自分自身になる~揺るがない自信~

人間はお互いの信頼関係を築くのに自分との信頼関係を先に築く必要があるように思います。信頼関係の本質は、他人の評価から測るのではなく自らの自信によって育まれるものだからです。

信頼というのは、自分自身のありのままを受け容れることのように思います。それは認めるということです。自分という存在がどういう存在であるのか、現実を含めてすべて丸ごと受け容れます。そしてそのような自分を受け容れてくださっている周囲のことを丸ごと受け容れます。そうすることで次第に今の自分を認めることができていきます。

自分はこれでいい、自分はこのままでいいのだと自分自身を認めつつ、自分が信頼できる自分になろうと自分の甘えに打ち克ち続けていくことで自分自身との絆も深まり、同時に周りからも信頼されるようになるのです。

自分が決めたことや自分がやろうとしたことは自身で実践していくしかありません。それを観て周りもその人は信頼できる人かどうかを判断しているのです。いくらその人の見ている前だけや表面上だけを取り繕ってみても、自分自身が決心したことはその人にしかわからないものです。

自分が決めたことができない人を周りが励ますのは、その人が自分=自身になってほしいと応援しているのです。あるがままのその人になるとき、人は美しく個性豊かに主体性が発揮されていきます。その人がその人らしくいるとき、自分自身を見出し、その自分自身が社會の一員になるとき、世の中は平和で楽しい未来を創造していくことができるからです。

お互いに信頼し合うというのは、常に自分自身が自分で決めたことができるように頼れ信じることができる関係がその人自身にあるということです。

よく考えてみると、信じるというものは常に自己内省が必要です。自分が自分(己)を振り返ることで、信じた自分をやれたかどうか、信じたように取り組めたかどうかを自分自身で確かめるのです。

そしてそれができていなければ自分が改善し、自分が修正し、自らを助けていくのです。自分を認めることができてはじめて人は責任が持てる人になります。それは自分自身を信じることができるようになるからです。言い換えればそれを「自信」というのです。

いつも自分のことをもっとも身近で助けてくださっているのは誰でもない自分自身です。

そのことを忘れず、自分を認め、自分に感謝するとき、人は自分を信じはじめるのでしょう。自分を好きになるということは、自分を大切にするということです。

自信がある人は、信頼されます。信頼される人は、自信に裏付けされた自分自身が自立しているのです。なにが自分にできて何が自身にできないかを正しく認識することができることではじめて頼ることの素晴らしさ、仲間の存在の価値に気づくように思います。

自分自身と仲よくすることで仲間はできます、その仲間を大切にすることで周りの仲間が増えてチームはできます。お互いがお互いを信頼し合い仲間になっていく中で、自分自身というものにも出会います。みんな自分自身との関係づくりのなかで苦労したからこそ人に共感でき、その人を応援して励ましたくなるのです。

一期一会のご縁がある人たちと一緒だからこそ、絆は結ばれてかけがえないのない信じる仲間がある世界に生きることができるように思います。

ひとりひとりの存在価値が光り輝く昴のような集団を目指していきたいと思います。

 

自然の評価

人は自己肯定観が低いと、どうしても他人の価値観や評価に合わせてしまいます。言い換えればあるがままの自分でいることよりも、周りの人たちの評価に合わせた自分を演じてしまうのです。言い換えれば自分の求めている評価が周りから手に入らないという執着の一つです。

これはありのままの自分というものよりも、皆に合わせている自分でいることを優先するときに本当の自分が分からなくなり苦しくなるのです。幼少期の体験が影響をしているとも言いますがそれは切っ掛けにすぎず、みんな自分が役に立っているかどうかを判断するのに周りの他者評価を確認するのです。

実際には、自分が相手を思うように相手は自分を思っていると実感することかもしれませんが自他一体に必要としあっているという感覚を持つには、お互いにありのままの自分で精いっぱいに生き切ることしかないようにも思います。

