徳積BAFE~場の創造~

場を深めていると、その場の中に人も場になるという性質を知ることができます。その人がいるからそこに行く、その人が居ればなぜか別の効果が産まれる。つまり人が場になっていることが分かります。

例えば、私たちの会社にも感謝を磨くことを人生のテーマにしている女性の方がいます。この方がオンラインでも打ち合わせに参加されれば穏やかで安らかな場が生まれます。これはみんなそう感じていて、天然でオープン、自然体で周りを尊敬する姿勢がこの場を創るということでしょう。

他にも、一緒にお仕事をするある先生がその場にいるとみんなの議論が深く大きくなり志が共有され高揚感ができモチベーションが高まります。その人がいるだけで、世の中を変えていけるような自信と学ぶ楽しさを味わえるのです。その人がいるかいないかだけで学ぶ喜びが変わっていきますからこれもまた人が場を創っている証拠です。

場とは何か、これは大変奥深い問いです。

私は「場道家」を名乗り、場を研究して極めていこうとしていますが深めても深めてもまだまだ真髄は奥底に沈んでいます。それはいのちの存在そのものと正対することであり、宇宙という空間に触れていくということに近いからです。

そして人は心と向き合うとき、居場所というものの存在の大きさに出会います。自分の居場所とは、還る場所であり、帰る場所だからです。みんな安心したいと思っているのは、その居場所を思い出したいと願っているようにも思います。

懐かしいふるさとの存在によって私たちは、活動を揺るがないものにし、自分の生を全うする自信を得ますからこの「居場所」はとても重要なのです。

子どもたちに居場所を創るためにも今度の徳積BAFEは、実践研究の大きな役割を果たしてくれると信じています。私もカフェに参入しますが、誰も見たことのないようなものになると思います。子どもの憧れる生き方、働き方を追求していきたいと思います。

無双庭園の伝承

聴福庵のメビウスガーデン(無双庭園)が無事に完成しました。日当たりもよく、水はけもいい、そして風通しもよく、居心地の善い、新たな循環環境の徳を可視化する「場」ができたことが有難く思います。

まずこのつくりは、自然の雨をじっくり時間をかけて浸透するようにらせん状になっています。それに野菜や花に余裕を持たせた適当な空間を用意し山のように斜面によって全体に陽が当たるように設計しています。水も、日ごろは土から上がってくる水と雨で降ってくる水が行き来できるように水はけを考えて土を盛り、日照りのきつい時の水やりは浅井戸水を汲み上げて上から流せばらせん状に最下層のビオトープまで流れていきます。

よくパーマカルチャーのスパイラルロックガーデンと同じではないかと思われますが見た目は参考にしていますが、その思想は日本人である私が手掛けていますから同じところと異なるところがあります。

そもそもこのパーマカルチャーという言葉は、「パーマネント(永続的な)」+「アグリカルチャー(農業)」+「カルチャー(文化)」を合成した造語で1970年代のオーストラリアで環境問題や農業に取り組んでいたビル・モリソンとデビッド・ホルムグレンが体系化したものです。

具体的には、3つの倫理である、「地球に対する配慮」「人々に対する配慮」「余剰物を分配する」というものがあります。これを実践する12の原則として下記があります。

1、観察と相互作用 2、エネルギーの獲得と貯蔵 3、収穫せよ 4、自律とフィードバックの活用 5、再生可能な資源やサービスの利用と評価 6、ゴミを生み出さない 7、パターンから詳細までのデザイン 8、分離よりも統合 9、ゆっくり、小さな解決を 10、多様性の活用と尊重 11、接点の活用と辺境の評価 12、変化に対しての創造的な利用と対応

これらをデザインした暮らしを実現していくのがパーマカルチャーではないかと感じます。私はちゃんとした本も読んでなく、触れてもいないので実際にはその奥深さはわかりませんが私のライフワークとライトワークと共通しているところも多く、共感しています。

話がだいぶ逸れましたが、似ているところは以上の原理原則ですが異なるところもあります。それは日本人の文化を主軸に、この3つの原則と別に先祖が喜ぶかという基準をを持っているところです。私が古民家甦生をするのも、日本人の誇りを子どもたちに譲っていくためでもあります。

