時間の使い方~未来の自分~

人は自分の時間の使い方でその人の人生観が観えてきます、一度しかない人生を何に遣っているかは時間が証明します。時間とは何か、それが人生とも言えます、その時間にどれだけの意味と感謝を持つかでその質は変化していくように思います。

志を持ち実践し継続するという時間こそ、その人の天命に応じる生き方かもしれません。

自分の時間であるけれど、それは他人のための時間でもある。

そう考えることができるならば、その人はスケジュールというものを有意義に使えるように思えます。なぜなら人はみんなご縁で結ばれていて、そのご縁に感謝すればするほどに自分の時間は大切な誰かのために使いたいと願うようになるからです。不思議なことですが、自分の事ばかり考えて自分の時間ばかりを持つ人ほど時間を持て余してしまいます。いつも誰かの役に立ちたい、誰かのために力になりたい、だからこそ誰かのために成長したいと願う人は無限の時間を持っています。

論語に、「夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す」(雍也第六の三十)があります。

これは弟子の子貢が孔子に人を救うことについて尋ねた質問への問答です。私の意訳と解釈ですが子貢は、人々を多くの災難から救い施し豊かにするのが真心の人ですかと尋ねます。すると孔子は、それができたら真心の人ではなく聖人だ、古代の聖帝の尭・舜ですらそれができなくて苦労されたのだ。

そしてここからが上記の有名な一文「己を立てようとして他人を立て、己達さんと欲して他人を達す」の意味ですが、真心の人は自分が立ちたいと願えば他人を同時に立て、自分が達したいと思えば同時に他人を立てる、つまり他人のことも自分のことのように思いやることができる、まるで自他一体なのだよと言います。

このことは、私のかんながらの道にも通じるものがあります。つまりは真心の実践とは自他を分けないということ、つまりは思いやるということです。逆説ですが、他人を立てることができる人だから自分で立つことができます、そして他人を達させることができる人だからこそ自分も達するのです。

私は自分のために成長したいのではなく、その他人の力になりたい、助けられる技術や仕組み、救えるための法則を学びたいと真摯に祈り探し深めつづけて歩んできました。するとその力は自分のために必要なのではなく、力になりたい誰かのために必要になるのです。自分が達したいと思う願いの本質は、相手があってのものだからこそ自他を達することができるのです。

人間は自分と他人とをどこかで選別しています。まさか目の前の人が自分だとは思わないものです。しかしよく考えてみると、自分とは何か、それは関わる人たちとの出会いに由って存在しているものであり、それによって変化していく存在です。

その自分という物は、単に自分と認識できる範囲の小さな自分ではなく世界丸ごと含まれた中にある自分という存在もあるのです。つまりは、自分とは相手であり相手が自分という世界のことです。

自分が助けたその人に由って同時に自分が助けられているという事実、自分が真心で実践したことが相手の真心に通じて同じ実践ができることも全ては自分というものの認識の別に由るのです。

人間には外見では同じようなことをしている人でも実際に実践するとその深さが異なることに気づきます。自他一体も、同時というのも、己というものの捉え方一つということなのでしょう。

自分の周りを仕合せにできる人は、自分も仕合せになる人です。

全てを真心と思いやりのために時間を遣え生きれる人が、常に己に克っている人ということなのでしょう。分けない実践、選ばない実践、全ての人を未来の自分だと思える実践を引き続き深めていきたいと思います。

命維れ新なり~維新の本質~

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰の妹の文を主役にしたものが放映されます。吉田松陰は優しく暖かく見守る家族に恵まれていることは松陰の過去の手紙から察していましたが、妹についてはあまり関心を持っていませんでした。今回の大河で妹がどのように松陰の影響を受けて生きたのか、私なりにも深めてみたいと思います。

吉田松陰は、孟子を使った講義を野山獄で囚人仲間に対して行いました。野山獄ではお互いの得意なところを学び合おうと学問を続け、その中で自らは孟子の解釈を語りました。その講義録を「講孟剳記」といい、完成したものを「講孟余話」といいます。

