「とはいえ」のない世界~子どものままに~

先日、ニュースを見ていたらアマゾンではダムが乱立をはじめ、各地の少数民族たちが移住を迫られているということを知りました。世界の奥地には、私たちのような文明が影響を受けていない場所がたくさんあります。人類は多様化し、それぞれの生き方を自らで選びそれぞれに環境と一体になって生き残ってきましたがグローバリゼーションは地球の隅々まで広がっていきます。

経済だけを優先し、今さえよければいいと突き進んでいく姿に未来への深い危惧を感じてなりません。世界は今、覇権もアメリカから中国へと移動をはじめていてまた均衡が崩れて乱れる予感もします。しかし同時に、私たちはどこかで立ち止まりまた深く内省しなければこのままでは取り返しのつかないことになるのではないかとも感じます。

今から23年前に、世界で最初の「地球サミット」がブラジルのリオで開催されました。その時、カナダ出身のセヴァン=カリス・スズキさん(当時12歳)がお小遣いをためてブラジルにやってきてそのサミットで世界に向かって発信したことは今でも「伝説のスピーチ」として語り継がれています。

その中の一文に大人たちに向かって子どもが訴えるとても心に響く文章があります。

「If you don’t know how to fix it, please stop breaking it.」(もうこれ以上、直し方のわからないものを壊し続けるのをどうかやめてください。)

これは大人の人たちへもうこれ以上、自然破壊をやめてくださいという訴えです。原発であれシェールガスであれ石油であれダムであれ、目先の損得に負けて国益があり便利だからと今の大人たち皆がそれをやってしまい長い目で観たら大変なことだと分かっていても直さないならそのツケは全部子ども達へ先送りです。どうかそれに気づき、そういう生き方を改心してくださいと世界へ訴えたのです。

それからもう23年経ちましたが一向にそのようにはならず、謙虚に奥地で何代先のことまで考えて何千年も何万年も生き抜いてきた少数民族たちとその自然文化も破壊していくでは、人類の未来が心配になるばかりです。

またこの少女は続いてスピーチで語り掛けます。

「小学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世の中でどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、争いをしないこと、話しあいで解決すること、他人を尊重すること、ちらかしたら自分でかたずけること、ほかの生き物をむやみに傷つけないこと、分かちあうこと、そして欲ばらないこと。ならばなぜ、あなたがた大人は、私たち子どもに「するな」ということを、自分達はしているのですか?」

これらの中には大人たちがよく用いる「とはいえ」ばかりがあることに気づきます。子ども第一義の中心にある「大人のとはいえを取り除く」というのは、言行不一致の生き方を改善しようとする生き方の事です。子どもを思うなら、自分の実践の先に自分の子どもたちの実践が続いていくことを自覚するべきです。

そして子どものことを真摯に思いやり、人類の未来に確かなものを譲っていくのなら今の自分たちの生き方を見つめなければなりません。それは善か悪ではなく、自分が決心した生き方をそれぞれが実践していくということではないかと私は思います。子ども人権宣言のヤヌシュ・コルチャックもいいます、私たちは「大きくなった子どもなのだ」と、だからこそ大人か子どもかではなく子どものままに子どもを見つめる必要があるのです。

そしてその少女はスピーチの最期にはこう締めくくりました。

「わたしたち子どもの未来のことなんて、みなさんの議題の中にすら入っていないじゃないですか。みなさんは、私たち子どもの未来のことを本当に考えてくれているのですか?私のお父さんは、いつも、「人間の価値は、何を言ったかではなく、何をしたかで決まる」と言っています。でも、私は、あなたがた大人がこの地球に対していることを見て、泣いています。それでも、あなたがた大人はいつも私たち子どもを愛していると言います。本当なのでしょうか?もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを言葉でなく、行動で示してください。」と。

私たち人類は何万年もこの地球で、生きることを許されてきた存在です。人口も80億を超えたといいます、この先、私たちはどのように暮らしていくのか。子ども達はこの先、何を指標に自分たちを生きていくのか。問題ばかりをみては問題を先送りするのを当然にするのではなく、今はもうすでに答えを生きる時代に入っていると思います。

