「考えない」

知識というものの使い方には色々とあるように思います。

知識はあるときは、効果がありますがまたある時は邪魔をします。知識はもろ刃の剣であり、使い方次第で本質から外れてしまうことがあるのです。

例えば、考えても考えても答えが出ないとき、その時には「考えない」で実行するということがあります。これは考えることでは答えが出ないようなことをいつまでも考えて解決しようとしても無理だという選択をするということです。

しかしそれを分かっていてもいつまでも行動できないのは知識というものがあるから行動を邪魔していくのです。言い換えれば知識そのものが我欲を助長してしまっているのです。

知識というものは、思想であり、思想は行動ではありませんから埋められない壁があります。その埋められない壁とは経験のことであり、経験がなければ体験できませんから思想では補えないのです。つまりは考え過ぎることで、本来の本能や直観のようなものを覚っていくことがなくなっていくように思います。

本来、人間には全てのものが備わっていてその中には自然が一体になって存在しているということころに立脚するとします。すると心があり、そこには魂がありとすれば知識がなくても完全な存在ともいえます。産まれてきては、呼吸をし心臓を動かし、そして食べ物を探すように生きる方法を自覚しています。

つまりは考えなくても私たちは生きる力が備わっているということです。それを考えることによってできなくしていくのがこの思考の罠なのかもしれません。

クリシュナムルティの日記に下記のようなことが書かれています。

「あなたは、多くの知識を持ってはいるが、心は貧しい。そして心が貧しいほど、知識への欲求は大きくなる。」

これは私なりの解釈ですが、実践しない思考では心が貧しい。貧しくなればなるほどに実践をしなくなって知識ばかりを探そうとするという意味ではないかと思います。

今の時代は知識ばかりで成り立たせようとしたことで真心や思いやり、そして誰かのためにと自分を盡していくことで愛することなどをあまり大事にしなくなったようにも思います。そういう刷り込みを受けて育ってしまえば、知識が豊富だと心も豊富だと勘違いするのかもしれません。だからこそ刷り込まれた知識がそのものが邪魔をしては固定観念や先入観にいつも囚われてしまうのです。この固定観念や先入観こそが、本来の自我の目覚めを妨げていることに気づかないのです。

それを取り除くには自然を信じる「勇気」であろうと私は思います。

今は勇気が必要な時代、その勇気を大義のためや愛する人たちのためにと発揮していくことが「考えない」ということなのかもしれません。「自分の実践が誰かの勇気になる」のだからこそ、勇気を出すことを優先していくことが真の心の豊かさなのかもしれません。

「考えない」ということは、思い切った勇気、出し惜しのない真心、思いやり誠実に盡す、人を信に愛することなどを言うのです。そうして観ると考えないで実践しようとするのは人道の極みなのかもしれません。

日々に実践することを何よりも大切に取り組んでいきたいと思います。

福自省

日々の実践をするということは、日々を怠らないということです。

これは日々というものは、大切な記憶に焼き付けていくものですがその焼きつけたものが必ず子孫たちの発展につながっていると自覚するからのように思います。自分だけでもという「私」に囚われてしまったならばまさに私欲にもっていかれたとなるように思います。

二宮尊徳に、このような話が残っています。

「天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生ずるのと同じである。それゆえ、人道は私欲を制するのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とするのである。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理は永遠に変わるものではなく、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ、人道は勤めることを尊しとし、自然にまかせるのを尊ばない。人道で勤めるべきは、己に打ち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。己に打ち克つとは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨てて、わが心の米を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。『論語』に「己にうち克って礼の規則にたちかえる」とあるのはこの勤めのことである。」

つまりは、自然は日々に怠らずに流れていても、人間は私欲が出てくると怠ることになる。だからこそ「人道は一日怠れば、たちまちすたれる」という意味になる。

ここに如何に「実践」を徹底することが大切なのかということが自明しています。

人は私欲が入ってくると、その実践を自分の都合で置き換えていくものです。最初に決めた初心や何のために行うのかということを忘れて、気が付けば実践風のことを実践と呼んだりもするものです。しかし本来の実践とは、初心のままであることであり、最初に覚悟し決意したことを何度も何度も怠らず勤めていくことのようにも思います。