孟子は、江戸時代では禁書とされ社会秩序を乱すものとして読むことも禁じられていました。儒教は別名で「孔孟の教え」と呼ばれるのに、孔子は読むが孟子は読んではならぬというのはおかしな話です。孟子は、性善説を唱え人間の本性は善であると言いました。それに対して荀子は性悪説を唱えその反対を言いました。

しかし、本来は善も悪も一体であり真善と真悪は極め尽くせば最善であるのだから言っていることは同一のことなのでしょう。ただ解釈の仕方としては、孟子は惻隠の情という言い方をし、どんな人間も幼い子どもが死にそうならかわいそうだと思う真心が誰にもあるように人は思いやりを持って産まれてくるものだと言ったと私は解釈しています。

赤ちゃんが笑顔になるように、周りのことを思いやるようにできるのは人間は地球の中で見守られ多くのつながりの中ではじめてこの世に産まれてきます。生き物を殺して食べては存在しているのが私たちですから自然の慈愛は偉大なものです。

そう捉えてみれば、「人間の本性は善である」というのは言い換えれば「自然の本性は善ですよ」という意味になると思いますからこれは孟子の言う通りです。人間を含めて自然に生き活かされるものは全て善なのでしょう。

孟子は、孔子と同じく王道政治について語りました。今の時代の言葉にすれば、王道社會とはどういうものかを広め続けました。王道とは、人道の極みであり何よりも人間として正直である道とは何かを説いたのです。人間として正直であるというのは、お互いに思いやりを忘れずに助け合って見守り合う協力調和した世界の実践を行うことです。

それを君子とはどうあるべきかと、国を治める人たち(政治家やリーダー)に対して誠の政道とは何かを全国各地を行脚しながら民衆をはじめ国王へ教えを広めました。今も昔も人類は安心して暮らせる平和な社會を夢見てきました。その夢の実現をしようと語り掛けた教えは2500年を経ても燦然と光っているのはそれが本物本質であるからなのでしょう。

その大河ドラマの中で、妹の文が詠んだ孟子の一文がありました。

「庠序学校を設け為し以て之れを教ふ。 庠なるは養ふなり、校なるは教ふるなり、序なるは射なり。 夏に曰ふ校、殷に曰ふ序、周に曰ふ庠しょう、学は則ち三代に之を共にす、皆な人倫を明らかにする所以なり。 人倫の上に明にして、小民の下に親しむ。
王者の起る有り、必ず来たりて法を取る、是れ王者の師と為すなり。 」

私の勝手な現代意訳で申し訳ありませんが、(名君の居た世は常に学問をするところ全てにおいて正直正道を何よりも重んじ人としてどうあるべきかを明らかにしました。そうやって正直正道をみなで実践しているものであってはじめて民は王道を知り、それを広める王をお手本として正しい法に則っていきました。)と。

さらにここから「維新」という言葉が続くのです。

『詩に云う、 周は舊邦と雖も、其の命維れ新たなり、と。 文王の謂ひなり。
子、力めて之を行はば、亦た以て子の国を新たにせん、と。』

また現代意訳ですが、(詩経にこうあります、周は旧い国ではあるけれど、その命は維新されていると。これは文王が言うように徳を大事にして自らが実践すれば同じように国のいのちは新しく生まれ変わり続けるのです。)と。

「命維れ新なり」

正月を迎え、一年の新たな始まりに於いてこの「維新」という言葉。神道の式年遷宮のように「いのちが新らしく甦生する」ということを行うのは、それを実践するものたちの生き方や生き様、いわば道に由ってということなのでしょう。

孔子と孟子の行間からもう一度、仁義の本質を学び直してみたいと思います。

 

生活圏

最近、ベランダには雀だけではなくヒヨドリが飛来してきます。今までは気づきませんでしたが、鳴き声と様子を観察していてはじめてその鳥がヒヨドリであることに気づきました。

