忠義

今年は義について確認することが多かったように思います。

特に源義経、木曽義仲、楠木正成、そして上杉謙信と義についての武将から忠義ということが何かということを学び直すことができました。

それぞれが天に対して定めた生き方そのものを貫くときに顕われてくるのがこの義です。相手が比較や人ではなく、天であるからこそより凛とした厳しい姿勢で自分を尽くしていくことがどれだけ純粋な魂であるかを憶えるのです。

これらの人達から生き方を照らして学ぶというのはとても有難いことで、自己観照するときに自分がこの人だったらと考えるそれだけで自分がどうあることがより物事の実相を正しく掴むことができるかを学ぶ事ができます。特に上杉謙信はとても自己観照していくことに相応しく思うのです。上杉謙信の思想や実践、そこにはとても共感するものがあります。

例えば、謙信に有名なものに「敵に塩を送る」ということがあります。

これを新渡戸稲造は武士道でこう書きます。「聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと、これきわめて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓矢にありて米塩に非ず、今より以後塩を我が国にとれ、多寡ただ命のままなり。」と。謙信は戦は戦、それで塩を止めて民衆を苦しませることはならぬと、自分は卑怯な方法で戦うことはしないと述べるのです。正々堂々と、公平に天に忠義を照らして常にその瞬間を判断していくのです。

この上杉謙信のことを共に戦ったものたちや家臣はこう語ります。

武田信玄の場合は死を前にして、「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに一生、彼と戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と勝頼に言い残し、菊姫が上杉景勝と婚姻します。

そして北条氏康からは、「信玄と信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託す人は謙信だけである」として謙信を認めています。

そして関東の知勇兼備の名将、太田資正からは、「十にして八つは大賢人、残り二つは大悪人である。彼は勇猛・無欲で清浄、器量が大きく正直である。物事を明敏に判断して、しかも慈悲深く、もし人から諌めららればこれをよく聞き入れた。ただ怒ることが多く、心違いをしたこれが欠点であろう。ともかく謙信は善所が多い稀にみる名武将であった」と、その謙信の人柄について語られます。

上杉謙信を自己観照すると純粋に天に殉じて義を貫いたその生涯に勇気と愛をいただけるような心地になります。時代がどのようであったとしても、義の生き方は普遍であるようにも思います。

今年は辰年、私にとってはとても大切な節目の年でした。忠義は常に天と人との純粋な関わりがあり、はじめて顕われることを実感します。最後に、上杉謙信が春日山城の壁に書いた回訓を紹介します。

「運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。 何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし」

これは意訳ですが、人は運でどうこうを決めるのではなく常に運は天に任せて、どれだけ自らの人事を尽くすかということを戒めるということだと思います。人はすぐに何かあると誰かや運のせいにして言い訳をしますが、自らに課した人事が果たして天に叶うものであったかとそこにも我が真心、その凛として律した己が忠義を正すことをやめないということです。

心頭滅却していくということを、常に意識して修養をした一生だったのではないかと毘沙門天の姿から実感しました。大義や龍に恥じないような純粋な魂を磨きつつ、気づきをさらに自問の糧にし子ども達の幸せを祈り、今の日々を精進していきたいと思います。

 

 

楽しい学び

昨日、社内を古民家のように改造し楽しい職場についての研修を行いました。

講師には、新宿せいが保育園のベテランのお二人に来ていただきお鍋を食べお酒を飲み日頃の楽しい事例について語り合いました。気の合う仲間との会食はとても嬉しくそして美味しく、時間が過ぎるのもあっという間でした。

その中で、色々と教えていただいたこともあり学び直しを楽しむことができました。

一つには、学ぶ姿勢。

いついかなるときも、自分が学ぶからこそ教えない、日々に子ども達から学び自分を変えつづけているからこそ色々な意見を聴いてもその人の答えが正しいということになるのだろうと思います。分かった気にならない実践、つまりは自分自身が常に様々なものから真摯に学ぼうとする姿勢が何よりもこのベテランの姿勢であることを自覚していらっしゃるのです。

