自助精進

昨日、昔から私たちと一緒に理念を取り組んでいる園を、これから一緒に理念に取り組む園が見学に伺いました。もう6年も前から一緒に実践を高めて取り組んでいますから気心も知れているのですが、改めて学び直すと本当に多くのことに気づかされる素晴らしい一日になりました。

人生には無駄がないというのは、決して無駄になっているものはない。その一つ一つに気づけるかどうかは自分次第であり、その事物から教えていただくことの方が確実なのです。

過去に共に歩んできた軌跡が如何に有難いことだったか、誠実に正直に取り組んでお互いに信じてきたことが如何に価値があったのかは、振り返った時にこそ味わい深くなるものです。

信頼というものは、信じて認めるということですが一緒に真剣に取り組んだからこそそれが強い絆になって今を照らすのでしょう。同じような悩みや苦しみがあり、そしてそれを乗り越えたものもこれから乗り越えるものも共にその大切さに気づけるということは道を一緒に歩んでいきましょうという無言の励ましになるのです。

他人が実践し踏み固めてきた道を観れば、それを観て元気を出るのは諦めなかったという心の姿勢に触れるからかもしれません。理想に向かって信じて歩んできた仲間たちの存在は心強く自他を愛し励ますものだと改めてご縁に感謝する日になりました。

特に感謝したのは、一緒に取り組んできた理事長の一言です。

如何に人が定着するかという話の中で理事長が大人も子どもも同じことですという話です。他人が居心地がよくなるのは子どもならどうか、

まず一つ目が「ここは僕の部屋だよ。」と子どもが感じていること。そして二つ目が「大好きな先生がいる」こと。そして三つ目が「大好きなお友達がいる」ということと教えてくださいました。

これが大人であっても同じことで、その職場は自分の家だと思えること。そして大好きな上司や大好きな仲間たちがいればそれがもっとも居心地が善いと仰っていました。

そのうえで、美味しい給食、色々なイベントとか、その他の処遇とかのオプションがあればいいとありました。

そして「この保育園の一人だと思えることが大事。」だと語られました。これは言い換えればこの組織の一員だと思えることが何よりも大事だということです。

自分がこの一員であることに誇りを持てるような関係になることがもっとも有難いことかもしれません。本気で理想を求めて已まず実践を励まし合い助け合い、どんなことがあっても前に進む、いや、進んでこれたという大好きな自分を持てる人が一人でも増えることが遣り甲斐であり働き甲斐だからでしょう。

実際は大変だったし今も大変ですと同時に仰られる姿に、ご縁と出会いがあったことに深い感動がこみ上げました。一つのことが結実するのは数年から十数年、もしくは数十年、数百年とかかるかもしれません。

しかしこの道は一度しか通らぬ道、もう二度とは通らぬ道なのです。

恥じないように誠実に取り組んできたことが、形になることは本当に有難いご縁に見守られ支えられた日々があったという証明です。饅頭を増やすよりも餡を増やせという言葉の意味も改めて深く腹に落ちてきます。

まさに「天は自ら助けるものを助く」です。自助精進こそ進化成長の要諦ということなのでしょう。

引き続き、人が仕合せになる仕組みを人が徳に報いる自らの実践を怠らず日々を真摯に高めていきたいと思います。

 

実践の励まし

実践をしていると、いつも蔭ながら多くの人たちに支えられ応援されていることに気づきます。

先日も、クルーブログというものを愛読してくださっている方から色々な質問をいただいたり、また新聞を読んでくださっている方からも記事を褒めてくださったりしました。

他にも日ごろの実践がお客様のところで、参考にしてくださったり真似してくださったりと発信したことを丸ごと信じて一緒に取り組んでくださっていたと知ると、有難い気持ちになり頭が下がる思いがします。

