実践と徹底~智慧の会得~

素直な人は善いと思ったことはすぐにやりますが、同時に徹底してやるというのがあります。それは善いと思えるようになるまで徹底してやりきるということです。こういうコツを掴んでいる人は、あらゆる体験や智慧が自分のものになっていくものです。知識ではなく智慧になるのは、それは体験を徹底して深めることに由るものです。

今は知識として単にいいと思うものばかりを取り入れる時代だとも言えます。ちょっとテレビや本で善いと思ったものを簡単便利に取り入れますが、それでは表面の知識をなぞっただけで智慧になることはありません。

よく古来から「カラダに沁みこませる」や、「そのものと一体になるまで」という言葉がありますが、頭で考えてわかる程度では分かった気になったとしても「ものになる」わけではなくそんな知識では他の人に伝えることもできませんし、大切な気づきを同じ高さで理解できるわけでもありません。

まさに「徹底する」ということは何よりも大切なことであろうと思います。

炭一つであってもどんな実践をはじめるにせよ、他人から「そこまでするか」と思われていても「そこまでするから」気づくこともまたあるのです。徹底という意味は、辞書をひくと、中途半端ではないこと、底まで貫くまで遣りきることという意味です。他には、すみずみまで行き届いていること、そして最後まで遣りきることと記されます。

まさに「底まで貫く」と書いて徹底ですが、もっともやってはならないのはやったりやらなかったりすることや、途中で分かった気になって深めることをやめること、実践にならなくなってしまうことのように思います。

善いと思ったことをすぐにやり、善いと思ったことを徹底してやる、まさにそれが素直であり謙虚である姿勢であるように思います。御縁は常に一期一会、善いと思う御縁をいただいたのならそれは唯一無二の人生にとっての祖神からの「大切な教え」であり篩にかけられた有難い自然の智慧です。

凡事を徹底できるように、一つ一つの実践を丁寧に貫いていきたいと思います。

場チカラ

先日から社内の場力を高めるための工夫を進めています。発酵場というものもそうですが、場というのはチカラです。その場が善くなるというのは、チカラが集まるという意味でもあります。

ここで場力について少し書いてみたいと思います。

そもそも人間にとっての場とは何か、それは何かが行われているところのことです。その場とは、料理する人は料理場とも言うし、工事する人は工事現場とも言います。場とは、何かが行われている場のことです。

その場がどのような場になっているか、それはそこで生きる者たちの生き方の場でもあります。その場は、それぞれの生き方が集積することで場にチカラが集中していきます。

例えば、暮らしというものがあります。その生き物たちがどのように暮らすかでそこに場ができます。これは人間に限らず、山川草木昆虫に至るまですべての生活が場に顕れてきます。

その生き方が自己中心的であればそれにそった場が現れますし、共生し貢献するような生き方があればそれに沿った場が顕れます。掃除一つをとっても、綺麗にすれば美しい場が生まれますし、ゴミで溢れかえっていれば粗末な場が生まれます。そしてそれは次第にそこで発生する関係性にも影響を与えていきます。

理念が初心というものは、そこに場を創ります。場チカラというのは、そこで実践したものたちの集積力によって場が顕れていくとも言えます。どんな場面でどんな場所でどんな場合にその人がどんな生き方をしたかが出て来ます。場を和ませる、場をわきまえる、場を活かす、場を明るくする、その場には、その場その場で発した場チカラがその場に集積するのです。

この集積力とは求心力とも言えます。地球が中心に引き寄せていくチカラの御蔭様で私たちは宇宙に飛び散ることがありません。それは地球の地場に守られているからです。この求心力は、活かそうとすることで場ができているとも言えます。

すべての生き物は育てるものではなく育つものです。教えないで育てないとしたら、育つわけですからそこには場があったということの証になります。場があるから育つのですから、そこで育つ生き物たちには場を明らかにする責任があります。場チカラがあるというのは、場に顕れるほどの生き方の実践が集積され文化になったということです。

