温故の智慧

私たちは今まで生き残ってきたことがもっとも智慧があるものです。
最近発明したものが凄いと思っていますが、歴史が篩にかけたものが本来の本物です。

確かに今の科学力は目新しく凄いように感じますが、 作ってはすぐに消えていくようなものが本当に新しいのかどうかは疑問です。

例えば発酵技術などもそうですが、最近では簡単に発酵するような菌が開発されたりしています。パン作りでもそうですが、イーストなどを使えばすぐにパンが膨らみますが本来のパンの発酵とは技術も性質も異なります。

それを最先端だとして、機械や道具を用いてすぐに食べれるパンを作りますが本当にそれが最先端技術であるのかと感じるのです。

最先端技術というものは、本物の技術ですから普遍の技術です。

それは何百年も何千年も変わらないものであろうと私は思います。しかし実際は、目新しいものが最先端だと刷り込まれ、改良したものばかりを最先端だとそれぞれが論じているうちに何が本物であったのかも分からなくなっているのかもしれません。

以前、300年のぬか漬けを伝承する方から「今のぬか漬けで出ている本は何かと付け足して加工して目新しくしたものばかり、本来のものは先人たちがやったとおりにしていくことが何よりも本物です」とお聴きした話を思い出しました。

細部に枝分かれしたものを本物だといい、本来の地味な根元のことを忘れてしまうというのは派手さに囚われ中身を御座なりにするのに似ています。

私たちは先人たちの智慧を敬い、かつての伝統や伝承を忘れることで退化していくのかもしれません。余計なことを増やすという考え方は、資本を増やしていくのには都合がいいのかもしれませんが余計であればあるほどに本来の姿から遠ざかるというのは果たして発展しているのかということに疑問を思います。

私たちは真に発展するのなら、先人たちの智慧を今の時代に置き換えて継承していくことでしょう。温故知新していくことは、先人たちの智慧をそのままに伝承することのように思います。如何に時代時代に転じて本物を維持するのかに最先端技術を学ぶ私たちの姿勢が問われます。

シンプルなもの、本物であることにこだわっていきたいと思います。

性格

人間は育っていく中で自分の性格を自らで創りだしていく生きものです。

今まで生きてきた社會の中でどのような立ち位置に納まり、その自分を維持していくかでその人のキャラクターというものはある程度設定されていきます。そのうち齢を取ると自分の性格というものは、自分では変えられないと思い込み、その性格のせいにしては色々と頑なになってしまうものです。

すぐにできることやできないことも決めつけて新しいことをやろうとしないのもまたこのガチガチの価値観が染みついてしまうことでそうなるのでしょう。

しかしコミュニティが変われば、いつまでもその性格を頑なに維持していけるとは限りません。自らその新しい社會に対して自らを変化させて性格を見直す必要性に迫られることもあるのです。

古語に「郷に入っては郷に従え」というものがあります。

これは新しいコミュニティに入り今までの自分の価値観が通用しないのならば新しい価値観を学ぶために自分の性格を変える努力をするという意味でしょう。いくら今まで自分の思い通りにやってきたとしても、自分のいる環境が変われば自分の方を変化させていくのは自然の摂理です。

とはいえ、人は自分の価値観は変えずに、表面だけを変えて自分が変わったと勘違いするものです。しかしそれでは苦しいだけで、自らが学びたい価値観があるにも関わらず自らが近づかずにいつまでも昔の自分のままを周りに受け容れさせようとしてもそれでは新たな社會に馴染むはずもありません。

新しい社會や価値観がそのコミュニティにあるのなら、思い切って今までの自分にこだわらず飛び込んで新しい価値観の素晴らしさに触れていくことで、新たな自分の性格を修正していくことができるように思います。

人は自分の価値観の手直しをしようとはしないものですが、新しいことに挑戦するというのは新しいことで自らの今までの習慣や癖を上書きして直していくということができるからです。いつまでも自分の価値観が壊せなければ、変わらないのはいつまでも自分ということになってしまいます。そうなると、周りに迷惑をかけたり、独りでに環境に馴染めずに枯れてしまう植物のようになってしまいます。

新しい発見も、新しい自分も、それは習慣や癖を変えてしまうほどの努力があってのことです。その努力を楽しんで行う人と、仕方なく行うのではその結果への時間もプロセスも労力も異なってくるように思います。