今のような誘惑の多い時代に、大切なものを守るというのは自然農の生き方ように真心や誠実さを優先する実践を行うことのように思います。

そして実践が独りよがりにならないためにはそれを福に転じていく精進がいるように私は思います。もちろん実践を徹底するとなれば、思い通りにいかない環境の中で上手くいかないようなことにも出会います。それをどれだけ乗り越えるかというのは、誠実にそれを受け止めたか、受け容れ改善したかということが問われるのです。

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」

二宮尊徳の生き方として、実践の大元にはこの誠実という正直があるのです。転じるというのは、簡単なことではなくどれだけ誠実さの方に舵を切ったかが常に問われます。それは思いやりのことですが、思いやりを増やしていく、思いやりをより大事に育てていくといように実践を高めていくことが真の人格的成長、つまりは天を見ては自分を正すという実践になっていくようにも思います。

日々を怠らず勤めるというのは、日々の実践を積み上げていくということでしょう。

他人のことよりも自分の実践が高まっているか、誠実であるかを常に自省していきたいと思います。

緊張とプレッシャー

人生ではプレッシャーや緊張を感じるシーンというものは沢山あります。それはスポーツであったり試験であったり仕事であったりと様々です。これらは成長していくために必ず通過するものであり、人生の中では何度も似たような体験を積んで発達していくように思います。

ここで緊張とプレッシャーを深めてみようと思います。

そもそも緊張とは、自分のことを意識するという自律神経の働きともいえます。自分が失敗したらどうしようかとか、自分がうまくできなかったらという他人から評価されてしまう恐怖感から湧き上がってくるものです。結果を気にしすぎたり、最悪な場面は避けようとし過ぎたりしているうちに感情に呑まれてマイナス思考に陥ってしまいます。脳科学的に言えば、前頭葉前部が正常に働けなるからだと言われますが、自意識過剰になることで心と頭のバランスが取れなくなってしまうような感覚に陥るのです。

例えば、誰でも自分のことをあまり気にし過ぎたら自分の手足でも動かづらくなる体験はしたことがあると思います。自分のことを気にせずに動かすときは正確でも、自分のことを気にしすぎるとうまく動かすことができません。もちろん、緊張を乗り越えるには体の慣れという場数の練習、このパソコンのキーボードを打つように最初は意識して打っていたものが今では自動で打てるように何度も何度も練習することが必要です。しかし同時に、心もヤル気を維持して何度もチャレンジする勇気を出す練習が必要です。そしてそれを達するために技能を磨く練習も必要です。つまり以上の心技体の経験とバランスがあってその緊張も解きほぐされていきます。

一般的には緊張はよくない、緊張するなとはよく言われますが、ある意味でのプレッシャーは善い、プレッシャーを転じていけと言われるのはなぜかということを考えてみます。

そもそもプレッシャーとは、重圧や威圧という意味で使われます。これは外圧的な力で何かの圧迫感があるというものです。自分だけの体であれば身軽ですが、背中に背負うものがあったり何かの重荷が乗れば思い通りには動けなくなっていきます。

例えばチームスポーツや仕事であっても皆の期待を背負って取り組んだり、ここぞで外してはならないような大事な局面に善い働きができるかどうかの時にプレッシャーを乗り越えてという言い方をします。プレッシャーとは、役割を担い、責任を負うということであり、自分が背負って立つのだという自覚がある人がはじめて感じれるものです。なので緊張とは少し異なり、仲間のためにや誰かのためにと成長してきた人たちが実感するものです。

組織の中でのキャプテンやリーダー、またはエースをはじめある種の立場を持つ人たちはいつもチームの中で実力が認められた存在です。だからこそいつもプレッシャーにさらされているともいえます。

しかしこれがその人を真に成長させていくものになります。人は自分だけのことを考えていたらあまりにもちっぽけな存在になってしまいます。自分を含めた周りの多くの人達のことをどれだけ思いやりその人たちのことを考えているかで偉大な存在にもなるのです。

人間は、自分が授かった恩恵や感謝などの歓びがあればあるほどに御恩返しをしたいと願うものです。そしてそれが自分の挑戦が誰かのための勇気になると信じることであり、自分が諦めないことで誰かの幸せになると信じぬくことができるのです。

