家訓の価値

家訓というものをご縁があり深めていると色々なものがあることに気づきます。

有名なのは、上杉謙信、徳川家康、伊達正宗、保科正之など一家を為した人たちが子孫のために訓戒を遺したように思います。一家において、一家を維持継続していくために子孫は何を守るかということを説いているように思うのです。

「創業は易く守成は難し」といいますが、新しく事業を興すことよりもその事業を受け継いで守り続けることにほうが難しいという意味で用いられるものです。

何代も先のことも慮り、どのように生きていくべきかということを自分の代を真摯に生き切る中で得られた叡智を語り継ごうとした姿がそこに観えます。伝える方も必死だったあの時代、生き死にの中で大切なことを伝えようとした重みを感じるものが家訓のように思います。

また江戸時代の藩体制の基礎をつくった藤堂高虎家訓200箇条はとても興味深いものがあります。ご縁のあることから調べていると、正確には204箇条からなる手引きが書かれています。

「第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意」 (寝室を出る時から、今日は死ぬ番だと心に決めること。そういう覚悟があれば、物に動じない。本来、こうあるべきだ。)

というように死生観、生き方の心得からはじまります。

「第204条 物事聞とも根間すへからす」(物事を聞く時に、根本のことを聞いてはいけない。)

で終わっています。この文章を最後に持ってくるもの、また味があるように思います。細かく具体的にこうするべきであるとしたのは、それだけ大切なことなのだとそれぞれの意味を深めて書き記したものが残っています。

この家訓を読んでみると、その人柄が伝わってくるものもありお会いしていなくてもその思想や願いが伝わってくるからとても不思議な感覚を覚えます。

また何かある時にすぐに思い浮かべるものに柳生家の家訓があります。これは有名なものなので知っている人も多いと思います。

「小才は、縁に会って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖振り合う縁をも生かす。」

すべてのご縁は活かすものです—とこれはシンプルですが、そのチャンスを活かすということの価値をこの一文で全て語り尽くしています。タイミングを逃さないというものは、君子時中すとあるようにご縁に活きる、活かされているという智慧そのもののことなのかもしれません。

家訓には、大切な現場の智慧が入っていますし伝えようとする側の真心が籠っています。伝承していくことが役割だとしたときに、そこをもう少し奥へと親しんでいきたいと思います。

維新継承

昨日、リーダー研修があり最後の話で藤森代表から「主人公」と「伝承」という役割の話がありました。先祖が真摯に生きて今の自分があるからこそ、尊い御役目が自分にも必ずあることをもう一度よく考えるという機会になりました。

日常が当たり前になっていると自分だけで物事を考えますが、今の自分があるのはどのような御蔭であるのか、連綿と続いてきた風土や結縁、生死のめぐりのなかで受け継いできた魂やいのちの存在を実感します。

そういう自分をそういう今をどれだけ愛しく大切に生き切っているかを思うのです。

語り継ぐものに出会うとき、受け継ぐ側の覚悟を省みます。本気で生きているかというのは、本気で死んだ人たちの積み重ねの上に自分がいることを決して忘れないことかもしれません。

それは、今を真摯に生きぬくことで自分の御役目に感謝していることかもしれません。

今、自然農然り、古神道然り、大和魂然り、一つ一つのことを紐解いて自然からの手ほどきを受け学んでいますがこれも受け継ぐ側の覚悟があってはじめて語り継がれていくものです。外来の思想や、人工智が高く評価されてそれすらも誰も気にしないくらい浸透した昨今では、かつての風土の思想や自然智の価値を新たに実感する人も少なくなってきているように思います。

先祖たちがどのように生きてきたのかを知ろうともせず、周りだけをみて今までもずっと今のような生き方だったのだと思い違いをしてしまうことがほとんどです。戦争のことでも、私の祖父の代の話であったのに、受け継がれなくなるとすぐに感覚がマヒしているのが分かります。

これだけ継承していくことや伝承するということは、その時代の生き方の反映であり、そこに語り継ぐものと受け継ぐものの価値を等しくしていないと互いに成り立たないように思うのです。そう考えてみたら、それぞれが真摯に真剣に主人公として生き切った跡にこそ最も価値のある口伝が存在するように思います。

