修身とオープン

オープンになるということは大切なことです。このオープンとは、心と感情の開放のことを言います。そうすることで、自分自身というものの心を澄ませて感情も澄ませていくことができるからです。その両方を磨くということが即ち、オープン=素直になるということです。

論語の大学に修身についてこう書かれています。

「其(そ)の身を修(おさ)めんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の心を正しうす。其(そ)の心を正しうせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の意(こころばせ)を誠にす。其(そ)の意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。
物格(ただ)して后(のち)知至る。知至りて后(のち)意(こころばせ)誠なり。意(こころばせ)誠にして后(のち)心正し。心正して后(のち)身修まる。」

修身の一部の抜粋からの意訳ですが、身を修めるには心を素直にしていくこと。そしてそれはまず自分の感情を澄ませて正直にしていくこと、正直にするには知を本物にしていくこと。知を本物にするのは、自らを誠心誠意、本心本意のままで在るようにしていくこと。そうして自分が素直に自然体でいるならば知は本物となり、そうなれば感情も正直になる。感情が正直になれば心も素直になる。そうなってはじめてその身が修まるのであると書かれているように思います。

これは簡単なようですが大変難しく、人はどこか他人にあわせて自分を決めているものです。つまりは自然体であろうとするよりも、無理をしてどこか正直ではない自分を演じるものです。良く見せようと思ったり、価値を下げないようにと我慢しているものです。

これが悪いとはいわないのですが、そうなることでオープンではなくなれば余計に身が修まらなくなるのです。オープンでいるというのは、感情をそのままに表現することを大切にしていくということ。つまりは、嬉しい時、悲しい時、辛い時、その自分をそのままに周囲を信頼して開放してもいいと安心している自分があるということ。

そして心がいつも穏やかで澄んでいるならば、その感情も決して周りを傷つけるようなものにはならず、穏やかに弱い人たちを助けていくような勇気になるはずです。

オープンでいるということは、何でも話してもいいという姿勢を自分がいつも周りに示していることです。自然体になることが私にとっての修身ですが、それは仲間にいつも心を開いて自分の感情も含めてオープンでいることのように思います。

素直になれば正直になれば、無茶な事や無理なことを誰かに押し付けるようなことはしなくなるものです。修身とは、本来の明徳や玄徳といったその人がそのままに備えている本来の人格、もっと平坦にいえばその人の魂の個性というようなものを如何に発現させていくかをいうのです。

自分らしさというものは、どこか外に探しにいくものではなく、本来は本物の自分を発掘してそれを周囲へ及ぼしたときに出ているものです。

素直で正直でいるというのは、自らが安心しオープンでいる実践のことでしょう。今の時代の修身とはオープンであることが本質の維持です。常に矢印は自分へ向けて、自らが閉塞状況をつくらないように注意して身を修めていこうと思います。

脈々と流れる自分のお役目

私達の先祖たちがどのような道を辿ってきて今があるのかは古事記の中の物語や、神話、そしてかつての遺跡から考察することができます。

何かの出来事があったとき、どのような考え方をしたか、どのような思想をもって取り組んできたかを知るのです。今の私たちが生き残っているというということは、その思想が根底に備わっていてそれがあるから私たちが今も発展を継続していくことができるのです。

その思想とは何かと言えば、私たちが日本人らしいと世界で評価されているところのようにも思うのです。それは日本人の道徳観や、民族観、文化観からも顕われています。

例えば、譲り合いの姿でいえば困っている人がいたら放っておけず無条件でその人たちの世話をしたという話は地域のいたるところに残っています。また、子どもっぽい民族で真似好き、地道に正直に何でも受け容れて取り込んでいくことも特徴ですし、おもてなしや礼儀作法、風情や情緒を自然に愛でる精神なども持っています。

