覚醒

毎日を生きている中で、本来の自分のままで素直に全てを発揮しているときと周りに合わせて自分のようなものでいると勘違いするときがあります。

例えば、ぼやっとした中で自分が何となく生きているときと、本気で生きていると実感するというものがあります。今というものに流されてしまうのは、常に目覚めた自分を維持するのは自らが主体で発揮し続ける必要があるからです。

風に吹かれて飛んでいる鳥も、風任せではなく風に乗り風と共に一体になって目的を達しています。これと同じように、人も日々に吹いている風とどれだけ一体になって自らを主人公として一体となったか、つまり自己を発揮したかということによるものだと思います。

簡単に分かるようなものはこの世には存在せず、常に自問自答、己事究明していくのが今に生きるということでしょう。

その今をどれだけ追及するか、何の意味があるのか、それが何を繋がっているのか、自分はどう言っているのか、自分が何をしたいのか、自分の使命とはと、常に主体が自分であって相手や周りにあってはならないのです。

相手がどうであれ、自分が何を探究し究明したのかというのは常に本番である今に問われます。その人が単に知識として得たものを振りかざすことが意味があるのではなく、主人公であったかということに本来の絶対的な意味があるのです。

禅の無門関に瑞巌和尚の問答が紹介されています。
ここに目覚めること、自発的であること、主人公とは何かを自明しています。

「瑞巌ずいがん和尚、毎日自ら主人公と喚よび、復また自ら応諾おうだくす。及ち云く「惺惺着せいせいじゃくや、喏だく。他時異日、人の瞞まんを受くること莫れ、喏喏だくだく」(『無門関』第十二則)

日々に自分に問いかける。「オイ、目覚めているか主人公、オウ、醒めているよ。そしてどんな時も自他を騙すんではないぞ」と。

これは何よりも大切なことです。

人は刷り込まれて本来の自己を見失いますが、まさか自分が刷り込んでしまっているとは思いもしないものです。しかし実際は、自分の安易な知識の流用やモノにしていない理解のせいで周りを惑わしてしまうことがあるからです。

全ては主体を誰かに預けたり、他発的な行為を繰り返す中で、本来の自分は刷り込まれ出て来れなくなるのです。毎日、掃除をするかのように目的を確認したり、目覚めているか、醒めているかと確認することは、その意味を確かなものにするのに似ています。

常に惑いから覚めるような、決断や決心のところに帰ることこそが修行の本質かもしれません。日々に覚醒しているかどうかをチェックしていきたいと思います。

 

自分の仕合~コーチング1~

人は自分の持っている力を引き出していくことで自分を発揮し活かしていくことができます。自分を自分で存分に発揮さえしていけば、自分のベストで挑んだとも言えるからです。

しかし一般的には自分では自分のことが分からず、自分の持ち味に気づかないものが多いとも言えます。それは自分というものを外からみて自分はこうなんだという刷り込みや先入観、固定概念があるから本来の自分というものが分からなくなっているのです。

自分がこんなタイプだろうといつまでも誤解したままでいると、自分には合っていないことを追い続け無理して合わせようとしたりします。本来の自分の凄さというものを発掘していくのは、自分を自分で変化させていく面白さを感じたり、新たな自分を引き出してくれるコーチがいることで自分というものを知る楽しさを得るように思います。

スポーツなどでもそうですが、自分というものを発揮していくのに、「自分の試合をする」という言葉があります。これは相手の試合でもなく、誰かの試合でもなく、何かに合わせるのではなく、「自分の試合」だったかどうかを常に持つということです。

いつも何かに合わせていたら、本来の自分を発揮していくことはできません。例えば試合になれば相手に呑まれたり、自分のコンディションが悪かったり、環境やメンタル、その全てが本番では求められます。

そういう時こそ、主人は自分、自分を発揮しようと、自分の最良のものを出し切っていくという姿勢が大切になります。自分が主人であるには、目的が必用です。つまりは何のために遣るのか、そして自分は何を伝えようとしたのかという自問自答が一本立った状態とも言えます。

