ゴールイメージ~想念実現~

世の中で話が出ているゴールイメージについて私なりに考えてみます。

人は生きていく中でその場面場面に、ゴールイメージを思い浮かべます。そのゴールイメージが鮮明に明確である人はブレナイ人といわれて感情をいつも善いコンディションに保ち次々に自分を創りあげ現実を理想に近づけていくことができるようになります。

そのように成功体験の多い人というのは、その成功のイメージ、つまりはゴールのイメージを自分の心に明確に持っているともいえます。まるでドラマのラストシーンのように栄光に輝いている自分像、もしくはその場面を想像している人はそのシーンを場面場面でいつも体験することができるのです。

しかしこの逆でいつも失敗体験の多い人とは、その失敗のイメージ、つまりは良くも悪くもゴールに描いてしまうイメージを悪い方へと引き寄せてしまうのです。そのとき感情にもっていかれて、自らその悪い時のイメージそのものになるように体験してそれを何度も繰り返していくのです。

昔、バレーボールをしていたときによく試合中に流れが悪くなると「負けが入る」時がありました。これはどのスポーツでもいえることですが、ふと悪いイメージを持ってしまうのです。このパターンは負けてしまうと思うときに、次第にそのシーンが顕われてきて結局はその通りになってしまうというものです。それを払拭するために、負けが入りそうなときは成功イメージ、つまりは逆転して劇的勝利といったようなイメージを思い浮かべて感情を楽しい方へと向けたものです。そのために必死に練習したり、弱点を克服した自分を思い浮かべたり、今は違う自分たちだと皆にエールを送り念を合わせたりして乗り越えたものです。

つまりこういうとき、場面と感情というものは常にイメージとセットになっていて、自分がこうなりたいと思うことや皆でこうしたいという強いイメージがあることで其処に向かってはじめて「ゴールイメージ」が顕われていくのです。

感情というものは自分の心の描く姿とセットになっていて自分が嬉しいと思うこと楽しいと思うことのままに現実の世界に投影すればそのまま顕われ、逆もまた言えるのです。善いイメージを持てるかどうかで勝敗が決まるかなどとは簡単には信じないでしょうが冷静に観照するとほとんどがそうなっているのです。

ポジティブな考え方というのは、この善い方の感情でいるということに他なりません。最初からネガティブで悪い方ばかり、上手くいかない方ばなりを考えていると次第に感情も過去の失敗体験にアクセスしてそれを引き寄せてしまうからです。そしてそれはとても用意周到で自分でも気づかないうちにそうなるような仕事の進め方、自分の関わり方、全てが感情によって周りを悪い方へと導いていくのです。

そして自分を責めるというのも、その過去の感情を何度も引き寄せおびき寄せる行為に似ています。自分を責めれば責める程に、そのネガティブイメージを刷り直していくのです。そうやって自分を刷り込んでしまうと、同じようなシーンや似たシーンになると、すぐにその感情が出てきて自分から進んでそのシーンを起こすような態度を取るのです。

自分のイメージというものは、自分で描くしかなく、それをいつも強く持つというのがゴールイメージです。より具体的に鮮明に未来を思い描き、その目標やゴールに向かって自分自身が全身全霊でそこへと挑む戦いをするということ。誰かと比較してとか評価とかを気にせず、自分の決めたゴールイメージに専念する、それを全員が行うことで最幸の人生を掴み、最幸のチームを構成していくようにも思うのです。

チームの中で悪いイメージが起きそうなときこそ、善いゴールイメージを持つ人が成功イメージに挑むことで他のネガティブなメンバーを引き上げていくこともできるのがチームプレーの醍醐味と面白味でもあるのです。またネガティブな人は自分がネガティブな感情にならないような配慮や準備を怠らないことでいつも自分の感情を善転するようにケアしていくのが自己管理にもなります。

