天才~いのちの法理~

人間には誰にも天与の才能があります。

これは天は、あまねく人々すべてに何かしらの役に立つ才能を与えているということです。一見、何の才能もないように感じることもありますがそれは役に立てるように才能を使っていないだけで何か必ず役に立てることがあるのに出会っていないだけともいえます。

人はその天与の才能があることを忘れて、才能を私物化しようと様々な能力を求めます。しかし実際に与えられている才能は人それぞれ異なり、それを活かすことの方がいのちも歓ぶのです。

なぜ才能を私物化してはならないかといえば、不必要なものを生んでしまうからです。誰か一人が完ぺきに才能を持ち、ありとあらゆることを自分で完結してしまうならその時、必要と不必要が発生します。

できる人は必要でできない人は不必要になります。みんなが一斉に同じことができるようになれば、それができない人たちは要らないということになってしまいます。たとえば、極端ですがお米以外の作物は必要ないといってしまえば、どの野菜も全部お米のように改良するとします。そうであれば、お米以外のものは人間には必要がない、不必要だから邪魔な存在になるのです。

実際に、人間の都合や自分の都合で要るとか要らないとかを分別するほどにこの世から不必要なものを排除しようとしているのです。都市を観てもわかるように、人間社会に要らないものは置こうともしなくなっています。

本来は、八百万の神々がいるこの日本は、すべてのものには何かしらの神様が宿ると信じられてきました。ゴミと西洋では呼ばれるものでさえ、私たちの国の神話ではそこに必ず神様の名前があり、それを尊び守り重んじ大切に祈りを捧げてきました。

私たちの祖神、先祖たちはこの世には一切の無駄はなく、一切の無用もない。すべてが神様の化身なのだからそのいのちを大切に使われていただきますという姿勢でいのちを活かしてきた民族だったのではないでしょうか。

今のように循環しない、ゴミや無駄や不必要に溢れた世の中になったのは天与の才能を人間に都合がよい才能だけにしてしまおうという傲慢さの現れではないかと思います。

あの雑草と呼ばれる草にも、害虫と呼んでいる虫たちにだってとても大切なお役目があります。その御役とは、天才があるということです。みんな生きているこの世のすべての生命は、天与の才能が与えられているのです。

その才能が適材適所に配置されるとき、この世はまるで楽園になったかのように幸福な世界が顕現するのです。

才能を無駄遣いしないというのは、自分にしかできないことをやることです。言い換えれば、自分の天才を活かすことです。天才は、何でもできることがいいわけではなく、自分のままでも世界の御役に立てる方法を自らが発見発明していくことです。

そして真の教育者とは、そういう天才の徳を見出し、その徳を活かすために配慮し、環境を用意しその発育や成長を見守り「いのちの働き」を活かすものだと私は確信しました。

今の時代は、知識を教え込み、天才を無能にしてしまうようなことを刷り込みます。しかしそのことからいのちが悲しみ嘆き、自分は何者なのかと苦しみ病気になる人たちが増えています。働くことで仕合せを感じていたはずが、マニュアルによって仕事ができるようにさせることでより一層いのちの使い方を間違い、そのことからさらなる無駄と不必要をつくり、それを解決するために膨大な資金や労力を使わせています。

先祖たちはいのちの法理を知っていて、この世には一切の無駄がない、神々がいる世界にこの世を近づけていたのです。それをこの100年程度の西洋の文化がすべてにおいて優っているという思い違いが氾濫することで、私たちが先祖代々、何よりも大切にしてきたいのちの法理をも忘れてしまうのは本当にもったいないことだと思います。

私の志す、かんながらの道にはいつも八百万の神々がその見えざる姿、聞こえざる声によって自然を通じて何が大切かを親切に手ほどきをしていただきながら教えてくださいます。自然から学び直していると、自然は一切の無駄がなく一緒につながり絆を育みながら共生しあい貢献しあい、あるがままにそのままに天才を活かし仕合せを生きています。