本質から外れないようにと、理念を忘れないようにと、日々に実践を増やしては来ましたがそれが誰かの勇気になったり、それが誰かの貢献につながっていくのを実感すると、正直に取り組んでいてよかった、誠実であって善かったと自分を褒めたくなるし自分を好きになるものです。

人間は正直に行うことや誠実に取り組むことが最も尊いと気づくのは、見た目で誤魔化さなくても自分自身が観ている、自分が取り組んでいることは天が知っていると自分に正直誠実であるときかもしれません。

実践をさせていただける有難さというのは、実は多くの人たちの見守りがあってこそだと直観するのです。

実践はひとりで黙々と坦々と行うものですが、それが知らず知らずにお役に立てていると知るとより心が強くなっていきます。そして一緒に実践してくださる仲間たちが増えていくのは何とも心強い気持ちになります。

道はどのように歩くのかはその人が決めるものです。二度と同じ道は通らず、もう一度通ることはない道なのがこの人生です。その人生をどのように歩んでいくのかはその人が決めています。

その信じた実践をみんなで持ち合って、お互いに道中を励まし合いながら助け合いながら歩める道は、豊かで愉しいものであるのです。

たった一度の道をどのように歩めばいいのかを発信していくということは、自分の生き方を、そして働き方を示すことです。何のために生き、何のために働くのかを発信するということは、同じように生き、同じように働きたいと願っている人たちの励ましになるのです。

励ますというのは、背中を見せることかもしれません。そしてその背中をそっと押してあげることかもしれません。人は信じれないようなことが多いとだんだん不安になり分かっていてもできないというように歩みが弱弱しくなってしまいます。

そんな時こそ、実践がお役に立ち、励ませるように思えるのです。

どの人生も、いや、すべてのいのちもその生き物が生きる以上、自然界では何かの御役に立っているのですから正直に誠実であればそれだけで周りの力になっているというのは真理なのでしょう。

多くの励ましをいただいているからこそその有難さを決して忘れず、感謝の顕れでもある日々の実践を怠らず、正直に誠実な自分を高めていきたいと思います。

信を握り合う~絆~

人間は誰かと一緒にいるだけで支えられるものです。

特に価値観を共にする人と一緒にいるというのは、お互いの存在を認め合い、お互いの努力を信じ合えますから居心地が善くなるものです。

昨日もお客様のところで同じ実践を積み上げていく中で共に振り返り、共に反省し、共に励まし合う中でお互いが信じ合うものを確かめ合う中で仕合せを実感しました。

また相手から求められ、一緒にできる仕合せの御蔭で安心できますと言われると何とも有難い気持ちに心が満たされていきます。

御縁というのは不思議で、自分が信じて一生懸命に行い愉しみ喜ぶことがほかの誰かのためにお役に立っていると思えることは有難いことです。そういうご縁をいただけるのもまた喜びと幸せであり、そういうご縁に導かれて自分か活かされていることに感謝の心に満ちてきます。

相手を思いやっていながらも相手からも同時に思いやっていただいているという感覚は思いやりに満ちていると思います。

つい人間は一人でやろうとすると、うまくいかないことを他人のせいや自分のせいにしてしまいます。しかし一緒に取り組めば、相手のせいにも自分のせいにもせず、お互いに感謝しながら必用としあって助け合えるものです。

同じ目的のために同じ理念のためにと力を合わせていけば、そこはまるで家族です。

一緒に実践していられるのは、同じ理念があるからです。理念とは本質のことであり、理念とは自分がもっとも大切にしたい理由です。そういうところをお互いに理解し合い分かち合ったならその時こそお互いが信を握り合うことができるように思います。

信を握り合うというのが絆のことであり、お互いが自分と決めた約束に誠実になっているということです。この強い絆は、お互いが相手をみて自分を変えるようなこともせず、お互いが自分で決めた約束を自分で守るという決心と覚悟に忠実であるということです。

信頼というのは、自分自身に負けずに他人のせいにもしないときに結ばれていきます。その信頼があるからこそ、相手のことを自分のように思いやり、励まし、応援し、労い、そして褒め、愛を与え合うことができます。