如何に自分の答えを持つか、そして自分の答えに正直に生きるか、時代は人類に最大の試練を与える時期に入ってきたかもしれません。この時代に産まれてきたことを誇りにして志のままに希望を歩んでいきたいと思います。

私たち日本の文化が、必ず世界に役に立つ日が来るはずです。その日まで、真摯に直向きに生き方の原点回帰と改善を続けていきたいと思います。

 

自然の実践~積小為大~

自然農の実践に取り組む中で、年数を積み重ねていくと年々変わっていく姿を愉しむことができます。

例えば、雑草の種類なども最初は根強い雑草で大変だった場所も一年間作物をその場所で育てたならばその作物と共生関係がある草たちが周りに定着していきます。最初は水田でもなかった場所を開墾し、一年間自然農で水田を維持しているとそこに豊かな生態系も発生してきます。

そして翌年にはその卵や子孫たち、またはその生き物につられてともに循環する食べ食べられる関係のものたちが次第に増えていきます。今まであった生き物たちは減り、新しい生き物たちの新しい住まいになります。そして1年、また1年とめぐりを共に積み重ねていくことでその場所は安定し、そこは人間と作物を中心にした他の生き物たちを邪魔しない倖せの楽園になります。

つまりは中庸、「バランスの維持」をはじめるのです。

自然に任せるというのは、くり返し手間暇をかけて実践を積み重ねていくことです。いくら速く急いでと頭で焦ってみても、自分勝手な変な技術が身に着くだけです。そうやって無理に除草や防虫に苦心していたら、そのうち作物がうまく育たないからと除草剤や農薬、科学肥料を使いたい執着に囚われて便利か不便かと頑なになるだけです。もしも一度でも使ってしまうと、そこには共生の生き物たちではないものばかりが集まってきますからまた別のモノを使って追い出さなければならなくなります。

これは人間の我欲にも似ているように感じます。

人間の我欲も、自分がその我を丸ごと認めず速く急いでと焦ってしまえばそのうちできることの実践を積み重ねて人格を磨くよりも、もっと簡単便利に実践せずに上手くいく方法ばかりを探してはどこかすぐに実現できるような方法論には挑戦しても自らの実践は怠り減らすようになります。そのうち我に呑まれて決心したことも忘れてしまいます。

同じように一度そうやって怠ると自然農のように手間暇の除草や手塩にかけて見守り作物そのものの育成をカバーすることよりも、その作物が弱いからだとか周りの環境が悪いせいだとか自分を変えること以外のことに終始するばかりです。

自然を相手にするとき、「自然を無理に征服するのか」、もしくは「自然に従い応じて任せつつ自分の方を変えるのか」はその人の生き方次第です。しかし前者は我との戦いのように常に自分を責めては他人を責め、速く結果を出して成功するためにこれでもかこれでもかとあらゆる方法論を考えては頭が痛くなり困ってしまうばかりで停滞します。後者は我があることも自然であると丸ごと認め、その我に応じて従い無理をせずに融通無碍に素直に自分が変わることを愉しむことで誰のせいにもしなくなり、弱くても丸ごと認めることができるように思うのです。

自然農の実践をしていていつも有難く感じることはまったく自分の思い通りにはならないことです。しかし同時にそれでも信じて続けて自分を変える方を実践していたら、自分の思った以上のことをいつもしてくださっていることに気づき深い感謝の心がしみじみと湧いてきます。自分が傲慢にならないように教えてくださり、自分が中心にならないように助けてくださり、自分ばかりを優先しないようにと諭してくださっている。

本来、何が自然だったのかを感じられることは「変わる倖せ」を謙虚に感じられる自分の時に味わえます。真の教えに出会うときもそういうときですし、ご縁のつながりに気づけるのもそういうとき、一期一会の今を得られるときもまたそういうときです。

常に自分を下座におけるのは、自然に沿った生き方がしたいと憧れ決心した日があったからだと思います。まさに自然の実践とは「おれがおれがの我を捨てて、おかげおかげの下で生きる」働き方そのものです。

