ピンチはチャンス

先日、ピンチはチャンスという言葉を改めて考えてみました。

この言葉はよく心に残る言葉として、あらゆるところで用いられピンチと思っているものをチャンスに換えてチャレンジしていくというように使われているように思います。

ネガティブな感情をポジティブに変換しようとするときや、追い詰められた状態から脱しようとするとき、実際は善いことになっているのだと考える時に用いられるように思います。

私はよく禍転じて福となすという言い方の方が好きで、よく「転じる」ということを用います。この転じるという言葉は何かというと、他のものに置き換えるということになるように思います。

例えば、ピンチというのは現状のことで発生してきます。自分の思い通りにいかないことや、大きな壁にぶち当たって動けない状況に陥っています。その時、八方塞になりピンチだと思ってしまいます。つまりはピンチとは、今までの自分では乗り越えられないような人生の障壁に出会ったということです。

こうして自分の方を変化させていくときはいつもピンチに出遭います、相手も状況も変えられずどうしようもない状態に気づいてしまい現実と向き合っていくのです。それは感情的にも精神的にも大変なことで、できない、乗り越えられない、自分には無理だという感覚が迫って来るかのようになります。

そんな時、このピンチの御蔭で自分自身と向き合えるのではないか、ひょっとしたら新しい自分に出会えるのではないか、今まで知らなかったことを知る機会になるのではないかと、その障壁を前に自分の人生と向き合うチャンスにするということです。

つまりはピンチがチャンスなのは、ピンチは今までの自分の人生や生き方、生きざまなどと向き合うチャンスだということであろうと思います。自分に正直に生きていくのが人生の目的だとしたときに、どれだけのピンチに出会ったかというのが運であり縁であり何よりも大切なことであろうと思います。

そういう時に正直に壁にぶち当たり、正直に向き合い、正直に努力する。そうすることで、丸ごと福に転じることができるように思うのです。これは言うは易しで実行は大変困難ですが、最期まで決して諦めないで正面から人生に向き合っていればそれが本気を呼び覚まし、真剣勝負の機会を呼び込み、失敗を母にして自然に発達していくように思います。

子どもが主体的に自由に無限の可能性を発揮し成長するのも思い通りいかないことを乗り越えていく中で自立していくものです。

つまりは、

「ピンチとは、日々に自分の一度きりの尊い人生に真剣に向き合う最幸のチャンスです。」

葛藤の中で、何かのせいにしたり怒っても仕方ありません。真摯に向き合うことばかりですがあの幼い子どもから生き方を学び、そのままの大人のモデルになるようにどんなものでも丸ごと活かし感謝で前進していこうと思います。

真面目の罠

刷り込みの一つに真面目さというものがあります。

どの職場であっても真面目というのは美徳とされているものです。それはサボらないという意味で使われています。特に、保育の現場ではほとんどすべての方々が真摯に子どもたちのためにと努力されていて不真面目である人を見かける方が少ないように思います。

しかしそこに一つの刷り込みの罠があることに気づきます。

それは一見すると真面目なのはいいことなのですが、真面目過ぎるのではないかと感じることが多くあります。それはサボらなければいいと勘違いし、努力する方向が間違っているのではないかと感じるときです。

例えば業務を行うことはきちんとできているのですが、大切な本質や目標に対してはどうかといえばそれはどこかに御座なりになっていてもそのままでも真面目にやろうとしているのです。

この時の真面目というのは、遣ることは真剣に遣っているのだから真面目という意味です。

しかし本来の真面目さというものは、目標や初心、理念を達成するために本気であるという意味が本質であるように思います。そのために日ごろから目標を達成するための努力を怠らないということです。

またそこには主体か受身かというモノサシも入っているのかもしれませんが自分自らで達しようとするときの真面目さと、周りの評価を気にしやらされているときの真面目さとがあり、その真面目という言葉でもその目標設定次第でその定義が異なるように思います。これは誰かに与えられた目標に真面目か、自分から決めた目標に真面目かという意味です。前者は自分の人生に不真面目になってしまうこともあるのです。