自分が遣ってきて善かった、諦めなくて善かったと思うのは、自分が挑戦し自分が打ち克って道を切り拓いてきたことを信じる人たちが幸せになっていく姿を観るときです。

それもこれもまたご縁の不思議な世界に導かれます。

ひとりひとりの出会いを大切に、丁寧に丹誠を籠めて実践を積み上げていきたいと思います。

 

愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。

健康

人間は、健康であるということが何よりも大切であるように思います。

身体の不調が起きると、精神や心が乱れます。また精神や心の不調が起きれば身体が乱れます。健康というのはバランスのことであり、そのバランスが崩れるから本来の自然からかけ離れた生活を送り不調が起きるともいえます。

自然というものも、気候の変動から日々の気温の変化、また全体との変質で常に変わりつづけて已むことはありません。そんな中で生活する私たちも自然の一部ですからその変化に巻き込まれ続けていくのです。

何も変化のない日など送れるわけはなく、いくら本人が変化を避けようとしても人の老化と同じく変化していないものはないのですから日々に変わりつづけていく必要が生じます。

身体の健康管理は、目に見えやすく体調の不調や病気の兆候によってはやめに察知することができます。たとえば、皮膚に出てきたり、下痢をしたり、熱がでたり、頭痛がしたりと、身体がバランスを崩す時には崩れてきているサインがあります。それを治癒するには、食事や睡眠を改善し規則正しい生活を心がけたりすることで次第に回復していきます。

また難しいのが心の健康管理です。心は目には見えにくく自分が不調かどうかを察知する方法があまりありません。しかしよく観てみれば、自分が忙しい時や余裕がない時、他人を不信がるときや人と一緒にやりたくないとき、もしくは未来のことや過去のことばかりに思い煩っているときは心のバランスが崩れているサインでもあります。それを治癒するにも、深呼吸をして心を落ち着かせたり、思いやりに触れたり、内省を規則正しく行うことで次第に回復していきます。

それに精神の健康管理もありますが、自分の志がどうなっているのかなどは考えることもありません。精神が不調になってくると怠惰になったり、自分に甘くなっていきます。志を忘れたり、何のためにという本質を見失ってしまいます。これも精神が不調をきたしているのです。常に日々に真剣に一心一事に打ち込み、規則正しく自らを練磨し修養に努めることで同じく次第に回復していくのです。

身体、心、精神と書きましたがこれらは分かれているものではありません。これらはお互いにつながりあっていますから、これをバランスよく維持していくのが健康であるということです。その健康というものを維持するのの本質は、規則正しいかどうか、道理に合っているか、そして実践しているかどうかです。

これらは「実践」によって調和するものですから、実践なくして健康であるということは考えられないのです。実践することができるというのは自分がバランスを崩さないという規則正しい生活をする覚悟を決めているからできるともいえます。

つまり長くなりましたが、実践できていれば健康であり、健康であるというのは実践ができているということなのです。

実践をせずに、色々とやってみてもそれは結局はバランスが崩れたままに直そうとすることに似ていて結局は崩れてしまいます。そうならないようにするには、常に健康を維持していく精進こそが何よりも世の中に自分を役立てて自然体になっていく真理なのでしょう。

最後に実践人の家の森信三さんの言葉で締めくくります。

「人生二度なし、真理は現実の真っ只中にあり」

空想も妄想でもなく、ただ目の前にあるものは現実だという事実、現場実践の今、此処というのがバランスの調和した場所であることを忘れず健康である正しい日々を学び続けていきたいと思います。

真心の日々~御縁~

人は色々な出来事に日々に出会いますがそのご縁をキャッチできているかどうかは、その心が澄んでいるかどうかに由るものです。いくら一期一会の出会いがその場にあっても、ひとたび自分の心が曇ってしまえばその出会いに気づかずにご縁を活かすことができません。

