今~遠近を超えて往く~

人生全般をふり返る時、遠近について考えることがあります。人は遠くの出来事や遠くの未来のことに思いを馳せたり、近くの出来事や近くの未来に一喜一憂するものです。

道を歩んでいく中で、遠くを見ているだけでは近くが見えず、近くばかりを見ていたら遠くが見えない。近くを見たり遠くを見たりしながら、今、自分がどの辺にいるのか、どのあたりを歩いているのかを実感するのです。

時折、悪路に出会い、いつまでこれは続くのだろうと苦しんだり、とても素晴らしい風景に立ち止まりたくなったりもします。また素晴らしい出会いがあって感動して涙したり、悲しい出会いもあっていつまでも引きずることもあるのです。

しかしそういうことを何度も何度もふり返り、遠くの夢を観ては足元の石に躓き転び、近くの現実ばかりを見ていたら灯台の光も分からず船酔いばかりしてしまいます。

人間というものは、今というものをどれだけ味わい切っているかによるのかもしれません。

この今というものがどれだけの奇跡であるのか、この今というプロセスをどれだけ味わい尽くしているのかで遠近を超えた本質的な今を生き切ることができるのです。

今というものを歩むというのは、遠くも近くも一緒に観るということなのです。

人生は振り返ることで、近くと遠くを繰り返します。時には、ふり返りたくない現実もあるかもしれません、もしくはふり返りたくない夢もあのるのかもしれません。しかし、歩ませていただいている道があること、そして旅は続いていくこと、共に生きる人々がいることに心が安堵するのです。

じっくりと焦らず、ゆったりと力強く、足早に休憩をこまめに、根気と真心で進む道にこそ、今を生きる術があるのかもしれません。

今年はプロセスを大事に歩むと決めていますが、一つの人生は一つの道草のようなものですから野草たちに見習いこの今に感謝を盡していきたいと思います。

 

 

現場感覚

組織人事の問題の解消を幾度となく繰り返していくと共通するところに発見があります。

どの組織でも共通するものに、共通理解というものがあります。

何かの物事を自分一人で進めようとすることで次第に周りとの距離感が離れていくものです。誰かと共にや仲間と共にと歩んでいこうとすれば、理解している範囲も感情を伴って考えていくものです。つまり意思決定のみが価値ではなく、意思決定のプロセスが真の価値だと言えるのです。

例えば会議などでも、出た答えだけを回覧してもその答えが出たプロセスがどうであったかの方を理解しないとその意思決定に自分が入り込んだわけではないからです。すぐに答えだけを求めるのは学校で教わった勉強の刷り込みがあるからです。

答えあわせをしますが、その答えさえ合っていればテストでは評価されるのです。しかしそこにいたるまでのプロセスを一緒に出していく歓びや、答えがない問題に皆で真剣に取り組む楽しい体験をさせないのでは本来の人生での共生や貢献という人間の価値に気づけません。

そもそも答えなどはないのです、仕事でも答えがないと取り組めないという人がいますがそんなことの方が不可能で答えがない問題にみんなで一生懸命に一緒に取り組む中にこそ真価があるともいえます。

真価とは何かと問われれば、どう生きたかということでしょうがそれは答えを知ることが目的ではなくそれぞれが一緒に共通の目標を握り合い叱咤激励しつつ自らの道を歩み続けることが組織の醍醐味なのでしょう。

言い換えれば、ご縁を活かしたということです。

そう考える時、リーダーはビジョンを持ち願望がありますがその願望は一人で達成するわけではなく共に歩む仲間と共に達成するためのリーダーの意義です。そうであれば達成するためには今の仲間たちがどのような状態なのか、現実はどうなっているのかが自分の感覚とズレテしまったら共に歩むことができなくなります。

リーダーは的確に周りの仲間たちが今、どのような現状なのか、どのような課題で困っているのか、どのような気持ちなのかを理解していく必要があるように思います。違った価値観を共有しながら協力するというのは大きな目標に向けて互いの感覚を一つに近づいていくことに似ています。