集団で高い理想を目指せば、そして夢を描けば、妥協点は決して低くはなりません。だからこそ、妥協している仲間がいたら腹が立つのは当たり前です。そうやって妥協点をみんなが下げずにゴールイメージを目指し個々全員が真摯にゴールイメージに挑戦し取り組むことで世界一やオンリーワンというものは築き上げていくのです。

なんでも無難や上手くいかせようと考えてしまうのはその人の個人の価値観、その自分の設定しているゴールイメージにこそ課題があるようにも思います。ゴールイメージとは、最幸の豊かさを味わうための目標設定、つまりは自分に「夢を持て」ということのように思います。

どんな風にしていきたいか、どうなりたいか、どこまでの高みを望むのか、その正対する個々の挑戦が自分をそして周囲をイキイキワクワクさせてくれるように思います。いつもネガティブな感情でまわりに迷惑をかけて足をひっぱらないようにすることがチームへの最大の配慮です。

配慮とは、そうやって自己観照し、自立することではじめてできるようになるように思います。
自らの人生をどれだけ絶対肯定するか、そして信じるか、自分の想念次第なのでしょう。

素直で爽やか、明朗にして謙虚、また元気溌剌として無邪気な子どものように前進していく。
想念も生き方、そして人生は歩み方、心を澄ませて穏やかであるのがいいのでしょう。
想念というものは、実は素直さの言い換えたものなのかもしれません。

見守りということ、見守るという指導、心得、その全てを学び方へと深めていこうと思います。

絶対音感~音楽~

昨日は、保育環境研究所ギビングツリーのリーダー研修にて赤ちゃん学会のメンバーである志村洋子先生の講演を拝聴することができました。

先生は赤ちゃんと音楽を中心に研究をなさっていて、音楽というものが本来どういうものであるか、また赤ちゃんというものは本来どうであるかを様々な研究事例をもとにユーモアたっぷりでお話いただきました。

お話の中では見守る保育と共通するところ、また私の思う自然観とも類似していて貴重な学びをいただくことができました。歌の持つ力、音の持つ力、楽しむ力、その偉大な自然の力を再認識できる機会になりました。

その一部を紹介すると絶対音感の話というのがあります。

「世間のいう絶対音感とは、皆が分かる共通の音でドレミファソラシドがどのようなものかと認識することができる音のことをいいます。しかしこれは本来の絶対音感と呼ぶものではなく、あくまで相対音感でそれはみんなと同じ音でなければならない、みんなと同じでなくてはならない、そういう定義の音感になっている」とのことです。

つまり本来の絶対音感というものは「その人そのものが生来、もともと最初から備わって持っている音感というもので、それが歳とともに失われてしまえば聴力が低下しそもそものものがなくなってくる」という意味で使われていました。

これは子どもの時がもっとも持っていてその後に自分の必要のないものを削り取っていくという考え方と同じです。そしてこう続きます。

「音楽というのは音を楽しむものでそれを何かの合図にあわせて音をならせるようにしたり、何かの評価を誰かがしたりすれば、もともと持っているその人の感じていた音というのは失われてしまうとのことです。特に赤ちゃんから10歳くらいまでは絶対音感を持つけれど、そのうち次第にそれが失われていき、大人になるにつれ選択し聞き分けていくなかでもともと有った機能は次第に失われていくということ。つまりは赤ちゃんは白紙ではなく聞き分けないですべての音を拾うことができている、つまりはすべてを持っているのだ」ということを熱く伝えてくださいました。

このように子どもが何もできない存在であるというのは、大人になったら何かができて子どもは子どもだからできないという大人の一方的な刷り込みに縛られたものです。何ができてなにができていないのかの定義を逆転させなければ、本来人間というものは完全な存在で生まれてくるということにも気づくこともないのです。

また先生が警鐘を鳴らしているのは、「本人たちがその気にならないのに、無理にさせようとする音楽の指導があるということ。あんな音楽では楽しめない、突然なんの前触れもなく、相手のやる気も確かめずにさせようとする。あれでは音楽にはならないということ。無理に何かの音にあわせようとさせるから面白くない、もっと自由にさせていくことがいい、それがハーモニーの本質。こうでなければならないというものではなく思いっきり好きにやって善い、そうすると楽しくなる。こうでなければならないという、先入観、不自由さが何かを失わせる。」とありました。だから、赤ちゃんや子どもに先生が一方的に大声をあげて音楽を教えることがないようにとありました。