日本の文化を活用して取り組んだかどうかは、智慧の伝承につながっています。今回の無双庭園は、先人たちからの智慧を存分に取り入れて造園されています。例えば、炭や竹、瓦や井戸、発酵と伝統をデザインしています。

そもそも目的が異なれば、見た目の手段は同じであってもその本質は異なるものです。似て非なるものとは、その目的を確かめれば異なるところを見極めることができます。しかしその目的や理想のスケールによって、手段の意味合いも異なりますから奥深さがどこにもあるのです。

大切なのは、一体何の目的でそれをやろうとしたかということを理解し道に入ることだと私は思います。

時間をかけてじっくりと持続してきたものの御蔭で私は今あります。まさに徳の成果でしょう。その徳を譲り渡してそのままに永続していけるように場を守るのは今を生きるものたちの本来の使命です。

これからここに作物のめぐりがはじまりますから、この数年でできた新たな徳を可視化し、子どもたちの未来に確かな場を継承していきたいと思います。

智慧の伝承~人類の誇りを守る~

知識と知恵という言葉があります。これは、識と恵という言葉で成り立っています。別の漢字では、智慧とも書きます。これらは実際にはどのようなものかということを深く考えてみると、同じ響きの言葉でもまったく意味が異なることが分かります。

そもそも識という字は、言葉を縦横に織りなしながらその意味を理解するということ。そして、恵という字の成り立ちは糸巻きから新しい意味が転じていくということ。これはどちらも織物がカタチになって漢字になっているものです。そして知るという字は、矢と口ですが神意のことを指します。

つまりは神様の織りなす意味を理解し、神様からの意図を転じて解釈する。つまり知識と知恵とは、どちらも神意を悟るということです。不思議ですが、学校で知識や知恵を学ぶというのは常に神意を悟るための学問を実践するということになります。

現代は、知識は単なる暗記の材料になり、コンピューターの出現によって知恵も知識の集合体のように評されることが増えてきて、先人たちが長い年月で築き上げた知識や知恵が伝承されることがなくなってきました。世界が広がっていくのはいいのですが、その分、世界は浅くなってきていないか、今の暮らしに知識と知恵の深みがないことが残念に思います。

そういう私も、人生の半分以上はその知識と知恵の詰め込み教育で育ってきました。知識は武器であり、情報化社会においては知識こそが経済を発展させる道具であると信じ込んできました。現在、戦争も情報戦といってむかしのように直接的な殺戮を行わず情報によって追い込んで勝敗を決めていきます。

本来の人類の目的のために知識と知恵を使わずに、ただの手段として知識と知恵を使おうとする。これでは持続可能な社會など実現することは不可能であることは、誰が考えてもわかります。目くらましにあっているだけで、刷り込みを取り払えば私たちは先人たちの知識と知恵の伝承である本来の智慧によって神様に活かされてきた事実に直面するのです。

この世でいくら知識や知恵があっても生きていくことはできません。私たちは、大宇宙の大自然から偉大な恩恵をいただきその智慧によって活かされます。この身体の細胞の一つ一つ、そして絶妙にバランスを保ち存在しているあらゆる存在、そして関係性やつながり、そのどれもが智慧に満ちています。

その智慧を学ぶことは、大宇宙の大自然の法則に学ぶことであり自分をその存在に少しでも近づけていこうとするのです。つまり神人合一ともいうように、私たちは先人たちの大いなる命の集合体で集積体、まさにその歴史の伝承者ですからそれをそのままに活かし生きることが智慧になるのです。

智慧とは何か、つまりはあるがままの自分に回帰することです。それはあるがままであることが理解できるということ、ありのままで活かしあう真理に生きるということ。これができてはじめて智と慧は和して日本人になるのです。

日本人を創るということは、日本人になるということです。それは日本人の誇りを大切にして日本人のままでいるということです。私は、特別なことをしていることではなく日本人の原点を探り日本人の誇りを保ち子孫にそれをそのままに伝承しようとしているのです。

これを徳ともいうのです。

私は一緒に10年以上、パートナーとして取り組んでいる存在がいてその方は智慧を学びその智慧の真理を伝承するために私塾をひらいています。なぜ私が一緒にと知識と知恵を重ねて考えてみると、それは私が子どもたちのために智慧を実践し覚醒させようとしていたからだと今では感じます。