感覚を近づけていけば共に意思疎通が取れるようになるからです。これらの感覚とは、近づけることも大切ですがもっと大切なのは「ズレナイ」ということなのです。

頭で分かるのと感覚が近づくのは使う場所も異なるように、常に感覚を優先しその後、頭を使うというように順番は気を付けないといけません。頭がよくなり賢くなればなるほどに、実際の人生の歩みは停滞していくように思います。

知識で分かることができることを目指すのは「する」という発想で無理が生じますが、真心で実践することや共に遣ってみようと試行錯誤チャレンジすることは「なる」という発想になるから自然体になるのでしょう。

知識よりももっと大切なものは、現場感覚なのです。現場感覚とは、それぞれの人達の現実に対する感覚を理解することでまるで生きものであるかのようにその組織にはいのちが吹きこまれていくのです。

あの動植物も、空の鳥たちも、集団で生きるものたちはみんな知識で共に飛び泳ぎ走るのではなくすべては感覚を近づけているから一体になっているのです。群れのリーダーは、勝手なことをしては感覚が鈍ってきますから如何に周囲との感覚をチューニングするのかが肝要なのでしょう。

集団や組織にとって何が自然か、頭でっかちに間違わないように私自身がいつも「現場感覚」を優先して取り組んでいきたいと思います。

 

 

ありのままにあるがままに

人は他人を見るのに、こうなってほしいという願望が入っているものです。

本来のその人がその人のままに観えるというのは、自分の都合で正否を分けずにその人を観る時にその人になるのです。しかし実際は、人間には我がありますからどうしても自分にとって都合が悪くは見たくはありませんし、むしろ都合よくあってほしいという気持ちが入っていくものです。

そういう自分の願望からその人に入ってしまうと、本来のその人の気持ちやその人が今どのような状態かというものが正しく視えなくなっていくのもそのためなのです。

先日のブログで、上級者は指導する人達が初心者であることを忘れてはならないということを書いたように思いましたがこれは初心者の気持ちを忘れるなということなのかもしれません。

初心者であると思えるというのは、自分が相手のことを相手のままに見守っているからそうなるのですが自分の願望が入りこうなってほしいと強い思いがあればその人のことを過大過小に評価してしまうのです。そしてそれは言い換えれば人間は自分を評価してほしいという無自覚の願望があるということです。

だからこそまず相手がどのように感じているか、何を思っているか、そういうものをありのままにあるがままに感じる力があってこそ正しく相手のことを理解していくのでしょう。自然が自然のままに観えるには何が自然かということを自覚することを基本にしていく必要があります。

そして自分の願望の押し付けではなく、相手のことを思いやることで本来の関係や本来の信頼が強くなっていくように思います。相手に分かってもらおうとするよりも、相手を分かってあげたいという優しさ、そして自分が信じられるかどうかよりも、相手を相手の夢の高さで信じてあげたいという強さが御互いに自立し育ち合う土壌を醸成していくのかもしれません。

常に自他一体に、分けないで物事や人物と接していきたいと思います。知らずしらずに我に偏るのはまだまだ精進が足りないからかもしれません、子どもたちや世の中のために実践を積みかさね信を練磨していきたいと思います。

最善最良のパートナー

人は自分の持っているものをどれだけ他人に与えているかで物事の成否が変わってくるものです。例えば、いつも他人に求めているだけの人、もしくは持っているものを出し惜しみしている人では与えるという感覚よりも奪ったり減らないことばかりを考えている思考に陥ってしまうものです。

与えるということは、持っているということを認識する力です。

与えることができる人というのは、自分が何を持っているか、それが他人にどのように喜んでもらえるかを知っています。自分の笑顔や親切であったり、自分の信じる力や声掛けであったり、もしくは物理的な資金や料理や裁縫などであったり、歌であったり真心であったりと自分の中にあるものを探してきては少しでも与えようとします。

実はこの与えるということは、共生の原理でありよりよく生きる仕組みであろうと思います。活かされているというものに立脚してこの世の中を見渡せば、如何に自分を活かしていくかということが幸せにつながるのは自明の理です。

その中で奪うことを求める人と、与えることを求める人では、その生き方において人生の意味づけの成果がまったく違ってくるように思うからです。人生の通り方が同じだとしても、前者は、同じことが起きてもいつも貧しく、後者は同じことでもいつも豊かであるのです。

