自律と自立~苦しいよりも楽しい方を選ぶ~

以前、見守ることの話の一つで、ある園から自律の話を聴いたことを思い出しました。

普通の保育園では、一般的に子どもたちは大人の言うとおりに厳しくしつけられ、一斉画一の中では放任か指導かという二極の考え方で保育を行っています。なので子どもたちは自分で考えて自分を律するというよりも、先生の顔色をみたり空気を読んだり、むしろ好き放題に過ごしているところが多いそうです。

しかし見守る保育を行う園では、子どもたちが自分で選択をし、自分で責任を持ち行動していく中で周りに甘えずに自らを律する力を持てるようになっていきます。社会で共生していくには、この甘えは禁物で甘えてしまうことで周囲に迷惑をかけるようになってしまうからです。甘えるのではなく他人に頼ることの大切さを身につけるのもこの幼少期の社会での体験が活きるように思います。

以前、私が最初に就職したところである上司にこんなことを言われたことがあります。「君は私から厳しく注意され指導されるのと、私から何も言われないのはどちらが本当に厳しいと思うか?」と尋ねらました。その上司は、かなり厳しく言う人だったので言われる方が厳しいのではとその時は返事したのですが実際は「君は私に何も言われなくなったら御仕舞でそこからは自分でやらなければならないんだぞ、言われているうちはまだいい、それを忘れずに必死に私が厳しいうちに学んでおきなさい」と諭されたことがありました。

これは今思い返せば、他人から注意されず誰からも言われないということはこれはよくよく自分を厳しく律し、甘えを捨て去らなければ責任を持った一社会人として会社で自立できないのだぞということを言われていたんだと思います。そのあとは、実際に何も言われなくなり自分で必死に言われないことの厳しさを味わいながら難しい仕事を取り組んだ思い出があります。

もう一つ別の話に以前、師から子どもの夢をみた話を聴いたことがあります。園にいる他所から転園してきた在る子が「僕はまえの園のように先生や周りに何でも指示して指導されて遊びも全部決めてもらった方がいい」と言われたそうです。しかしそれに対して「そうだね、大変だよね。でもこの園はお友達のみんなと自分で選択して自分で決めて、自分で全部やっていく園だからね」というと、「まえの方が楽だったのにね、、うん、分かった、いいよ」といったやり取りがあったそうです。

これは一つの自律のことを指すことで、甘えないというのは自分で甘えないということが分かるということができるようになるということです。例えば、仕事でいえば接客もそうですし、日々の業務連絡や全体への参画もそうですがそこで甘えるというのは自分のできることのモノサシで自ら周囲に甘えて妥協してしまうことをいいます。ここでは他人を頼ってでも品質を徹底して維持していこうではなく、自分に出来ない場合は出来ないのだから仕方がないと誰か任せにしてしまい甘えてしまうが妥協という意味です。

例えば、高級な旅館や飛行機のファーストクラスに乗ったとするでしょう。いくら常連だし、株主であったり、経営者の親友だからといってもそこでのサービスが二流であったり、いい加減な対応をされたらいくら仲が善いからといってもそれは大変不愉快な思いをします。

以前、伊勢神宮でご縁があった運転手や神職の人達もお仕事が大変厳しかったと言っていました。そこには公職や皇族の方々もいらっしゃるし、信奉していらっしゃる方々もいるので24時間365日、全く一切の気を抜かずに勤めていたと話を聴いたこともあります。自分でそれができない人たちは1,2年ですぐに辞めてしまったと言っていたのが印象的でした。

自律するというのは、甘えを断ち切り集団が目指す夢や理想のために自ら妥協点をてっぺんに合わせるために他と協力して他に頼りながら進めることができるようになるということであろうと思います。もちろん、理念をどうしても優先するからと他のことができなかったということはあるかもしれません。しかし本来は、それも実力をつけて理念をやって現実もそれに見合ったものがあって当然といった甘えのない自分を打ち立てていくことで会社もはじめてその価値に見合ったサービスや営業を展開していけるのではないかと思います。