そもそも自分の存在や能力というものは、自分のものではありません。これは天や神仏、先祖から分けてもらった力であり存在です。それは何かに必要だからそのようになったともいえます。

たとえば、植物や樹木の世界でも多様性があり、時代に合わせて寒い時期に強いもの、温かい時期に強いもの、虫に強いものや、病気に強いものまでありとあらゆることに対応できるように微妙に分かれながら変化していきます。同時に強さというのは弱さが生まれますから、弱いものにも分かれていきます。

平均的にみんなと同じことができるから能力が高いのではなく、それぞれに与えられた能力や存在そのものが価値があるともいえるのです。

つまりそう考えれば、誰一人何一つ無駄なものはない。すべては必要であるということを意味するのです。しかしそれを自分が必要かどうかを周りにあわせて判断していれば、そのままの存在価値よりも相手が求めたことに応えられれば必要となってしまうのです。

もちろん役に立ちたいですが、立てないこともあります。その場合は意気消沈してしまいますが、その時同時に自分の存在はほかの誰かの役に立っていることが多いのです。

例えばある植物が花を咲かせてほかが咲かせないとします。ミツバチや蝶々には役に立てなくても、そのほかの虫たちや後からやってくる生き物たちには役に立ちます。自分がそう思っていなくても、自然界では自分らしく一生懸命に生きるのなら天がそれを調和してくださるともいえるのです。

つまり人事を尽くしていけば天命が下るように、自分自分を精いっぱいに生きていれば何かの一つの評価基準に囚われなくても必ず世界や歴史、自然の御役に立っているのです。もちろんお役に立ちたいと願うことは大切ですが、無理にお役に立つためにその人のための仕事を創っていたら周りのみんなも合わせるために大変になります。

自分の存在は天が与えてくださったものだから、一生懸命に楽しもう、一生懸命に生き切ろうと真摯に自らの道を歩むときに自己肯定ができると思います。つまり自己肯定とは、「これでいいのだ」と自分のすべてをあるがままに受け容れることです。

もしも自分が居なくてもいい存在なら、神様もつくっていないと思います。自分が気づかないだけで必ず自分は何かの役に立っているのです。自分が役に立たないと真面目に思うのは、人間の評価に縛られているからです。自然の評価に合わせていけば、雑草であろうが害虫であろうが、病原菌であろうが、すべて必要不可欠な存在なのです。

世の中にこうでなければならないという頑固さは、同時に他を排するといったマジメさを蔓延させてしまっているように思います。余裕をもって豊かに生きられるようもっとゆっくり、もっとじっくり、今の自分が存在させていただけることを味わいながら自分の存在のままで真心でつとめていきたいと思います。

自然の評価は、かつての祖神から受け継がれてきた古道、かんながらの道にあるような八百万の神々です。すべての生き物は宇宙地球の分霊であり、そのままに神々なのだから自分を認め大切にする真心をもって周りの神々を認め大切にしていきたいと思います。

草木咸能言語~心の共鳴~

人は対話を言語によって行う生き物です。自分とのかかわりやつながりができてくることで人は人と仲良くなります。仲良くなるというのは、お互いに関係しあっていくということです。

その関係の中で使われる言語について少し深めてみます。

そもそも私たちの意識というものは、関係性によってつながり合います。自分が何に関心を持つか、関心を持とうとするかで人間関係をはじめそれ以外との関係もまたできてきます。自分が何に関心を持っているかというのは、具体的には何とつながっているかということです。

それが家族であったり、友人であったり、お客様であったり、つながりはお互いの仲の間に存在します。これは私は人間だけに限らず、動物や植物、その他のすべてにおいてその人が仲善くしたいと思っているものとの関係性が対話となっていくのです。

関心というものも同じく、自分の心が関わり合っていくことでそのものとの良好な関係を築いていくことができます。相手がいるから私がいて、私がいるのは相手の御蔭様と、お互いに必要としあい思いやることでつながりが結ばれより絆が強くなっていくのです。

日本書紀にはこういう言葉が遺っています。

「草木咸能言語」(そうもくみなよくものをいう)