子どもたちにはそういう世界を譲っていきたいと切に願います。

三つ子の魂の救済を、ご縁と支えられている皆様への御恩返しとして自らの天才を存分に発揮しつつ実現させていきたいと思います。

今問答

人は物事に取り組むとき、答えから探そうとする人と問から導いていこうとする人がいます。

もともと学校では、答えがあって答え合わせをし、適切な手段で答えを出したことで合格になるように教え込まれてきました。そのためか結果よりも手段が大事であり、手段が間違っていると思えば答えが出る前に諦めてしまう人が増えたように思います。

しかしよく考えてみると、手段というのは刷り込まれた常識のことで本当にその通りにいくわけではありません。実際の人生を振り返ってみても、最初の入り口はマニュアルが必要でも応用はまったくマニュアル通りにはなりません。手段とは、あくまで最初の段階であり目的に対して本質かどうかが結果に対しては重要だと私は思います。

そもそも結果というのは、結果が先ではなく体験して挑戦したことの現れとしての結果が出てくるだけのものです。その結果をどう受け入れ改善し、次の挑戦につなげていくかで体験そのものが善いことになるのです。

世の中は答えが出ているものをわざわざ探求しようとする人はいません。それは常識というものと同じです。常識は変えられないものだと信じ込んでいたり、世の中はそうなっているものだと疑問にも感じないようになればそれはもう考えていることをやめているともいえます。

考えるというのは、常識を疑うことを言います。それは自分自身の中にある常識に「?」を持つことです。本当にそうだろうか、自分が思い込んでいるだけではないか、実際の世界は自分の思っているものではないのではないかと、自問自答を繰り返して行く中で自分の中にある真実を見極めていくのが学問です。

それを誰かがいつも答えを持っていると、答えさがしばかりをしていたら体験したことを活かすよりも体験せずに先に手に入れることの方を優先してしまうものです。体験の尊さというものは、その人だけのかけがえないのものです。

その人の体験は、必ず誰かの御役に立つのです。これは人類だけではなく、動植物から昆虫にいたるまでそれぞれの個性にそった人生を生き抜くことで環境の変化、時代の変化に順応していく種を次代へとつなげてくことができるのです。

またその体験の中にこそ、ご縁や一期一会、御蔭様や有難さ、勿体なさも感謝も真心も全てがそこにあるのです。体験をしても体験しない人もいれば、体験をしようとしていたのに体験をしたがらない人もいます、これこそが常識に縛られている証拠なのかもしれません。

当たり前ではない日常にどれだけ本気で味わい尽くすか、当たり前ではない今にどれだけ真摯に向き合っていくか、仏陀が言う通り人生は四苦の生老病死のみならず、八苦の愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦があります。

しかしそのすべての体験こそが自らの魂を磨き、そして心を鍛え、精神を高めていくのも事実です。体験を避けて過ごす一生もまた一生、体験を味わいながら痛快愉快に歩むのもまた一生。

全てを善かったことにしていくためにも、体験の意味を味わい、その体験をさらに人の御役に立てていくことで人生の花もまた咲いていくように思います。

日々は学びの連続ですから、学ぶのを已めないことこそが体験を尊ぶ生き方なのかもしれません。疲れや忙しさという甘えに己が負けないように、あれこれ思い煩わず体験を優先しそれを味わい反省する面白い今に邁進できるようになりたいものです。

二度とない今問答だからこそ、今しかできない有難き今の感謝の心のままにご縁を歩んでいきたいと思います。

王道は正直

今の世の中は、何でも簡単便利に効率よくというものが人気があります。

販売されている商品も、負担を減らすためにという言い方をしつつもより楽をしようとするあまり反って本質から外れて忙しくなったり、初心や目的からズレて仕事を増えたりしているものです。

制度なども同じく、制度を作った方が便利だと用意したけれど結局はその制度のせいで思いやりが欠けたり、柔軟な対応ができなくなり硬直したりと、安易に即効性のあるものはその後は長続きせずに形骸化しそれが変革の邪魔になってしまったりするものです。