この真面目という言葉の中の、面目という意味は、1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。2 物事のありさま。(goo辞書)にはあります。しかしここに真が入ることで、本気や真剣という意味になるのです。

真剣に取り組むこととは目的に対して本気になるということであり、真の真面目さということは真剣勝負をするということです。単にサボらないように必死にやるのは実は真面目過ぎるのであり、それは不真面目になることもあるのです。

いつも真面目に行うというのは、他人の評価を気にすることではなく大切な目標や目的を達成するまで徹底的に取り組むということであろうと私は思います。

私はよく不真面目のように見られることが多いのですが、目標を達成するためのしつこさや諦めなさはシブトイと言われます。寝ても覚めても一つのことばかり考えますし、何が何でも解決することだけしか興味がありません。一見、寄り道ばかりして遊んでいるように思われるかもしれませんがそれだけ真理を探究し、他人事を自分事にし、真面目になっているように思います。

それは単に真剣にやることが問題ではなく、「必ず理想を実現するのだ」という真面目な心が働いているのかもしれません。

真面目にやっているのだからという自分への甘えが実は最大の不真面目になってしまうのかもしれません。この落とし穴に落ちればまた同じことを単に繰り返しますからもったいないように思います。ちゃんと仕事しているのだからという理由で毎日残業しても、大切な理念や目標がそれで果たして達成するのかと本質から考えてみるのも一つの方法かもしれません。

真面目不真面目という両極で考えるのではなく、「真剣かどうか本気かどうか」というモノサシで取り組んでいくことを大切にしていきたいと思います。

遊び心とは、本気であるから産まれるものです。本質を維持するために敢えて型破りも辞さないのです。周りの評価を恐れず、本質を達成することに勇敢に真摯に真面目に実践していこうと思います。

成長とは何か~真の智慧~

先日、ある園の理念の確認の中で強く逞しくあるということについて教えていただきました。

強く逞しくという意味を教えて下さった方は、戦中戦後の厳しい環境の中で、実に多くの苦労をなさって今に至ります。そしてこの強く逞しくというのは自立を顕していますが同時に苦労というものの本質を示しています。

そもそもこの苦労というのは、肉体的にも精神的にも何かと苦しい思いをして懸命に何かを為し遂げたという意味や、それだけ沢山の方々のお世話になり厄介になって助けていただいたという意味で使われます。御苦労人という言葉があるように、過去に様々な悲しく辛いことを体験し苦労をすることで人生の機微や他人様の有難さを知り人情に通じている人のことをいったりするのもこの「苦労」という意味です。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という格言があります。これは若い時に苦労をしたことは後のちとても役に立ちますよという意味です。

今の時代は物に溢れ、何もかもが豊かに満たされ苦労することはなくなってきてすべてにおいて甘やかされた環境の中で生きているともいえます。若い人が苦労をする場所がどれだけあるかといえばほとんどなく、苦労を体験できるところも減っているように思います。

一昔前までは、ないものづくしのなかで便利ではない社会の中で、思い通りにはいかないことで沢山の苦労をする環境がありました。しかし今は、そういう苦労はさせたくないという人たちとそういう苦労はしたくないという人たちの思いばかりで自ら進んで苦労をしようとする気持ちなど持たなくなっているように思います。

この苦労というものは人を強く逞しくし、苦労がないと人は弱く貧しくなり元気を失っていくように思います。人は成長するというのは、この苦労をするということであり、苦労をしないで成長するということはないのです。

苦労がある人の持つ人生の背景というものはとても奥深いものがあります。表には出さないけれど、その人の人格や風格、人間性や言霊、生きざまにはその背景というものがのるのです。その人生背景に苦労がある人は、人間的に豊かであり洗練され含蓄があるものです。しかしそういうものを持たないで知識だけもってもやはり何か薄っぺらなものを感じてしまうのです。

そう考えてみたら、この苦労するというのは今のような時代「買ってでもせよ」ということが大切なのではないかと私は思います。この買ってでもというのは「自分から体験を克って出よ」ということではないかと思います。