この見守るの大変気を付けないといけない点は、そこが甘えになって本来の「らしさ」というものをはき違えてしまうことかもしれません。自由奔放に自分の好き放題でいることはらしさではなく甘えです。本来のらしさというのは、見守られる中で自律し自立することではじめて自分にしかできないことができるようになる、つまり社会や集団、世界へ貢献することができるように思います。

この自律は人生の中では大変厳しく辛く苦しいものかもしれません。しかし甘えてしまうことはそれ以上にもっと苦しむことになるだろうと思います。同じ苦しみも甘えているときと、頼るときでは質が異なっているからです。苦中楽ありの方の苦にしていくことが、私が善く言う「一緒にやれば苦しみは半分、歓びは倍」の意味になるからです。

楽しくなるにはやはり自らで自律できるようになり、自らが自立していくしかありません。人生は自然と同じものだからそこから習い、そもそも厳しいものだからこそ甘えて苦しむよりも、信じて楽しむ方を選んでいく方が尊いように思います。

理念から自分で考え抜いて、どうあることがもっとも自立なのかと出来事から内省し子どものことで深めていきたいと思います。

新しい旅立ち

夢や理想があると、様々な困難や艱難というものはつきものといえます。

それに本当に同じような思いの方々に寄り添おうとしたら、同じように悩み苦しむ人たちと共感できるような体験を持っていなければできません。理想を諦めずに夢を追い続けていくのは、時として愛が枯渇していくような感覚も体験するかもしれません。

そんな時は、同じような体験をしている人たちを思いながら自分の夢を支えてくれる人たちを思いながら、遠くを視ては自分を立て直すように思います。

下を向きたくなる時こそ、上を向いて歩こうと思うような感覚に似ているのかもしれません。

人は誰しも必ず愛を育てていくような体験があるように思います。

そこには誰もが持つ、真我の道が存在しているからです。

道が異なるからと寂しいと思うのではなく、道が異なるのは自分の道を歩んでいるのだと歓びそして自分も道を歩んでいくことに誇りに思うことがいいのかもしれません。一緒に歩んだ道が楽しかったからこそ、心は辛く悲しいと思うこともありますがその先にある希望がその人だけのものであるからこそ信じることをあきらめてはいけないと思えるのです。

信じるというのは、道を信じるということで現象を信じるということではないと思います。
どんな今も丸ごと受け容れていくことが、道の実践者であろうと思います。

未来を信じるというのは、自他の今とこれからを丸ごとで信じるということです。

理念に守られていること、同じ道を辿る仲間がいることに心強く励まされます。
新しい旅立ちを祝福できるような今を愛していきたいと思います。

謳歌

自分の決めたことを信じぬこうと取り組んでいけば、楽しく幸せなことだけではなく、悲しいことも苦しいこともあり、時として愚痴をこぼすようなこともあるのがそのものの人生だと思います。

そういう時は、歌を詠ったり、自然を愛でたり、子どもに癒されたりしながらも人はその時々に大切なものに気づき、大事なことを思い出しまた勇気と元気を取り戻していくように思います。

それら一つ一つのことを消化吸収し、身体を通して世の中で生きていくのが自分というものです。そうして不思議と毎回感じる事ですが、通過するときはいつもそのものを丸ごとを認めているときにできるように思います。そしてそれが信じるということではないかと、いつも大事なときにこそ心が気づくのです。

つまり大きな出来事というものが信じる気持ちを思い出させ、それを丸ごと受け容れるときに信じる気持ちはしなやかで嫋やかになっていくのです。

頭でいくら分かっていたとしても、気づいてみると日々の中で色々なことをつい一人で全部背負っていくものです。そうして一人で背負っていく中で繫がりが薄れ、絆が弱くなっていく中で信を忘れないようにとその人の周りに出来事が起きてくるように思うのです。そしてそれが道理であることを証明しているのです。

この信じるということは、全てを丸ごと受け容れることからはじまるように思います。

人生は一つの叙事詩であるという意味を実感します。

素で受け容れるには、私の体験では歌を詠うときにはじめてできるようにも思います。詩のように矛盾の中にある全ての今を心で詠んで、その道草を楽しみながら自らの人生を謳歌していくのをじっくりと味わいたいと思います。