神主とは私の中では、自然のバランスを司る者、つまりは一切の無駄というものがない”しくみ”そのものになる者と定義していますが、これも受け継ぐにはそれ相応の覚悟があって先祖の叡智を直観するのでしょう。

刷り込みに誘惑されないで正しく受け継ぎたいという畏れと尊敬と謙虚さがあってこそ伝承は成り立つのです。先祖の素晴らしさを思うほどに、自分の襟を正すことばかりです。頭で理解することではなく、語り継ぎ受け継ぐという意味、つまりは真実の思想の継承なのです。

その人の時代があるとき、自分の時代があることに気づかなければなりません、同じ生き方をしても同じ時は共にできません、だからこそ自分の代を真摯に生き抜かなければなりません。そこには思想を受け継いでそれを正しく新しくしなさいといったメッセージと意志を感じました。

「飛鳥から江戸は旧邦なれども、その智慧は維新なり」

これは今年ご縁があった保田與重郎の言葉です。

そして中江藤樹の訳した孝経こうあります。

「旧邦を興して天命新たなり」

時代が変われども、受け継ぐ人がいることを教えてくださいました。思想など目には観えないものかもしれませんが、心に響いたことを心に刻み、志を貫徹していきたいと思います。

大事なことを直観しました、いつも本当に有難うございます。

 

自生のサイクル

昨日、シイタケやヒラタケ、キクラゲなどの種菌を榾木に仕込む作業を行いました。昔は、山の中に自生するのを待ってうまくシイタケがつけばいいと何度も繰り返し菌が降ってくるのを待っていたそうです。空気中には色々な菌がいて、シイタケがついてくれる可能性というのはどれくらいあったのでしょうね。

今は何でも簡単便利に購入して、種菌も移植できますが昔の人達の長い長いゆったりとした自然時間をかけて繰り返し大事にされてきたいのちをその気持ちになってみつめてみたいと思います。

榾木は森の中に休ませ、菌たちの生活するための住居を用意し、それを見守り約2年後には沢山のきのこが出てくることと思います。自然が共生するというのは、それぞれの生きもの生活を用意してその恩恵によって少し分けていただく中にこそ有難みがあるように思います。

約2年後というのは、私の見解ではきのこの菌が榾木の中で繁殖し確立したらまた別の棲家を求めて旅立つ際に協力してきのこになるというものです。ここできのこになるというのは、増えすぎた棲家を若い種たちが離れて新しい棲家へと子孫を残していくための自立になるということなのでしょう。

菌という生きものは、そのものが種であり種であるから繁栄発展していくように思います。そこから推察してみると、私達一人ひとりも大切な種でありその種が次世代へと希望を繋いでいくようにも思います。

種が散らばって土に落ち、地上で花を咲かせて実をつける。
こんな当たり前なことも、菌や植物や生きものから学び直しているところです。

さて発酵を学ぶ中で次第に発展して、菌というものを身近に感じるようになりました。発酵というものも、菌が活性化することで行われるものです。ある一定の菌の食べものさえあれば特定の菌たちがそれを食べ尽くす際にエネルギーを放出していきます。

私達のご飯と同じように、食べるから元気がでてその元気さが発酵の証とも言えます。どの食べ物を食べるかでお腹の中の菌の種類も、また菌の構成も変化するのですから如何にそのものの環境に相応しいものを用意していくのかというのは大事なことなのでしょう。

そう考えてみると、きのこではないですが私たちの身体は榾木のようなものなのかもしれません。菌が私たちの身体に棲みついてその体で繁殖し移動していくのですから。植物や木々も、根っこには菌があって菌がそこに棲みついてきます。

あながち、生命の本体が菌であり私たちはそれを助けるために身体を構成したのかもしれません。人間の細胞も60兆にもなるといわれますから、そこには何か菌の不思議な力が働いているのかもしれません。

マクロもミクロも宇宙ですから、これはこれでまだまだ見極め研究も実践も楽しんでいこうと思います。これから数年の自生のサイクルできのこの見守りがはじまりますがゆったりとした時間の流れを寄り添いながら味わっていこうと思います。

変化を優先

人が変わるという時には、通過するところがあるように思います。

変化というものは、そのものを受け容れるときにはじまるように思います。そしてその変化を阻害するものが何かといえば、不平不満や不貞腐れるという心の態度のように思います。