そして二つ目には、バランス感覚。

方針があり目標があり皆と歩む中で間にいるベテランがバランスを取ることができるからこそ周囲も安心してそこで委ねて一丸となっていくことができるのです。私の解釈ではアメーバのようにふわふわとカタチを換えながらもその粘着を緩やかにしているのがこの中間の役割です。自分の価値観に固執し、偏りバランスを崩せば組織も同じようにバラバラになってしまいます。しかしこの間にいる中堅やベテランの人達の絶妙なバランスが全体の調和に非常に役にたっているのだと思うのです。いつもバランスを意識するには余裕もゆとりも、そして自分の主軸をきちんと持てるということ、それはつまりトップの思想やビジョンに精通していらっしゃるのです。

そして最後は、分を弁える。

自分の役割というものを正しく理解すれば、分度という自分の分を弁えることができるということです。欲目から自分を過大にも過小にも評価せず、あるがままにありのままに正直にいれば自分がどのような役割を担っているのかを知ることができます。そしてそれは自分を活かしてくれている上司や周囲に対して自分にしかできないことを正しく理解することができるのです。つまり出しゃばらないということ、言い換えれば見守るなのです。自分の分度を正しく理解するから余計なところは手をださず、その人の役割にお任せすることができるのです。これは人や相手を心から尊重していらっしゃることをいうのです。

そしてこの分を弁えるという言葉は、身の丈を知る、過大評価しない、これは「自信」そのものです。本当の自分の「実力」が分かっているというのは、本当に自分や困難に向き合って乗り越えたものだけが使っている「謙虚」そのものの言葉のように思います。

そしてそれは確実に夢や道を自らの脚で正しく歩むときに出てくる言葉です。

私も昨夜はお酒が入っていたので、盛り上がりましたが今朝がたには感動して身震いし心が熱くなりました。こういう人たちがいる職場には自然に求心力が働いていくようにも思います。子ども達の周囲にこのような大人がいるということそのものが尊いと感じる一夜でした。

また道を歩む中で、時折、学問を語り合い、学び合うことができればと思います。これもいつもながら見守られている御蔭とし、さらにより一層の向上と精進を積み未来の子ども達のためにも実践で還元していこうと思います。

 

 

自ら強めて息まず

観えるという行為は、一般的には眼で行うようなものではありません。

よく心眼などということもありますが、これは感覚で掴んでいることのように思います。

先日、植物のことで深めているともともと目はついていないはずの植物が季節を見通し、未来を見通し、周囲の共生を見通し、こちらの関わりを観通しているかのような感覚を覚えることがありました。

例えば、神社の大木などもそうですが確かな見守りを感じることがあります。それはその木を触っているときにも感じますし、音を聞いていても感じることがあります。つまりは、五感というのはすべてを観るという行為に繋がっていると私には思うのです。

眼で見るものも、正しく感覚を澄ませば眼で観るということになるのだと思います。

そしてそれと等しく、耳で聴く、匂いを嗅ぐ、舌で味わう、体で触るというように大切なことはその感覚を通して観ていくように思います。それを私は直観で観るという呼び方をすることもあります。

観るという行為は、自然そのままの行為であるがままに混ざり合ったものを混ざり合ったままに観得るということです。分けないという言い方だと分かれてしまう気もしますが、そうではなく自然のままに観得出すという言い方の方がいいように思います。

不自然であるということの感覚は、頭で間違っていると思うよりも正確でそれは全体から観ればおかしなことを行っているという気づきと発見であるとも言えます。

自ずからそれを確かめるには、常に自分を立て直し素のままで平穏で居ることができるどうかによるのだとも思います。それは澄ませるという言い方であり、清らかにするという言い方、もしくは明らかにする、素直になる、つまりは真心に戻るということを言うのです。

人は真心が出ないのは、どこかで自分の感情に左右され物事の実相が正しく観えないことからはじまるように思います。私の場合も、都会に来て数日人との関わりばかりのなかで都市のシステムに暮らせば次第に感覚は鈍っていきます。そうならないように心に確かなものを持とうとしますがまだまだ修養が足りず精進の日々です。

しかし感覚を研ぎ澄ませていくことは、創意工夫と鍛錬でできるように思います。日々の変化に対して、常に心を新たに観続けることを「自ら強めて息まず」で歩みたいと思います。