体験して観て不思議に思ったことを深めてみると、それは書物から学ぶのではなくそのものから学べます。

雀をはじめ、ツバメやヒヨドリはかつては人間が一緒に生活をする仲間でした。人間にとって害のある虫を食べてくれる存在で、庭木に実をつける木々を植えては季節の風物詩のようになっていました。

今では都市化された場所でやってくれば、糞をはじめ鳴き声などが煩わしいと嫌がられたり、野菜などを荒らす存在として害鳥のように扱われています。人間の都合で、害や益を決めてはそのものの存在を理解しなくなったのは寂しいものです。

以前、青虫とモンシロチョウの話で青虫は害虫でモンシロチョウは益虫というような話を聞いた時に人間の浅はかさを感じたことがあります。もともとは同じ虫であるのに、人間の都合で全部仕分けられてしまうということ。

本来の存在の意味や価値を人間の都合で裁いていくということの傲慢さを感じます。

ヒヨドリからしてみれば、急に変わってしまったのは人間の方です。他にもツバメや雀、また馬も牛もかつては身近に居て大切に仲良く一緒に暮らしてきたのに突如として急変して乱暴に扱いだしたのは今の私たちの暮らしが変わってしまったからです。

古来から、自分たちの善いところを活かしあい悪いところを補って共生していくという自然の智慧が便利さや人間都合によって失われていったのでしょう。

人間は自分が中心か、全体の中の自分かで考え方が異なるものです。たとえば、自分の部屋を家と思うか、生活圏で一緒に暮らしている範囲を家とするかではそのものへの思いやりが変わっていくものです。自分さえよければいいという発想か、自他は一体なのだから周りを思いやっているのかではその生き方や考え方そのものが異なるのです。

本来、自分だけで生きられるわけではなく周りがあって自分が在るのが本来の社會ですから社會のことを狭めてしまえばお互いに自分の都合だけを押し付け合うような排他排除の貧しい社會にしてしまいます。

そうではなく、周りに生きているものすべては繋がっているのだからその生活を守ってあげたいと思いやり受け容れていけば協調していく社會になります。

結局は、周りにいる生き物たちが絶滅していくのはすべて人間のみの社會が優先されてきたからです。周りの動物たちや生き物たちと一緒に暮らしてきた今までの生活をガラリと変えてしまったのはちょっと先の先祖たちです。

もう一度、今の環境の中でも工夫して共に暮らしていけないか、それは自分たちの生き方を見直すキッカケにもなります。日々は学びの連続ですから機会を活かして、環境を工夫してみたいと思います。

磨く③~にこにこ顔で命懸け~

磨くということをテーマに昨年から深めていますが、何をもって磨いているというのかを分からない人も増えてきているように思います。例えば、気付くことが磨くことといってもすぐに分からないのは磨き続けてみていないからです。

しかしシンプルに磨くというものを考えた時に、苦労というものが磨いているという実感がある人は多いと思います。自分を磨くというのは、自ら進んで苦労を求めていく生き方をするということです。

有名な故事に「若い時の苦労は買ってでもせよ」があります。これは若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味です。(故事ことわざ辞典より)

他にも類似している諺に、「艱難汝を玉にす」はじめ「若いときの力こぶ」や「苦労屈託身の薬」、「楽は苦の種、苦は楽の種」や「楽あれば苦あり」があります。どれも苦労にはとても価値があるという智慧の教えです。

苦労したことがない人は努力の味を知りません。なぜなら努力の味というのは苦労をした人にしかわからないからです。言い換えれば苦労のない努力では努力にはならないというのが本質だからです。

心身ともに耐え忍び、日々に心身揺さぶられながらも大義の実践を行うことが修行のようなものです。思いの力を使っては祈りの力を使っては、必死になって苦労をしていくところにはじめて努力があるように思います。

そしてその努力とは苦楽といった味わい深いものがあります。この苦楽は、たとえば忙しい中でも心を失わない時に得られた自分への褒美であったり、自分の不利益であろうとも誰かのためにと譲った後に残る余韻のように、または祈り思いやる相手が病気から平癒していくときの仕合せのようにその苦楽はとても深い味わいがあるのです。