その人の理念・初心・祈り・願い・思いが意識になり、場が顕現します。

つねに場を高めていくために、精進して沢山の御縁のつながりから発生する場チカラに感謝しつつ、その場チカラをお借りして子どもたちに伝承していきたいと思います。

和の家

先日、和の部屋について相談があり色々と深める機会になりました。和の部屋といえば、通常では畳があり押入れや襖があるものを和室だと思っていることがあります。

しかし畳も昔はなかったもので、押し入れや襖もわりと歴史的には古いものではありません。実際の日本はじまりの住まいは何か、それは古事記に書かれています。

「伊弉諾命、伊弉冉命の二柱の神はおの馭盧島に天降りして其處に先ず天の御柱を御作り、倶に御住ひになった。八尋とは一尋、二尋と數える八尋にあらずして八は彌と同じく數多きをたたえ唱うる言の葉なれば即ち幾十尋の御殿の意なり。彌栄なる館なるにして我が國初めての御殿なりせば家屋建築の始めなり。我が國の神々達は穴に宿る神に非ず、木の枝に巣造るに非ず、程高き営みの神なり。」

イザナギとイザナミが、はじめて高天原に降りてきて造営した住まいが私たちの祖親のはじめての住居「八尋殿」です。一尋とは、人が手を拡げたときの寸法を言います。これを八尋とするとちょうど畳二畳分くらいのサイズになります。この八は、末広がりの八を意味しますからここの住居から無限に広がりはじめたということです。

私たちの祖親の家屋建築の原点はここです。私たちの親は穴に住んだのでもなく、木の上に巣をつくったのでもない、天に向かって真っすぐに伸びた柱を地に立て、床を建て住んだということです。

今の時代は、高層ビルや広大な豪邸が価値があるかのように売り買いされていますが本来の住居はとてもシンプルなものです。

例えば生き物によっては、泥を固めて巣にしたり、草を丸めて家にしたり、石を積んで塒にしたりと、それぞれに住まいのカタチは異なります。私たちの先祖が、何をもって住まいしたかを知ることはとても大切なことだと思います。住まいの出発点を和合生活にしたこともまた私たちの先祖たちの真心だと思います。

そして和とは何かと考えるに、如何に本来の先祖たちが伝承してきた暮らしに親しみとけ合うかということではないかと思います。それは例えば、共に暮らすものたちと如何に親しみを持っているか、そして心安らぎ仕合わせを感じるか、そこには余裕と真の豊かさがあるように思います。

豪華絢爛で贅を究めた芸術作品のようなところを住まいというのではなく、人々の暮らしや生活が息づく場所、そこがまさに家庭であり、たとえ独り身であったとしても共に暮らしているいのちの暖かさに触れ、深く味わいながら日々を豊かに過ごしていることが本来の住居であり家であるように思います。

そういう住居を持つ人は、和の心を持つ人とも言えます。秋になれば秋をしつらえ、冬には冬をしつらえる。まさに、小さな四季の変化をも愉しみ、部屋の中の花一輪にいたるまで愛でる澄んだ心があります。心の手入れというものは、日々の暮らしを愉しむ真心にあるように思います。

和室というものの本来の姿の本質は、「暮らし」の中にこそあるということが私が考える和の家です。和をもって尊しとなすとといったのは、聖徳太子ですがその聖徳太子は家屋を大切に手入れするように寺院を建築したといいます。法隆寺をふくめて、奈良のあちこちにはその暮らしが遺っているようにも感じました。

子ども達に本当に譲っていきたい伝承したいものを、自分たちが忘れないように生きていきたいと感じます。改めて日々の暮らしから、生き方を見つめ直していきたいと思います。

祖霊の真心

私たちの先祖は自然崇拝といって、自然の中に神様を見出していた民族です。古神道においても、巨石、巨木をはじめ自然の中にある畏怖を感じ、畏み奉り祈りを捧げてきました。そこには精霊というような、無生物の中にあるいのちを感じており、例えば日、月、星、水、火、土、風、光、闇、金、石といった物の中にそれぞれのいのちが宿りその和合によってこの世が成り立つことを自覚していたのではないかと私は思います。

収斂結実という言葉があります。

収斂とは散布的に位置していた複数の物を一箇所に集めるという意味です。結実は、その結果として実ったものという意味です。自然界には多様性といってすべてに分かれていく作用と、同時に収斂性といってすべてのものが一体になっていくものという作用があるということです。言い換えれば、宇宙が多様に膨張しつつも星々やブラックホールが重力と引力で結集していく作用があることに似ています。

私たちのカラダも、一つ一つの臓器はバラバラですが一体としてカラダは成り立ちます。部分だけを切り取っても身体は機能せず、実際には収斂して結実しているのが今の姿だとも言えます。

そしてこれは御縁の世界も同じものです。

数々の御縁が織りなして今があり、その御縁が結実するから今の自分のいのちがみのります。自然崇拝というものは、同じように巨石が神という意味ではなくそこの精霊から全体を観通すチカラがあったことを言うのではないかと私には感じます。

