人類存続の危機

当事者意識というものを考えてみる機会がありました。

これは簡単に言えば発生している問題が自分の中のことにするか、自分の外のことにするかで意識というのは異なってきます。

例えば、テレビのニュースなどで災害や事件などを見ていながらそれは別の人で起きているのだからといって自分のことではないとどこか傍観しているという姿勢が自分の中に存在していると思います。

何を見ても何を聞いても、それはどこか自分と離れた遠くで起きていることだろうと思えてしまっていて別に自分には関係がないと思っているのだから情報が日々に入ってきてもまるで他人事のように感じているのです。

こういうのは国家でも会社などの組織でも同じことが起きていて、自分の国家や会社がピンチであるのにそれをどこか自分とは関係がないところで見ている自分があったり、何かの問題を解決するのは自分がやるのではなく誰かの仕事だと勘違いして自分のことになっていなかったりということがあるのです。

先延ばしや先送り、または知っているけれど何もしないし、気づいていてもそのままでも気にならないという感性はすべてこの当事者意識が欠けているということになるのです。

極端な言い方かもしれませんが、自分の人生のすべては自分に起きている全ての出来事であるのは自明の理です。情報というものも、どんなニュースも、どんな環境の変化も、全てはご縁として実際の自分の身に起きていることであるはずです。

先日ある組織の相談をのったときも、職員は園長へ不平不満ばかり言いますがあなたが園長だったらどうしますかと聞くとみんな黙ってしまいます。これも当事者意識が欠けていて、もしも自分が相手だったらもしも自分が相手の立場だったらと考えているのなら他人事ではなく自分自身がそれを解決する担い手なのだと気づくことができるはずなのです。

どこか相手任せにしてしまうのは、自分から任命されることが大変だから避けたいという気持ちがあるからではないでしょうか。もしも相手の出来事が自分に降りかかってきたとしたら面倒くさいや大変だ、やりたくないし巻き込まれたくないと、無難な方を選択している気持ちがあるからではないかとも感じるのです。

便利で楽を選べば得だという発想は苦しいだけで、大変だけど明日は我が身なのだから自分のことだと思って自他の別を持たず真摯に苦しみを選べば楽しむことができるように思います。そんなのがいいと思っている価値観が横行しているのは今の時代の特徴かもしれません。努力して精進したからこそ手に入る価値があるという昔のものは失われてきているかのようです。

しかし、どんなことも全部他人のせいにしていたら、では自分は何をやり遂げたのか、自分は何を遣ったのかということになってしまいます。最初から誰かがやっているのを手伝っているだけで自分がやっているわけではないのだからという姿勢そのものが、自分の持っている力をつかわないでいようと楽で便利な方を選んだという結果になっていくのです。

人生の当事者は自分であるということ。

そして自分の人生は自分で切り開くという強い情熱が、今のように甘い環境に恵まれた中ではとても大切なことのように思うのです。昔は私もそれが嫌で、わざと厳しい環境に身をおくことによって逃げ道を断っていましたが今は逆にこの甘えた環境の中でどれだけ自律することができるかということが大切だと実感しています。

それは自分の人生は誰かのものではなく、主人公は自分だとすることが当事者意識のように私には感じるからです。他人事なんてあるわけないと信じているからだろうと思います。

最初から妥協することが前提でやっているのでは、人は誰しも本気になれるはずがありません。全部の問題は自分を鍛えてくれる磨いてくれるとし、使命をいただいたのだから任命されたことで世界のために貢献しようと思う志が何よりも当事者意識を高めてくれると私は思います。

そしてそこには共感力、つまりは人類の存続に必要不可欠であった人類の得てきた至宝の智慧、つまり「繫がりや絆」を強くすることに関係しているように私には思えます。

今の時代は何が欠落してきているのか?、何が人類存続の危機なのか?