なぜそうなるのかというと、自分の思い通りにいかないことからそういう感情が湧きたってくるようにも思います。その感情がひとたび起こるなら、自分の思い通りになることが良いことでそうではないことは悪いことだといった自己中心的な思考に囚われてしまうのです。

これがなぜ変化を阻害するかといえば、そこには深層心理の中に「自分は変わりたくない」という気持ちが働いているように思います。物事や時代や環境は、刻一刻とと変化をして已みません。

今までようやく慣れてきたことも、そのうち変化が大きくなって慣れてきたことを手放さなければなりません。人間はもともとは安定したいものだから変化というものを嫌うのが普通なのかもしれません、自分がようやく変化に馴染んだところでまた変わるのかと思うと億劫になるのも無理はありません。

それは年齢や経験に関係なく、大変だと思っていれば思っているほどに自分は変えたくないのです。自分を変えたくないという気持ちが不平不満につながり、自分の方ではなく他者を変えてしまいたいという欲求から批判もまた発生してくるように思うのです。

人はそのものの変化をどう受け容れるかというものの中に、目的や目標を維持する力があるように思います。そもそも自分が目指しているものは何か、何のために今があるのかを自覚していればしているほどに不平不満ではなく足るを知り、真摯に素直に精進していくことを優先していけるように思います。

感情を包みこむほどの大欲といった志が立つことも克己心につながっているのかもしれません。どちらにせよ、変化できるというのは本来は有難いことのように思います。自分が変化をしなければ自分だけが変化しない人になってしまいます。自分が変化すれば周りの変化の御役に立てるようにも思います。

常に変化を優先していくという生き方というのは、常に円満具足という生き方を実践していくことです。不足することに不平不満ではなく、満ち足りていることに感謝してそれを活かそうと変化を楽しんでいくことのように思います。

人生に変化はつきものです、いくら抵抗してもそれが自然なのだからこの先もずっとその道は途切れません。だからこそどう生きるのかは生き方次第です。自分が変わる事の方が楽しいという境地を体験できるよう自らがまず実践を優先していきたいと思います。

情熱感謝

何かの物事を成し遂げる際に、他力が入るという言葉があります。

これは遣っていく中で何度も実感し、そのうち他力の方が重要ではないかと感じていくものです。この他力とは、自力を尽くした後の他力のようなもので目には観えない何かの力が働いたことでその物事が為されるということです。

人は全身全霊の情熱を傾けて物事に取り組む時、自分の力を超えた何かによって支えられているのではないかと気づくものです。天が助けたくなってしまうような純真で直向な努力を怠らないことで竟には思ってもいなかったような奇跡に出会い、いつもそこに何か力を貸してくださった存在があったこと、まるで天と一体となったような不思議な感覚を覚えるものです。

自分の力の全力を惜しまず情熱を持って事に当たれば苦しい時ほど助けが入り最期まで遣り切らせていただくのです。その後に、いつも自分の思い通りではなかったけれど思った以上のことが起きていることに気づいては感謝するのです。そういうひとつひとつの感謝が今というものの中に存在していることを知ると、出し惜しみしないという考え方が身に着いてくるように思います。遣り切るというのは同時に遣り切らせていただいたということなのでしょう。

一般的には人間は誰もが失敗したくないものです。特に知性ばかりを評価されてきた生き方だと、他人の目ばかりが気になってしまうのです。何かを努力して乗り越えたことを評価されてきたならば、その人は尽力を出し切ることの方が素晴らしいことを自覚しているのです。

尽力を出す機会をどれだけ得られたかというのが本来の運かもしれません。運を伸ばし運を善くするには、自分の底力を出していく機会をたくさん求めていくようなご縁に出会うことかもしれません。

ご縁を大事にしていく生き方というものは、今を尽力するという生き方です。

二度とない時間、二度とない場所、二度とないこの今にどれだけ本気に向き合っているかという生き方です。情熱もこの今から湧いてくるものですし、自力というものもこの今に正対する心から派生してきます。そう考えてみると、情熱と感謝は常に表裏一体なのかもしれません。

最後に私がとても好きな西行の詩を紹介します。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

遣り切る生き方というものは、いつもその御蔭様に気づける生き方なのかもしれません。日々を大切に自他に活かされていることの御恩返しをしていきたいと思います。

好好~好奇心の妙~

「好きこそものの上手なれ」という諺があります。

これはどんなことであれ、その人が好きであればすぐに上達していくという意味で使われます。好きなことは、やらされるのではなく自らがやっているのだから発達が善くなり上達するということでしょう。