かの弘法大師空海が、山々を歩き、山々の中に神仏を彫り込みそこに祈るようにと里の人たちに伝道して歩きました。自然の中にあって、自然が顕した精霊を人々に伝えるという原始の信仰の姿を感じます。私自身も、土に触れ、風に吹かれ、火を仰ぎ、水に洗い、木と暮らすことで自分自身が自然と一体になり収斂結実していることを実感します。

太古の昔、私たちが言葉も持たないほどの時代はきっと五感を使い事物に接し、論理ではなく直感をもってすべてのものに触れていたように思います。西洋でも東洋でも世界では、どこにいっても太古の信仰のカタチはすべて同質のものです。それは自然物の中に見出しています。それを否定することで、人間はより自分の都合のよい方へと信仰のカタチを変えてしまったのでしょう。

万国共通し、悠久の歴史にも錆びつかず、自然に反することがない教えこそ真実の学問を伝道しています。遺跡の中に残存する、祖霊たちの思いや真心を受け取れる自分を磨いていきたいと思います。無字の経文を受け取り、子どもたちに祖霊の真心を受け渡していきたいと思います。

見守り愛

自然と人間というテーマで考えていく中で、自然の慈しみの愛を感じつつ如何に人間を愛すかということに行き当たります。そしてそれは本来は分かれているものではなく、自然と人間とは御互いに愛が深い存在であることに気づくものです。この愛のつながりとは何か、それは信じ合うということです。

それは子どもたちの中に顕れてきます。

子ども達は好奇心で生きています。様々なことを好奇心を働かせて冒険していきます。時として危ういこともあれば、時として手を出したくなることもあります。しかし子どもはそのダイナミックな自然の中で自らで大切なことを気づき学んでいくものです。

それは直接的に論理を使い教え込まなくても、自然に大切なことを周りから感応し自らが気づき真実を掴んでいくものです。大人たちの心配をよそに、子ども達は様々な遠回りをしては大切なことに辿りつきます。

これは学びが直線的ではなく、混沌としていることを証明しています。例えば、思いやりということを学ぶのに教科書で教えれば人の嫌がることをしないと言えばいいのでしょうが実際には子どもは嫌がることをしたり喧嘩をしたり問題を起こしたり、そして泣いて悲しんで苦しんで笑って微笑んでと紆余曲折しながらついには思いやりに辿りつきます。

こちらが如何にそれを静止しても、それは静止できるものではなく学びたいからこそ事件を起こして経験をしたがるとも言えます。そんなとき、私たちにできるのは見守ることだけです。

この見守ることだけの時の自分は、自然の愛と人間の愛が一体になっていることに気づきます。人類を愛するからこそ、見守ることを拡げようとし、自然に見守られていることを自覚するからこそ私にできるのは同じように見守ることだけです。

どんなに遠回りをしても必ず気づくと信じている存在、それが見守り愛なのかもしれません。信じているからこそ、体験をさせたいと思う事。信じているからこそ、経験を許したいと思う事。これは大人の思い通りではないですが、自分が子どもの時もきっと同じように大切なことは自らの好奇心を信じて学んできたはずです。

人類がどんなに遠回りをしても、いつの日かは大切なことに気づくと信じること。

今の時代を生きる私たちができるのもまた見守ることだけかもしれません。

見守るというのは何もしないわけではありません。見守ることだけということの覚悟は、本気で見守るということですから当然、人類の先人となる私たちが一期一会に自分自身を世界の一人として独立自尊し、道を歩み切る実践を子どもたちに譲っていく必要があります。

見守り愛に包まれた自分をそのままに、子ども達を見守り愛で包んでいきたいと思います。

自然生態系を育てる

田畑に出れば様々な虫たちや動物たちが繁殖していることに気づきます。山林の中とは異なり、人間が作物をつくるために作業している場ですからそこには人間を中心にした独自の生態系が存在しています。

例えば、ピーマンやトマトを育てればそれを食べるカメムシが集まります。カメムシが集まればそれを捕食する虫たちが集まってきます。他にもそこに育てる野菜の種類によっては同時に増えていく虫たちもまた集まっていくのです。

このように生態系は自分たちが育てるものによってそれが餌になり、その餌を食べるものたちが増えることでまたその増えたものを餌にするものたちが集まっていきます。

一見、田畑では何も起きていないように観えても確実にそこには、人間の創りだした環境が出来上がっていると言えるのです。そうやって自分たちが用意した環境の中では、一時的に大量の虫たちが発生します。餌があるから増えることが出来るのですが、それを減らすために農薬をまいたりします。