それが自然

ベランダで稲を育てているからか、今朝がたトンボがどこからか飛んできました。

春には、ハチも飛んできたし、初夏にはイモムシも増えていました。

それに真夏にはクモもいて、時折は見たことのない鳥もやって来るようになりました。

高層ビルばかりで、下は首都高速が走る8階の建物のベランダに生態系が訪れます。

ビオトープを始めた時は、メダカやタニシ、その他の生きものをたくさん購入して持ち込みました。しかし今年の夏の暑さのせいか水草は元気だったのですがエビたちや一部のタニシのような貝以外は今は姿をみせません。持ち込んだものは次第にいなくなり、持ち込んでもいないものがたくさん増えてきました。それは新しいいのちであったり、どこからかやってきた生きものたちです。

驚いたのは稲の鉢の中からメダカの赤ちゃんが誕生していたことでした。
そしてそれは今もすくすく元気に泳ぎまわって大きく育ってきています。

他にも大豆や黒豆、紫蘇や山椒なども植えていますが次第に大きくなって仲良く花を咲かせています。ベランダでは小さなプランターで寄せ植えになるため、そこでみんなが寄り添って生長していますがその中にもちゃんと棲み分けそれぞれに光が当たり、雨が入りこみ、風が抜けるようにバランス感覚抜群に調和しています。

私が最初に頭で考えていた頃よりも、自然にしていたら多くの生きものが集まり、当初私が思っていたよりも自然にしていたらみんな本当に立派に健やかに成長しています。

何もしていない方が自然と感じる幸せな瞬間です。

自然というのは、いのちがすべて天然であることを示してくれます。
そしてそれは本来、自分のいのちが本当に望んでいたものを思い出させてくれます。

何もしないで待っていれば次第に自然になっていく、その慈愛を憶えるのです。
だから持ち込まない、持ち出さない、何もしない、それが自然の豊かさなのでしょう。

何もしないのが善いのはみんないのちは素直であることを実感するからかもしれません。
何もしないのが自然というのは、何もしないとき信じ、素直になっているということなのでしょう。

それがいつもの私が尊敬してやまない大好きな自然なのかもしれません。

自然が好きな理由との邂逅があった自然との出会いを今日も楽しんでいます。
子ども達の自然を見守っていこうと思います。

禍信

人は自分が誰かの役にたっていると思うとき、幸せを実感するものです。

そしてそれが偉大なことへの協力や、大切であることへの参画になれば余計に自分の生きがいや遣り甲斐を感じることができるのです。

人は自分の力を頼りに生きる人と、人の力を頼りにできる人がいます。

自分の力だけで何とかしようとする力とはとても弱く脆いものです。自分の力だけで何とかなる範囲でやることはその範囲内でしかやり遂げることができません。いくらその人が偉大な天命を授かったとしても、それを自分だけでやろうというのではそれは真に発揮されているとはいわないからです。

自信がある人は人に無条件で頼ることができます。それは人を信じているからで、人を信じる事ができる人は自信があるのです。

自信がない人は人に無条件で頼ることができません。何かの理屈をつけては、それだから頼ろうとしたり、いちいち指示命令することで人を使おうとするのです。しかしそれは人を信じていないからでそういう人が次第に周囲の自信を奪っていくのです。自分の自信を奪っていくような人とは誰も一緒にいたいとは思わないのです。

もともと自信とは、自分は一人ではないと感じているということだとも言います。
自信がない人は、結局自分は一人孤独なのだと感じているということにもなるのです。

自分だけでやってきたことは何一つはないはずなのです。
誰かのお力をお借りしてきたから今があるとも言えるのです。

今の自分があるのは、何の御蔭であるのか、何の力をお借りして成り立っているのか、自分ができないことは他人に頼るというのは自分の力に過信しないということでもあるのです。

過信の過は、禍の過になり、その分度がいき過ぎているということであるのです。
節度を保つには、礼節を重んじ、自分の力に過剰に過信しないことです。

多くの人達の御力をお借りし、多くの衆智を集めることで大きなことははじめて成ります。
なぜならそれが幸せなことで楽しく豊かなことであるからです。

人は人と生きることではじめて、生かされている実感と生きる歓びに出会うのです。
まだまだ私も本当に未熟で経営から多くを学ばせていただいてばかりです。

大切なものを守り愛し続けるということは、自分の観方を変えるということに他なりません。

道のりはまだまだ長く、これからも永遠に続くものなのだから、常に気づいたらその時にすぐに改められるよう、くよくよせずに常に今の自分を自らを新しくしていこうと思います。

