原天還奇

人は生きていれば、様々なご縁に導かれます。

いつも感謝するのは、自分が今、周囲にどのようなご縁に恵まれ、見守られているかを実感するときです。素晴らしい方々の中で、互いの生き方を学び合い助け合うということは本当に美しいことだと思います。

それぞれが人生を生き切る中で、様々な苦労をしそれを糧に大切なことを学んでいく。そしてその学んだものを交換しあうことで助け合うことができていく。そう考えてみると、人はそうやって天からいただいたいのちを、天の心が何かを知り、天の心の一つ一つの徳を感じながら幸せを実感しているのかもしれません。

そもそも私たちを創造したのは宇宙でもあり、天でもあるのだから私たちの中にその天があることは間違いありません。そういったとても大きなつながりの中で学び合っていると感じる時、不思議で壮大な見守りを思います。

だからこそ、その御恩に報いるために自分を常に役立てていこうと思うことが循環をより善くしていくことのように思います。自分の責任として、自分の生をより善くしていくことは世の中をより好循環するために自分を活かしたことになります。

もっとも好循環していくのに大切なことというのは、自分をより多くの人達に善いことになるよう御役に立てたい、誰かを思いやり少しでも善いことになるよう貢献したいと、天に学び、御恩に報いるために正直に真心のままの日々を取り組んでいくことのように思います。

人は御恩やご縁に報いずにいるから自分の心配で一杯になってしまいます。そうではなくご縁を噛み締めより多くの人々や生きものために心配することで自然の中に入り、自分をいつも見守ってくださっている天の偉大な心配を実感することができるように思います。

見守るも、その保育も、その真なる心は常に天に帰すように思います。

つながりの不思議さに驚きながら自らの原点回帰と同時に、原天に還って、奇妙なご縁を楽しんでいきたいと思います。

 

改然の妙理

時間をかけてじっくり育っていくものにより善くしていくというものがある。

これは発酵の原理と同じで、今よりも善くしていこうとすることが生きるということかもしれません。人間は歳とともに、発育生成していくものです。じっとしていても身体も心も次第に育っていくようにできています。だからこそ、自然というものは浩然の氣に満ちていて万物は徳の中に育成されているというように思います。

自然というものの中に身心を置く私たちは、常に改善していくことが自然であるということです。

しかし実際は、大事なことを忘れてただ生きながらえることや目先に自分の目先の欲望のために動いてしまうことで様々な悪循環を抱えてしまうとも思います。

物事は禍福一円、常に出来事には意味が存在しています。

その意味を一つずつ学び、さらに今をより善いものしていくことで自然の法理にスパンと入っていけるというのが本質であるように思います。

発酵を学んでいく中で、私が感じることは継続していく中の改善にこそ発酵の真理があるのではないかということです。糠床ひとつをとってみても、やはり創意工夫がなければ味もなにも分からなくなっていきます。

常に研究と開発、そして弛まない創意工夫というものが自然の力を引き出すものであり、その状態の時はじめて人は自然を覚知できるように思います。

自然農も自然養鶏も自然発酵も、どこにも実践していく中で共通するものを見出せます。
同じ理念を共有しながら、日々に改善を繰り返すことに安息も安泰も活きています。

今年は「家」がテーマで、本日は会社のクルーたちと皆で寺田本家の蔵見学に伺います。

より善いものを取り容れ、より善いものに換えて子どもたちへ貢献していきたいと思います。
改然の妙理を楽しみたいと思います。

幸福論

幸福論については古今東西、様々な人が様々に語られます。

人は誰しも幸福になりたいと思っています。しかしその幸福とは、物質的なものがあることやないことなどではなく、在り方そのものが関係しているように思います。

人が真に幸せを思う時、それは当たり前の中に実感します。
そして福を思う時、全てのご縁に結ばれていることの中に実感します。

そう考えてみると、ないものの中にあり、あるものの中にもあるのがこの幸福というものかもしれません。ただそれを感じることができるかできないかで左右されるのかもしれません。幸福の反対は不幸ではなく絶望だと聴いたこともあります。