自分の最善のもの、自分の最良のものというのは、自分の持ち味全てを出して勝負するといいうことです。相手に合わせて誰かに合わせて何かをするのではなく、自分の試合をしたかどうか、主人公は自分のままで最期まで遣り切ったかどうかが問われるのです。

コーチの役目というのは、この自分らしさや自分の試合をさせてあげることに他なりません。その人の最も価値のあるものを引き出すのです。

そうやってどんな時でも、その人が自分の持てる全力を出し切れたなら勝敗を超えた清々しさが其処に顕現されるのです。それを積み重ねることによってその人は、その人らしく本物に成長していきます。

またそういう人たちの最善の仕合がお互いの持ち味が活かされることで互いに成長し、また尊敬しあっていくことができるのです。善い仕合というのは、単に勝ち負けが決まるものをいうのではなく、互いに持てるものを全部出し切ったと思える時に実感するように思います。

日ごろの努力も、日頃の練習も、本番で「自分の仕合」をするためとも言えます。日頃が本番だという意味は、日頃から出し切ろうとしていないのでは本番でも出し切れないからです。

力というものは何か自分が加減をするもののような刷り込みがありますが本来は静も動も強いも弱いも、全ての力を出し切ることではじめて力という存在を実感するものです。

自発的であったり主人公であったり、自分らしくであったりというものは、自分のベストを常に尽くすことを忘れないでいることのように思います。環境に合わせて力を出すのは自力ではないのです。

自力を出して勝負をすることは清々しいものです。

スポーツマンシップの本質は、自力を出したかに尽きるように思います。
さらにコーチングを深めていこうと思います。

目的意識~夢を掴む~

自分が何のためにやるのかということを持つことを目的と言います。人は目的を持っていなければ、行う事柄の意味を日々に積み上げていくことはできません。単に同じことの繰り返しであっても、それが何のためかと培っていく人と、そうではない人では長い年月で大変な差がついてしまいます。

例えば、何かを行う際に、単に言われた通りに従って考えずに行う場合は目的を持っていないとも言えます。しかし何のためかを全てに考え抜き、確固たる信念にまで昇華した目的を持ちそれに取り組めば着実に目標に近づいていく実感もまた得られるのです。

この目標というのは将来、こうありたいという結果のことです。そして目的はそれを実現するために一体何をするのか、言い換えれば何のために今、これをやるのかを自分が持つということです。もっと平坦に私なりの言い方をすれば、目的は「何のため」、目標は「何であったか」ということです。

目標を持つというのは、将来の夢を持っているということです。こうなりたいとか、こうありたいとかもあるでしょう。しかし本来の目標というものは、今、最も身近な人の御役に立っているところの延長線上にあると思うのです。家族でも友人でもお客様でも、社会に何の役に立っているかを観ればいいのです。

なぜなら人は、無意識ですが自分の魂の声にしたがって自らの道を必ず歩んでいるからです。それがどんな職業であれ、誰かとの出会いであれ、そのすべては必然であるからです。

必然というと運命論者かと言われるかもしれませんが、そうではなく社会というのはひとりでにできたのではなく、周りの全ての中で自分が存在しているからです。

万物は循環し万命は流転するように全てはつながっている中で自分が生かされているものです。あのお花一輪も自分のみで生きているのではなく、そこからつながりを辿れば地面の土、周りの草花、昆虫、気候、山々、雲や風、太陽から月、銀河系や大宇宙、全体無法まですべてにつながって存在しているのです。

自分勝手に自分だけで夢を探しても本来はつながりのなかで今の自分の布置があるのだから今の自分をあるがままに受け容れる方が将来の目標が観えると思うのです。日々の生き方が死に方であり、夢とは死を想えば観えてくるはずだからです。自分の生きているうちと、死んだ時のことを考えれば目標は誰でも設定できるはずです。

そして目的とは、自分が生きるのは何のためにあるのかを常に心の芯から離さないで過ごすことのように思います。そうすることで意志が明確になっていくように思います。この意志とは自分の自我欲も感情も迷いも惑いも、善転させて芯の強さにしたことを意志と私は呼びます。

そういう意志の強さ、つまりは何のためにこれをやろうと自らをしっかりと持つことこそが本来の自分らしさであり自分を持つということになるのです。どんな時も自分を持つというのは、言い換えれば目的を常に忘れないでいる自分を維持するということです。

