完全体~人生のモノサシ~

人は物事を判断するとき、加点法か減点法かをその人の考え方で決めてしまっているものです。簡単に言えば、物事を省察するときに肯定的に物事を捉えているか、それとも否定的に物事を捉えるかということです。

これはどちらかが良くてどちらかが悪いという意味ではなく、不足を見るか足るを見るかという考え方の違いになります。そこには、完璧を目指すか、完全を目指すかという違いがあるように私には思うのです。

完璧というものはこの世には存在しません、もしも完璧があるとするならばそれはこの世のものではありません。以前、あるテレビ番組の企画でパソコンを使って世界中の美人のパーツを全部合わせて完璧な美人を創ってみようという企画がありました。実際の結果は散々なもので、とても見るに堪えない恐ろしい姿になりました。何をもって完璧であるかとするのは、人間の中の平均の中でもっとも高いものを組み合わせているものを完璧であると考えているのです。

それに対し完全という考え方があります。人間は産まれながらに完全な存在であるというものの視方です。不足しているものがあるのではなく、今の自分のままがもっとも完全だということです。言い換えれば「私は私であればいい、あなたはあなたであればいい」ということです。完全な存在なのだから何かを無理に足す必要もなく、ないからそれを嘆くこともありません。今の自分がもっとも完全だと考えれば、ないもの探しではなくあるもの探しをすればいいということになります。

別に人生は100点でなければならない理由があるわけではないのだから完璧である必要はありません、それよりも自己実現ができることの方が愉しいですし、思いやりを盡して誰かのお役に立つことの方が仕合せです。今の自分でできることにいのちを燃焼させていく方が今の自分を信じ愛することもでき、周りの人と活かしあう豊かさを実感できるのです。

人間は欠けているからそれを補うのですが、それをもし一人で全部やったらどうなるでしょうか。みんな同じコピーを作ることに躍起になってしまうかもしれません。先ほどの完璧な美女がいればそれを目指せば全員それをコピーすることを目標にするはずです。これは学校教育の評価による刷り込みをもっているということではないかと私は思います。

今の自分のままでそれをどう伸ばしていくか、それを磨くかというのが本来の加点法、肯定的な物事の視方、そして楽しくなる生き方ではないかと私は思います。コピーで苦しんでいる人が沢山いる今の社會に、あなたのままでいいと言ってくれる社會があることでその人がどれだけ救われるかわかりません。評価のモノサシではなく、人生のモノサシをその人の中に持てるようにしていくのが私たちの願う見守り合う社會です。

自分たちの生き方を通して、一人でも多くの子ども達に完全である仕合せ、周りと一緒になる喜びを伝えていきたいと思います。

 

 

人事考課の罠

先日、人事考課について考える機会がありました。そもそも人事考課というのは、公平に平等に評価するために取り入れるという人が多いのですが、実際はそうはなっていないことがほとんどです。

その理由に、実際はそれぞれの特性や持ち味を活かそうといった観点からはほど遠く、如何に一人ひとりを均一にしようかというシステムで動いているものがほとんどだからです。実際に一人で生きていくのならば、短所も補ってあげなければ生きてはいけない、長所だけでは難しいと考えるのかもしれませんが、そこにチームや共働という考え方があれば無理に平均の力が必要なのかと私は思うのです。

実際の社會に出て観れば、組織の中でどう自分の個性や役割を果たすかということが求められていきます。そこには、自分の持ち味や長所をどう周りを活かしあい、そしてその周りを信頼し短所を補ってもらうかという力が必要になります。

そうでなければ、全体に効果のある大きな仕事はできませんし、また仕事というのは人々との協力で自分の役割を果たすことで仕合せを感じますからその実感もあまり得られなくなっていきます。

本来、みんなを同じにしようという考え方というのは平均にしようという考え方です。金太郎あめのようにどこを切り取っても同じにしようという発想は、一斉画一に同じものをつくろうとするときの手法です。

人事考課をやるといっても、その元になる考え方が平均や画一を求めているものであればその結果はその考え方に従ったものになると私は思います。

人間は一人一人の顔つきがみんな違います。誰一人として同じものはありません、これは指紋でも同じです、わざと人間は異なる部分を創り産まれてきます。これは本能ですがここから読み取れる真理は、人間は同じことをするのではなくお互いに異なる特性を活かしみんなのお役に立ちたいと願う生き物だと分かります。