どうもそこには当事者意識という名の共感共生力の欠落、繋がりや絆の消失そのものが見え隠れしているように私には思えるのです。これは身近な組織の中にも侵食してきているのだから早急に気づいて早期に手を打たないといけません。

この辺は、まだまだ深めてみようと思います。

天与の才、天与の心

人はつい油断すると傲慢になって自分の存在に驕りが出てくるのものです。

例えば、自分の力というものでもそうであろうと思います。

もともと自分の力は自分でつけたものだと思っている人がほとんどですが、実際はその力は何かによって与えられたものです。例えば、両親によって身体が与えられ、たくさんのいのちをいただきながら維持し、天地自然の中で私たちは生命を持続させていくようにその自分の力というものも同じく天から与えられたものであると思うのです。

自分というものを私物化するところから、傲慢さというものはでてくるのだと思います。

その延長が国家であり、組織であり、資本主義の課題でもあろうとも思うのです。

もともと自分のものと思うのは、それが私的なもの、つまりは私物であるというところから問題が発生するのだと思います。これがもしも自分や自分の能力、才能はみんなのもの、自分は公器であること、自分のお役目は皆さんへ貢献することだと気づいていればいつまでも謙虚さを失わないようにも思うのです。

会社も自分の私物にし、仕事も自分の私物にし、時間も私物、気づきも私物、何でも私物化すればみんなと一緒に何かを行うずっと以前に自分勝手に自己中心的な人たちなのだからいつまでも同化せずにバラバラになってしまうと思うのです。

すべてはお借りしているもの、いつかはお返ししないといけないと正しく思っていたり、もしくはこれは天から頂いたものだから皆さんに活かさないといけない、または有難い能力を授けてくださったのだからお役目を果たそうと思う心にこそ、素直さや謙虚さが働くようにも思います。

それが一人はみんなのために、みんなは一人のためにの本質であろうと思います。
つまりはもともとは自分もみんなも個人の私物ではない、公物、みんなのものという意味です。

今の時代は、何でも自分のものかどうかということをはっきりさせる世の中のように思います。だからつい人は自分のものばかりにしようと躍起になっているようにも思います。しかしもともとは自分だけのものにしていいはずがないのです。

子ども達だって、子どもたちは天から与えられた大切な宝でもあります。そして自分の子どもではなく、子どもたちはいのちの中のみんなの子どもであるのです。だからどんな子どもも大人たちは育ちを見守っていく必要があるようにも私は思うのです。

そして話を戻しますが、この自分自身で生来からいただいたこの力も祈りの中で磨かれ授かったものですし、真摯に志を実践し、一期一会の真心の出逢いによって顕われてきた天与のものであろうと思います。

つまりその天与の自分、天与の才を如何に多くの人達の役立てていくか、それを思うとき私物としている自分を内省し、これでは宝の持ち腐れになってはいないかと姿勢を謙虚に見つめ直さなければならないのではないかと反省するのです。

この天与のものを活かすとは、天与のものであるという自覚によって生まれると思います。
いつも天の心を感じていたら、心が震えてきます。

忘れないためにも感謝の気持ちをカタチにしていきたいと思います。

体験の意味づけ

人は体験を共有することで思い出というものを分かち合うことができる。

思い出というものは、御互いが同体験をしそこで意味づけしたものこそが共に分かち合ったものになると私は思うのです。

毎日は流れていくものです、それは時がそうなっているように自分の知らないところで最終的な目的地に向かって流されていくともいえると思います。生まれれば、必ず死に向かって流されていくのと同じく最終的なゴールに向かって突き進んでいるのです。

よく流されてしまったと悔いている人もいますが、流されることが悪いことのように思っています。私はそうではなく、流されることではなく流れていなかったことが善くないのではないかと思うのです。

例えば、川に船を浮かべて旅をすれば川下に向かって船も進んでいくものです。そこで観えた景色やそこでの体験というものを意味づけし味わおうとはせずに船着き場へ到着してしまったらそこでの旅は何を学びそしてどうだったかということになるのです。

そこで一緒に旅をした仲間との思い出、そこで一緒に体験した素敵な思い出、苦しみもまた楽しみも悲しみも、どんな些細なことでもこの無二の旅を楽しみたいと決めていたならば大切なのはゴールすることではなくそのプロセスの方であったと誰でも気づくことができるのです。