ちょっと周りの環境や相手の意志の強さに負けてその場に流されないように、「何のために」ということを常に今を深く探り、そして着実に今の学びを掴み取っていくことが目的意識というものです。

人生はどのような目的で生きるかでその目標も周囲に顕現していくものです。それはまるで何か偉大なものに導かれるようにシンクロニシティに包まれ自然に自らの道を照らしてくださるように実感するものです。

今、思い返しても「今」この瞬間瞬間の選択の連続で夢のような日々を過ごしています。

夢とは、今にどれだけ一期一会に遣り切るかというのが夢を実現することだと私は信じています。自分の都合ばかりを思い計算せず打算せず、どれだけ利他に自分を尽くし切ったか、目的を達成するためにいのちを懸けたか、今に出し切ったか、その場所にだけ存在しているものが夢の本質のように思います。

過ぎ去っている今を何回眺めても、道逝く人を想えば人の夢はとても儚いものに感じます。
だからこそ、目的意識というものを常に自分の中に確認した実践を行いたいと思います。

本来の実践~初心を忘れない~

人間は大切なことを忘れてしまう生きものと言えます。

例えば、初心などもそうですが最初如何にそれが大切だと理解していても日々に流されていく中で次第に考えなくなりそもそもなぜこれをやるのかという理由すらも思い出さずにマンネリ化していくものです。

他人が言った言葉でもそれが自分のものになるまで一つのことをじっくりと時間をかけて自分で考え抜いたり、考え抜いたことを行動したりすることで自分の考えになったとなるまでやることではじめて本来の自発性が働き取り組んだといえます。

しかし誰かに言われたことをただ鵜呑みにして、それをやればいいのだろうと自分の頭でその意味や本質を考え抜かなければ次第にそれはその人の考えに単に従ってやっていることになり、自分自身が決めたことではなく誰かに依存して続けてしまっていることになるからです。それでは面白くなくなり、自分がやりたいことが分からなくなるのです。

何かを誠実に続けるには、自分が物事と常に正対し続けるという本質を伴います。

だからこそ自分が決めたことを自分がいつまでも決め続けるというのが初心を忘れないということです。一旦決めたからとそれでいいわけではなく、決めたらそれが最期まで決め続けたままにしなければならないのが本来の実践です。

しかし毎日の繰り返しの中で、慣れてきてしまうと何となくやることが先になり、そもそも何のために行うのか、なぜそれはやろうとしたのかということは後回しになっていくから忘れるのです。

日々に新しくならないのは、やり方を覚えてしまってそれに落ち着こうとするからです。脳が考えるのをやめたがるからです。だからこそ単にやることが続くことが良いわけではなく、正しく実践し続けることが善いのです。

その人の考えであっても自分の頭で考えてそれを自分のものにするというのが学問です。

例えば、何かの気づきがありやってみようと思ってはじめた日々に行うお祈り一つであってもただ単に手をあわせているだけでそこに心が入らなければ何のために祈るのかを忘れてしまうものです。だからこそ、大変でもそもそも何のために祈るのかと常に初心を毎回思いだし、自分で考えを深めて今此処に心頭身一体に定めて行動しなければ最初の定義した意味から次第に外れてしまうのです。

本質というものは、毎回何かを取り組む前に自分の頭で考え抜き、心で定めたところを思い出し常に初心を忘れないようにしなければ辿りつきません。

言われてからやるとか、頭で分かったところでやるとか、それは考えないことでラクにはなりますが、そのラクこそが遣り甲斐や生き甲斐などを見失い、受け身になり楽しくなくなる原因になっているのです。

考えずに流されてしまう毎日ではなく、自分から考え抜いてでも流れに乗って味わっていこうとするのでは同じ旅路であってもそこに一日の充実があるかどうかが決まってしまいます。同じ積み上げるのならば、無機質に積み上げるのではなく、大切に積み上げていきたいと願うのが自分の人生です。