それは自らの長所をどう周囲に役立てていくか、そして短所は如何に迷惑をかけないように周りの力を借りるかということを運命づけられているかのようです。だからこそ、苦手なところを克服するのに一生を費やすのではなく、得意なところを伸ばすことに専念し、自分の苦手は得意な人の力をお借りして”お互い様と御蔭様”にしていくことが本来の”生きる力を育てる”ことだと私は思います。

一人で生きていく力は決して平均の人にすることではありません。

一人で生きていく力というものは、自分を信頼するという力です。言い換えれば”自信”のことです。時代が何千年変わろうが教育の本質は太古の昔から決して変わりませんし、普遍的な真理はどんなことがあっても錆びつくこともありません。

人事考課をする際に一番考えないといけないのは、みんな違ってみんないいと口では言いながら実際はみんなはやっぱり同じがいいという愚を犯すことです。

本当は何かと何かを誰かが言ったからすぐにやろうとするのではなく、刷り込みに気付くのが先です。そして単に制度だからと人事考課をするのではなく、人類や人々が如何に安心して生きがいや遣り甲斐を感じられるかを深めていくことが人財を教育するのだから何よりも優先して考えることです。

私たちも子ども第一義のモデルになるような働き方生き方を突き詰めていきたいと思います。

内省的実践習慣

情報化社会というのは、頭脳を使い知識を優先して妄想を現実にしていく世界のことです。本来は、人間の頭脳は危険回避にもっとも活躍しますから、脳ばかりを駆使していると危険察知の情報収集にすべての意識が囚われその場その場を対処することにエネルギーをほとんどつぎ込んでいきます。情報化というのは、知識先行化のことで知識ばかりが優先されている世界ということです。

これを船の航行で例えてみます。

頭で処理するというのは後者の急流濁流の中で目先の石や障害を避けようと先々の不安を解消し危険を回避するために集中力を発揮している状態のことです。しかし、そんなことを続けていたら周りの景色も分からずどこに進んでいるのかもわからず安全だけを守ろうと身動きが次第に取れなくなります。この状態を人間は「忙しい」と呼びます。忙しいというのは、心が着いてきていない状態のことで、目先のことしか考えられず、目の前の不安を解消することに集中しているということです。

しかし本来、これは人生の航行と同じで一度しかない船旅をどのように味わい、自分が納得する物語を生きて旅をするかはその人の決心に由るものです。それにはどんな旅であっても、自分が何のために旅をするのかを忘れずに舵をとっていく必要があります。そのためには忙しいという状態がずっと続くというのを避けなければなりません。では、暇になるまで忙しいのかといえばそんなことはありません。忙しい人は暇でも忙しいのは、心が着いてこないから暇にしていないのです。

心を広くゆったりと持つには、内省と実践の習慣が身についている必要があります。なぜなら、出来事が動く際に、同時にその出来事は一体なんだったのかを振り返っているかを自ら自得しなければ意味を感じることができなくなるからです。

これはすでに海外でも提唱されていて、マサチューセッツ工科大学のドナルドショーン氏は、「リフレクティブ(Reflective)=内省的+プラクティショナー(Practitioner)=実践家」と定義しています。つまりは、”内省的実践家は行為しながら考える”という言い方をし、そこではじめて経験した糧が体内で消化されるという意味です。

これは私も同じように理解していて、内省と実践がなければ人間は必ず「忙しい状態」になると思うのです。もしも内省と実践が習慣になっているのであれば、忙しくても忙しくはないという状態がつくれます。つまりはどんなに環境や状況が変化していても、心は平常心を維持することができているということです。

心が落ち着いていれば、忙しそうに見えても忙しそうなだけで忙しくなることはありません。まるでしなやかで嫋やかに揺れる平原の若草のように、揺れても心は楽しんでいます。

そして組織が内省的実践ができているのなら、その組織は初心や理念を忘れることは決してありません。その組織は、身体がいのちを消化吸収していくように、心も同時にいのちを消化吸収していくことができ、いのちはめぐり発達を已まなくなります。

もしも先ほどの急流で濁流の船で忙しく舵をきる船長がいたら船員はきっと不安で仕方がないでしょう。そうならないように、内省と実践の習慣を身に着けることが心を優先する生き方、見守るためには必要不可欠であると私は信じているのです。