このプレッシャーというものは、実は大変有難いことであり、それだけ実力が備わってきた証であるとも言えます。自分が誰かの役に立てるところまで努力したからこそ、自分が誰かの役に立ちたいと本気で願ったからこそプレッシャーもかかってくるのです。そのプレッシャーが真の自律や自立を促すことでリーダーへの道のりを歩んでいくように思います。

そしてリーダーになるとき、そこに仲間の存在に気づくのです。仲間がいるからこそ、努力でき、仲間を守りたいからこそ強くなりたいと願うのです。そして仲間を守りたいと思うからこそ助けになるのです。

話を戻せば緊張は自分自身で練習をして乗り越えていくものですが、プレッシャーは誰かや周囲のためにと思いやりを実践することで乗り越えていくものではないかとも私は思います。

そしてプレッシャーを転じていくというのは、それを福にしていくということであろうと思います。何があっても誰かのために遣り切ったのならばそれで善いという境地です。この生き方に人が感動し、それが他の誰かを変えていくことになるからです。

善い意味でのプレッシャーとは、重圧を避けることではなく重圧があるようなお役をいただけたことに感謝する心のことかもしれません。福に転じるには、そういうお役目役割が必ず誰かに交代されること、それまではしっかり自分が勤めようと謙虚に生きることなのかもしれません。

活かされるというのは、自分の役割と影響力を自覚することのように思います。

緊張とプレッシャーをミマモリングし、新たな成長を促していきたいと思います。

現実

価値観を受け止めるというのは、現実を受け容れるということに似ています。

世界は知らずしらずに自分の観念で歪んで見えているもので、ありのままにあるがままに捉えるといことは大変難しいように思います。それは受け容れられない現実が沢山あるのと似ていて、それは人によってそれぞれに異なります。

突然考えもしなかったことが発生したりすれば、それを受け容れるのに時間がかかるものです。その時その時には如何に現実をありのままに受け容れることができるかで価値観は柔軟になっていきます。

自分の思い通りということを繰り返していると、現実逃避してしまうことがあります。希望が強ければ強いほどに、期待が強ければ強いほどに現実が受け容れられずそこを見ないようにと勉めてしまうのです。客観的に見ても受け容れなければそれもまた現実逃避になってしまいます。

好悪感情と向き合い、自分にとって見たくない現実をそのままに観るというのは現実というものを正しく認識するということになります。その時こそ、自己認識を変化させていくキッカケになります。

例えば、若い時は自分の実力を過大評価しますからこんなはずはない、自分はできるはずだと思いたいがゆえにどうしても背伸びして現実から避けてしまうことがあります。しかし実際の自分がどのくらいの力があるのかが分からなければ何の努力が必要なのかが分からなくなるのです。

これは不安や自信のなさからも現実が離れてしまいますが、現実を知るところができるなら自ずから実力を磨いていくことができるのです。どうしようもない現実に出会ったとき、人ははじめて強くなります。その現実をありのままに受け容れて、自分というものを知ることが自分を変化させていくということなのかもしれません。

自分の価値をどれだけ正直に理解するか、それが素直ということなのかもしれません。認めることも受け止めることも受け容れることも、謙虚でなければできないことです。現実はいつも助けてくださっている周りの見守りを実感できるものですから現実を知るのは自分の傲慢を知るということかもしれません。

現実の有難さ勿体なさに気づいて日々を感謝で歩ませていただきたいと思います。

発想の転換

先日、発想の転換について思うことがありました。

組織人事のことに携っていると、発想がマジメであるということよりも真剣かどうかということを優先しているかというのはよく考えるものです。

この真面目という考え方については以前、ブログでも書きましたが今回は単に他人からの評価を気にしてやっているのをマジメとし、真剣に遣ることを真面目と書いてみます。

人は何かを行う時に、努力すれば物事は解決すると刷り込まれています。その努力の定義は世間と比較してこれくらいドリョクすればとか、何かと比べてこれくらいドリョクするのだからというように他を意識しながらドリョクする癖を刷り込まれてしまいます。

するとこれだけドリョクしているのにとか、ドリョクしているのだからと努力というものを勘違いしたままのドリョクでは物事が解決していかないのです。本来の努力は、他と比較するものではなく達成するための本気の努力であり、自分に打ち克つ努力のことです。