私が智慧にこだわったのは、すべて子どもたちのためですがこれは日本人のためでもあるし世界の人々のためでもあるし、未来の人たちのためでもあります。人類は大きな分岐点にきていますが、文化は文明の手段であってはならないのです。文化は目的そのものですから日本人の文化を守ることは、日本人の目的を守ることです。文明という手段に翻弄されて本末転倒してはならないのです。

引き続き、私の人生の集大成は徳と決めました。

神意に従って、やるべきことに専念していきたいと思います。

徳積伝承

私たちは今の時代を生きていますが、今の時代があるのは先人たちの徳に因るものです。先人の徳を活用することができるのは、今を生きている私たちがその証拠の中で存在するからです。

例えば、発明品の徳であれば私たちが電気が使えるのも、ITがあるのも、衣食住が整っているのもまた先人たちの苦労の観察や発見の上に生み出されたものです。それを当たり前に使っていますが、これは先人の徳が譲られ私たちが活用して生きています。

もしも電気がなくなれば、ITがなくなればどうなるでしょうか。その有難味に気づいたときに私たちは徳を感じます。当たり前ではない存在こそが徳の本体ですから、私たちは感謝を磨くことによってその感性が鈍らないようにしてきたのです。それが文化であり、文明を支えた養分であるのは間違いありません。

そしてこの徳は、当たり前すぎるから気づかれないものです。なぜ徳が観えなくなってきたのか、それは便利で人間にとって快適になりすぎてきたからです。便利に快適になればなるほどに徳は観えなくなっていきます。

逆に、不便で不快であればあるほどに実はそこに徳の存在が働いていたことに気づくのです。私が取り組んでいる、古民家での暮らしや自然農、その他、炭、伝統食、それらは徳を感じるための一つの仕組みです。その上で、ブロックチェーンやサウナを活用するのは、それを具体的な思想や哲学で料理したものを体験させて可視化するためです。

先ほどの文明の養分である文化が失われていくと人類はどうなるか。陰の功労者や縁の下の力持ちの価値がわからなくなれば、人間社會はどうなっていくか。少し考えただけでも破滅に向かうことが容易に想像できます。

みんな目立ちたがるようになり、承認欲求ばかりを求め、派手で裕福な富ばかりを求めていきますがそのものを支えている存在は一体どういったものかを考え直す必要があります。

先日、テレワークをして気づいたとある社員が言っていましたが多くの方々に支えられて在宅ができるという事実。これはその方々の徳をいただいて、暮らしを営んでいけているという証拠でもあります。

徳はとても身近にあるもので、当たり前すぎるから観えないだけで常に暮らしの根本を支えるものなのです。

私が徳にこだわるのもまた、徳が子どもたちに譲られることを知っているからでありその徳を使い切るのではなくそれを積み重ねていくことに偉大な意味を感じているからです。見返りのないもの、与え続けるだけのもの、そういう存在こそ見守る存在であり、私がもっとも目指す生き方です。

一期一会の日々を味わい、子どもたちに徳積を伝承していきたいと思います。

懐かしい未来の覚悟

突然変なことを書きますが、人間には「時」という概念があります。そしてその時を中心に過去と未来という常識を持っています。過去と未来は、同じ方向にのみ進んでおりタイムマシンなどがなければ過去に戻ることはできません。そして時間が逆さに戻っていくこともありません。

私たちは時に縛られ、時を常識として認識し、時の中で自我というものを認識するのです。それでは、他の生き物たちはどうなのでしょう。この時という概念を持っているのか、植物や昆虫たち、菌に至るまで彼らのいのちは過去や未来というものをどのように認識しているのか。そもそもの時間の経過というものに囚われてしまっていたら、本当のものを知覚することは難しいように感じます。

懐かしい未来という言葉があります。これは過去と未来を同時に語るものです。本来、過去のことは歴史といい、未来のことは予言といいます。しかし、この過去と未来とをいくらそこで知識で認識しても、今ということの本当の事実を直観することはできているのでしょうか。

私たちは今を生きていて、過去を生きるのではなく未来を生きるのでもない。だとしたら、この今という現実が未来であり過去であるのなら懐かしい未来とは変わることのない普遍的な存在として生成していこうとも言えるのです。