この絶望とは、希望のことで、人は真に絶望を感じる時に希望を見出すというからです。そうであればやはりこれも福であり、幸せの種になっているように思います。自分の見方次第で如何様にも幸福になれるというのが真意なのかもしれません。

先日、義務や責任を引き受けるという話を考えているととても共感できる文章に出会いました。これは星の王子様のサン・テグジュペリの思想ですが、それをイエローハットの鍵山秀三郎さんが紹介しています。

「ほんとうの幸福というのは、決して自由気ままに生きることではありません。そこは幸せはないと思います。義務を甘んじて引き受ける、さらには自ら進んで引き受ける中にこそ、真の幸せがあるのです。」「幸福への原点回帰」(文屋)

つまり、自分の自由が幸せではなく大いなる義務を自らが甘んじて引き受けることこそ幸せがあると言います。これは自分勝手に生きれるから幸せではなく、不自由と思えても自分以上の偉大な使命のために自分を使役できることが幸せなのだと言います。

さらにこう続きます。

「逆に、ふだんから誠心誠意を尽くす勤勉な人に対しては、周囲から干渉されたり、監視されることがなくなり、自由に幅が広がっていきます。真の自由を手に入れるのは、自分の役割や任務、使命を自覚して、自らを律しながら、日々、地道に努め続ける人だと思います。自分のすべきことを満足に果たすことなく、自由ばかり求める人は、自分で自分を縛りつけてしまうのではないでしょうか。」「幸福への原点回帰」(文屋)

一見、何かの役割が多い人を人は不自由に思います。今の時代は特にそうです。私にも師と仰ぐ人がいますがその人は、時間を惜しむように理念や使命に生き、自分を滅して他人様のために尽くして生きています。それは野心ではなく、真心でいるからできるように思います。自分のためと生きる人と、他人のためにと生きる人。本来は、他人のためにと生きていることが自分のためになり、それが不自由にいるようでもっとも自由なのかもしれません。

人はいのちはつながりの中に存在するものです。それを自分らしいといいながら自分勝手にすることを自由とはき違えて我儘をすれば孤独になることは必然です。だからこそ、大きな使命のために自分を役立てていこうとすることが幸福そのものなのかもしれません。

他人が不幸と思うから不幸なのではなく、幸福と感じられないから不幸であること。そして真の幸福は、至誠や真心を貫いたところにいつも見守っているものだと実感します。これからも折あるごとに幸福論について考えてみたいと思います。

暗闇と手探り

手探りで歩んでいくというのは面白いものです。

以前、善光寺の戒壇めぐりというのを体験したことがあります。漆黒の暗闇の中を歩いていき、無事に錠に触れて出れば仏様と結縁するという内容です。 本来は大変有難いご戒壇ですからその全容はとても尊いもので書けませんが、今回はその暗闇だけに特化して書いています。

まず突然、真昼の明るさから突然の漆黒の暗闇の中に入れば大変な恐怖が訪れます。一切何も見えないのだから、どれくらい続くのか、迷子になっていないか、怪我をするのではないかなど様々な不安も襲ってくるのです。

そうやって不安で恐いと思っていたら手探りで少しずつ歩んでいこうとしていくものです。壁に手を当てて両手でその先を模索しながらちょっとずつ進んでいくのです。雑念や妄念が湧いてきては、何が不安なのかわからないほどに齷齪してしまいます。

こういうことから不安というものの本質も観えてきます。見えないということ、観えないということ、はっきりしない中でいこうとすると不安はつきものです。しかし同時に、はっきりするものなどないのもまた人生であろうと思います。そう考えて観たら、最初からずっと手探りで歩んでいるとも言えるように思います。