人は頭で考えれば誰しも苦労は避けて通りたいと思うものです。脳みそはもともと苦労したくないから知識を得ているとも言えます。知性というのは裏腹で自分を磨きたくない理由にもなってしまうのです。

体験したものを気づき、それを学ぶときに得る知識は、自らが体験を本物にし自分の貴重な体験として自分のものにしていくために必要ですが体験しなくてもいいように便利さを求めては知識で補おうでは磨く機会をも損失してしまいます。

若いときの苦労の価値を自覚している人たちが、如何に若い人に苦労を与えることができるかが真価なのでしょう。自分が苦労したから若い人には苦労を与えたくないという人が増えているように思います。しかし、その苦労は振り返ってみると何よりもかけがえのない思い出になり、そしてその苦労があったからこそ努力の価値を身に染みて自信を持てるようになり、努力ができる有難さに感謝できるように思います。

誰だって苦労は嫌なものですが、苦労をしなければ本当の意味での楽しさが分からないのならば敢えて苦労を選んでいく、楽しい方を選んでいくという生き方がたった一度の人生を磨く上では大切なのではないかと思います。

単に苦か楽かという頭で裁く二者択一の判断ではなく、苦労の中にある真楽、楽しいの中にある苦楽を味わうことが若いときの貴重な体験ということなのでしょう。光陰矢の如くあっという間に時は過ぎていきます。

若かった時代も気が付けば過ぎ去り、その体験を遣って今の真剣勝負をしなければなりません。自他一体になれば相手に苦労を与えることは相手の仕合せを与えることになります、そこに遠慮もありません。気づいた時が勝負ですから、子どもたちに素晴らしい苦労の真価をたくさん与えられ伝えられる真心の人間に自分が近づけるように、にこにこ顔で命懸けの精進をしていきたいと思います。

循環型社會の本質~一緒に生きる~

昨年は、社業を通してなんでも一人でやるのではなくみんなで協力しシャッフルすることから大切なことを学び直しました。

何でも一人でできる社会は、なんでも自分の都合で物事を進めることができる便利な社会です。人は自分の都合でできることを良しとして、自分の好き勝手にできることを自由だと勘違いしてしまうと不便さというものは排除するものとなってしまいます。

しかしこの不便さというのは、そこに誰かへの思いやりがあったり自分が誰かのために義務を甘受するようなやさしさがあるのです。

循環型社會とは何か、それを昨年は思い知りました。

それは誰かの都合で動かない社會です。それは家族がみんなで協力して助け合う社會です。言い換えれば、全てを必要とし全てを活かしている社會です。そしてそれは不便の中、面倒の中にこそあるのです。

昨年、皆で取り組む実践の中で便利に一人で簡単に進めるよりも、たとえ不便でも面倒でも一緒にやる方が周りのためになっていることを実感しました。誰か一人だけが頑張るのではなく、みんなで力を合わせることでパワーもエネルギーもすべて循環します。

今の時代はパワーやエネルギーを一つのためだけに使い切りますが、しかし江戸時代などはみんなでそれを振り分けて役割分担をして活かし切りました。この使い切るという発想が自分の都合で起こり、この活かし切るという発想が自他一体で行われているのはすぐに自明します。

そもそも循環というものは、周りを思いやっているかということです。自分だけが良ければいいでもなく、自分がやっていればいいではなく、「一緒にやる」といった中庸の場所で物事に取り組むことができているかということです。

一緒にというのは、運命共同体です。私の言葉では自他一体になっているということです。相手が自分であり、自分は相手なのです。自分さえよければいいという考え方が社會を便利さに走らせ、周りを思いやろうとする社會こそが不便であっても一緒にやろうと思える社會を創造するのです。要はどこまで相手や周りのことを思いやって一緒にと思っているかです。自分の成長だけを思う人と、周りの成長まで思いやる人では同じ動きをしていてもエネルギーは循環するかしないかの差が産まれるのです。

