本来の実践~初心を忘れない~

人間は大切なことを忘れてしまう生きものと言えます。

例えば、初心などもそうですが最初如何にそれが大切だと理解していても日々に流されていく中で次第に考えなくなりそもそもなぜこれをやるのかという理由すらも思い出さずにマンネリ化していくものです。

他人が言った言葉でもそれが自分のものになるまで一つのことをじっくりと時間をかけて自分で考え抜いたり、考え抜いたことを行動したりすることで自分の考えになったとなるまでやることではじめて本来の自発性が働き取り組んだといえます。

しかし誰かに言われたことをただ鵜呑みにして、それをやればいいのだろうと自分の頭でその意味や本質を考え抜かなければ次第にそれはその人の考えに単に従ってやっていることになり、自分自身が決めたことではなく誰かに依存して続けてしまっていることになるからです。それでは面白くなくなり、自分がやりたいことが分からなくなるのです。

何かを誠実に続けるには、自分が物事と常に正対し続けるという本質を伴います。

だからこそ自分が決めたことを自分がいつまでも決め続けるというのが初心を忘れないということです。一旦決めたからとそれでいいわけではなく、決めたらそれが最期まで決め続けたままにしなければならないのが本来の実践です。

しかし毎日の繰り返しの中で、慣れてきてしまうと何となくやることが先になり、そもそも何のために行うのか、なぜそれはやろうとしたのかということは後回しになっていくから忘れるのです。

日々に新しくならないのは、やり方を覚えてしまってそれに落ち着こうとするからです。脳が考えるのをやめたがるからです。だからこそ単にやることが続くことが良いわけではなく、正しく実践し続けることが善いのです。

その人の考えであっても自分の頭で考えてそれを自分のものにするというのが学問です。

例えば、何かの気づきがありやってみようと思ってはじめた日々に行うお祈り一つであってもただ単に手をあわせているだけでそこに心が入らなければ何のために祈るのかを忘れてしまうものです。だからこそ、大変でもそもそも何のために祈るのかと常に初心を毎回思いだし、自分で考えを深めて今此処に心頭身一体に定めて行動しなければ最初の定義した意味から次第に外れてしまうのです。

本質というものは、毎回何かを取り組む前に自分の頭で考え抜き、心で定めたところを思い出し常に初心を忘れないようにしなければ辿りつきません。

言われてからやるとか、頭で分かったところでやるとか、それは考えないことでラクにはなりますが、そのラクこそが遣り甲斐や生き甲斐などを見失い、受け身になり楽しくなくなる原因になっているのです。

考えずに流されてしまう毎日ではなく、自分から考え抜いてでも流れに乗って味わっていこうとするのでは同じ旅路であってもそこに一日の充実があるかどうかが決まってしまいます。同じ積み上げるのならば、無機質に積み上げるのではなく、大切に積み上げていきたいと願うのが自分の人生です。

それに周りにあわせて他と比較して生きるのはラクですが、本来の本懐のままで自分を遣り切ることこそが人生の醍醐味であろうと思います。今に生き切るというのは、なぜこれをやるのかを常に自問自答し自分の頭で考え抜き続けるという実践を行うことでしょう。

「あなたは最初なぜ昔に自分がこの今の姿を決めたかの理由を忘れていませんか?」
「あなたはそもそも初心がどのようであったのかを忘れていませんか?」

常に自問自答は、自分に問いかけ自分が応えることでふり返りが正しくなります。

本当の問題は、何のためであったのかを流されて忘れてしまっていいることかもしれません。 いちいち忙しいとか疲れたとか、時間がないとか場所がないとか、ないないないないという根本がない言い訳にかまけて、自分で常に考えるのを怠らないように日々新たな実践に心を籠めていきたいと思います。

日々を澄ませていくためにも、内省を怠らずに本質に帰りたいと思います。

修身とオープン

オープンになるということは大切なことです。このオープンとは、心と感情の開放のことを言います。そうすることで、自分自身というものの心を澄ませて感情も澄ませていくことができるからです。その両方を磨くということが即ち、オープン=素直になるということです。