つまりは自ら大変だと分かっていても、志や使命に根差すものを持つのなら主体的に行動し失敗を恐れずに挑戦せよという意味であろうと思うのです。もちろん、挑戦すればするほどに失敗もあり辛い体験、他人様からの評価批判などに晒されてしまいます。

しかしそこを耐え忍び、辛く苦しい中でも労を厭わずに信念をもって努力精進していく中ではじめて貴重で豊かな尊い人生体験をすることができるのです。

成長というものは痛みを伴うのは有難いことであり、体験し苦労をせよという意味なのでしょう。また逆に成長を止めるということは苦労することを避けてしまい痛みを怖がって何も挑戦しないことを言うのでしょう。自立というのは、強く逞しく生きていくことなのかもしれません。

だからこそ成長というものは、そこに「強く逞しく生きよ」という独立自尊する人生の強いメッセージを実感します。このメッセージとは、「どのような環境下であってもその気持ちを忘れてはならぬ、齢を経て、人生を振り返ったときに最も大切だったのは『苦労する』であった」と教えて下さる方の言葉こそが真の智慧ではないかを自明するのです。

齢を経るというのは、成長の証が残るということ。そこに真心を持って苦労を伝えて下さる方々がいることに心からの感謝と共に、自らも成長していきたい、苦労していきたいと心が激励されるのです。

一期一会の出会いの御蔭様で苦労という人生の豊かさが真の豊かさであること、真の智慧とは苦労の中にあることを学べ気づかせていただきました。

強く逞しく、挫けずへこたれない大和魂を次世代のために奮起し実践していこうと思います。

有難うございます。

 

仲間との邂逅~尊い学び~

先日、社内木鶏会を行う中でクルーの一人の生き方からとても大切なことを教わりました。

それは「自分の行動が誰かの勇気になる」という言葉です。

これはかつて自分を鼓舞するとき、努力すれば必ず夢は叶うと信じて努力を優先するときにいつも自分に投掛けていた言葉のひとつでした。それを改めてそのクルーが努力と挑戦をする中で同じ言葉を用いていることに新ためて教えられたのです。

久しぶりにこの言葉に出会ったとき、「そうか、あれはそうだったのか」と新たに学び直しができたのです。

それは私が若い時、営業先のある方に「天知る、地知る、我知る、人知る」ということを教えていただきそれを紙に書いて机に貼っていたものと対語になっているようにも思えたのです。そのある方は御取引先の方でかなりの高齢の方でしたが、ご縁を戴く中で「誰も観ていなくても天は観ている、神様は御見通しなのだから一人の時でも慎み努力精進をし続けなさい、あなたは一生懸命だからきっと大丈夫だ」と鼓舞された思い出があります。

今になってみると、蔭ながら本気で努力をすることの大切さ、常に裏表なく陰ひなたなく誠実に自分の人生を遣り切っていくことの原点が此処に在る気がして懐古し再び感動しました。

人は同じ体験をしてくれている人を観ると、まるで自分のことのように思えます。その中で、かつて自分が出会った素晴らしい言葉にその人が出会うことに何よりも感動し、自他一体に甦るのです。また生まれ変わるのです。

この「同体験の学び」ということの素晴らしさというのは、同じ体験をしてみたいという憧れから来るものかもしれませんが机上で空論を振りかざすのではなく子ども心に無垢に素直に純粋に憧れ実践するということの歓び、その今の自分の体験の有難さに感謝できているときにそれを実感するのだと思います。

「誰が見ていなくても天が観ている」、だからこそ自分の行動が誰かの勇気になっていくのだと自分を信じて、誰が認めてくれようがくれまいが自分が信じたのだから必ず善くなると、信念を心に抱き挑戦し続けるという姿勢に、「天の見守り、御蔭様への感謝、そして有難いご縁への報恩」の新しい自分の境地を発見し続けて人生の道楽に回り逢い続けるように思います。