いつまでも変わらないもの、人類がずっと地球の中で自然と一体になってきた暮らし。その美しい光景の一つになっていることは時を忘れるときにこそ思い出すものです。

本来、時空とは無のことであり、私たちは無であることで時の中に入ります。時の本来の意味は、無であり空です。懐かしい未来とは、その無であり空である暮らしの中に存在する今を生きることです。

今を生きる暮らしとは、悠久の営みの中で廻るいのちになることです。

本来のあるべき生き方を思い出すには、常識を超えて予言に生きるしかありません。それは予言そのものになるように今を生きる、懐かしいままに今を生きる、未来と過去を融合させた永遠の今になるとも言えます。

シフトとは、それだけ今を昇華し尽くすときにこそ発生するものです。私も今、天命に生きようとしていますが様々な時の縛りや刷り込みに縛られなかなか自分を全開放することができません。

子どもたちの懐かしい未来のために、勇気を出して素直に正直にあるがまま、ありのままに直観を生きていきたいと思います。

カグヤのコロナシフト

人は立ち止まることで、色々なことを見つめ直すことができます。それは止ることで次の動くことが観えてくるからです。

私たちはコロナの御蔭で、今までの生き方や歩き方を見つめ直す機会を得ています。具体的には、流されていた自分、常識だからと続けていた自分、そういうものだと思い込んでいた自分、それまでの自分自身の意識との対話を行うということです。

その上で、何をやめてしまうか、そして何をはじめるかを決めることが新しい生き方をしていくということになるのでしょう。

そもそも人生の初心や目的は、何かがあったからと優先順位が下がることはありません。目的地までのプロセスは、その時々で変化はありますが目的地が変わるというのは最初から道を歩んでいないということになります。

人は、道を歩むことで人生を創造していきますからまずは道に入る必要はあるのは当然です。今回のコロナにおけるシフトは、道が別のものに代わったのではなくそれまでの歩み方を換えていこうという転換が起きているということです。

それまでの当たり前を疑い、新しい常識を生きていこうとする。いわば、目的に対しての歩み方との折り合いをつけるという具合でしょうか。コロナの前に無理に戻すのをやめて、コロナ後のもっと素晴らしい世の中になるように創意工夫と試行錯誤をしていこうということです。

つまりは、目的や初心を貫くために別の方法でやってみようという実験をするということです。こうでなければならないという発想を捨て、もっと自由に開放していこうとする。その上で、自然との調和や、社會の協調、徳との和合など、ステージを一つ上げて意識改革を進めようということでしょう。

カグヤは子ども第一義の理念は不動ですが、その上で生き方は働き方の一致はより高度な視座で取り組んでみようと思っています。今まで以上に、理念経営の舵取りは明確になりますが面白く豊かに実験を楽しんでみたいと思います。

コロナ後の生き方

新型コロナウイルス感染の経過が日々に報道され、いよいよ全国的に解除に向かっていきます。この後、第二波、第三波が来るのではないかと心配されていますが本当に心配すべきはこの教訓から何を得たかということをもっと真摯に受け取り今と自分を改善して未来を変えていくことだと私は思います。

人は機会を通して学ぶ人と、機会を得ても一向に学ばない人がいます。そして学んで変わる人と、学ぶふりをして変わらない人がいます。大切なことは、機会はなぜ発生したのかというその意味や本質を深めることです。

この機会は、確かな学ぶチャンスであり、そして変わるための切っ掛けを与えてもらったのです。こういう時は、過去に同様に感染症と対峙して日々を刷新し続けた偉人たちの言葉に励まされます。

英国の看護師、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親と称されたフローレンス・ナイチンゲールは変化を常に見据えていました。

「あなた方は進歩し続けない限りは退歩していることになるのです。目的を高く掲げなさい。」

「物事を始めるチャンスを、私は逃さない。たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある。」

「人生を生きるには、修練が必要です。「まずまずの目的、過ち多き行為、ぐらぐらしている意志」のうちに人生をうやむやに過ごしてはなりません。」

「看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑽を積んでいく必要がある。」

「何かに対して「使命」を感じるとはどういうことであろうか?それは何が「正しく」何が「最善」であるかという、あなた自身がもっている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら「指摘される」からするというのではない、ということではなかろうか。これが「熱中するということ」であり、自分の使命を全うするためには、誰もがもっていなければならないものなのである。」