こういうひとつひとつの中に、私たちが先祖代々受け継いできている根本の思想があるのです。そしてこれを日本らしさとも言うのでしょう。

私達の先祖たちは、権力で人を使うのではなく思いやりで皆と暮らしていました。それは神話や遺跡、文化からも垣間見れます。震災の時や、有事の時、日本人が慎ましく謙虚に譲り合い助け合う姿は常に世界では高く評価されるのも日本人らしさを見るからです。

私達にとって当たり前と思うことの中に、私たちのルーツがあります。この当たり前をどれだけ今の時代に発掘して還元するかも、子どもたちの仕事をする今を生きる私たちの大切なお役目であろうと思います。

自らを正しく伝承していくというものの大切さは、その時代時代を生きた人たちの使命です。間を取り持つことではじめて人は人になるからです。自分のことばかり考えて自己中心的な人が増えてきて、自分のことばかりに時間を使おうとする利己的な社会になってきましたが、善く周りを見渡せばちゃんと日本人らしい実践を怠らずに流されずに自分を持っている人たちがこの時代を根底で支えています。

恩恵に感謝し、その恩義に報いるためにも先祖から代々守り続けてきた真善美を継承し、その実践を自らの日々を通してカタチに換え、いつまでも子どもたちに誇りと自信を譲って生きたいと思います。

日本人として当たり前のことをもっと大きく深く引き出して、脈々と流れる自分のお役目を全うし、未来や世界の御役に立つために学び直していこうと思います。

自発

自発というのは誰かのために自ら進んで何かを考動することと言います。

これは自分の中で何をすることが役に立つのかを自覚するから芽生えていく生長のことであろうとも思います。全ての生きものは、この自発性を備えているもので自然の中を見渡していても自らが何をすることが善いのかを知らない生きものはいません。

しかし人間は何かを教え込まれ刷り込まれることで我慢を氏そして我儘になることでこの自発性というものが失われていくように思うのです。

そもそもこの自発の発とは何かと定義すると、私の中では本当の自分の心の奥底から発することをいいます。それは呼吸をするように、また血液を循環させるように、または昨日書いたような感謝の本体から発信されてくる発動のことです。

難しい言い方になると、無や空から突然起こってくるようなイメージのものですがこれが自発したということになるのです。直観などという言い方も近いかもしれませんが、言葉で説明するには限界があるのもこの自発という真意です。

自発性というものは、見守ると常に同居しているもので子どもを丸ごと信じてそれをどのようにすれば役に立つかを考える事です。その人がどうしたいのかをよく観て、それを実現するにはどうすればいいかを具体的な仕事で活かすことのように思います。

私達の会社でも発酵というテーマで取り組んだり、日々の記憶や記録を誰かのために発信したりするニュースに取り組み実践するクルーがいますが、すでにその取り組みの実力は群を抜いて発揮しています。最初は分からないままに他動によって始めたにせよ、それを信じて積み上げ取り組む中で自発性というものは引き出されていくものです。

自発性というものは、互いに信じて合っている中で育まれるものなのかもしれません。自発性を持つもの同士は信じ合っているものだから、その信が顕われることが実力というのでしょう。将来のことを信じ、その人が最終的にどのようになりたいかをよく観て、その人に今、必要なことを見守りながら一緒に取り組んでいくということ。その学びの尊さを感じます。

何よりも今の集積を通して、自分が御役に立てていることを日々に自覚するまで遣り切ることが、自発の種に息吹を与えることなのでしょう。そうしてそれが共生の原理であり、人間の社会が持つ「つながり」を味わえる極楽の境地かもしれません。

集団で生きることで発展してきた私たちの祖先は、何を大切にしてきたのか。今回の連休のテーマにしています。

何を与えていくことができるのか、与えられたものが何か、常に自問自答して自発に気づいていこうと思います。

新たな挑戦~原種の旅~

昨年は、稲が穂イモチ病にかかり収穫がうまくいきませんでした。今年は古代米(紫米)に挑戦しています。この古代米とは、稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる米のことです。