ご縁を活かせるというのは、その意味を味わい尽くして感謝できているときにできるものです。そしてそれはまず自分の心の穢れを洗い清めていく中で心を澄ましていくことのように思います。

人は出会いによって人生が変わっていくものです。

思い返しても、あの時あの人に出会わなければ今はなかったと思うことばかりでしょう。それに今自分がどんな方々に出会っているか、その出会いを導いてくださっている方はどんな人かと思えば、自分にとって素晴らしいご縁をいつもつないでいただく方は自分の仕合せを導いてくださる導師なのです。

導師の御蔭で素晴らしい先生と出会い、導師の御蔭で素晴らしい仲間と出会い、導師の御蔭で素晴らしいご縁と出会う、その導師はいつも思いやりと真心で自分自身の出会いがより善いものに導かれるように祈りご縁をつないでくださっているのです。

天は公平無私です。それは誰かを選ぶのではなく、その人その人に素晴らしいご縁を与えてくださっているからです。ご縁に気づける自分があるなら我執を手放すこともでき、より自分のご縁に有難く感謝しながら自らの道を切り拓く幸せを実感できるように思います。

将軍家剣術指南役の柳生家にこのような家訓が遺っています。

「小才は、縁に出合いて縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。」

剣術指南というのは、生き方指南です。武士道というものは道徳規範ですからどのように人格を磨き修養するかを示したモデルの生き方のことです。そして柳生家はこれを活人剣と言いました。

この活人というものは、ご縁をキャッチしてご縁を大切にできる人ということでしょう。それは今の自分が如何にご縁によって支えられているか、今の自分が如何に偉大で複雑不思議な糸の絡み合いやつながりによってできているか、今の自分があるのが何の御蔭であるのかを決して忘れてはいないということです。

畢竟、今の自分がある御蔭様に気づける人こそが自他を活かす第一級の人物だということです。

私は御蔭様で本当に多くの素晴らしい人たちや先生方、導師や恩師、本物の人物に支えられ今があります。今のお仕事をいただいているのも、今の人たちの御役に立てるようになっているのも、それはご縁を大切にしてきた自分へのご褒美かもしれません。有難く戴きますという真心の日々が今の自分のご縁を豊かにしてくださっているのです。

このようなご縁をいただけていることになんとも感謝しようがありませんから、少しでも恩徳に報いることができるように自分の生き方を通してもっと周囲の御役に立てるように精進し、道を修め道を弘め、後世の人たちのためにも謙虚と素直さを忘れずに真心の日々をつなげて歩み続けていきたいと思います。

利己心の魔

先日、見学した日本理化学工業で大山会長は「利他心」の大切さを教えてくださいました。この反対に利己心というものがあります。

これはどういうものかということを考えてみることにします。

利他心が人の為に自分を尽くしていくことに対して、利己心というのは自分の利害のために動き他人のことを考えない心のことを言います。利他で生きる人は、常に自分の心も感情も澄まされていますが利己で生きる人は嫉妬、不満、不足、不安、怒り、恨み、悪感情に苛まれています。

そもそも人間というのは、波があるものです。心が澄まされ清らかであればあるほどに相手のことを思いやり他人のために自分を尽くせることに幸せを感じられるものですが、ひとたび自分の感情に呑まれれば正しくないようなことを平気で行っていたりするものです。

自分が大変だと余裕がなくなれば余計に心は乱れ感情も波立ち、まるで嵐のような世界の中で暴走する車のようになってしまうものです。利己心が働くときはそういう時で、そうなってしまえば他人の迷惑なども顧みず好き勝手に我儘をして周りを困らせてしまうものです。

直接的に困らせてはいないと本人は自覚していても、実際はその波長は必ず周囲に影響を与えます。私自身も、その波長をもつとすぐに周りに似たような人たちの波長を感知して伝染してしまいます。これをメンターは波長同通の法則と仰っていましたが、言い換えれば自分の波長次第でいくらでも貢献することができるということです。