そういう努力の場合は、今までの自分の発想を転じて新たな努力の境地を見出すことが必要になります。例えば、今までのドリョクの場合は「頑張る」という発想でしたが、これからの努力の場合「楽しむ」というような転換という具合にです。

そしてこれは先述しているマジメというものでも同じです。マジメにやっているよりも、真剣に行うとなれば発想が同じく頑張ればいいではなく、楽しめばいいと変換するのです。楽しむというのは簡単ではありません、周りからみれば大変不真面目なことをしているようにも見えますし、あんな不真面目で遊んでいたら上手くいくはずがないと批判の対象になったりします。

そういうものにいちいち負けてしまっていたら自分との勝負に打ち克つ前に、勝負がついてしまっているからです。人の目を気にして一々取り組んでいたらマジメそうにみえても大変不真面目なことをやっている場合があるのです。

真実はどうかといえば、本人は真剣なのだから周りの評価など気にせずにせっかくやるのだから周りには可笑しなことをしているようでも不真面目に見られてもむしろ楽しみながら遊びながら構わずやろうという発想を転換すればいいのです。

発想の転換とは、本質を維持することに似ています。本質を変えて自分を守るか、本質を守るために自分を変えるかということです。

本来の本質や理念を大切にしようとすれば、周囲の目や自分の中の執着にとらわれなくなるのです。そういうものを気にするところに我が入り込み、本来の努力や本来の真面目であることを遠ざけて対面体裁のドリョクやマジメに陥るように思います。人間には、恐怖心がありますから他人の評価というものはどこまでいっても怖いのです。しかしその恐怖よりも大切なものがあると信じる時、勇気を出して変わっていけるように思います。

自分自身が変わるというのは、自分の発想の方をゴロンと転がし換えてしまうようなものです。今までの自分から新しい自分になるというのは、発想の転換です。

今の時代はマジメにやって正直者がバカを見るとか愚痴ばかりの世の中です。そうではなく、正直者は心もオープンで素直ですから言い換えれば周りから見られることを気にしない程バカになれるのですから決してバカを見ることはないのです。それはバカがないからです、執らわれていないからです。

せっかく世界でたった一人の自分らしいものを与えてくださっているのですから、自分の御役目を有難く感じ、もっと信じた方を優先する真の強さを子どもたちに見せられるように楽しんでいきたいと思います。

どんなことが起きていても丸ごと善いことにしていこうとするのが本来の自然の発想なのかもしれません。自分都合の発想を転じて自然の発想に転じることを楽しんでいきたいと思います。

 

独善と満善~聴聞認識の実践~

独善的という言葉があります。

これは独り善がりという言い方での解釈をされていますが、自分だけが正しいと勘違いしてしまうことを今の世の中では言うように思います。本来は、孟子(盡心上)の中で使われた言葉ですが昔と今ではその漢字の意味も異なってしまうものです。

本来の独善とは、孟子は「幸いにして権力をもつ地位についている人は皆に善いことをするよう勧めよ、一方、志が満たされず権力と無縁の状況に置かれた人は「独りで善いことをしなさい」と説きました。

これは誰も見ていようが見ていまいが、天が観ているのだから独り慎み独りでも善を行いなさいという意味で用いられたということです。陰徳のようなものであり、これは見返りを求めない天の恩徳と等しい実践を行うことを述べているように私は思います。

しかし実際の世の中で今使われる独善というものは、自分だけが正しいと思い込んでいるものです。これは他人との違いを認めないところから発生してくるように思います。

この独善に陥るのはなぜかといえば、相手の立場で物事を考えることができなくなるからです。人は自分が考えたことが正しいと思い込んでしまうものです、それは自分の価値基準で物事を査定し、自分の判断基準で事物を認識するようにできているからです。

自分が見た世界からみればそれは間違っていないと思うことでも、相手の世界からみたら間違っているということが分からなくなるのです。例えば、この独善に陥りやすいのは組織で言えばトップであり、社會でいえば人間社会を管理する立場の人たちのように思います。

これが起きる原因は何かといえば、「現状認識のズレ」によります。

現状が歪むのは、そこに自我や自分の価値観が入り混じるからであり人はそれを他と共有することがなくなってくると正しいことばかりを優先するようになってしまいます。例えば現状とは、トップと現場の現実感覚の差であったり、行政と現場の現実感覚の差であったり、それは何処にでも発生しています。