まず真似をしてみたり、それが如何に素晴らしいかを学ぶというのは、自分自身の好奇心が閉ざさないように常に初心を忘れずに取り組むことのように思います。人間は油断するとすぐに自分の狭い価値観の中に戻ろうとし、気が付くと変わった気になっただけ、分かった気になっただけで価値観はそのままになっていることがほとんどです。

今までやらなかったこと、自分の想像を超える努力をし続けてはじめて価値観も新しく刻まれるのでしょう。時間を懸けても真摯に自らという作品に彫刻していくように、様々な性格を造り上げていくように日々を大切に過ごすことの集積に人格形成もまたあるように思います。

流されてしまっては、いつものままですから自らが研鑽を積み上げて新しい価値観を楽しめる主人公になっていくことが変化の源になることなのでしょう。嫌だと思える事や、ちょっと馴染めないと思える時は、飛び込んでいくチャンスだと捉えられるかどうかに自らの性格を変えるご縁をいただいたと思えるかどうかです。

日々を戒め、油断せずに感謝のままに精進していきたいと思います。

自由の価値

先日、ある方と自由について話をする中で貴重な体験をすることができました。

人は平等とか言う前に、正直であるということが優先されなければなりません。
平等という言葉は、使う側の理屈で用いられることがほとんどです。

真の平等とは、あるがままですから自然であるのだから言葉にはしないのです。これは自由も同じく、存在そのものが自然であるからそれも言葉にして教えるものではありません。

それを人間は、平等という名目で、不平等を創りだし、偏見を恐れて従うから自分を誤魔化すようになるのかもしれませんし、自由も同じく自由といいながら不自由を恐れて仮初の自由を社会で用意してその中で一時的に安心したいのかもしれません。

どちらにせよ、平等も自由も自然の言葉であるのだからそれは勿体ないとか有難いとか御蔭様のように感謝で感じる場所のものなのです。

その平等や自由は自らが背中を見せることであり、自分らしい生き方やあるがままの自分でいることの素晴らしさは自分自身が体現することで示すことであろうとも思います。

何かを教えるというスタンスで教えるものは、どこか嘘が入るように思います。

自分の実体験で語られるものは、そこには真実が入りますが、自分が体験したこともないことを教科書に書いているから正しいを思い込み、それを教え込むとその矛盾に苦しみたくないから考えない人に為るようにも思います。

なぜ、どうしてといった、自分で考えて一つ一つの理由を自分が納得して理解し、自分のものにしたときに教わったとなるからです。これらのなぜやどうしてというのが、人間として与えられた権利であり、人間が自らを育て創造する真の自由や平等でもあるからです。

学ぶということが自由そのものであり、自由であることが学んでいるということなのでしょう。教科書に書かれている答え以外は教えないという学びなどが自由と呼べるわけはありません。その人なりの答えをどう導いていくか、その人の答えを信じてあげることができてはじめて自らの体験をその人に伝える資格が持てるように私は思います。

結局は、本に書いているのだから真実だと思い込ませ、それに異を唱える者は追放するという考え方はかつての宗教弾圧や魔女狩りの類と同じことをやっていることになるのかもしれません。今のような時代、ダイバーシティ(多様性)がもっとも求められる時代に入っているのにいまだに教育がそうではこれからの社會や世界で貢献する人材に育つのか心配になります。

本来はそのままでいることがもっとも社會に役立てるようになるはずなのに、無理に社會に役立つようにと教えることはかえって社會から離れてしまう気もしています。そのままでいい、あるがままでいい、その上で大切な思いやりや真心、素直さや感謝などを導くことが人間を育てるということなのかもしれません。

そしてもし人を正直に育てるなら、自分で出した答えがもともとあった加工される前の野生、つまり「自然」と同じようになっているということです。

自然の循環も、自然の環境も、自然の中で落ち着くのはそれぞれが正直だからです。人間の社会が自然からあまりにも離れてしまうと、何が嘘で何が本当かが分からなくなってくるのかもしれません。

そういうものの中でも自らの本質を見失わないようにするために、人格を高め、自立していくのが人間の生長なのかもしれません。自由になるには、自らの脚で立つために自らのルールを自らで守る強さが必用です。