これは、草木には精霊が宿り、その精霊は言葉をよく喋るという意味です。そしてこれは草木だけに限らず、音を出す動物たちやあの昆虫や石や大地にいたるまでありとあらゆるものは言霊を発しているという意味でしょう。

これは関わり方によって異なっているのです。たとえそのものに目や耳や口がついていなくてもいいのです。また人間は目に見えないものを観ようとすれば観えるものですし、耳に聞こえないものも聴こうとすれば聴こえます。これはすべて心を用いて行うものですが、関心というものはその心の関わりによっていくらでも観えて聴こえることができるのです。

それは距離を超え、空間を超え、あらゆる垣根を超えて「言語(ものをいう)」によって語り合います。

心は無限、心は宇宙と同じように強い結びつきによってお互いを活かしあっていくのです。だからこそ自分からつながっていきたい、自分からかかわっていきたい、自分から好きになりたい、自分から大事にしていきたいと、自分から仲間づくりをしていくことで心もまた生長していきます。

相手に求めても相手は自分に語り掛けてはくれません。自分から相手とつながりたい、仲間になりたい、近づきたいと心を寄せてはじめて関係は強く結ばれお互いに善く「ものをいう」ことができるようになるのです。

つまり言語の本質とは、言葉の違いではなく、お互いの心の共鳴なのです。心が共鳴し合うからこそはじめて言語を語ります。言語とは自分の心を相手に寄せて相手の心を自分が感応することで共鳴しあう言霊ということです。

そしてそれはお互いが精霊であるということを証明しているのですから、大前提として対話とは心から言葉を用いて行うものであることを忘れないことです。

言葉が単なる道具やものになってしまえば、つながりも絆も遮断されてしまうかもしれません。言葉は何のためにあるのかもう一度善く考え直していきたいと思います。

心を傾けるというのは、自分の心が何を伝えるのか、そして相手の心から何を感じる取るのか、それは「思いやり」の心を通じ合わせていくということです。

必ずつながりは鏡のようにお互いを映し出すものです。そしてそれがご縁というものです。ご縁があるのは精霊が引き合うからかもしれません。祖神たちのように、あらゆる精霊と語り合っていた真心を、無垢で無邪気に言語を発していた好奇心を、大切に守り育てていきたいと思います。

当たり前の仕切り直し

日々に生活をしていると様々なご縁に出会います。

そのご縁は、不思議なもので人に出会うことで人は刺激され成長しあっていくのです。そういう一つ一つに導かれるご縁によって今の自分は存在しているともいえます。

あの時、あの出会いと別れがあったからこそ今の自分があるのです。そう思うとき、私たちの仕合せとは一体何のことだろうかと考えるのです。

人は当たり前であることの奇跡が当たり前になっていくことで当たり前が分からなくなっていくものです。よく考えてみると、太陽があり、四季があり、水があり、空気があり、食べ物があり、体があり、さらにはもっと目を凝らせば健康があり、家族があり、仲間があり、機会があり、仕事がありとありとあらゆるものに恵まれて自分があることに気づきます。

人は半分の幸せと半分の不幸があればどうしても不幸の方ばかりに目を向けます。もしくは半分の不足と半分の足があれば不足の方ばかりに愚痴をこぼしてしまうものです。しかしないものよりもあるものの中に当たり前ではない奇跡があるように思うのです。

失ったものを思うよりもそのことから得たものを、ないもの得ようと焦るよりも今あるものを探すことを見つめてみると如何に自分が偉大ないただきものとご縁に導かれて存在させていただいているのかを実感するのです。

人は当たり前ではなかったなと反省し感謝するとき、より当たり前ではないものに目が向くのかもしれません。ないものばかりを嘆くより、あるものを大切にしていく生き方が当たり前にせずに仕合せに暮らしていく働き方なのかもしれません。

「餡を増やそう」と私利私欲を優先しないとやっていますが、色々なことが起き、もっと優しい心や配慮をかけてあげられなかったかと反省すると私自身この当たり前の仕切り直しをしたい気持ちです。