そしてこれは体験の意味づけにこそあるように思うのです。

みんなで体験したことをどれだけ沢山の人達と意味づけしそれを共有するかで、思い出の質も量もかけがえのない美しいものにしていくことができるように思います。

日々の出来事ひとつひとつを気づき掘り下げ、それを流れながら意味づけるということこそが人生の点を線にして面にするような生き方であろうとも思うのです。

生き方というものは、如何に日々の出来事を大切に過ごしていくか、如何に流れることを味わうかに尽きると私には思えます。

そういう旅を一緒に味わえる人たち事がパートナーであり、朋であり仲間であろうと思います。

体験の意味づけをしつつ、これは本当は何かという連続の中で様々な真善美に気づいていこうと思います。

最幸の流され方を楽しんでいきたいと思います。

最幸の仲間 人間とは

人は一人で頑張ろうと無理をすると仲間を頼ろうとはしなくなるものです。

仲間を頼るというものは、一人でやらないということにも繋がっています。

頼れないというのは、信じる事が出来ないということの裏返しでもあるのです。困ったことがあれば、仲間に相談することや、悩んでいることがあれば仲間に吐露すること、苦しみがあれば分かち合うことではじめて人は信頼関係を築き上げていくことができるのです。

もちろん信頼には誠実さというものがあり、自分にも他人にも正直にいることが重要で自分自身への信頼度合いこそが他人への信頼度合いになっていきます。ですから、自分に克ことができている人や、自分を尊重している人、自分に素直な人ほど周囲から認めてもらえるのです。その逆に、自分を認めない人や、自分に甘い人、自分を蔑む人や、自己中心的な人、自分に厳しすぎる人はかえって周囲から信頼されにくくなってしまうのです。

これらはすべて一人で頑張るという悪循環から生まれてきているようにも私は思います。

責任というものは一人だけで取れるものなどほとんどありません。社会の一員、組織の一員、会社でも一員である以上、周囲を頼りにしながら任された使命を正しく成就実現していくのがその責であると思うからです。それが社会人の自立ということになるのだろうと思います。

自立ができずすぐに自分が負いこまれてしまう人は、自分が全部一人でやらなければならないと思うばかりで仲間に頼ろうとしない、助けを求めない人に多いような気がしています。つまりそんな過酷で孤独な状況になってまでも自分一人を自分一人でいつまでも責め続けているのです。これはもちろん、トップダウンの組織で育ってきた過去があったり、それを誰かにやられたりと、今の白黒はっきりさせる単眼的な社会の中でトラウマ的に自分がそれで傷ついてきたからだとも感じます。

しかしだからこそ、自分を変えてもっと仲間を信じる事や、もっと自分を見守る人を信じる事、もっと周囲の温かい真心に自分を委ねながら取り組むことなどを通して、決して自分から一人ぼっちにならないように常に意識していくことが自立にはとても大切なように思います。

それがチームの一員としての自覚、つまりは仲間を信じるという黄金のルールになるのです。

会社でも自分から仲間を頼っている人は、常に仲間に遠慮なく頼れますし、自分も頼りたいのだから日頃から頼られやすいように情報を共有したり、御互い一緒にやっているというメッセージを発信しあったり、些細なことを助けてもらっていたりと日頃から何かを頼みあっているままに働いています。

一人で頑張るよりも、仲間に頼る事の方が本来は勇気がいることだし素直であることのように思います。信じるという実践は、もっと仲間を信頼していく実践からのように思います。一人でできるようになることが自立ではなく、仲間をつくりそこに頼りあうことができるようになってはじめて自立であることのように思います。

遠慮なく頼れる関係が持てるよう本音や本心がでているフラットな絆を紡ぎながら、日々に「自分たちは最幸の仲間なんだ」ということを決して忘れないようにしていきたいと思います。

人類は、人間は仲間を創ることができてはじめて自立するのだと私は確信しました。

子ども達のためにも、仲間を信じることの尊さを自らの実践で伝えていきたいと思います。

苦を分かち合う

人は誰でも生きていれば苦しみというものを持っています。

一般的にはこの苦しみというものは善くないもののように捉えていることがほとんどです。しかし本来はこの苦しみというものからこそ、そこから沢山の素晴らしい出会いや思い出、そして幸せといった生きることの真の妙味を感じるキッカケになっているようにも思えるのです。

つまり昔から苦は楽の種とあるように、楽しみとは苦しみから生まれるように思うのです。
そして苦しみというものは一人で向き合っているときは苦しいだけになってしまいます。

人生では苦しみは避けて通れませんが、その苦しみを善いことへ転じる方法があります。

それは一人で苦しまないということです。

同じ苦しみを持った人に、人生の中で出逢えることは大変な奇蹟であろうと思います。

その苦しみをシェアし、分かち合えば、苦しみは半分に、歓びは倍になっていくように思うのです。これは先日、シンクロニシティがあり実感したのですが大変なことに取り組む時、どうしようもない現実に向き合うとき、そこに自分の中にも深い苦しみがあることに気づきます。

