社會企業

昨日、もう30年以上児童養護施設でお仕事をされている施設長の方とお話をする機会がありました。色々とお話を伺っていると、この業界は人手不足や過重労働で大変なことになっているそうです。

児童保護された子どもたちの世話といっても、実際は家族と共に生活していくのを一緒に行うようなものです。24時間、365日、いついかなる時も活動していますからなかなか働いている職員たちがミーティングする時間も取れず、どうしても目の前のことに追われていることが多いようです。今では、業界の就職定着率が平均3年ほどしかないとのことでとても苦労しているようでした。

現在、看護や介護、福祉という社會のための仕事が人気がなく萎んでいるという現状に何か大きな危機感を感じてしまいます。

その施設長の方は、「日々のことに追われて目の前のことしか見えなくなっていけない、社會のことを常に観ていくことが社會福祉法人なんだ」と仰っていました。

続けて「福祉の仕事は自分の中だけでやるもんではなく、本来は社會を相手にしていることを忘れてはいけない」とただ目の前のことに追われるのではなく、社會を相手にしているかという意識が大切だと朝会などでよく話をしているそうです。

本来、私は社會福祉も社會企業もすべてはそこに社會が入っているものだと思っています。これは福祉や企業という言い方でもなく、個人でも自分でも同じです。そこには必ず社會というものがあるのが人間であり人間=社會です。

その社會がどうあるべきか、その社會をどう創っていくかは一人一人の社會参画に関わっているのです。単に日々に仕事や業務だけをしているのは目の前に追われている状態ともいえます、もしも日々の仕事が何のために行うのかを観えていればそれは社會を相手に働いているということになるのです。

どの立場や職種からも善き社會にできるからこそ会社や組織はそのために働いているともいえます。社會教育であれば、よりよい社會をつくる子どもたちを育てているのであり、社會福祉であれば、思いやりのある社会をつくる人たちを養護しているのであり、社會企業であれば、社會が間違った方へいかないように正したり直したりすることを行っているのです。

私たちの会社は社會企業であり、自分たちが相手にしているのは目の前の業務ではなく社會全体です。世界を変えるというのは、社會をより善くするということでそれは自分の働き実践そのものが如何に社會に影響を与えているかという実感を日々に持つことのように思います。

何のためにを忘れるとすぐに人は目の前のことに気を取られては、日々に忙殺されて自分自身のことだけに囚われてしまうものです。特に今のような時代はどれだけ本質から外れていないか、如何に本質に止まることができるかが大切のように思います。

社會というものは変化していますが、変えてはいけないもの、変えなければならいものは常にその時代を担う人たちの責任であるように思います。

最後に「今の福祉は全部後手にまわってしまっている」という言葉が印象的でした。そういう立場に追い込まれるほど社會が今は貧しくなっているのかもしれません。だからこそ私たちのような社會企業家たちが立ち上がり、世の中を変革していくために自らの働き方と生き方をもって社會に1本自らの姿勢を立ち上げていくことが志士たちの役割なのでしょう。

社會を信じているからこそ、自らの組織で社會を創り上げその一員として社會に存在意義を示すこと。先日の日本理化学工業の視察でも実感しましたが、今こそ社會企業がお役に立てる好機なのかもしれません。

実践をお役に立てていくように、常に前進して已まない自分を練り上げていきたと思います。

個性の真価

人は自分の能力の如何で自分が役に立ったかどうかを自分で判別しているものです。能力が高いと一般的に言われるのは、他の人ができることが自分もできるということです。

しかしそれができない場合は、能力が低いと言われ自分が役に立てないと感じてしまうのです。先日も有能と有用の違いについて書きましたが、有能というものは能力があるということで有用は役に立つということです。

そして私は本来の有能も有用もそれは個性のことだと思っているのです。

人はその人らしさを発揮していれば自ずから有能が発揮され有用になっていくように思います。組織の中で、自分が周りと同じことがたとえできなくてもその人らしい個性が組織で存分に発揮されていればそれがもっとも価値があるのです。