被災地と震源地~心がけの妙~

先日、問題の本質を見極めるのに身体で考えてみるという機会があった。

自分が凝り固まっているというのは、どこかに自分でも気づかないような不自然になっていること、つまり偏って力んでいることをいうのは先日のブログで書いた通りです。

この力むというのは、自分の我が強くでてしまい保身やメンツ、その他の不安からどこかに力が入り過ぎているからバランスが取れずそこの筋肉が収縮しそれが凝りになっていくのです。そしてその凝りだけをいくらほぐしてもまたそれがまたいつも通りに凝りはじめるのは、水たまりだけの水をいくらほぐしてもそのうちに元の水たまりにまた水がたまってしまうかのように部分最適ばかりやってもいつまでも解消されることができません。

身体で言えば、全体最適というように凝ったところだけではなくその震源地がどこであるかというのを見出していくために身体全体を調べていく必要があるからです。震源地と被災地の違いではないですが、どうしても余裕がなくなると被災地ばかりに目がいきますが本来の震源地はどこにあるのかを正しく見出していくことが対処療法ではなく根源治癒になっていくように思います。

身体でいっても、肩こりの問題が足元にあったり、頭痛の問題が内臓であったり、実際は全体をよく観てみないと分からないからです。自分の中で治ったといくらいっても、震源地が其処に在る以上、また時間が経てば同じところが出てくるのが世の常だからです。

先人たちの地震の対策に色々と思うことがあります。

どこまで津波が来るのか、過去の人達がどこまで体験したのかそれを神社を設置し語り継ぐことで子々孫々へ同じことが起きた時の対応を示しているのです。決して津波が来るからと下流に住まないというわけではなく、そういうことが必ずあるから日頃から怠らないようにと伝承していくのです。

これは長く深いところで出来事を洞察しているからこその根源治癒法の一つであろうとも思います。西洋的な対処療法もいいですが、何が根源治癒なのか、考えてみる必要を感じます。

そう感じても、やはり機会をどのように活かすか、その活かし方にその人の心がけがでてくるように思います。自分の状態を正しく知るには、まず自分から肩の力を抜いてリラックスして心を開いて委ねるというような良心が出ている状態をつくるのが先決です。

最後に、ちょうど安岡正篤氏(東洋人物学・致知出版社)の言葉に学びとりたいと思います。

「日本では、観音信仰に次いで地蔵菩薩の功徳がいろいろ説かれておるが、「多逢(たほう)勝因」は心掛け次第で可能である。自分一人ではなかなか結ぶことが出来ないけれども、逢うことはできる。いや、自分を取り戻すためには、逢う必要がある。つまり、人間は出来るだけいい機会、いい場所、いい人、いい書物、そういうものにバッタリ出くわすことを考えなければならない。これを「多逢勝因」という。」

人は心がけを重んじていけば、様々な機会に回り逢いその機会を活かすことでより深く学んでいけるように思います。路を歩む中で、同志に出会い、師に出会い、友に恵まれることこそ人生の幸せや福を味わっていく機会の兆しのように思います。

日々の心がけ次第では、多くの人達の思いやりの中で安心して暮らしていけるように思います。足ることを知るのも、感謝をすることも、それが活かそうという心がけから来ているからです。力むときはどこか不自然であるとき、そういう時は心がけから立て直し出会いを重ねて歩んでいくことが処世かもしれません。

智慧は、心がけからはじまり心がけに終わるように思います。

日々修練できる場があることに感謝いたします。

 

愛と義と信と楽と幸

先日、愛着関係について話をする機会がありました。

最近の私はこの愛着というところに使っている愛は、古来から日本に存在している愛ではないのではないかと思っています。今の時代の義も、古来の義ではなく外来の言葉によって意味が変わってしまったのではないかと思うのです。本来の翻訳ミスもあるのかもしれませんが、実際は価値観によって言葉は形成されるのですから間違っていくこともあるように思うのです。

