今問答

人は物事に取り組むとき、答えから探そうとする人と問から導いていこうとする人がいます。

もともと学校では、答えがあって答え合わせをし、適切な手段で答えを出したことで合格になるように教え込まれてきました。そのためか結果よりも手段が大事であり、手段が間違っていると思えば答えが出る前に諦めてしまう人が増えたように思います。

しかしよく考えてみると、手段というのは刷り込まれた常識のことで本当にその通りにいくわけではありません。実際の人生を振り返ってみても、最初の入り口はマニュアルが必要でも応用はまったくマニュアル通りにはなりません。手段とは、あくまで最初の段階であり目的に対して本質かどうかが結果に対しては重要だと私は思います。

そもそも結果というのは、結果が先ではなく体験して挑戦したことの現れとしての結果が出てくるだけのものです。その結果をどう受け入れ改善し、次の挑戦につなげていくかで体験そのものが善いことになるのです。

世の中は答えが出ているものをわざわざ探求しようとする人はいません。それは常識というものと同じです。常識は変えられないものだと信じ込んでいたり、世の中はそうなっているものだと疑問にも感じないようになればそれはもう考えていることをやめているともいえます。

考えるというのは、常識を疑うことを言います。それは自分自身の中にある常識に「?」を持つことです。本当にそうだろうか、自分が思い込んでいるだけではないか、実際の世界は自分の思っているものではないのではないかと、自問自答を繰り返して行く中で自分の中にある真実を見極めていくのが学問です。

それを誰かがいつも答えを持っていると、答えさがしばかりをしていたら体験したことを活かすよりも体験せずに先に手に入れることの方を優先してしまうものです。体験の尊さというものは、その人だけのかけがえないのものです。

その人の体験は、必ず誰かの御役に立つのです。これは人類だけではなく、動植物から昆虫にいたるまでそれぞれの個性にそった人生を生き抜くことで環境の変化、時代の変化に順応していく種を次代へとつなげてくことができるのです。

またその体験の中にこそ、ご縁や一期一会、御蔭様や有難さ、勿体なさも感謝も真心も全てがそこにあるのです。体験をしても体験しない人もいれば、体験をしようとしていたのに体験をしたがらない人もいます、これこそが常識に縛られている証拠なのかもしれません。

当たり前ではない日常にどれだけ本気で味わい尽くすか、当たり前ではない今にどれだけ真摯に向き合っていくか、仏陀が言う通り人生は四苦の生老病死のみならず、八苦の愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、求不得苦があります。

しかしそのすべての体験こそが自らの魂を磨き、そして心を鍛え、精神を高めていくのも事実です。体験を避けて過ごす一生もまた一生、体験を味わいながら痛快愉快に歩むのもまた一生。

全てを善かったことにしていくためにも、体験の意味を味わい、その体験をさらに人の御役に立てていくことで人生の花もまた咲いていくように思います。

日々は学びの連続ですから、学ぶのを已めないことこそが体験を尊ぶ生き方なのかもしれません。疲れや忙しさという甘えに己が負けないように、あれこれ思い煩わず体験を優先しそれを味わい反省する面白い今に邁進できるようになりたいものです。

二度とない今問答だからこそ、今しかできない有難き今の感謝の心のままにご縁を歩んでいきたいと思います。

  1. コメント

    未来に対する不安から、人は、より確かで安全な道を選ぼうとします。そこで、答えを先取りし、そこに行き着くためのより無難な方法を探すのでしょう。しかし、この生き方では、未来が「閉じて」しまっています。「明日」は「今日、あるいは今日までの生き方」によってその展開が変わります。ですから、本来、「明日」は「開いている」のです。「問い」によって、まだまだいろいろな可能性に満ち「開いている」のです。その「開いている」明日を、常識や決めつけ、分別という名の当たり障りのない判断によって閉じてしまっていないか?!気をつけたいと思います。

  2. コメント

    大山会長のお言葉の中の、「段取り」とは教えることではなく、
    全部の体験をできるような段取りなのではないかと感じました。
    成功した人からすると、こういう方法でやればいいと教えたくなりますが、
    その人でさえ、その方法を発見するまでにはたくさんの失敗をしていたと思います。
    自分自身を振り返ってもえいぎゅおの昔のことは随分と忘れてしまって、
    今の知識ばかりが残ってしまっているように感じます。
    信じて待つという事の意味をもっと噛みしめていけるように、自分自身の
    変革スピードを上げていきたいと思います。

  3. コメント

    学びのためには何か新たな大きな体験をしなければならないように感じていましたが、普段当たり前と思っていることをもっと大切に出来る方が実は重要なのかもしれないと感じました。昨日のような特別な体験は自然と感じ取る量も多くなりますが、日頃の些細な体験ほど質高く味わえるようになっていきたいと思います。

  4. コメント

    天寿を全うし旅だったと思うといろいろ不思議に思うところがあります。役割を遂げ逝ったと思うと、自分が担うべきを担ったのかなとも思います。ただそれは一体何だろうかと思います。先立つ祖母の元へ逝ったと思うとそれはそれで喜んでいるだろうと思うと不思議さが増します。知らないこと分からないことばかりですが、きっと何かあると答えのない答えもある、答えを出さなくてもいいと感じていきたいと思います。【●】

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