もったいない~尊い体験~

人には毎日、様々な機会が用意されています。

それはそれだけの体験が用意されているとも言えるように思います。一人一人の人生があるのは、その人にしかないその人らしい人生を用意されているということがここから分かります。

人生というものは、その人のものでありその体験がその人の人生とも言えます。

学校というところでは、答えを先に教えてその答え通りになることが良いことであるかのようなことを勉強します。本来は、先に体験をしてその体験が何であったか、その体験から何を学んだかということを使って様々なことを共に身に着けていくための学習をするものです。

本来の学びを、人生と定義するのか、勉強と定義するのかが異なっているのです。

もしも勉強をするために勉強をするのなら、結果ばかりを気にして良い結果がでるためだけに先に知識を得てはその知識を持っているかどうか使っているかどうかが論点になってしまいます。

そうなると、ちゃんとやったかどうか、ちゃんとやれたかどうかが判断の基準になります。仕事でも何でも、やったら終わったとその後の改善をせずそこで満足して中途半端になってしまうのはこの結果さえ合っていればいいという価値基準が刷り込まれているからかもしれません。

しかし人生ではどうでしょうか。

人生では、ちゃんとやったかどうか、ちゃんとやれたかどうかではなく、その体験から気づいたものは何か、その体験から学んだ経験は何だったのかを実感することが基準になるのです。その上で、如何により善い体験まで昇華していくか、その体験をより意味があるものに発展させていくかに価値基準が変わるのです。

そう考えてみたら、結果ばかりに囚われるよりも体験してみたいという好奇心やチャレンジ精神の方がより人生を楽しくしていけるように思います。なぜなら、せっかく一度しかない人生、一度しかない今、一度しかないこの機会、体験しないと「もったいない」からです。

遣る前にある程度予想して、きっとこうだろうとか、こうなるためにどうしようかとか、事前に調べすぎてそこそこの無難な結果に満足するよりも、尊い体験をさせてもらうのだからその一つ一つを根こそぎ学ぼう、この機会を活かそう、つまりは「もったいない人生を味わおう」と開き直った方が真に学べるように思います。

体験から学んだことは、本当のことです。

その体験から学んだからこそ、学びが楽しくなり、師友とのご縁にも、また自分の人生にも感謝できるように思うのです。すべての時間、すべての人生を、全身全霊でいるときがもっともいのちも輝き幸せを実感できるように思います。

もったいないからこそ、さらなる日々の体験を楽しんで生きたいと思います。

心耳

最近は、テレビの影響とかいう言葉も聞かなくなってきました。

一昔前は、テレビを見る事で考えない子どもになるとか、テレビの影響で洗脳され脳が働かなくなるとか言われていたことがあります。これは、一方的に聞くとか見るとかを続けていることで、情報量の多さで心頭が麻痺してしまうようなことであったように思います。

そのせいかどうかは分かりませんが、聴聞ということが分からない人が増えたように思います。

聴聞というのは、聴くという字と聞くという字が入っています。聞くというのは、情報をそのままに感じ取っていくときの聞くで日々に様々なことを聞いては知るというように情報を処理していきます。もう一つの聴くというのは、自分から疑問に思うことを質問したり自分の思いを相手に伝えたり、その瞬間瞬間の自他の心を感読しつつ通じ合うことをいいます。

心耳という言葉があるように、聴くというのは心が行うことであるから同時に自他の間にある真心を通じ合わせていくのです。その聴くというのは、単に聞いたから分かるのとは異なり、自分から主体的に相手を傾聴し、共感し、受容していることをいうのです。

人と話をするのに、心を遣って頭も合わせて丸ごと全部で行うことが聴聞なのです。つまりは聴聞するというのは、心から耳を傾け相手のことを理解しようと努め、きっと何か大切な理由があるのだろうと思いやることをいうのです。