それはトラウマでもあり、自分が超えられない壁の一つで一人で悩んでいたものでもあったはずなのです。そういうものを解決するために、同じ苦しみを分かち合う人に出逢います。そして共に歩み進む中ではじめて苦しみの中にある真の楽しみ、そしてその中で回り逢えた歓びに幸せを実感することができるのです。

そう考えてみたら、苦しみというものを一人で抱え込むことはそういう楽しみや妙味を自らが避けてしまっていることになるのです。それこそが真の苦しみであり、苦しみがつらくなるときのように思います。

人はなぜ人生の中で、善きパートナーに出逢うのか。

それは同じ苦しみを分かち合うことができること、助け合うことができること、支え合うことができること、認め合うことができることのようにも感じるのです。そしてそれを共に乗り越える人を自らが選びご縁を引き寄せているようにも感じるのです。

不思議に満ちているのは、そこに苦があるからのように思います。
苦は決して悪い物ではなく、やはり偉大で尊いものだと実感することばかりです。

何かを誰かを一緒にやっている、それだけで苦しみも歓びも幸せと思えるのです。
こんな絶対的な境地があることを知れば、一人で生きることの無意味さを感じます。

やはりどんな偉人も天才も、一人では生きてはいけないのです。
それは幸せになれないからということなのです。

一緒に生きていくことの素晴らしさを、そして出会いの霊妙さを感じています。

これからも苦を活用し学びを楽しみ、一期一会の人生を味わう背中をもって未来の子ども達と苦を分かち合っていこうと思います。

希望

人は自分の与えられた環境を本人がどのように捉えるかによってその人生もまるで変わってくるように思います。

例えば、それがどのような状況であろうともその人がどう感じているかによっていくらでも最高でもあれば最低でもあるように変化してしまうからです。

そしてそこには2つの選択、希望と妥協というものがあるようにも思うのです。

何か理想を掲げて取り組む時、それを自分が先に諦めることは妥協を選択したともいえます。それは「どうせ無理」からはじまるあの言葉のことであり、人が希望を捨てる時に使う呪文のようなものです。

人はいつ負けてしまうのか、受け身になって自分らしさを失うかと言えばこの妥協に甘んじるときに負けたのです。人はどのようにして今まで自分を貫き人類を存続させてきたか、私はそれは希望だと思います。そして希望あるところには、必ず勇気というものがあります。人はできたかできないか、やれたかやれなかったかの前に、その選択に希望を失わなかったかということが何よりも大切だと思うのです。

いつだって希望は、私たちを心から支え、どんな試練にも立ち向かわせるパワーがあります。

どんな時も希望はまだあると信じて取り組んでいたら、そこに必ず未来が開けるキッカケが訪れるようにも思うのです。そこまで待てるかどうかというものが、信念ですがその信念にはやはり希望を失わないことではないかと思います。

人は何度も何度も挑戦するうちに、それでも失敗が続くとすぐに希望を諦めてしまうようになっていきます。特に同じようなことが起きそうなシーンが来たら、またかと思ってしまいその時に勝敗が決してしまうように思います。

私も昔のバレーボールの試合で何度も同じパターンになったときに、負けが入ったことがありました。その時こそ、ピンチをチャンスにと打開してチャレンジすることで希望を捨てなかったように思います。

今の日本の社会は失敗を嫌いますし、一度でもうまくいかないとすぐに切り捨てるような厳しさがあるように感じます。それはやはり希望を見失っているからではないかとも思うのです、自己肯定感とか何かを言う人は沢山いますが、私は今はそうは思っていません。

この国に必要なのは「希望」ではないか、子ども達に本当に必要なのはやはり希望だと。
私はそう確信するのです。

その希望をどのように育てるか、希望を与えるかは、自らの生き方で示すしかありません。道のりは長く、そして果てしないのですが、正義のヒーローは希望とともにこの心にいると信じて取り組んでいきたいと思います。

 

心の余裕

心の余裕というものがあります。

人は心に余裕がなければ相手のことや周囲のことを受け容れることはできないように思います。自分で自分の心をいっぱいにしてしまったり、目先のことにいちいち心を奪われてしまい余裕を失ってしまっていたら大切なことは観えなくなるように思うからです。