変化のコツ

知識や技術は自分のものにすることではじめて実用可能な財産となっていきます。

いくら知っていても、分かっていても、ただ見てちょっとやっていっても、それが具体的な生活の一部になったり、自分の生き方と一体とならなければそれは真に学んだとは言いません。

よくちょっとかじってそれをさもわかった気になっている人がいますが、これは私もよく注意していることでそれは分かっただけで自分のものになったのではないとし、常に基本を維持するために何を継続するか、何に取り組む実践をするのかを決めています。

先日の発酵研修でもそうですが、料理の作り方や技術、考え方などは言葉で聴けて学べたとしても、その大前提とした生き方がどれだけ自分のものとして持ち帰ったかはその持ち帰った量とそれを持続している分だけが決意の量だと言えるのです。

人は様々ですぐに決心をして自分を変える人がいますが逆にいつまでも決心せずに流され続けている人もいます。

いくら決めましたといっても同じことに戻るのはよく自分に甘いからとか、自分が逃げているからなどと言い訳もありますが、本来の理由はそうではないと私は思います。それは単に自分を信頼することができない、だから怖くて勇気がない、自分が不信だと言っているのだと思います。決めたとなってもいつまでの決まらないときは、本心からの自分を信じる事が出来ていないと思って間違いないのです。

もしも変わると決めたなら、その後に行うのは失敗を恐れずに取り組む勇気です。そしてそのとき、決めたときの心をどれだけ自分自身が大切にできているかが関わってくるのです。自分に正直に、自分の大切にしたいと思っている側の自分の味方をしてあげるのか、自分自身が本当に望んでいることを信じてあげてそれを手伝ってあげるのか。

その際に、自分自身が先に分かった気になったことや、今までの刷り込みの知識などが邪魔して動けないのを思い切って捨ててでも新たな今の自分を信じてあげるという思いやりが必要になるのです。

そして思いやりをもったあと、本当の自分に正直にやりたいことをしていればそのうち怖くはなくなってくるのです。自分のやりたいことが、全体の貢献になるのなら別に誰かへの遠慮などいらない必ず自分のお役目を果たすと腹を据えてやっていればいいだけなのです。

そのようにまず何よりも自他への貢献を一生懸命に実践すること、そしてそれを続ける事、そしてそれを自分の人生でのお役目、つまりは天命にすること。そうしていれば、自分への信頼の積み上げと、いつでも変化を受け容れられる勇気を発し続ける事が出来るのです。

具体的にはどうすればいいかといえば、何でも「先手必勝!先手必勝!」と、自分を鼓舞し決めたことを後に延ばさず、考えるまでの時間をかけず瞬時に心で感じたことを頭に流されないうちにすぐに取り組むことこそが変化のための最大のコツであろうと思います。

何でも思ったら即行動、感じたらすぐに決断、気づいたらすぐに改善、常に勇気が滾々と湧き出しやすい「今、ここ」にいのちが輝いている状態の心で日々を大切にしていきたいと思います。

適材適所

心を清めるということに、人の善いところを沢山探すというものがある。
人は他人のあらさがしをするほどに、心は穢れていくものです。

自分の思い通りにいかせることや、自分の都合よくなってほしいと思うことはすべてにおいて自分の欲望が出ているともいいます。自分の欲望というものはしかしそれは善い方へと転じていけばそれは意欲となったり意志になったりできるものです。

しかしどうしても自分の目先の都合が先に入ってしまえば他人に対しても器量の小さなことをしてしまうものなのです。何かを保育するや、人を育てるというのは自分の思い通りいかないものです。

それは植物でも野菜でも、動物でも昆虫でもそうですが、思いやりや真心でゆったりと長く待ってあげながらきめ細かな配慮が必要になるのと同じで、育つというものを見守るというのはその時の心には丸ごと認めているものがあるのです。

もちろん、何か人はそうなってほしいと理想のカタチばかりを押し付けてしまうものです。欲というものは、制止させておこうとするものにとても似ています。相手や周りが変わってしまわないようにと押し付けようとするものなのです。それでは適材が適所に落ち着きません、つまりは居心地が悪くなってしまうのです。