この世の楽園というものがあるとするならば、自分の生き方が誰かのためになっていることの素晴らしさに気づき、だからこそと自分の生を怠らず精進しようと努力するときに顕現するのではないかと私は思います。体験できる、尊い学びをいただけるとき、つながりの中で自分として生まれた価値を味わっているのです。

今の時代はすぐに近道を探したり、効果があることばかりを優先したり、結果が出そうなことばかりを選んだりしがちですが、本来は何のために人生を遣わせていただけるのかをよく内省し、健やかに実践することで目覚め、飽かずに地道に丹誠を籠めて一歩ずつ努力していこうとする姿勢に本物の自分との邂逅があるのでしょう。

いつも仲間の努力している姿に清らかな学びを得て、自分の人生の意味を再認識します。仲間の存在とは、何よりも有難いことで師友があるということは其処に尊い学びがあるということなのです。

「自分の体験は必ず誰かの御役に立つ」そして「自分の真摯な真心は必ず天に通じている」と日々の過ごし方を愛おしむように努力させていただけることに感謝していこうと思います。

尊い学びをいつもいただけるのは私の方です、有難うございます。
体験させていただける天に地に我に人に、誠を尽くしていきたいと思います。

学び方を学ぶ~発見の日々を生きる~

日々に学んでいると、新しい発見に満ちています。そういう日々を過ごしていくことが好奇心を育んでいくのかもしれません。

例えば、新しい自分というものに出会います。そのキッカケは誰かから認められたり褒められたり、もしくは指摘されたり、指導されたりしたときに気づくものです。

何も誰からも言われず、自分だけで理解するのは限界があり自分の都合が入ってしまって盲目になってしまうものです。そういう時に、素直に言っていただける人がいること、正直に伝えてくださっている存在があることが何よりも尊いと感じます。

自分というものはどのように仕上げていくのかも自分次第です。自分の人生も自分のドラマも自分の生き方もすべては自分次第で如何様にも変化させていくことは万人に与えられている自由です。

人間はどのような環境下でも私心が出過ぎると、周囲との関係に軋轢が発生したり、偏り過ぎたりしてバランスを崩してしまうものです。その私心をどのように修正するのか、どのように調整するのか、そこには人の意見を素直に聴ける力に左右されています。

そしてそこを一番邪魔するのは、知識といった先入観ではないかと私は思うのです。

それを刷り込みとも言いますが、刷り込みがあることで素直にならず、刷り込まれたことで正直が分からなくなる、本来は子どものときに学んだ学び方を、どこかですり替えて別の学び方を学んでしまったということなのでしょう。

自然の学び方と人工的な学び方、その両輪を合わせていくには自然の学び方を優先し、その後に人工的な学び方というように本来の学び方を続けていくことなのでしょう。

畏れを抱きつつ、慎み学ぶというのは古来道を歩んだ先人たちが指導した学び方の極意です。

そうやってまず学ぶ前に、その学び方を学ぶところからはじめるというのは自分自身の無意識下にある刷り込みをまず疑い、自分の刷り込みを取り除くところからはじめるという意味なのでしょう。

私も、師に出逢い師から本質を学び、本質に気づくことで自らにある刷り込みに気づくことができました。その刷り込みをひとつひとつ取り除くうちに、本来の自然、赤ちゃんの頃の学び方を思い出すのです。人間として学ぶのは、万物全てにおいて丸ごと学ぼうとする力、発見していく歓びと発明していく幸せ、つまりは新しい自分に出会い続ける価値があることを自覚するのです。

刷り込みというのは、当たり前のところにありすぎてそれが観える人になるか観える人から指摘されるかもご縁のように思います。真理にあって真理に気づくのもまた人間のご縁ですから縁尋は本当に奇妙なのものです。

だからこそご縁をいただけるように願うように、自分から自分の価値を日々に再発見し再発掘していくことは刷り込みを取り除くことと同様に何よりも大切な学び方のポイントであろうと思います。

日々、新しいものに気づく感性を、流されずに楽しむ好奇心を甦らせて新生し続けようと思います。忙しい時こそ、仕事の量が多い時こそ、学ぶ機会が沢山来ていることに感謝し、どんなことも見逃さず遣り切っていきたいと思います。

