勇気

人は何かをしたことを満足したくなるものです。

例えば、これをやったのだから凄いとか、これをしていないからダメだとか、結果だけをみて判断してしまうものです。しかし本来、物事というものはそこに世間からの評価や評判などの基準で良いか悪いかを判断しているのは、自分がそう思われたいから求めることが多いのです。

世間の評判を気にして何かをすることは自我が求めているだけで、本来の自分の魂が望むものではありません。

自分の魂が望むものとは、全てにおいて日々にどうありたいかということでありそれは自分の生き方を換えることによって得られるように思うからです。しかしこれも大変難しいことで、生き方を換えるには勇気が必要になります。その勇気は、今までの自分の思考のパターンを変換して同じ状況を転じて福にして善いことへとしていく実行力が必要だからです。

同じことが起きるのが人生で、マンネリ化してしまうのも人生ですが、同じパターンをやめたいと強く念じるならば今までとは異なる乗り越え方をしていく必要があるのです。それはまるで、自分の内面の扉を開けて道をひらいていくような感覚なのです。

これを言い換えれば「受け容れる勇気」というものかもしれません。そもそも勇気の本質とは、どれだけのことを逃げずに真っ直ぐに受け容れるか、つまりは自分が与えられたものを受け止め心から信じるかということですが、そこに疑いがあることは受け容れたことではありません。

どんな環境や境遇であっても、今与えられたものには何か大切なことが潜んでいるということ、それを真摯に学ぼうとすることができてはじめてそこに感謝も真の歓びも幸せも楽しみもあるように思います。

自分の思い通りにいかないことは楽しくないものです。それは脳が楽しくないと思っているからです。それを邪魔するのは自分の身がかわいいからです。しかし心は生き方ですから、それとは反して覚悟を決めて今を遣り切っていくと一瞬一瞬が幸せであるように感じられるものです。そしてここに転じるのも勇気の一歩が必要なのです。

楽よりも楽しい方を選ぼうとするとき、そこに勇気がいるのです。何が起きるから分からないけれどそれも全て天に委ねようとする勇気、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という捨て身の覚悟というものが求められるのです。

この捨て身の覚悟が私の思う覚悟力の本質で、その時こそ人は勇気をもって変われるのかもしれません。どれだけかわいい自分自身を捨てられるか、そうすることで身がから離れ本来の魂といった生き方や死に方が心に顕われるように思います。これは身近な人の闘病を見守りながら、何を捨てて何が捨てられなかったのかを見つめることができたことで気づくことができました。

本来の死生観とは、そういう身をどこか他のところに置いてでもという境地が必要なのかもしれません。ただ、それも極端な観念論ですから、日々の取り組みは真心をどれだけ籠めて遣い切ったかでもいいように思います。

自分のことを思い煩うよりも、人のために自分の真心を今日も遣い切るという方が私にはどうも合っているように思います。他人のためになる仕事、つまり自分を役立てるというのは、もっとも身近な家族を大切にしていくことからもすぐにできることだからです。理念を真心で遣り切ることも偉大な勇気の一端であろうと私には思えます。

最後にマザーテレサの言葉に励まされます。

「どんなに小さいことであっても、大いなる愛を込めて行うことは、人に喜びを与えます。そして、人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるのか、それが重要なのです。」

どれほどの愛を注ぎ込むか、そこに生き方を教えてくださっているように思います。
今日も楽しく豊かになる一日を与えてくださって本当に有難うございます。

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。

性格学

せっかちという意味を調べてみる。

すると語源由来に、「急ぎ勝ち」というところから来ている。急くという字と、勝ちという言葉の組み合わせで、どちらかというと急ぐ方が多いという意味になる。似た言葉に、気早、おっちょこちょい、生き急ぐ、先走る、性急などがある。

