変化の定義

懐かしい場所に里帰りすると、色々と変わったものと変わらないものを発見します。

例えば、目に見えるところでは商業施設や娯楽施設が大通り沿いに乱立して看板をはじめネオンの光が燦々と照らされています。またその逆に、街灯もないような場所では真っ暗で昔のままに田んぼと自然の用水路がそのままです。

昔と変わったとか変わっていないとかいいますが、ここでは単に時間のスピードが速い場所と遅い場所があるということではないかと思います。

また同時に人間の方でも変わったとか変わっていないとかあります。

例えば、目に見えるところでは齢をとって老けていきますし子どもが生まれ家族が増えていきます。またその逆に、相変わらずの個性や人柄はそのままに人間性はそのままです。これも同じく、変わったとか変わっていないとかではなく、時間が過ぎ去ったかどうかということであろうと思います。

時が経つということが目に見える変化のことであり、その見た目の変化は時が経ってどのように見た目が変わったかということであろうと思います。

そうして今度は見た目では分からない変化というものもあります。それは成長ではないかと私は思います。人は、時間と共に自分の考え方かた生き方そのものも様々な事物から学び、人間として成長していくものだと思います。

つまり、時の流れをどのように過ごしたかが変化になるのです。例えば、苦楽もまた幸福として過ごした、耐え忍ぶことで乗り越えた、他人のために尽くして徳を積んだ、など、そういうものも目には見えないけれど確かに変わったと感じることがあります。

これは時のスピードではなく、成長の質量であろうと思います。

人が久しぶりに会う時、その人の成長を確かめるのかもしれません。そうして、人が人と会うことでその人格を確かめ切磋琢磨していくのも人の醍醐味であろうと思います。それぞれに幼い頃から知った仲だからこそ、それぞれの学びがどのようなものであったか、そこに花も咲くのかもしれません。

変化を楽しみながら前に進んでいきたいと想います。

大前提と刷り込み

人は無意識に自分の中に壁をつくるものです。

それが刷り込みともいい、自分で思い込んでしまうとなかなかそれを自分で取り払うことができません。特に長い間、それが常識とされてきてはなおさら今さらそれに気づくこともありませんしそのことから新しく変化することができずに低迷してしまうことがあります。

そこには大前提というものがあるように思います。

例えば、大前提として・・はできない、大前提として・・はありえない、大前提として、・・は無理だからと、その大前提はそのままに夢を叶えようとしたり、目標に向かおうとしたりするものです。

この大前提というものが引っかかることも刷り込みともいいます。今までの生き方や働き方を壊すというのは大変勇気がいることで、人は元来保守的でなかなかそれを壊すことができないのであろうと思います。自分を守りながら同時に攻めるというのは、身動きが取れないことにもつながっているからです。本来は、自分を守ってくれるからこそ攻めるとしたり、守るから攻めてくれとなるのが仲間であるし信頼、一家であるように思います。

しかしその外すことができない自分の中の大前提こそが、その人の足枷になっているものでそれがあるから変化を恐れる心もまた同時に外れないのだと思います。それを拭い去るには、真に追い込まれたり、何か状況がそうはいってはいられないことなどが発生すれば人は自然にその壁を超えないとと覚悟が決まるように思います。

実際は、それでも刷り込みにもっていかれて八方ふさがりになってしまうものです。そういう私も会社の枠組みや既存の仕事の枠組みに囚われ、いつまでたっても似たところで引き戻されたりしながらそのゴムひもの継ぎ目を取り払うことに挑戦の日々です。身動きが取れないときこそ、自分の中に大前提がないか、自分の中の刷り込みはそのままにしていないかと、自らを素直に反省し一つ一つを自明して実践し改善していくしかないように思います。

そうして刷り込みを取り除くことができれば、人は勇気をもって大きく変化していくことができます。

新しい変化を伝道するのが使命なのだからまずは自分の中にある大前提にどう気づいてもらい、どうそれを取り去るのか、それがライフワークであることが大事であろうと思います。まずは自分自身から理念を掲げ、大前提を取り払い続ける柔軟性を学びと反省と実践で磨いていきたいと思います。

子どもたちの夢

先日、子どもたちの夢について学校での話を聴く機会がありました。

自学という時間に、自分の夢を書きなさいというものです。書かないと帰れないというのでみんなそのプリントの例から選択したり、周りをみながら必死に自分の夢を選び書くそうです。そういえば、昔、小学校の時、同じように将来の夢について書いてくる宿題があった気がします。