だから人は不安を消し去ろうとはしますが、実際は多少の不安があるからこそ慎重に前に進むことができるようにも思うのです。なので、不安は消すのではなく心配しながら手探りでいくことが善いように思います。そうしていくことが、周りを安心させるようにも思えるからです。

暗闇の一番深い時は、手探りで歩んでいけばそのうち光が差し込んできて道が観えるようにも思います。突然、パッとライトが消えた時は穏やかに目を閉じ、恐れながらも手探りで歩み、多少壁に当たり痛い思いをしたとしてもそこから学び前へ進む。

それも道を往く醍醐味ではないかと思います。

一つ一つの出来事や感情をその都度に深く噛み締め受け容れ味わっていくことで、より一層、道が明瞭になっていくように思います。心身の道草もまた味わっていきたいと思います。

 

視野の寛さ

先日、視野を広げるということで話を深める機会があった。

視野というのは、別に広くだけを観ることが視野ではありません。よく視野というと、鳥の目、虫の目、魚の目というような見方の話や、多面的に、大局的に、360度から見るなどという言い方もありますがそれだけではないように思うのです。

頭で考える視野というものと、心で捉える視野というものがあり、そのバランスの中で見ることが観ることにもなり全体を直観で捉えて本質を見抜くことができるように思います。

例えば、心で捉える視野の方は他人のことを心配したり配慮したりするもので祈りに似ているのですが自分のこと以上に周りのことに関心を持ち、仁の実践をしていくようなものだと思います。

人は自分のことでいっぱいになり余裕がなくなるとすぐに視野が狭くなります。あの視野というのは、別に物の見方が狭くなるのではなく心で物が観えなくなり頭でっかちになってしまっているという意味で使われて いるのです。

この場合の視野の狭さというのは、他人のことが思いやれない、周りのために自分を使えない、他人に迷惑をかけてしまうといったものになりいつも後悔が付き纏うものが多いのです。

強さと優しさというのは、他人のことを思いやれるものの時に使われる言葉であろうと思います。いつも周りのことを心配し、自分を正しく役立てていこうとするときの心がけ、その時にはじめてゆとりが出て視野は寛がっていると言っていいとも思います。

ゆとりの語源とは、ゆったりから来ているとも言われます。このゆったりとは、「寛(ゆた)」+「たり」であり豊かであるという意味であるといいます。

他人のことを思いやれることを学ぶのが真のゆとり教育かもしれません。ゆとりは良くなかったとか、ゆとりのことを間違って使っている人が多いようですが本来、真の寛り、豊かさとはそれは人間が生きていく上でとても大切なものであったはずです。

余裕を失い自分しか見えなくし殺伐とした中で知識を詰め込むことよりも、視野の寛いことの中で人は本当のことを学ぶように思います。

この体験もまた糧にし、学び直しを深めていこうと思います。

素直とは正しく向き合うこと

覚悟というものを認識するのに逃げないというのがある。

逃げないというのは何を持って逃げないと定義するかと言えば、来たものに私心を入れずに真っ直ぐに向き合うことをいうように思います。

これを正対するといいますが、それではその反対は非正対というのではなく斜に構えるとか逃げるという言い方をするように思います。

本来、人は素直かどうかなど自分のことは実はよくわかっていないものです。それは、自分が自分を分かっているようで自分のことが一番よく分かっておらず、無意識に自分を正当化しては自分と向き合わないように都合よく調整していることが多いからです。それは私心や欲がメガネを曇らせているからのように思います、自分を直視するということは私欲にとって都合が悪いことが多いので避けて通っていたいからです。

例えば、全ての問題や事物はすべて自分の内面の問題から発生するのに対してそれを何かのせいにしたり言い訳をするときなどもこれは自分が向き合いたくないからそうしているのです。特に影響力のある人は、自分を知るということから逃げていては人はそれを一緒に学ぼうとしなくなっていきます。だからこそ、人はみんな自分という生き方としてどのような心構えをもって心掛けを大切に行うかで、他人から尊敬されたり認められたりして互いの信頼を紡いでいくように思います。