対義語は、のんきといい、当て字に暢気や呑気を使いますが本来は中国の暖気から来ているようで性格がのんびりしていて、無頓着、気楽で気が長いなどという意味になります。

もともとせっかちな性格というのは、言い換えれば行動力があり思い立ったらすぐに実行せずにおられない性分だということです。またのんびりというのは、事がなるまでじっくりと待ち冷静に楽観的に信じるという性分だともいうことです。

それぞれが善く出ているときは長所であり、それが状況に反して悪く出ているときを欠点だと呼ばれるものです。どうしても自分の時に合わせようと相手に求めてしまいますが、御互いが御互いを認め合うとき、その両方がはじめて活かされて調和していくように思います。

また一人の人間としてもその両方を状況にあわせて生涯にかけて活かしていく必要があります。そういうものも周りから学び、自分の性格を活かしていくことができるからです。しかしそんなに簡単器用にはいかないもので、だからこそ多様な人たちの中で一生をかけてその両方を得ていくようにも思うのです。

例えば、せっかちの人は歳とともに、次第に落ち着いていくものです。これはせっかちの善し悪しを学び、どの状況の時にどうあればいいかを気づき身についてくるからです。そしてのんびりの人は同じく歳とともに、どのときは直観に従い行動すべきか、危機感をどう持てばいいかというのを学び身についてくるのです。

そう考えてみると、人は一人ではなく大勢の中で様々な性格の人が集まっていることがもっとも現在に対応し対処できるように思います。自分だけの判断では、そのような自分の性格がぴったりと当てはまる事柄と、そうではない事柄の時があるからです。

もちろん、人間として完全になっていくのに色々な性格が次第に陶冶されて円みを帯びていくことに人間の学びの意味があるように思います。

同時に、自分以外の性格の人達いてその人たちの御蔭で物事が正しく乗り越えていけるという実感と歓び、そして多様であることへの共生や貢献、感謝などを学ぶこともまた大きな意義があるのです。

自分がどのような性格かを知ること、同時に周りの性格がどうかを知ることは、御互いの持ち味を活かすためにとても大切なように思います。そのままでいいけれど、こうありたいよねと本音で言い合えることもまた仲間も定義であろうと思います。

色々と自分もせっかちな性格を直そうと苦心してきましたが、どうせどうにもならないことに当たれば道草を楽しもうという境地にいくしかなく、やはり天はうまく調整してくださっていると思います。

諦めるところから、認めることから、自他の性を、人間を深く学んでいきたいと思います。

自然の叡智

今年は自然農の畑を改善して、新しい工夫を凝らしています。

最初から大した知識もなく、直観をベースに取り組んでいると御蔭で色々なことが観えてきます。自然というものの偉大さというものは、誰かから教え込まれた知識ではなく、もともと最初から備わっていた知識で理解するときにこそ認識できるものだからです。

教えてもらわなければできないのではなく、自分からやってみようと信じてみなければできることもできないのです。

自然とは、誰が教えなくてもそこに生きる智慧を享受されています。

植物たちが自ら伸びる時機を知っているように、親鳥が雛を孵し育て始めるように、誰が教えていなくてもそのものはそのものの命に従って一番大切なことを忘れることはできません。

後の知識でいくら刷り込んだにせよ、そのものの本性や本命というものは無自覚無意識に誰にも拒むことはできないのです。

自然というものを観察するに、人の中の自然というものがどういうものであるかの認識が必要です。

春の種蒔きの重要性を実感し、そこで種蒔きが成功しなければ秋には物乞いをするようなことになりかねません。人生というものも、如何に種を蒔くサイクルにあわせて行動するかということが問われるのです。

自然には全てに時機というものがあります。

その時機時期を逃さずに怠惰や安逸を戒め、如何に自律するかというのはそのものがそのものの時機通りに働いたという生きた証に他なりません。

自然というものは、そこに怠け心はなく全ての愛情を注ぎこむ自然界に倣い、その愛情に真摯に応えていこうとする愛の循環があるのです。

見守るの見るというのを学ぶに、この自然農はとても大きな役割を果たせるように思います。何もしないのではなく見るという偉大な行為。そしてそのもののもともと備わっているものを信じるという守るという偉大な行為。