その時は、みんな野球選手とかサッカー選手、飛行機のパイロットや、学校の先生などと書いていて、周りを見ながら自分なりになりたい職種職業を書いたものです。

しかし、これはよく考えていると今の社会問題ともつながっている気がします。

もともと夢とは何かといえば、職種や職業になることではなくそれを通して自分が何をしたいか、どうありたいかというものが本来の夢であるからです。就職面接も自分をしっかり持たないで来る人が多いのは自分の夢を漠然を職種職業の中のものだと思っているからのような気がします。

例えば、最初は大工さんという職種でもいいのですが実際に大工になってどうしたいのかと掘り下げて聴いてあげると、「人が元気になる家を創りたいとか、家族がずっと幸せでいられる家を建てたいとか、永遠に壊れないような記憶に残るものを設計したい」とか、そこに本来の夢の置き場があるのです。

それを単に職業=夢にしてしまえば、就職したら違かったと転職を繰り返すようになるのも無理はなくそれは夢ではなく刷り込みであろうと思うからです。よく就職したばかりの新人が、入ってみたけれど違かったとすぐに退職したり転職するのは、その前に自分の初心を自ら確かめ信じていないからのように思います。

もしも自分がなぜそれをしたいのか、どんな目標や夢があるのかを自覚していれば本当に遣りたいことの実現のためのプロセスとして今の人生と運命を受け容れ、未来の夢に向かって希望を持って精進していくことができるように思います。

子どもに職業が夢だを教え込むのは、何か大きな勘違いがあるように思います。何もしならない子どもにそういう教え方をすると間違ってしまうこともあるように思います。もっと大人たちが夢を語る事が大切であるように思います。それは初心を何度も語り合うことではないかと思います、一度だけではなく折あるごとに何度でも語り合うのです。

私も、遣りたいことを遣っていますから夢が叶い続けている真っ最中でどんどんその夢は膨らんできています。そして目標も自分だけのものから周囲の人たち、また世界中の人達、人類を巻き込んで膨らみ続けています。

「未来の子どもたちが幸せに暮らしていけるような世の中を創りたい。そのために子どもの幸せが世界を変えることを信じたい。そしてそれを自分の生きている世代を正しい実践を積み上げて自らの責任を果たしたい。」

それが当下の目標なのかもしれません。後はそれに期限を設けることですが、実践を徹底すれば自分次第で期限は顕われてくるのでしょう。覚悟への入り口は、夢の入り口だからかもしれません。

夢は妄想ではなく、本質的であり理想のことだからです。

常に矢印は自分へ向けて自分がどんな夢を持っているか、子ども心に抱いた夢が大人になって豊かになり膨らんで幸せになるような実践を続けて楽しい日々を過ごしていきたいと思います。

 

半生

本日、37歳の誕生日を迎えました。

先日、中年宣言をし人生の折り返し地点であることを自覚しました。今までの半生を振り返ってみると、色々な場面で様々な方々とご縁が結ばれ本当に沢山の大切なことを教えていただいて育てていただいたことに気づきます。

今の自分があるのは、皆様の御蔭であると感謝を思い心に沁みます。

そして人生とは選択であったと実感します。

自分が日々、その都度にどのような選択をしてきたのか。
その人生の選択こそが今までの半生であったと自覚するのです。

そう考えて観たら、これからの人生はどう生きるのか、どのような選択をして生きるのか、その選択の根本を自らが決心することで残りの半生をどのようにするのか運命を決めるのです。

そして半生が感謝そのものであることを自覚するからこそ、その御恩返しをしていくのが残りの半生であることにも静かに気づくことができるのです。

誕生日とは生まれ変わる日ではないかと思います。

人間は何度も何度も今をどのように選択し決心して覚悟をしたかで、その瞬間から生まれ変わるように思います。そうして自分の人生を体験し、それを誰かのために御役に立てていくことで互いに生死の意味の中で学び合っていくことで真の幸せを実感するように思います。

心身共に幸せであるとは、いつも笑顔が絶えない日々を送るということです。

そしてそれはどんな苦しみや歓びの中でも正直に生きていくことかもしれません。
その幸せが福を呼び込み、真の平和への目覚めを呼び起こすかもしれません。

これから世界はますます一つになっていきます。
それはもう違いを越えてお互いが人類であることを自覚する時代になるということです。

すると国境を超えて、互いに地球の中で偉大な一家を形成していくように思います。

家という思想は、何よりもこれからの時代に必要になるようにインスピレーションします。

残りの半生、御恩返しとしたらこの人類、地球の家のために尽くすことかもしれません。お借りしてきたものをすべてお返しする日が来るその日まで、自分の天命を捧げていけるよう生き方を決めました。