感情を愛する

人間は感情の生きものだと言います。

感情というものは自分の中に居て、外側の現象にあわせて常に変化し続けます。これは外界と内界のバランスを維持するためでもあり、その時々の状況に合わせて状態を合わせてバランスを保とうする生存本能の一種であろうと思います。

この感情というものは、時としてプラスにもマイナスにもなることがあるように思います。例えば、仕事でも日常でもそうですがその感情がマイナスのときは捗らず、プラスの時はスムーズに進むことのように気分に影響されてしまうからです。

しかし気分がどうだからといって現実には期限もありますし、周りもいますし、本質も変わらないのだから感情とどう上手く付き合っていくかというのは基本の技術の一つであろうと思います。

これをメンタルとも言い、如何に自分が本番で自分らしさを発揮できるか、最高のコンディションを維持できるかということで研究されてもいるのです。

自分なりに感情を深めてみると、感情は情熱から派生してくるものだから感情が激しいことがいけないわけではないと思います。よく冷めているという言葉もありますが、まったく感情がない無機質になると情熱が湿っているともいえます。

これらの情熱は志を立てるところからはじまりますが、薪をくべ続けるにも感情を育てていく必要があるようにも思うのです。そしてこの感情というのは、どのようにプラスへ転じるかというものが技術のように思います。

例えば、よくないと思うことがあったとき感情が激しく揺らぎます。その時には感情を善い方へと移し替えるという技術を用います。自分の感情を転じて善い方へと移すようなものです。

これは生き方とも関係していて、よくプラス思考とかいわれますがピンチをチャンスと捉える発想だったり、禍転じて福になるのと同じで、如何に悲観的な状況であっても、こんな体験は二度とさせていただけないのだからと感じたり、自分がするのではなく謙虚にさせていただけるのだからと真心を尽くそうと転じたり、やるのではなくなるのだと人事を尽く天命に任せようとしたり、こういうことを自分自身が実践することで移し替えができるのです。

言い換えれば移し替えとは転じるということは、自分が変われば転じられるのです。自分の方を変えずにいつまでも粘ると感情は混濁し負のサイクルを呼び込みます。しかしもし自分を変えようと感情を移し替えて転じれば正のサイクルが発生してきます。

つまりは感情とは自分を変えるタイミングで発生してくるものであり、その感情を見つめてその感情を活かす、つまりは自分の何を変えればいいのかと前のめりに自分を改善していけば感情は次第に善いものへと転換されていくように思うのです。

これらのメンタルトレーニングというのは、いつも善い方へと自分をコントロールする機会を求めてはそれを実践により継続することで練習を積んでいくしかありません。自分にとって最悪のように思える機会であったとしても、そこで諦めず不貞腐れずにきっと何か大切なことを学ばせていただいている、感謝と御恩返しのために遣り切らせてくださいと真摯に取り組むことで感情も生き方も丸ごと生長していけるように思うのです。

これらの感情というものは、変化の時には必ずつきものですから避けてはならないと思います。感情を伴っての成長とは痛みも伴いますし、また苦しさもあるかもしれませんがそれが楽しいと思えるほどの努力によって抜けていけるように思います。

この感情ある自分も愛し、感情をもつ人も愛し、より善い方へ転じていこうと思います。

志道の心得

吉田松陰に「士規七則」というものがある。

これは従弟の玉木彦介が元服したときに作り送ったものを歿後に子弟たちが復刻しそれぞれが持って自らの規範としたものです。

そこには道を歩むものとしての心得が書かれています。先日もまた新たに松陰先生とのご縁があり実践の大切さとその心構えについて学び直すことができました。

まずこの士規七則の冒頭にはこういう言葉ではじまります。

『冊子を披繙せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。 顧ふに人読まず。即し読むとも行はず。 苟に読みてこれを行はば、則ち千万世と雖も得て尽すべからず。 噫、復た何をか言はん。然りと雖も知る所ありて、言はざる能はざる人の至情なり。 古人これを古に言ひ、今我れこれを今に言ふ。 亦なんぞ傷まん、士規七則を作る。』