自然から学ぶことは教科書から学ぶことよりも偉大な生命の叡智を思い出させてくれるものです。

飽きたらず、観察し、そして怠らず、実践し、教えないものを覚りたいと思います。

優先内省

久しぶりに体調を崩しながら健康の有難さを実感しています。

色々なことが同時に重なると、一つ一つの判断基準が微妙にズレていくものです。具体的には同時に全部をやろうと欲張るとその分無理が生じてきます。身体の緊張もそうですが、無駄な力が入ってしまうとその分疲労も蓄積します。

力の抜き加減や緊張を融和するような自分の状況や状態をどれだけ冷静に観察するかは、自我との折り合いにもよるものだろうと思います。それだけバランスを保つというのは、自分の内面と外面の調和を意識している自分を持っていないと難しいと思うのです。

東洋医学に内因と外因というものがあります。

内因とはその人の持つ体質のことで東洋医学では主に精神面を重視しています。「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」これを七情と呼んで感情が体に影響を与えると考えています。七情はそれぞれ特定の臓器と関連しています。喜は心、怒は肝、憂は肺、思は脾、悲は肺、恐・驚は腎となります。

外因とは体の外から侵入してくるもののことです。主に気候の変化によるもので「風・寒・暑・湿・燥・火」に分類して、これを「六淫」、「六邪」、「外邪」と呼んでいます。その他には、不内外因といい暴飲暴食や疲労、外傷などによります。

これは全体を観察するときの原因を突き止めるために行う東洋の智慧ですが、確かに心身と感情、気候も出来事もすべては元々複合的に絡み合っているのが日常であるからです。何もない今などもなく、常に万物変化し已まないのだから体調もまた刻々と全体にあわせて管理しているともいえるのです。

このように今を観て全体の調和を考えず、一方だけの考え方に偏れば傲慢になり、その分の無理が生じれば、その歪としてその無理の原因としての結果が訪れます。

これは身体だけのことではありません。自分の考えだけに固執し、それぞれの人達が話すそれぞれの考えもまた同時に正しいと思う時、全体の調和がとれ、優先するものが確信してきます。しかし意固地になり、謙虚さを失い、自分だけが正しいと思い込めば周りの人たちの話を聴かなくなり優先順位も定めることができなくなるのです。

何を優先することがもっとも全体にとっていいかは、自我を優先しないことを考えているということにつながります。信じる力が弱ってくると自我が出てきて判断が歪んできます。信じる力とは健康な時に満ちるのは、健康とは全ての因を福や善として捉えることができる状態のことを言うからです。

病とは、判断基準にとても大きな影響力を与えています。

病を転じて福にしていくことこそが、心身ともに調和しているともいうのです。

優先していくことを考えることは、信じているかどうかを内省することに等しいように思います。この病からも学び、体験から悟り、それを同じ苦しみを持つ人たちへの御役に立てたいと思います。

真理と刷り込み

人間というものは、真理を知っているからと人生が変われるわけではありません。人生を変えようとするならば、自分の中にある刷り込みを取り除くことが何よりも先であるのです。

その刷り込みとは、知らずしらずにうちに自分の中では正しいと思い込んでいるもののことです。

例えば、過去に誰かから教えられたことを鵜呑みにして何かを怖いと思っていたらいくらそれが安全な事であってもその人にとっては危険なものであり、何かを判断する際、自動でその選択肢から危険を避けようとして判断が歪んでしまうのです。

判断の歪みというものは自分では気づくことができず、歪みはいつまでも変わることはありません。その歪みは自分では間違っていないと思い込んでいるのですから、いくらそれを指摘しても気づかないという仕組みになっているからです。