どんな体験も当たり前ではない一期一会のご縁なのですから、すべては有難きと丸ごと受けさせていただき、そこで失ったものよりもそのことでいただいたことの方へと心を転じていつもご縁の素晴らしさに感謝していけるよう「日々の自己一心」の研鑽と訓練を続けていきたいと思います。

心はご縁により無限無垢に生長し広がりつづけます。

自分の体験は必ず誰かの役に立つのだから、精いっぱいに道を歩み無邪気な子どもが自然にあらゆることができるようになるように自分もまたそうありたいと思います。

一日一善~開墾と播種~

人は誰しも人生の中で自分との仕合を続けていくものです。

それは単なる競争の勝ち負けではなく、自分自身に克つかどうかを行っているものです。自分の克った結果として事物は顕正してきますから常に真実は自分に正直であったということです。

では具体的に己に克つとはどういうことをいうのか、そして礼に復えるというどういうことか、それを二宮尊徳が分かりやすい例えで自らの実践を説いている文章があります。

「孔子曰く。己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰すと。私欲身より生ずる。之を己という。猶ほ蔓草田畝に生ずるごとく也。力を極め私欲を圧倒す。之を克と謂う。猶ほ角力勝を制するごとく也。之を開墾に譬う。己に克つは、闢荒也。礼に復るは、播種也。天下は広く之を言ふのみ。猶ほ闔荒と言うごとく也。仁に帰すとは、闔郊皆秀実穀粟と為るを言ふ也。」

(意訳ですが、孔子は言っている、「己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す」と。常に私欲は自分自身から生ずるもの。これを「己」という。たとえばつる草が田んぼに生じ覆いかぶさるようなものだ。それを自らの力を極めてその力をもって私欲を圧倒する。これを「克つ」という。たとえば相撲のように自らを自分自身で心身一如に修めることで制し「克つ」というのと同じようなものだ。これを私なりに農の開墾に例えてみよう。つまり「己に克つ」とは、ひどい荒地を必死に開くことだ。「礼に復る」というのは、そこに根気強く丹誠を籠めて種をまくことだ。「天下」は広い世の中に対してということを言っているだけである。それはありとあらゆる荒地に対してと言うようなものだ。「仁に帰す」とは、まるであたり一面に豊穣の穀物が皆よく実っているということを言うのだ。)

自分から常に道を切り開きそして幸せの種を蒔く。これは私の仕事でいえば、自分から進んで社會のために荒れた人々の心の救済や、子どもたちのためにと人々の力になり、そして自分の信じている世界や信じた理念の種(商品等)を一粒一粒丹誠を籠めつつ拡げていくということに他なりません。

自ら開墾もせず種も蒔かなかったらそれは己に負けて礼を失したということになるのでしょう。常に思いやりを優先する実践とは、「開墾と播種」ということに他なりません。世の中に対して自らが行動してこそはじめて思いやりに満ちた世の中にしていくことができるのでしょう。

世の中が荒れているからと荒れたせいにし自分は何も動こうとはせずに言い訳ばかりをし、種も蒔こうとはせずに家の中に置きっぱなしにしていたら目の前の荒れ地はもっと荒れ果てていくだけでしょう。人道というものは、自らがせっせと草取りや草刈りをし、自分の中に生え続ける私欲を同じように取り除き続けて、常に刻苦勉励、人々のために労苦を惜しまずに頼られ力になっていくことを言うのでしょう。

人生は、常に自分の仕合をしたかどうか、自分の仕合ができたかどうかが勝敗を決めます。自分の仕合とは生き方のことですから、今日一日、どんな生き方であったかを振り返ることしかできません。

自己管理というものの本質は、己を出し惜しみなく出し切っているか、そして真心を籠めて誠実に遣り切っているか、自分の志に恥じないような人生であるかと自問自答の対話を続けていくということなのかもしれません。