そう考えてみると、この心の構え方というものが生き方のことをいうのかもしれません。

心構えとは覚悟のことで、自分が決めたことから逃げないということに他なりません。何を決めたか、何を信じていくていくか、人はそれをもって自分らしいというのかもしれません。だからこそ人はその都度、覚悟を自問し、それを周囲に確認し、自らが正しくいようと向き合うことで自分らしい生き方を貫いていけるように思います。

それを自分の都合で決めたことを誤魔化し、事があれば逃げて、そして自分を正当化していけば素直に反省することなどはできずそれによってまた同じ過ちを何度も繰り返してしまうように思います。

間違いは間違いとして、信頼できる人に正してもらおうとする姿勢そのものが素直な姿でありそういうものが逃げない覚悟ではないかと思います。そしてこれは紙面や机上で学ぶものではなく、実体験を通じてその時、自らの道に照らしてどのように判断したかということが自分を生きたということになるのでしょう。

万物は相矛盾し、渾沌としているのだから永遠のテーマばかりでこの世は存在します。
それは友情であったり、愛情であったり、そして信頼でもそうです。

そもそもつながりの中で異なるなどという人間の複雑奇妙さのことなど分かるはずもありません。だからこそ一日一日と、日々に発生する出来事に真心で正対していくことがもっとも価値のあるものかもしれません。

このブログもそうですし、世の中には終わりがあっても永遠のテーマがあることばかりです。
精進していこうと思います。

中りを着ける

中庸や中道というように真ん中を捉えることはとても難しいことです。

頭で考えることばかりが多くなると、あれやこれやと実行実践するよりも先に脳が処理していく中で次第に狭い範囲の答えの中に自分を埋没させていくからです。

例えば、理念といったものや大義というものだけではなく日々の仕事の一つ一つにいたるまで真ん中をとっていくには具体的に行動していく中で気づいていくしかありません。話の理解などもそうですが現場がなぜ大事かといえば、現場の中で行い取り組む中で説明をするのではなくそこに真心や智慧が出ているものを掴むというような理解があるからです。

いくら何度も説明をして分からせようとしたとしても、それでは表面上が分かった気になるだけで実際は分かったわけではありません。説明の中に真実はないのは、実際はすべて行動した経験や体験から得た智慧を説明しているからなのです。

優れた人たちの話というのは、その人が体験した話で得た智慧を伝えられる最中に自分もそれが分かる気がするという直観の勘所、つまりは自分の体験で得た智慧と照らして理解するのが中をとることになるからです。なんとなく分かる気がするというのは、全身全霊丸ごと照らした中の分かるであり、知識だけで分かった気になったわけではありません。

人がそれを分かるようにしたいのは単にそれを理論づけて記憶するために、なんとなくではなく分かる状態にして記録するための知識であるように思います。しかしこの知識が智慧だと勘違いすると、分かったことでなんとかなると思ってしまう間違いが出てくるのです。これも今の時代の詰め込み教育の弊害だと思います。学生と社会人との彼岸はここに焦点を当てた方がいいのかもしれません。これを持つといつまでも社会で役に立つ人材に換わらないからです。

まず分かった気にならないというのは、説明を聞いてもできないのだからまずは自ら実践し取り組む中で気づいていこうといった素直な姿勢のことをいうのです。実践者に話を聴けば、真理や中庸はとてもシンプルに語られます。

しかしそれがいくら頭で分かっても、実践してみればうまくいかないことばかりなのは実力が不足しているということです。それは実際に試行錯誤していく中で、分かった気にはならないけれどなんとなく分かるようになってそののち、自然に同じようなことができるようなるのが中りをつけるということなのでしょう。