ただ困るのが、悪気がない中で現場のためになんとかしてあげようといくら思っていてもそれが正論であっても、現状認識がズレて現場とギャップが開いていたらいくらそれが善い案であっても現場では使えるものにはなりません。また逆にいくら現場が善いと思っても、それがトップの現状認識とズレてギャップが開いたらそれもまた現実には活かすことはできません。

常にお互いにそのギャップが開かないように互いを確認することが組織において何よりも重要であると私は思っています。

独善に陥るというのは、それぞれが自分の思い込みを優先して現状認識からズレたということです。言い換えれば、御互いの現状認識に差があり過ぎるということです。これを常に修正し取り除いたときにこそ、「価値観の共有」が実現し、独善ではなく満善ということになるように思います。

正しくありたいのであれば、自分が正しいというよりも全体で正しいということがまず優先されること、その上で現状認識が歪まないようにと常に修正し続けることだと思います。

独善ではなく満善を、そしてそれぞれが現状認識を持った中での「最善至善」を大切にしていけば自ずから協力する風土は確立できると思います。なぜならそこに寛容と思いやりの関係が築けるからです。

自分自身が現状認識からズレないように、常に独り善がりにならないように留意して日ごろの聴聞認識の実践を続けていきたいと思います。

ふるさと~自然父母の恩徳~

昨日は、古里について考える機会がありました。今年は里がテーマですが、里もまた自然そのものであることをご縁のたびに確信しています。

古里とは、辞書では「1  自分の生まれ育った土地。2  荒れ果てた古い土地。3 以前住んでいた土地。4 宮仕えや旅先に対しての自分の家、自宅。(goo辞書)とあります。

明治に入ってから、西洋からの新しい価値観を優先している中でかつての自然も次第に荒廃が進んでいます。開拓できるところはすべて開拓するという欧米的な発想が、かつての田舎までも都市化していきます。これらの都市化というのは、人間中心の社会のことであろうと思います。

私たちは古里を思う時、何かといえばかつてそこで生まれ育った場所ということです。言い換えれば、幼児期や幼少期に暮らした自然と両親の見守りです。そういう見守りの中で、私たちは将来を見据えて準備をしていきました。

動植物も同じく、幼少時は安全安心な中で大切に社會で自立していくための基礎を学びます。それは優しく温かい自然の恩恵を受けられる時機地場空間だったはずです。

そこで感じた慈愛を根っこにして、自分の存在を確かめ信を抱き巣立っていきます。そしていつの日にかまた帰ろうとするのです。これを帰巣本能ともいい、犬も鳥も魚も必ずどこで生まれ育ったのかをいつまでも忘れません。

私たちは古里というものを一体何で憶えているかということなのです。
古里と言えば、有名な日本の童謡作曲:岡野貞一作詞:髙野辰之の故郷があります。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

これは幼い頃に親しんだとても美しく澄んだ童謡の一つです。メロディーが流れれば、そこに懐かしい日本の原風景が顕われてきます。日本古来の原風景を如何に伝承するか、民俗学の本質もまたそこにあるのではないかとも思います。

この故郷とは何か、古里とは自然(かんながら)なのです。自分の生れ育った産まれたところの風土が赤ちゃんの初乳であり、お米で言うところの苗土なのです。いのちは自分が出てきた場所を忘れません。それはいのちが続いていることを本能が知覚するからです。

そのふるさとを守りたいという心は、人間社會で生きていくなかで信を忘れないようにと願う父母の恩徳を守りたいという真心と一体ということなのでしょう。私にとっての故郷は、神社の木々の中で澄んだ清らかな水の流れ、そして眩い透明な光と草の香りがするそよ風、小さな昆虫や動物の声の聴こえるところです。

古里を心に、自然恩徳を忘れず、日々を健やかに逞しくやわらかに生きていたいと思います。

子どもたちに一つでも多くのふるさとを遺してあげたいと不退転の決意を新たにしました。
有難うございます。

 

善転の行~天人合一~

昨日は、日田の広瀬淡窓の咸宜園を紹介しましたがこの私塾には目的がありました。

この咸宜園の咸宜は、「ことごとくみな善ろし」という意味であり、よくブログで書く二宮尊徳の一円観と同じです。他にも天人合一という言い方でもいいですが元々の思想の中に、「敬天」という考え方に根差しているように思います。