もしも自分の波長が、正しいことをさせてください、他人に親切にさせてください、誰かの御役に立たせてください、子どもたちのために力を使わせてくださいと祈るように実践していれば、自ずからその波長が周囲を巻き込み、周りも同じような波長の人たちが集まりご縁はさらに善い方へと広がっていくように思います。

しかし逆に利己心に呑まれてしまえば、自分自身の身中の虫、己心の魔、己そのものに負けてしまいバランスを崩して外界を破壊するような暴挙に出てしまうかもしれません。そうなっているときにいくら感情を抑えようとしてもすでに利己心に呑まれているのでそれは取り払うことができません。

先祖たちはそれを自覚していたからこそ、神社に参拝し心を澄ませる精進を怠らなかったのではないかと私は得心しています。つまり清めたまえ祓いたまえのことです。心を澄ませるというのは、いつも神様と同じ道を歩んでいるというかんながらの真心で生きることだからです。

それは自分が真心であったか、思いやりで実践できているか、その学びが他人の御役に立てているか、誰かの幸せのために自分を尽くしているかと、常に自分を正しい方へ、誠の方へ、感謝の方へと自己実現させているかということに由るように思います。

克己の工夫というのは、如何に自分の心を澄ませていくのかということに尽きるように思います。利己心の魔を退治するのは、利他心の澄んだ真心です。

これは人間生きている以上、「生き方=活かせ方」ですし「働き方=働かせ方」ですから日々に修養を怠らず、常に自己との対話と内省によって高めていくものだと私は思います。

言うのは簡単ですが遣るのは一生であるのがこの自分を修めるということです。日々、正しいかどうか、誠かどうか、心が澄み渡る利他心で歩めるように先に自らが魔が入る隙を与えないくらい心と正対し、善なるご縁を大切に有難い一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

今の時代、人々が神社に穢れを祓いに行くことも少なくなりました。子どもたちの魂も今は色々な大人の波長で影響を受けています。だからこそ逞しく健康を心がけ、かんながらの道を弘め、自らが動く存在として市井の中で正しい自己実践に努めようと思います。

親切~人道の極み~

人間をはじめ、すべての生き物にはできることとできないことがあります。

たとえば、ライオンが鯉にはなれないように太陽が海にはならないようにそれぞれにはそれぞれの役割というものがあります。ひとつで全部の機能を持つというのは、石が空を飛び、樹木が走るようなものです。そんなものをその特性は必要としていません、それはそのいのちが余計なことをしない方が自分が役に立つことを知っているからです。

生きものというのは不思議で、無理に役立てようとするよりも自分のままでいることが誰かの何かの役に立つということを信じている方が役に立てるように思います。無理にクワガタが蛇にならなくてもいいし、お米がトマトを目指す必要もありません。

しかし人間は、誰かと比較され一斉に社会に求められた能力を獲得していく過程である一定の能力がある人を高評価するようになってきました。学校でいえば優等生であり、会社でいえば経営者などもそうです。能力が高い人がもっとも価値があるかのように評価されれば、能力の低い人たちは無能というレッテルを貼られるのです。

そういえば昔、成績が悪い時、クラスの平均点を下げるからと補習を受けていました。その際、無能の集団だと言われみんなにバカにされたことも覚えています。私には他に自分には数々の特殊能力があって自信があったので気にしていませんでしたが、真面目な友達は深く傷つきこのままでは役に立てない親不孝だと嘆いていました。

植物や動物、昆虫にいたるまで成績が高いから生きている生き物は皆無です。実際は、時分らしく生きている生き物たちが周囲の中でお互いを有益につながりあい、無益な争いは避けようとします。

しかし人間だけは、いつまでも無益な争いはやめず、有能かどうかで人を裁きます。有能ではない人間は社會の邪魔者扱いされ、有能な人間だけはスターのように周囲の憧れになっています。