私の意訳ですが、(本を読めばどれも善いことが書かれていてそれを学ぶことができる。しかし考えてみたら、それは読んだとは言わないのではないか。それは読んだことを実践しないからだ。正しく読みもしも実践するならばその書かれたものを永遠に実践してもし尽くせるはずもないほどのものだ。それなのにここにまた私は書こうとし言おうとするのは知っていることをどうしても伝えたいという人の情から興ってくるのです。先人たちはこれを昔から言っていますが、私も今ここにこれを言うことにする。心配しても仕方がない、ここに士規七則を創ります。)

つまりは、ともかく「実践」することが全てにおいて何よりも重要だということを述べているように思います。論語読みの論語知らずではないですが、実践してこそ価値のあるものを読むだけで分かった気になるような人物にはなるなと諭しています。

真理ひとつ、先人の人生で掴んだ叡智ひとつ、すべては実践することで永遠に学ぶ価値があるままだとしています。

今回はその中の一つの言葉と出会ったので自分なりに刻んでみます。

「士の道は義より大なるはなし、義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。 」

これも意訳ですが(志の道は、大義を超えるようなものはない。大義は勇気によってはじめて実践され、勇気は大義によって伸びていくのです。)と書かれます。

孟子の「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」(自分で素直に内省し、そこに正義があると思うのならば、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも私は全うする)という意味でしょう。

吉田松陰は文字通りの人生を歩んでいます。孟子の講義をしながら、学問とは実践することであると何よりも背中で示したのが松下村塾だったように思います。

本ばかりを読み漁り、実践をしないような生き方をするのは勇が減退しているからかもしれません。もしくは義が弱体しているのかもしれません。天地人の中で、老子や孔子があってもそのどちらにも偏れば実践よりも盲目な批評や評論ばかりに陥るのかもしれません。

自らの決心やその真心にどれだけ純粋にいられるかは、日々の心掛け次第、自分次第なのでしょう。

克己復礼、胆力を磨き、実践を高めていく努力に邁進していこうと思います。
吉田松陰先生には鏡としていつも生き方を正していただけます、有難うございます。

理念の実践

人は自分の状況を判断し、バランスを見直すときどこから見るかというものがあります。

よくバランスを崩すというのは、どこが中心であったかを思い出せないことに似ています。そしてそれは何か特別なところや特異なところばかりを探しては、これのせいだとか、あれのせいだとか最もらしく聞こえますが実際は当たり前過ぎて気づかないところがほとんどであるのです。

それは例えば呼吸や心拍、体温、また日頃の食事や睡眠、口癖のように潜在意識が全自動でやっているところが乱れることにあるのです。

プロ野球監督の落合博満さんがこういうことを言っています。

「精神的なスランプからは、なかなか抜け出すことができない。根本的な原因は、食事や睡眠のような基本的なことにあるのに、それ以外のところから原因を探してしまうからだ。」

これは同感で、非常に微細な所の生活習慣が日頃から次第にズレているのに気付かないことに根本があったりするのです。

精神的スランプの場合などは、ほとんどが自炊や食事内容、また睡眠の質から日々の夜の過ごし方などが影響があるのです。

何かのトラブルが発生するとき、そのトラブル自体に翻弄される人とそれを客観的に冷静に対応し日頃から平常心を失わい人がいます。この前者と後者の違いとは、ほとんどが生活習慣の乱れから来るといったらきっと驚くだろうと思います。

しかし実際は、平常心を失う理由は「正しくない」ことを続けていることから発生しているのです。正しいこととは何かといえば、本来の自然の姿が観えているということです。これらの自然を見失わない技術、本来の状態が観え続けて動じなくなる胆力が基本ということなのでしょう。

例えば、玄米を主食に、早寝早起きをし、先延ばしをせずに今に丹誠を籠めてお勤めをする。

こういうこと一つができる人は、ズレるということはありません。日々の環境は変化していくし、ややもすると流されることがあるのが人間でしょう。流されないというのは、基本的生活習慣を正すということから直すのが根本ということです。

