譲るとは役割交代

種を観察していく中で「譲る」ということについて見直しています。

もともと譲り合いや譲るというのは、自分を我慢してでも他の人に譲るということを譲るのイメージとして刷り込まれているように思います。幼いときから、譲りなさいと言われたことは自分のことは差し置いてでも誰かのために我慢するようにと使われることが多かったように思います。

しかし本来の譲るとはそういう意味ではないのではないかと思うのです。

もともと自然をよく観てみると自然は譲ることを意図的にするのではなく、自分の生を全うして役割を交代することを譲るとしているように感じるのです。

季節のめぐりにあわせて、それぞれは一生懸命に自分のいのちを生き抜いていきます。そこには遠慮が在ったり手を抜いたり、何かに合わせて我慢したりするのではなく一生懸命に自分の使命に生きぬくのです。

それが途中で無念にも最期まで生きられなかったとして、自然に淘汰することになったとしてもそれは他のものに思いやりから譲ったのではなくただいのちの役割を代わってもらったとしているのではないかと思うのです。種どりをしていく中で発見したのは、あれだけ一度に多くの種がなぜ必要なのかということ、あれだけたくさんのいのちがなぜ同時に目覚めてそして一部のみが生き残るかということを知覚するのです。果たして今の人間社会が言うように、全部のいのちを残すことが本当に思いやりなのかと疑問に思うのです。

正しく謙虚に素直にものごとを観るのなら、大事なのはいのちへの在り方ではないかと。つまり本来のいのちは、自分の生を何がなんでもと全身全霊一心不乱に生き切ることで周囲と共生し、そしてそのいのちが全うされるときにこそ譲るになるということ。

今、足元の自然の畑でも、秋から冬に向け今まで生きていたいのちたちが種をつくりその分、体は乾涸びてきて隣にいるいのちが新しくこれから生きはじめていくのです。これは別に思いやりでそうしたのではなく、自然に一生懸命に生き切ることこそが真の思いやりであり譲り合いであることを証明しているのが自然ということなのです。

今はチームワークもそうですが、無理に何かと協調しようや譲り合おうなどとするのはおかしなことのように思います。それはかなり自分都合になっているのではないかとも思うのです。誰かを思うために力を抜くことは本当に優しさであるのかということです。

本来は、自分がやるべきことを一生懸命に全身全霊で遣り切ること、自分のすべきこと、そのいのちを遠慮なく発揮していくこと、それを無理に周りとあわせようとするのではなくそういう自分を生き切るということの中にこそ合うと譲るがあるように思うのです。

そしてそれは譲り合いという、万物のいのちのために正しく役割交代をするということです。

自分だけでできないことは役割を交代して永続していのちのバトンタッチをして種を遺していく。その役割交代していくから今の自分たちが生き残っている。先祖がそのように生きたからこそ、今の私たちがこの時代を生きていられ、そして今の私たちが同じく生き切ることではじめて子ども達に譲ることができる。

そうやって一生懸命に生き切った後には、必ず種が残り、その種からまた新たに広がっていくということなのです。種は蒔かれるときにこそ、そこに新たないのちがはじまり、種は生まれるときにこそ役割交代がある。

自然の安堵を安心を実感し、天命や使命の有難さを憶えます。
種をテーマにしてきたこの一年、いよいよ残りは半月ほど。

心に刻んでいこうと思います。
そして世の中にカタチとして出す日を天虚に待とうと思います。