自燃力の本質

自燃力ということについて自分なりに深めてみます。

もともと自燃というのは、自らが自らのいのちを自ずから発揮させていき代謝することです。
つまりは自分の力を使って何かを行うということに他なりません。

それは自らの持って生まれてきたいのちや才能、そのアイデアや体験すべてを活かして世の中のために貢献するために行う力ということです。

そしてこの自燃というのは、いつも誰かに言われてから動いていたり自分が別にやりたいわけでもなく楽しいとも思わなくても動くのとは違います。人は自分がそれを他人から言われるからやるのか、もしくは自分の天命がどうなっているのかその天命に恥じないように日々に自分を遣い切って生きたいと思っているのかでその自分の活かし方が異なってくるように思います。

仕方がなくてもやるというのは、その人生の主体は外因によって遣りたくもないこと、思い通りにはならないことに対する不平や不満を抱くことになるのです。しかしよくよくじっくり観照してみると本当は自分の思い通りいかなくても自分が都合よくやりたいと思えなくもこれが何につながっているのか、そしてこれから何を自分が学んでいるのか、そしてこれはきっと自分の使命に直結していることを天が与えてくださっているのだと絶対受身になることで絶対主体といった自発的自己発揮、つまりは自燃をしていくことができるように思うのです。

私の言う自燃は発酵と同じ、そしてこの発酵の本質は自ら腐らないということです。ここでの腐るのはいつかは何かで燃えるだろうを期待して自分からいのちを今に使わず誰かに何かに期待するという生き方。どうせ燃えるなら自分から燃えたい、いのちを燃やしたいと自分から燃えるといった自燃ではないからということを言っています。

自燃というのは、自らそれをやろうとしているか、自らそれをやりたいか、自らそれを楽しんでいるか、この楽しむというのはどこか楽をしたいからやるのではなく、心底大変でも自分が楽しい方を選択し続けていく、そして全身全霊で打ち込み自分の可能性を広げお役に立てることを歓んでいくことに他なりません。

もちろん少しでも流されたり受け身になれば、なんでこんなに仕事が多いのだろうとか本当は自分がこういうことがしたくないとか言い訳をしたくなるものでしょうが実際は仕事が多いのはそれだけお役に立てるチャンスがある、そしてしたくないのはまだまだ行動をしていく余地があると苦しみになるものを楽しみに換えていくことで発酵を続けることができるのです。物は考え方と観方で決まるということならやはり情熱と熱意で自燃発酵させる方を選ぶかどうかが重要だと思うのです。

そして私から観れば正確には結果や成果というものは、その発酵した代謝物のことです。
いのちの活動の痕跡や軌跡、形跡のことです。

どのようにそのプロセスを楽しんだか、どのように腐らずにワクワクドキドキ取り組んだか、その代謝物として成果がぐんぐんと顕われていきます。それは発酵にだけによらず発達も等しく、そのものが一生懸命に生きて楽しんだ形跡には確かないのちの煌めきの光が残存するからです。

人間の幸せというものは、別に世間のいうような誰かの評価や豊富な財産、名誉などといったもので得られるとは思えません。そうではなく、本来の自分の持って生まれたその使命やいのちを存分に御役に立て燃え尽きたときに周囲にご苦労様といってもらえることのようにも思うのです。

何かの御役に立つというのは共生するということですが、それが活きる本質のように思います。自燃するということは、自分で生きるということ、自立するということは、自分で立つということ、こういう当たり前のことですがネガティブに捉えるの人も多いのですが本来はそうではなくどれも自然の姿であろうと思います。

教育や今の社会に刷り込まれている人たちがたくさんいるからこそ、自分たちの存在価値を感じています。自燃力を存分に発揮し、子ども達のためにしっかりとブクブクシュワシュワ発酵を楽しんでいきたいと思います。