潜在意識を変えるというのは、潜在しているところを変えるという意味です。顕在化してくるところは、すべてその基は潜在するところが握っているのです。基本から練習するということ、基礎練習を続けるというのは、その基となるところを鍛え直すということなのです。

今の時代は様々な誘惑によってそこに引きずられてしまうように思います。油断すると気が付くと自分の都合の良い方へと正当化されてしまい流されることもほとんどです。

だからこそ、正しいことをすることにこだわるのが基本の元、つまり実践ということなのでしょう。

生活習慣を直すということは難儀なことですが、それが正しく身に着くことでまた自分自身の自由が増えていきます。理念があるからこそ潜在するところを見つめることができますし、理念があるからこそ本質を見極めていくことができるのです。

理念の実践を積み重ねて、自重慎独していきたいと思います。

自他一体~残心~

武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。

辞書にはこう書かれています。

1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)

これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。

そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。

例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。

心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。

そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。

つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。

「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。

そしてその時なのです。

自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。

自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。

自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。

この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。

 

丹念を積む

人間は目的を見失ってしまうと本質から外れてしまうものです。

これは、全体と部分の物の見方にあるようにも思います。全体のことを最初に考えてから部分に入れば、全体としてどうしたいのかというものは確認することができます。しかし部分に入ってしまえば、途端に全体が見えなくなってしまい問題がすり替わってしまうというものがあります。

以前、大工の棟梁の話の中で、棟梁は常に全体を観るから作業をしないということを聴いたことがありました。職人というものは、入り込んでしまうのでどこまでやるのかということを見失い没頭してしまうので常に全体を視通す役割を棟梁がしているということです。

これに似ていて全体にとっての問題の解決と、部分にとっての問題の解決に視野の隔たりがあるように思います。常に全体や部分を行き来しながら問題を解決していくというのは、御互いが役割分担をしつつ大きな目的のために心ひとつに取り組もうということです。

そして本質や目的から外れないというのは、常に全体も部分も「つながっている」「無駄は一切ない」と信じ観えるようになっていること、言い換えれば私心が入り込んでおらず真心で取り組んでいるということを忘れないということであろうと思うのです。

真心で行うことは、そこには自分の都合や自分さえよければや自分の私心といったものが入り込む余地はありません。人間はどうしても自分の計算を入れていくからそこに自分寄りに物事を運ぼうとしたくなるものなのです。

先ほどの棟梁のお話ですが、飛鳥時代の大工はみんな棟梁たちのような仕事をしていたともありました。先人たちは、丹念や丹誠を籠めてひとつひとつのいのちを大切にして過ごしていたのかもしれません。目的を忘れずに取り組むプロセスそのものを何よりも重んじたということは、そこに道や信念があったということを覚っていたからのように思います。

先人たちに見習い、どのような御仕事も本来は何のために行うのか、そもそも目的は崇高な理念や大切な志のためではないのかと、自らのいのちのある時間に真心を尽くして手間暇を惜しまず手入れをしていこうとするのが本質から外れないことのように思えます。

本質というものは、自分のいのちの遣い方なのです。

意味のないものはなく必用なことを行うのだから、増えるとか減ったとか、遅いとか早いとか作業のような観念に縛られるのではなく、そのどれも勿体ない尊いお仕事をさせていただくのだと有難く一つ一つを丹誠を籠めて丹念に取り組んでいくことが目的や本質そのものと一体になっていることなのでしょう。

師走に入って何だか気分から忙しなくなってきている気がしますが、どのお仕事にも丹誠と丹念でと戒めていきたいと思います。毎日に流されず作業にしないで、その一つ一つの意味を丁寧に見極め意味づけし自分のいのちの時間をじっくりとかけること。

増えることや手間暇かけられることに、真心をさせていただく機会が増えたのだと感謝し、気持ちを鎮め、お腹の丹田から熟慮して時事を判断していきたいと思います。

仲間と一緒に集まり取り組む尊い機会が初心の確認となっています。
有難うございます。