本来、正しいことを行いたいといくら思っていてもそれは心に自問しながら歩んでいくものでもあるのだから心の中にスペースがなければ判断も歪んでしまっていくものです。

特にコンサルティングなどの仕事は、自分の心に余裕がなければできることではありません。どんな兆候も見逃さず、全体から直観的に布置を覚り、玲瓏冷静な心眼が動いていなければ物事も見通すことはできません。

余裕とはどこから失われていくのかは明確で、頭でっかちに考え出すところから始まります。

感じる事よりも、頭でばかりを働かせて思考が次第に澱めば事物全体の悠大な流れなども見通すことができなくなるのです。

心の余裕はいつも心が感じられる状態でいることを言いますが、そこには心を働かせ続ける実践というものが常に必要なのです。それは言い換えれば心の眼や心の耳、心の感覚というものを日々に磨き続けていくということだと思います。

感じる力というものは、心で決めたことを実行実践している中ではじめて味わえるものです。そういうものを避けて通ろうと頭で計算したり計画してもそこには仮想の世界が広がるのみです。

余裕がある時は、この時の順番も異なるように思います。まずは感じて、そのあとに頭で考えるということなのでしょうが、これもバランスでこの心と頭は同時であればあるほどいいように思います。

しかし一般的には心は頭と違って生もので気づきやすく傷つきやすいのだから先に心の方の動きが痛みを怖がり鈍っていくものです。そういう時こそ、心がいつも鈍らないように思いきった行動をして頭で考えることを善い意味で裏切る「勇気」が必要であるように思います。

感じる力と考える力の間には、恐れや不安を乗り越える「勇気」というものが必用であるように思います。そしてこの勇気は正義を信じることと、心の余裕から湧き出てくるようにも感じるのです。

誰でも等しくこの強さと優しさというものに向き合うものなのでしょうが、私自身も実践を学んでいきたいと思います。

視点と観点

野生動物のことを調べていたらモノゴトの見方に、3つの視点があるということがそこに書かれてあった。

その3つとは、まず鳥の目、次に虫の目、そして魚の目ということです。

鳥の目とは、鳥瞰的に物を観るではないですが上から全体を把握するときに使っていく目のことです。仕事でも、全体から考えてから部分に着手する方が正確に本質を捉えた行動が取れるようになってきます。

少し離れて物事を観るときも、このように全体を通して把握するのです。

そして次に、虫の目というものは狭い範囲で活動するためその部分を徹底的に細部まで個別に丁寧に認識し把握していくときに使っていく目のことです。仕事では、目先のこの業務から不健全なことはないか、正しくできているかなどを細かく分析し同じように本質を捉えていきます。

そして最後の魚の目ですが、これは川の流れを読むように目には移らない繫がりの中で大きく方向性や方針を把握していくときに使っていく目のことです。仕事では、今までとこれからだけではなくトータルで観える流れを認識しつつ優先順位を明確にして本質を捉えていくというものです。

他にも創ろうとすれば、ミミズの目であったり、花の目、樹の目などもいくらでも出てきそうなものですがこうやって自然界の目というものを理解することができるのです。

私たちはつい自分の観える世界だけの目でしか、物事を判断しようとはしません。
またそこに実際に起きている偉大な側面というものを観落とし、焦ってしまうのだろうと思います。

しかし色々な目を持てることで、多面的に多角的に暗黙知的に認識することができれば一石二鳥というか、一つの経験や体験から数多くの収穫を得るようにも思えるのです。

収穫とは人間の目だけでみたものだけが収穫ではありません、自然界全体で観えば一体何をもって収穫というかは、その観る目次第であろうとも私は思うのです。例えば、捕食する方でばかりの目で生き物を認識していますが、逆に捕食される側にたってみるとどのように世界が映るのかはまたその見え方によっても異なるのです。

植物が自分ある程度、動物や虫たちに食べられることによって他の生物から身を守るという方法もありますし、共生といっても思い切った共生を実体験から得ているのだろうと思えるのです。全部食べられれば終わりですが、あえて全部は食べないことをなぜ知っているのか、そこに自然への信頼が見て取れるようです。

数々の目を学ぶのも、自然の中に入る事で実感することができるのです。

今後も、自分の目に惑わされないように様々な視点を観点を磨いていこうと思います。

 