例えば、明るくて楽観的で前向きな人はその人らしくいれば周りに元気ができる存在になります。他にも冷静で客観的で安定感のある人は、周りに的確な判断を与えられる存在になります。他にも慎重で丁寧な人、実直でコツコツの人、繊細で優しい人など、その人の個性そのものが周りを活かし豊かにするのです。

個性を発揮するというのは、自分がその自分の個性を認めその個性を積極的に発揮していく必要があります。周りと同じようになろうとか、周りと同じことができるとか、そういうものを能力だと勘違いせず、自分の個性そのものが周りのための有能さ有用さなのだと発想を転換することで自然に周りを活性化していくのです。

自然界というものも同じく、そのものがそのものらしく生きているだけですがそれだけで周りを活性化するものです。すべては自然の一部なのですから、その一部が発揮されれば全体が発揮されていくのです。

しかし人間は自然の一部であることを忘れて、自然から離れて自分で完結することを自立だとか勘違いしてしまいました。組織から離れて自分のことは自分でできることで迷惑をかけていないなどという人もいます、しかし本当にそうでしょうか。

迷惑をかけないというのは、迷惑をかけているという自覚であり、それは自分が全体の一部である自覚を忘れないということなのです。社會というものは自然と同じです。つながりの中で一部として存在しているのですから、つながりが断裂しないように常に慈しみ手入れをし、つながりの中で自分の個性を発揮させることでみんなの仕合せに貢献しようということが働くということでもあります。

仕事だけできるなら能力さえあればいいのでしょうが、仕事ができないのも能力のせいにしてしまうなど言い訳になります。そうではなく、働くというのは如何に自分自身の個性を発揮してみんなの御役に立つかを積極的に実践するということなのです。

これは私の確信ですが「自らの個性を活かす時、その存在そのものが誰かの御役に立つのです。」

自分の存在が役に立っていないなどと嘆き文句を言う前に、では自分の個性を発揮しているかと自分と正対し間違った考え方を払しょくすることのように思います。

自分が自分らしい時、それが有能であり有用なのです。

個性とは、天の命じたその人の一個の天性です。その天性を活かしなさいと天は私たちに与えたのです。それを私物化して活かさなければ周囲から奪う存在になってしまいます。もしもその個性を周囲のためにと発揮するならば、それは天が与えたものを周りの人々へと与える行為になります。

奪う側か与える側か、これも生き方働き方、自分の積極的な心がけ次第です。

環境や状況に左右されずに発揮すべき真価とは「個性」なのでしょう。
自分らしく輝いているか、これは自立をテーマにする私たちの本義です。

自助精進

昨日、昔から私たちと一緒に理念を取り組んでいる園を、これから一緒に理念に取り組む園が見学に伺いました。もう6年も前から一緒に実践を高めて取り組んでいますから気心も知れているのですが、改めて学び直すと本当に多くのことに気づかされる素晴らしい一日になりました。

人生には無駄がないというのは、決して無駄になっているものはない。その一つ一つに気づけるかどうかは自分次第であり、その事物から教えていただくことの方が確実なのです。

過去に共に歩んできた軌跡が如何に有難いことだったか、誠実に正直に取り組んでお互いに信じてきたことが如何に価値があったのかは、振り返った時にこそ味わい深くなるものです。

信頼というものは、信じて認めるということですが一緒に真剣に取り組んだからこそそれが強い絆になって今を照らすのでしょう。同じような悩みや苦しみがあり、そしてそれを乗り越えたものもこれから乗り越えるものも共にその大切さに気づけるということは道を一緒に歩んでいきましょうという無言の励ましになるのです。

他人が実践し踏み固めてきた道を観れば、それを観て元気を出るのは諦めなかったという心の姿勢に触れるからかもしれません。理想に向かって信じて歩んできた仲間たちの存在は心強く自他を愛し励ますものだと改めてご縁に感謝する日になりました。

特に感謝したのは、一緒に取り組んできた理事長の一言です。

如何に人が定着するかという話の中で理事長が大人も子どもも同じことですという話です。他人が居心地がよくなるのは子どもならどうか、

まず一つ目が「ここは僕の部屋だよ。」と子どもが感じていること。そして二つ目が「大好きな先生がいる」こと。そして三つ目が「大好きなお友達がいる」ということと教えてくださいました。