ご縁の方々、未熟な私を導いてくださって本当に有難うございます。
私はいつも偉大な奇跡という贈り物を神様に戴いています。

いのちを懸けて心から御恩に報いていきたいと思います。

感謝三拝

 

修行の要

人は様々なことを経験することで色々なことを感得していくことができます。だから経験するということが気づくことであり、学ぶことは体験するということに他なりません。

しかしよく周りを見渡して話を聴いてみると、経験もしたことをないことをさもわかった気になって話をしていることばかりで徒手空論ばかりを繰り返しているように思います。今のように物質的に大変恵まれた世の中に生きているということで、情報もすぐに手に入りますし、その他のものもまるで自由気ままに手に入るのだと勘違いしているかのようです。

本来の自由というのは、そういう物質的に溢れた生活に浸って生きることではなく、どんな境遇であっても己の精神や自律した厳しい日々の修行によってあらゆるものから執らわれなくなることが真の自由であろうと思います。

現代人の自由の浅はかさというのは、自分にとって怠慢であればあるほどに自由だと勘違いされています。自由には自分自身の生き方の責任が伴うということを知らないままに、物質的なものばかり与えられた中で過ごしているから次第に思い違いをしてしまったのかもしれません。

本来、精神や心というものはどんな状況であっても自由であるということができるものです。

それは真の自由は物質的なことではないからであり、自分の在り方や生き方は何ものにも執らわれないことが可能であるからです。日々に修養するのも、修行をするのも皆その自由の境地に到達したいがためであろうとも思います。

そのためには、何かのメソッドで事足りようと目先のことばかりを追うのではなく、じっくりと腰を据えて正しく実践をし、経験という修行を積むことで学び修養していくことしかないように思います。

たくさんの経験をしようと思うことこそが、素直に愚直に成長意欲を持つことなのかもしれません。物が溢れかえった時代に生きる私たちはよくよく考え直さないといけないのがこの修行という意味なのでしょう。

しっかりと経験を昇華し、精進していこうと思います。

自他一体の境地~共感~

御互いを深く共感し理解し合うのに実践を共にするということがあります。そしてこの共感というものは、実践を通じて同じ感覚を互いに持ち合っているという意味でもあろうと思います。

何かの出来事があるたびに、痛い思いをしたり感動したりし、心と感情が揺さぶられたあと人は反省し素直になって心を決めます。その決めた心を忘れないようにと気づき・言葉・行動・心を合せて新たな実践を増やしていくものです。

そうしていると、周囲には同じような課題に取り組んでいる仲間たちやそれを共にする機会に恵まれるように思います。実践する輪が広がっていくのも、互いに共感し合うものがあるからであろうと思います。

人物の理解というものは、表面上の言葉や姿だけでは本当のその人の苦しみや悩み、歓びや幸せは理解はできず、人生の同体験をし共に実践を行う時にはじめてその人の生き方や考え方、理念などを確認し新たに理解できるように思います。

そうやって人は生き死にの中で共に同体験を通じて語り合ったり、同感するものを分かち合ったりしていく中で言葉にならない感覚を共にしていくのです。これが共感です。

そして人が本当に自分のことを分かってくれていると実感できるのもこの共感するものがあるなと思うときであり、それは自分のために相手が同じ実践をしてくださっていると実感するときが多いようにも思うのです。

いくら何度も言葉で説明しても、共に実践してみないと本当に伝えたいことは伝わりません。だからこそ自分がどうしても相手を思いやり伝えたいことは共に実践してもらうしかないのです。それは自分のためにやってもらうのではなく、共に実践していこうという自他一体の思いやりの中ではじめて共感できるものではないかと思います。

人間は同じ苦しみを共にします。

だからこそ自分の体験が必ず誰かの御役に立てると信じる事から実践を取り組もうという志が芽生えていくのではないかとも思うのです。その同じ苦しみを持つ誰かを自分だと思えるか、自分のことのように感じることができるか、これも共感の芽生えであろうと思うのです。

人生には無駄がないというのは、自分の生きたことが必ず意味が存在すると実感するからであろうと思います。人間は、誰しもこの世にいるだけで必ず何かの御役に立っている、それが自然です。だからこそ、共に実践をして反省をし、さらに改善を続けていくことで共感を高めていくのが人間の育成であり成長し続けているということになるのでしょう。

つながりが観える自他一体の境地で居続けるためにも、御役に立てるところで働き、自らの共感を高めて日々の実践を改善し正していきたいと思います。

 

真実の満足度

先日、尊敬している千日回峰行を遂げられた大阿闍梨の塩沼亮潤の新著「執らわれない心」を拝読する機会があった。その他の著書もすべて大変素晴らしいものばかりで、生き方に共感することばかりです。