一流というのは条件に左右されずに、常に一に止まることができます。一流の仕事とは何か、それは常に自ら切り開き自ら種を蒔き続けている人物の仕業ということなのでしょう。

常に「開墾と播種」、つまりは業を営む実践を行うことが克己復礼なのだということを忘れずに一日一善につとめていきたいと思います。

 

 

 

 

本物の実践

「本物は続く、続けると本物になる」は、東井義雄さんの遺した言葉です。

実践をしていく中で何度も励まされる言葉です。

人は初心を忘れたり、日々に向き合わずに内省を怠るとすぐに流されて実践が甘くなっていくものです。自分の遣りたいことや好きなことを遣っているはずですが心がついてこず、頭でっかちにやった気になればそのうちルーティン化した業務のように実践を勘違いしてしまいます。

本来は何のためにそれをやるのか、何のために働くのかを決心していたはずのものが覚悟が定まらず迷走しまた流されるというようにブレナイ自分を練磨研鑽するには長い年月がかかるものです。

しかしそれでも続けていれば、次第に何かの機会を切っ掛けに質が高まり心が着いてくるように思います。心が育ってくればくるほどに様々なところが削り取られていき円みを帯びてきます。実践とは実績のことですからやればやるほどに積み上がった経歴や経過が今の自分を存在させますから毎日は死して後已むまでずっと真剣勝負だということです。

そして実践の心を伝える東井義雄さんの「小さな勇気」という詩があります。

「人生の大嵐がやってきたとき

それがへっちゃらで乗り越えられるような
大きな勇気もほしいにはほしいが
わたしは小さな勇気こそほしい

わたしの大切な仕事を後回しにさせ
忘れようとさせる小悪魔が
テレビのスリルドラマや漫画に化けてわたしを誘惑するとき
すぐそれをやっつけてしまうくらいの
小さな勇気でいいからわたしはそれがほしい

もう五分くらい寝ていたっていいじゃないか
けさは寒いんだよとあたたかい寝床の中から
ささやきかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

明日があるじゃないか
明日やればいいじゃないか 今夜はもう寝ろよと
机の下から呼びかける小さな悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さな勇気こそほしい

紙くずが落ちているのを見つけたとき
気がつかなかったふりをしてさっさと行ってしまえよ
かぜひきの鼻紙かもしれないよ
不潔じゃないかと呼びかける
小さな悪魔をすぐやっつけてしまうくらいの
小さな勇気こそわたしはほしい

どんな苦難も乗りきれる
大きい勇気もほしいにはほしいが
まいにち小出しに使える小さい勇気でいいから
わたしはそれがたくさんほしい
それにそういう小さい勇気を軽蔑していたのでは
いざというときの大きな勇気も
つかめないのではないだろうか 」

自分を変えていくということは、自分の全身全霊を発揮していくことです。本当の自分らしさというものは、全身全霊で自分を誰かの為にと真心で生き切り遣りきるときに自ずから自然に出てくるものです。

あの植物や動物、虫にいたるまで自分で計算して自分らしさのだし引きをするものはありません。人間は甘い環境の中で自分を甘えさせられることができる生き物ですから、あの野生の動植物のようにそのものらしくはなくなってきています。

そんな時こそ小さな勇気が必要ではないかと私は思うのです。

日々の実践というものは、頭で行うものではなく行動で示すものです。行動は頭よりも先に動きますから心が先に動いてきます。心が動き頭が着いてくればそれはもう実践がものになってきている証拠なのです。頭ばかりが先に動いて心が亡くなってしまうような人生はまるで道に入って道を歩かないような虚しいものです。

「本物は生きるのを已めない、活き続ければ本物になる。」

一度しかない人生なのだから自分と向き合い、自分を高めていくのが人生の醍醐味なのかもしれません。色々と誘惑や欲が多いのはどの時代でも同じようです。その自分の誘惑や欲の種類は人それぞれに異なりますが、小さな勇気を発揮してそれを凌駕するような本物の勇気の心、本物の実践を積み上げていきたいと思います。