本来、学び方も教え方でも同じことですが「サプリメント」を与えるようなものを簡単便利だからと優先すればそのサプリメントで乗り切れると勘違いする人たちを増やしてしまうのです。コンビニで売られているサプリメントや薬の類は、結局は根本治癒をするものではなくその場しのぎを増やしていくだけでより状況は慢性化し悪化していくだけです。

根本治癒をするには、時間をかけてゆっくりと内省しつつ対話によって解決していくしかありません。それは結果さえよければいいではなく、そのプロセスをどれだけ大事にしているか、それは教えるのと同じで教えてできるのではなく、自分で考えて行動して自らが気づき答えを出していくということを何よりも大切にするということです。

人間を信じるということは、その人は必ず気づき覚るであろうと信じることかもしれません。

すぐには気づかなくてもじっと待っていれば、その時が来ると念じていればその日が訪れるのです。祈るようにその人の気づきを待ち、自分自身が実践を已まずに道を歩んでいればご縁の妙に導かれて必ずその人の気づきが訪れるのです。

それがいつになるのかは分かりませんし、自分が生きているうちにはこないかもしれません。しかし私自身がそうであるように、師から諭された言葉も気づくまでには何度も挑戦し、内省を繰り返しながら数年から十数年でハッと気づかされることが多いからです。

道には王道があり、王道を志すならば正直が一番です。

人に求めて焦る気持ちが出てくるときは、自分の足で自分の道を歩むことをお座なりにするときかもしれません。日々の脚下の実践を怠らず、克己の工夫を探求し子ども第一主義を深く掘り下げていきたいと思います。

 

脳を裏切る、行動が習慣を創る

人間は行動せずに脳だけで処理を行うと、あたかもそれをやっているかのように感じ始める生き物です。実践が実践ではなくなるのも、やっている気になるからであり、分かったことが分かった気になるのもそれは脳が関係しているのです。

事故で手足を失った人が高確率で、四肢があるかのような感覚を持ってしまうという話があります。これは脳が思い込んだものが現実にあると勘違いしているのです。また見た目が善い食べ物を食べてもいないのに美味しいと思い込むのも同じく脳が先に味をつくってしまうのです。

これと似たことを常に脳は行います。たとえば、日々にやっていないことでもちょっと習慣がついたと思えばそれをやっているように思いこむのです。言い換えれば脳が見せかけを用意し、その見せかけによってあたかもやっているかのような体験を仮想するのです。知識のみが豊富に偏れば偏るほどに脳は体験を仮想補填してしまいます。

私はよく脳を裏切るという言い方をしますが、脳が嫌がることを敢えて行うことで脳の思い込みに騙されないようにしていくのです。

これは習慣の持つ仕組みの一つで、脳が嫌がる行動をすれば脳が行動により思い込みを取り除くのです。思い込みが取り払われれば見せかけが消えますからはじめてそこに実相がありのままに顕れてきます。

そこで脳が思い込みを捨てる方を選べば、そこに心の力が動かされていくのです。心が強い人は脳に左右されませんし思い込みが少ないものです。

これは脳が嫌だと感じる前に、心が動き、行動がはじまりそのことで脳の思い込みを持たせる時間を与えないからです。これらの刷り込みは、教えられる弊害であり、このことより子どもの好奇心を失うことで病魔のように脳が仮想を次々に生み出すようになり不安からさらに目が曇り始めます。

実際の現場では起きてはいないようなことをまるで起きているかのように錯覚したり、実践をしていなくても悟ったかのように勘違いします。知識を得て、世界を仮想化するのはできても現実世界は思い込みで成り立っているだけで実際は自分をも変えることができなくなるのです。