論語の大学に修身についてこう書かれています。

「其(そ)の身を修(おさ)めんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の心を正しうす。其(そ)の心を正しうせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の意(こころばせ)を誠にす。其(そ)の意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。
物格(ただ)して后(のち)知至る。知至りて后(のち)意(こころばせ)誠なり。意(こころばせ)誠にして后(のち)心正し。心正して后(のち)身修まる。」

修身の一部の抜粋からの意訳ですが、身を修めるには心を素直にしていくこと。そしてそれはまず自分の感情を澄ませて正直にしていくこと、正直にするには知を本物にしていくこと。知を本物にするのは、自らを誠心誠意、本心本意のままで在るようにしていくこと。そうして自分が素直に自然体でいるならば知は本物となり、そうなれば感情も正直になる。感情が正直になれば心も素直になる。そうなってはじめてその身が修まるのであると書かれているように思います。

これは簡単なようですが大変難しく、人はどこか他人にあわせて自分を決めているものです。つまりは自然体であろうとするよりも、無理をしてどこか正直ではない自分を演じるものです。良く見せようと思ったり、価値を下げないようにと我慢しているものです。

これが悪いとはいわないのですが、そうなることでオープンではなくなれば余計に身が修まらなくなるのです。オープンでいるというのは、感情をそのままに表現することを大切にしていくということ。つまりは、嬉しい時、悲しい時、辛い時、その自分をそのままに周囲を信頼して開放してもいいと安心している自分があるということ。

そして心がいつも穏やかで澄んでいるならば、その感情も決して周りを傷つけるようなものにはならず、穏やかに弱い人たちを助けていくような勇気になるはずです。

オープンでいるということは、何でも話してもいいという姿勢を自分がいつも周りに示していることです。自然体になることが私にとっての修身ですが、それは仲間にいつも心を開いて自分の感情も含めてオープンでいることのように思います。

素直になれば正直になれば、無茶な事や無理なことを誰かに押し付けるようなことはしなくなるものです。修身とは、本来の明徳や玄徳といったその人がそのままに備えている本来の人格、もっと平坦にいえばその人の魂の個性というようなものを如何に発現させていくかをいうのです。

自分らしさというものは、どこか外に探しにいくものではなく、本来は本物の自分を発掘してそれを周囲へ及ぼしたときに出ているものです。

素直で正直でいるというのは、自らが安心しオープンでいる実践のことでしょう。今の時代の修身とはオープンであることが本質の維持です。常に矢印は自分へ向けて、自らが閉塞状況をつくらないように注意して身を修めていこうと思います。

文明の今

約5000年前くらいまで遡れば、世界では様々な文明が発展していました。エジプト文明やメソポタミヤ文明、黄河文明、インダス文明など四大文明をはじめ、その他でも大小の文明が発展していました。

文明とは何かと言えば、「人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす」(goo辞書)とあります。

日本では縄文文明とも言えるものが、青森の三内丸山遺跡の発見により見直されています。気候の変化にあわせて、人間は大移動をしてきました。それは食べ物を求めての旅で、その気候と風土に恵まれた場所で長い時間を生活できたのです。

もともと少しでも今よりも善い環境を求めては、新天地を開拓しながら歩んできた歴史があります。その最適な場所も、1000年単位で時間が経てば住みにくくなりまた新しい場所へと移動するという具合です。

現代の私たちは、様々な科学の発展により電気から石油、ガスなどの資源を用い、環境に左右されずに生活できるような便利なものを開発してきました。そのことで多少の環境の変化があっても、工夫してその場所で生活できるからこそ人口が増加しているともいえます。

ムラやクニという単位をどこまで広げていくのか、そしてその関係をどう他の国々というまとまりと交流し交易し維持していくのかは、かつての人達から学ぶものも多いように思います。

しかし今は圧倒的に人口が増えて、食糧が確保できているから成り立つものもあり、もしも食糧がなくなれば場所を移動しだすようにも思うのです。この縄文文明も、その終焉は気候の変動であったと推測されています。

次第に寒くなってきて、栗や果実の実がとれなくなり次第に暖かい場所へと求めて移動したともいうのです。かつてが、どのような気候であったのかはわかりませんが地球は生きているのですからこの先も環境の変化は已まないのでしょう。

気候が常に変化していくように、時代や時流も常に変化しています。この先の未来がどのように変化するのかは、この今をよく注視し、歴史や文明の辿った経過をよく観て確かめ、順応していくことがいいように思います。