与えるということは、与えるのが好きだということです。そしてそれは最初から豊かなままであるということです。お金があるかないかではなく、その人が豊かであるということです、豊かであるから困らないだけでお金がないから困らないわけではないということです。もしも御互いに与え続ける関係ができればそれが最善最良のパートナーなのかもしれません。

与えるには、まず求めなければならないように思います。何を求めるかといえば例えば営業でも同じことですが、いつも自分が持っている最善最良のものを与えようとします。すると、それは自分の真心や誠意であったり、自分が探求して掴んだ真理であったり、その人の不安を解消するものであったり、悩みや苦難を取り除くものであったりと自分から相手のために与えられるものを持っていなければ与えられません。

そしてそこには物質的なものから精神的なものまで、どれだけ自分から与えられたかがその後のつながりに顕われてくるのです。営業で言えば与えてもいないのに奪い続けていたらジリ貧になってきます。その逆に与え続けていれば種を蒔き続けるのですから豊かに実ってくるのです。

何か与えたい、何か御役に立ちたいと強く願うこと、そして万人に感謝しその一人として自分を有用に使ってくださいと学び続けることでその機会もまた得られるように思います。

自分を世の中に役立てたいと真に願うならその人に仕事がないということはありません。逆に、自分はこんなに優秀なのにといつも不平不満をもっていたら人も仕事も集まってくることはありません。

自分の都合でこのくらいとか、過去のパターンでこの辺でという出し惜しみはすでに与える喜びから離れてきている証拠です。どんなことにも一生懸命、何事にも誠心誠意全力で、自分の最良最善でと願い続け継続実践することこそが好循環を呼び込むコツだと思います。

毎日を遣い切る、自分を出し切るということは、言い換えれば毎日真剣に与え続けたということになります。

あの自然の草花に見習い、誰が見ていようが見まいが最善最良を出し切っていきたいと思います。

職域を超える意味~役割分担~

昨日、見守る保育職域セミナーが東京で開催されました。

全国各地からそれぞれの職種、保育者や栄養士、調理師や看護師という人たちが一堂に集まり同じ理念で語り合う会です。

もともと私たちは自分の立場から物事を考える刷り込みをもっています。

例えば、会社であれば営業は営業目線、経理は経理目線というようにそれぞれの目線といった価値基準で正しい正しくないと判断しがちです。

しかしこれらの判断が正しいと思い込んでいたら、御互いに議論してもいつも平行線となり本質的に協力して一つのことを実現していくことが難しくなります。特にチームで何かをやろうとすれば、自分の立場を超えてそれぞれの役割を活かし合う関係が必要になるからです。

職種や立場というものは、部分で切り分けられたところに存在する領域のことです。それは部分では正しいことであったとしても、全体で観れば本当に正しいかどうかわからないものです。分かりやすい例は、諫早干拓などもそうですが農業と漁業で、農家を守るか漁師を守るかとそれぞれの立場を優先してせめぎ合ううちに森も海も死んでしまい職業が成り立たなくなることに似ています。

御互いの言い分を通そうとすれば、部分での正論が立ちますが全体では何が最適であるのかがその途端に観えなくなるからです。常に全体に対して何が最善か最適かを語り合うことで、御互いの固定概念や価値観、刷り込みを超えて協力できるようになるのです。

同じ理念を持つということは、自分の価値観よりも優先するものがあるということです。

自分が所属するその場をみんなでどのようにしていきたいか、自分たちが本当に目指す理想や理念のために自分をどう変化させて近づいていくか、そこに職域を超える理由があるように思います。

人は立場で役割を分けるのではなく、本来は目的や理念のために役割があるということでしょう。

何がもっとも大切なことか、何のために働くのか、それが目的や理念を実践するということになるように思います。仕事とは、作業分担ではなく役割分担であることを忘れてはいけません。

理念や理想を握り合うことで御互いの立場への思いやりも、そして楽しみや有難さも実感できるように思います。まずは私たちの会社がモデルとして実践していきたいと思います。