ただどうしても前に進もうとするときや、それを避けては通れないときがあるのです。

それはどのような時かといえば、人生を変えたいと強く願う時のように思うのです。

自分ではこれだけやっているのになぜか前に進まないときや、壁を乗り越えられないとき、もしくはどうしてもうまくいかないと思う時、それは実は人生を変える時だということです。

人生を変えるには、自分と向き合わなければならず、その時は、自分の持っている大前提の刷り込みと正面から正対しなければなりません。それは鏡で自分のありのままを直視するように、もしくは誰かから指摘されたことを素直に聴き入れるように、あるがままの姿が何かを受け容れる必要があるのです。

つまりまず刷り込みに気づくということが最初の難関なのです。

この最初の難関は、素直でなければ超えられません。今までの常識や先入観を疑うのですから、真実に気づくためには自分の都合が入ってはならないのです。真実がいくら身近にあっても人が変わらないのは刷り込みが取り除けないからです。

これだけ先覚者たちが言霊や遺志を遺してくださっていても人間が変われないのは私は刷り込みによるものだと確信しているのです。そして人生が変わるのは、刷り込みに気づいてそれに打ち克つことが全てであると信じているのです。

悔しい思いも、悲しい思いも、辛い思いも、すべては素直へと通じる一本道です。
身近な人の死が改めて教えてくれたのは、刷り込みに向き合う尊さでした。

最後に、御礼参りに伺った祐徳神社のご縁にて素敵な文章をいただきました。

「素直になれば、態度が変わる 
 態度が変われば、行動が変わる 
  行動が変われば、習慣が変わる
   習慣が変われば、運命が変わる
運命が変われば 人生が変わる 」

もうずっと前から本当のことは分かっているのです。
みんな本当はずっと前から変わりたいということは分かっているのです。

それを変えてあげるお手伝いをしたいと願っていても、変われないことばかりです。

そんな時は、いつも魂が疼き、この刷り込みに打ち克つ真の強さが欲しいと願ってなりません。人間の未来のためにも、真の伝道のためにも、正面から刷り込みを取り除く仕事にいのちを懸けていきたいと思います。子どもたちには子どもの姿を保障する私たちの刷り込みのない存在が、先祖伝来の宝をそのままに引き継ぐことになるのです。

そして学ぶべき至善の真理は、生身の実生活にしてこそ本来の真理です。

現実の真っ只中にあるこの今こそが真理です。
ご縁と教えに感謝いたします。

 

先入観の知識

人間の脳は、すぐに目に映るものを仕分けていくものです。

例えば、携帯でもパソコンでも、食べ物や洋服でも、目に入ったものを自分の中で認識したものに仕分けていくものです。もっと簡単に言えば、こういうものだろうという自分の中の知識を加工し自らの世界にしているともいえます。

もしも加工をするのをやめてみれば、どんなことにも好奇な関心を持ってそのものの本質を知りたいとドキドキワクワクしながら学んでいる人には世界は不思議で満ちたものになるはずです。

あの朝の太陽の眩しさ、夜の月の霊妙さ、地球の活動の尊大さなども日々の中で観過ごすことなく味わい尽くしていくようにも思うのです。

確かに私達の知識の加工はパターン化するのに便利ですぐに役立つとも思いますがその反面、知識があるからそのままを丸ごと受け取る感性が鈍り、最大から最小までの全てを丸ごと味わうことが難しくなってくるように思うのです。知識一辺倒で体験をあまり重視されない優等生がうける教育ばかりを受けてくると、元来生まれる前から備わっている感受性というものやそこからの冒険心などが育ちにくくなるのです。

本来は、まずやりたいことから取り組んでいる時や、もしくはその後に味わっていると余計な知識がそぎ落とされていくのです。私たちの今は、体験しなくても知識で先に体験したかのような錯覚を持ってしまうものです。

それが不安や恐怖になったりして、先に結果を知るからこそ動けなくなるものです。

本来は、結果など分からないのだから思い切って飛び込んでみてそのあとにあれは一体何だったのかと深めながら得ていくものが知識です。それは、その意味をより深く感じ、そこから何につながっているのか、この体験はどれだけ貴重なものだったかと奥から引き出してくるときに必要なのが知識であったのです。