しかし一般的に人は元来は怠惰にできていますから、好きなことは何もやらないことだといって好きなことが次第になくなっていくようにも思います。

ここで好きになるということがどのようなことかを深めてみます。

好きになるというのは、自分で好きで居続けるための努力がつきものであろうと思います。好きになるコツを掴んでいる人は、努力していることに気づかないだけで必ず努力は行われています。つまりは好きというのは好きでいることをやっているから好きになるのです。

この好きというのは、何もしないから好きなのではないということです。毎日毎日、四六時中、好きなことを維持するにはその陰で大変な努力が動いています。上達というのは、欠かさない練習によって得るものですからやったらやらなかったりではなく常にやっているから好きでいられるのです。

それはまるで養分を吸い上げていく植物のように、もしくは生きものたちの呼吸のように已めることはない努力なのです。これらの努力をしていくことが苦にならない、つまりは自分が達したい目標に向かって取り組んでいることが楽しくなっていてはじめて好きだと言えるのです。

しかし好きでいるにも好きになるにも、その前に好きになることを知らないのではいつまでも好きではない、否、「嫌い」だと決めつけて努力を避けてしまうから辛くなるとも言えるのです。

確かにどんなことでも自分には嫌なことがほとんどなのが人生なのかもしれません。寒いと外にでたくないとか、朝早いと辛いとか、評価されるのが嫌だとか、考えるとキリがありません。

そんな理由があったにせよ、それを転じて好きにすることが上達するコツであろうと思います。このコツとは、自分の好きなことにしてしまうことを掴んでいるということです。嫌いなことも好きにできるということかもしれません。

例えば、自分にとって興味がないことがあったとします。しかしそれをしなければ目標に達しないことが先人や先達者の声を聴くと必然であることを自明するとします。その場合は、嫌いなことを好きにならなければなりません。ずっと嫌いなままでは上達することがなく、より一層辛く苦しいだけで伸びていかないからです。

それをどのように工夫するか、方法論から入ればそこには自分の好きな分野に置き換えるというやり方もあります。原則論から入れば、習慣になるまで身に着けたかというのもあります。沢山の場数を増やしていくことでその場数にそって心身に沁み渡っていくのです。

好きになるということは、好きになるまで探求するということかもしれません。私の場合は、これも何かの意味があると感じ取ったり、これは何につながっているだろうと掘り下げていくことで次第に楽しくなっていきます。

好奇心という基本技術があるのかもしれません。好奇心を発揮していくためには、自分の好きなことをやって呼び水にするのも方法のひとつかもしれません。今の遣らないといけないものの中に、別のテーマを持つというやり方もあります。

どちらにしても、努力するということなくして好きになることは絶対にありません。しかしその努力を主体的にするのか受身でやるのかでは努力の本質が変わってしまうのかもしれません。努力の本質とは、生活習慣を変えることだと思います。言い換えれば、自らの意識を変えて心身を新しく入れ替えていくことだと思います。

好きになってはじめて、仕事も向こうから近づいてきますし、真実も、目標も、道理も歩み寄ってきてくださいます。それは人でも物でも、出来事もでもすべて同じく、好きだからこそ相手は自分を好きになって下さるし、物も出来事も好きでいてくださるのです。

相思相愛になるには、それだけ自分から素直に好きだと言えることだろうと思います。これだけ好かれている自分が素直に好きといえないのは、もったいないことだと思います。自分が一番愛する心をもって好きでいることに純真無垢でいることや純粋清浄でいることが好きになるコツでしょう。

そしてその好好を楽しめているとき、理念、志、そして使命を味わっているように思います。すべての今を全てのことを好きでいる自分でありたいと思います。

発達を邪魔しない

発達というものを考える時、それは自ら発する、そして達するということはすぐに自明します。発達とは他人からさせられるものではなく、自ら発することであるからです。

昨日、保育環境セミナーで藤森平司先生の講演で情緒の安定の話がありました。
ここで少しご紹介します。

『「保育指針には情緒の安定のことが書かれています。そこには一つ目は「欲求を満たしてあげること」人は意欲がないと発達していかないからです。つまりいくら指摘しようがどうが本人が自ら「やりたい、したい」と思わなければ発達しないからです。二つ目は「共感」してあげること。その子のしたいことに共感してあげること。相手に何かを言う前に、まず共感してあげないといけません。三つ目は自分に「自信」を持たせること。よくできたことに褒めること、自信を持たせること。四つ目は「リズム」を持たせること。一日のリズムを身に着けさせてあげることです。」』