また先生と控室でお話したときに、「なぜ幼児期にあんなに音を楽しみ歌と親しみ踊りを好きだった子どもが大人になるにつれてそうではなくなっていくのか、それをなんとかしたい」。この義憤こそが今でも先生を研究発表に向かわせているとのことで子どもを思う気持ちにとても共感しました。

 私は人間は自分の興味がある好奇心があるものであれば不可能を可能にする力を持っていると信じています。赤ちゃんのときから、それを見守られれば人は必ずこの世で何かの使命を果たす立派な人になるように思います。

また音については赤ちゃんは静かな方がいいという話がありましたが私も同じ感覚で、昔からの音、つまりは自然の音というのは、私にとっては静寂の中にあるものです。静寂こそが私は音楽だと思ってもいます、あの心の中にある平静、最も澄み渡ったときに感じる無音、あの音にならない音にこそ不思議な力が潜んでいるように思います。

それに調和とは、それぞれが如何に自由になるか、自分らしく素直であるか、あるがままで自分を活かしてときにこそ楽しむという力を存分に発揮できるように思います。この楽しいというのは、自分のいのちが歓ぶことを言います。

これから学んだことをどう活かすのか、これは今後のテーマで抱き続けたいと思います。

有難うございました。

 

 

分かろうとすること

分かろうとするということはどういうことかというのを深めてみます。

この分かろうとするのは、頭で自他を分けて行うことを分かろうとすることではありません。それでは分かった気になるからです。分かった気になるというのは、相手を見ていて相手はきっとこうなんだろうと相手のことを安易に認識することをいいます。

本来の分かったとは何か。

それは同体験をしながら共感していることを言います。相手の苦しみを分かった気にならないのは、相手と同じところで共感できるからでそれは同時に実体験している最中でなければそれは得ることはできません。例えば苦しいと感じている人を共感するには自分も苦しいと思っていないとできないのです。

自分だけが苦しくなく、何も感じていないのに相手の苦しみを共感することはできずその思いも体験も分かち合うことができなことを分からないというのです。

この分かるというのは、分かち合うことができます。

分かち合うというのは、同時に同体験をしている最中にお互いの心が通じ合う、同じ心を通わせていることをいうのです。どれだけ真剣に生きているかが困っている人たちを救うのは、その人が苦しみの最中にいることから逃げず、それを転じて善いことにし続ける実践こそがその人を励ますからでそれが私のいうコンサルタントであること、その在り方であると定義しています。

どんなことにせよ誰かを導くという仕事は真剣に苦と正対し、それが必ず同じ境遇の人たちのためになる、自分の生が必ず社会の御役に立つと信じているからできることのように思うのです。

自分自身がそれを決めて歩むことがコンサルタントをしているということになるのだと思います。いくら経験を多少積んで、ある程度知って分かったとしてもそれは分かったということではなく分かった気になったよと思えばいいと思います。

同時でいるのは、挑戦の連続ですが同時でいられるということは相手のことを思いやれる強さ優しさを持てる自分で在るということに他ならないとも思うのです。分かろうとするのは、自分の生を強く逞しく生きて自問自答を続けていくことのようにも思います。

つまり同体験をもっと深く掘り下げて引き出してそれを味わい尽くしていく、人生の醍醐味をあるがままに感じ今を究め尽くすことをいうのだと思います。シンプルにいえば、素直に真心で生きることが分かろうとすることであろうと思います。

一生懸命に自分を生き切ることが世の中の御役に立つことを実践から示していこうと思います。子ども達にも、周りをみて自分を決めるのではなく自分のことは自分で決めるように在り方そのもので共感していきたいと思います。

 