それは他人のせいにはしないということであり、身のまわりに起きる出来事の全てのことを自らの問題として捉える力があるかということです。

それが自立しているということでしょう。

問題をまだ他人のせいにしているようでは、社會の中で自立しているとは言えません。自らが変化の源になって社會を善くしていくために自分を高めていこうと精進していくことが最期には社會貢献そのものに変化していくからです。

学んだこと、学び続けることを楽しみ、自由の価値を伝承していきたいと思います。

 

本当の自由

社會の中で何かによって教育されることで、他人はルールというものに自然に慣れ親しんできます。しかしその社會のルールは、自分が理解して一つ一つ納得し自分に置き換えたものであれば使いこなせますが、外圧的に何かの力によって単に従っているだけではだんだん自由の本質が分からなくなるのかもしれません。

人は自分が自由だと思っていますが、その自由とは自分が在る程度のルールの中で自由であることを自由と思っています。以前ブログで書いた想定外と同じ理屈で、自分の中である程度想定している自由のことを自由だと思っているのです。

実際の自由とは、何ものにも束縛されない自由であり、自分らしく生きているということの自由です。それは、自分の全人格が認められているものでなければなりませんし、そこには無条件であるがままでいてもいいとなっているものです。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーにこういう言葉があります。

「私は人格をすべて表現するために自由を望む」
何をもって独立するかというのは、自分たちの人格を守るということでしょう。今の世の中は、評価中心の社会をつくりあげ、何かあれば人間を査定し、一方的なモノサシで計ろうとします。そしてそれをまるでその人の人格かのように評します。
しかし本来は人は一人一人まったく異なる個性を持っているし、人格もまったく別のものが備わっていますからそれを十把一絡げに扱うというのは、人格を尊重していないということになるのです。
同じ人間だからと社会をつくったのですが、同じであることを強要することで同じ人間でもなくなるという不合理が起きるという仕組みです。
また今まで散散そういう社会の中で生きてきたら、満足してしまいますから今さら新しい自由を欲しようとしないのも人間かもしれません。よほどの抑圧よりましだと言うように、周りと比べて周りよりも良いのだからと自分を納得させることで仮初の自由を満喫するのです。
これは比較という刷り込みで在り、本質を視るよりも何かと比べて考えて答えにするといった外的なものに縛られるという癖がついているのです。比較をしないで考えるには主体性が必用ですし、自ら自主的に判断する場合は自立し自律していなければ本質にならないからです。
「人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しないと、 自由を用いる方法を知らないものだ。」(マコーリー)があります。
そもそも民族が融和していたものを西洋的な国家観として成立させようとすると、自由というものの定義もまったく別のものに刷り込まれ置き換えられたのでしょう。
これはどの組織でもそうですが、「何でも遣って善い、自由です」といっても人によっては数年から十数年、意味がわからず何もできずに停滞するのと同じです。指示命令の中で動くことを憶えた生物はなかなか元通りになることは難しいのです。
今の人たちが本物の自然体を身に着けるのが難しいように、本物の自由もまたとても難しいものなのでしょう。自分で物事の本質を見極める、そして自分の人生を自分で丸ごと生き切るということは天命を活かすということなのでしょう。
東洋思想には、この「道」という生き方がありますから道に入れば自ずから目覚めていくのかもしれません。最後にまたマハトマガンジーの言葉です。
「間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。」
自由というのは、来たものを選ばないで受け止め受け容れる勇気なのかもしれません。避けたり逃げたりすることで自由は得られず、正面から取り組む時のみ正直であり素直になり、そして自由になるのです。
自由を得て人格が次第に善くなっていく仲間を観ていると、幸福な気持ちになります。
有難うございます。

 

道楽~人生体験~

人が生きるという実感とはどのような体験をしているかということです。

体験こそが人生であり、体験の価値を知るものだけが人生の価値を知るように思います。

人は様々な体験を通して生長していくのは、体験が夢を膨らませてくれるからです。

例えば日々というものは、色々な出来事が実は起きています。気づいていないだけで、好奇心さえ開いていれば本当に無限に無数の出来事に囲まれているのです。しかし日々に流されてしまうとそういう出来事に気づく感受性も衰えていくものです。

何かの出来事が起きるのに対して、その出来事は何だろうと意味を求めて前向きに主体的に取り組む時は好奇心が揺さぶられ新たな発見に出会います。しかしそれとは逆に日々に出来事が起きているのにそれを流してしまうとだんだん感覚が麻痺してきて気が付けば無関心になってしまうのです。