これは天の心と同じように天に仕える心を持って生きるという生き方のように思います。それが万物一体善という考え方であり、善い悪いではなく丸ごと善いことなのだという天の大きさで全てを捉える力を涵養するということなのでしょう。

本来の教育の意義を広瀬淡窓は、「人材を教育するのは、善の大なるものなり」と定義しています。まさに本来の教育の本質を捉えている言葉のように思います。全てを善いことにするという思想には、自然に生きるという本来のいのちの活かしかたが入っています。

この広瀬淡窓は、幼少期から病に苦しみ、様々な逆境を善いことへと転じて生涯を歩みました。特にご縁をいただいたキッカケとなったのが、咸宜園で拝見した「万善簿」というものです。これは今の私の日々の感謝日記にも取りいれていますが、意識をするだけで善いことに転じようとする実践も高まってくるから不思議です。

どういう仕組みかというと、1日の終わった段階で、その日に行った善行が白丸で○。悪行が黒丸で●というものを帳面につけて1万回の内省を続けました。約30年間をかけて、日々に●よりも○が勝ち越すようにと念じつつ実践した痕跡が帳簿に残っています。

そして善行と悪行の数を差し引いて、月ごとにいくつ善行を行ったのか集計しました。67歳で万行が達するまで、日々に自ら取り組み実践する後ろ姿から私淑を受けた塾生が沢山いたのではないのでしょうか。時を超えて今では教えを受ける私もその一人です。

志の高さが人材を引き寄せ、そしてその時代を活かす人財を育成していったのでしょう。

最後に、休道の詩を紹介します。これは咸宜園で共に道を学ぶ人たちに師が励ました詩であると言われます。何よりも同門同胞、師友との関係の中で大切なものが得られることを述べて戒めているようにも感じました。そこにはこうあります。

休道他郷多苦辛
道(い)うを休(や)めよ 他郷(たきょう)苦辛(くしん)多しと

同袍有友自相親
同袍(どうほう)友有り 自ら(おのずから)相親しむ

柴扉暁出霜如雪
柴扉(さいひ)暁(あかつき)に出づれば 霜雪(しもゆき)の如し

君汲川流我拾薪
君は川柳(せんりゅう)を汲め 我は薪を拾わん

意訳ですが、道を歩む学問をしながら其処で苦しい辛いと嘆き愚痴を言うのはやめましょう、一枚の衣服をを共に分かち合い一緒に使うくらい仲のよい生涯の同志や親友ができて、自然と仲よく親しくなるはずです。早朝のまだ暗い時間に玄関の扉をあけて外に出てみたら、真っ白な霜が雪のように広がっている。とても寒くても日々の炊事生活に励み、あなたは小川の流れに水を汲んで来てください、私は山の中で薪を拾ってきます。

日々の修学修養は大変だけれどもそこに道を歩む道楽がある。苦しみの中に楽しみがあり、辛いことの中に歓びがある。学問を求道するのに必要な心得が入っているように思います。

今の時代は私塾ではないのでしょうが、日々に「道うを休めよ」という響きに心が揺さぶられました。そこに善転の行の鍵が入っているようにも思います。

日々に学びを楽しんでいきたいと思います。

 

個が活きる

今までの教育では個を強くすることに重きを置かれてきました。

個だけを意識し、個が如何に平均より以上に優秀になるかということで教育を施されました。しかし社会に出てみれば、かつての強烈なリーダーが引っ張っていく時代というよりも如何に協力して豊かにしていくかということに価値観も変化しています。

高度経済成長の時は、環境が成長できるようにできていましたから集団を優先しては個はその集団に合わせるという考え方があったように思います。

しかし、集団を優先して個を合わせているうちに集団についていけない個は排斥するという考え方になってきました。これは西洋から入った価値観と思想であり、個人主義のもとに集団を形成している「管理」という考え方に根差しています。