同時

感情を調和していく中に、感動するというものがあります。この時の感動には、御互いに同時に感じることができるという感覚があるように思います。

例えば、何かを与えるときそれを受け取る方も同時に何かを交換します。一見、何かを渡す方は失うのですが同時に得ているものがあり、何かを受け取る方も得るのですが同時にさらに得ているものがあるのです。それが感謝です。

この感謝というものは、与える側も受け取る側も同時に得ることができるものであろうと思います。そしてそれはお互いに心を通わせあい味わうことでより鮮明に得ることができるように思います。

他にも信じるというと任せるというものも信じる側と任された側の信頼関係を同時に交わすのです。

つまりは、私の言う同時というものはバランスのことでもっともお互いが同じパワーバランスでいることも同時なのです。どちらかだけが行うものではお互いのバランスは調和しません。

先日もある会議の中で、司会進行と聴く側の力が同時でないとその力は発揮されないという話もしました。これは複雑系の中でも話がされる、調和の力、同時のことを言うのだと私は信じています。

みんなの力を合わせるのに「せーの」という掛け声もありますが、あれこそが全体の集合智、つまりバランス感覚であるように思います。

自分から主体的に相手の問題意識に合わせていくことや、自発的に自分の持てる力を存分に発揮していくことが同時を引き出していくように思います。相手を見て自分の力のさじ加減をしたり、遣り切っておらずにできそうなところをやっているのではお互いに交わし合いや通じ合いというのは起きません。

相手もきっと大変なのだろうからと思いやり、人事を尽くすとき同時は調和するように思います。力を合わせることも日々の鍛練と訓練のように思います。学びを体験に換えて子ども達に還元していきたいと思います。

自然遊び

先日から民芸に意識を合わせていたら玖珠の童話館との縁があり、昭和の初めに版画雑誌『白と黒』を主宰した料治熊太の作品展を拝見する機会があった。

そこには版画だけではなく、数々の世界の民芸品や玩具が展示されていて素朴さという意味を深めるのに大変な参考になりました。

それに、次回訪問予定の日本民芸館に繋がる面白い情報もたくさん入手し動いてみるといろいろと気づくことがあり心はいつもそういうものを捉えていると実感できる学びになりました。

この料治熊太という人は、版画誌の育成発行や郷土玩具の収集と研究などで功績を持つとともに棟方志功や谷中安規などとも関わりが深い方です。

一見、失われていくとも思える美に一石を投じてそこから新しい美を育成していくというようなその観点を感じることができました、特に郷土玩具では、あまりにも大量な玩具の量に圧巻でしたしその個性や美しさ、その素朴なものにどのように子どもの遊び心が動いたのかを観察しました。

私にとっては、今の時代のように複雑な情報が飛び交う中で豊富に溢れたものを追っていくような表面上な遊びよりも、まるで林の中で冒険するときのような、また浜辺で砂遊びをするような感性を呼び覚ます美に観えました。

遊びといっても、何か脳を刺激するものではなく、心が遊ぶようなものはとてもシンプルで素朴なものの中に存在するように思います。脳が行う情報遊びではなく、心が行う自然遊びであるのではないかと実感しました。

価値のあるものというものは、人間が設定したものと、もともと価値のあるものという見方があります。かんながらの道でもそうですが、そのものの価値というものは一見大変素朴すぎて美を感じることもできないような偉大なものの中にあるように思います。

それが葉っぱ一枚であったり、松ぼっくりのカタチであったり、どんぐりでも、花でもそうですが自然が何よりも美しい証拠を表現しているからです。簡素でシンプルな美とは、私にとっては自然美のことです。

白と黒というものも、美を真ん中に据えているときに実感できる無限色であろうと私は思います。自分を磨くのは自然、常に自然と遊んで新たな境地を自明していきたいと思います。

自問自答

プライドについて考える機会があった。

よくプライドというものは、あの人はプライドが高いとか、あのプライドが邪魔をしてとか悪く使われることもありますが、他にも、あの人のプライドがかっこいいとか、自分にプライドを持っている人だからとか、それが善く使われることもあります。