自分を変えるには、まずこの脳の思い込みを捨てる努力が必要です。

そのために数々の習慣をものにして、脳が嫌がることを敢えて行う訓練をして自分自身のコントロールを正しくできなければなりません。現実は常に現実として目の前に顕れます、受け入れがたいこともあるでしょう、そんなときは変えるチャンスだと思います。

自分を変えたいと強く願うからこそ、実際の行動の方から自分の脳を裏切り、脳が嫌がることをたくさんしてでも信念や理念を貫いていくことで、自分の人生は刷り込まれない正直な場所でいられるのだと思います。

行動による疲れは、脳の仮想をつくらせる余地を与えません。心地よい疲れというものは、心が地についた疲れということです。変に考えすぎるよりも、心が思いやりを優先するほうに従って自らの習慣を育て上げれば立派に自分の人生の道を切り開く人になると思います。

常に自分の心をで信じた方を優先する生き方を示していきたいと思います。

自然と至善

自然農を実践し4年目になりますが、ようやく田畑が落ち着いてきたようにも思います。

もちろん、常に天候も変化し田畑の様子も変化し、その生態系の中にいる私を含めた生き物たちも変化しますから常に学びは尽きません。

人間というものは、脳の機能を使いある程度知識が入れば理解したものが記憶によって運用されていくものです。それがマンネリでもあり、変化を感じる力を落としてしまうようにも思います。好奇心や謙虚さがあれば学びは常に新しいものになりますが、常に学びたい、常に学ぼうと機会を逃さずに内省を続けて楽しんでいれば自ずからあるがままに今を生きることができるように思います。

自然の世界では、どの生き物も今に最善を尽くしていきます。後のことや先のことなどを思い煩うこともなく、今を一生懸命に生き切ります。生きるために、生き抜くために自分の与えられた場所で自分の与えられた生を本気で生き抜いています。

最善というものは、人生を遣りきるということです。遣りきるということは、丹誠と真心を籠めて自分にできうるすべてのことを出し惜しみなく正直に実践することです。

古語に人事を尽くして天命を待つという言葉があります。半分は自分の誠で、残りの半分は天の誠で万事それこそが善いことであるという意味だと私は解釈しています。

今の時代は、何でも満たされて安逸安全な中で暮らしていますから危機感というものを喪失し、本来の「生活」ということの本義も忘れてしまっているのかもしれません。遣りきるという言葉であっても、単にやったかやっていないか、やれたかやれていないかのレベルのことを思っている人も増えてきました。

遣りきるというのは、いのちの言葉ですからいのちを懸ける言葉です。

これはいのちを遣りきるということであり、いのちすべてを懸けましたかという自問自答を行うということです。眠いとかだるいとか、やりたくないとか、楽したいとか、明日にしようとか、めんどくさいとか、いろいろと理由をつけては自分に負けてはいのちを使い切ろうとはしません。

これでは今を生きることからも逃れて、結局は自分に甘えてしまっていることになります。

自分で決めたことを自分で実践するということは、人事を尽くすということです。そうして真摯に自分のいのちを懸けているから天がそれに感応して他力が入ってくるように思います。自信というものは、そういう自力を尽くしている中で他力が入ることを悟ることを言うのかもしれません。

最善と尽くすとは、至善のことであり、それが自然であるということです。

自然農には、半分は自力、半分は他力を学ぶ最幸の土壌現場があります。他人のことをとやかく言う前に自分は本当にいのちを懸けてそれに取り組んだか、常に内省と自問自答をもって一度しかない一期一会の人生を愉しんで駆け抜けていきたいと思います。

出会いに感謝しています、有難うございます。

文化と誇り

先日、ドイツと日本の比較の中で空調についてのことがテレビで放映されていました。日本ではほとんどが空調をつけて夏を対応しているのに対し、ドイツでは窓の内外のブラインドを効果的に使うのでほとんどの家屋で空調すら設置されておらず暑さをうまくしのいでいるという話でした。