今では愛着とは、親が子どもに対して無条件で可愛がるかのように言われますが本来の愛はとても厳しいものです。今の愛は、親が子どもを甘やかし、子どもも親に甘えるだけの関係の愛着だということになっていることが多いのです。

そういう愛着を持っていたとしても、それでは他人との信を結ぶことができにくいように思います。そのことから、他人に頼るのではなく他人に甘えることで社会に自分を立てることができずに苦しんでいる人が多いように思うのです。

本来は、人間はまずこの世で行うのは、親から愛を学び、そして友から義を学ぶ、そして社会から信を得るというように成長していくのだと思います。

その最初の段階の愛で、何か躓けばそのあとの義が立たず、そして信も歪んでしまうのです。

人は信があるから、人から信頼されるのです。これは自分が根本に何を信じて生きているかを自覚していることであり、それを決めていることをいうのです。

私は会社でも仕事でもよく生き方と働き方の一致という説きますが、これはそもそもこれが分かれているはずがないと思っているからです。そして仕事も生活も重なりあった理念を主軸に、人事を尽くしいつまでも中道を学び続けて自分を生まれ変わらせていくというのを方針に設定しています。

そうすれば必然として、様々なところの問題を相手に内外左右されずに自らで自らの人生の価値を決心していくことを優先していくことができるようになるのではないかと思うのです。そうしていることが、保育を学び、さらにその生き方を通してはじめて子どものお手本ではないかと感じているからです。

この愛というものを学ぶのは、親から厳しい愛を受け取ったものでなければ分かりません。親代わりが必要な時代というのはおかしいと思います。本来は、親が愛を学び、子も愛を学び、そして義を貫くという生き方を実践し、そして信を得て、楽しい幸せな世の中にしていけるのではないかと思います。

見守るを実践していれば、見守り愛のことも学びます。
自立は、厳しさと慈しみの中で育まれるということは普遍の真理のように思います。

人生の中で人は人になるために道を通して互いに学びあい、見守りあい、人はそこから成長し、より魂の望むままに自分らしさに出会っていけるように思います。だからこそ日々を流されるのではなく、常に納得のいくように心研ぎ澄まして様々な出会いからキャッチしていきたいと思います。

人生を育てる

先日、あるコンサルティングを行っている園で研修を行いました。

そこはもう6年以上前から一緒に理念を策定し取り組み、実践を共にしているのですが一心協力して日々の保育に精進しています。いつもお会いしていくたびに皆さんが思想的にも技術的にも、また人間的にも全てにおいて大成していきていることに気づけます。

それもそこの皆さんが素直に学び続ける姿勢をいつまでも維持しているからです。先日も変化も学びも自分からするものであることをよく理解してくださっていました。子どもを見守るとは一体何なのかを、皆さんがよく日頃から保育で実践なさっている姿に改めて感心いたしました。

人はまず、反省をよくできる人が伸びる人のように思います。

自分が理に反することから様々な事件が起きて自分にとって難儀なことが発生してもそこから学ぶ人と学ばない人がいるのは事実です。学ばない人は、繰り返し似たようなことがいつまでも発生してはそこから後悔はしても正しく反省ができないのです。

それとは別に、毎回、正しく反省できる人は、自分が何が道理に反したのか、何が筋道に逆らったのかを深く掘り下げ自己観照ができ、そこからはじめて自分の生き方を変えることができるようになるのです。

人は成長していく方を選ぶという言葉を聞いたことがあります。

それは学び直せる方を選択していくと言い直してもいいように思います。この「直」という字は、毎回、自分が正しい方へと転じていく、本質や道理に照らして自分の方を変えていくということがいつもできるという意味であろうと思います。

それをいつもの日常の中で行うことができて「素」、素養の素が入ることで素直とも言うのでしょう。日々は変化するかしないかの連続であろうと思います。しかし、有難いのは必ず変化というのは起こりますし変化はこの世の常であり、これこそが私たちを学ばせて成長させていくのです。