とありました。

これも発達というものの側面を捉えてお話してくださっていることがわかります。

発達というものは誰かによってさせられることでもなければ、自分以外のものができるものではありません。そういうものを如何に邪魔しないかということが、周囲の見守りには重要だということではないか私は思います。

『子どもの発達するのを邪魔しない』というのはカグヤのミマモリングポリシーコピーですがこれはここから考案されているものです。

人は相手を自分の思い通りにしたいと思うものです。そういうことがその人が自然に育つことを邪魔してその人らしくすることができなくなるのです。自然界でいっても、そのものがそのもののように育つのであってこちらが育てたわけではありません。

言い換えれば、そのものが育つのを邪魔しないように手入れしたということではないかと思います。この手の入れ方は着かず離れずに、そのものを観ては、その発達するのを見守るのですがこれがとても難しいことなのです。それは自然の中で生きる叡智を人が体得していることに似ています。

この邪魔しないというのは、そのものを尊重するということですがつい自分の我が入ることでそれを邪魔してしまいます。真心を入れるのではなく我を入れればすぐに邪魔になるのです。

御互いに大事にし合うことで御互いを見守りあうことができるのですがどうしても偏り一方的になってしまうものです。まず相手を大事にすることは過保護過干渉をすることではなく、相手の全人格を肯定し相手のいのちを大事にすることなのだと思います。その中で如何に自分も大事にしていくかということです。常に自然共生の法理がそこに働きます。

しかしそれがすぐにできないのはそこには私たちが今まで育ってきた環境の中での思い込みや先入観、今では様々なことが刷り込まれています。この一つ一つを取り除くために、発達を信じるという意識を新たに身体に沁みこませていくことが発達を邪魔しないための自戒になるのかもしれません。

どのような手を尽くしていけばいいか、悩みは深まるばかりですが初心に帰り見守る保育の道を学び続けていきたいと思います。

時々の初心~人の成長~

ソフトの名前の変更にあたり、色々な意味を考え直しています。

能の大成者の世阿弥に「時々の初心、忘れるべからず」という言葉があります。これは、出会いというもので置き換えて考えてみるとその本質が理解できるように思います。

出会いというものは、それまでの出会いがあります。ある出会いから、人は様々なことを学んでいきます。それは職業との出会い、出来事との出会い、人との出会い、場所との出会い、様々な出会いを生きています。そうして出会いから何かを学び、そして卒業したら次の出会いを学ぶのです。

同じ人と一緒にいても、御互いが出会ったことから学び、卒業すれば御互いに次の学びに進んでいくのです。御互いがずっと一緒にいられるというのは、御互いが努力精進するのを已めず常に切磋琢磨し学び合って成長進化し続けている証だともいえるようにも思います。

先ほどの時々の初心というものは、一つの物事を乗り越えるときそこでかつての初心に別れを告げて新しい初心に出会うという意味ではないかと私には思えるのです。

昨日のセミナーの情報交換会でも、見守る保育ということを学ぶと1年目も5年目も10年目でもその時の見守る保育に出会うということ、つまりは道というものには終わりがなく常に初心を新しくしていくことが大事だということをお話ししました。

これは温故知新と同じ意味であり、常に新しくしていかなければ初心を忘れてしまうのだということなのです。

ソフトを新しくするというのも、それまでの初心を卒業しもう一度、新たな初心に出会うという意味ではないかと思えるのです。それは単に新しく販売するとか、数字を出すとかという意味ではなく、自分を新たにして新しく次の初心を達するために真摯にゼロから学び直すということであろうと思います。

それは説明を単に変えるなどという次元の話ではなく、そもそもの新しい初心を築くことのように思うのです。またはじめから行うのかということを人は嫌がるものかもしれませんが、それでは初心に出会えません。