もともと野生型の稲の種子は褐色や黒紫などの色がついているものが多いのですが、人が栽培することによって無色(白色)の種子へと変化していったと言われています。

このことを「栽培化」といって現在の稲は、この栽培化によって白く粒そろいで栽培しやすい性質になってきたとのことです。野生化と栽培化の差とは、どのようなものでしょうか。その差を看取る予定ですが違いを視るより同じものを探したいと思います。

以前から野生種をそのままに育ててみたいという気持ちもあり、今回は野生種を野生種のままに育てていくための挑戦を自然農の畑で行う予定にしています。

畑の一部に、水が溜まっている場所があり、その場所をうまく活用してそのまま野生で育ててみるときと、庭のビオトープで栽培しているものと比べてどうなるかも見ものです。

昨年の失敗を、今年のテーマに換えて学んでいくということは楽しいことです。ちょっとやそっとではへこたれないというものは、稲や米、その他の野菜と同じで、曲がりくねっていても最終的には天に伸び、実をつけ、種になるのが自然です。

自然農では、曲がっていた方がより生命力が強いと言います。曲がりくねるのは、思った通りではなく順応してでもへこたれないで諦めないで遣り切ったいのちがそこにあるからでしょう。

今年の古代米は、原種と栽培種というものを考える上で興味深い時間を過ごせそうです。

古代米は、一般に、生命カが極めて強く、荒れ地で無肥料・無農薬でも丈夫に育ち、干ばつ・冷水などにも強い性質を持つと言います。

そもそもの姿から、現代の姿を学ぶことは、種のグレートジャーニーを味わうことです。久高島に訪問してルーツを辿った旅も、今年の挑戦で実になっていきます。人生にはまったくの無駄がない。それを感じつつ、新たな挑戦を楽しみたいと思います。

 

自然からの学び~共有財産~

自然農に取り組む中でまた新たな発見がありました。

自然に合わせて他の植物と野菜の共生に任せて見ていると、生長期を共にするものを仲間としその伸びる速度や高さ、その育ち方にまで影響をし合うことに気づくのです。

例えば、高さでいえば、周りの高さに負けないように自らを上へと伸ばし太陽の光が届くところまで高くなるのです。そうなると周りのものも同時に高くなるため、全体的に高くなるのです。もちろん、もともと背の高いセイタカアワダチソウやトウモロコシなどはかえって周りが低いと低いままですが、周囲が高くなると高くなるのです。

高さというものは、周りの高さによって変化するものだから周りの高さをどのように保障してあげるかでそのものの持っているものを引き出せるようにも思います。全体を高くしていくということは、伸びる力を引き出していくということです。

他にも混植をしていく中で、急成長する植物の音を聴いてはその音に沿って伸びているようにも思います。身近なものをみて、身近なものの生長の様子にあわせて自分の場所を確保していくというものです。

生長の豊かな状況の中に、種を置いてあげれば次第に周りから学んで伸びていきます。そのものに毎回、肥料や水、農薬をかけずとも、周りに元気な草花が自生していればそこから自然の中で生きる智慧を学びながら育つのです。

不思議ですが、自然は常に周りの環境から学び育つものです。ここに引き出し方のコツがあるのです。周りとの共生から学ぶという、自然の学び方があるのです。自然は教えずとも学ぶという根拠は、常に周りから学ぶということが自然そのものの本来の学び方であるということです。

多品種多目種であることが周囲を元気にするのは、それだけ育ち方や取り組み方にそれぞれの伸び方や生え方があり、それを通して智慧を自らのものにしていき生長を揺るぎないものにしていくのでしょう。かつての季節や気候、土壌でそのものが得た智慧を共に学び合いながら共生するということにそのいのちが生きてきた智慧を共有するのです。

周りによって自らが学ぶというのは、自然の学び方の一つなのでしょう。周囲を多様にしていくことが、生きる智慧を引き出す方法です。

生きる智慧とは、共有財産のことです。それをシェアできるとうことが真に豊かな協働共生する社会の創造になるはずです。子どもたちのためにも、自然の新たな発見を実践を通じて、一つ一つものにして具現化し、それを世の中へ還元していきたいと思います。