オープンマインド

オープンマインドという言葉があります。

これは心を開くという意味や、広い心でありのままを見せるという意味もありますが四字熟語では虚心坦懐といって包み隠さず自分を見せる事で、相手に飛び込んでいく力であったり、開心見誠といって自分を偽らず、虚勢を張らず、素直な気持ちで教えを受けて仕事に活かす力であるといいます。

よくオープンマインドと言われる人は、自然体で自分らしい姿があるから人によく可愛がられるものです。自分を理解してもらうのに、ありのままの自分を見てもらうことで周囲がその人のことを理解し、そして自分から理解してもらいやすいようにするのです。

これを自己開示といって、自分から自分の価値観を開示することで周囲に色々な価値観があっていいという広い心を示すようにも思います。

よくチーム力の中に、チームワークを乱すのは心を閉じることだと言われます。クローズマインドです。言い換えれば、この人は、またこの人たちは自分とは違うと決めつけて分けてしまう差別心や固定概念のことです。

そもそも人は異なるのは当たり前ですが、それを丸ごと受け容れているのか差別するのかでは意味が違ってきます。違いを認め合えるというのは、自分を含めあるがままの価値観を広く受け容れるということができているということです。

誰かと何かを共にする場合、違っていてもいいと思えるのはそれぞれの人がそれぞれの個性と価値観があってもいいと認めることからはじまるのです。そこから共通している価値観を探したり、自分の価値観が相手に影響していることを自覚しつながりを共有する歓びを実感するのです。

そしてそれは、相手に求めず自らが自分というものを開示するということであろうと思います。

そうやって自己開示をする人は人に可愛がられます。それは、自分から心を開くことで周りが安心するからです。チームワークには「安心」は何よりも欠かせないキーワードですから、心を開く人がいることでチームの潤滑油になっていきますから周りもその人を重宝していくのでしょう。

これはどの仕事でも必須の能力であり、自分から相手に心を開くことではじめて相手も自分に心を開いてくれるのですから自分を頑なに保持していたらいつまでも相手は自分を認めてはくれないのです。

オープンマインドの本質は、「心は開くためにある」という意味です。

心がなければ別に開く必要もなく、自分の固定概念や価値観を優先して周りを気にせずに好き勝手していればいいのでしょう。それではいつまでも自分の殻の中で閉じこもってしまうことになります。

だからこそ心があるのです。

心とはそのもの自体が世界へと目を見開いている状態であり、現実的に世界に出ようが出まいが、心が開かなければ本当に世界に出たわけではないのです。私も若いころの経験に、自分に見えている世界だけがこの世界だと勘違いしたことがありましたが、世界は心を開いた時にだけ無限に広がっていくのです。裏腹に自分を良く見せようとすればするほどに、それだけ世界が退行し閉じていくのを覚えています。

心を遣うというのは、他人に心を開くということです。心を開いていないで他人に接してもそれでは心を遣っていることにはならないからです。そしてそれは言い換えれば温かい家族のような関わりを拡げていくことのようにも私は思います。心を開いていれば、自然に心が通じ合って共に思いやり分かち合うという素晴らしい関係が築けるように思います。

今は頭でっかちに理性ばかりを偏り発達させている社会ですが、人間として心を遣うことを発展させていくことが幸せの道しるべなのかもしれません。

いつも自分から心を開いて、周囲と接するのは傷つくこともあるかもしれませんが心を育てていけるように実践をしていきたいと思います。

 

父母

父母いうことについて考えてみました。

私たちは何をもってお父さんとし何をもってお母さんと言っているかということをあまり深く考えることがありません。子どもができたら父母になるというように、父母の存在は子どもの誕生で自覚するものだと一般的には思うはずです。

しかしその父性や母性となると、お父さんはどのようなものでお母さんはどのようなものかという定義が観えてくるように思います。実際は、私たちが母に直観しているものは例えば母なる地球のような大きな存在として母を感じることもできます。父も同じように偉大な存在として感じることもできます。

子どもにとっての親というものは、単に育ててくれたのではなく、大切なものを育ててくださった掛け替えのない存在ともいえるのです。中江藤樹に「父母の恩徳は天よりも高く、海より深し」とありますが、これはその父性と母性を語った言葉であるようにも思います。