子どもにどちらの社會を遺してあげたいか、それはみんな心では分かっているはずです。だからといってその便利さの恩恵を受けている今の文明や時代を否定する気はなく、むしろ有難いのだからもう一段場を高めてその中でも「一緒にどこまで為れるか」が今に生きる私たちの大切な課題なのではないかと私は思うのです。

循環型社會とは、ただ環境をそうすればいいというわけではなく、其処に住まい、此処に生きる全てのいのちと運命共同体になるということです。つまりは「一緒に生きよう」とすることです。

視野を広くして悠久の歴史に今を照らせば、今までもずっとみんなで一緒に地球の中で生きぬいてきました。苦しいときもつらいときも、楽しいときも悲しいときもいつも周りをみては同じいのちを慈しみ愛して生きてきました。

視野を狭くするから自分さえよければと思うのでしょうが、連綿と続いて継承されてきたいのちの姿かたちが今の「自分たち」なのだから過去が悠久の長さがあったように、未来をも悠久の長さで考えないといけません。

今年はさらにすべてを分けずにもう一歩深く踏み込んでみたいと思っています。これは循環が単に共生という言葉ではなく、「一緒」の方が循環の本質に近いのではないかと感じているからです。いのちと生活ということがどのような実践と環境なのか、それをこの時代、今此処ではどうなのかを突き詰めてみたいからです。

一緒に行うことの真価を、全ての機会を活かし切りクルーたちと一緒に深め、志のままに挑戦し試してみたいと思います。

観察眼~心の実力~

外は急に寒くなり、雪も降って冬景色です。

動物たちは小さく丸くなって寒さをしのいでいますが、人間は数々の暖房器具、防寒衣服に包まれてぬくぬくとしています。

今は水も水道をひねればすぐに出てきますし、火もガスコンロを回せばすぐにつきます。また空調によって室内の温度も自由に調整でき、食べ物はコンビニに行けば何でも買えます。調べたいものがあればインターネットで検索できるし、買い物もボタン一つで購入しそれがすぐに自宅に届きます。暇があればテレビをつければ娯楽番組が流れますし、音楽だって聴きたいものはすぐにダウンロードできる時代です。人間関係も同じく、お金さえあればと面倒なことを避けて関わっている人も増えています。

少し羅列してみてもそこに何の不便さもなく、「便利」に囲まれて生きていると言っても過言ではありません。これらの便利さと引き換えに失ったものの本質は、じっくりと考えて物事を判断する観察眼ではないかとも思えます。

年越しに火を焚き、薪をくべ満天の星空を眺めながらゆっくりと思想に耽る時間がありました。昔の人たちは変化をじっくりと考える時間があり、物事の判断をとても長いスパンで検討して決断をしてきました。今は、情報化社会の中で何でも簡単便利に迅速に快適になることが何よりも優先されています。欲望を中和するような時間も持てず、目先の快楽のために精神が怠惰に流されてしまうのかもしれません。

観察眼とは、心を感じる力です。

心で感じたり、心で動いたり、心で取り組むという心の力、言い換えれば真心の実践を行うには観察眼がいるのです。相手と心を通じ合わせたり、全体のために心を配ったり、心を籠めて丁寧に接するというのは、そこに心が入っているのに気づきます。

心無いことをしたり、心を入れなかったり、心がけもなくなれば、頭でわかった気になり過去の知識からこんなものだろうと忙殺してしまいます。心は目には見えませんから気づこうとしなければあっという間に観えなくなるものです。心で観るという習慣を持つには、自分が心をいつも遣っていく生き方をしなければなりません。それはよく面倒くさいといって人が自分からやりたがらないことを敢えて自ら進んでやることでその観察眼が磨かれるのです。