今年もまた少しだけ昨年よりも拡張し様々な稲と、様々な苗、そして数々の自問自答に挑戦ますが、ちょっとずつ増えていくことや少しずつ積み上げていくことの醍醐味、その妙味をたのしみながら確実に自然の技術を体得し実力を磨き高めていきたいと思います。この「ちょっとずつ」もまた自然の智慧の一つであり、ちょっとずつだからこそ変化が確かに観得るからです。

常に真心は芭蕉の「古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ」の中です。人類の刷り込みを取り払うのは何が自然かに自分自身の布置を正しく定めてからです。

子どもたちに譲る世の中のためにも、二宮尊徳の積小為大を実践をより深めて学びをものにしていきたいと思います。ありがとうございます。

 

自分を変える~刷り込みを取り払うこと~

人間は動機の目的を常に初心や理念で腹に据え、自ら掃除をするかのように我欲や私心を取り払わずに何かに執らわれてしまうと本質を見失ってしまうものです。そもそも何のためにやっているのかを自分自身が忘れてしまい、自分がこうしたいやああしたいといった執着に囚われてしまえばありのままに視野を広げて素直に物事を観ることができなくなるものです。

以前、小林正観さんの「MUST」くんと、「としこ」さんという話を知ったことがあります。このMUSTくんというのは、「ねばならない」という状況になっている人で、もう一人のとしこさんは「とらわれない・しばられない・こだわらない」の頭文字の略で、「融通無碍」の状況になっていると言います。

このねばならないというものがあればあるほど刷り込みが深くなっているのではないかと私は思うのです。例えば「親子はこうあらねばならない」「会社はこうあらねばならない」「私はこうあらねばならない」「社長はこうあらねばならない」「部下はこうあらねばならない」「世の中はこうあらねばならない」など、これらも全て自分の刷り込みに縛られている元凶でありそれをどう断念し手放すかということが肝心なのです。これらの「ねば」ならない人を総称して冗談でしょうが「ねばねばした人」と呼ぶそうです。

またとしこさん「とらわれない・こだわらない・しばられない」の方は、「それもいいね」「そうなったら嬉しいね」「だったらこうできるね」「転じてみてら面白いかも」というように、視野も広く心も寛く、あっという間に「物の視方」を変えて自分の方を変化することができます。こういう状態を素直というもので、それは単にその人がポリシーがないからそうなっているのではなく、確かな理念や初心を忘れずに揺らぐことがない信念があるから変化を楽しんでいくことができるのです。

私もよく「なんでもいい人」と勘違いされることがありますが、実際は理念や初心、本質には徹底的にこだわります。なぜならそれが全ての動機の理由であり、それがやりたいから自分を変化させていきたいからです。相手を変えようと思えば思うほどに執らわれは深くなりますし面白くなくなってきます。しかし自分の方が変わればいいと、物事の観方を変えてしまえば嬉しい楽しい仕合せと感じることが増えるのです。

しかし人はいくらこれらの理論を頭で理解しても実際にはそれはできないものです。現実は頭で考えたようにはラクにはいかず、常に現実を変えるには「現」場+「実」践という現=実の方を変えなければ信が身につかないものだからです。物事を観方を変えるということであったにせよ、それは実際に自分の方を変える実践を日々に積み重ねて年数を経ていかないとできるようにはなりません。簡単に分かったからと現実が変わるわけではなく、それ相応の実践と体験を経て本質から外れにくくなってくるのです。

だからこそ何よりも「信じること」と「実践すること」が大切なのです。

相手と自分との執着で「こうあらねば、あああらねば」と投げつけ合ってはねばねば粘着して身動き取れない人間関係を続けていても御互いに苦しいだけです。せっかくのご縁なのだからと思い切って一緒に新しいことにチャレンジしようとか、新しい自分に出会えるかもとか、新しい発見があるかもとか心を気楽に笑って取り組むことでねばねばもまた解きほぐされていくように思います。

人間は誰しも剣豪宮本武蔵のように「無の境地へ」とはなかなかいきませんが、しかし本質や理念を少し自分よりも優先し自分の執らわれに気づくようには努力していきたいものです。自分がどうしても行き詰り生きづらいのは我執がこびりついているからでそれを理念の実践によって仲間たちと一緒に一つ一つ取り除いていけばそのうち心もまた楽になっていくように思います。