そしてどちらが環境に優しいかということで比較されていて、日本の家屋はそういう意味でドイツには劣るというようなことを伝えていました。

そもそも不思議に思うのが、日本の家屋といっても今の日本の家屋は欧米から輸入されてきたものです。今はほとんどの住宅がアメリカ式に改造され、部屋のつくりも建て方も、そして内装や家具までほぼ欧米そのものです。

私たちは明治時代から、欧米の文化を取り入れかつての自分たちの文化を否定して近代化といった短期的パワフルで利便性の高いものを取り入れてきました。自然を相手に悠久を生きた時代とは異なり、植民地的に支配する人間を相手に自分たちを守るためにと戦ってきました。

しかし戦後に、戦争に負けてしまいほとんどがアメリカ文化によって日本の文化を改造され今では何がもともとの文化だったのかが分からないほどになってきています。それは食文化しかり、農文化しかり、生活文化しかり、働き方から生き方にいたるまで、欧米のものにとってかわられました。

先述したドイツと日本の家屋の違いについては、本来の日本家屋は和式であり、よく地下から地上へと自然の風が抜けるように建てられていました。そして夏は涼しく冬は暖かく自然物をうまく活用し、夏に至っては風鈴や打ち水、スイカなどあらゆる工夫で涼しくしていたのは私たちも同じです。

それを今では欧米と比較され、欧米の方が環境先進国だと謳われ、それを真似をするというのはどうしたものかと不思議に思います。以前、訪問したドイツやオランダは日本の文化を研究し上手に自国の文化に取り入れていました。

しかし私たちの方は、自国の文化が消失していますから取り入れることができず単なる真似だけになってしまうのです。これでは何が何だかも分からない人たちになるのだから単なる真似しかできないのです。

取り入れることができるというのは、自分があるということです。文化を吸収することができるというのは、自分の文化をちゃんと自覚習得できているということです。畢竟、多様性というものは代々受け継がれ継承してきたものの上に積み重ねて改新していくということなのでしょう。

だからこそその土地、その場所、その人にその文化があり世界がどのような気候変動や変化があっても智慧を重ね合わせて生き残ることができたのがいのちの理なのです。

人が自信を失う理由は、自分がないからです。自分があるというのは、本来の自分が何でできているか、本当の自分がどういう暮らしをしてきたか、歴史というよりも文化そのものである自分に誇りを持つことが風土を生き抜いてきたという自信になるのでしょう。

祖神たちの願いに思いを寄せれば、今の自分たちが何を残し何を譲らなければならないのかを自覚してきます。世界観というのは、すべて今を生きる私たちが担うものです。時代は急速に世界の距離を近づけているからこそ、もう一度日本とは何か、自然とは何か、自分とは何かを大事に学び直しを続けていきたいと思います。

自分自身との信頼関係~内省と対話~

人は自分を責めすぎて許せないとき、自分というものを見失うように思います。また自他の評価が気になり、自分自身の価値を正しく認めることができないときにも自分を見失うように思います。

この自分を見失うという心理は、自分のことが分からないということです。

人は自分が自分のままでいい、あるがままの自分がいいと自分を認めることができているときは心が穏やかで平安が訪れています。しかしひとたび、自分を否定し、自分を認めることができなくなると自分のことを許せずに自分との関係が崩れていきます。

これは別に自分自身だけのことを言うのではありません。たとえば、他人との人間関係であっても相手のせいだと相手に求めたり、自分のせいだと自分を責めすぎればその人との人間関係に亀裂が生じるのです。

自分のせいだと責めすぎるのも、相手のせいだと責めすぎるのも、どちらもバランスが崩れて信頼関係が壊れてしまうのです。

これは外側だけで起きるのではなく、内側でも起きるものです。自分の内側で先に自分自身との関係が崩れれば、そのまま外側の人間関係も崩れていきます。

人間は人間関係がほとんどの苦しみである以上、如何に自分自身との信頼関係が大切かということなのです。

たとえば、自分自身が厳しすぎる場合、相手を甘やかしすぎることがあります。逆に他人に厳しすぎる場合は自分が甘えている場合もあります。これも自分自身との関係が周囲に及ぼすのです。