森のイスキアの佐藤初女さんにこういう言葉があります。

「私、“面倒くさい”っていうのがいちばんいやなんです。ある線までは誰でもやること。そこを一歩越えるか越えないかで、人の心に響いたり響かなかったりすると思うので、このへんでいいだろうというところを一歩、もう一歩越えて。ですからお手伝いいただいて、「面倒くさいからこのくらいでいいんじゃない」っていわれると、とても寂しく感じるのです。「(おむすびの祈り 集英社)」

心を失い、心を遣わないでいるとすぐに人は不安になり不信になり自我感情に呑まれてしまうものです。平常心や心の平安は常に心を感じるから視野も広くなり絶対安心の世界に住むことができます。

観察眼とは手間暇の実践です、手間暇という心を遣うそのひと手間こその中に心が籠っているからこそ「実践」を蔑ろにしてはならないと改めて思います。「凡事徹底」という言葉も、心を遣い観察眼を磨く智慧の一つということです。

人間生活の中でいくら面倒と感じても御蔭様の心を持ってもうひと手間ができるようになれば心の実力が備わってきていると考えていいと思います。今年も、雑さを戒め、自然の精妙さと丹精をモデルにして心がけ、かんながらの道を求めていきたいと思います。

2015年のテーマ

昨年も本当に沢山の有難いご縁をいただいた一年になりました。毎年、当たり前ではない出来事に恵まれ、日々に充実するのは一日一日が最期だと感じているからかもしれません。

人生はあって当たり前のものではなく、勿体ないものです。今の自分が今此処にあるのはそこには由緒があります。これは単に私だけの人生ではなく、連綿とはじまりから今まで続いている人たちがあってその中に自分も居るのです。

先祖代々から今まで、数々の困難や苦難を生き延び、私にまでいのちをつないでくださった方々に感謝を思わない日はありません。今の私が存在するのは、本当に偉大な御蔭様で成り立っています。決して私個人で生きるのではなく、志古人に生きたいと願うばかりです。

子どもたちのために生きようと志した日からずっと、自分の生を何のために遣おうかと覚悟を定めてきた日々でしたがいつも感じることは、祖神祖先への畏敬と慈愛への感謝ばかりです。有難くいただいた一期一会のいのちですから、悔いのない日々を魂に応じて従いつつ信念をもって歩ませていただきたいと思います。

また今年も師とテーマを共有することができました。ご縁をいただいてから十二年の歳月、共に錆びずに磨き続けて道と学問を共有できるものをいただけるのは真心の為せることだと師の恩沢洪大に心より感謝の念が湧いてきます。

今年のテーマは、「時代に翻弄されず、初心を忘れない」ということです。

変化の時は近くを見ては酔ってしまうものです、そうではなく夢を持ち常に本質でいることを忘れないということです。単に頭で理解すると簡単な言葉ですが、実際は今までの毎年のテーマの総合力が必要でこれが分かるにはまた沢山の実践が必要です。

夢を持つからこそ人はブレずに一つにいのちを盡していけます。時代が変化の時こそ、夢に向かって真摯に自分自身と正対して独立自尊の努力をできるかが大切になってきます。

世界は次第に激動期に入ってきています。どんなに寒く凍ったような闇夜がきても、明けない朝はなく、太陽が昇らないことはありません。私たちは地球にいるいのちの一つですから万事転じて安心し、信じた福世かな時代に換えていくのみです。

常に初心を忘れずに人類共通の夢の実現のために自分自身の真心を盡し切ってつながりの中で篤く貢献していきたいと願います。

今年も天恩に対して謙虚に、人恩に対して素直に、仲間を愛し思いやり、同志を勇気づけ励まし、師を真心で援け、後輩を命懸けで導き、子どもたちを深く信じ、清く正しい心で社會を広く明るく照らせるように、自然の道、かんながらを歩ませていただきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

磨く②~特技と自信~

昨日から磨くについて書きましたが、なぜ磨く必要があるかといえば自分の徳を引き出すためです。人間には一人ひとりの個性があります、特技とも言ってもいいし、特性とも言ってもいいと思います。天がその人にだけ与えた自分らしさとも言えます。