浄土真宗の親鸞の記した教行信証にこういう言葉が残っています。

「楽んで世尊の教を聴聞せん」と。

これはこのんで釈尊の教えを聴聞していきたいという意味ですが、この「聴聞」の左訓に親鸞は手記で「ユルサレテキク シンジテキク」と記しているようです。

つまりは親鸞にとっての聴聞とは、許すこと信じることという実践であったということです。聴くというのは何を聴くか、それは同時に自分の心を映し鏡にして相手に透過していく聴くであるのです。そして聞くというのも、素直な本心本音でその人の良知が引き出されるようにあるがままの澄んだ耳で聞くということなのでしょう。

聴聞というものは、自分の心の耳が行うものです。

この心耳の実践こそが、人々の心を救い、導く仕組みになっているのです。
ものにしていくには、まだまだこの心耳を澄ませていかなければなりません。

日々の実践道場の中で、ミマモリングを通じて学び勤めていきたいと思います。

 

遣って内省

内省というものがあります。

自分が本来のあるべき姿に対してどうであったという矢印を自らへ向けるものです。その反対は、外責ともいうのかもしれませんが矢印は自分以外のものへと向けるものを言います。

人は内省をしていなければ自信を持つことができません。経験を糧に、その経験が何であったかをふり返り、その意味を味わっていくなかで自分の内面にある自己への深い信頼が具わって来るからです。

逆に自信がないというのは、もしも上手くいかなかったらどうなるだろうとばかりを思い煩い、やらないといけないことをやらないでやるためのことばかりをやろうとしては何もやらないから内省ができず自他を責めては自己を信頼することができなくなるのです。

人はやる前に考えたりするのではなく、やってから思索思想を深めて哲学を持ったり、やってみてからその経験が何になったのか、その体験で何を学んだかと振り返ることで改善になり、その改善の積み重ねこそで自信をつけることができるのです。

今の人は、やる前にやろうとばかりに気合を入れてはやれないというサイクルで停滞することが多いように思います。これは学校の刷り込みもありますが、勉強したら答えがある、答えがあってはじめて勉強をするという考え方に囚われているからかもしれません。

本来、答えなどというものはその人が自らの自覚によって導きだすものだからやっていないのに分かるものなどありません。答えというものが自分だからこそ、やってわかるものなのでしょう。

つまり内省ができないのは、「やってないせい」であり、本来の内省とは「遣って内省」の順序なのです。

常に遣って内省であるかどうかを問うことだと思います。自問自答してもどうしていいか分からないと苦しむのは、それは単に遣らなかったからかということにハッと気づく訓練をすることが善いように思います。それを促す人たちの存在もまた必要のように思います。

なぜか分からないもののすべてはやったら分かるという真実。

人生とは、体験をすることで成長し、経験を積むことで役割を与えられるものなのだから大切なのは迷う前にやってみる事だと思います。迷ったらいけではなく、迷う前にいけというのが本当なのでしょう。

心で浮かんだことを、浮かんだ瞬間に決めるという訓練。

考動一致していくことが、何よりも気合ばかりを使わないでいいコツなのかもしれません。不安は誰にもあるものですし、どうなるか分からない未来など当たり前といえば当たり前です。だからこそ、何から心に浮かんだか、そして次の瞬間にそれを遣らせてあげようと自己を見守ったか、それを支える燃料は内省により充足していくというのが私の考え方です。

遣って内省を生きていきたいと思います。

国とは

国造りというものについて考えてみます。

そもそも国というのは、人間がどのように幸せに暮らしていけるか、共にどのような理念で生きていこうかというものの形や仕組みを顕しているものです。私たちが目指す理想の国家をどのように築き上げていくかという考え方です。

国家というのは、家の延長にあるもので家をどのように修めていくか、家族がみんな平穏無事に平和に暮らしていけばいいかを家長が願い定めそれを家造り、そしてその家を国造りにまで発展させていくように思います。