これが大人であっても同じことで、その職場は自分の家だと思えること。そして大好きな上司や大好きな仲間たちがいればそれがもっとも居心地が善いと仰っていました。

そのうえで、美味しい給食、色々なイベントとか、その他の処遇とかのオプションがあればいいとありました。

そして「この保育園の一人だと思えることが大事。」だと語られました。これは言い換えればこの組織の一員だと思えることが何よりも大事だということです。

自分がこの一員であることに誇りを持てるような関係になることがもっとも有難いことかもしれません。本気で理想を求めて已まず実践を励まし合い助け合い、どんなことがあっても前に進む、いや、進んでこれたという大好きな自分を持てる人が一人でも増えることが遣り甲斐であり働き甲斐だからでしょう。

実際は大変だったし今も大変ですと同時に仰られる姿に、ご縁と出会いがあったことに深い感動がこみ上げました。一つのことが結実するのは数年から十数年、もしくは数十年、数百年とかかるかもしれません。

しかしこの道は一度しか通らぬ道、もう二度とは通らぬ道なのです。

恥じないように誠実に取り組んできたことが、形になることは本当に有難いご縁に見守られ支えられた日々があったという証明です。饅頭を増やすよりも餡を増やせという言葉の意味も改めて深く腹に落ちてきます。

まさに「天は自ら助けるものを助く」です。自助精進こそ進化成長の要諦ということなのでしょう。

引き続き、人が仕合せになる仕組みを人が徳に報いる自らの実践を怠らず日々を真摯に高めていきたいと思います。

 

実践の励まし

実践をしていると、いつも蔭ながら多くの人たちに支えられ応援されていることに気づきます。

先日も、クルーブログというものを愛読してくださっている方から色々な質問をいただいたり、また新聞を読んでくださっている方からも記事を褒めてくださったりしました。

他にも日ごろの実践がお客様のところで、参考にしてくださったり真似してくださったりと発信したことを丸ごと信じて一緒に取り組んでくださっていたと知ると、有難い気持ちになり頭が下がる思いがします。

本質から外れないようにと、理念を忘れないようにと、日々に実践を増やしては来ましたがそれが誰かの勇気になったり、それが誰かの貢献につながっていくのを実感すると、正直に取り組んでいてよかった、誠実であって善かったと自分を褒めたくなるし自分を好きになるものです。

人間は正直に行うことや誠実に取り組むことが最も尊いと気づくのは、見た目で誤魔化さなくても自分自身が観ている、自分が取り組んでいることは天が知っていると自分に正直誠実であるときかもしれません。

実践をさせていただける有難さというのは、実は多くの人たちの見守りがあってこそだと直観するのです。

実践はひとりで黙々と坦々と行うものですが、それが知らず知らずにお役に立てていると知るとより心が強くなっていきます。そして一緒に実践してくださる仲間たちが増えていくのは何とも心強い気持ちになります。

道はどのように歩くのかはその人が決めるものです。二度と同じ道は通らず、もう一度通ることはない道なのがこの人生です。その人生をどのように歩んでいくのかはその人が決めています。

その信じた実践をみんなで持ち合って、お互いに道中を励まし合いながら助け合いながら歩める道は、豊かで愉しいものであるのです。

たった一度の道をどのように歩めばいいのかを発信していくということは、自分の生き方を、そして働き方を示すことです。何のために生き、何のために働くのかを発信するということは、同じように生き、同じように働きたいと願っている人たちの励ましになるのです。

励ますというのは、背中を見せることかもしれません。そしてその背中をそっと押してあげることかもしれません。人は信じれないようなことが多いとだんだん不安になり分かっていてもできないというように歩みが弱弱しくなってしまいます。

そんな時こそ、実践がお役に立ち、励ませるように思えるのです。

どの人生も、いや、すべてのいのちもその生き物が生きる以上、自然界では何かの御役に立っているのですから正直に誠実であればそれだけで周りの力になっているというのは真理なのでしょう。