 

心の訓練

心の訓練というものを考えてみます。

心というのは形がありませんから、どこにあるのだろうかと思われるものです。自分の心、自分の感情、真底から丸ごとの自分とは何かということを知らない人の方が多いと思うのです。

日常で心が摩耗していくとき、その本心がどこにあるのかがふと自分でも分からなくなるということは往々にして起きる事のように思います。私自身もいちど心が迷い、ざわつき、執らわれてしまうと、自分のことが分からなくなってしまいます。

そしてそのように自分が分からなくなれば、真心も分からなくなるのです。そんな時、私は他人の御役に立てるように真摯に自分の誠を尽くして本来の自分を取り戻します。

かんながらの道を歩む中で気づいたことがあります。

この真心というものは、あるがままの心でいるときに顕現しているということ。
そしてそれは、本心のままに生きている自分のままでいるということでもあろうと思います。
生まれたての赤ちゃんの素直な姿でいつまでもいるようなものです。

時折、素直な姿に心が洗われるようなときも心は澄み渡っていきます。
人の本心や本音こそが禊になり穢れを払っていくのです。

また同様に真心は、感謝のときにこそ顕われます。

つまりは、至誠神の如しと言われるように「まこと」の姿そのものが自然なのです。

心とは何か、「心の本体は感謝」なのです。

自然でいるということは、常に心を澄ましていることが必要です。
自然体とは、感謝体になっているということです。

そしてそれは日々の感謝の実践によって得られるように今では確信しています。

人格を練磨することに時間をかけて日々に修養して良知を学び直してシンプルにしていくことが人生の大目標なのかもしれません。ここでの良知とは、本来の全ての関わりと出来事に感謝し、澄み渡った感謝の情愛を自分の真底から引き出していくようなものです。

それに気づく機会は、いつも人間関係の中で得られています。

これからも諦めず、直向に心の訓練を実践し、生まれてきた世の中を生まれる前より清々しくしていけるように様々な出来事に正対し受け容れ、感謝に転じていきたいと思います。昨日も大きな学びがありました。まずは実践ありきで、何事にも子どものように素直に取り組んでいきたいと思います。

今日は七夕です。

「笹舟の 流れる河に 満ちてくる 心の音色 澄みやかにきす」 藍杜静海

真心を有難うございます。

夢とは何か

人は夢を持っています。

自分がこうなりたいとかこうしたいとか、夢は膨らんでいくものです。実際の人生では、自分の思っていることよりも思っていた以上のことが起きて夢を諦めないで善かったと思うことが本来の夢そのものであるのかもしれません。

叶ってしまうような夢ならば夢ではないというのは、夢とは追い求めていくときこそが夢であり夢を持つというのは全ての今は夢の途上であると向かうことに意味を見出しているときだからです。

先日、夢についてイエローハットの鍵山氏と伊那食品工業の塚越氏の対談の著書「幸福への原点回帰」(文屋)にてとても共感し感銘を受けた文章があります。夢を追い求める人達へのエールになると実感しました。ここにはこう書かれています。

「どんな人でも、成長の過程で、何らかの夢をもつと思います。しかし、多くの場合、この夢が途中でなくなってしまうようです。これは、夢が逃げ出していったわけではありません。自分が夢から逃げ出したということです。これはとても残念なことです。夢に向かって重ねていく努力というのは、なかなか「これだ」と成果を確認することができません。簡単に成果を手にすることができるなら、おそらく多くの人が努力をし続けると思いますが、どれだけ努力を重ねても、近づいている実感がもてないものです。やがて、その努力を続けることがむなしくなり、はかないと思うようになります。そこでいやになり、もうやめてしまおうかと考えはじめてしまったら、それは自分が夢から逃げているということです。」