このプライドとは、外向きのものと内向きのものがあると思うのです。

外向きというのは、外側へ対しての体面や体裁、自分がどう思われておきたいかといった外側に対する虚栄心から自分を頑なに守ろうとするときに使われます。自分が周りから思われたい自分像から異なるのを頑なに拒み他人のいうことを素直に聴かなくなっていくのです。これは世間で使われる良い意味ではない方のプライドで、それが高いとか鼻につくというのはそう思われたいという自分の欲から生まれます。

そしてそれはいつも誰かと比べる自分というものがその発想の根元にあるということです。

もう一つに内向きのものがあり、これは自分が決めたことへの揺るがない誇りや、内省によってこんな自分は嫌だと決めた生き方、つまり自分で決めた自分のハードルは下げないというときに使われるものです。これは常に自分に矢印の生き方を貫くことをいい、素直に他人の助言やアドバイスを聴き容れ、自分の間違いは正していこうと自分自らが厳しくチェックすることを優先するのです。これはとても素直で直向な人のことをいい、そういう人の生き方見ていたら大変清々しい気持ちになり、そしてその人の成長が自分のように嬉しく思えるのです。

つまりこのプライドは、周りから見られて自分でねつ造した都合のよい自分像を守るために使う人と、自分の中で決めた自分像を守るために信念を持って自分と正対するときに使う人がいるのです。

プライドが高い人は、すぐに自分を守るために嘘をついたり説明をしたりと本当の自分をさらけ出そうとしません。そしてそれは、単に自問が不足していて自分で自分のことを決めないからであろうと思います。

これからどんな生き方をすると決めたか、自分が大事にしているものは何か、そういうものを自分から先に大切にすること、それが自信になり信頼を広げていくことができるのです。

表面上の仲良しよりも、まず一番身近な自分と仲良しになる方が大切なのです。だからこそ、自分が先に決めること、そしてそれは誰のせいにも何かのせいにもせずにまず自ら決めたことに誠実であること、それを常に死守することがプライドを正しく転換していく方法であると私は思います。

周りを見過ぎるのは自信がないからですが、自信とは自分で決めてそれを遣り切ることで自分が好きになるから信じることができるのでしょう。もっと大事なことは自問自答するということを大切にしていくことを子どもたちに示していきたいと思います。

今を探し求める

古き善きものの理解ということで、温故知新がありますがこれをドイツではロマンティックであると定義していました。

今の日本では明治維新後から、新しいものが良いものであるという価値観が一般的に横行しています。今でも新商品となればすぐに飛びつき、さもそれが目新しければ取りいれるという考え方に溢れているように思います。

どのTVCMも派手なものや珍しいものばかりを取り上げようとしているのもそういう大衆の方が多いということを意味しています。そしてその反対に古いものは価値がないとさえ思われ、もともと先祖たちが遺してきた様々な美意識も今では衰退して陰りをみせています。

私は自然農をはじめ、自然から学びだしてから何が最先端なのかの価値観が逆転しました。

昔は見向きもしなかった道具であったり、家づくりであったり、様々な民芸品、その全てが大変な自然の観察から練り上げたものであるのを実感するからです。なぜ何百年も残っているのか、なぜ今でもそれが本物である輝きを秘めているのかはそれが自然の法則にそって創造されたものであるからです。

本物というのはいつの時代も、余計なものがそぎ落とされ究め尽くした頂点であるからです。

そこからいろいろなものを足していく方が良いはずだという価値観というものは、例えば円い玉に派手な飾りものをしてさも宝石のように見せるかに似ていて宝石そのものではない価値で無理にそれを良く見せるのに似ています。

付加価値というのは大切ですが、本来の価値が観えるというのはもっと大切であると私は思うのです。いつの時代もなぜ本質的な価値を遺しておく必要があるかといえば、それが時代時代にあわせて参考になるからです。