実際は、少量ならば増えないものを一つを大量に育てるから別の一つも大量に増えていきます。そうやって増えていけばその周りにあった虫たちや動物たちの生態系も変わっていきます。本来、そこになかったものを育てるということは生態系を変えてしまうということでもあります。

田畑をはじめて何を育てるか、それは生態系を育てるとも言えます。それは自分のカラダにも言えるものです。人間の身体の中には無数の菌類が腸内で生息しています。その菌類の餌を何にするかは、腸内の生態系を変えてしまうことです。餌がどのようなものを食べ続けるかで腸内の菌類のバランスも変えてしまいます。あまりにも腸内のバランスが崩れるとお腹を崩しますが、これは田畑でも同じことが言えます。イナゴが大量発生したり、特定の虫や動物が現れて荒らされてしまいます。

自然界というものは常に生態系が関係しており、その場所や広さ、周りの環境と密接なのです。私たちが作物を育てるとき、それは同時に生態系を育てているとも言えます。どんな生態系を育てていくかは、その人の生き方がきめるとも言えます。どちらにしても、大量生産大量消費は同じく大量の生態系を産み出しますから生態系を乱す範疇を超えてつくるということはそれだけ生態系に対する認識が必要になろうと思います。

自然の許容範囲を知るということは、生態系を学ぶということに似ています。どこまでが許容範囲なのかは、周りへの思いやりに比例するように思います。分を超えるとすぐに問題は発生しますから如何に謙虚であるかは、自然界の理法に適うかどうかを左右します。

自然は正直ですから、謙虚である意味を正しく学べます。子ども達のためにも生態系を思いやる農法を学び直したいと思います。

自然の戦略~棲み分けの音色を聴く~

生き物たちは同じ地球で生きていますが、それぞれの時間で棲み分けをしているものです。これはもし同じ場所ですべての生き物が活動するならば、雑多大勢の生き物たちで混乱してしまいます。

同じ地球の中で如何に御互いが同じ場所で生きていくかは、それぞれの自分の特性に合わせて棲み分けしていくものです。

一日の中でみても、かなりキメ細かく時間帯で活動が分かれます。例えば秋の虫でみても、夜に鳴くコオロギやキリギリスをはじめ、かなりの虫たちが秋の音色を奏でます。その中でも夕方から夜に鳴くもの、夜中から深夜に鳴くもの、そして朝方に鳴くものがいます。もっとも虫の音色が静かな時は、山の鹿や猪など野生の動物たちが活動します。

同じ音を聴いていても、耳を澄ませばそれぞれの時間帯にそれぞれの場所を棲み分けるのです。自然界は極力無駄な戦いを避けようとします、それは天敵というものを自覚するからかもしれません。共生とは、助け合うことですから助け合うことを優先すればするほどに棲み分けは成り立つのです。

そしてこれは人間でも同じように思います。わざわざバッティングするところにいて混乱するのなら融通無碍に自分の方を戦わない方へと移動していく・・・これを戦略ともいいますが、生き物たちはみんな自然の戦略を自分たちなりに持ち歴史を生き延びてきたとも言えます。

そう考えてみると、自然の絶妙のバランスとは自然の戦略に存在しているのかもしれません。御互いに助け合い、御互いに活かし合う、その中に本来の自然というものの姿が顕現しています。

それぞれが助け合う時、もっとも自然は絶妙なバランスを魅せてくれます。自然の音色を聴きながら、如何にこの世の中がいのちに満ち溢れているか、如何にこの世界がみんなで分け合って生きているか、そういういのちの音色が聴こえてきます。

食べて食べられる関係の自然界ですが、余計な分を食べないのも食べる分しか殺生しないのもその根本がいのちの助け合いの中で存在していることを自覚して忘れていないからでしょう。

変に我を捨てるとか、我を手放すとか、頭で云々をぐるぐる回す前に、当たり前の生活を取り戻した方がいいのかもしれません。子ども達に譲り渡していきたい暮らしとは何か、しっかりと深めてカタチにしていきたいと思います。