その個性や特技は、人間力に左右されます。人間力を伴わない個性や特性は世の中に活かせるものになりにくいからです。それを上手に扱える人がいればいいのですが、本来はその実力は自分で磨く必要があるのです。

日本には武士道があり、侍には刀があります。

刀は磨きに磨いても鞘から抜くことがありません。そんな毎回、何かがあるたびに刀を抜いていたら磨いている価値もまた失われてしまいます。その侍の価値は磨き貫かれた人間と刀に観照してその生き方を示していたのでしょう。

人間力も同じく、磨かれていない特技と磨かれていない人間性であればもともと天から頂いた力を世の中に活かすことができません。荒削りな特技では、先ほどの刀でいえば迷惑千万、むやみに周りを傷つけたり、怪我をしたり、すぐに破壊したりするからです。

もともと持っている特性や徳を引き出し、活かすには自信が必要です。それは真摯な場数によって失敗を繰り返し改善を続け、自己練磨、自己修養によって得られます。自信とは、自分に打ち克った数ではじめて自得できるからです。困難や試練は自分の魂を磨いてくれる試金石です、その苦労を自らかって出るような生き方や勇気こそが自信につながるのです。

知性ばかりを褒められる人は人の評価を気にして失敗を恐れては場数を避けようとしますが、それでは真の自信はつきません。自信は文字通り自分を信じることですから、本質に生き失敗を恐れずに苦しい方を選択しその苦労をじっくりと味わって楽しみに換えていくような努力が要ります。

最後に、磨くということについてある空手家の名言があったので紹介します。

「特技を磨くとは、自分を磨くことだ。自分を磨くとは、自信を磨くことだ。」(大山倍達)

そして自分の特技は、大義に生きた人にもっとも与えられるものです。そして大義を貫くからこそ自分が磨かれていくのでしょう。何よりもまず「初志」があって「貫徹」することではじめて磨かれるのが魂です。

そしてもう一つ、共感する言葉がありました。

「何のために強くなるか?それは自分に打ち勝つためであり、義を通すためであり、人を導くためである。」(大山倍達)

真の漢には、強く優しくなりたい理由があるのです。

そのためには常に自分と正対し、怠惰な自分に喝を入れては日々に自分に打ち克つ努力と精進が要ります。それが磨きの本質ということでしょう。気づき打ち克つ、つまり研磨するということはそういう今一瞬を生き続ける覚悟です。

まだまだ自分は本物の特性については分かっていません。自然の道具、本物の道具を学び、そこから特性を身に着けていきたいと思います。来年は、「磨く」ことをテーマに様々な実践を高める一年にしていきたいと思います。

 

 

磨く①~磨徳道楽~

今年は貝磨きの体験から磨くそのものの価値について再認識することができました。気づくことはできていましたが、気づきに気づくということには到達していなかったように思います。ここで磨くということをもう一度、整理して深めてみたいと思います。

磨くという字で思い浮かべる四字熟語には、「切磋琢磨」や「磨斧作針」があります。

「切磋琢磨」は中国の「詩経」の中で 「切」は骨や象牙を切ることで「磋」はそれらを研ぐことだとし、細工師の技工や完成した細工品に喩えて切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き向上することを言いました。

そして「磨斧作針」の方は、学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいるとき老女に出会い、鉄の斧を磨いて針を作っていた老女の行動から努力、根気の強さに反省し李白は学問に励むようになったことから、惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することを言いました。

どちらにしてもここでの「磨く」というのは、忍耐と根気によって継続して実践を続けて已まないことを例えています。

磨くというのは、単に摩擦していることではないことがここでわかります。一見、無理で難しいと分かっていることであっても諦めずに励むことでどんな石でも磨けば光る玉になることを示しています。つまりは、そのものの対象に問題があるのではなく磨く本人にこそ問題があることに気づけるのです。

例えば、気付くという一つの実践があります。継続して実践していける人というのは、関心を失うことがありません。あのエジソンが何千回、何万回の実験と努力を通して新たな発見・発明を産み出したように根気強く丁寧に気付きを内省する人は同じ実践をしていても必ず確かに磨かれていきます。