人は結果を選ばず、生き方や学びを選ぶというのは勇気のいる事です。

しかしそれでも遣りたいと思う人だけが、ビジョンを持ち、夢を実現していく充実な生き方を全うしていかれるのでしょう。

常に、「自分は何のために此処にいるのか」「天は何をお望みか」を自問自答し内省し、焦らずじっくりと自ずから己の人生を育てていきたいと思います。

自立の勘違い

先日、自立の勘違いについて大きく気づき直すことがありました。
それは自分流というものを持っている人が自立を勘違いしているということからです。

例えば、自分流などという言葉は、自分では真似ていると勘違いするときに使う言葉です。実際は自分に自信がない人ほど自分流などというものでコピーではないものをコピーしていると勘違いしているからそう思っているのです。

一流の仕事を真似るや習うというのはどういうことかというと、その人の背景にある今までの体験を習うや真似るということに他なりません。表面上だけを似せてそれで自分はいいとなるのは、決して本当の真似ではないのです。

イチロー選手の振り子打法のコピーをしたといくら本人が思っていても、それは決してイチロー選手の真似とはいわないのです。イチロー選手がやっていることはその心技体全てに到達した本質をいい、それを自分もできると安易に勘違いしているのは大きな間違いだからです。振り子を似せてもなぜ振り子なのかの本質は真似していないからです。なので自分ではもうやれると先に思い込んで自分流で勝手にやっていても、本番になれば誰の目にも振り子打法の本質と全く違うことをしていることは明白です。

だからこそ、本当にコピーするのならイチロー選手が行った全ての本質を自分で”ものにしたか”どうかを自分でやりながら真摯に確認してこそはじめて自立できているかどうかの確認になるのです。これは武道の師弟関係のようなものと同じく師から弟子が己で学び己で習うのに似ています。

本当の習うというのは、その人が過去に取り組んできた練習や訓練の仕方、仕事で言えば取り組み方やプロセス、積み上げてきた修練などの全てを”自分のもの”にするために真摯に直向に習うことではじめて仕事の仕方が理解できてくるともいいます。習うというのは、鳥が親鳥のやってきたことと同じように体験を積み確認しそれをものになっているかどうかを見守ってもらうことをいうからです。

例えば、身近な例でいえば一流の経営者の仕事を真似るというのはとても至難のことです。

なぜなら、その一流の経営者は過去にどれだけ質の高い体験と経験、自分のリスクで修羅場や真剣勝負などを得て、膨大な量の知識と膨大な量の智慧を己から一流に習いものにしているから一流の仕事ができるのです。一流が難しい仕事を簡単にやってのけるのも、それは頭がいいからや能力が高いからではなく過去にそれに掛けた時間があったからです。つまり一流の経営者の仕事がわかっても、一流の経営者のように一流の仕事ができないのは一流の仕事の仕方を学んでいないからです。

なぜ人はこうやって自立の勘違いが発生する本質は、頼ることができないからです。

例えばイチロー選手に頼ることができれば、それを習うことができるようになります。それを一人で頑張り頼ろうとしなければ、単にコピーですからそれは自分流になるしかないのです。いつも大事な場面でイチロー選手をあてにしなくてもいいようになるには自分でできるようになるための真の実力をつけるしかありません。

本来の自立というのは、自分から信頼関係を築き、自分から習い、そして自分から頼ることができて自分でできるようになることではじめて自分で立ったとなります。

過去の教育や家庭環境から誰も信頼せず、一人で頑張り一人で立てることが正しいと間違った価値観を植え付けられた人たちが結局は一人で無理をしていつまでも自立を勘違いしてただ一人だけでやることを正しいと思い込んでしまうのかもしれません。

本来の一緒に取り組むというのは、それぞれが己でできるようになるという互いに認め信頼しているという証であり、それがあってはじめて社会の共生と自立を育んでいくのだろうと私は思います。

子どもたちに自立のモデルを志すからこそ、真摯にこのことは考えていなければなりません。

家船

私たちはもともと海に囲まれた島国の中に住んでいる民族とも言えます。

海に囲まれているからこそ昔から漁業なども盛んでした。
そこに家船という人たちがいて、陸には土地を持たずに船で生活する人たちがいたようです。
家族全員が船上生活をする中で、生き抜くことを学んでいくのです。