樹霊~偉大イチョウ~

樹霊を深めていく中で、種の不思議な力を再発見します。

世界には巨樹というものがたくさんあります。それは数百年から数千年をかけて、長い年月で育ち存在する木々たちです。あらゆる時代の風雪に耐え、あらゆる困難を乗り越えて大地に根をはりその土地を見守りつづけています。

先日、樹齢200年の銀杏の巨樹を眺めていたらその前で頭を下げて通り過ぎる人たちを見かけます。人間は、御蔭様に気づくとき何があるのかわからないけれどいつも見守ってくださっている存在に御礼や感謝をしたくなるのかもしれません。

ただ立っている木にどうしても頭を下げたくなるのは、そこに棲む鎮守の使命感に感謝の心が感応しているのかもしれません。

私はこう思うのです。

一番最初にその種を蒔いた人がいたこと。その人がどのような願いを籠めてその種を蒔いたのか、そして稚樹から育て花をつけ実り、それを毎年毎年繰り返し見守っていく中でその樹は見守る存在になったのではないかと。

巨樹というのは、それだけ長い時間、人々の願いや祈りを共にしてきた存在なのです。

あの巨樹も一番最初は小さな種からはじまり、それがあれだけの偉大な存在になっていく、そこに願いに生きること、祈りを信じることの大切さを伝えている気がするのです。私の願いもあの大イチョウのように人間を信じたいと思うのです。

そのことからその大イチョウの種を分けていただき今では私の傍で芽生えてくれています。その幼い姿に自分の境遇を感じて、心を励ましてくれています。樹霊のはじまりは、その種に気づくということなのでしょう。

最後に私の好きな先生の一人、東井義雄さんの「大イチョウ」の詩があります。

「校庭の、天にそびえる大いちょうも、昔は一粒のいちょうの実だったんだ。一粒のいちょうの実に、あんなにすばらしい大いちょうになる力がかくれていたんだ。君の、あなたの体の中にも、すばらしい未来をつくる、不思議な力がこもっているんだよ。それらが、芽が出たい、芽が出たいとウズウズしているんだ。めでたい、めでたいと叫んでいるんだよ。今年は、その芽をぞんぶんに伸ばしてみせる年にしようではないか。さあ、どんなすばらしい芽を出させてみせてくれるか、楽しみでしょうがない」

これは子どもたちにお年玉としてイチョウの種に顔を書き、その中に添えた手紙の抜粋ですが今ではその種が樹霊となり偉大なイチョウになってこの国のあちこちに芽生えてきています。

私の信念も理念もまだまだヨチヨチ歩きの幼児のようですが、その心には人間を深く愛する真心があります。いつの日か、長い年月を耐えうるような根を持ちたいと願い日々に向き合うのみです。

『子どもから おとなが生まれる 子どもから 新しい日本が生まれる 子どもから 新しい世界が生まれる 子どもこそ おとなの父』(東井義雄)

世界の巨樹は必ずたくさんのいのち、子どもたちの未来を見守り続けてくれています。どんなに他人が自分を分かってもらえなくても気にせずに子ども第一主義を信じて一歩一歩の道を前進していきたいと思います。

 

樹霊から思うこと~祈りに生きる~

樹霊という言葉があります。

これは大辞林には「老木に宿っている霊」と書かれていますが、数百年から数千年の老木には霊が宿っているような様子があり、神道では神の依代として崇められてきました。それを樹霊があると呼んだのでしょう。

先日から樹木について深めていますが、銀杏の巨樹の新芽を見守りつつ学び直しています。

以前、宮大工の西岡常一さんの著書や映像の中で法隆寺の木について語る場面がありました。千年生きた木だからこそ千年の建物ができる、千年の木には千年の釘がいるといって和釘の重要性を説いていました。

その際、千年生きた木には何か千年生きた霊が宿っているのではないかと直感したのを覚えています。それは木に限らず、石なども同じです。以前、偶然に拾った石英の石を鑑定していただいときにここまでくるのに1億年といわれました。そこには1億年の石霊が宿っているように私には実感して感動したのを覚えています。