夢というものは、逃げないことで夢に向かうという意味なのでしょう。そしてこう続きます。

「私が会社で掃除を始めてからも、長年の間には、むなしい気持ち、はかない気持ちに襲われたことが数えきれないほどありました。一貫して希望に燃えていたわけではなかったのです。ほんとうにいやになり、やめてしまおうかと思ったこともあります。しかし、やめませんでした。「もうやめようか」という考えが湧くたびに、私は同じ結論にたどり着きました。それは、「昨日までの努力は、捨てるには惜しい努力であった」ということです。よしんば、昨日までの自分の努力が、いつ捨てても惜しくないものであれば、あっさりと投げ出したかもしれません。しかし、ここでやめてしまったら、昨日までの努力が無駄になると思ったとき、ふたたび心が奮い立ち、努力を続けることができました。」

そして鍵山氏は、若い人に「捨てるには惜しい努力、自分自身で納得できる努力をしていっていただきたいと思います」とエールを送っています。

この著書は素晴らしい名著で、今の時代の真摯に生き切ろうとする経営者の人達のバイブルになるものであろうと思います。

夢を持つというのは、向かい続けるということ、向き合い続けるということです。それでも逃げずに向き合っているならば、必ず夢は向こうから顕われてくるものだと私は思います。

信じるということは、今の自分が夢に向かっていると納得できるほどの努力をしていることだと思います。それまでやってきたことが、捨てるには惜しい努力であるか、そこに今を生きるという夢の本質があるからです。

何も手に入らなくても、この瞬間、生きている実感、感謝しかないと覚える今が夢そのものの真の価値なのかもしれません。そして人生の夢とは素晴らしい記憶に包まれている今に酔いしれて、味わい噛み締めているようなものです。この瞬間が儚いからこそ、永遠に感じるからこそ、いつまでも諦めないで続けていこうと思います。

未熟でガキで我儘なこんな自分を、耐え忍びて志に転じることで芯の強さに換えながら自らを磨き抜き、その本懐を遣り切りたいと誓います。

遣り甲斐と幸せ

自分の仕事の価値がどれだけのものかを知るということは大変な意義があります。

先日、もうコンサルに入り7年前になる園の職員取材の中で私たちと一緒に取り組んでいる実践をどう思うか尋ねるとその価値を大変高く実感していることをお聴きしました。

例えば、ブログの配信一つでもそれに自分の存在価値があるとし真摯に徹底して実践をしている姿に若いながらも将来の偉大な可能性を実感しました。何をやったかではなく、その意味やその価値を知る者こそが目標を大きく超えていくように思います。

仕事の価値を知らないということは、遣り甲斐を感じないということにもなるからです。遣り甲斐というものを辞書でひくと【やりがい(遣り甲斐)とは。意味や解説。そのことをするだけの価値と、それにともなう気持ちの張り。「―のある任務」】(goo辞書より) とあります。

つまりは自分の行っていることの本当の価値を自らが自覚しているかということに由るのです。

人は何をするにも、その価値を知って行うのと知らずに行うのは異なります。これは凄い仕事だと思って実践する人と、単なる業務の一環として取り組む人では仕事の価値が分からないのです。

この保育者も今まではそういう仕事ではなかった体験があったからこそ、新しく取り組む仕事の価値を知り、実感しているのです。いつも恵まれている人は、本当の仕事の価値を知るはずもありません。一つの実践を生み出すまでに、その裏に隠れた問題意識や危機感、哲学などがカタチにしていくのです。

遣り甲斐というものと等しく生き甲斐というものがあります。それを表現するのに、日本理化学工業の大山泰弘氏の紹介している言葉があります。

「人間の究極の幸せは、「人に愛されること」「人にほめられること」「人の役に立つこと」「人から必要とされること」の4つです。働くことによって愛以外の3つの幸せは得られるからです。」