自分から求めなくなるのは、実践の量や実行の量が足りないからのように思います。知識を学ぶのは、まずは実地実行を尊ぶ姿勢を身に着けてからのように思います。一理を学ぶには一理を行えというのは至言のように思います。

時間をかけて、その理を現場でものにしていくことを継続したいと思います。

余計から余慶へ

世の中には自分だけが正しいということはありえません。なぜなら世界は無限に正しいというものが存在しているからです。ある生きものの中で正しいと思い込んでも、他の生きものからは正しくないと思えるようなこともあります。

例えば自然界の弱肉強食ではないですが、私たちはつい万物の霊長などと食物連鎖の最高峰に立っているから次第に自分たちが何でも食べて当たり前みたいになっていますが、他の生きものからすれば同時になぜこのような理不尽がまかり通るのだろうかとも思っているかもしれないのです。

そういうことを忘れていく中で、様々な失敗がおきるから私たちは大切なことはいつまでも忘れないようにと様々な行事や礼儀、作法を通じて余計なことをしないように今まで努めてきました。

自然界では、あるがままにそれぞれの正しいが中和して共生するように成り立っています。そこには数々の正しいが渾沌と混ざり合い、そうして絶妙にかみ合って調和しているのです。私たちが謙虚を学ぶ際に、自然がどのようになっているかと思うのが最も納得できるものかもしれません。

以前、謙虚ということを学びはじめてからかなり時が経ちましたが課題というものはいつも刷り込みと共に時間をかけては訪れるものです。自分が正しいと思い込むことで謙虚というものから遠ざかるということも体験を積み上げていく中で気づいていきます。

そもそもあらゆる方面の正しいを理解し、あらゆる正しいを伸ばしていくことが周囲を活かすということかもしれません。結局は、自分も周りもみんな正しいというのが真理なのです。

競争や比較、評価の中で育つのだから生きていくためには自分が正しくいるためにそれぞれに力をつけてきたともいえるのでしょう。その力が不自然を呼び、今のような国家や人間中心の社会を築いたのでしょうがそれを呑み込むことができるのでしょうか。

余計なことをしないで、余慶なことをしていくという日々。

常に私たちは自分を世界の御役に立てさせてくださいという心が大事なのでしょう。意固地になっていくのは、つまらない生き方を選んでいるように思います。かんながらの道を往く中で謙虚ということの真意を深く感じて学んでいきたいと思います。

ゼロに挑戦~無一物中無尽蔵~

ゼロから考えるということを深めてみました。

どうしても人は過去の自分の限界や、今までの経験から古い知識の中で物事を考えようとします。今までやったことでしか考えなくなるのは、挑戦するのではなく無難で居る方を選択していくのです。

そして不安になるというものも、過去の出来事にアクセスしては自分が勝手にそれをフラッシュバックし不安になっているのです。例えば、成功事例や失敗事例などもそうですが成功している記憶にアクセスしては成功を続ける人と、いつも過去の失敗事例に囚われては余計な不安を増大させ気が付くといつまでも同じようなことにしてしまい、それを何度も繰り返してしてしまう場合があります。現象が異なっていても、主観では同じことになっているのだから同じことの繰り返しとなってしまうのです。

ゼロでいるとは囚われないということであり、事物にこだわらないということ、つまりは私心や私欲を取り除き、捨て去って常に融通無碍に素直でいれば白紙の状態で物事を想像し自由に取り組んでいくことができるようになるということです。

松下幸之助さんに、「今までやってきたこと、それを一ぺん白紙に戻す。その知識にとらわれず、一からやり直す。すると、その捨てたものも有意義に働き始める。」という言葉があります。

囚われを捨てていく、過去のしがらみを乗り越えていく、自分を縛り付ける重荷を取り除いていくこそが、ゼロになることかもしれません。このゼロとは、私欲のないところで物事を考えるということではないかと思うのです。