本来は、私たちは個も集団も優先するという考え方で生きてきた民族です。それは個を善くして集団を形成するという「協力」という考え方に根差します。

集団を形成して生き残ってきた私たちは、個が時として強くなるときと弱くなるときを知っていたように思います。これは、状況に合わせて使う力が異なっているからです。

かつて日本三大私塾の一つに、日田の咸宜園がありました。広瀬淡窓が開設したのですが、そこにこんな言葉が残っています。

「鋭きも 鈍きもともに 捨てがたし 錐(きり)と槌(つち)とに 使い分けなば」

これは人間には、人それぞれ異なった能力がある。頭脳を鋭く早く回転させることが出来る者も居れば、頭の回転が鈍いものも当然いる。しかし、頭の回転の早い者だけが世の役に立ち、頭の回転が鈍い者は役に立たないものであるかと言えばそういうわけではないのだからその能力にあった使い方をすれば、役に立たないという者など居ないという意味になる。

これも同じく個を完璧にするという考え方から、集団の中で個を活かすという考え方が真に個を活かすということになるのです。

なんでも一人でできる人を育てるよりも、集団の中で如何に状況に合わせて光る個を創りだすか。それが環境であり、それが理念であり、それが優先していく心をのあり方であろうとも思います。

個を強くの思想にはどうも個を完璧にという方向にもっていこうとする固定概念に縛られているように思います。そうではなく、如何にその個がその個らしくいるかが真の強さなのかもしれません。

個が強くなるには、集団もまたその思想を受け容れる程に強くある必要があります。皆がそのように御互いの個性を尊重してこそ、真に個が活かされます。みんなで同じことをするよりも、みんなで同じ目標を設定して取り組むことに価値を感じます。

個人の目標は集団と如何につながっているか、集団の目標が如何に個を活かすのかを考えて配慮していくのがこれからの時代のマネジメントになるのでしょう。

今年は新たに挑戦を続けていきたいと思います。

努力を育む

何かに打ち込み努力をする際に、心を入れたか、魂を籠めたかというのがあります。これらは努力してから何かを決めるという発想ではできないことです。

よく学校で勉強するときは、よく分からなくても努力はできる癖を持たされるものです。意味も分からないのに暗記させられたり、目的が定まらないのに宿題や課題などで努力をするようにと諭されます。しかしこれは努力というものではなく、勉強というものです。勉強というものは、中国に行った際に中国語で無理やり何かをさせるという意味になっています。

読んで字の如く、勉強とは無理に何かをさせることを言うのです。

しかし実際の努力というものは、この勉強ではありません。なぜなら努力するために必要な心も魂も最初に決めなければはじまらないからです。努力は無理にさせられるものでもするものでもないのです。

なぜなら努力には「思い」が入るか入らないかの違いがあるからです。

例えば、スポーツでもそうですが思いが入るのと入らないのではまったくその練習の価値が異なります。思いが入る練習はまるで一つ一つの祈りのように芯が磨かれ育まれて強い信念が醸成されていきます。しかし思いが入らない練習は、ただ体を動かしているだけで身体は強くなっても心まで磨かれるわけではありません。

心が同時に磨かれなければ本番ですぐに心が折れるようになります。言い換えれば、勝負で頑張れない、続かない、迷い続ける、もしくは負け癖になるのです。努力は決めないままにしようとするのは理性を使いますが、理性では大事な場面でメンタルやハートの力を借りれません。

やはりどんなことも体を動かすだけではなく同時にそこに心と魂を籠めるといった、強い「思い」をカタチにしていくときにこそ本物の努力はなるのです。

努力をするのと努力がなるのとではまた異なり、努力はできても努力が為るにはやはり先に覚悟を決めるということが肝要なのでしょう。先に決めてさえいれば、体を動かしながらも思いも同時に強くなりますから努力として為るのです。

だからこそ決める時によく自問自答し、それは信条としてこの命を懸けられるほどのものだと定義したならば、どうやったら自分が活かせるか、どうやったら自分が活きるのか、まず貢献できるか、諦めず開き直っては辛い中でもその辛さを自ら逞しく乗り越えていくとき、努力は次第に本物になるように思います。

心を思うとき、思いやりが入るのですからやはり誰かや何か、もしくは他人のために努力できる人こそが、真に自分のための努力ができる人なのかもしれません。

決心したならば本物の努力はすでにはじまっています。そうすれば悩まずに、決心したままで取り組んでさえいれば後は時間が経てば、努力が育まれ必ずそれなりの姿になると思います。

決心して努力する人たちにエールを送りつつ、自らも思いを強くしていきたいと思います。