私たちの仕事は「子ども第一義」、子どもが憧れる生き方を譲ることを優先するのだから今の社会や今までの過去の柵から沁み付いた自分の刷り込みや執らわれを一つ一つ丁寧に向き合い実践により取り除いていきたいと思います。

自分が変わる機会というのは人生では何度でも出会えます。そのつど、感謝の心で変わらせていただける仕合せに出会った御縁を大切にして無二の一期一会を味わっていきたいと思います。

ありがとうございます。

競争原理の刷り込み

人は競争原理の社會の中で、できる人とできない人、勝つ人と負ける人というように二分化しているものです。社會の価値観というものは、まるで空気感のように、当たり前にその意識を存在させているものです。

例えば、魚が水があることをいちいち意識することがないように、鳥が風があることをいちいち意識することがないようにそれは当たり前になっています。競争原理というものも産まれたときから当たり前になっていたら、それを疑うことはありません。

しかしよくよく本質から省みてみると、確かにその価値基準は自分の人生観において多大な影響を与えていることに気づきます。

そもそもできる人にならなければならないという考え方は、できることが良い、できないことは悪いという価値基準に縛られているものです。できる人というのは、学校では100点の人、できない人は赤点と言われるような成績が悪い人です。学校でも二分化してどちらかといえばできる人、どちらかといえばできない人と分かれます。

そうやって一つの集団ができる人できな人に分かれて評価されることでモチベーションを上げようとしますが、それは競争原理が働き真の協力は生み出せません。できる人が人を育てられないとか、できる人はできない人の気持ちが分からないとか、できる人は周りの自信を奪っていくとか、そうなる理由の根本にはこの競争原理の刷り込みが関与するからのようにも思うのです。

できる人は同時にできない人をつくります、これは被害者が同時に加害者をつくるのと同じです。自分というものを中心に、そのどちらかと分けるという考え方そのものが競争原理であるという捉え方です。そうではなく、そのままゼロベースでフラットで物事のモノサシをもっているか、それが刷り込みのない状態での理解です。

もしもこの競争原理の刷り込みが取り払えるのなら、できる人やできない人という分け方ではなく「できないことができる人」という考え方が持てるようになります。それは言い換えれば、「自分にしかできなことができる=自分らしい人ほどできないことができる。」ということになります。

自分らしさというものは、この競争原理の刷り込みのないところで初めて持てるように思います。その人らしい、その持ち味を自分で発揮できているというのはその組織や集団の中から競争原理が消えていくということを意味します。

今の時代、一人で何でもできる人を目指し、なんでも一人で完璧に行うことが最善であるかのように錯覚して孤独に苦しんでいる人ばかりです。これを私のメンターは現代うつだと言います。ようやく苦労してできるようになっても、結局は孤独だったでは何のためにできるようになりたかったのかを忘れてしまっています。

自分らしく生きるということは、競争原理を手放すということです。これは競争か協力かという意味ではなく、そもそも自分は自分のままでいい、自分の得意や持ち味を活かしてできることをやっていけばいいという執着のない自然体の姿になることです。

様々な固執や執着が、自分の立場のことばかりを憂い、周りにレッテル貼りをしては他人の自信を奪っていきます。そうではなく、「自分らしくいる」ことを大事にしていけば周りのもその人らしくいることを認め尊重するつながり和合する関係になっていきます。

競争や協力を超えた、和合、つまりは八百万の神々と日本古来から大切にしてきた真の関係をこの時代に取り戻すことが刷り込みを取り払うことではないかと私には思えます。自らの実践を用いて、その刷り込みを解き明かしていきたいと思います。

力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。

 

力を抜くことの意味

人は力の入れ具合で自分の状態を見つめることができるように思います。例えば、緊張すれば肩に力が入りますし、考えすぎれば目に力が入りますし、気合を入れ続ければ手に力が入ります。人のからだというものはとても正直で、無意識でも自分が何に力を入れるかでその力をコントロールして調整しているものです。