素直に正直に生きるということほど、誰にとっても難しいことはありません。しかしそれを修行だとして日々に直向に取り組む中で得た学びや気づきを同じように苦しむ人たちのために乗り越えてそれを伝えていこうとする真心。

こういうものはたとえ仕事がどの仕事であっても、場所や立場がどうであっても私たちの人生の魂や心を磨く大切な使命であろうとも思います。ご自分を磨きながら他も磨くことに私も人との間の幸せを噛み締めることばかりです。

今のような時代には、特にこのような方々の存在に私自身とても勇気を戴きます。さて、その著書の中はすべて素晴らしいのですが最後の方に印象に残る言葉がありました

「苦しさには強いが、ぬるま湯には弱い。これが人の心。」

とあります。

先日、幸せとは何かと考えている機会が多かったのですが人は不満がなくなればなくなるほどに不満を言い始めるように思います。そして満足が続けば続くほどに、自分が不幸であるように実感していくのです。

不思議なことですが、欲や感情が満たされればされるほどに心の方は貧しくなっていくかのようです。目標が高ければ人は不満を抱きます、その目標によってさらにその不満のエネルギーを他の何かに集中していくことができるように思います。例えば、理想が高ければそれが実現しない不満を探究心や道を行じる苦労をする方へと向けていけるからです。

しかし理想が低く、現状に満足してしまえばぬるま湯のようになり心は次第に弱っていき何もしないうちに時間だけを浪費してしまうように思うのです。茹で蛙の故事ではないですが、ぬるま湯に浸かっていて満足しているうちに下から沸騰してきても分からないうちに蛙が死んでしまうとありますが、あれは真実だとも思うのです。

今のように唯物的に社会を形成し、いつもお金や物で満たしていたら心はもう動かなくなってきます。心の不満とは、実は幸せを生み出す種でありそれがあってはじめて心が成長していく歓びもまた実感できるように思うからです。

目標を高くするということは、現状に満足しないということ。そしてそれは成長するということ、いつまでも自分を高め続けて今を充実させていくために挑戦と改革を続けていくということに他なりません。もともと私たちの心は、苦しいことと楽しいことに働き、便利と楽には働けないのかもしれません。

自分を役立てていくということは、進んで自ら苦しみの中に入りその中での成長を楽しんでいくことなのかもしれません。最後に、高杉晋作の言葉で締めくくります。

「艱難を共にすることは出来ても、富貴を共にすることは出来ない」

役立てるというのは、身を捨てるという覚悟なのかもしれません。目標というものを利他で立てようとするのは志に通じているように思えてなりません。志を立てるということは、身を捨てる覚悟のことかもしれません。

今のように富貴が溢れる時代は、敢えて不満のままやストイックさを忘れないでいることが流されない今を生き切るコツなのかもしれません。

自分自身も満たされ過ぎてはいないか、当たり前が間違っていないか、常に省みて真実の満足度とは何か、幸せを与える、役割を果たすとは何かをもう一度見直したいと思います。

天分を出し切る

一日一日を出し切るという実践をするとはどういうことかと考えてみる。

よく一日一生という言葉で使われるように、日々は二度とないのだから大切に使い切るということで語られることが多いように思います。もしも明日死ぬとしたらと考えて遣り切るのも、人生は二度ないということを認識するためのようにも思います。

しかしこれをよく考えて観たら、それを自分ひとりの野心や野望のために遣ろうとする人と、自分に与えられた天分を活かすために遣り切る人とはまた異なっているようにも思います。それは心の寛さ狭さにもあるようにも思います。

自分自身はどんな天与の才能を与えられているか、それをもっと世の中のために生かそうとする人は、毎日を絞り出し、遣り切り、出し切って、成し遂げようとします。逆に、そういうものは自分のものだと自分本位に与えられていることも忘れてしまっている人は使おうとはせずに自分が楽をする方へと自堕落していくものです。

世界で独りしかいない自分を何に役立てていこうとするかは、与えられた自分の天分や本分に感謝してそれをより皆様のためにお役に立てたいと思う時に発揮されるように思います。自分のものと思うところが心の狭さになり、それはみんなのものだと思うことで心は寛く豊かになります。

そしてリーダーは、自分の天分も活かし、同時に他人の天分も活かすことができるかによるように思います。

庭を眺めればそれぞれの花々や植物が太陽の光と透明な風、そして潤いの雨や互いの存在の中で百花繚乱それぞれに自分の色を放っています。その放っている姿に、天からいただいているものをお返ししようと自分を精一杯出し切っている心があるように感じるのです。