船に生活するのだから、日々の点検を怠らずに船が沈没しないように手入れをし規範と実務、実践を大事に子々孫々へと暮らしを継承してきた様々な智慧があったように思います。

何か大きな出来事があれば、一家の一大事として昔は全員一致団結して困難を乗り越えました。私は今年の一年のテーマは「家」なので、家に関することで先日も思い当たることがあり二宮尊徳の「大海の家台船」の一説を社内で話をしましたが忘れてはならぬ私たちの在り方そのもののように思います。

そこにはこうあります。

『尊徳先生はおっしゃった。「家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。面白い俗言である。実際、家を船と心得ればよい。これを船とする時は、主人は船頭である。一家の者は皆乗合いといえよう。世の中は大海である。そうだとすれば、この家船に事があるときや、また世の大海に事があるときも、皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、一心協力してこの家船を維持すべきである。さてこの家船を維持するのには、かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。ところが、かじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、終に家船を沈没させてしまう。嘆かわしいことではないか。たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。これがこの乗合いの者の大切な事である。ところが、既に大穴があいてもなお、これをふさごうともしないで、各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、待っていてすむであろうか。助け船を頼みにしていてすむであろうか。船中の乗合一同が、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。』

一緒に暮らすというのは、運命共同体という意識のことです。

どんなに自分だけが助かろうと思っても、この大海原の世の中を生きていくには自分の帰属するコミュニティー(信頼できる仲間)を築き上げなければなりません。それができてはじめて自立したと言えるからです。

だからこそ自分の乗る船が沈没しないように、同じ船に乗り込んだ乗組員は命懸けで守り、それぞれが一心協力し続けていなければ自分も周囲も守れないのです。家族を守るというのは、一家の人達が心を合わせるからできるのです。

今の世の中は、何を守ることが自分も仲間も守ることなのかを勘違いしている人も増えています。すぐに信頼することを忘れ、自分だけでなんとかしようとするのもその信頼そのものの本質や意義が孤立する社会の中で欠落してしまっているのです。これも都市生活をし、画一教育の中で育った人たちの現代病ともいえるのではないかと思います。

自分だけが助かろうとするのではなく、如何に運命共同体を築き上げるかということを考えなければならないと思うのです。それが歴史を顧みれば人類生存の叡智そのものであったからです。

仏教のいう所の自利と利他ではないですが、利他を常に優先する人はそういうコミュニティーを自らで形成できます。なぜなら利他というのは、自分を守ってくれている安心感を常に信頼を心の主軸に置いて行動することができているからです。そうやってはじめて生きる力の根源になる仲間と自然に包まれて生きる幸せを味わっていくことができるように思います。

先人たちの絆や信頼を家というカタチにして残したのは生存の智慧そのものです。今に昔の人達の智慧を学びつつ、それを繋ぎ譲れるよう、遠くの灯台を見つめて子どもたちの未来に残る船を建造し前へと進めていきたいと思います。

国際感覚

人は自分の価値観を拠り所にして様々なことを判断しています。

先日のインドでもそうでしたが、世界は様々な宗教観などを含め価値観を形成するものがありその価値観に由って生きているともいえます。ヒンドゥー教とやイスラム教などもそうですが、私たちからすればなぜそこまで激しく対立するのかと思うものですがそれだけ価値観というもの中で理解できないものが互いにあるのです。

食べもの一つでもそうですが、豚肉を食べないとか野菜しか食べないとかもその価値観がそうさせるとも言えるのです。自分の価値観が正しいと思い込んでいればいるほどに、相手の価値観は間違っていると思うのです。

本来は、それでも相手の価値観を認めて相手も正しい自分も正しいという柔軟性があればいいのですが相手から自分が間違っていると責め立てられれば同じくそれを仕返すというように対立は激化していくとも言えます。

そう考えてみると、世界での紛争のほとんどは互いの価値観のぶつかり合いとも言えるのです。言葉を話せるようになってから、文化をそれぞれで持ってから、私たちは逆に話し合うことができなくなっているともいえます。