論語の大学に、「修身、斉家、治国、平天下」というのがあります。

よく身を修めたものが、家を調え、国を治め、そうして天下は安らかになるということです。等しく、どのような国にするかはその国の形を思い描いた人物によって決まってくるのです。しかしその人もまたいつかは死してあの世にいきますからその後のこともまた考えなければなりません。

そこで国の仕組みというものがあるのです。

昨日、奈良桜井市に居る自然農の恩師に導かれ学習しているとその国造りの仕組みを実感した気がしました。ここには三輪の大神神社もあり、その麓には卑弥呼の神殿や数々の国の姿が風土に今でも残存しています。

大国主の物語をふと思い出しました。因幡の白兎を助けた話、黄泉の国で蛇や虫たちと話ができた話、鼠の子どもたちを助けた話、兄弟の不正に義をもって挑んだ話、そして天つ神に国を譲る話、そこに大和の人柄を感じていましたが国造りの支柱もまたそこに起点があるように思えるのです。

そして古事記にも日本書紀にも、国造りで一人悩む大国主に海の彼方から光る啓示があり、ある詞を授けます。そこには「幸魂 奇魂 守給 幸給」を唱えれば、必ず国は為るというのです。

これは何かと私に問えば、農と医です。

自然農に漢方も同じく、国を造るということは人を造ることであるからその二つが必要なのです。人には、生き方を直すものが二つあり、そこには農と医がいるのです。この二つが壊れると国家が乱れてくるようになっているのです。

私には大国主の神話の中に、今の日本人が学び直すことが記されている気がするのです。

人心が乱れ国が乱れたことで大和というものを創業し直すのです。そこでどのようにすればいいかを遺しているのが纏向にあるように私には直観しました。

私以外にも、この国を憂う志士はいのちを天に誓ってそれぞれに立ってほしいと願います。
この大和の根本は私たちに魂の在り処を教えてくれるはずです。

本来の姿、国がどうあるか、その教えをもう一度、ここに学べばいいのです。

そうして個々の自覚を以って子どもたちに伝承するものを体現してほしいと祈るのです。

最後に、こう記したいと思います。

医には大医、中医、小医がある。小医は、病を治し、中医は人を直し、大医は国を治す。そのどれもは自分を修める指針、家を定める方針、そして国家の偉大な羅針であろうと思います。

遺していただいている偉大な大和魂に感謝します。

有難うございます。

宇宙の心的

先日、社内で「大切にしているもの」という題材でアクティビティを行いました。

皆で何が大切なものであるか、それは何か、共通しているものは、今優先されているものは何かなどを相談して話し合っていくのです。それぞれに話しを進めていく中で、御互いに大事にしたいと思っていることが出てきます。そこには、家族、健康、思いやり、愛、志、仲間、時間など、様々なキーワードが出てきました。

人は大切にしているものというのはどういうことか、それは失いやすいものではないかなどと話も出てきて、皆で考え直す素敵な時間を過ごすことができました。

私たちは天地の間で生きています。そこには目には見えませんが何よりも大切な経糸というものがありその経糸によって私たちは存在しています。例えば、先祖が一人でも欠ければ、そして出会う人が一人でも間違えば今の私は生まれていないのです。他にも、隕石が落ちたり大洪水があったり、過去の出来事が一つでも間違えば今の状況はないのです。

当たり前になってしまいがちですが、様々な存在が一つでも欠けたら存在すらもできないのが私達ですから偉大な思いやりの有難さの中にいるのです。

しかし人間というものは、そういう大切なことを見失って忘れてしまう生きものです。それをそうしないように人間は共に学び合いご縁をつむぎます。言い換えれば、ご縁があるということはその横糸によってはじめて全体を理解していくことができているのです。

人が人との関わりでもっとも素晴らしいのが、それを互いの関係性の中で思いだし学び直し、そして維持していくことができるのです。例えば、愛を学ぶためには愛を学ぶ一期一会の出来事を共有していきます。その愛を学び合うご縁を結ぶというのは、誰とでもできるわけではありません。他にも、仲間というものや志というもの、思いやりを学ぶとします。これも誰とでもできるわけではありません。