実法りの道理

昨日は無事に自然農の田畑にて稲刈りをおえて稲架を終えることが出来ました。今年も稲と共に暮らし、有難く稔る御米を見つめながら季節を振り返ることが出来ています。

自然の手ほどきというものは、そこに真実があります。人間によりねつ造されて刷り込まれた世界にあまりにも浸かっていると、何が本当のことで何が自然で何が真実なのかが分からなくなっていきます。特に都市の中のみで生活をし、貨幣経済の中で効率ばかりを優先し日々に多忙で疲弊すると生き方が見えなくなるものです。

そんな時は、かつての祖先たちがいのちを繋いできた仕組みや仕業に触れつつ、心を古代に馳せて今を深く味わうことで本来の共生の意味や暮らしがある有難さに気づけるように思います。

今年の稲からの手ほどきは「手入れ」の大切さです。

今年は、昨年よりも田圃を拡大して倍に広げてみました。昨年と同じ要領で取り組んでみたのですが、どうしても倍になった分、時間もまたかかることで草刈りなどの手入れが半分になりました。すると、終わってみて収量を確認したらほとんど昨年と変わらないことに気づきます。

つまりは、いくら拡大しても手入れを怠れば手入れの分だけの収量であるということです。

自然界は正直で、本来自然の中に稲は存在しているのならば自然の量でしか存在しません。そこに人道といって、人の手が入ることで人が収穫できる量を増やしていくことができるのです。つまりは人が手を入れた分だけが実際の量に比例していくということです。

これは仕事でも同じで、丹精を籠めたり真心を入れて取り組んだ分だけは質量に比例します。それを怠り、拡大しても実際に手を入れた分しか結果も顕れないということでしょう。

この「手入れの法理」は、人道の法則でもあります。量を拡大するのなら、手入れを倍にしていくということ。それは作業を倍にするのではなく、心を籠める容量を大きくしていくことです。言い換えれば、意識を高めて念じていくということです。「稔」や「実」という字も、努力したあとに出てくる言葉です。手を抜くというのは、努力や真心を怠るということでもあります。

手を入れた分だけが必ず実法るという安心感こそ、天道地理の法則そのものです。

改めて自分が何を間違っているのかを気づけるのも、かつての暮らしの中ある生き方や働き方に照らせば自明するものです。自然からの学び直しというのは、何が自分が間違っているかを気づく道です。自分を存在させていただいている自然から、何が不自然で何が自然かを知ることは一生を子どもたちに譲っていくために大切な道理です。

私たちが主食にしてきた御米には「実法りの道理」があり、家祖アマテラスオオミカミの偉大な慈恵と真心が籠められています。その神家一家である私たちは、その恩恵に感謝して子々孫々へとその思いやりをつなげていくのが今の代を生きる私たちの御恩返し御恩送りでもあります。

自然を通して今一度自分自身を正しく見つめ、素直に、謙虚に実践を続けていきたいと思います。

ゆたかな家~暮らしの実践~

海外の格言に「男は家屋をつくり、女は家庭をつくる」というものがあります。これは家を持つということの役割分担を意味するのでしょうが、男か女かではなく、どちらにしても家屋と家庭は家族の象徴です。

この家族というものの定義は何か、それは親兄弟という意味だけではなくそこには「共に暮らす仲間たち」という意味があるように思います。もしも定義を大きくするならば、同じ時代に一緒に生きる地球上のすべてのものたちは家族だとも言えます。

この一緒に暮らしたものたちこそが家族だとしたら、家屋と家庭とはもっとも身近で生活を共にした仲間たちの住まいだとも言えます。それは決して独り身だから家族がいないというわけではありません。ある人は植物と暮らし、ある人は熱帯魚や虫たちと暮らし、その他動物たちと食べ物を分け合い、そして御互いを見守り合いながら暮らします。私の家も、帰ってくれば様々な生き物たちに「ただいま」と挨拶をし、「お変わりはないですか」と健やかで安らかでいるかを確認していきます。それは対話をしているとも言えます。対話がないというのは本当の意味で孤独であり孤立です。自分が共に暮らすというのは、そのものと対話しながら生きているということであり、関係性を結んだ仲間たちとの生活は安心し愉しいものです。

家に帰るというのは、一緒に暮らしている仲間たちに会いにいくようなものです。そこには御互いが思いやり、御互いが必要としあって存在している絆があります。仕合わせというのは、暮らしの中にありますから暮らしを亡くして働くというのはまるで幸せを遠ざけている生き方です。

一家の一員という意識は、周りの仲間との関係性の中で育まれていきます。「ただいま」「おかえり」という、戻って来る場所、原点、自分の心が休まる場所が家だとも言えます。家の中に生きている生き物たちや御縁があったものに囲まれることで自分が活かされ生きていることに気づけば心は自然に安まるものです。