多くの励ましをいただいているからこそその有難さを決して忘れず、感謝の顕れでもある日々の実践を怠らず、正直に誠実な自分を高めていきたいと思います。

信を握り合う~絆~

人間は誰かと一緒にいるだけで支えられるものです。

特に価値観を共にする人と一緒にいるというのは、お互いの存在を認め合い、お互いの努力を信じ合えますから居心地が善くなるものです。

昨日もお客様のところで同じ実践を積み上げていく中で共に振り返り、共に反省し、共に励まし合う中でお互いが信じ合うものを確かめ合う中で仕合せを実感しました。

また相手から求められ、一緒にできる仕合せの御蔭で安心できますと言われると何とも有難い気持ちに心が満たされていきます。

御縁というのは不思議で、自分が信じて一生懸命に行い愉しみ喜ぶことがほかの誰かのためにお役に立っていると思えることは有難いことです。そういうご縁をいただけるのもまた喜びと幸せであり、そういうご縁に導かれて自分か活かされていることに感謝の心に満ちてきます。

相手を思いやっていながらも相手からも同時に思いやっていただいているという感覚は思いやりに満ちていると思います。

つい人間は一人でやろうとすると、うまくいかないことを他人のせいや自分のせいにしてしまいます。しかし一緒に取り組めば、相手のせいにも自分のせいにもせず、お互いに感謝しながら必用としあって助け合えるものです。

同じ目的のために同じ理念のためにと力を合わせていけば、そこはまるで家族です。

一緒に実践していられるのは、同じ理念があるからです。理念とは本質のことであり、理念とは自分がもっとも大切にしたい理由です。そういうところをお互いに理解し合い分かち合ったならその時こそお互いが信を握り合うことができるように思います。

信を握り合うというのが絆のことであり、お互いが自分と決めた約束に誠実になっているということです。この強い絆は、お互いが相手をみて自分を変えるようなこともせず、お互いが自分で決めた約束を自分で守るという決心と覚悟に忠実であるということです。

信頼というのは、自分自身に負けずに他人のせいにもしないときに結ばれていきます。その信頼があるからこそ、相手のことを自分のように思いやり、励まし、応援し、労い、そして褒め、愛を与え合うことができます。

自分が遣ってきて善かった、諦めなくて善かったと思うのは、自分が挑戦し自分が打ち克って道を切り拓いてきたことを信じる人たちが幸せになっていく姿を観るときです。

それもこれもまたご縁の不思議な世界に導かれます。

ひとりひとりの出会いを大切に、丁寧に丹誠を籠めて実践を積み上げていきたいと思います。

 

愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。

健康

人間は、健康であるということが何よりも大切であるように思います。

身体の不調が起きると、精神や心が乱れます。また精神や心の不調が起きれば身体が乱れます。健康というのはバランスのことであり、そのバランスが崩れるから本来の自然からかけ離れた生活を送り不調が起きるともいえます。

自然というものも、気候の変動から日々の気温の変化、また全体との変質で常に変わりつづけて已むことはありません。そんな中で生活する私たちも自然の一部ですからその変化に巻き込まれ続けていくのです。

何も変化のない日など送れるわけはなく、いくら本人が変化を避けようとしても人の老化と同じく変化していないものはないのですから日々に変わりつづけていく必要が生じます。

身体の健康管理は、目に見えやすく体調の不調や病気の兆候によってはやめに察知することができます。たとえば、皮膚に出てきたり、下痢をしたり、熱がでたり、頭痛がしたりと、身体がバランスを崩す時には崩れてきているサインがあります。それを治癒するには、食事や睡眠を改善し規則正しい生活を心がけたりすることで次第に回復していきます。

また難しいのが心の健康管理です。心は目には見えにくく自分が不調かどうかを察知する方法があまりありません。しかしよく観てみれば、自分が忙しい時や余裕がない時、他人を不信がるときや人と一緒にやりたくないとき、もしくは未来のことや過去のことばかりに思い煩っているときは心のバランスが崩れているサインでもあります。それを治癒するにも、深呼吸をして心を落ち着かせたり、思いやりに触れたり、内省を規則正しく行うことで次第に回復していきます。