大切なことを忘れてしまっていて、見失ったものをもう一度お互いに思いだせるということ。思い出せることでいつまでも忘れないでいたいという宇宙の心的を実感できるのです。

出来事とは不思議なことで、その結果が良し悪しではなくそこで何を学んだかというものを内省すれば自ずから人は悟るように思います。そこに大宇宙の不思議、自分の中にある小宇宙の不思議を実感するように思います。

それは言い換えれば、分かれているものではない、つながりがきれているところがないという場所を実感することができるということです。

そうして人は大切なことを見失いそうになるとき、それを大切にしている教えに出会うのです。そして思いやりのある人たちがいつまでも忘れないようにと仕組みを遺すのです。

仕組みとは、自然のことかもしれません。

かんながらの道を歩む中で、この仕組みが何かを自然と先人の智慧から紐解いていきたいと思います。子どもたちに経糸の仕組みを譲っていけるように心の的を大切にしていきたいと思います。

真似とは何か

先日ある人との面談の中で、自分が形を真似してしまったのがよくなかったという話を聞きました。それは仕事の仕方を真似したものの、説明になってしまい自分の意見が入っていなかったということに気づいたという話でした。

常に自分の意見を持つというのは、自分の考えを話すということでそれは心を開いて相手と接するということにつながっています。人は誰かと話をして心を通わすにはオープンで在ることが必用でそれは自らが進んで「自分はこう考えます、そしてあなたはどう考えますか?」という関心を主体的に問いつづけ育んで常にご縁に対して素直にいることのように私は思います。

それはそれで大切なことを気づいた善い時間になりました。

ただここで真似というものの本質について私なりの意見を書いてみます。

そもそも真似というのは、表面上のものを真似することを真似とは言いません。真似とは生き方の真似のことを言うのです。

例えば、尊敬する先人や師、もしくは身近に仕事を習う人たちに着いたとします。すると、その人のコピーをして同じ言葉、同じことをしてみても決して同じことにならないことはやって観ればすぐに分かります。これはなぜかということです。

私には師がいて、勝手に師にしているだけで師も師とは思ってもいないかもしれませんが沢山の師がいます。その師はすべて人生の師であり、生き方の御師匠さんです。その人の姿形や仕草を真似しているのかといえばそうではなく、その人の考え方、その人の姿勢、その人の実践、その人の人間性そのものを尊敬し真似しているのです。

真似というものは、決して簡単にコピーできるようなものではないのです。その勘違いがあるから真似ができないということになるのです。

真似というものは、長い時間をかけてどのようにしたらその人のようになるのか、なぜあの人はこのような話ができるのか、どうして同じことをしてもこんなに差があるのかと、その人のことが真に分からなければ似るということもないのです。

つまりは孟子の「似て非なり」なのです。

似て非なりとは、ちょっと見た感じでは似ているけれど実際は全く違っているという意味で本物と偽物のことを説いています。これはそのものの本質を観るときに使う言葉です。

本物になるということが本来の真似をするということです。だからこそ仕事を学ぶということは、先輩の生き方を真似るということです。学ぶ順番を間違うと本末転倒になるかもしれません。

先輩がどのようにして今の実力を手にしたのか、それはコピーでは得られず自らの脚下の事物をもしあの人ならどうするかと大事にし、その自らの心に師を描きつつ真摯に真似てみてはじめて非が分かり、その非を恥じてまた心して生き方の手ほどきを聴くことができるのです。

昔は師弟といったのかもしれません。しかしこの師弟とは、何かを通して共に生き方や生きざまを友にした「非で似ているもの」かもしれません。

今の時代は、安易に何でも真似ができると勘違してしまう人が増えているように思います。これも刷り込みで答えや結果さえ似ていれば真似できたと勘違いしてしまうからかもしれません。