他人の役に立ちたいと能力ばかりを磨いてきても、役に立っている実感がないという人が世の中にはたくさんいます。先日も、自分が役に立ててないと泣いている先生たちと話す機会がありました。

そのどの方々も能力はずば抜けて高いベテランの先生方です。能力だけで役に立つのではなく、自分の存在で役に立つことは人に親切にすることだと私は思います。どんな人でも、親切にしたいと願い行動するなら必ず誰かの御役に立つことができるからです。

私は、困っていることがたくさんありますし何回も困っている場面に出くわします。そんな時、困っていたら周りの方々がいつも助けてくださいます。周囲はとても親切なのです。その親切を受けているからもっと自分も周りに親切にしたいと願うようになりました。

人は有能かどうかよりも有用だと昨日のコメントに書いてくださったのは本当にその通りだと思いましたが、そのうえで親切にすることは何よりも大切だと改めて私は確信するのです。

毎日、一つでもいいから他人に親切にしていれば必ず自分が誰かの御役に立つことを自覚できるように思います。困っている人を探したら、自分が力になってあげる、その力がなかったとしても一緒に考えてあげる、それだけでいいのです。

生きるということは時折つらく苦しいものだと思えます。そんな時、仲間がいたり、友人がいたり、自分のことのように共感し援助し励ましてくださる方と出会うことで生きることが楽しくなり、周囲の御蔭様を知り有難い気持ちに心が幸せになるものです。

人は誰かを信頼し、誰かの役に立つために親切にしていけば、自ずから自分の価値を正しく学べるように思います。本来の社會とは、もっとも身近な人たちのために親切にしていくことだと私は思います。

子どもたちにも、能力が高いから優秀なのではなく、人に親切に生きているからこそ価値があるのだということを背中を通して伝えていきたいと思います。自分ができるかできないかはわかりませんがいつもたくさんの方々の支援の中で自分の道が歩めています、その御蔭様に感謝しつつその御恩返しを今日会う方々、明日会う方々へと譲り渡していきたいと思います。

脳を裏切る、行動が習慣を創る

人間は行動せずに脳だけで処理を行うと、あたかもそれをやっているかのように感じ始める生き物です。実践が実践ではなくなるのも、やっている気になるからであり、分かったことが分かった気になるのもそれは脳が関係しているのです。

事故で手足を失った人が高確率で、四肢があるかのような感覚を持ってしまうという話があります。これは脳が思い込んだものが現実にあると勘違いしているのです。また見た目が善い食べ物を食べてもいないのに美味しいと思い込むのも同じく脳が先に味をつくってしまうのです。

これと似たことを常に脳は行います。たとえば、日々にやっていないことでもちょっと習慣がついたと思えばそれをやっているように思いこむのです。言い換えれば脳が見せかけを用意し、その見せかけによってあたかもやっているかのような体験を仮想するのです。知識のみが豊富に偏れば偏るほどに脳は体験を仮想補填してしまいます。

私はよく脳を裏切るという言い方をしますが、脳が嫌がることを敢えて行うことで脳の思い込みに騙されないようにしていくのです。

これは習慣の持つ仕組みの一つで、脳が嫌がる行動をすれば脳が行動により思い込みを取り除くのです。思い込みが取り払われれば見せかけが消えますからはじめてそこに実相がありのままに顕れてきます。

そこで脳が思い込みを捨てる方を選べば、そこに心の力が動かされていくのです。心が強い人は脳に左右されませんし思い込みが少ないものです。

これは脳が嫌だと感じる前に、心が動き、行動がはじまりそのことで脳の思い込みを持たせる時間を与えないからです。これらの刷り込みは、教えられる弊害であり、このことより子どもの好奇心を失うことで病魔のように脳が仮想を次々に生み出すようになり不安からさらに目が曇り始めます。

