緒に向き合っていく以上さらに奥深い心の本質に入っていきたいと思います。

 

執らわれない心

人生は不思議で思い通りではない時の方が思った以上のことが起きているものです。

有名な故事に「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。これは中国の淮南子という古い書物に書かれている物語ですが私はこの言葉が大好きで、実際には世間には悪いように見えている禍の出来事であってもその実は、天の計らいによって福に転じていくこともあるという仕合せの原点回帰の話のように捉えています。

通常人は一般的に周りや世間からみると同情されるような出来事が発生すると落ち込んでしまうものです。自分の中で落ち込んでしまえば、それは不幸だとか禍だとか勝手に信じ込んでしまいます。しかしこの中国の塞翁は、「本当は善いことかもしれないよ」とその時々に周りに言っては、時間が経つとすべてそれが福に転じて戻って来るので周りは驚くのです。

これは悪いことの側面に善いことがあり、幸せの側面には不幸がある・・・しかしその両方が何かの御蔭様に由っていると思うとき、その仕合せは禍福が一円満になっていることに気づいているのです。

物事とは片方だけで見るのではなく、両方で見ることは大切です。そして同時にそれは一部分だけをみるのではなく全体で観ることが大事です。しかしつい人間は自分の感情に呑まれてしまうと、視野が狭まり目の前のことだけで見える世界がいっぱいになってしまいます。

そんな時、信じることができているならそれは実は天から与えてもらった贈り物かもしれませんし、願っていることが次第に叶っている最中なのかもしれないと思えるのです。

これは謙虚に虚心坦懐に日々に信を積み重ねていく精進があって仕合せのめぐりあわせに気づく感性を高めていくから実感できるようになるのかもしれません。不思議なことですが人は一般的に誰かと同じような出来事が起きていたにせよ、その仕合せに気付く感性次第では物事は全く異なった真実をみせてくれます。

信じるということの奥深さはこの人間万事塞翁が馬の故事の中に秘められています。

畢竟、どうにもならない運命に対して、どのようにそれを味わっていくかはその人の人生次第です。一度しかない人生をどのように味わったかを、後で振り返るとしたならばあの時、信じて本当に善かったと思えるような歩み方をしたいものです。

ご縁を大切に、御蔭様を感じながら、執らわれない心を磨いていきたいと思います。

 

 

からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。