知識を優先して無二の体験をしないとなると、せっかく生まれてきたのに大変勿体ないことだろうと思います。無難を選ぶのではなく、有難の中に本物の自分の人生があると信じることが日々を楽しみ味わい尽くして自分のいのちを遣い切っていくようにも思います。

体験したものは、全て血となり肉となり、いつまでも自分の中に生き続けます。
先入観の知識にとらわれず、新しい境地へと挑戦していきたいと思います。

縁愛8

ドイツ研修も最終日を迎え、日本へと帰国しています。

世界に視察に行けばいくほどに、自分は日本人として今を生きているかを向き合う機会に恵まれます。かんながらの道を歩もうと決めていますが、日本人としての奥深さはまだまだ計り知れないものがあります。

勿体ないも有難いも、結びも御蔭様も、またまたお天道様の見守りも、先祖代々から脈々と流れて受け継いできた日本人としての心がいつも自分の中に連綿と生きています。それをどう今の時代に置き換えて日本人の自分らしくを貫いて子どもたちに継承するかは私の生きざまによるもののように思います。

日本人らしく生きることは、自分らしく歩んだ先人たちと道を共にすることかもしれません。自分らしさというのは、自分の中に連綿と存在しているものを引き出していくことだと思います。

有難いことに世界に出ればでるほどに、私の日本人としての自分に襟を正し内省します。先人たちに恥ずかしくないよう、これからも精進していきたいという決意を新たにした旅になりました。

今回は人間愛をテーマに様々に深めてきましたが、今回のもので一区切りとします。

シンプルに言えば、これは一期一会を生きるということです。またそれを言い換えればそれは縁を愛するということに他なりません。一つひとつ、出愛の全てを大切にしていくことが人間愛を顕現させることだからです。

私は今のような時代だからこそ、人との縁を愛することを選んでいきたいと思うのです。それは誰に対しても、どのような境遇の人にとっても、人種が異なっても、価値観が偏っていても、それでもそういうものを乗り越えて「ご縁」であると信念を持って生き切ること。

こういうご縁という思想が、私には人間愛に思えてならないのです。

そして平和を愛する心とは、ご縁を大切にする心です。

「世界の輪 結ぶご縁は 愛の糸 光り輝く 星々となる」 藍杜静海

一期一会に生きる中に愛は永遠にひかり続けています。

縁愛7

ドイツ研修も6日目を迎え、今年も無事に学びが実る体験を新しい方々と一緒にできたことに幸せを感じています。

今まで見ず知らずの人達が、同じ目的のために一同に集まり共に学び共に遊ぶ、まさに保育というものは自分の使命を遣り切っているときにこそ最も身近に感じられるものなのかもしれません。

人間は動機がいつも誰かへ向けられた思いやりや優しさ、そして貢献によるものから発せられるものであるならば、その遣りたいと思ったことはきっと使命によるものです。自分が誰かのために生きていると実感することは、そこに愛があることを確信しているからかもしれません。愛は愛されるよりも愛することというように、自我に呑まれて愛される側を望むよりも、自我と調和し愛する側で愛を弛まず実践し尽くすとき、其処に必ず誰もが求めた愛の姿が顕現します。

いつも先人の道の足跡を辿ってみれば、そこには全てがなくなっているはずのその人が遺したものがいつまでも私たちの心の中に残っています。会ったこともない、話したこともないその人の存在がなぜか自分の中にあるというのは愛があることの証明なのです。

人は人のカタチがなくなるとき、愛が出てきます。つまり、生きている生身の人間の要素が消えたとき、自分のかけている色眼鏡が物体を捉えることができなくなり、なくなったはずのその人の残り香から真心や愛が永遠に香ってくるのを実感するのです。そしてその香りに引き寄せられ、その人の愛を確かめることでいつまでも人間の中に愛が存在していることを思い出すのです。