よくスポーツや競技、その他の運動技術を必要とするものにはすべて「力を抜く」技術というものを磨いていく必要があります。それは大きな矛盾の寛容であり、例えば”気は抜かなくても肩の力は抜く”とか、”心をリラックスしつつも、隙がない”とかよく名人や達人、トップアスリートたちは心身統一というものを大事に訓練しています。

最初に力が入りすぎる原因は何かと思うとき、そこには無理をしているということがあります。その無理とは何か、それは自分自身への執着のことです。力を抜くというのは、言い換えれば「自分らしくいる」ということです。どこかその人が自分らしくいることよりも、自分の周りからの目を気にしたり、上手くできないことにイライラしたり、自分自身であることよりも自分がやらなければならない自分像ばかりに固執するとその人自身がその人らしくなくなってくるものです。

そしてその人らしくないというとき、必ずどこかに力が入り過ぎているのです。

私の場合は、できないことを悩むよりもできることで貢献しようと諦めています。よく仕事は選ばず感謝で行うや、謙虚な気持ちで何でもできることはさせてもらおうと周りのために利他で生きる人はみんなその人らしくそして自然体です。我を押し通し、傲慢になり自分の力に固執して自分ばかり成長しようと考えてしまうと、そこに信は失われ余計な力が入るように思います。

自分の心を開いていくことや、自分から刷り込みを取り払うこと、自分から自分の我執を手放すことで人は余計な力が抜けていくのではないかと私は思います。

余計な力は時として、人を傷つけそして同時に自分をも傷つけてしまうものです。いっそのこと天才バカボンのパパではないですが「これでいいのだ」と全てを丸ごと受け容れてその中でも少しでも役に立てたことが有難いと謙虚になんでもさせてもらおうとするならばその人は必ず周りの人々の御蔭様をお借りして努力が実り理想に達することができるように思います。

焦りや慢心というものはすべて傲慢から発生してくるものです。私自身も上手くいくかどうかよりも御蔭様の有難さ、周囲の恩者たちへの感謝を忘れないよう、忘己利他の実践を大切にしていきたいと思います。

何度も何度も繰り返し教えてくれるのはきっと「あなたらしくなってほしい」という天祖の声を御縁が与えてくれているのかもしれませんし、「心をもっと周りに開いて自分らしくあってほしい」という真心の声をからだが伝えているのかもしれませんね。

どちらにしても自分を形成してきた完璧主義や評価の刷り込みがあるのだろうと自覚したら、周りをもっと信じて、できない自分をそのまま丸ごと認めて無理をしないことが一番です。時々の初心を省みる善い機会、ゆっくりと焦らずにじっくりと回復していくことを祈っています。

実践の価値

「習慣は第二の天性なり」という言葉があります。これは身についた習慣は、知らぬ間に深く浸み込みいつしか生まれつきの性質のようになるということを言う意味です。

この習慣というものは、その人の考え方の癖であり生き方の癖でもあります。その人がどのような癖を持っているかは、人に言われてみなければなかなか分からないものです。なくて七癖とも言いますが、自分には癖がないといくら思っていても他人からみれば沢山あるというのと同じようにその人だけが気づかない癖を持っているものです。

その癖は時として、その人の人生の癖になりますから同じような失敗を何度も繰り返したり、またはその癖の御蔭様で人生が好転し続けていくというものもあります。例えば、素顔の笑顔が多い人はその分、心と感情と行動のバランスが一致することが多いですから他人から信頼され可愛がられていきます。他にはつい自分勝手なことばかり優先してしまう人はまわりから疎まれてしまいます。自分自身では生まれつきだからと最初から決めつけてしまっていますが、実はその癖は自分の人生の習慣によって形成されているということです。

この習慣を見つめ、習慣を変えることができる人は自分を変えることができる人です。自分を変えたいのに変わらないと周りに矢印を向ける前に、自分の習慣は果たして変わっているのかと自分に矢印を向けることで習慣という癖に向き合っていることになると私は思います。