そのために、私たちはあらゆる方法を用い内省と実践を同時に習慣づくようにリーダーに実践を増やし促していきますし、内省をファシリテーターの資質の基本に据えているのです。この内省と実践は、本来同一であり片時も分かれることはありません。

常に忙しいからできなかったではなく、忙しさに負けない強さを持てるようにしていくことが心のつながり、共感の絆を結び育て、組織の結束を高めて豊かにしていく方法なのです。

心の持ち方を変えるためには、コンサルティングの技術も必要です。まだまだ精進して、その理論を具体的発明に換え、実践実地に活かしていきたいと思います。

国際言語~和洋言語~

以前、オランダに訪問しミマモリングソフトの説明をつくるとき言語化することの重要性を感じたことがあります。

私たち日本人同士では通じる暗黙知は西洋では言語化しなければ伝わらないものです。例えば、虫が鳴くことがノイズであるという言語しかない言語圏では煩い対象でしかありません。しかし私たち日本人は虫の鳴き声に心地よく感じ、蝉などが一斉に鳴く様相には蝉しぐれと呼んで情緒を味わいます。西洋からすれば、日本はあんなに蝉が多いところに住まないといけないことに同情し、大変気の毒な人々だというイメージすらあるそうです。

そもそも私たち人類は、世界を移動し分かれて行く際に言語を分けました。どの言語圏でいるかというのは、どの文化圏にいるかと同義です。だからこそ同じ言語を持つことで相手の文化と融和していくことができます。

以前、分子生物学者の村上和雄さんが「サムシンググレート」という言葉で「大自然の偉大なる力、その偉大なる何者か」と直訳されたのを聴きました。遺伝子を探究していく中でどうしても説明がつかない存在に気づいたというお話だったように思います。しかしこの言葉ですら、日本人の私たちはよく伝わりますが西洋の自然科学ではこの言葉は逸脱していると言われているようです。

本来、一つ一つの暗黙知というものは、職人気質の中で育まれるものです。師弟が一心同体になって学び合うとき、言葉にはならない微細で微妙なものまで伝承伝授されていきます。そういう部分は言語化できないものが多く、語られず実践し合う中で一心同体に掴み取ります。しかし西洋ではこの言語化されていないものは、認められず、真理はすべて言語化できるところで語らなければ相手にされないのです。

今は西洋や東洋が分かれている時代です、それぞれが違いばかりを唱えては争いは尽きません。あらゆる言語を調和する、和洋のちからが必要ではないかと私は痛感しています。それには私たち日本人が自分の言語を磨き持たなければならないように思います。

今まで島国であった私たちは一つの言語で生きてきましたが、これから国際人の一人として様々な言語圏の人たちと語り合っていきます。その時に、どんな言葉で語るのかが重要になってくるのです。違いを超えて語り合うには、言語的自我を如何に持つかということです。

こういう日々の綴りであっても、自分の言葉を必死に磨いていくことでいつか世界と心を分かち合っていくことにつながると信じています。言葉というものは諸刃の剣ですから、言語化することは真理の矛盾との正対ばかりですが引き続き日々の言語を磨き続けて国際言語(和洋言語)を育てていきたいと思います。

真実を見抜くちから

人間は知識が多くなってきて、分別された情報を認識することで様々なことを確認するようになりました。そのことで同時に、「何のためにか」という本質を考えず、どうするかばかりを考えるようにもなりました。便利な社会というものは、如何に簡単に安易にスピーディに物事を解決する価値観が中心になっている社会です。

ここでの便利な社会というのは、自分都合の社会のことを言います。何でも自分都合で好都合になることがもっとも良いものだと考えるのです。これと反対に不便というものがありますが、これは相手都合、つまり自分以外の都合に合わせるから不都合となります。

例えば、自然界に生きていたら自分都合であることはほとんどありません。農業一つとってみても天候も思い通りではありませんし、育つ作物もそれぞれですし、天敵なども出てきて無事に収穫できるとも限りません。自分たちにとっては不都合だらけです。しかしそれは全体にとっては都合が良いという考えもあるからです。