実際の現場では起きてはいないようなことをまるで起きているかのように錯覚したり、実践をしていなくても悟ったかのように勘違いします。知識を得て、世界を仮想化するのはできても現実世界は思い込みで成り立っているだけで実際は自分をも変えることができなくなるのです。

自分を変えるには、まずこの脳の思い込みを捨てる努力が必要です。

そのために数々の習慣をものにして、脳が嫌がることを敢えて行う訓練をして自分自身のコントロールを正しくできなければなりません。現実は常に現実として目の前に顕れます、受け入れがたいこともあるでしょう、そんなときは変えるチャンスだと思います。

自分を変えたいと強く願うからこそ、実際の行動の方から自分の脳を裏切り、脳が嫌がることをたくさんしてでも信念や理念を貫いていくことで、自分の人生は刷り込まれない正直な場所でいられるのだと思います。

行動による疲れは、脳の仮想をつくらせる余地を与えません。心地よい疲れというものは、心が地についた疲れということです。変に考えすぎるよりも、心が思いやりを優先するほうに従って自らの習慣を育て上げれば立派に自分の人生の道を切り開く人になると思います。

常に自分の心をで信じた方を優先する生き方を示していきたいと思います。

自然と至善

自然農を実践し4年目になりますが、ようやく田畑が落ち着いてきたようにも思います。

もちろん、常に天候も変化し田畑の様子も変化し、その生態系の中にいる私を含めた生き物たちも変化しますから常に学びは尽きません。

人間というものは、脳の機能を使いある程度知識が入れば理解したものが記憶によって運用されていくものです。それがマンネリでもあり、変化を感じる力を落としてしまうようにも思います。好奇心や謙虚さがあれば学びは常に新しいものになりますが、常に学びたい、常に学ぼうと機会を逃さずに内省を続けて楽しんでいれば自ずからあるがままに今を生きることができるように思います。

自然の世界では、どの生き物も今に最善を尽くしていきます。後のことや先のことなどを思い煩うこともなく、今を一生懸命に生き切ります。生きるために、生き抜くために自分の与えられた場所で自分の与えられた生を本気で生き抜いています。

最善というものは、人生を遣りきるということです。遣りきるということは、丹誠と真心を籠めて自分にできうるすべてのことを出し惜しみなく正直に実践することです。

古語に人事を尽くして天命を待つという言葉があります。半分は自分の誠で、残りの半分は天の誠で万事それこそが善いことであるという意味だと私は解釈しています。

今の時代は、何でも満たされて安逸安全な中で暮らしていますから危機感というものを喪失し、本来の「生活」ということの本義も忘れてしまっているのかもしれません。遣りきるという言葉であっても、単にやったかやっていないか、やれたかやれていないかのレベルのことを思っている人も増えてきました。

遣りきるというのは、いのちの言葉ですからいのちを懸ける言葉です。

これはいのちを遣りきるということであり、いのちすべてを懸けましたかという自問自答を行うということです。眠いとかだるいとか、やりたくないとか、楽したいとか、明日にしようとか、めんどくさいとか、いろいろと理由をつけては自分に負けてはいのちを使い切ろうとはしません。

これでは今を生きることからも逃れて、結局は自分に甘えてしまっていることになります。

自分で決めたことを自分で実践するということは、人事を尽くすということです。そうして真摯に自分のいのちを懸けているから天がそれに感応して他力が入ってくるように思います。自信というものは、そういう自力を尽くしている中で他力が入ることを悟ることを言うのかもしれません。

最善と尽くすとは、至善のことであり、それが自然であるということです。

自然農には、半分は自力、半分は他力を学ぶ最幸の土壌現場があります。他人のことをとやかく言う前に自分は本当にいのちを懸けてそれに取り組んだか、常に内省と自問自答をもって一度しかない一期一会の人生を愉しんで駆け抜けていきたいと思います。

出会いに感謝しています、有難うございます。