貧しい時の集団の助け合いと、豊かな時の集団の助け合いの持つその意義をみつめ、本来の人間が何を規範として長い年月を暮らしてこれたのか、まだまだ調査していきたいと思います。

脈々と流れる自分のお役目

私達の先祖たちがどのような道を辿ってきて今があるのかは古事記の中の物語や、神話、そしてかつての遺跡から考察することができます。

何かの出来事があったとき、どのような考え方をしたか、どのような思想をもって取り組んできたかを知るのです。今の私たちが生き残っているというということは、その思想が根底に備わっていてそれがあるから私たちが今も発展を継続していくことができるのです。

その思想とは何かと言えば、私たちが日本人らしいと世界で評価されているところのようにも思うのです。それは日本人の道徳観や、民族観、文化観からも顕われています。

例えば、譲り合いの姿でいえば困っている人がいたら放っておけず無条件でその人たちの世話をしたという話は地域のいたるところに残っています。また、子どもっぽい民族で真似好き、地道に正直に何でも受け容れて取り込んでいくことも特徴ですし、おもてなしや礼儀作法、風情や情緒を自然に愛でる精神なども持っています。

こういうひとつひとつの中に、私たちが先祖代々受け継いできている根本の思想があるのです。そしてこれを日本らしさとも言うのでしょう。

私達の先祖たちは、権力で人を使うのではなく思いやりで皆と暮らしていました。それは神話や遺跡、文化からも垣間見れます。震災の時や、有事の時、日本人が慎ましく謙虚に譲り合い助け合う姿は常に世界では高く評価されるのも日本人らしさを見るからです。

私達にとって当たり前と思うことの中に、私たちのルーツがあります。この当たり前をどれだけ今の時代に発掘して還元するかも、子どもたちの仕事をする今を生きる私たちの大切なお役目であろうと思います。

自らを正しく伝承していくというものの大切さは、その時代時代を生きた人たちの使命です。間を取り持つことではじめて人は人になるからです。自分のことばかり考えて自己中心的な人が増えてきて、自分のことばかりに時間を使おうとする利己的な社会になってきましたが、善く周りを見渡せばちゃんと日本人らしい実践を怠らずに流されずに自分を持っている人たちがこの時代を根底で支えています。

恩恵に感謝し、その恩義に報いるためにも先祖から代々守り続けてきた真善美を継承し、その実践を自らの日々を通してカタチに換え、いつまでも子どもたちに誇りと自信を譲って生きたいと思います。

日本人として当たり前のことをもっと大きく深く引き出して、脈々と流れる自分のお役目を全うし、未来や世界の御役に立つために学び直していこうと思います。

自発

自発というのは誰かのために自ら進んで何かを考動することと言います。

これは自分の中で何をすることが役に立つのかを自覚するから芽生えていく生長のことであろうとも思います。全ての生きものは、この自発性を備えているもので自然の中を見渡していても自らが何をすることが善いのかを知らない生きものはいません。

しかし人間は何かを教え込まれ刷り込まれることで我慢を氏そして我儘になることでこの自発性というものが失われていくように思うのです。

そもそもこの自発の発とは何かと定義すると、私の中では本当の自分の心の奥底から発することをいいます。それは呼吸をするように、また血液を循環させるように、または昨日書いたような感謝の本体から発信されてくる発動のことです。

難しい言い方になると、無や空から突然起こってくるようなイメージのものですがこれが自発したということになるのです。直観などという言い方も近いかもしれませんが、言葉で説明するには限界があるのもこの自発という真意です。

自発性というものは、見守ると常に同居しているもので子どもを丸ごと信じてそれをどのようにすれば役に立つかを考える事です。その人がどうしたいのかをよく観て、それを実現するにはどうすればいいかを具体的な仕事で活かすことのように思います。

私達の会社でも発酵というテーマで取り組んだり、日々の記憶や記録を誰かのために発信したりするニュースに取り組み実践するクルーがいますが、すでにその取り組みの実力は群を抜いて発揮しています。最初は分からないままに他動によって始めたにせよ、それを信じて積み上げ取り組む中で自発性というものは引き出されていくものです。