真似は簡単ではないのです。

本来の結果とは、そのプロセス、つまりは生きざまのことでありその生きざまが同質であるかどうかを問われているのです。尊敬する人と同じように生きるには、それなりに真剣に生き方や生きざまをその人と同事にしていかなければ得られません。

あの人と自分は違うからというような言い訳が自分自身の成長を阻害しているように思います。あの人と自分も同じ人間、あの人と自分も同じ学友と思えれば、見せかけのものよりも中身で近づきたいと思うようになるのでしょう。

真似とは難しいものなのです。

私にもたくさんの指導者がいますが、ちょっと形が似たくらいで分かった気にならず、似て非なる真実を常に内省し、真摯に真似し真心で精進していきたいと思います。

循環するという意味

知識社会というものがあります。

私たちは今、西洋的な考え方によって人間が創りあげた世界を社会と定義して生きています。例えば、知識が多い人を先生と言い、何でも物知りで教えることができる人のことを偉大だと思い込んでいます。

二宮尊徳にある伝承が残っています。弟子に富田高慶という人がいて、大変な知識者だったそうですが念願の二宮尊徳に会った際、尊徳が彼に「大豆という字を書いてみよ」とし、その人が大豆と書いたら「お前の大豆は馬は食うか?」と尋ねました。その後、「俺の大豆は馬も食う」と言いその人は感動して弟子入りしたといいます。

物知りだから偉大なのではなく、自然の循環の道理を覚り、その道理を人間に及ぼしていく導者だからこそ偉大であったのです。自然の中に生きた尊徳だからこそのこの逸話です。

人間は知識というものを得てから、一部の知識がある人こそが価値があるものだと勘違いをはじめました。特に日本の昔は、まだ文字もたいしてなかったころは自然に精通し自然そのものの循環でいのちと渾然一体になって生きていたようです。

それが外来からの理論によって、さも知識がある方が素晴らしいことだとし時の権力者が真理を使って人々を管理したのです。そうしたものが蔓延ってくると、人はそういうものを鵜呑みにして人間の持っている知識が最高であると思い込んでいくのです。

しかし動物から植物、いや、地球宇宙に生きる私たち本来は循環の道理の中でこそいのちを役立てていくことができ、いのちそのものを活かしていくことができるのです。

生きることや活きること、そして活かすことや生きているということは、須らく自然の循環の中にスパンと入ってこそのものなのです。

答えを持つことが素晴らしいのではなく、その人の中にも自然の答えがあることが真に素晴らしいのです。勉強の本来の意味を間違えて自然を征服しようとしても、そのことで苦しむの私達本来のいのちや魂なのです。

人々の魂やいのちを輝かせるのは、もう一度自然に戻してあげることのように思います。天地の間に在る私たちが本来の姿に戻り、そしてそこではじめて言葉を持ち、正しい方へと導いていくことが道師を目指すということだと思います。

むやみに人の師になるな・・・吉田松陰先生の遺訓が骨身に沁みます。

そして二宮尊徳の道歌にまた、感涙を得ます。

「天地の和して一輪福寿草 さくやこの花幾代経るとも」

永続する循環の中から外れない生き方をしていきたいと念じます。常にいのちも魂も、自然と一体になってこそ輝いていきます。先生たちの生きざまから、今の姿勢を正していきたいと思います。

有難うございます。

以思伝思

人は自分の意見を持つということが大切です。自分の意見を持つというのは、自分で考えているということです。

例えば、何かの本を読んだとしてもそれを読んでいるだけでは身についているわけではなくそこに何かしらの自分の意見がありそれを誰かに伝えることではじめてものになっていくからです。

他にも人の話を聞いて教えてもらったからと、そのまま鵜呑みしているのではそれは本当の意味で自分の知識になるわけではありません。それを自分なりに調べてみて、探求して試してみて、そこから考えたことを伝えてはじめて自分の身についていくのです。