初心に出会い続けるのは、「もう一度新しく出会いたい」と願う心からはじまるのかもしれません。

人は長年共に過ごしていても、そのうち次第に落ち着いてくるものです。しかし進化成長を已まない人と共に過ごすなら自分自身も同様に新しくしていかなければなりません。そこには過去の出会いとは別に新しい出会いへと刷新していく努力がいるように思います。人は成長し合える人と出会いたいと心で願っています、だからこそ自分も一緒に成長できる関係でありたいから常に自己改心の努力をするのです。

つまり挑戦するというのは、新しくするということです。そしてそれが時々の初心ということであるのです。日々は真剣勝負です、ややもすると昔の学びの方が楽なのでそこに依存してしまいますが過去は過去、それをすでに習得したのならスパッと卒業して次の学びへと駒を進めることが進化成長の法理です。

同じソフトをやるにも、まったく異なる新たな意識に変えて最初からやり直していこうと思います。バージョンアップをやめてから4年目に入って、ようやく新たなバージョンアップに行き着きました。また次回もその時が来るのでしょうが、伴に理念の大切な道具と歩める日々を継承し歩めることを心から有難く思います。

しかしいつの時代も道具が変わるのではなく、変わるのは道具を用いる人の方だと心を定め気を引き締めて初心を学びこんでいこうと思います。

新たな出会いと別れに心から感謝しています。

古来からの学び方

一般的には人は最初の仕事を学ぶとき、知識から入る人と体から入る人がいます。器用な人は知識から入りますが不器用な人は体から入るようにも思います。しかし本来は両方必要なことで知識も体もいるように思います。

考動ができる人というのは、心に浮かんだことをすぐに形にしていくために頭と同時に手足も動いているものです。学ぶというのは決して頭だけではできることではなく、心と体が一体になったときにはじめて沁み込んでいくように思います。

自分に沁みこませていくような学び方、慣れ親しんでいくような学び方をしてきた人が少ないのは知識編重型の教育を受けてきたからかもしれません。もしくはやらされてきたから知識を掘り下げて自分のものにし智慧にまで昇華するということをやろうとしなかったのかもしれません。

ヤル気を育てるということがどれだけ大切な事か、この歳になってみてそれをはっきりと自覚するようになってきました。自らが常にヤル気をどれだけ育て続けてきたか、その歴史の重み、体験の質量が心と体にはもっとも大切なことなのでしょう。何をするにも努力から入れないのでは何事も為し遂げることはないのです。

人を真に導くということは、その人のヤル気をどう見守っていくのかということかもしれません。宮大工の棟梁西岡常一さんの「口伝の重み」(日本経済新聞社)でこういう話が紹介されていました。

『校長は、上武豊太郎といった。私たちが直接話を聞くのは、修身の時間である。こんな話をされた。「君たちは、農業経済学というものを習うてるやろ。そこには「最小の労力をもって、最大の結果を得る」それが原則や、と書いてある。しかし・・・」と言い、「我々、日本の”農人”はそうであってはならない。自分ひとりの働きで、何人の人を養えるか。これが根本や」農の基本は金儲けや効率ではないというのだ。そのあと「しかし」と続け、「試験のときは、こういうことを書くな。零点になるから。」なるほど、農人とはそうあるべきだと、感じ入ったものである。__背骨を入れられた。と今でも思っている。』

戦後の教育では、また巷のニュースでも経済の原理ばかりが優先され如何に効率よくラクをして成果を出すかばかりを詰め込まれると本来の大切なことが忘れさられていることが多いように思います。

大量生産大量消費の中で、如何に労働をするのかということを教えられ、本来の労働の価値、作業ではなく仕事という価値を学ばないで大人になってしまうと経済の歯車にだけなろうとしてしまうのかもしれません。

農一つを学ぶにも、本で書いていることはごくわずかで実際は農地に出て観ては上手くいかないことばかりと正対します。土や草や虫、そして気候を学ぶのは決して本ではできず試行錯誤しながら、大袈裟に言えば七転八倒しながら心して現場で学ぶしかないのです。それが知識を入れて知識を削除したということでしょう、言い換えれば「モノになっていく」ということです。

そうして自分が繰り返し努力することで根気もまた育っていくのです。

これらのヤル気というものは、本来のあり方の方を大切にし続けるということでしょう。そして学び方も、ヤル気を育て続けるために知識を入れてはそれを削除するために体験するという学び方、そして体験したことを掘り下げてそれを本物の知識にしていくという学び方になっていくはずです。