それに周りにあわせて他と比較して生きるのはラクですが、本来の本懐のままで自分を遣り切ることこそが人生の醍醐味であろうと思います。今に生き切るというのは、なぜこれをやるのかを常に自問自答し自分の頭で考え抜き続けるという実践を行うことでしょう。

「あなたは最初なぜ昔に自分がこの今の姿を決めたかの理由を忘れていませんか?」
「あなたはそもそも初心がどのようであったのかを忘れていませんか?」

常に自問自答は、自分に問いかけ自分が応えることでふり返りが正しくなります。

本当の問題は、何のためであったのかを流されて忘れてしまっていいることかもしれません。 いちいち忙しいとか疲れたとか、時間がないとか場所がないとか、ないないないないという根本がない言い訳にかまけて、自分で常に考えるのを怠らないように日々新たな実践に心を籠めていきたいと思います。

日々を澄ませていくためにも、内省を怠らずに本質に帰りたいと思います。

修身とオープン

オープンになるということは大切なことです。このオープンとは、心と感情の開放のことを言います。そうすることで、自分自身というものの心を澄ませて感情も澄ませていくことができるからです。その両方を磨くということが即ち、オープン=素直になるということです。

論語の大学に修身についてこう書かれています。

「其(そ)の身を修(おさ)めんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の心を正しうす。其(そ)の心を正しうせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の意(こころばせ)を誠にす。其(そ)の意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。
物格(ただ)して后(のち)知至る。知至りて后(のち)意(こころばせ)誠なり。意(こころばせ)誠にして后(のち)心正し。心正して后(のち)身修まる。」

修身の一部の抜粋からの意訳ですが、身を修めるには心を素直にしていくこと。そしてそれはまず自分の感情を澄ませて正直にしていくこと、正直にするには知を本物にしていくこと。知を本物にするのは、自らを誠心誠意、本心本意のままで在るようにしていくこと。そうして自分が素直に自然体でいるならば知は本物となり、そうなれば感情も正直になる。感情が正直になれば心も素直になる。そうなってはじめてその身が修まるのであると書かれているように思います。

これは簡単なようですが大変難しく、人はどこか他人にあわせて自分を決めているものです。つまりは自然体であろうとするよりも、無理をしてどこか正直ではない自分を演じるものです。良く見せようと思ったり、価値を下げないようにと我慢しているものです。

これが悪いとはいわないのですが、そうなることでオープンではなくなれば余計に身が修まらなくなるのです。オープンでいるというのは、感情をそのままに表現することを大切にしていくということ。つまりは、嬉しい時、悲しい時、辛い時、その自分をそのままに周囲を信頼して開放してもいいと安心している自分があるということ。

そして心がいつも穏やかで澄んでいるならば、その感情も決して周りを傷つけるようなものにはならず、穏やかに弱い人たちを助けていくような勇気になるはずです。

オープンでいるということは、何でも話してもいいという姿勢を自分がいつも周りに示していることです。自然体になることが私にとっての修身ですが、それは仲間にいつも心を開いて自分の感情も含めてオープンでいることのように思います。

素直になれば正直になれば、無茶な事や無理なことを誰かに押し付けるようなことはしなくなるものです。修身とは、本来の明徳や玄徳といったその人がそのままに備えている本来の人格、もっと平坦にいえばその人の魂の個性というようなものを如何に発現させていくかをいうのです。

自分らしさというものは、どこか外に探しにいくものではなく、本来は本物の自分を発掘してそれを周囲へ及ぼしたときに出ているものです。

素直で正直でいるというのは、自らが安心しオープンでいる実践のことでしょう。今の時代の修身とはオープンであることが本質の維持です。常に矢印は自分へ向けて、自らが閉塞状況をつくらないように注意して身を修めていこうと思います。

脈々と流れる自分のお役目

私達の先祖たちがどのような道を辿ってきて今があるのかは古事記の中の物語や、神話、そしてかつての遺跡から考察することができます。

何かの出来事があったとき、どのような考え方をしたか、どのような思想をもって取り組んできたかを知るのです。今の私たちが生き残っているというということは、その思想が根底に備わっていてそれがあるから私たちが今も発展を継続していくことができるのです。