よく最近は、本心や本音を語らない人が多いと相談されていますがそうではなく伝えることができない人が増えたということではないかと私は思うのです。

この伝えるということはとても大切なことです。自分をもっていなければ伝えることができませんし、自分の思いが真摯でなければ伝えることはできません。

伝えるというのは、人が云うと書いています。これは単に話すことを言うのではなく、云う人になるという意味でもあろうと思います。自分の意見を持ち、それを已むに已まれず伝えたいという「思い」があるということです。

この「思い」があるから伝えたいとなる。

だから人が思いを伝えるというのは、自分の思いを醸成しているということです。つまりはその思いを育てていき、その思いを大切に練り上げ、その思いを自分と一体にしているということなのです。

人は思いがありそうで、思いを発信していくことを怠るものです。特に自分の大切な動機や起点、その他の背景のことなどは敢えて言わないで要求だけを話しているものです。しかしそれでは伝えているわけではないのだから御互いが本心から語り合うことはないのです。

本心から語るというのは、思いを伝え合うことです。それを隠して、それを言わずに話をしようとしても何も話すことはないのです。話し合いというものや合議するというのは、それぞれの思いを重ね合って一つのものを為していくことに似ています。

人が何かを為すには、様々な人たちの思いを受け取ってそれをやり遂げていく勇気と意志と感謝がいるからです。本来、根っこがつながっていなければいくら枝葉末節を形式上合せてみたって中身が折り重なるものではありません。

常に私たちは根をつなぎ、思いを醸成し、それを伝え合うことで社會を産み出しているからです。子ども達に思いを伝えていくことは、私たち大人がこの世で存在する大切な使命です。

人は伝えることができてはじめて学んだことになり、そして人に為るのです。

何よりも間人の中で人が育つことで大切なこと、それは伝える思いを持てるということです。

人生の体験を思う時、伝えようとする思いこそが何よりも尊いと私はいつも思います。だからこまず思いが先で、伝えることまで必ず遣り切ることが大切なのです。

どんなことでもいい、その人の本心というその自分の「思い」を世の中に伝えていけるような自分らしい生き方をこれからも精進していきたいと思います。

 

真の学び

今の時代は情報がすぐに手に入るからすぐに誰かに聞けば分かるからとあまり自分自身の力で学ぼうとしないように思います。すぐに教えてくれる人に尋ねては、その答えを知ることが教わったことと思い違いをしているかのようです。

それでは全てにおいて自分で行うことであり教えられたものは学んだのではなく形式的なものをなぞり分かった気になるだけなのです。

分かった気にならないというのは、分かった気にならないために聞いたことは全部自分の人生や実践に置き換えてその事実を知るまで徹底してものにしていくために自身自ら積極的にその答えを求めては試行錯誤し掴んでいくことのようなものです。

私にも師がいて、最初の頃は色々とお聴きしますが聴いてもやっていなければそれは現場で実践したわけでもなく身に着いたとはいわないのです。一理を聴けば一理を学び、ずっと試していくからはじめてどこかの瞬間に腹落ちしそれを試しているうちにコツを掴んでものにしていくのです。

そうやって身に着いた知識というものは、智慧のことでそこまで自分がものにするまで昇華したということで体験を尊び、体験から暗黙知を掴み、そのコツまでを体得し始めて言葉で語り合うことができるのです。

分かった気になった言葉で何度も何度も聞いたって、それでは知った気になった人と知っている人の人との対話になるのだから分かるけれど分からないということが起きているのです。つまりは分からないと思えるほどに、自分で身に着けていこう、自分の身にしていこうと真摯に取り組む人だけが真理伝道を可能とするように思うのです。

探求していくというのは、自分自身の中からこういうことですか、これでいいですかと常に自らが体験したもので相手に近づいていくようなものなのです。分からないのは体験の質量がまだまだ師に足りないからだと叱咤激励して取り組むのが弟子の態度でもあろうと思います。