それはとても勿体ないことのように思います。

出来事とは、別に無理に起こそうとしなくても起きているものです。ですからわざわざ遠くにいかなくても、別に新しいことを無理にしなくても、今ある出来事を真心をもって取り組んでいけばそこにはいつも世界が開いてくれていることに気づき感謝できるのです。

体験の尊さというのは、人生の楽しさを与えてくださる尊さのことです。

何が起きるかわからないけれど、ワクワクドキドキと楽しくなっているのは流されないという強い意志、また一度きりの人生なのだから流れないという主体性があってのことなのでしょう。

自分の思い通りにいかないことばかりですが、その反面、自分の思い通りにならないことが面白くてたまりません。そういう前向きな生き方の中にこそ、真の人生の歓び、仕合せ、感激があるように思います。

一生青春、一生感動、掛け替えのない唯一の生であるからこそ来たものを選ばずに全部を有難く受け止め、一つ一つをご縁のある方々と一緒に歩んで大きく夢を育てていきたいと思います。

体験させていただけることに感謝しつつ、世の中のスピードに負けないくらいの努力と精進と内省で道を楽しんでいきたいと思います。

行動指針

カグヤには行動指針というものがあります。これは以前、クルーの皆と語り合い話し合ってどのような会社にしようかと考えて出し合ったものです。

そこにはこうあります。

「本音で語り、本質を追及する」
「関わる全てに尊敬・尊重を忘れない。」
「明るく楽しくイキイキと、心身共に健康に。」
「御互いを信頼しあい、高めあい、協力を惜しまない。」
「信念・理念に誇りを持って、夢の実現に向かい続ける。」

という五つの項目です。

これは、自分たちがどうありたいか、自分たちが行動するときにどういうモデルを示していこうかと語り合い一つ一つを精査していきました。

そもそも行動指針とは何かといえば「基本」のことです。

基本とは例えば、茶道や武道の基本も心得や型からですがもっともはじめに身に着けることということになります。それはとても地味で目立たないものですが、それがあってはじめて他のことができるというものです。

基本ができていない状態でいくら何かをやろうとしていても、それは付け焼刃になるだけで何も為し遂げることができません。自分に矢印を向けてまず自らの行動が基本に忠実であるかどうかを見直すというのが行動指針になります。

人間にとっての基本は人格形成のように思います。

以前、師から教わったものに「自由は人間ができていないと使いこなせない」というのをお聴きしました。いくら自由の環境を与えてもらっていたにせよ、どれだけ好きなことをやってもいいと言われても、自分自身の人格を高めていなければそれは活用できないということです。

人は何かしら決められた中で動いている方が楽です。指針などなくとも、規則があればそれだけで自由になった気がするものです。何も規則がない、誰からも何も言われないということほど不自由なことはありません。一般的な日本の社会ではガチガチに規則やルールが秩序よく整理されていますから考えなくても合わせていけばある程度は自由です。

しかし尊重し合う社會に入れば、その自由を守る一人としての責任が発生してきます。そうすると、自分で周りの自由を奪わないように、他人に迷惑をかけないように自らの行動を律していく必要があるのです。

自由には責任が伴うのは、その行動を正すのは自分次第ということでしょう。

常に自主自立の心というのは、自らの人生の主人公を自らで育てあげていく責任のことです。
人生の課題もまた其処にあるように私には思えます。

有事のときにも無事のときにも、ふり返りを怠らず常に行動指針に照らして今の自分はどうであるのか反省し続けていきたいと思います。

 

社會人

人間の自由というものを考えてみると、色々と想うことがあります。自由とは何かといえばこのブログでも以前書きましたが、自由自在の自由です。

決して不自由か自由かの時に使われるものではなく、その人があるがままに自由自在でいるということ、言い換えれば自分らしさを持ち自分の人生を歩んでいるうということです。

今の時代は、外圧的に様々な規則やルールを押し付けてはその人の自由というものを奪っていく仕組みがあちこちに張り巡らされています。特に学校になると、理由も教えず説明もせずに無理に強要し、規則を破れば矯正させるという非常に厳しい状況をつくりあげています。

大人の管理の下、如何に正しい行いをさせるかということに焦点が置かれているように思います。しかし、動物でもそうですが力による抑制というものは長く維持できるものではありませんし、本心から行うわけでもなく、時間が経ち環境が変わればすぐに忘れてしまうのです。