自分の心を出し切るというのは、与えられたこの自分の全てを全部与えらた量をお返ししようといった心の働きのことをいうのかもしれません。幸せというものは、そうやっていただいたものを循環し合う中ではじめて深く寛く実感できるものかもしれません。

日々、ちゃんと使い切ったかどうか、いただいたいのちをお返しできているかどうか、内省し、あの花たちを見習ってどんなお役に立てるのかを楽しみながら自分の花をしっかりと開花させていきたいと思います。

自分の天分を出し切る一日を省みて、自律の日々、御恩返しを味わっていきたいと思います。

天の計らい~体験の妙味~

人生は様々な体験をすることで新しい自分を発見し広げていくことができるとも言えます。
また体験こそが人生だといっても過言ではありません。

しかし今まで体験していないことはどこか敷居が高く勇気がいるものです。そういうものを好奇心や向上心で取り組んでみるとそこに自分が今まで気づきもしなかった新たな世界が広がっているように思います。

どうも私は、好奇心旺盛のタイプで自分の直観に従って新しいことに取り組みたくなる性分のようでワクワクドキドキしながらもいつも新しい体験をしたいと感じてしまうようです。そう考えてみたら、その先にある未来に対してのイメージが善いか悪いかではなく体験することを大事にしているからかもしれません。

人生は一度きりですから、教科書通りやマニュアル通りにいったから幸せというわけではないはずです。一度しかない人生であるから、様々な体験をしていこうと覚悟を決めればその日々は如何様にも装飾していくことができるからです。

そしてこの装飾していけることで一日の終わりの夜と新たな一日のはじまりの朝に面白いなぁと元気いっぱいに天の計らいとご縁の不思議さに驚きと感謝が湧いてくるのです。

面白かった一日は、ご縁や体験を心から楽しみ切った日であったように思いますし子どもはそうやって体験を通して感動し好奇心を全開にして充実した幸せの時間をもっていくように思います。

体験をすることも体験をさせてもらうことも、すべては天の計らいと思えば怖くてもいってみようと思えるのかもしれません。そしてそうやって何かの天の計らいといつも感じていれば同じ体験であっても楽しみ方を工夫したり気づかなったところを発見して工夫ができたりと常に学びに彩りが足されていくように思います。

すべきばかりで日々を過ごすのではなく、体験をしたいと飛び込んでいくことが好奇心に刺激を与えて育てていくことかもしれません。そして幸せとは体験そのものができる豊かさの中に飛び込んで生き切っているときのことをいうのかもしれません。

人生は苦しいことも悲しいことも辛いことも嬉しいことも有難いことも、体験があってこそです。大人たちがまず子どもたち以上に楽しめば子どももきっと体験の尊さに気づいていつまでも子ども心を失わない元気いっぱいの人生を謳歌していけるように思います。

好奇心が求める日々を分かち合いながら充実した学びの妙味を感じていきたいと思います。

天意

ご縁を深めていると色々なことに再発見ができます。

例えば、自分というものや自分の周りのものをよく考え直してみると自分のものであることは一つもないことに気づきます。自分がどこからやってきたのか、自分が何をしているのか、それも全ては天の計らいというか天意というもので動いていることを実感するからです。

今の家族とのご縁や、友人、仲間、同志、様々な人たちとの出会いもご縁もまたいただいたもので自分のものではありません。この世に生まれてきてから今までも今もずっとそれは何かのご縁によって結ばれているからです。

この実感は、すべての体験そのものが自分のものではなく天が与えてくださったと思っているときに目には見えないけれど確かに存在する天意を覚えるからです。

例えば事故などにより、互いに傷つき傷つけあったとしてもそれもまた天意と思えるかどうかによるのです。当然、衝撃があり感情もあり同時に思いやりもありますがそれが天の見守りによって助けていただいていると互いに思えるかどうかによるものと思います。

つまりご縁とは、その間にあるもの中心に置いているものの存在に気づいてその存在にいつも感謝しているときにこそ真に実感できるのではないかと思えるのです。

つまり天意というものは、いつも「有難う」という時にこそ実感できているということになります。
そしてこの有難いと感謝するのは、その天の計らいそのものが全て善いご縁になっているという意味で本来は使われている言葉であることに気づくのです。

そのような天意が働く言葉を用いることは、その中心に共に在ることと同じであるのです。 その根幹には、全てのものは神様が授けてくださった体験、天が与えてくださった大切な機会、そういうものであると実感しているときに活きている言霊であるということだろうと思います。

何かがあったとき、常に感謝に転じることがご縁を実感することだと思います。

天意に感謝とともに、与えてくださっている時間や人を大切にしていきたいと思います。