それに精神の健康管理もありますが、自分の志がどうなっているのかなどは考えることもありません。精神が不調になってくると怠惰になったり、自分に甘くなっていきます。志を忘れたり、何のためにという本質を見失ってしまいます。これも精神が不調をきたしているのです。常に日々に真剣に一心一事に打ち込み、規則正しく自らを練磨し修養に努めることで同じく次第に回復していくのです。

身体、心、精神と書きましたがこれらは分かれているものではありません。これらはお互いにつながりあっていますから、これをバランスよく維持していくのが健康であるということです。その健康というものを維持するのの本質は、規則正しいかどうか、道理に合っているか、そして実践しているかどうかです。

これらは「実践」によって調和するものですから、実践なくして健康であるということは考えられないのです。実践することができるというのは自分がバランスを崩さないという規則正しい生活をする覚悟を決めているからできるともいえます。

つまり長くなりましたが、実践できていれば健康であり、健康であるというのは実践ができているということなのです。

実践をせずに、色々とやってみてもそれは結局はバランスが崩れたままに直そうとすることに似ていて結局は崩れてしまいます。そうならないようにするには、常に健康を維持していく精進こそが何よりも世の中に自分を役立てて自然体になっていく真理なのでしょう。

最後に実践人の家の森信三さんの言葉で締めくくります。

「人生二度なし、真理は現実の真っ只中にあり」

空想も妄想でもなく、ただ目の前にあるものは現実だという事実、現場実践の今、此処というのがバランスの調和した場所であることを忘れず健康である正しい日々を学び続けていきたいと思います。

全体観~トータルビジョン~

物事には大きく二つの見方があるように思います。

これは自分を中心に見ている世界と、全体から観えている自分という視点です。

これは例えれば、人間でいえば自然から離れている自分か、自然の一部としての自分かという見方と同じです。もしも人間が自然の一部として考えていれば自分勝手な身勝手なことは繰り返しません。しかしもしも自然と人間が離れて、人間の一部に自然があると思えば自然は自分の思い通りにしてしまおうとするのです。

この利己的な考え方というのは、何でも自分の思い通りにしたいという欲望のことです。思い通りにしたいと思うばかり、自分の我執が固定概念に束縛されそのことから苦しみが起きてきます。その苦しみは、思い通りになっているときは満足し、思い通りにいかないときは周りに不満を向けていくのです。それを我慢しても、思い通りにしたいという欲望に呑まれているのですから結局は他人のせいにしたり言い訳ばかりになってしまうのです。他人の言うことをいつまでも素直に聴けない頑固な人もこの自分中心の考えに呑まれている人に多いように思います。

人間は我儘になってくると利己的になり、謙虚になってくると利他的になるように思います。

そしてこの利他的な考え方というのは、「全体からみたときの自分の視野が持てる」ということです。言い換えれば、物事や自分を全体の一部としてトータルで客観視することができるということです。

自分が所属している会社、その会社の業界、業界が集まった大きな経済、時代の潮流、国家の方針、アジアの眺望、世界の趨勢にいたるまで全体から観ることができれば如何に自分がその一部であり、自分が何をすることがもっとも世の中の御役に立つのかを自覚するのです。

しかしこれが自分からの視点だけになれば、自分の所属する会社や身近な人たちだけに囚われて自分の思い通りにならないことばかりをなんとかしようとして動かそうとするのです。よく考えなくてもすぐにわかるはずですが、自分が動かそうとしたって自分の身体ですらそんなにうまく動かせないのに全体を動かすなどはできるはずがありません。それにそもそも会社がある御蔭様で自分が働くことができるのですからその会社の一部である自分が何でも自分勝手にして善いわけがありません。自分勝手の自由というのは自由の本質ではないのです。

ただし、もしも全体の一部としての自分を自覚していれば全体にあわせて何が最適か、何が最善かを省みて正しい行動はとっていくことはできるのです。自然農も然り、循環も然り、真理も然り、本質も然り、理念も然り、これらはすべて全体観から和合したものです。その全体を慮り自分を周りのためにと自分から活かしていくならそれは自由自在の境地に近づいていきます。