しかし本来は、そのものがそのままでいられるように自分自身の方が切り替わっていけばいい、自分の方が自然に柔軟に転じていけばいいということが本来の欲との付き合い方であろうとも私は思います。

現在、自然農をはじめ自然養鶏、自然発酵など様々なことに取り組んでいますが大切なことは自分自身の方がそのものの個性を認めて合わせていくことなのです。相手に合わせさせようとするのではなく、相手に迎合するのではなく、自分の方から在るがままであるほうへと合わせていくことができれば常に本質的な自分を変える必要はなくなるのです。

自分に無理をするのは、自分に周りを合わせようとするからであるのです。
自分に無理をしないというのは、自分から周りを丸ごと認めていけばいいのです。

この合わせるというのは、丸ごと認めるということであり元々そういうものなのだから自分が合わせてあげればいいと思いやりを持って見つめてあげるところからはじめればいいのです。

適材適所もそうですが、相手の善いところを観てそれを引き出し、相手の悪いところは無理に修正するのではなく気にならないようにしてあげることなども優しさであろうと私は思います。

心を清める実践を積んでいきたいと思います。

 

経験の堆積

人は過去に様々な経験を積んで今というものを観ているものです。
今、目の前にある情景や状況もすべては過去の堆積によってできたものです。

例えば、土を見るとき私たちはその土の上にある世界を観ていることになります。しかし実際は、過去の土の上に今の土があるのだから今の土は過去の堆積された事実の上に存在しているのです。土で言えば、一般に1センチで100年と言われるようにかなりの長い時間をかけて今の土になっているのです。

これは土だけによらず仕事でも何でも同じです。
今、自分が見えている仕事も今だけを見れば目に映るものだけでそのものを理解し判断しますが実際は過去の色々な経験の堆積によって出来上がっているともいいます。

その過去の堆積した経験が次に活かされ、そしてその今の仕事を創りあげているのです。
そのとき、よく陥るのが過去の経験にしがみ付き、新しく新しい経験を堆積させようとはせず、その今までの経験だけで乗り切ろうとするときに問題が起きるのです。

この経験というものは、常に堆積していくのだから今までどのような積み上げで今そうなっているのを感じる力が必要です。その人のことを理解することも、その仕事そのものがなぜそうなのかを理解するのも、今までどのような取り組みや経験があってそうなったのかを感じるからこそできるともいいます。

そして一番それを実感するには、やはり同じ体験や経験に近いものを持っているか似たような実践を日々に堆積させているのかということにもなるのです。

もしも堆積していくという意識がなく、自分の居心地が良い土の上にいつまでもいて上書きされていなければ経験は積み上がっていきません。もしも、その人の体験を理解するのなら同じようにたくさんの経験や実践に取り組んで近づいていくしかないのです。

それはとてもシンプルで、具体的にその人が体験したことを自分も体験すればいいのです。
頭で分かろうとすると、奇異な場所に囚われそのカタチは何とか見せられても中身がついてこないということもあるのです。

思うだけではなく、具体的な行動に換える事や、考えるだけではなく、具体的に可視化していくことや、調べるだけではなく、具体的に取り組んでみる事の方が経験を堆積していると言えるのです。

土づくりをやっていますが、善い土壌とは以上と等しく様々な経験により堆積した腐葉土がたくさんの菌によって発酵してふかふかのベッドになっているようなものです。同じく、時間をかけてじっくりとひとつひとつの経験を大切に味わい身に着けていくことは堆積しつつ芳醇な人生を送ることにも繋がっているのだと思います。

土づくりの奥深さに触れ、改めてこれまでの取り組みこれからの取り組みに思いを馳せます。

主人公の気づき

最初に私を育ててくださった経営者の方から、「山に入ったら必ず何かを持ち帰りなさい」というものがった。

今思えばとても大切な教えで、この今もそれを活かすことができているから物事を自分のものにしていくことを学んでいるのだろうと思います。いつも自分がその気持ちでいれば、すべてのことが師匠や先生になりそこから学び自分のものに変換していくことができるのです。