他にも、自分が嫌いになれば、どうしても相手を好きになることができません。自分自身のことを褒めるから他人を褒めることができるのです。自分自身のことが自他一体のことでもあり、如何に自分自身との関係を築けるかが人間事においては大切なのです。

感情の波が時折、揺れ動く中で如何にそれを受け容れるか、許してあげられるかは、その人の過去の体験から乗り越えたことによって癒せるのかもしれません。無理に直そうとするよりも、如何に自分を許すことで癒すかということが心の労いになるのです。

自分は本当によくやっている、自分はよくついてきてくれる、ありがとうという気持ちがあればそれが周囲に及ぼし同じ気持ちになるのです。どうしても頑張りすぎてしまうのは、責任感があるからですし使命感があるからでもあります。頑張ればうまくいくと考えてしまうのは、真面目過ぎる証拠なのです。

真面目過ぎるからこそ、そこに大切な愉しむという遊びの心を添えてあげることで自分を見失なわずにいられます。人生は自分自身との付き合いで、どんな境遇やどんな状況になっても一人ではないと実感でき孤独にならなくなります。自分を大切にすることができれば人を思いやれる自分でいることができますし、その思いやりが自分をより大切にしていきます。

一番身近な自分との対話を大事にする時間、それを内省といいます。内省をすることで、はじめてもっとも身近な自分自身との対話を通して心の平安を得られるのです。そしてそれを他人と行うことで心は対話し合い、お互いを許しあい認め合うことができるのです。

そうして自分自身との付き合いが様々なところで折り合いをつけることができ、認め合い信じ合うことができればその信頼関係が自信になり、多くの同じように悩み苦しむ人たちの救いになるように思います。

私の信じる心を救済する志というのは、自分の体験をそのままに他人様の御役に立たせていただけることで実行になります。人々がみんな同じような苦しみから解き放たれるよう、さらなる自分自身との信頼を築きあげていきたいと思います。

自分自身になる~揺るがない自信~

人間はお互いの信頼関係を築くのに自分との信頼関係を先に築く必要があるように思います。信頼関係の本質は、他人の評価から測るのではなく自らの自信によって育まれるものだからです。

信頼というのは、自分自身のありのままを受け容れることのように思います。それは認めるということです。自分という存在がどういう存在であるのか、現実を含めてすべて丸ごと受け容れます。そしてそのような自分を受け容れてくださっている周囲のことを丸ごと受け容れます。そうすることで次第に今の自分を認めることができていきます。

自分はこれでいい、自分はこのままでいいのだと自分自身を認めつつ、自分が信頼できる自分になろうと自分の甘えに打ち克ち続けていくことで自分自身との絆も深まり、同時に周りからも信頼されるようになるのです。

自分が決めたことや自分がやろうとしたことは自身で実践していくしかありません。それを観て周りもその人は信頼できる人かどうかを判断しているのです。いくらその人の見ている前だけや表面上だけを取り繕ってみても、自分自身が決心したことはその人にしかわからないものです。

自分が決めたことができない人を周りが励ますのは、その人が自分=自身になってほしいと応援しているのです。あるがままのその人になるとき、人は美しく個性豊かに主体性が発揮されていきます。その人がその人らしくいるとき、自分自身を見出し、その自分自身が社會の一員になるとき、世の中は平和で楽しい未来を創造していくことができるからです。

お互いに信頼し合うというのは、常に自分自身が自分で決めたことができるように頼れ信じることができる関係がその人自身にあるということです。

よく考えてみると、信じるというものは常に自己内省が必要です。自分が自分(己)を振り返ることで、信じた自分をやれたかどうか、信じたように取り組めたかどうかを自分自身で確かめるのです。