まずはその人のヤル気を育てていたのがかつての教育(古来からの学び方)だったのかもしれません。

人は自ら学ぶ力があり、自らがヤル気を出して取り組む時、自然に知識も智慧も体得もできるように思います。素の自分を如何に直すか、その素の中に何を据えているかが、長い人生においてとても大切なことのように思います。

経済効率を優先すれば時間の使い方もまた経済効率を優先になるのでしょう。非経済的であったとしても、そのヤル気が育つのならばその人に合わせて見守っていってあげることが思いやりのように思えてなりません。初歩の基本を間違えてしまったら、その後は全部間違いになる怖さがあるように思います。初歩の基本は的を外してはならないのです。

本来の子どもたちが望んでいること、発達に合わせてどのように学び合いの環境を発展させていくのか、そこには互いのヤル気を尊重することからなのかもしれません。戦後に操作された今の教え方と学び方を古道に照らして修正していきたいと思います。

一期一会を大切に、これからも何事も同時であることにこだわっていきたいと思います。

口伝

宮大工棟梁の西岡常一さんの著書「口伝の重み」(日本経済新聞社)には、技法というものが如何なるものかということが書き記しています。

先祖代々の重みを、受け継ぐということがどのようなことであるのか、その生き方や生きざまを拝観していると心に染み入るものがあります。

姿勢とか、考え方とか、今の自分に照らすとちゃんとやらなければという激励を戴いている気がしています。その中で、代々、西岡家棟梁が受け継がれた家訓を祖父から伝えられる場面があります。

正座して、父と一緒に聴いたとあり、これが祖父からの最期の教えだったと言います。受け継ぐ側も承る側も、そのような大切なことを最期にするというのは清々しく感じます。これを思う時、私が教えるということが安易ではないか、心して教えていたのかと思うと恥ずかしい思いがし、本来の心というものは教えにもあるのだと痛感いたしました。

その口伝ではこうあります。

「仏法を知らずして堂塔伽藍を論ずべからず」
「天神地祇を拝さずして宮を口にすべからず」
「法隆寺大工は太子の本流たる誇りをもて」
「伽藍造営には四神相応の地を選べ」
「堂塔の建立には木を買わず山を買え」
「堂塔の木組みは木の癖組み」
「木の癖組みは工人等の心組み」
「人の非を責める前に自分の不徳を思いをいたせ」
「百工あれば百念あり一つに統ぶるが匠長が器量なり」
「一つに止めるの器量なきは謹みおそれ匠長の座を去れ」

これら一つ一つは、いつ頃からあったのかもわかっていないそうです。しかし、その一つ一つは先祖がそれぞれの人生を生き切る中で生涯をかけて艱難辛苦の泥沼の中から咲いた蓮の花のような叡智であろうと思います。

文章に書けばすぐに書けますし、読めばすぐに理解はできますが、その重みを理解することなとはできません。それを口伝で伝え、家訓とするのにはそれ相応の理由があり、先祖たちが失敗を積み重ねて乗り越えてきたなかで遺したものであろうとも思うのです。

震災で、津波に関する石碑のことなども同じことを繰り返さないようにと子々孫々への思いやりをもって先祖が様々なことを伝承してくださっています。神話もまた、先祖が私たちに語りかけてくるのもどのような国を造れば善いのか、そしてどのように暮らしていけばよいのかを教え導いてくださっているものです。

それを受け賜る側の姿勢として、今の自分はどうであろうかと猛省する気持ちがします。そして、先ほどの口伝の続きにはこう書かれています。

「諸処の技法は一日にして成らず祖神達の徳恵なり」

全ての技術とは、必ず一朝一夕になるものではない、長い時間をかけて猛練習猛特訓の上で築いてきたものであるということを諭してくださっています。決してできないからと諦めるのではなく、その上で何をすべきか、どのように真剣に猛稽古に打ち込むかといった祖神たちの見守りを感じるのです。

口伝とはその重みを感じる側がいて受け取る側がいるのかもしれません。子ども達のことを思えば、伝承していくことの大切さを改めなければと決意に満ちます。真摯に一つ一つを古道に照らし学びとっていきたいと思います。