先日、あるご縁がありそれを明快に語っている文章に出会いました。それはあのインドのカルカッタで偉大な祈りの実践を示したマザー(母)と呼ばれるテレサが語った言葉です。ご紹介していた著書の中から抜粋します。

『「マザー・テレサ、お母さんって何ですか?」と聞きました。すると、「お母さんというのは子どもを産んでも産まなくても関係ないんだよ、そこにいるだけで安らぎと喜びと希望をもたらす存在、それがお母さんなのです」と。これがマザー・テレサの言う「母性」で、それこそが二十一世紀を築くのだと言われました。「では、お父さんとは何ですか」と、私は恐る恐る聞きました。「お父さんには経済的に家族を支える大事な仕事がありますが、もっと大事なのは正義を愛すること、正義のためにいのちをかける、それがお父さんです」とおっしゃいました。正義を生きるお父さんは権威が身につくと言われました。権力ではなく、権威です。お父さんが正義を生きることで家庭は一致できる。今、あの人は日本の代表的なお父さんだ、と言われるような人はまわりを見回してもいませんね。お父さんはやはり正義をいきなきゃいけないのです。現代はこのお父さん像が薄れているわけです。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

お母さんとお父さんとは、どのようなものであるのか。

私達の生き方そのものの中にお母さんとお父さんが住んでいるからこそ、平和で安心した家庭が築けるように思います。役割とは、表面的なもので行うのではなくその真心の中にこそ存在しているのでしょう。自分の中に父母の恩徳が恵まれていること、父母の役割をいただいていることに感謝の気持ちで一杯になります。

そして、さらにこういうメッセージが続きます。

『「そして二十一世紀を背負う子どもは、私の娘、私の息子というのではなく、神、仏からの授かりものなのです。マザー・テレサは「神の似姿として子どもは贈られてきた。私の子どもであると同時に神の似姿としての存在で、その子どもを上手に育てると、神や仏や聖人や菩薩になる。だからお父さん、お母さん、学校の先生、みんな神様に育てあげてください。」と。』(「生命のかがやき 農学者と4人の対話」 中井弘和著 野草社より)

保育ということは、何よりも大切な使命です。

自分たちの心の中に父母が居て、その父母を求めて自らの実践により子孫へ推譲していくということ。自分がしてもらったことを人に与えていくということが、私たちが子どももでありそして親であるということのように思います。

親子が代々つなぎ託してきたのは、愛ということです。

こういうもの一つ一つを、日々の生活や仕事の中で生かしていくことこそが本来の働きであろうと思います。仕事は作業とは別に生き方という志事が存在しています。とはいえのない保育を広げていくためにも精進していきたいと思います。

玄の原理

昨日、玄米講習を行い伊賀焼の土鍋を使って玄米を炊きその原理を説明しました、

そもそも玄米というものは、食の主であり、私達日本人がもっとも長い間共に暮らしてきた大切な仲間です。玄米のお米は種のことであり、その種を持ちその種を活かし、その種の廻りと共に歩むのです。

もともと年齢と書く「齢」という字も、お米の字が入っているように私たちは一年をお米の廻りで時を刻むように暮らしてきたのです。その食の主、つまりは主食を玄米にすることは私たちの風土に合った食事に食い改めることで生き方もまた日本人の心に回帰していけるように思います。

そして種というものは一見、固まってじっとしているので芽が出た植物などと違って死んでいるかのように錯覚する人もいますが種はいのちがびっしり詰まっているものです。ここから造化の根源力を発揮して種の何十倍、何百倍も成長していくいのちの原点が入っています。

その原点を食べるということは、細胞一つ一つに至るまであらゆるいのちを活性化する効果があるように思います。もちろん科学的にも、フィチンが多いとかビタミンBが大量だとか、ギャバとか食物繊維がびっしりとか色々と数値化されますが、玄米には数値化されない価値が存在しているのです。

そもそも人間が数値化ということをしてから、本来のいのちや全体を捉える感性というものが衰えたともいえます。数値化できないものを読むのが空気であり、五感や六感という感覚であったり、人間本来が持つ本能の力なのです。