そしてそれができていなければ自分が改善し、自分が修正し、自らを助けていくのです。自分を認めることができてはじめて人は責任が持てる人になります。それは自分自身を信じることができるようになるからです。言い換えればそれを「自信」というのです。

いつも自分のことをもっとも身近で助けてくださっているのは誰でもない自分自身です。

そのことを忘れず、自分を認め、自分に感謝するとき、人は自分を信じはじめるのでしょう。自分を好きになるということは、自分を大切にするということです。

自信がある人は、信頼されます。信頼される人は、自信に裏付けされた自分自身が自立しているのです。なにが自分にできて何が自身にできないかを正しく認識することができることではじめて頼ることの素晴らしさ、仲間の存在の価値に気づくように思います。

自分自身と仲よくすることで仲間はできます、その仲間を大切にすることで周りの仲間が増えてチームはできます。お互いがお互いを信頼し合い仲間になっていく中で、自分自身というものにも出会います。みんな自分自身との関係づくりのなかで苦労したからこそ人に共感でき、その人を応援して励ましたくなるのです。

一期一会のご縁がある人たちと一緒だからこそ、絆は結ばれてかけがえないのない信じる仲間がある世界に生きることができるように思います。

ひとりひとりの存在価値が光り輝く昴のような集団を目指していきたいと思います。

 

遊び心~画一ではなく個性尊重を大事にするということ~

今の日本社会や組織の問題を見つめていると、画一化という教育とは何かというのが観えてきました。ほとんどの場所では、同じことを周りと同じように平均的に行うことが良いと教えられ、それを目標に刷り込まれてしまうと他とは異なるということをあまり良いことだと思わなくなります。

周りと同じであるかというのが平均ということで、その反対が独創というものです。

人と異なることを行うにはユーモアが必要です。これを日本語では遊び心というように思います。そしてユニークな個性が必要です。これを日本語では自分らしさというように思います。

日本人はもともと独創性をあまり重視せず真面目に周りと合わせていく中で困難を乗り越えようとしてしまいます。これがマジメすぎてアソビを失う原因ではないかと最近感じるのです。

以前、オランダに訪問した際、ある子ども主体の教育のコンサルティング会社の代表者より私が大変ユニークだと褒めてもらったことがあります。人と異なることを行い、それを愉しんでいるからという理由だったのかもしれません。そしてそれが我々が目指す子ども像だとも付け加えられました。

人と異なることをしないというのは画一化ということです。それはみんなを正解に従ってその答えになるようにコピーしていくということでもあります。そうやってコピーされていたら、マジメにやれるようにはなってもふざけたことはしなくなってしまいます。

特にふざけたことをすれば常識外れだと罵られたり、変人だと蔑まれたりしていればそのうち誰もそういうことをしない方がいいと思うようになっていきます。

しかし本来、一人一人の人生は別物であり同じことはありません。他人の人生は参考になったとしても同じ人生など歩めることもありません。だからこそ自分は自分なりに独創性をもって事に挑み、新たな道を常に切り開き続けていかなければなりません。

その時の正念場は、周りと同じことをしないということです。

そのためには、きっとこれで合っているといった固定概念に縛られないことだと思います。常に新しい発見と発明を繰り返しては、それを試行錯誤する。その中でユニークさもユーモアも磨かれていくように思います。

硬直した組織は必ず遊び心を失っていますし、硬化した人間関係も同様に遊び心が亡くなっています。

世紀の大発見も、時代を揺るがす大発明もすべては遊び心から産まれるものです。それはもっとも自分らしい姿から誘発されるものです。マジメでもフマジメでもなく、遊び心満載のふざけた生き方が硬直硬化した自分自身を解放してくれると思います。マジメそうにしてサボっていることの方がフマジメだと思いますから、いい加減にみえても本気であることの方が自分らしいと私は思います。

大人になるというのはサボらないこと、そして周りをコピーすることだというのはあまりにも虚しいものです。いつまでも子ども心を大切に一度きりの人生なのだからもっと遊んで愉快に道楽を歩んでほしいと思います。子どもたちにはいつもいつまでも愉快痛快に個性尊重し生きる自分の背中をみせていきたいと思います。