人間はこれらの長い年月の霊と寄り添うときにだけ、永続してきた今を実感できるように思えます。

今の時代はそういう長い年月の霊を大切にせずに、現代文明の知識の方がさも優っているかのように軽々しく破壊していきます。宿っているものの価値を感じず、ただの物体としてしか感じられなくなっているところにいのちを感じる感度も、それを見守り大切に伝承していこうとする民度も喪失してきたように思えます。

司馬遼太郎が「樹霊」という著書の中でこう語ります。

「人間の暮らしから樹霊の連り添いと樹霊への崇敬の心をうしなったときに、人間の精神がいかに荒涼としてくるかをうすうす気づいて、おびえるような気持でいる」

人間以外の生き物がいないと思い違いをし、人間だけが生きているのだと周りの生き物をエサかのようにいのちを蔑ろにし、それだけ生きながらえようとすることへの気持ち悪さ。いのちをいただくのではなく単なる食べ物、感謝で大切にするのではなく単なる道具と化していく心の貧しさを実感するのです。

人間は人間だけで生きるものではなく、色々な生き物の中に人間がいるだけです。心が亡くなってくれば人は、そこに宿る霊を感じることもできなくなるのかもしれません。

伝承してきたものは実はそのものに宿った霊(魂)こそにあるのかもしれません。八百万の神々という思想は、心が優しく思いやりに満ちた社會を存続していくための先人の智慧の結晶だったのでしょう。

子どもたちに遺した先人の思いやりや願いは今を生きる私たちの実践する姿の中に宿っています。いつまでもその霊魂を感じられ、霊魂を入れられる祈りを大切にした生き方をこれからも選んでいきたいと思います。

 

伝導士~道を切り拓く~

昨日、ある保育園で新理念研修を行いました。

この園は、すでに12代園長が交代し脈々と歴史を積み重ねた上に今の姿があります。その今をもう一度、再確認し味わうことで私たちにとっても理念を新たに学び直す善い機会になりました。

そもそも時間や歴史というものは、地球の土の層が積み上げられていくようなものです。氷河期には氷河期、温暖期には温暖期、それ以外にも様々なその時代の背景によってその土も異なってきます。しかし今があるのは、それまでに積み重ねてきた歴史があるからこそ今はその上に成り立っているのです。

以前、樹木の生態系のお話をお聴きした際に「今の樹木は4億年の自然淘汰の結晶で成り立っている、今の森の姿は4億年の積み重ねの上で出来上がってきた森なのです」ということを知りました。

これを同じく、私たちの今の姿も先祖代々から積み重ねてきたいのちの歩みが成し遂げた発達なのです。

そしてそれは「道」であるように私は思います。

どのような足跡を遺してきたか、どのような歩み方をしてきたかは振り返ればそこに確かに遺っているのです。いい加減なことはできず、自分がちゃんと歩んだかどうかは子孫や後人を歩む人たちの心に刻まれていくのです。

そしてそれが文化というものです。

この文化は、一緒に歩んだ軌跡なのです。ここまで連れてきてもらった、ここまで来れた、それは一緒に歩んだ人たちの努力の御蔭でしかありません。一人ではここまでこられなかったものが、たくさんの人たちの協力や支援の御蔭で今があるのです。

道を切り拓くというものは、自分の足で歩むということです。どんなにそれが茨の道であったとしても、それがどんなに厳しい道であったとしても、一緒に歩んでいくからこそ愉しい道になっていくように思います。

道を味わい、道を噛締め、道を活かす。

そういうものをみんなで一緒に確かめることが理念研修の本質なのです。今の時代は、スピードがあがり早く早くと結果ばかりを求めようとします。そういう教育を施されれば道を切り拓く大変さよりも簡単便利に手に入る結果に一喜一憂したくなるのかもしれません。

しかし人生は脈々と文化を継承し、子子孫孫、子どもたちがそのあとを歩んでくるのです。だからこそ自分たちの責任を自覚し、自分たちがどのように歩んだかを遺すのかが今の時代を生きる私たちの使命なのです。