先日、ドイツ研修の同窓会があり先生から同じようなお話があり感銘を受けました。

「いつも世界へ見学や視察に行く人たちはたくさんいます、しかし現地に行ったからといって特に何かを持ち帰って自分のものにして取り組んでいる人がどれくらいいるのだろうか。それを見ていたらほとんどの人が観光のようになっていてあまり変化がありません。そうではなく、現地にせっかくいくのだからそれをどれだけ自分が現在の環境に活かし実践していけるかというのが大切なのです。」

というような内容です。

私も同じように思うのですが、勿体ないという言葉は時間にも言えるのです。同じ時間を過ごすのに映画を鑑賞する人のようにしている人と、その映画の主人公とではまったく意味が異なります。

人生の主題、主演、主体、主役は当然、自分なのだからどんな時もそうであるべきだと思うのが私の生き方でもあります。誰かのことではなく、自分のこと、誰かの問題ではなく、自分の問題、誰かの事例ではなく、自分の事例といった、それは自分自身が学ぼうとする心構えが何よりも主人公となっているということなのです。

すぐに人は状況に依存して流されてしまうものです、つい楽をしたり考えなくなるとただその雰囲気を味わっただけで流されている場合もあるのです。一度そうなってしまえば、同じ時を共有しても一緒におらず、同じ場所を共有しても一緒に学べない、同じ環境下にあっても生き方に巨大な差が開いていくのであろうとも思います。

経営者というものはその人生すべてで何事からも全身全霊で学ぶのです。
だからこそ、常に他人事にならないよう主人公の気づきを日々に積み上げていこうと思います。

 

覚知

人は何かの刷り込みがあるとものの本質を理解することができない。

どの仕事もそうだし、それは現状把握もそうだけれど根本的なところから取り組む人と、途中から誰かに聞いて知った気になるのとでは同じではない。

例えば、保育でもそうだけれど最初の発達を善く理解し、そもそも保育とは何かというところから学ぶ人と、そういうことは考えもせず他人から保育とはこうだと思い込まされている人はそれが正しいことなのだと勘違いするものです。

これは他のことでも全部言えます、そもそも何かを自分で探求して辿り着いた人は刷り込みの影響はあまり受けません。すべての意味があるものがそれが何なのかを正しく最初から理解できる人は常に本質的であるともいえます。

今の時代は、最初から考えさせるというよりも途中から教え込むという過去の発見した事実を暗記させる方を優先するからいよいよ刷り込みや思い込みを持ってしまう人が増えてしまうのです。そういう本質も時代とともに変わっていくのです、普遍的なものがあろうが自分が普遍的ではないのだから正しくそれは再考し見直す必要があるのです。

先日、弊社のランチを提供してくださっているミルクランドの経営者と面談する中で真実の卵の話をしていて刷り込みの話で盛り上がった。「卵焼きや目玉焼きでの卵しか知らない人にいくらその真実の卵の話をしても理解できないのではない。刷り込みがある人にいくら話だけしても伝わらない。最初から鶏を育てて卵をかえしまた育てまた次代へ譲るすべてを体験したものでなければ、その卵そのものが刷り込まれていない状態として「観えない」のであろう」と。

1から10までそしてまた1から10へと一巡するまでのすべてで丸ごと一つと見た時に、それを通しで体験して理解し、そもそも本当は何かを伝えるということは大変な時間と労力が必要になるのです。それをかけなければ刷り込まれないようにはならないともいうのです。

しかしそれがなされないのは今のような速度を優先して競い合うような時代、時間がないと焦りスローにじっくりなどとやっていたら間に合わないと思うのでしょう。

実際は、それを通しで体験しないことで永遠に本質に辿りつかず余計な手間も無駄も生まれてしまうことで大きな不合理が生まれ続けて混乱してしまうのです。その混乱から余計に止めることのできない人道の破滅に繋がっているのが今の状態であろうとも感じます。

刷り込みを取るには、常に一番最初から最後まで円環している原理を理解することが必要です。それは暗記ではなく、それはそもそも何かということを丸ごと全体を通しで見極め廻りを覚ることが必要なのです。

常に1からやり直し最後まで通して行い巡りを体験することが刷り込みを取り除きます。
これを私は覚知と定義します。

これをできるようにするのが私の仕事なのでしょう。今までの学び方の刷り込みに周囲がいつまでも流されなくなるよう、さらなる覚知の考案を探究していこうと思います。