生き甲斐とは幸せになることで、幸せとは愛されること、褒められること、必要とされること、そしてそれは誰かの役に立つと自分が実感して取り組むことだと思います。もっと自分を出し切っていきたいと、誰かのお役に立ちきっていきたいといった貢献意欲は自分の内面から開花させていくものでそれがヤル気、活き気になっていくように思います。

この程度の仕事と割り切っていく仕事ではなく、まさにその仕事の価値を自分で見出していくような仕事こそ、尊い仕事、楽しい仕事、遣り甲斐のある仕事になるように思います。仕事とは、何をするかではなく、どうあるかということに尽きるのです。

若い頃の自分の自他問を繰り返して鬱陶しがられていたことを思いました。

「この仕事は何の役にたちますか?何のためになりますか?」

当たり前に胡坐をかかないように真摯に実践を楽しみたいと思います。

 

頭でっかちの落とし穴

何かを弘める際に、それが行われるかどうかは実践するかどうかによります。

そしてこの実践というものは、よく勘違いされていますが頭でっかちにやることが実践のように語られてマンネリ化していることも多いのです。そこには三つの落とし穴があるように思います。

一つ目は、何のためにやるのかということを考えなくなることです。実践には心が伴っていなければ実践とはいいません。何のためにと考えず、やらされたりやらなければと闇雲にやることばかりに囚われてしまうと業務のようになってしまうのです。常に本質的に取り組んでいるかどうかは、決心した場所から常に離れないで行うことができるかということが大事になります。

そして二つ目は、身体を動かさないことです。頭は、いつも楽をしようとばかり考えているものです。いつもやりながら他の方法論を探したり、便利で簡単にできるようにと思っています。すると、やってもいないのにやっているという感覚になり現実が麻痺してしまうのです。身体を動かすとは、具体的に手間暇をかけてでも面倒でも一つ一つのことに身体を使って行動することです。そうしないと、思っていますややっていますといくら感情的に訴えてもその実は何も変わっていないことになるからです。メンドクサイと言われるような時に行うことで身体は動きます。

三つ目は、言葉を大切にしないことです。言ったことを遣るということは、大変難しいことです。特に言った通りに行うというのは何よりも難しいことです。自分の言葉に責任を持つというのは、維持継続して遣り遂げるということを意味します。自分で言っておきながらそれを大事にしないから言葉で伝わらなくなるのです。伝わらない言葉というものは、全てを形骸化させ物事を便宜的にしてしまうからです。それに言葉にしていくということは、上記の二つをやっているから真の学問に通じ、それを伝えるための自分の言葉にしていくことができるのです。

このように実践というものは、実践と思っていても思い違いをしていて頭でっかちという名の罠があらゆるところに仕掛けられるのです。頭とのバランスというか、想像したものを行動に換えて習慣にしていくことで実践と呼べるものになるのです。

日々に実践をするというのは、心、身体、そして言葉というものをフル稼働すること。つまりは決めたことを決めたままに行うこと。言い換えれば自分が分かった気にならないように真摯に真心を籠めて飽きずに倦まずに丁寧に以上の三つを気にかけて知行合一に取り組んでいくことのように思います。

方法論ばかりや選択論ばかりが広がるのは、実践をしないからでしょう。保育業界も教育業界も、楽な方ばかりで語られ保育の質や子どもの人権などは御座なりになってしまっているようにも思います。これも先に教え込まれて勉強をしてきた過去の刷り込みが存分に残っているのかもしれません。

本来の使命感として、理念がどうなっているのか。その理念に対してそれぞれが実践していけば自ずから協働し世の中も思いやりのある温かい社会に換えていけるように思います。そういう生き方や働き方を示すことはそれだけ志が世を憂うからです。