得てして自分にとって不都合なことは全体にとっては都合が良いことばかりです。それは万物は循環していますから、自分の都合を周囲に優先させればその都合によって不都合の人が出てくるのです。しかし実際は、権力や人間の身勝手によって都合が悪くなることを排除してきたのが便利な社会ですから都市の中では可能でも、都市から離れると急に不都合に順応することがなかなかできないものです。

田舎にいけばわかるように、交通手段もありませんし、街灯もないですし、インターネットも繋がりません。人間には大変不都合ですが、他の自然の生き物たちには都合が善いのです。

人間の慾は限りなく、どこまでも都合欲なるように広めていきますから世界中あちこちが便利である世界に換えようとするのかもしれません。それが人間関係の中でも発生していますから、今は人間関係も都合の良い人ばかりが増えてきているように思います。

人間が謙虚さを失うとき、そこには便利な社会が増えていくのでしょう。

生活の中に敢えて不便を取り入れること、つまりは周りを思いやることで私たちは自分たちの慾を御して暮らしてきたのかもしれません。子どもたちのためにも「本当は何か」という本質に立ち返り、常に本質を考え抜くことで便利さの陰に隠れている”真実を見抜くちから”を育てていきたいと思います。

真の賢者

人は矛盾する相反するものを理解するとき、一流であると人々から評されるものです。以前ある人は矛盾を抱えながらも一つを成し遂げることが個性であると言いました。つまりはあらゆる矛盾をどう乗り越えるのかがその人の人間性であるのです。

例えば仕事では、働き方と生き方の一致ですし、生き方でもあり方と処し方の一致、他にも自分と他人との一致、人間学と時務学の一致、きりがありませんが二つ以上のものを一つにできるのはその人間の中に矛盾を抱え込む器ができているということでもあります。

自分の性格も生来からどちらかに偏っているものです、それが個性でもあります。ある人は積極的、ある人は消極的であるとも言えます。積極的な人には内省を促し、消極的な人には実行を促す。そのどちらもバランス善くできる人が真の主人公です。主体性と一概にいっていても、その主体性を発揮するには人間を磨き、自分を育ててバラス感覚を身に着けて矛盾と調和を内在できるようにならないと自由にはなれません。

結局は、自由も人格が関係していて自由の中にあるあらゆる矛盾を受容できてこそ自由という無限の選択肢の中に生きられるようになると思います。自分を変えるということも、柔軟性ということも、全てはこの矛盾に対する実力のことを言っているように思います。

人は膨大な知識を得ては想像を膨らませますが、同時にその一つ一つの知識を実体験によって消化していくという矛盾に生きています。夢と現実、思想と実践、目に見える世界と目に見えない世界、それらを調和するのは自分なのでしょう。

最後にシュバイツァーの言葉で締めくくります。

An optimist is a person who sees a green light everywhere, while a pessimist sees only the red stoplight, the truly wise person is colorblind.

楽観主義者は、どこでも青信号を見る人のこと。悲観主義者とは、赤信号しか見えない人のこと。そして真の賢者は、色盲である。

「真の賢者は色盲である」。

これは面白い言葉で、読んだとき嬉しくなりました。刷り込みのない世界に生きた人たちと刷り込みを取り払っていきたいと思います。

人財教育の王道

人間は理想と現実の間に今を設け、今を見つめ向き合うことではじめて今に存在することができるように思います。妄想ばかりをいくら増やしても、現実は変わらないのですから実行していくしかありません。

昨日、鹿児島に入り維新館を見学する機会がありました。ここ薩摩は、古より教育を何よりも重んじる風土があるような気がします、昔から「島津にバカ殿なし」と呼ばれるようにここには郷中教育をはじめ様々な人財育成の仕組みが文化として継承されているように思えるからです。

その郷中教育の中で、日新公いろは歌というものがあります。これは物心つく前から毎日唱和しからだに沁みこませてきた歌です。そこのはじまりの「い」にはこうあります。

「いにしえの道を聞きても唱えても わか行いにせすは甲斐なし」

(古来から言われてきたどんなに素晴らしい道を聞いても語っていても、自分で実践して行わなければ何にもなりません)という意味です。

そして「ろ」にはこうあります。

「楼の上もはにふの小屋も住人の こころにこそはたかき賤しき」

(どんなに立派な御殿に住んでいる人も粗末な小屋に住んでいる人もそのことだけでは人間の価値は判断できない。要は住んでいる人の心の気高さが重要なのだ)とあります。

今回は「は」までご紹介しますが、そこにはこうあります。

「はかなくも明日の命を頼むかなけふもけふもと学ひをはせて」

(人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし明日自分が死んだらどうするのか。今その時その時に全力投球せよ。)と。