そういう愛の香りを持つ人々は、いのちを与えられた以上に尊くいのちを遣い切り、人間を誰よりも愛した実践を生き方で示した人たちばかりです。

今まで隠れたものが出てくるというのが出愛です。

それは私たちが表面の自我で接してその人たちのことを認識しているばかりを見るのではなく、本来のその人の中にある純粋な心に触れることで愛を観出すことができるからです。その純粋な心の中に、出会ったこともない人たちとの出愛があるのです。

この出愛とは、どこか愛を結ばれた感覚を持っているのです。生まれた瞬間から私たちは、偉大な愛に活かされているのを自分の心は知っています。その愛があるから、人は自分も他人をも愛することができるように思うのです。

つながりや絆、そういう結び目に出愛がありそのご縁で人はさらなる愛のカタチをこの世の中に顕していきたいのです。それが生きるということ、死ぬということであろうと思います。

私が子どもを愛しているのは、親心が好きなのかもしれません。その親心の傍にいる子どもたちを観ていたらいつも愛は私たちが生存する限り存在するのだと確信するからです。

また今日も子どもたちのように、今を生き切り、新たな人間に出会っていきたいと思います。

一期一会

縁愛6

ドイツ視察研修の5日目になりました。

これで続けて訪問して3年目になりますが、藤森先生の変わらぬ姿に改めて学び直すことばかりです。参加者への思いやりはまったくブレず、そして社会や世の中の変化に対しては柔軟に変化し続けるということ。

不易と流行というものは、どちらも思いやりがあれば順応できるものだと、保育の初心を実感することができました。その見守りの姿勢に、発達を助長するのではなく、発達を援助するのではなく、発達を保つという全く異なる次元からの目線、これを保育であると定義していること。

この保つという字には、どこか見守るという意味が深くその字に籠められている気がします。どれだけ純粋に学べるかというのは、自分を謙虚に磨き上げていく学問の楽しさを知っている人であろうと思います。

一つの単語の行間にあるその哲学を、東西の垣根を超えて学び直しています。

さて、人間愛がテーマでいよいよ終盤に入りました。

人間は、一人で生きているのならば自分の価値観の中だけで世界を観て世界がそういうものだと思い込んでいることもできるものです。しかし、それでは世界にはもっと美しいものがあったり、もっと楽しいものがあること、そういう真の豊かさに気づけないで道が途絶えてしまうような感覚を持つこともあるかもしれません。

信じてきたものが何か自分の中にある先入観によって得られないという感覚に似ているように思います。そういう時、その自分の知らなかった世界を持つ人を直観的に感じ取ることができるのもまた愛だろうと思うのです。

例えば、真実を知ろうとすれば自分に都合の悪いことがあるかもしれません。もしかすると、自分を変えたくないと思っている壁が立ちはだかるかもしれません。しかし、それでもそれを乗り越えた先に大きなものがあると信じるのが好奇心であろうと思います。

つまり愛とは一人で完結するものではなく、二人以上の人達によってはじめて完熟していくように思うのです。つながりや結びつきの間にあるものが愛であり、その愛のカタチを御互いに円熟させていくために他人は愛し合うように思うのです。

まるで円い中で失った欠片を探し当てていくように異なりを求めあい、多くの人達との出逢いのご縁を通じて愛の色を渾然と染めていくかのようにです。

お互いの大切なもの、大事にしていきたいものが一つではなく二つ以上ある絆の場所に愛は存在しているのかもしれません、自分の過去を振り返ってみても、愛を教えてもらったのはみんなお互いの大切なことを交換しあって絆した結び目にあるように思えます。

縁と愛とは、人間が出会う中のことであります。
出会いを大切に、一日一日を過ごしていくことこそが愛に触れていくことなのでしょう。

出会いの中に偉大な愛はいつも生きています。