玄米信仰などと他人に言われるように思われても、実際に病気の時や日頃の不摂生の時に食べたら回復に効果があるのは一食瞭然ですから玄米の価値は数値や言葉にし難いのでしょう。それに玄米を食べると運が善くなると言われますが、御米の種を食す暮らしが日本人本来の天地自然農合一、つまり一物全体になることで無駄を一切発生させないということや、捨てるところがないというところにも循環に沿っているということと関係するのだと思います。

地球の循環を邪魔しない生き方というものは、自然の天理に従っていますから次第に運も循環ですからそれに則るのです。

しかしこの玄米が嫌いになってしまうという理由もあります。それは料理法です。一般的な電子調理器やガスを使っての鉄器の道具ではあまり美味しく感じないのです。それは例えば、焼き魚を焼く際に、電子レンジとガスと炭火で焼くのでは味が異なるのと同じで自然のものは自然の調理で行う方が私たちの細胞は美味しく感じるのです。

理由はいのちをいのちのままに食べることにつながっているのです。玄米の場合は、土鍋で炊くことでいのちを伸ばします。土鍋には、自然の原理である水の浸透や熱の伝導といった土が持つ自然の受容力が働きます。

この土の働きによって火と水で炊けば、地球の原理(土中のマグマや水中のいのち)を融合しますから玄米の種をそのままに優しく包むように調理することができるのです。

そうやって調理された玄米は、とても美味しく食べたものがそのまま人間の身体に負担をあまりかけずに吸収することができるのだと私は思います。

基本を何に据えるかというのはとても大切なことで、当たり前というものに気づいてそれを改善するかどうかが生き方につながっていると私は信じています。玄米というものを用いて様々なことを見直すのは、自然か不自然かを観る眼を育てていくと思います。

引き続き、自然が何か、本物が何かということを学び直していきたいと思います。

ワークライフバランス~常実践の法理~

ワークライフバランスという言葉があります。それは仕事と生活の調和というような意味があると表現されます。

それに対して生き方と働き方の一致というものがあります。生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐といったものですが本来はこの状態のときにはじめて私は調和していると思っています。

しかし実際はどうかといえば、生き方と働き方を「分けて」いる人があまりにも多いように思います。これは分けることで自分の生活のバランスを取るという刷り込みを持っているからだと思います。

例えば、一日は24時間しかありません。その中で、仕事の時間、趣味の時間、家庭の時間、勉強の時間、友達との時間など、すべてを分けて考えているとします。するその全ての役割を全うしようとしていたらとても時間が足りるわけがありません。それにそれも分けて考えようとするのは自分の都合ですが人生は分かれていないのだからどれも深く関連しているとも言えるのです。

これを自分の都合で分けるとき、そのしわ寄せというものは必ず他の何かに悔い込むことになるのです。本来のそれらは分かれていないものを自分の都合で分けたのであって、分けてはならないものを分けているから問題なのです。

自他を分けたモノサシではなく、自他一体のモノサシに転じれば、仕事も趣味、趣味も仕事、家庭も仕事、仕事も家庭、勉強も育児も友人との語り合いも全て生き甲斐であるという境地、つまりは分けないで取り組む時にのみワークライフバランスは実現するように思います。

これを仕事とプライベートというように分ければ、どちらかの時間のためにどちらかを犠牲にするという発想になったり、それでも無理をしようとすると本来の生き甲斐や働き甲斐といったものとかけ離れた生き方になってしまうかもしれません。

私達の子ども第一主義という生き方も同じで、子育てをしていれば子ども第一主義かというわけではなく、全てのことをもしも子どもだったならと子どものモデルになるような生き方を実践するとき分けていない働き方になっているのです。

これは「分けない」、すべては実は「つながり同じこと」なのだから全てにおいて生活を一つに結んでいくこと、言い換えれば常に「生き方の方を優先し、生きざまを重視すること」で調和に近づいていくように思います。