この「いろは」だけでもこの言霊の濃さと重さです。これは島津中興の祖である島津忠良が5年の歳月をかけて郷中教育の基本として定めたものです。この出発点であり原点が今の薩摩の人財をいまだに育てているのではないかと思います。

なんだか今回のご縁に何をすべきであるかを直感するものがありました。出発点や原点を思うとき、今までのものを毀す勇気が今にこそ必要のように思えます。そんな時は「今」を奮い立たせる勇気のある詩に励まされるのも人間のように思います。

最後に京都大徳寺大仙院の尾関宗園さんの詩を紹介して終わります。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

普遍的な道の上にこそ人財教育の王道があると確信できました。

ありがとうございます。

実践躬行~至誠~

吉田松陰の座右に至誠があります。この至誠は、孟子の「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」という言葉から来ています。この至誠とは、読んで字の如く、「言うを成す」から出来ている字です。

つまりは言行一致のことです。誠というのは、自分の言ったことを実行することを意味します。先週の大河ドラマ花燃ゆの中で、吉田松陰が久坂玄瑞に対して「あなたの情熱は素晴らしい、あと実行さえできればあなたは必ず志を実現できる」と励ましていました。

知行合一、常に分かるということは行うことで行うことが分かることであるという王陽明の一文を思い起こします。これはかつての人物たちが必ず実践した理です。

論語では、「子曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。」とあります。これを伊與田覚さんはこう訳しています。「先師が言われた。若者の修行の道は、家に在っては孝を尽くし、世に出ては、長上に従順であることが第一である。次いで言動を謹んで信義を守り、人々を愛し、高徳の人に親しんで、余力あれば詩書などを読むことだ」と。まず実行が先で余力があれば本を読むなどをすればいい、まずは至誠を盡しなさいといいます。

永平寺の道元禅師は、「修せざれば現れず」という教えを遺しています。ここには「曰く、「知る」ということと「わかる」ということとはちがうのです。知っていても実行されなければ、わかったことにはなりません。薬の効能書を読んだだけでは病気は治りません。禅も実行してはじめてわかることなのです」とあります。

常に実行を伴うことで語りそれを言葉にしていくような生き方をするように諭します。言い訳のない生き方というものの中に、覚悟を感じ、その覚悟こそが志を為す元であることを感じずにはおれません。

できないことを並べてもできるようにはならず、諦めそうなときは実践者の先人先輩たちが背中で励ましてくれます。

その覚悟の激励のやり取りも論語の中に遺っています。『冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女は画れり』。

これを意訳すると(冉求が言いました。「私は先生の言っていることを有難く思わないのではありません。しかし今の私の実力や力量が不足しているのです」と。それに対して孔子は言います。「もしも本当に実力や力量が足らないのならば、途中で投げ出しているはずだ。今、お前は自分で見切りをつけているのだ」)と。

冉求は、心を入替えて自分から先に見切りをつけるのをやめ、真摯に実践躬行に取り組みその後にある国の宰相のように大きく用いられました。この冉求は孔子十哲の一人と称されていますが、消極的な性格だったので常に孔子から「聞くままに斯れこれを行え」(すぐに実行しなさい)と叱咤激励され続けたと言います。

どんな時代も、頭でっかちにならないように真心の汗をかきなさいという教えに救われる気がします。他人にはそれぞれの特性はありますが、躊躇うことは誰にでもあります。見守りの中で信念を育て、信念の根をはっていけるように実践させていただけることに感謝して歩んでいこうと思います。

 

個性~人格形成~

人はそれぞれ生き方があり、個性も異なりますから、その顕し方も人それぞれです。しかしその個性は比較する中で出てくるものではなく、その個性は人格が磨かれてくる中で顕れてくるものです。なぜなら本当の個性というものは、そのものが何よりもそのものとして在るときにはじめて出るからです。

よく誰かと比較して個性があるやないとかいいますが、実際は組織や集団に入る中でその人の個性は引き出されてくるものです。一人では個性とは言わないように、集団の中で個性は出ます。その時の個性は、集団の中でのその人の役割のようなものです。しかし本来の個性は、その人が思いやりや真心で全体のために自分を活かした時こそはじめて発揮されているように思います。