自然の評価

人は自己肯定観が低いと、どうしても他人の価値観や評価に合わせてしまいます。言い換えればあるがままの自分でいることよりも、周りの人たちの評価に合わせた自分を演じてしまうのです。言い換えれば自分の求めている評価が周りから手に入らないという執着の一つです。

これはありのままの自分というものよりも、皆に合わせている自分でいることを優先するときに本当の自分が分からなくなり苦しくなるのです。幼少期の体験が影響をしているとも言いますがそれは切っ掛けにすぎず、みんな自分が役に立っているかどうかを判断するのに周りの他者評価を確認するのです。

実際には、自分が相手を思うように相手は自分を思っていると実感することかもしれませんが自他一体に必要としあっているという感覚を持つには、お互いにありのままの自分で精いっぱいに生き切ることしかないようにも思います。

そもそも自分の存在や能力というものは、自分のものではありません。これは天や神仏、先祖から分けてもらった力であり存在です。それは何かに必要だからそのようになったともいえます。

たとえば、植物や樹木の世界でも多様性があり、時代に合わせて寒い時期に強いもの、温かい時期に強いもの、虫に強いものや、病気に強いものまでありとあらゆることに対応できるように微妙に分かれながら変化していきます。同時に強さというのは弱さが生まれますから、弱いものにも分かれていきます。

平均的にみんなと同じことができるから能力が高いのではなく、それぞれに与えられた能力や存在そのものが価値があるともいえるのです。

つまりそう考えれば、誰一人何一つ無駄なものはない。すべては必要であるということを意味するのです。しかしそれを自分が必要かどうかを周りにあわせて判断していれば、そのままの存在価値よりも相手が求めたことに応えられれば必要となってしまうのです。

もちろん役に立ちたいですが、立てないこともあります。その場合は意気消沈してしまいますが、その時同時に自分の存在はほかの誰かの役に立っていることが多いのです。

例えばある植物が花を咲かせてほかが咲かせないとします。ミツバチや蝶々には役に立てなくても、そのほかの虫たちや後からやってくる生き物たちには役に立ちます。自分がそう思っていなくても、自然界では自分らしく一生懸命に生きるのなら天がそれを調和してくださるともいえるのです。

つまり人事を尽くしていけば天命が下るように、自分自分を精いっぱいに生きていれば何かの一つの評価基準に囚われなくても必ず世界や歴史、自然の御役に立っているのです。もちろんお役に立ちたいと願うことは大切ですが、無理にお役に立つためにその人のための仕事を創っていたら周りのみんなも合わせるために大変になります。

自分の存在は天が与えてくださったものだから、一生懸命に楽しもう、一生懸命に生き切ろうと真摯に自らの道を歩むときに自己肯定ができると思います。つまり自己肯定とは、「これでいいのだ」と自分のすべてをあるがままに受け容れることです。

もしも自分が居なくてもいい存在なら、神様もつくっていないと思います。自分が気づかないだけで必ず自分は何かの役に立っているのです。自分が役に立たないと真面目に思うのは、人間の評価に縛られているからです。自然の評価に合わせていけば、雑草であろうが害虫であろうが、病原菌であろうが、すべて必要不可欠な存在なのです。

世の中にこうでなければならないという頑固さは、同時に他を排するといったマジメさを蔓延させてしまっているように思います。余裕をもって豊かに生きられるようもっとゆっくり、もっとじっくり、今の自分が存在させていただけることを味わいながら自分の存在のままで真心でつとめていきたいと思います。

自然の評価は、かつての祖神から受け継がれてきた古道、かんながらの道にあるような八百万の神々です。すべての生き物は宇宙地球の分霊であり、そのままに神々なのだから自分を認め大切にする真心をもって周りの神々を認め大切にしていきたいと思います。