その思想とは何かと言えば、私たちが日本人らしいと世界で評価されているところのようにも思うのです。それは日本人の道徳観や、民族観、文化観からも顕われています。

例えば、譲り合いの姿でいえば困っている人がいたら放っておけず無条件でその人たちの世話をしたという話は地域のいたるところに残っています。また、子どもっぽい民族で真似好き、地道に正直に何でも受け容れて取り込んでいくことも特徴ですし、おもてなしや礼儀作法、風情や情緒を自然に愛でる精神なども持っています。

こういうひとつひとつの中に、私たちが先祖代々受け継いできている根本の思想があるのです。そしてこれを日本らしさとも言うのでしょう。

私達の先祖たちは、権力で人を使うのではなく思いやりで皆と暮らしていました。それは神話や遺跡、文化からも垣間見れます。震災の時や、有事の時、日本人が慎ましく謙虚に譲り合い助け合う姿は常に世界では高く評価されるのも日本人らしさを見るからです。

私達にとって当たり前と思うことの中に、私たちのルーツがあります。この当たり前をどれだけ今の時代に発掘して還元するかも、子どもたちの仕事をする今を生きる私たちの大切なお役目であろうと思います。

自らを正しく伝承していくというものの大切さは、その時代時代を生きた人たちの使命です。間を取り持つことではじめて人は人になるからです。自分のことばかり考えて自己中心的な人が増えてきて、自分のことばかりに時間を使おうとする利己的な社会になってきましたが、善く周りを見渡せばちゃんと日本人らしい実践を怠らずに流されずに自分を持っている人たちがこの時代を根底で支えています。

恩恵に感謝し、その恩義に報いるためにも先祖から代々守り続けてきた真善美を継承し、その実践を自らの日々を通してカタチに換え、いつまでも子どもたちに誇りと自信を譲って生きたいと思います。

日本人として当たり前のことをもっと大きく深く引き出して、脈々と流れる自分のお役目を全うし、未来や世界の御役に立つために学び直していこうと思います。

感謝の本体

今年始まった実践に有難うノートというものがあります。
その日その日の有難うという感謝を記していくのです。

よく考えてみるとすぐに理解できるのですが、人はひとりでに育ったわけでありません。多くの人達の見守り、そして誰かしら何かしらの御蔭で今まで生きてこられたとも言えます。

食べもの一つであっても、住環境一つでもあっても、そして生活できることでもそれは本当に数多くの恩恵の中で育てていただいてきたのです。

何でも自分の思い通りにいくことができることが権利としてあると思い違いをするような自分中心の考えに執らわれてしまうとこのような「当たり前」であることすら忘れて不平や不満、その他の自分の身の上の心配に執着してしまうものです。

感謝の本体とは何かと思えば、これは当たり前であることに気づいていることだと思います。

ノートを実践すればするほどに、書き記すことは何も特別ことを与えてくれたとか、夢が叶ったとか、奇跡が起きたとか特異だったことを書いているのではありません。むしろ、実は気づかないだけで身のまわりに存在している当たり前の出来事を当たり前ではないと感じた時のことばかりを書いているからです。

感謝の本体とは、この当たり前にしないという澄んだ本当の自分の顕現です。自我に囚われ、感情に心奪われ、日々の当たり前を当然だとし、傲慢になってくればそこに反省も内省も、そして進歩も成長もなくなるように思います。

謙虚さというものは、どれだけご縁に感謝し、日々の気づきに感動し、利他に生きる感激を味わうことかとも思えます。

もしもこの日が最期だとしたら、何をするだろうかと思う時、一番最初に気づけるのは身近な当たり前に気づきそこへ感謝の行動を示すことではないかと思うのです。そういう日々を当たり前にしていかない実践のその最中にこそ最善の人生があるように思えます。

つい受け身になると、逃げや不安、迷いや惑いに流されてしまいますがその時こそ感謝の本体を伴って道をひらいていく試練だと実感することだと思います。一度しかない人生を攻めるということは、二度とない今を大切に過ごしたという、生きていることに感謝できる今に全身全霊を傾けるということかもしれません。

できることというのは、実は遠くにあるのではなく、身近な小さな行為にどれだけ大きな真心を籠めたかというものによります。大切なものをすべて大切にしていくのは、大変な積極実践が求められますが怠らずに歩みたいと思います。