どんな時代も、どこに合わせて修正するのか、どこを視て少しだけ改善するのか、その元となるものを引き継ぐことこそ先祖の遺訓を守ることのように思うのです。

大切なのは新しいか古いかではなく、本物の善きものとは何かという審美眼、言い換えれば真善美が正しく行われることだろうと私には思えるのです。それがどの国の歴史であっても必ずそれを求めて生きた証として様々なものを受け継いでいくことが今を正しく実現することのように思うからです。

真善美というものを理解するには、古きを温め、新しきを知るという両面から錬磨育成していかなければならないと私は思います。一見、矛盾している中にこそその本質を捉える自分の感性が響いてきます。

私の今、もっとも探し求めているものはこの「今」なのだろうと感じます。

さらに直観を高めて、子ども達に遺せるもののを自然から創意工夫し発明していこうと思います。

引き算の美学

先日、ミッションパートナーとブランディングについての話を深める機会があった。

ものづくりというのは、とても神秘的なものでそのものに自らの生き方を透写し、それを一緒に善い作品へと転換していくという面白さがあるのです。それぞれの生き方を照らしあわせたとき、その奇跡とも言える総合芸術ができるかのようです。

人はそれぞれの持ち味を活かすとき、今までにないような不思議な味わいを醸し出します。
これは発酵でも同じですが、大切なのはやはり自分らしさを出すということなのです。

そしてこの自分らしさは、自分に正直、全てに正直、あるがままの心が澄まされオープンでいることがその曇らない飾らない素直さを発揮させていくように思います。

そしてそこにはシンプルというデザインがあります。私が好きなデザインも、光がわかるよう白と黒が基調だったり、そのものがより本質に近いものや、その作り手の人生観がにじみ出ているようなものにとても惹かれます。そしてそれはやはりシンプルなもので、余計なものをどれだけそぎ落としたかというものを観るのです。

世界には、そうやってありのままに観える人がありのままにつくったものが無数にあります。そういうものを探し、それを日本のカタチに転換することで私たちのものにしていくことができるように思うのです。

ないものを探そうとするのは、まだ曇っているからで本当はすべてはこの世に存在していてそれを目が曇るから見いだせないという発想。つまりは物事はすべて足し算で考えるのではなく、引き算で考えればないものねだりではなく在るもの探しに変わるのです。

これはデザインやものづくりに関わらず、大前提としてものを創る前にその美学がどうなっているかが問われるように思うのです。日本には、千利休や松尾芭蕉、その他にも「わび」「さび」「しおり」といった日本を代表する引き算の美があります。

私もそれを感じた時、本当はないのではなくあるのではないか、そして足りないのではなく活かせないのではないか、すべては自分の中にあるものを発掘できていないのではないかと、自らにおける制限を感じたのです。

自分が自分に制限をかけるから、人は限界を超えないという言葉があります。
みんな人が変化できないのは何かに縛られ囚われる刷り込みがあるからです。

そういうひとつひとつを引き出し、導くことも使命であるように感じます。
子ども達のためにも、自分らしさを持ち味をさらけ出せるような生き方を目指そうと思います。

自らの文化創造

ドイツ研修のふり返りの中で気づいていくものに歴史というものがあります。

その国の歩み方や進み方の中に、過去の経験が活きていてそれがものづくりに活かされたり、生活の智慧になったり、そして思想や性格などになるのです。

例えば日本も昔からたくさんの建造物をつくりあげてきましたし、他国でも創造してきました。その延長に料理というものがあったり、商品があったりと、その国々で究められ生み出された美があるのです。

そして世界では、それぞれの美意識をそれぞれの生き方に取り込んでその国で生まれた精神やその中で練り上げられた心を学び自らの生の質を高めてきたのだと思います。日本製というものが精巧で精密、正確であるのもそういう日本の美学が生きているからでこれはスイスでもドイツでも言えることです。