その習慣を変えるために必要なコツは「実践」することです。

実践とは、一言でいえば「執らわれない」ことです。頭で考えているうちは習慣は変わらず、癖も直すことはできません。自ら考えないで日々に前進するには、そこに考えないで済むような何かを持ち続けることで一つの事に執着しない自分をもつ必要があります。

人は何かを悟ればそれに固執しますし、もしくは何かを思えばそれに執着します。そんなことをしてしまえばまた習慣と癖がこびりついてしまいますから、新たな実践を日々に継続することでそういう執らわれをなくしていこうとするのです。

このブログもそうですが、実践していくことは今に集中することでもあり、また自分の中にある執らわれに気付き、それを改善していくことができるからです。上手くいくとか上手くいかないとかよりも決心したことを実践することが何よりも価値があるように私は思います。

自分自身を変革する心は、こうありたいという理想の自分から来ています。自らの理想に向かって視野を広げ、かけがえのない日々に感謝を置き据えて、させていただけることを深く味わって実践を楽しんでいきたいと思います。

素直の手入れ~認めるということ~

人は人間関係で悩むとき、そこに互いの利害が発生していることに気づくものです。もしくは自分の好悪感情から、好き嫌いを分けては感情が波立ちそのことからトラブルが発生していくものです。

結局は、自分の中にある執着や固執が相手との中の軋轢になっているとも言えます。松下幸之助さんは「素直な心」を持てば、そういうものも談笑のうちに和やかに仲良くできると言いますが、この素直な心とは常に自分の方が変わるという心のことを言うように思います。

人間関係で問題が起きてくる最も大きな原因は「認めない」ことに由ります。自分が相手を認めていないからこそそこに認めさせようとする互いの軋轢が発生するように思うのです。そこにはプライドがあったり、自分の我の方を優先したいという我儘があったり、正しいと一方的に思い込んでいる傲慢があったりと、問題が起きては「身から出た錆び」だと自分に矢印を向けては反省していないと何度も繰り返し同じことが起きては素直になれなくなるものです。

この「身から出た錆び」とは、刀から出た用語であり刀身が錆びて腐ってしまえば刀も自分の身も失ってしまい取り返しのつかないことになるという意味です。これは人間関係も同じで、本来の心が素直ではなくなってしまえばそこに問題が生まれそのことから取り返しのつかないことをしてしまうということと同じです。

刀であれば日々に怠らず手入れをすることで錆びないようにしていきます。そして人間であれば日々に怠らず心に手入れをして素直のままであるようにしていくのがいいのでしょう。

日々に素直かどうかの内省は、日々に認めているかどうかのチェックでもあると私は思います。どんなことも認めていく、そのことから融通無碍で一視同仁、公平無私の柔軟で素直な心が育つなら自ずから人間関係は和合し倖せと豊かさを感じる謙虚な自分のままで愉しい社會を暮していけるように思います。

素直の心は奥深すぎて、その学びに一生涯の修行の醍醐味を感じます。

初心と同じく、座右に据えて実践を取り組んでいきたいと思います。

 

感謝感情

人間には自我感情があります。感情の自分というのは、気分の良し悪し、調子の良し悪しがあります。

例えば、何かずっと楽しみにしていたことがあったとします。それが急に不注意から怪我をして何もできなくなると気分は最高だったところから最低に急落します。まるで感情は天気のように晴れたり曇ったりと、その時の状況で変化します。それだけ感情というものは自分にピッタリと寄り添いその時の状況にあわせて自分の気持ちを感じます。

人間はこの感じる力によってその時々を味わい、自分がどんなことをしたいのかを知るのです。ドイツの詩人、ゲーテの格言と反省にこういうものがあります。

「生活はすべて次の二つから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない。」

これも感情の変化で語られる言葉であろうと思います。結局は、感情がしたいしたくないと決めているのです。どんなに自分のやるべきことがあったにせよ、自分がしたくないのではあまり効率も効果も上がっていきません。また逆に自分がしたいと思っていてもそれができなかったら感情がまた高ぶってきては効率も効果も下がってきます。