如何に、真摯に変化をし続けるか、それが学ぶことであり改善することであると語りかけてきます。また学ぶということの本質にはこのような言葉が遺っています。

「経験をもたらすのは観察だけなのである。」

よく観察するものは、そのもののプロセスの意味から深く学ぶものです。私も観察オタクですが、じっと直視してそのものが何のメッセージを届けようとしたのか、そしてどう受け取ることがもっともその出来事から学ぶことになるのかを心がけています。

現実には、時は過ぎ去っていきますがその瞬間瞬間に決断を連続するのが人生です。選ばないという生き方は、単に何も考えないことではなく、無限の選択肢を常に考えつつも来たものを素直に受け止めてそれを活かすという一期一会にご縁を生きる覚悟を持っているのです。

中国の故事にある「木鶏」のように生きることは、簡単ではないからこそ常に自分自身と正対し問答を通して平常心を磨いていく必要があるように私は思います。

コロナ後の変化は、この先の会社や人生を左右する大きな決断ですがフローレンス・ナイチンゲールの「進歩のない組織で持ちこたえたものはない。」という言葉に奮い立たされるようにも思います。

最後に、日本を代表する感染症と対峙してきた偉人、野口英世の言葉で締めくくります。

「人は能力だけでは、この世に立つことはできない。たとえ、立身しても、機械と同様だ。人は能力と共に、徳を持つことが必要である。」

コロナ後の、私の生き方は「徳」に集中すること。

子どもたちのために、覚悟を決めて熱中していきたいと思います。

暮らしフルネスの生き方

新型コロナウイルスのことで、毎日ひっきりなしに報道されますがコロナ後をどうするかということもそれぞれの覚者が発信していくことになるだろうと思います。そもそも私はコロナ後というのは人類の意識の問題であって、実際に地球規模で事実として発生している事柄を直視することで本来のあるべき姿を見直すことが重要だと感じています。

感染症というものは、人類が好き勝手に自然との距離を壊し、都市化とグローバル化によって人口密度を高め過ぎたことによって引き起こされるものです。人口が80億を超え、都市の隅々に無理やり詰め込むかのような生活を続ければどんな生きものであっても病気になります。

養鶏場や養豚場で、抗生物質入りの食事を食べさせながら働かせているのをみてはまさか人間が同じようになっているとは思わないかもしれませんが事実、私たちは似たような環境下によって都市部で生活しているのです。添加物入りの食事や、薬局による薬漬け、そして日常的に電磁波に晒され、満員電車などの高ストレス、運動不足、空気汚染などとても本来の自然の中に暮らしてきた人類の元々の環境とはかけ離れてしまっているのも忘れてしまったのです。

コロナの御蔭で、私は自然との距離がまた近くなり、暮らしフルネスの人生を味わう時間を持つことができています。ある意味で、オンライン化されたことでこの人間らしい本来の暮らしを維持しながら、人間社會での活動も共に発展させていくことができます。

コロナで気づいた人たちは、暮らしが変わったはずです。その暮らしを如何に充実させながら、地球も喜び、人類も喜び、生き物たちが喜ぶ生き方をするか。ここが人類の未来の分水嶺であることは間違いありません。

しかし事実をみせないかのように、連日コロナ叩きをし、世論も感染者を差別し、責任転嫁する相手を探し、批判や否定ばかりで目を背けるような動きがあるのも事実です。誰にとっていったい都合が悪いからそうするのか、コロナのせいではなく、コロナの御蔭になぜならないのか。

もっと視野を広げ、視座を高め、地球から観たらどうだったのか、歴史から観たらどうだったのか、そしていのちから観たらどうだったのか、あらゆる角度から今回の出来事の深い意味を洞察する必要があると私は思います。

子どもたちのために、ここで変わらなければ何度もこのようなことは繰り返され、そのたびに環境は破壊されもっと住みにくい世界になってしまいます。短期的で視野狭窄な世界を生きることを已め、もっと悠久で雄大な自然に抱かれながら共に生きることを選んでいきたいと思います。

古来の伝承

昨日、休耕田を甦生したものの一部に真菰を植えました。この真菰は、ウィキペディアを引用すると「マコモ(Zizania latifolia、真菰)は、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。 東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。」とあります。