よく孤独死だとか孤立死だとか将来を心配をする前に、まず自分の家がどうなっているか、そして「暮らし」がどうなっているかを今一度見直した方がいいのかもしれません。生き方が住み方であり、家の持ち方が生活の生き方ですから常に「暮らし」は生きていく上での初心ということでしょう。初心がどうなっているかが間違えば、暮らしから遠ざかり貧しくなってしまうかもしれません。いくら豪邸で立派な家でも、そこに暮らしがなければどこかそこに真のゆたかさは感じられません、それよりも質素で小さな家でもそこに「暮らし」があり一緒にいきている仲間がいるのならそこには本当のゆたかさがあり味わい深い「家」があり、見守り合う「家族」があります。

家屋・家庭・家族、それらを結び取り纏めている一家はその人のかけがえのない財産です。その財産に見守られているからこその安心感の中で人は生長し自立し、一生の物語を飾っていきます。そしてどんな仲間たちとの思い出に飾られた人生かは、一人ひとりが一緒に暮らした中で周りの家や家族に顕れてきます。つまりゆたかな人生を送る人には、一緒に生きるものたちとのゆたかな物語、ゆたかな暮らし、そしてゆたかな家があるということです。

一人ひとりのゆたかな暮らしこそが、社會全体のゆたかさを創造していきます。ゆたかさの実践とは「暮らしの実践」ですから、しっかり暮らす人は社会全体もゆたかなものに換えていくように思います。

暮らしのゆたかさが家の象徴であり、その人の象徴ですから子ども達のためにも「暮らし」を丁寧に見つめて実践し、仕合せを味わっていきたいと思います。

住まいと生き様

人はどんなものと一緒に暮らしているかで住まいは容どられていくものです。その人の生き様が住まいには出て来ますから、どんな生き様であるかは次第に身のまわりのものたちに引き寄せられ顕れてきます。

よく考えてみると、人生の御縁も同じくどんな人たちに出会ってきたかが人生の生き様でもあります。その人の出会い歴が、今のその人でもありますからどんな御縁に彩られてきたかがその人生の姿容に顕現します。

そう考えてみると、その人の御縁を辿ればその人がどんな方々に見守られ一緒に生きてきたかといった生き様歴を知ることでその人が一体何と繋がっているかを観ることができるようにも思います。

例えば、住まいでいえば住まいの中にどんな宝物を見つけてきたのか、何を飾り何を愉しむのか、そしてどんな思い出を持っているのか、どんなつながりの中に自分を置いているのか、何を大切に生きているのか、そういうものも住まいから感じ取れます。住まいとは生き様であり、生き方の根本を支えてくれる場所ですからそこには確かな魂が宿るようにも思います。

そもそも宿るという考え方は、人間はこの世に出てきて魂が御身体をお借りしている借りの宿という見方もあります。海辺に住む宿借のように、私たちも魂を守る宿をお借りして生きています。いつかは死んで元に返さないといけない日が来ますが、その日が来るまではお借りして生きていくことができるのです。だからこそその借りの宿の一つでもある住まいを大切にすることと自分自身を大事にすることは分けることはできません。

住まいの中の一つ一つには、御縁に彩られたストーリーやドラマに溢れています。その一つ一つをどれだけ大切にしてきたか、それが愛着だとも言えます。過去の記憶を美化し、今まで恩恵をいただき助けてくださった方々の御縁と御恩に感謝して今の暮らしに自分を見つめることは繋がり(御縁)の中に住まいを置いていることだとも思います。

最近は、住まいにも粗末にする生き方が出てきてすぐに気に入らないと捨てたり忘れたり投げ出したりなかったことにしようとしたりという風潮が多いように思います。不自然に教え込んだ刷り込みから間違った個人主義が蔓延し、繋がりや絆、家族や家といった本来の仲間という存在、魂の御縁をも私物化しているように思います。

どんなものにも、どんな人にも大切なご縁がありますからどんな御縁に導かれているのかを愉しむ心の余裕が住まいには遺っています。一生の中で出会ってきて、共に暮らしてきた期間こそが人が住んだ証です。

「もったいない」と人生を大切に生きていく人は、きっと良質な住まいに巡り会うと思います。

住まいは生き様ですから、自分の住まいを大切にして一つ一つの思い出を刻みながら御縁を愉しみ大切な日々を過ごしていきたいと思います。