一緒に取り組む仕掛け

人間は指示命令を遂行することばかりを繰り返していると次第に指示待ち人間のようになっていくものです。この指示待ちは、指示が来ないと動けないというように初動について自らが考えることができなくなるようなものです。軍隊では命令に逆らわないようにするために、命令そのものは考えず指示された方を考えるように何度も繰り返します。そのうち命令には疑問を感じなくなり、指示された方を考えることが自分の役割になっていきます。命令が本来、何のためにあるのか、その命令はどういう意味なのかを考えれば指示を待つのではなく指示を取りにいくことができます。

その命令は自分の考えることではなく上司の役目なのだと決めつけたり、具体的な指示がないから自分は失敗したなど相手のせいにしたりするのはかなり指示命令の刷り込みが深い証拠かもしれません。

それを打破するのには、考える力をブラッシュアップしていく必要があります。例えば、誰かからの指示を待たなくていいように最初からみんなと一緒に考えるというものもその一つです。もしくは、何のためにやるのかと全体の目的を考え抜きそれを関係者と一緒に考えながら行動を決めることも大切です。それをチームワークという言い方をします。

学校では理由も説明もなく、そういうものだからと動かされてその行動を評価され優劣をつけられていくと次第に従順に物事を遂行する人たちが認められるというようにインプットされてしまいます。周りを意識し、周りの中で如何に失敗しない人でいるか、スマートに結果が出ればできる人や能力の高い人だと思われ評価されます。逆を言えば、「なんで?やどうして?」など聞くことは恥ずかしいとインプットされ、逆らえば罰し、いちいち聞かなくてもすぐにパッと相手の命令を理解し迅速に指示通りかそれ以上に仕上げてきた人を評価します。こうやって考えない人を作り上げていくのが教育でもあります。

かつてのエジソンの話ではないですが、なんでやどうしてなど質問する生徒は馬鹿もの扱いされ教師が教えることに対して疑問を持つものを否定し批判し排除すれば見せしめになり、そうなりたくないという気持ちから人は考えるのをやめてしまうのかもしれません。絶対服従というものもまた、指示を待ち考えるをやめる人間にしていくことで実現しているようにも思います。

そうならないためには、まず指示を待つのをやめることです。指示を待つのをやめるというのは、やらせたりやらされる立場にならないということです。つまりは「一緒に考えていく」ということです。

人間は全てのことを指示だと思って受け取っていたら相手に合わせていくことが最良なのだと思い込みます。しかし相手に合わせることはただ従うだけで本質的に合わせることではありません。本質的に合わせるには、はじめから一緒に取り組んで同じ目的に向かって協力していくことでできるようになります。会社や組織やチームが必要なのもまた、大きな目的に向かって力を合わせなければ実現していかないからです。

力を合わせるにはやらせるやらされる関係ではなく対等に共に考えていくというお互いの主体性が必要です。相手がやるのをただ手伝えばいいという発想は、本質的には従い合わせたのであって手伝ったとはいえません。手伝うためには、自分も相手と同じ土俵で物事を考えて一緒に力を合わせて助け合う必要があります。

助け合う関係を維持していくことが信頼関係ですが、信頼関係を維持するためにはいつも助け合う風土や環境を醸成していく必要があります。それは困っていることを常にさらけ出し合いそれを一緒に考えていたり、必要な支援をお互いにいつもできるようにオープンに問題を語り合ったりできる環境があるということです。

助け合わないで仕事をするという仕組みは、そこには潜在的に評価を気にしている場合があります。自分一人でできるようになりなさいと教え込まれ、他人に迷惑をかけないことがいい人間と刷り込まれれば自分だけできるようになることを目的にしたり、自分のことだけを守ろうと閉鎖的になり一人でなんでも抱え込むようになるものです。

刷り込みというものは、自分が知らないうちに無意識にやられるものですからそれに気づきそれを打破するためには環境を変えて自分自身が洗脳から解き放たれるように何度も場数を踏んで意識を目覚めさせなければなりません。

常識や価値観という執着を見極め、取り払うことこそが智慧です。引き続き、時代の変遷において本来の人間の仕合せが回復できるように様々な仕掛けを見破っていきたいと思います。

 

 

  1. コメント

    これまでから考えると、過去の経験が元になってしまいます。ですが、そうではなく朝のブレストのように頭を柔軟に考えたら、突飛なものを含め面白いものが出てきそうな気がします。仕事っぽく、作業っぽくするのではなく、アイデアに乗っかり被せていくことを意識していきたいと思います。

  2. コメント

    念頭に浮かんだのは、夫婦で築く家庭です。うまくいっていると、自分たちも感じ、外からもそう見えるときのありかた。仕事もそうなんですね、いや、むしろ人間が関わるあらゆる活動が、本質的に人間相互の心と行動が合うことを求めているのかなと思わされました。
    家や建物のようなものを建てるときの関わる人の協働のありかたと、コンピュータソフトを構築するときの協働のありかたとは求めらる態度は同じなのかと感じます。

  3. コメント

    「最初から一緒に取り組む」のと、「途中から手伝う、あるいは応援する」のとでは、その主体性がまったく違います。また、別々に考えてきたことを合わせても、本当の協力ということにならないでしょう。そう考えると、日頃のコミュニケーションは、かなり偏った方向に流されているかもしれません。そういう意味では、一緒に取り組む前に、もう少しオープンな付き合いができていないといけないのではないでしょうか。

  4. コメント

    異年齢やコーナーやゾーンも、子ども同士が安心して過ごせる環境や存在がいることで、見守られていることで協力や共存、貢献が生まれてくることを思うと、困ったときにはその時に安心して話せる人がいないと話せない。何かするときも安心して話せる人がいないと話せない。そう思うと、困ったときも相談したいときもありますが、普段に使っている言葉や態度が要所に出てくるのかもしれないと感じました。しかし、人はそんなに完ぺきではありません。だからこそ、人に求めるのではなく仕組みや習慣に助けてもらう必要があるのだと感じました。選択制や評価をしない文化、リーダー、サブの入れ替わっていくチーム保育、教えない体験型の行事などなど、一つ一つを研ぎ澄ましていく必要があるのかもしれません。

  5. コメント

    「待つ」という字に似ているのが「侍」であり、その意味は「仕える」とあります。どの時代も前提にはその仕えている者や仲間たちと共に目指しているものを信じているからこその姿であり、それは西洋的な君主への服従とは性質が異なるものと思います。仕える事が「仕事」の語源だと思いますが、何に仕えるのかが問題になるのかもしれません。理念と本心が一致していることは稀なことであり、有難いことです。理念・本心からのズレは、あるべき姿に変えていきたいと思います。

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