自分ひとりの実践が、周りの実践を弘めることになると信じています。世間の頭でっかちに揺さぶられないように改めて実践を強めていきたいと思います。

清々しく弘める

先日、ある取引先の先生から貧者の一灯のお話を拝聴してきました。富者の万灯よりも貧者の一灯という仏陀の話ですが、真心を籠めた一灯は大変尊いというお話でした。

もともと数が問題ではなく、一つ一つの行為に誠の心を籠めたものであったかという例えです。この話は、よく富者か貧者かというところをフォーカスされて使われたりしますが、そもそもその考え方自体が刷り込みによるものです。

他にも、清貧といって物質的なものよりもそれ以上の価値で簡素に生きていくという言葉もありますがこれも富むか貧しいかというところが比較されて使われるのも同じです。

そもそも貧者の一灯の場合は、富むか貧しいかが問題ではなく「真心」かどうかを語っていますし、後者の清貧か富豪かではなく「清らか」であるかを語るのです。

何でもそうですが、今の時代は競争か共生かとか、画一か個々かとか、何でも比較して語られますが本来のそれは言葉を脳で仕分けただけでそこに確かな心の生き方がどうかが語られなければ本質的な話ではないのです。

本来、私は競争は悪いとも思っていませんし比較も悪いとも思っていません。他にも画一が悪いとか、大人目線が悪いとか、贅沢が悪いとか、その反対に玄米食しかダメとか、お酒も醸造アルコールはダメとか色々とダメなことばかりを言うのでもありません。

そこにこだわりがあるのは、あり方の方で、私はそこに清らかであるか、真心かといったものがないのはどうかと思っているのです。

例えば、競争も清らかに真心を籠めればその競争はとても美しいものになります。お互いを高め合い認め合い、尊敬しあい、思いやりに満ちた素晴らしい体験になるでしょう。他にも比較も、互いの長所を褒め、互いの美点を尊び、その比較が全て善転するようにするならばそれもまた存在に感謝しあうでしょう。大人目線といっても、真に思いやりのある大人として目線を確かめたなら真実に触れ人は自律し磨き合い高め合うでしょう。

このように本来の心の定めた在り方次第で、いくらでも物事は本質のままであるのです。

人が本質から外れるのは、そういう在り方よりも表面上の脳で裁いた右か左かという発想が本質を歪めてしまうように私は思います。

今の時代は、物が溢れたからこそ物を否定せず、物をもっと大切に感謝して豊かさを清々しくしていく必要があるように私には思えます。それはまるで清貧思想でも清富思想でもなく、清く豊かな思想です。

これは感謝の時代、それだけ感謝をたくさん豊かにしていく時代のように思えるのです。貧しい時代が善かったとか、今は物が溢れすぎて心が貧しいとか色々と言われますが、もっと有難うということを豊かに感じる感性を磨けばいいようにも思います。

どうしても恵まれすぎると、色々なことが目に入らなくなり与えられている幸せを直視できないで感謝を忘れてしまうことがあります。特に豊かである人ほど感謝を亡くすのです。しかしそんな時は、恵まれすぎたものをどれだけ自分が多くの人へと還元するか、精進してそれをもっと豊かで幸せな社会のために真心で全てを活かそうかといった感謝の発掘発展と心のおもてなしに使えばいいように思います。

思いやりや真心、そして清らかである方を選ぶ生き方そのものが貧富の差なども取り払ってしまいます。大切な生き方が観える生き方かどうかは、生き方を実践しているかどうかで決まります。自分の生き方がそうだから、他人の生き方が観えるということは、自分も同じ生き方をしようと決めた人にだけ与えられる世界があるのかもしれません。

環境がどうであれ、日々の「生き方の実践」を怠らないのであれば人の住む世界はいくらでもその人の生き方次第で観え方が変化してしまうのです。そしてそれが道そのものとしてひらかれていくのでしょう。

今のような時代を全て受け容れ、清豊主義で与えられたものを最大限伸ばして真心を籠めて感謝でき、それを分け与え清々しく弘めるような生き方をこのまま優先していきたいと思います。

道心を弘めるのも私の使命ですから、脚を止めずにこのまま歩んで往こうと思います。