以前、庭先のビオトープで植えたことがありますが清々しい雰囲気で揺れる真菰に癒されたものです。またマコモタケは料理しても美味しく、貴重な味わいだったことを覚えています。

歴史を辿れば、お米が入ってくる前から日本人には重宝されてきた伝統食で縄文時代以前には衣食住すべてに欠かせない存在だったと推察されています。その理由は、実や新芽は食料となり、干したものはゴザや蓑笠、屋根などあらゆる場面で暮らしの道具になりました。それに神事でも常に真菰が使われ、現在でも伝統的な古神道を実践している格の高い神社では御神体やしめ縄にも古来からの真菰が使われています。また仏教でも、お盆を飾る盆ゴザには真菰で編んだものを今でも使っています。

稲作が入ってからは手軽に藁が入手できるようになり真菰が使われなくなりましたが、本来は真菰を神聖な作物として古来の日本人たちは直観し、暮らしに取り入れて現代まで大切にしてきたことがわかります。

穢れを祓うチカラがもっとも高い作物として、麻と同様に日本人はその効果を実感して受け継がれてきたように思います。また日本人以外では、北米のインディアンが大切にこの真菰を食べて暮らしに取り入れているそうです。

色々と便利なものが出てきては、代用してきましたがそれはあくまで一時的なもので本来、どのようなものであったか、もともと何のためにそのものを使ってきたかということが歴史の変遷の中で薄れていくものです。

復古甦生させていくというのは、元来の意味をもう一度紡ぎ直し、その確かな目的や意図を再確認して新しくしていくことでいのちを繋いでいくことです。

意味があったものが意味がなくなるのは、その意味を確認する確かな場が失われていくからです。子どもたちが確かな意味をそのままに伝承してその力が子孫まで及ぶように丁寧に古来からの道を復活させていきたいと思います。

触媒効果

昨日は、祐徳大湯殿サウナの傍に植えた石菖の上に苔類を移植しました。苔が土の上に被さると、効果的に水を保水して植物たちを守ります。水は土から蒸発して雲になっていきますから、毎日大量の水分が土から空へと上がっていきます。

しかしそれを土壌の枯れ葉や苔たちが覆ってくれていれば、その下には大量の微生物や虫たちの住まいになり快適な水分を保った土壌に変化していきます。水と土の絶妙なバランスで植物たちも快適にそこで生長していくのです。

何でもそうですが、場づくりとは、生き物たちの生育に適した環境を用意して見守ればどんな生物でもすくすくと育っていきます。育たないのは環境が適していないだけで、それはその生物が喜ぶような環境を観察することを怠ることで発生します。

例えば、私は庭で烏骨鶏も飼育していますがその烏骨鶏の土壌もまた熱帯雨林のようなフカフカなものにしていて常に発酵した状態です。鳥たちはその土壌で泥浴びを毎日楽しみ、羽についた様々な虫たちや菌を発酵した微生物によって清掃してもらっています。

また風通しが悪いと病気になりますから、新鮮な空気、また水は雨水タンクを用いて、庭先には運動できるような散歩道を設け、その近くにある雑草や虫たちを食べることができるように配慮しています。

鳥たちが仕合せになるような環境を設ければ、その中で産まれる卵もまたストレスフリーで美味しいものが育ちます。

これは農園や畑も同じことです。現在、造園中のメビウスガーデン(無双農園)も最初は土づくりからはじまります。土は量が多く、客土にしましたがここから炭を大量に用いて、微生物たちの住まいから造りこみます。私は炭を使うものですから、炭の持つ効果を最大限に発揮させ土壌を甦生させます。

炭は多孔質構造になっており微生物には最高の環境で住まいが整います。他にもミネラルがあり、遠赤外線もあり、触媒としての効果は群を超えています。私は微生物には触媒が必要であると考えており、これは純粋な発酵をしたお酒然り、酵素然り、微生物の居心地をよくするにはこの「触媒効果」が何よりも必要なのです。

これは私自身の身体で学んだことでもあり、同時に土もまた触媒としての効果次第でいくらでもその土壌の質を変えてしまうのです。

場の居心地を善くするというのは、そのもの生育の特徴や個性、その生きものの最も適した環境に近づけることが何よりも大切なのです。引き続き、子どもたちの場づくりの参考になるように自然からの智慧を伝承していきたいと思います。