自発性というものは、互いに信じて合っている中で育まれるものなのかもしれません。自発性を持つもの同士は信じ合っているものだから、その信が顕われることが実力というのでしょう。将来のことを信じ、その人が最終的にどのようになりたいかをよく観て、その人に今、必要なことを見守りながら一緒に取り組んでいくということ。その学びの尊さを感じます。

何よりも今の集積を通して、自分が御役に立てていることを日々に自覚するまで遣り切ることが、自発の種に息吹を与えることなのでしょう。そうしてそれが共生の原理であり、人間の社会が持つ「つながり」を味わえる極楽の境地かもしれません。

集団で生きることで発展してきた私たちの祖先は、何を大切にしてきたのか。今回の連休のテーマにしています。

何を与えていくことができるのか、与えられたものが何か、常に自問自答して自発に気づいていこうと思います。

感謝の本体

今年始まった実践に有難うノートというものがあります。
その日その日の有難うという感謝を記していくのです。

よく考えてみるとすぐに理解できるのですが、人はひとりでに育ったわけでありません。多くの人達の見守り、そして誰かしら何かしらの御蔭で今まで生きてこられたとも言えます。

食べもの一つであっても、住環境一つでもあっても、そして生活できることでもそれは本当に数多くの恩恵の中で育てていただいてきたのです。

何でも自分の思い通りにいくことができることが権利としてあると思い違いをするような自分中心の考えに執らわれてしまうとこのような「当たり前」であることすら忘れて不平や不満、その他の自分の身の上の心配に執着してしまうものです。

感謝の本体とは何かと思えば、これは当たり前であることに気づいていることだと思います。

ノートを実践すればするほどに、書き記すことは何も特別ことを与えてくれたとか、夢が叶ったとか、奇跡が起きたとか特異だったことを書いているのではありません。むしろ、実は気づかないだけで身のまわりに存在している当たり前の出来事を当たり前ではないと感じた時のことばかりを書いているからです。

感謝の本体とは、この当たり前にしないという澄んだ本当の自分の顕現です。自我に囚われ、感情に心奪われ、日々の当たり前を当然だとし、傲慢になってくればそこに反省も内省も、そして進歩も成長もなくなるように思います。

謙虚さというものは、どれだけご縁に感謝し、日々の気づきに感動し、利他に生きる感激を味わうことかとも思えます。

もしもこの日が最期だとしたら、何をするだろうかと思う時、一番最初に気づけるのは身近な当たり前に気づきそこへ感謝の行動を示すことではないかと思うのです。そういう日々を当たり前にしていかない実践のその最中にこそ最善の人生があるように思えます。

つい受け身になると、逃げや不安、迷いや惑いに流されてしまいますがその時こそ感謝の本体を伴って道をひらいていく試練だと実感することだと思います。一度しかない人生を攻めるということは、二度とない今を大切に過ごしたという、生きていることに感謝できる今に全身全霊を傾けるということかもしれません。

できることというのは、実は遠くにあるのではなく、身近な小さな行為にどれだけ大きな真心を籠めたかというものによります。大切なものをすべて大切にしていくのは、大変な積極実践が求められますが怠らずに歩みたいと思います。

新たな挑戦~原種の旅~

昨年は、稲が穂イモチ病にかかり収穫がうまくいきませんでした。今年は古代米(紫米)に挑戦しています。この古代米とは、稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる米のことです。

もともと野生型の稲の種子は褐色や黒紫などの色がついているものが多いのですが、人が栽培することによって無色(白色)の種子へと変化していったと言われています。

このことを「栽培化」といって現在の稲は、この栽培化によって白く粒そろいで栽培しやすい性質になってきたとのことです。野生化と栽培化の差とは、どのようなものでしょうか。その差を看取る予定ですが違いを視るより同じものを探したいと思います。

以前から野生種をそのままに育ててみたいという気持ちもあり、今回は野生種を野生種のままに育てていくための挑戦を自然農の畑で行う予定にしています。

畑の一部に、水が溜まっている場所があり、その場所をうまく活用してそのまま野生で育ててみるときと、庭のビオトープで栽培しているものと比べてどうなるかも見ものです。

昨年の失敗を、今年のテーマに換えて学んでいくということは楽しいことです。ちょっとやそっとではへこたれないというものは、稲や米、その他の野菜と同じで、曲がりくねっていても最終的には天に伸び、実をつけ、種になるのが自然です。