お互いの文化を味わっていくというものは、どのように自分の国の「ものにした」かということの歴史を感じるとも言えます。

私たちの先祖では、かの空海もただ中国へ留学するのではなくそれを日本のものへ呑み込んで私たちの生活に新しい文化が生まれました。その広さは、料理だけではなく建築、土木、治水、広げてみると大変なものです。その後も、明治維新のときは西洋諸国の数々の文化を呑み込み新しい日本のカタチを模索して取り込みました。この時は急ぎ過ぎたのか、そのまま取り入れたものが今の時代の弊害にもなっています。

正しく取り入れるためには、全てのものを自分で咀嚼する力が備わっていなければなりません。それはよく日本文化に精通し、自らが日本という生き方をしそれを体現し一つの高みまで昇華させた人でないと難しいように思います。

そのためには、自分がどうしたいのか、自分の本当の目的が何か、それを問い続けて自らの文化創造から取り組んでいなければ難しいのではないかと思うからです。

お互いに善いものを取りいれるというのはあっちがいいやこっちがいいではなく、そこに大変な謙虚さや素直さが必要だと思えます。それは本物を見分ける力が働いているように思います。いろいろな環境の中でいろいろな人がいるから人は学んでいくのでしょう。

自分が何をしたいのか、そこから考え直してふり返っていこうと思います。

楽しみ方

ドイツで持ち帰ったものにふり返りの楽しさというものがある。

現在もふり返りを続けていく中で、仕事を含め楽しみというものに3つの大きなものがあるのを感じます。これは旅の楽しみと同じようで、旅は行く前の楽しみ、最中の楽しみ、帰ってからの楽しみと3つあります。

そしてそれを全部楽しむとき、旅の醍醐味を感じて心は遊び旅を楽しみ続けていくのです。そしてその旅が、また次への旅へと誘い、人生がいつも旅によって味わえるという感動を連れてくるように思います。

そして同じように仕事にも楽しみというものがあります。

これは仕事に取り組む前の楽しみ、仕事中の楽しみ、そして仕事後の楽しみなのです。

仕事とはこうやって楽しいものにしていくのは自分の自主的な行動によって得られます。一生かけて取り組む仕事を楽しめるかどうかは、楽しんでいるように旅をするかに似ていて楽しんでいるように仕事ができるから仕事によりのめり込み集中し一体となりより自分から楽しんでいくことができるように思います。

この仕事の楽しみには具体的には3つあります。それは発見や発掘といった気づきの楽しみ、そして創造していく楽しみ、最後にふり返りによる改善の楽しみです。

仕事は全体を通して、色々な気づきを楽しめます。それは今まで気づかなかったことに気づけるということは発見する歓びで、人はオモシロイと感じるものはみんな新しいものを見出した時です。そして創造するという歓びというのは、カタチになっていく楽しみで今まで頭にあったものや漠然としたもの曖昧なものがどんどん顕われていくのはまるで家が建っていくようにオモシロイのです。カタチがどんどん増えていくから、全体が顕われそうしているともうすぐ自分たちの家が建つと思って希望にワクワクしていくからです。最後のふり返りの歓びですが、これはより自分が磨かれていく、上質になる、洗練されて善くなっていく喜びです。仕事がどんどん善くなってきたと感じることは、自分が本物に近づいてきたという歓びで未熟なものが成熟していくように次第に立派に成長していく実感を楽しむものです。

こうやって楽しみというものは、具体的な楽しむものにしていくことで得られます。

ドイツから持ち帰ったものにふり返りがありますが、楽しみ方にもいろいろとあるのだとふり返りをふり返り続ける事から得られています。人生はすべて学びなのだから、見落とさないよう、日々の発掘をより発掘し、日々の想像をより創造し、日々のふり返りでより改善するというのがまさに自分を空にして没頭していくことのように思います。

仕事の仕方というものがあるのなら、それは旅を楽しむように味わうことだと思います。

一番の危険は怠惰と惰性です。
慢心を恐れることは、今、ここへの集中力、即ち常に楽しむかということにあると思います。

日々の生活のなかで、好奇心と集中力を高めてより記憶と渾然一体になりたいと思います。