言葉で何万語使って語っても、分かり合えないということも生まれてしまっているのです。

だからこそお互いに共通するものがあることを学ぶことが人間の最上の教育ではないかと思います。それは真心であったり思いやりであったり、勇気であったり優しさであったりといった人間の共通した生き方そのもので分かり合うことがシンプルなかかわり合いであろうとも思います。

そしてそういうものを感じるには、常に自分がシンプルであるように価値観に柔軟でいなければなりません。柔軟であるには智慧と体験、そして素直であることが必用でそういうものこそ学問を修めていく中で体得していくのでしょう。

世界で活躍する一流の人達の共通するものは、やはり価値観に素直である気がします。まずは自分から国際感覚を磨けるように、精進していきたいと思います。

虚無虚空の音楽~共鳴~

インドに訪問し、ラビ・シャンカールのことを思い出して深めてみました。

昨年の12月に亡くなっていることを知り、その偉大さを改めて再認識しました。このラビ・シャンカールさんとは地球交響曲の映画ではじめて知ってから何回かインドの音楽に触れることがありました。

ちょうせ先日からのインド訪問で、そのインドの風土や気候、人々の生活の中に流れるものに触れて改めて音を聴き直そうと思ったのです。

このラビ・シャンカールさんの奏でる音楽は虚空の音といい、かのモーツァルトに共通するものがあるように思います。今世紀の楽聖とも言われ、音楽というものの本質をシタールという楽器を通じて世界へと弘めて改めて音楽というものを刺激した方ではないかとも思います。

このシタールは、ギターのように、おおきな瓢箪と、弦からなる楽器です。その弦は7本あり、そのうち4本は、演奏用で残り2本でリズムをきざみます。さらに、その下に13本の弦があります。これを共鳴弦いい、この共鳴弦があるからこそ音に揺らぎがうまれます。もともとはこのシタールの原型、ヴィーナにはこの共鳴弦がなかったそうです。それをシャンカールさんが言うには昔の人は、鋭い耳をもっていて自分の力で、共鳴弦を聞くことができたのではないかとありました。

つまりはこの揺らぎの音を奏でることができる手と耳、そしてその虚空の音「アナハタ・ナーダ」を知覚する手を耳で行っていたということでしょう。このナーダという言葉は、もともとは「流れ」のことをいい目には見えないような確かな自然の流れを観てとり、耳で聴きとり、それを顕現させているものを音だと定義しているようです。

この音間の中にある無中の無、有中の有、つまりは有無を超えた無の音を奏でることができたというのはその流れを心がいつも捉えることができたということに他なりません。何もないように観える中から実際は確かに存在しているそのものの音を聴きとることができるということでしょう。
これを私は一瞬の閃きとも呼んでいますが、ある瞬間に降りてくるような感覚があるものがそのままに掴み抜き、流れの記録記憶にアクセスするようなものがあったのではないかと推察します。

自然に入れば、静寂の中にも確かに流れるいのちの音のようなものがあるように思います。それは五感を研ぎ澄ませていくことで次第に実感できるようになります。それが今の現代では、あまりも生活が偏り乱れバランスを崩し、自然ではない音を聞き、自然ではないものばかりを視て、自然ではないものを食べ、自然ではない香りを嗅ぎ、自然ではない光を浴び、自然ではない言葉を交わし、自然と離れすぎた生活をする中でそのかつての五感も六感もバランスも消失してきているのでしょう。

こういう本物の音に触れることは、自分の感覚を呼び覚ませていくとても貴重な道具の一つであろうとも思います。神社でもそうですが、かつての音楽、自然で奏でる音楽を聴くことで私たちの中に確かに流れる本物の音、虚無の音を学びつつ畏敬を感じて一体感を味わったのではないかと思います。

インドには確かに流れている真実の文化や道が存在していました。

その聞えない音や見えない光を正しく視て、正しく聴いていく修めることが今後も課題になっていくように思います。仏陀の八正道ではないですが、それは私にしてみれば「流れ」を感じる力を養う道のように閃きがありました。

今後も自然の音を、虚無、虚空の音を聴ける真心を磨いていこうと思います。