だからこそ内省をし、本人が自覚し自明するまで自らが実践をしじっと待つという覚悟が必用なのかもしれません。今は、時間がない時代ですから短い時間内であれもこれもと膨大な量の知識や規則を詰め込もうとすれば必然的にガチガチに余裕のない状況に陥るのは火をみるよりも明らかです。

その中で子どもたちは、自由を渇望します。しかしこの自由とは、不自由から解放されたい自由であり本来の自由ではありません。私は幸運にも素晴らしい師と出会い、本質を見極め自分で考えて自分で行動することの尊さに気づくことができましたがそういうご縁をいただけるような方に回り逢えるというのは今では稀なのかもしれません。

これは社會のあり方でも同じですが、権力を持ち、強烈な管理の中で人を束縛すればするほどにそれはより一層弱い立場の人達へと圧力がかかるものです。いじめの構図も同じく、余裕のなく心が閉塞するような状況下では強いものは弱いものを虐げることで自らを守ろうとする構図から発生するのでしょう。

結局はそういう社会から逃げ出すために人は、自分に嘘をつき、他人のせいにするような脳みそになっていくのかもしれません。本能は素直だったからこそ、人間社会のそういうことに流されるから自分を見失うのかもしれません。

社會とは何か、社會をどう産み出していくか、それは自分の責任です。

どのような社會にしていきたいか、どのような社會人になりたいのか、それが学ぶ目的なのかもしれません。社會に出たら、色々なことを自分なりに自分のやりたいようにできるためには、様々なことの本質を見抜き、勇気を出して世の中のためにと貢献し共生していく必要があるように思います。

つまり以上のことを一言で締めくくるならば尊い社會の一員として、「全ての問題を自分の問題」として捉えられているのかということです。

この他人事という刷り込みは今の社会ではなかなか取れず、そのために私のライフワークのほとんどがその問題に集約されてしまっているのです。

最後に本当の主体、本来の主人公、自由自在とは、自己実現のことをいうのでしょう。
正直な人たちが安心して暮らせる世の中のために理念を実践していきたいと思います。

 

 

練習の意味

人は目には見えませんが「思い」というものを持っています。その「思い」にどのようなものが入っているかでその入れ物は全く異なるものになっています。

例えば、何かを習得するためには練習というものを行います。技術を学ぶことは練習ですから練習を積み重ねることで技術は上がるのですが、その練習も単にテクニックだけが上達しても上手だねと言われるだけで感動したとはなかなか言われないものです。

人が感動するには、その技術に心や魂が入る、つまりは「思いが入っている」かどうかがとても大切になるのです。

ここでの思いとは何かと言えば「祈り」のようなものです。

何かの仕事でもいいでしょうし、人生の中で行う何かのアクションでもいいでしょう、そこには何のために自分がそれを行うのか、そして自分が何の御役に立ちたいのかという初心があるはずです。

それを毎回思いだし、その思いを毎回入れて行うことが真の練習になり本物の技術を習得していくように私には思います。

練習というのはできるようになるために、形だけを似せたり、もしくは表面上がある一定のレベルになったからいいというのではなく、本質的に行っているからこそできるだけではなく「なる」ことができるのです。

そうなるにはそうなる理由があるということですが、そこにはその人の確かな「思い」が入っているのです。そしてこの思いを積み重ねて練り上がっていくものが信念です。これは一朝一夕ではならず、長い時間をかけて奥深い技術を学びつつ、生涯習得するための精進し続ける道であるのでしょう。

道に入るというものは、克己の技術を鍛錬することかもしれませんが大切な一日を思いを入れて実践し、信を醸成しつつ自らを高め続けていきたいと思います。

人と道具

人は自分の目線を内省することで自分がどのような眼差しでいるかをチェックすることができます。自分の眼差しというのは、世界を自分がどのようなモノサシで観ているのかをチェックするということです。

自分自身がどうなのかということは省みることはほとんどされず、実際は外側の世界のみを自分の都合で変化させようとすればするほどに眼差しは思いやりではなく独りよがりになっていくものです。

例えば、道具の一つに剣があります。剣を扱うのにも、殺人剣と活人剣というものがあります。本来、人を殺傷する目的のための刀剣が、使い方によって人を生かすものとしてはたらくことがあります。つまりは道具は使い手の心によって如何様にもなるということです。