自然農では、曲がっていた方がより生命力が強いと言います。曲がりくねるのは、思った通りではなく順応してでもへこたれないで諦めないで遣り切ったいのちがそこにあるからでしょう。

今年の古代米は、原種と栽培種というものを考える上で興味深い時間を過ごせそうです。

古代米は、一般に、生命カが極めて強く、荒れ地で無肥料・無農薬でも丈夫に育ち、干ばつ・冷水などにも強い性質を持つと言います。

そもそもの姿から、現代の姿を学ぶことは、種のグレートジャーニーを味わうことです。久高島に訪問してルーツを辿った旅も、今年の挑戦で実になっていきます。人生にはまったくの無駄がない。それを感じつつ、新たな挑戦を楽しみたいと思います。

 

知ると分かるとは

物事を知るということは大変難しいことです。そしてそれを分かるようになるのはさらに難しいことです。

例えば、物事を知るというのは簡単に分かったから知ったというわけではないことがわかります。表面上のところだけを頭で理解していることと、それをどれだけの深さで受け止め受け容れ自分の体験や経験で知るというのは一緒の意味ではありません。

情報化社会の中で、頭の中で別の世界を持っている人たちが増えています。バーチャルとリアルがごっちゃになり、この知るということができない人たちも増えているのです。

知るということは、「経験を積む」ということです。その経験を積むというのは、こういうことだろうと単に知ればいいわけではありません。本来の知るというのは、そこから全世界の問題を見抜いたり、物事の本質を掴み取ったり、その知ったことから自分の世界での真の役割を見出していくことや、世界の苦しみを共感し自分を磨いていくこと等々、知るというのは自分の中で真実を知るということなのです。

そして分かるというものが何かといえば、これらを「受け止め・受け容れる」ということなのです。ちょっと知っただけで分かったとなるのは、真に経験を積んで実践をしているのではありません。それは単に知ったことを分かった気になっただけなのです。

分かるという行為は、大変難しいもので分かるというのはそのものの問題をありのままに受け止め、自分の我をも捨てて受け容れたときに分かったと言えるからです。分かった気になっているのではいつまでもバーチャルの世界から抜け出せません。現実を受け容れるというものは、全ての問題に逃げずに直視する必要がありそれをしてはじめて分かることができるからです。

ひとたび、真なる知ると分かるができればその人はそこから自他一体の共感、そして理念の実践、伝道していくことの3つのことが開始するのです。

世の中を変えたいと願う心は、以上の3つの実践に必ず辿りつくように今では思います。物事を知り分かるためにも、本当のことを知るための真摯な精進、本当のことが分かるための本気の内省を継続していきたいと思います。

夢と目標=利他と御蔭様

昨日、今年度初のGTセミナーが開催されました。

子どもの主体性や自発性を見守ろうと志した方々が全国から一同に集まります。いつもは、個々の園で関わることが多いのですが全国にこれだけ真剣に保育を考えて考動している人がいるということは本当に励まされ元気を頂けます。

よく考えてみると、人は夢とか目標とか自分のことばかりを考えるものです。自分が自分がと自分の我を通そうとすればするほどに、余計に本質から遠ざかるもののように思います。

しかし誰かのためにや、本気で自分を活かしてくださった人たちへの感謝を思い、その恩義に報いるために今与えていただける機会を一つでも多く自分を出し切って誰かのために尽くしていこう、貢献していこうとした先に本来の夢や目標というものに出会うのではないかと私は思うのです。

最初から夢も大きかったわけではなく、目標も高かったわけではありません。未知なものに思いを馳せることも自分のやる気の持続やモチベーションの高揚にはいいのですが、実際は人は心の奥底から込み上げてくる勇気の源泉は今、御役に立てると自分自身で感謝を実感するときにこそ出てくるように思います。

自分の存在が誰かのためになるのなら、役に立ちたいと願うのは大義です。どうやったらその人が今、もっとも誰かの御役に立つようにできるかに導くのがリーダーの使命のように思います。

つい、傲慢になり感謝を忘れてしまうと自分のことばかりを優先したり、自分が考えていることばかりに囚われてしまいます。しかし、これもすべて御蔭様だと実感すれば謙虚に物事を正しくしていくことができるのです。