そしてそのためには人格を磨き人物となっていなければ個性を修めることができないのです。周りに合わせるのではなく、自分を修めるという発想が個性を存分に発揮するには必要のように思えるからです。

論語に十五にして学を志、三十にして立つ、四十にして惑わずとありますが、少年期は志を立て、青年期には自分を試しあらゆる挑戦をし、中年期には自力を発揮するようにそれぞれがそれぞれの年輪で自らを磨き修めることが世の中で自分を発揮していく道だと述べているかのように思います。

今の自分がみんなのためにできることを発展させてそれを広げ膨らませていくことで本当の自分自身に出会うということでしょう。そして同時にそれは自らの人格を育てて自分をつくり上げていくということです。

東井義雄さんに『自分は自分の主人公』という詩があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして 自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

自分は自分の主人公、世界でただ一人の自分を創っていく責任者という言葉は、個性とは自らで磨き上げていくものであるということを伝えてきます。自分に打ち克つというのは、誰かに打ち勝つよりも難しいことです。常に自分との調和融合を実現し、平常心を身に着けることで人は自分らしく自然体でいれるようになるのかもしれません。

畢竟、個性を大切にするというのは、人格を尊重するということです。自他一体に人格形成を優先して大事にしていきたいと思います。

ゼロベース~体内時計~

今の世の中のことを知ろうとするとき一つは知識を増やすことによって得られ、もう一つは知覚を澄ますことで得られるように思います。そのどちらも自分という刷り込みを破るためです。今の私たちは自然の叡智に触れて自然の叡智を可視化して自分たちのものにするために知識を得ましたが、同時に自然の叡智の切り取った一部しか視なくなったとも言えます。

様々な叡智を可視化し分けてしまうことで分かれてしまったのは叡智そのものの自然から離れた人間の方かもしれません。そもそも分けてしまっているのですから、一度全ての知識を御破算にして無分別智のところ、つまりゼロベースにしてみないとこの世の基本ともいえる自然を丸ごと理解することはできないように思います。

このゼロベースというのは、例えれば動物の体内時計で自然を理解するのに似ているように思います。ニワトリや猫、犬、その他すべての動物たちは自分たちの体内に時間を持っています。朝になれば朝を知り、春になれば春を知る、新しい仲間も、古い仲間も、生死のめぐりでさえ、体内時計に従います。その彼らの時間は、まるで宇宙のように悠久と矛盾が絶妙に調和して無のようです。

よくよく観察していると、彼らには時間もなく今があるだけです。この今という時間の中には、妄想もなくそのままの宇宙があるように思います。そういう流れて流れない時間の中で、永遠を感じることができるからこそ、その魂をいつも全うすることができるように思います。

魂への刷り込みは、この世の美しさも奪い、この世の真心も穢すように思います。私たちは新しいものばかりを詰め込みますが、本来の古代からの古いものも同時に詰め込めばいいものを古いものは価値のないもののように切り捨てていきます。ここに人間文明の深い問題があるような気がしてなりません。

魂は温故知新することで、あの宇宙の星々のようにいつまでも光り輝くように思います。

英国の詩人、ウィリアムブレイクの「無知の告知」の冒頭に有名な詩があります。

「To see a World in a Grain of Sand  一粒の砂に世界を見、
And a Heaven in a wild Flower  一輪の野の花に天国を見る
Hold Infinity in the palm of your hand  手のひらに無限をつかみ、
And Eternity in an hour  一瞬のうちに永遠をとらえる 」

私の意訳ですが、一粒の砂は土の姿であり、一輪の野生の花は自然のいのちです。その手には悠久が顕れ、時を遡り時は超越されるという意味なのかもしれません。

ゼロベースで感じるご縁とつながりの中で、魂は存在するのかもしれません。詩には不思議な力がありますが、その詩を学ぶとき、詩の中で伝えようとする真実が観えてきます。

詩こそ体内時計のゼロベースで詠う自然の声色なのかもしれません。あの動物たちや植物たち、虫や魚、あらゆる自然界の歌声に詩を感じます。詩を学び、自らゼロベースでいることから自然を取り戻していきたいと思います。