この感情というものをどのように向き合うか、それは実際の人生において大変重要なことであろうと私は思うのです。これをお座なりにしていては、自分自身を管理することができないようにも思います。自己管理とは、健康や体調だけではなく精神や心、そして今回の感情というものが大きく関わってくるように思います。

感情とどう付き合っていくかは、その感情の変換の仕方にあるように思います。例えば先ほどの天気なら晴れも善し、曇りもまた善しと融通無碍になれるかどうか、もしくは自分にとってのマイナスな感情が起きても、それを素直に有難い試練や成長の機会だとプラスに転じることができるかどうか、ここに自己修養の要諦があるように思います。

何をしていても感情は高ぶります、それをいくら避けようとしても人間はロボットや機械ではないのですからそこに本来の目的や使命を実感するものです。そもそも何のためにやっているのかの初心を忘れなければ、やりたいこともしたいこともできようができなくても実践していこうと思うものです。そうやって実践しているうちに、自分の感情が上下左右していることに気づいても変わらずに平常心でいることの大切にさに気づくようにも思います。

自我感情との向き合いは、それを転じて善いものに換えるときにはじめて「良し悪しなし」という境地に出会えます。カグヤには「円満祝い唄」というものがありますが、その中の歌詞に「いいもわるいもないんだよ」という部分があります。

これが私の思う素直さであり、順境も善し、逆境もまた善しの感情、つまりは感謝感情の境地です。自己修養と自己研鑽を怠らず、星のように急がずに休まずに取り組んでいきたいと思います。

 

自他一体のフィードバック~おもてなし~

人は相手の立場に立つことで相手のことを深く理解できます。

以前、ホスピタリティについてあるニューヨークで大変有名なレストラン経営者ダニーマイヤーさんの話を聴いたことがあります。

その際に「ホスピタリティを高めるには、相手の『ありがとう』に対して『それはなぜですか?』を集めていけばいいだけです」とありました。お客様へのおもてなしは、相手が嬉しいと思うこと、有難いと思うことを集めていけばいいとありました。

実際は簡単なことですがそれを継続して実践していくには仕組みが要ります。

人間は放っておけばいつも自分本位でばかり物事を考えます。自分の興味関心のみに追われ忙しくしては自己保守に終始してしまうものです。そうやっていつも自分の事ばかり考えて自分の感情でばかり事実を見ていたら、相手の気持ちに共感することを忘れてしまうのでしょう。

ホスピタリティとはいつもどんな時でも相手の心に寄り添っているものです。心を寄り添うことも怠り、自分のやりたいことばかりを周りに押し付け、心を合わせもしない、それを決してコミュニケーションとは呼ばないように思います。対話というのは自分の要求を押し付けるのではなく、どれだけ心を寄せることができたかということです。そして心を寄せるものだけが真の行動と真のアイデアをカタチにしていくことができるように思います。

思いやりや真の優しさというものは、一事でいえば”心を寄せ続けてそれをかたちにしていく”ことであり、それを毎日小さなことを積み重ねることで自他一体の場所に表裏なしの人格が磨かれるようにも思います。自分を心配しすぎて心を寄せないから心を亡くし頭で考えて何かを急にやろうとしても、付け焼刃では付け焼刃の結果しか訪れません。相手を自分そのものになるくらい、相手の心に寄り添うことが相手に安心され信頼される人になっていきます。コミュニケーションの本質は人は相手を通じて自分を見つめ、そして自分の心を見つめて大切にすることで相手の心を見つめ大切にするのです。

相手ばかりをみては矢印を相手に向けるだけになったり、自分だけを見ては自分にだけ矢印を向けるのではなく、相手は自分かもしれない、自分が相手だったかもしれないといつも思いやることではじめて仕事も本物になっていくのでしょう。そういう人がご縁を感じ、御蔭様が観得て、感謝のままでいられるのです。

すぐになんでも自分で一杯にする前に、もっと相手を喜ばせたいや有難うと言われたいと心楽しく身近でできる小さなおもてなしに取り組んでいくことでおもてなしのできる素直な心もまた育っていくのかもしれません。

お客様からのありがとうを自他一体のフィードバックを通して一つ一つカタチにしていきたいと思います。