何事にも理念があるということは、その理念に沿った生き方というものがその後にあるのです。

それを理念と自分を分けたり、生活と仕事を分けたりしていたらいつまでたっても生き方や生きざまには辿りつかず、その先にある生き甲斐や働き甲斐とも出会えないかもしれません。それにそういうことをいつまでもしていたら「本心」が分からなくなってしまいます。人は自分の本心に確認し取り組むからこそ、迷いが消え去り覚悟が決まり真に成長していくことができるからです。

一度しかないのが自分らしさ、そして自分の人生なのだから、分けるのはとても勿体ないことをしているのです。生き方と働き方の一致、つまりはライフワークバランスとは「自分らしい生き方そのもの」を常に優先しているかということによるのでしょう。

この自分らしさを正しく実践することで未来の子どもたちへきっと健やかに逞しく育つ意味が背中を通して伝承できるように思います。自分の我や、社会の刷り込みにもっていかれないように自らの本気本心の常実践で伝えていきたいと思います。

勇気

人は何かに取り組む際に、自信があるとかないとかを基準にすることがあります。

しかし実際は、自信があったら何でもできるわけではなく、自信がないから決してできないというわけではありません。これは自信というものは、物事の見方や捉え方に関することであり前例があることは自信があり前例がないことは自信がないということがほとんどだからです。

では自信があるないに関わらず、何をもって取り組んでいけばいいかと言えば勇気を出すことのように思います。そして勇気とは覚悟を決めることなのです。覚悟とは勇気を引き出すために行われる自己との約束とも言えるものです。

勇気というものを辞書で調べると、「いさましい意気。困難や危険を恐れない心。」と表現されています。つまりは心の力のことであり、心が強いということです。よく私も気合で乗り切るようなことが多いのですが、これらの気合や真心が勇気を発動していくように思います。

この勇気というものは人生に多大な影響を与えるように思います。特に頭で考える人は自信があるないから入りますが、心の鍛錬を行う人たちは勇気を出すか出さないかという選択に変わっているように思います。

アメリカの作家で、アンブロウズ・レッドムーンにこういう言葉が紹介されています。「勇気とは恐れを知らないことではない。恐怖よりも大切なものがあるという。決断のことである。」

恐怖よりも大切なものがある、これは仕事で言えばお客様であり、家族でいえば子どもであったり、会社でいえば社員だったりと、守りたいもののために自分を盡そう、自分を捧げていこうといった、今の自分の固定概念が壊れる怖さよりも、それを崩してでも大切なものがあるのだからと念じて出てくるのが勇気だということです。

人は自分自身がまず一番大切なのでしょうが、もしも自分と同じくらい大切な存在に気づけば勇気も愛も自覚していくように思います。自暴自棄などというものも、大切なもののために勇気を出せなかったから自己嫌悪でそうなってしまうことが多いように思います。それが続くから自信がまたなくなってしまうのです。

またどれだけこの「勇気」というものが人生において大切かというのは偉大な先人たちがその生きざまや言霊で遺してくださっています。

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」(松下幸之助より)

「勇気というのは強いからとか、勇ましいから勇気があるというのではない。たとえ、自分にとってどんなに不利な結果になろうとも、自分が真実であり、妥当であると考えたことを認め、それに賛成することこそが勇気である。」(本田宗一郎より)

畢竟、最初は誰だって怖いしできないと思うものですが勇気を出して取り組んでいればいつの日か揺るがない自信になっていくのでしょう。大切なもののために生きているからこそ、人はそれに相応しいほどの自分が次第に出来上がっていくというのが役割と責任の享受になるのでしょう。

自分を自分で育てるには、自分により大きな責任を課して大切なもののために実践するということを継続していくことのように思います。

この勇気とは、私たちが元々持っている本能であり、人間として自然の中で生きてきた素晴らしい徳恵であることを感じずにはおれません。勇気を出すのは誰が出すのかが問題ではありません、誰でも勇気ある決断をしたときから世界が変わっていくということなのでしょう。

最後にピータードラッガーの名言で気合を入れ直したいと思います。

「成功した企業は、きまって誰かがかつて勇気ある決断をした。」

自分自身の変化を恐れないのは自分自身から出る勇気です。大切なもののために自分の使命を果たそうとする風土を自らの実践により醸成していきたいと思います。