責任を果たすというのは、使命を果たすということです。そして使命を果たすというのは、自分自身を精いっぱい生き切るということです。そして生き切るとは道を切り拓いていくことなのです。その生き方が子どもを信じ見守る先導、つまり伝導士なのです。

一緒に歩む仲間がいるだけで道を歩む愉しみが倍増します。これから新しく歩む道の先がワクワクします。引き続き、切磋琢磨しながら研鑽に励み、道を先導できるよう精進していきたいと思います。

自信を切り開く

先日から自由のことを深めていく中である学校が行う自己評価というものを拝聴し、もう一度自己評価とは何かと考え直しています。

他人は評価というものをします。もしくは評論というものをします。人間は自信がないと自分のことを誰かに評価してもらいたい、自分の評論を通したいと思うのものです。

結局は、自分の自信というものは自分のことを自分で評価できる物差しがないといつまでたっても自分に自信を持つことはないように思います。これを自己評価といいます。そしてこの自己評価というものは、自分の決心や覚悟と関係するのです。

そもそも自己評価というものは、自分との信頼関係が築くものです。もっとも身近な自分が自分のことを信頼するかということがあってまず自信が産まれます。たとえば決めたことを守っているか、自分が決心したことを応援しているか、自分の真心に嘘偽りがないかと常に正直に取り組むことで周りの環境が変化しようが人から失敗だといわれようがその人の中の自分はいつも自分を励まし応援を已めないのです。

自信というものは外から得られると勘違いしてしまうと、結果次第で自信が着いたりつかなかったりとしてしまいます。しかし実際は、自分が信じたのだからそれでいい、自分がそうしたいと思ったのだからこれでいいと自分自身のことを信じてあげるために努力をし真摯に生き切ることで自信はより強く育っていくのです。

自信がない人は他人の自信を奪います。自分の言動や行動の中で、すぐにネガティブな評論を展開したり、すぐにあきらめて文句を言ったりしていると、それが周りの自信を奪っていきます。楽になりたいと思えば思うほど他人の評価を求めてしまうのかもしれませんが、どこまでいっても自分を信じるのは自分というのは、もっとも身近な自分を信じるというのは自分のたった一つの人生を信じるということにつながっているからです。

自分への信頼というのは、楽を選ばずに苦労の中にある楽しみを選択して本心が望む自分に従って勇気を出して挑戦するときに伸びていくものです。天が与えた機会なのだから、それを全て感謝に変えてご縁を活かそうとするときに信頼はより強いものになるのです。

自分で考えるということや、自分で向き合うということは、自己評価です。考えないことへ逃げないということが自己評価の本質なのかもしれません。

自己との対話が素直にできるようになるには、自己との折り合いをつけなければなりません。本音本心を優先してあげるような真心の生き方を信じてあげなければなりません。

嘘をつくから自分自身に自分が言い訳するのですが、それでは自分+自身というコンビを組んでいる双方の相方の信頼が得られず関係がギクシャクして歩めなくなります。

そうではなく、自分に自信を持つために楽を選ばず苦労したって愉しい人生を自らで道を切り開き、その際に自分を自分で励まし、自己発奮して自分の真心と行動を一致させていくことで自分を評価できる正直な自分、あるがままの自分にしていくことです。

自信を切り開く人たちはいつも周りの人たちに自信を持たせてあげることができます。逆に自信を切り開こうともしない人は他人の自信を奪ってはそれで満足して何もしようともしなくなります。

「他人の道は他人の切り開いた道でしかなく、自分の道は自分で切り開く道なのです。」

人生は一度きりなのだから、自分の道は自分で切り開くということを大前提に生きるということを常に自らが忘れないでいてほしいと子どもには願います。自分にしかできないことをやり遂げて、最幸の人生を味わい尽くしていけるよう日々に情熱と挑戦と行動と実践に満ち溢れた充実しきった活きた背中をみせていきたいと思います。