つい自分がここまでやっているのだからとか、なぜ自分が理解してもらえないのだろうとか、自分のことばかりを考えれば自分が自分我とまた自我に囚われます。それはエナルギーが自分に向けられることで苦しく不毛な日々に変わります。しかしそんな自分のことなど忘れて、大切な目の前の人の理想や夢を叶えようと自分を無くして自分を尽くすほどに真心を籠めて行動したときはじめてその自我が消え穏やかな本当の自分に出会うようにも思います。自分の夢ではなく誰かの夢に協力し貢献するときこそ本来の自分が発揮できるという人間の真実があるのです。

実際は、夢や目標とは自分が先ではなく誰かの御役に立とうとすることで出逢うものなのだからかもしれません。自分の10年をふり返ってみても、今回、会場に来たような先生方、園の方々、またそれを実現したいと願う役員の方々、またリーダーが願う夢を私も叶えたいと真摯に取り組んできただけのように思えるのです。

自分の夢や目標は後回しにしてでも、不本意なままに矛盾を抱えては歩んできたこともありましたが、結果を観れば本当の自分が心に描いているような善い人生を歩ませてもらっていると心から感謝できるのです。自分のことよりも目の前のお客様のためにと尽くしてきたから今の自分があるのかもしれません。

何か自分の人生に不満や文句があるときこそ、人は夢や目標を追いかけてしまうのかもしれません。人生が満足しているのなら、妄想は要らず夢や目標は常に今への感謝からいくらでも実感できるからです。

子どものためといいながら、子どもの御蔭で自分があるということの事実。誰かのためといいながら、実はその誰かの御蔭で自分があるという現実。そう思えば御蔭様、御蔭様と生きていく人こそ、真に夢と目標を語れる感謝の人だと私は確信しています。

人間は生涯において利他に生きる人が夢を持ち、そして御蔭様でと感じる人が目標を得るのだと思います。生きている時間をどう使うのかは自由です、己の野望と他人様への思いやりのバランスは今の選択の集積が決めるように思います。

会場の先生方は、みんな夢や目標に向かう希望と笑顔に溢れていました。自分のやりたいことよりも自分を遣る事の方を構わず実践するというその勇気。

人のために働ける今に感謝できるということは、何よりも素晴らしい実践だと思います。何事も、来たものを素直な心で受け止めて学び直していきたいと思います。

柔軟必要性

どの時代も、時流があり、いくら昔正しかったと言っても同じことが起きているわけではありません。なので何かの真理を掴んだとしても、今の時代に置き換えて咀嚼したものを提供していかなければ先覚者がいくら認めた言葉であろうともそれを活かすことはできません。

今の時代は、たくさんの本が流通し真理や法則は出回っています。

しかしそれをカタチにしようとするならば、今の時代なら何をすることがその真理や法則を行うことになるのかというのは自らが気づいて具現化していく必要があるように思うのです。

例えば、吉田松陰の松下村塾では常に先生が生徒に、現代ならばこれはどういうことかということを生徒に投げかけてそれを議論したとあります。これも、大切なのは真理に従うのではなく自らが真理を体現せよとの教えがあるように思うのです。

今のようにスピードが速い時代には、常に新しくしていくことが必要です。ちょっと前のことがもう古くなるという意識の変化の波の中で、かつてのようなことを同じようにやっても、かつての本質が維持できるものではないからです。

常に本質を維持するには、カタチを変えて現代に合わせていく必要があるように思うのです。その時代時代に、人が顕われてくるのはそうやって道は変化しその変化にあわせて新しい人が必要になるからです。

世代が変わっていくのも、新しい人たちが新しい時代の本質を維持していくからなのかもしれません。そうしてそれは、それぞれの役割や役目を全うせよとの天意のようにも思います。

循環していく社会の中で、ちゃんと役目があるからこそ自らがその役目を前の人から受け継ぎ改善して適応させていくという自立があります。気づきを正しく咀嚼するということは、その真理は今なら何をすることがそうなのかを考え切るということです。

常に本質的であるには、自分の方のズレを修正していく必要があります。それは中心をどこにするのかに似ているようにも思います。

初志貫徹することは、決心していますが時代を観て自分の方を柔軟に変化させていきたいと思います。