自然からの学び~共有財産~

自然農に取り組む中でまた新たな発見がありました。

自然に合わせて他の植物と野菜の共生に任せて見ていると、生長期を共にするものを仲間としその伸びる速度や高さ、その育ち方にまで影響をし合うことに気づくのです。

例えば、高さでいえば、周りの高さに負けないように自らを上へと伸ばし太陽の光が届くところまで高くなるのです。そうなると周りのものも同時に高くなるため、全体的に高くなるのです。もちろん、もともと背の高いセイタカアワダチソウやトウモロコシなどはかえって周りが低いと低いままですが、周囲が高くなると高くなるのです。

高さというものは、周りの高さによって変化するものだから周りの高さをどのように保障してあげるかでそのものの持っているものを引き出せるようにも思います。全体を高くしていくということは、伸びる力を引き出していくということです。

他にも混植をしていく中で、急成長する植物の音を聴いてはその音に沿って伸びているようにも思います。身近なものをみて、身近なものの生長の様子にあわせて自分の場所を確保していくというものです。

生長の豊かな状況の中に、種を置いてあげれば次第に周りから学んで伸びていきます。そのものに毎回、肥料や水、農薬をかけずとも、周りに元気な草花が自生していればそこから自然の中で生きる智慧を学びながら育つのです。

不思議ですが、自然は常に周りの環境から学び育つものです。ここに引き出し方のコツがあるのです。周りとの共生から学ぶという、自然の学び方があるのです。自然は教えずとも学ぶという根拠は、常に周りから学ぶということが自然そのものの本来の学び方であるということです。

多品種多目種であることが周囲を元気にするのは、それだけ育ち方や取り組み方にそれぞれの伸び方や生え方があり、それを通して智慧を自らのものにしていき生長を揺るぎないものにしていくのでしょう。かつての季節や気候、土壌でそのものが得た智慧を共に学び合いながら共生するということにそのいのちが生きてきた智慧を共有するのです。

周りによって自らが学ぶというのは、自然の学び方の一つなのでしょう。周囲を多様にしていくことが、生きる智慧を引き出す方法です。

生きる智慧とは、共有財産のことです。それをシェアできるとうことが真に豊かな協働共生する社会の創造になるはずです。子どもたちのためにも、自然の新たな発見を実践を通じて、一つ一つものにして具現化し、それを世の中へ還元していきたいと思います。

 

知ると分かるとは

物事を知るということは大変難しいことです。そしてそれを分かるようになるのはさらに難しいことです。

例えば、物事を知るというのは簡単に分かったから知ったというわけではないことがわかります。表面上のところだけを頭で理解していることと、それをどれだけの深さで受け止め受け容れ自分の体験や経験で知るというのは一緒の意味ではありません。

情報化社会の中で、頭の中で別の世界を持っている人たちが増えています。バーチャルとリアルがごっちゃになり、この知るということができない人たちも増えているのです。

知るということは、「経験を積む」ということです。その経験を積むというのは、こういうことだろうと単に知ればいいわけではありません。本来の知るというのは、そこから全世界の問題を見抜いたり、物事の本質を掴み取ったり、その知ったことから自分の世界での真の役割を見出していくことや、世界の苦しみを共感し自分を磨いていくこと等々、知るというのは自分の中で真実を知るということなのです。

そして分かるというものが何かといえば、これらを「受け止め・受け容れる」ということなのです。ちょっと知っただけで分かったとなるのは、真に経験を積んで実践をしているのではありません。それは単に知ったことを分かった気になっただけなのです。

分かるという行為は、大変難しいもので分かるというのはそのものの問題をありのままに受け止め、自分の我をも捨てて受け容れたときに分かったと言えるからです。分かった気になっているのではいつまでもバーチャルの世界から抜け出せません。現実を受け容れるというものは、全ての問題に逃げずに直視する必要がありそれをしてはじめて分かることができるからです。