それは本人が気づこうとするかどうかに由るからです。

単に同じことをしているから磨かれるのではなく、もっと改善していこう、そこから大切なことを気づいていこう、心を澄まして感応していこう、気付いたことを次に活かそう、「発見=気づき(徳)=発明」と精進するものではじめて磨くことができるからです。

「玉磨かざれば光なし」という故事があります。

この「玉」は丸い形の宝石のことで、 宝石が原石のまま磨かれなければ美しい光を放たないのと同じように、人もどんなに才能があっても、学問や修業を怠れば立派な人間にはなれないということ。これは 『礼記・学記』に「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」という言葉よりの引用です。

人が道を歩むということは、日々に気づくということです。そして日々に気づく人は次第に徳が引き出されその器が出来上がってくるということでしょう。

磨く楽しみというのは道を歩んでいる愉しみであり、玉を磨くというのは徳を引き出していく歓びなのでしょう。

産まれてきては生きる意味を味わいたいのが人生です。その一度きりの人生がどのような自分を与えられたにしても、その人生をより善くしていきたいと誰もが願うものです。

生きている間、磨ける仕合せを味わいつつ実践を盡していきたいと思います。

同道志の御魂

今年も有難いことに無事に松陰神社に参拝することができました。また神社の近くの吉田松陰の墓地には、美しい花々が活けられ丁寧に手入れをされていました。

吉田松陰はその当時は処刑された罪人ですが危険を省みず17名の志士たちがその名を刻んだ水盤や花立、灯籠が供えられています。純然たる魂が感応し、その真心と意志を受け継ぐ者たちとして不退転の初心を決心したものだったのだろうと私には感じました。

志士たちというのは、我が身よりも大切なもののために生き切ろうとします。魂を優先して大義を盡す真心の生き方を師弟一体に学んだんではないかと静かに目を閉じ共感すると心に観えてきます。

そして吉田家の墓の中に吉田松陰を見守るように正面から見てすぐ右上に高杉晋作の墓もあります。

一緒に至誠の道を歩んで共に真心を盡した生涯の同志だったのでしょう。それは師弟というよりは、まるで同じ人物が容を変えて顕れているようにも感じます。魂というものは研ぎ澄まされ磨かれるほどに同一化していくのでしょう。

この同志の間には、道があることを実感する関係を吉田松陰と高杉晋作は築き上げました。今ならはっきりと自明するのですが、吉田松陰の「至誠」に対して、高杉晋作の「面白く」は同一のものです。

言葉の解釈というものは、その人の感じ方に由るものですが真心を盡すにはふざけなければならないのです。それだけ世の中というものが、本質的ではなくなっているからです。あの当時の吉田松陰は狂人や狂気だと周りに評されましたが、今の時代でも本質を維持しようとしたら変人やキチガイだと嫌われるものです。魂を優先するというのは、他人の評価など気にせずに信念を持ち、本質を最期まで貫くということですから他人ごとのような生半可な生き様では決して到達することもできません。

高杉晋作と吉田松陰の獄中からの手紙のやり取りの中に下記の文があります。

「世に身生きて 心死する者あり 身亡びて魂存する者あり 心死すれば生くるも益なし 魂存すれば亡ぶも損なきなり」

世の中に迎合し、知識ばかりを詰め込まれ刷り込みと妄想の中で生き流されるだけで死ぬなら心は失われてしまいます。如何に魂を優先するかは、初心の実践と本質の練磨によるものです。それを自分が先に生き切って省み発見したことを弟子に伝える「命懸けで生き方を教えている」松陰の真心の後ろ姿を感じます。

私にしてみれば真心を盡すというのは、面白きことのなきこの世を面白くすることです。与えられた天命に感謝し、真心こそ自然一体の御魂であると心に刻み、今を愉快痛快に遣り切って古来からの至誠の道を受け継いでいきたいと思います。