対話

人は対話をするとき、自分との対話もあるけれど周囲との対話というものもあります。

私はもともと大切なことは安易には語らずに、心に秘めているタイプのようで誤解されることが多いタイプのように思います。大切なことは、大切だからこそ言葉にしたくないのかもしれませんがそれを聴いていない人を不安にさせてしまうようです。

もともと対話というのは、自他の間でお互いを感じ合う中で通じ合ってはじめて成り立つものです。相手がどのように感じているのだろうかと思っても、その信念の強さや生き方の芯の部分は一緒に行動して実感しなくては伝わらないように思います。

言葉でいくら説明しても、近くにいたり共に何かを真剣に取り組んでいる中でこそ気づくことのように思うのです。

人はその一部分だけを観ては全体を理解することはできません。
またそうではなく一部分を観れば、全体を理解することもできるものです。

しかし対話というのは、積み重ねて折り重なっていく中で何層にも堆積したもので真にできる事のように思います。言い換えれば、時間がかかってしまうのです。

時間をかけて年月を積み重ねていく中で、はじめて思想は顕現していくように思います。

人はみんな自分が観ている世界を通して相手を理解しているからこそ、きっと何かあるのだろうと思いやりをもっていつも接していたいと思います。私には分からないことばかりですが、自分を信じて貫いていたら必ず周囲は分かってくれるのではないかと感じています。

子どものように無邪気に色々なことが体験でき、その全てに求めたものが顕われてくるのを実感する日々です。悩みも深いですが、ご縁あるすべてが自然への学び転換されているのを覚えてつながりや絆の尊さを味わえます。

論語に、徳は孤ならずといいますが、何が徳なのか、どのような境地がそうなのか、振り返ればいつも一人ではないのは感じる事ですが、分かってもらおうとするよりも分からない自分の未熟を恥じて、真摯に初心を貫徹していきたいと思います。

震災後に気づいた復興とは、絆とか、繋がりとか、共生とか、確かにそれを学ぶための自然農でもあったはずです。

対話は自分というものを丸ごと受け容れることができてはじめて成り立つのかもしれません。
納得していないままになってそのままにしてきたものとも向き合いたいと思います。

信頼するということは何か、今はそれを学んでいるように思います。

好奇心は魂の道しるべ

心が遊べばどんなことへも好奇心を抱き、様々な「なぜだろう?」という物語を楽しめます。

この「なぜだろう?」と永遠に探求し続ける事ができる人は、必ずいつの日か真理に到達してその人生の妙味や意味を深く味わって楽しむことができます。この好奇心があればどんなことがあってもその種が芽をだし生長していくように、ぐんぐん伸びていくのです。

私の体験でもそうですが、今でも自分を駆り立てている力の泉は無限の好奇心です。

このままやっていたらどうなるのだろう?、この先はどんなふうになるのだろう?、これはどうしてこうなるのだろう?と、いつも心は自由に遊んでいてそこには悪意もなく邪気もないのです。そしてそれが子どもであると思うのです。

人にはその人にしかない興味や関心というものが必ずあります。

その人がもっとも興味関心があるところにその好奇心の種はしっかりと眠っているのです。

ひとたび何かのキッカケ、その出会いによってその周囲の土が潤ってきたり、光がさしたり、風が吹いたり、その季節が訪れたなら、好奇心という名の魂が次第に恐怖や不安よりも冒険したいという気持ちや、挑戦したいという気持ち、オモシロイという気持ちに転じて後押しし、勇気と遊び心が同時に沸々と湧き上がってくるのです。

つまり子どもは何にでも興味を持つように観えますが、私からすればそうではなく自分が興味関心があるものを探しているのです。

この好奇心という名の魂は自分の人生で求めているもの、今回の生で望んでいる魂の問いかけに応えようと自らが様々なものに興味関心を持つことでそれを探し当てようとしているように私には観えます。

外の世界は目に見ているところは複雑怪奇にできていて不思議なことばかりに心を奪われてしまいそうになりますが、自分の好奇心に素直になって委ねていたら次第に心が澄んできてその先に魂の道しるべが顕われ、そして自分の本来の居場所ということが自明するように思います。

好奇心は真実を求めていくための大切な魂の道しるべ。

これからもワクワクドキドキしていきながら、自らのビジョンを楽しく描いていきたいと思います。