道具ばかりを善くしようといくらしても、その使い手が自分の意識を変えようとしなければどんなに名剣と言われるようなものでもそれは殺人剣になってしまうものです。

同じく大人の都合で儲かるからと子どもの主体のことをよく考えて自らを省みることもなく、簡単便利な道具をさもそれをやればうまくいくと謳っては販売しているような道具だけで自分たちがよくなるはずはありません。

使っている道具はあくまで道具であり、それをどう活かすかは自分自身によるからです。

そして道具が本物であればあるほどに、自分の実力を磨くしかありません。例えば、大工さんの鉋に電気鉋というものがあります。電気鉋ができたおかげで素人でもすぐに使えるようになりましたが、本来の鉋は職人たちの姿勢や心構えが備わっていないとうまく活かしていくことができません。

手間暇がかかるものですが、その心を何よりも大切にしていくのがその道を志す人たちの誇りでもあるのです。結果が同じであれば簡単便利なものでもいいという考え方は、道具次第ということになりかねません。

人が道具を活かしていきますが、道具もまた人を活かしていきたいと願っているのです。それが人と道具の真の関係のように思います。どのような眼差しで道具を開発した人たちがいたか、そしてその道具を使いたい人がいたか、道具と人との関係というのは同じ志、同じ理念であるからこそ活かせるのかもしれません。

信念を以て、道具そのものの役割が果たせるようにあるがままを受け止めて難関に立ち向かっていきたいと思います。

危機意識

昔のように里山のような社會があったころと違って、人為的に人間が加工し創造した社会の中では安心安全という定義も変わってきているものです。

今の時代は、安心安全を人為的に造りだしています。自然を征服できるという考え方のもと、防波堤を設け、ダムを造り、道路を舗装し、避雷針用意しと、できる限りのことをして防災をしています。

しかし実際は、ことごとくその人為的に造ったものを自然は破壊していきます。あの釜石でもギネスブックに登録されるような巨大な防波堤がまったく太刀打ちできずに破壊されました。原発の安心安全神話もあっという間に打ち砕かれましたから人間が言っている安心とか安全とかは如何に当てにならないかと感じたものです。

人災というのは、想定外だったという言い訳とともに語られます。

言い換えれば、自然よりも人間の方が優れていると感じていることが人災の原因かもしれません。人災というのは、人間の傲慢さから発生するように思います。人間が一番と勘違いしたり、人間がもっとも賢いのだと思い違いをするから、そのしっぺ返しに遭うように思います。

人間が謙虚で感謝をしていれば、自然の法則に沿いますから思い違いをしたり勘違いをするようなことは起きません。常に畏怖と畏敬を忘れずに、危機に備え万が一のことを考えて考動することを忘れません。

しかし平和ボケしてしまい、人間が平和だと思い込み刷り込まれた中に染まってしまうと目の前まできている危険にまで疎くなってしまうのです。世界情勢も然り、自然現象も然り、今、どのようなことを起きているのかという微細な予兆も感じ取る力が喪失してしまいます。

自然にいると思い通りにはならないものですが、人間社会の中だとあるていどは人間の思い通りにいくものです。天変地異なども、自分たちが体験していないことは想定しないのでしょう。本来の想定外とは想定しないことが起きるということですが、想定しないことを想定しないというのがもっとも危機意識がないということになるのです。

自然を感じながら生きるということは、自分の不自然に気づく力です。

それは何かきっと大きな教えが入っていると感じる力や、何かこれは啓示であったり自分を直せという警告なのだと、常に素直に謙虚にいつも内省を続けていれば自ずから自然に照らして自分の姿勢を戒めていくことができるように思います。

自分の姿勢が人間都合になることがもっとも危機意識が欠如することなのかもしれません。

活かされることを忘れてしまえば、生きていることすら忘れてしまいます。

空気ひとつ水ひとつ造りだせず、私たちはそういうものの恩恵の中で生かされているという真実を思い出せないというのは当たり前のいのちにも気づかないということなのでしょう。

自然という当たり前ではない何か偉大な有難さの中にいることに気づくのが地球上でいのちを共有する私たちの本来の姿勢なのでしょう。

子ども達のためにも未来をつないでいけるように災害というものの本質を見極めて、自然から学び続けそのモデルを実践していきたいと思います。