私も日々の理念を省みて、如何に自然と一体になっているか、如何に自他一体になっているか、如何に実践しているかというように、自分中心ではなく全体中心の思考によって自らの判断基準を設けています。社會は共生と貢献で自分を役立てるのが自立だからです。

全体観がある人は、自分の実践が如何に世界に影響を与えるのかを自明しています。しかし頭でばかり考えて実践せずに、行動もしない人というのは自分中心の欲望に囚われています。頭で考えるということ自体が自然から離れている行為ですし、脳みそはいつも自分のことしか考えないようにできているのです。

その点、心はいつも全体に開いているものです。心が開いている人は、頭で考えませんから常に行動と実践を優先し、心がつながっている世界の影響力を自覚していきます。他人に迷惑をかけるということも心はすぐに知覚しますが脳みそは他人の迷惑など顧みることはありません。なぜなら脳みそは計算はできても、実践はできないからです。ある意味で心を澄ますというのは脳みそばかりを使わないという意味でしょう。

常に全体の一部である自分自身を自覚してこそはじめて所属する価値を理解するのです。人間は色々な人たちにや自然に支えられて生きていられ、その自分が全体の一部であるからこそ自分がいい加減な行動はしてはいけない、自分の生き方や働き方が所属するところから世界に向かって開いていてその波紋や波動を放っていることを忘れてはいけないと思うのです。

今の時代、自分中心の利己的な考え方が増えているのは自然から離れて暮らしているからでしょう。自然の一部として暮らしていたころはいつもみんなを家族のように親しみ、常に相手のことや周りのことを思いやり生活していくことができていたように思います。

だからといって時代のせいにするのはおかしく反って今はそれを自らで実践し取り組む時代だと念じ、自然の一部、全体の一部としての自分自身を役立てて貢献していこうと思います。本来の客観視とは冷めた見方ではなく、全体の観方のことを言うのです。

人生はトータルですから、常にトータルで観る目を養っていきたいと思います。

真心の日々~御縁~

人は色々な出来事に日々に出会いますがそのご縁をキャッチできているかどうかは、その心が澄んでいるかどうかに由るものです。いくら一期一会の出会いがその場にあっても、ひとたび自分の心が曇ってしまえばその出会いに気づかずにご縁を活かすことができません。

ご縁を活かせるというのは、その意味を味わい尽くして感謝できているときにできるものです。そしてそれはまず自分の心の穢れを洗い清めていく中で心を澄ましていくことのように思います。

人は出会いによって人生が変わっていくものです。

思い返しても、あの時あの人に出会わなければ今はなかったと思うことばかりでしょう。それに今自分がどんな方々に出会っているか、その出会いを導いてくださっている方はどんな人かと思えば、自分にとって素晴らしいご縁をいつもつないでいただく方は自分の仕合せを導いてくださる導師なのです。

導師の御蔭で素晴らしい先生と出会い、導師の御蔭で素晴らしい仲間と出会い、導師の御蔭で素晴らしいご縁と出会う、その導師はいつも思いやりと真心で自分自身の出会いがより善いものに導かれるように祈りご縁をつないでくださっているのです。

天は公平無私です。それは誰かを選ぶのではなく、その人その人に素晴らしいご縁を与えてくださっているからです。ご縁に気づける自分があるなら我執を手放すこともでき、より自分のご縁に有難く感謝しながら自らの道を切り拓く幸せを実感できるように思います。

将軍家剣術指南役の柳生家にこのような家訓が遺っています。

「小才は、縁に出合いて縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合うた縁をも活かす。」

剣術指南というのは、生き方指南です。武士道というものは道徳規範ですからどのように人格を磨き修養するかを示したモデルの生き方のことです。そして柳生家はこれを活人剣と言いました。

この活人というものは、ご縁をキャッチしてご縁を大切にできる人ということでしょう。それは今の自分が如何にご縁によって支えられているか、今の自分が如何に偉大で複雑不思議な糸の絡み合いやつながりによってできているか、今の自分があるのが何の御蔭であるのかを決して忘れてはいないということです。