そしてそれは夢も同じく、今の自分で描く夢ではなくまったくのゼロから何の夢を描くかというものができてはじめて新たな目標というものが芽生えていくのかもしれません。師の人柄でも実感しますが囚われが少ない人の方が、素直でいられるのはそれだけ私欲に縛られていないということでしょう。

知らないうちにこの我欲は自分というものを縛りつづけます。特に評価を求めてはできる人になろうとすればするほどに重荷になります。逆にできた人と言われるような徳を目指していればいつも裸になって気楽になれるのです。

それを解き放つために、常にゼロベースで取り組んでいくことだろうと思います。結局は過去に負けて過去に縛られて同じことの繰り返しをするのではなく、真っ新な白紙のところからはじめていく面白さと楽しさを優先していくことがいいのでしょう。

以前、私にとても大きな影響を与えて下さった方の座右を急に思い出しました。

「無一物中無尽蔵」

謙虚に、素直に、裸になって新たなスタート、ゼロに挑戦します。

一縁善転

昔からピンチはチャンスという言葉がある。

この世の中は禍福一円、陰陽一元、表裏一体と全ては円環の中で循環しているようなものです。その全体の循環の中心に自分を置いてモノゴトを観ている自分が居るだけであるとも言えます。

しかしピンチというものは一般的には大変弱ったことだと疲弊してしまうものです。それをピンチだけの方向から見てしまうと、なぜ自分がいつもピンチになってしまうだろうとそこから逃げる人もたくさんいます。しかし本来は、ピンチとは挑戦しているからピンチになるだけで挑戦もしない人ではピンチすら訪れないのです。無難に戻すことが本当のピンチであり、ピンチに真正面からチャレンジしさらにそこからもう一歩前進し勇気を奮いだして取り組むことが真のチャンスになるのです。

そもそもピンチが多いというのは、それだけ挑戦して変わろうとした結果でもあるのです。人が変わるのが嫌だというのは、無難ではないということで変わるのはそんなに簡単なことではないということを本能で知っているからです。

しかしそれでも大事なもののために変わろうとすれば、必ず大なり小なりのピンチは訪れるのです。そもそも無難なのは変わらなくてもいいから無難を目指すのであり、難があるのは変わりたいから難があるのです。

そしてそのピンチを乗り越えるのに、冷静になるのは自分がこの機会に何を学ばせてもらっているのか、どんな有難いことがおきているのかを感じるというのがあります。

例えば、そのピンチから教えられたことは何か、そのピンチに感謝したことは何か、そのピンチは自分の何を成長させるのか、そのピンチの蔭で見守ってくれた人たちは誰か、そのピンチに自分の生き方はどうだったか、そのピンチに平常心はどうだったか、そのピンチは自分の何を変えたのかと、そう内省して感じていけば次第にピンチがチャンスに思えてくるものだからです。

それをいつまでも自分の見方ばかりにこだわると、大切なその側面や同時に発生している有難い恩恵や感謝の心に出会えなくなるものです。私の場合はそういう時は、ご縁のあった方々への恩返しのために今回も必ず悪いことにしないと心に決めて、何を大切に抱き実践することが最も善いことになるのかに真摯に取り組みます。

しかし本当に尊いのは、変わろうとしたという事実です。

自分を変えよう、何かを変えようとすれば必ず同時にピンチは来ることを本当の素直な心はそれを知っているように思います。だからこそ、変わるという挑戦を始めれば難は誰にしろ訪れるものなのです。 それは栄誉ある挑戦だからこそ、そのピンチをチャンスだと思えるのは最初に決めた覚悟が試され、それに挑む勇気がそこで必要になるのだろうと思います。

「艱難汝を玉にす」

これは本当の珠玉の言葉であろうと思います。

そう考えてみると、人生は覚悟と勇気でできているのかもしれません。
福というものは、一縁善転によって訪れるのでしょう。

一つ一つのご縁と機縁に、感謝しながら善いことになることを念じていこうと思います。