自分に何が分かって自分に何が分からないのかが分かるということが、事実を知るということなのです。知った気にならないというのは、須らくその人の生き方を尊敬し、その人の生きざまを自分の中に内在させてこそその人の考え方やその人の価値を知るに至るのです。

最初の段階から分けて考えている人では自分の身につくということはないと思います。その人から学んだものが何か、その人から学びたいものが何かをはっきりさせているからこそ、探求を已めずいつの日かその学びを修得していくことができるように思います。

先日、致知出版社の社長にいただいた新著の中にこういう一文がありました。

「人に教えられたものは身につかない。自ら探して得られたものだけが自分の力になる。」(生きる力になる言葉 藤尾秀昭著) 致知出版社

あの言葉はなんだろう、どういう意味だろうと、自分の人生に置き換えて何度も何度も反芻しながら試していく中で、あるとき気が付いたら身についているというのが現実の学びではないかと思います。

すぐに誰かに聞けばいいというは、調べれはすぐに分かると勘違いすることがもっとも身に着けないことになるかもしれません。論語読みの論語知らずにならないよう、一つ一つの意味を善く玩味し、充実した人生の中からその言葉の真意を掴み取れるように真摯に行じていきたいと思います。

先人たちの歩んだ道を身を持って体験させていただけることに勇気と元気をいただけます。

今日も真摯に遣り切って真の学びを楽しみたいと思います。

 

目的と手段

遣る事と在る事ということで話をすることがあります。

人はつい何かを遣ることにばかりに捉われてしまうと、どう在るかということを忘れてしまうものです。これは目的と手段を間違えることと同じで、本来は何のために行っているのかという目的よりもどのようにやるのかという手段ばかりを考えてしまうということです。

本来、人は目的があるから遣ることがあるのです。

目的がなくてもさせられるのは何かをしようと思う前に誰かに教え込まれたり、答えはすでに用意されていてその答えのために問題を解くことに似ています。

それは手段の方が目的よりも勝っているということであり、その手段を考えているうちに本末転倒になってしまい本来の目的を見失ってしまうことで事は成就しなくなるのです。

私が取り組んでいる自然農や漬物、その他の実践は、理念という根元から養分を持ってきています。なので続きます。しかし日ごろ接しない人からは私が一過性で勢いで突然遣っていると勘違いするようで、よくまあ続きますねとか、バイタリティがありますねとか個性のように言われますが本来はその行おうとする手段は思いつきであったとしても目的がブレナイから続くし諦めないように思います。

何かを行う時は、必ずその目的は何かを思います。

そしてその目的を達することだけを念頭に置いて、そのついでに遣ることを真摯に取り組んでいくという順番です。言い換えれば、信じる事の方が何よりも大事でそのついでに遣ればいいという考え方なのです。

そうしていると、遣り切ることが信じることになり、信じることは目的を忘れないでいつまでも初心を維持しているということになるのです。

初心というものは、それを忘れてしまうから忙しくなり、元気がなくなり、楽しくなくなり、中途半端になり、迷いが出て、周りに矢印が向くようになり、一時の感情に流されて判断を過ち、後悔してしまうのです。

常に目的が何か、そしてそれを達する手段は何か、それを誰とするのか、それを語リ合おう、助け合おうという手順でいつもいることができれば、人は共生し事物全体と一体なって調和し心願成就していくことでしょう。

しかしこれは簡単に教えることも教わることでもありません。

いつも自問自答、心の声をつぶさに聴いて、その自分の中の本心や本音の声から向き合っていく必要があるものです。簡単にインターネットで検索できるものもでなければ、書籍で読むものでもなく、誰かに教えてもらうこともできません。

それを本当に遣りたいのか、その目的は何かと動機の時の心に問い続けないといけません。

大切なことを理念として初心を忘れないでいることが本懐を遂げることになるのでしょう。
一度しかない人生をやり遂げさせてあげたいのは、見守ろうとする偉大な真心です。

ひとつひとつお仕事とお役目を丁寧に進めていきたいと思います。