畢竟、今の自分がある御蔭様に気づける人こそが自他を活かす第一級の人物だということです。

私は御蔭様で本当に多くの素晴らしい人たちや先生方、導師や恩師、本物の人物に支えられ今があります。今のお仕事をいただいているのも、今の人たちの御役に立てるようになっているのも、それはご縁を大切にしてきた自分へのご褒美かもしれません。有難く戴きますという真心の日々が今の自分のご縁を豊かにしてくださっているのです。

このようなご縁をいただけていることになんとも感謝しようがありませんから、少しでも恩徳に報いることができるように自分の生き方を通してもっと周囲の御役に立てるように精進し、道を修め道を弘め、後世の人たちのためにも謙虚と素直さを忘れずに真心の日々をつなげて歩み続けていきたいと思います。

自警自戒の志

人は志を育てていくことではじめて志士たるゆえんです。

志というものは自らで叱咤激励しながら、自分の本体本心と正対しそれを信念にまで昇華していく必要があるように思います。心を落ち着かせていくだけが学問ではなく、どんな状況下においてでもその志がなんら影響がないという木鶏のような姿が本来の姿のように思います。

吉田松陰は、若くして人格を修養し多くの人たちに多大な影響を与えました。自らの天命を遣り切り、自らを自らで育てあげた日本第一級の人物です。その松陰先生も、常に自らを発奮しながら歩んできた足跡があらゆるところに残っています。

私も何度も若い時はその言葉に支えられ、また天命を生き切ること、自分を遣りきることの大切さを何度も味わうことができました。

例えば、このような言葉も記されています。

「自(みずか)ら淬厲(さいれい)して、敢へて暇逸(かいつ)することなかれ。」(安政二年四月二十四日「清狂に与ふる書」)

これは自分から進んで人格修養に努め、決してのんびりと遊び、無駄な時間を過ごしてはならないという意味です。淬厲とは鉄を焼き磨き続けよというように常に自らを高め続けて怠らない、暇をもてあそぶなという戒めです。

他にも「自警詩」というものの中で「士苟いやしくも正を得て斃たおる、何ぞ必ずしも明哲身を保たん。 幾を見て作なす能はずんば、猶ほ当に身を殺して仁を成すべし。 道は並び行はれて悖らず、百世以て聖人を俟つ。」とあります。

意訳ですが、志士たる者、誠に正しいことのため、人々の為に命を懸けて尽くして斃れるものです。どうして自分の保身や自分のためだけに賢くなり学問をするのか。 もしチャンスを得られずそれができないというのならば、その一身をもっと捨てて人々のために思いやりを尽くすべきではないか。 道は常に並行して決して尽きること無いのです、いつの日かもしくは百世後には、わが志を知る聖人も現れることもあるのだから。

他人の評価を気にして志は為せません。誰が分かってくれなくても淡々滔々と真心を尽くすこと、思いやりを実践することではじめて志は育つのです。誰が分かってくれないとかうまくいかないとか、チャンスが来ないとか環境が悪いとか、色々と言い訳をしては自分の真心を尽くさないのではそれでは修養する価値もないのかもしれません。

王陽明は、事上練磨という言葉を用い日々の修養を説いています。しかしこの学問も、ただ穏やかになりたいくらいでやるのなら価値がないと喝破します。学問は須らく、困っている人たちや悩み苦しむ人たち、そのことにより世の中がより善くなるために行うものだからでしょう。

日々というのは、仕事があるにせよないにせよ、学ぶことばかりです。

その理由は、自分の体験が誰かの御役に立てるからです。だからこそ自分を生き切るということは何よりも学問をするうえで大切な道理であり人生の大道であるようにも思います。未来の子どもたちや聖人たちに恥じないような生き方かといえばまだまだ私は情けない日々を送っています。

あの吉田松陰ですら怠惰な自分の心に喝を入れ、甘えに打ち克つ努力を貫徹し忘れなかったと思えば、私もこれではいけない、このままではいけないと自警自戒しつつ自らの志を磨いていきたいと思います。事上練磨によって自らを発奮奮起していのちのままに学びを高めていきたいと思います。