ひとたび、真なる知ると分かるができればその人はそこから自他一体の共感、そして理念の実践、伝道していくことの3つのことが開始するのです。

世の中を変えたいと願う心は、以上の3つの実践に必ず辿りつくように今では思います。物事を知り分かるためにも、本当のことを知るための真摯な精進、本当のことが分かるための本気の内省を継続していきたいと思います。

夢と目標=利他と御蔭様

昨日、今年度初のGTセミナーが開催されました。

子どもの主体性や自発性を見守ろうと志した方々が全国から一同に集まります。いつもは、個々の園で関わることが多いのですが全国にこれだけ真剣に保育を考えて考動している人がいるということは本当に励まされ元気を頂けます。

よく考えてみると、人は夢とか目標とか自分のことばかりを考えるものです。自分が自分がと自分の我を通そうとすればするほどに、余計に本質から遠ざかるもののように思います。

しかし誰かのためにや、本気で自分を活かしてくださった人たちへの感謝を思い、その恩義に報いるために今与えていただける機会を一つでも多く自分を出し切って誰かのために尽くしていこう、貢献していこうとした先に本来の夢や目標というものに出会うのではないかと私は思うのです。

最初から夢も大きかったわけではなく、目標も高かったわけではありません。未知なものに思いを馳せることも自分のやる気の持続やモチベーションの高揚にはいいのですが、実際は人は心の奥底から込み上げてくる勇気の源泉は今、御役に立てると自分自身で感謝を実感するときにこそ出てくるように思います。

自分の存在が誰かのためになるのなら、役に立ちたいと願うのは大義です。どうやったらその人が今、もっとも誰かの御役に立つようにできるかに導くのがリーダーの使命のように思います。

つい、傲慢になり感謝を忘れてしまうと自分のことばかりを優先したり、自分が考えていることばかりに囚われてしまいます。しかし、これもすべて御蔭様だと実感すれば謙虚に物事を正しくしていくことができるのです。

つい自分がここまでやっているのだからとか、なぜ自分が理解してもらえないのだろうとか、自分のことばかりを考えれば自分が自分我とまた自我に囚われます。それはエナルギーが自分に向けられることで苦しく不毛な日々に変わります。しかしそんな自分のことなど忘れて、大切な目の前の人の理想や夢を叶えようと自分を無くして自分を尽くすほどに真心を籠めて行動したときはじめてその自我が消え穏やかな本当の自分に出会うようにも思います。自分の夢ではなく誰かの夢に協力し貢献するときこそ本来の自分が発揮できるという人間の真実があるのです。

実際は、夢や目標とは自分が先ではなく誰かの御役に立とうとすることで出逢うものなのだからかもしれません。自分の10年をふり返ってみても、今回、会場に来たような先生方、園の方々、またそれを実現したいと願う役員の方々、またリーダーが願う夢を私も叶えたいと真摯に取り組んできただけのように思えるのです。

自分の夢や目標は後回しにしてでも、不本意なままに矛盾を抱えては歩んできたこともありましたが、結果を観れば本当の自分が心に描いているような善い人生を歩ませてもらっていると心から感謝できるのです。自分のことよりも目の前のお客様のためにと尽くしてきたから今の自分があるのかもしれません。

何か自分の人生に不満や文句があるときこそ、人は夢や目標を追いかけてしまうのかもしれません。人生が満足しているのなら、妄想は要らず夢や目標は常に今への感謝からいくらでも実感できるからです。

子どものためといいながら、子どもの御蔭で自分があるということの事実。誰かのためといいながら、実はその誰かの御蔭で自分があるという現実。そう思えば御蔭様、御蔭様と生きていく人こそ、真に夢と目標を語れる感謝の人だと私は確信しています。

人間は生涯において利他に生きる人が夢を持ち、そして御蔭様でと感じる人が目標を得るのだと思います。生きている時間をどう使うのかは自由です、己の野望と他人様への思いやりのバランスは今の選択の集積が決めるように思います。

会場の先生方は、みんな夢や目標に向かう希望と笑顔に溢れていました。自分のやりたいことよりも自分を遣る事の方を構わず実践するというその勇気。

人のために働ける今に感謝できるということは、何よりも素晴らしい実践だと思います。何事も、来たものを素直な心で受け止めて学び直していきたいと思います。