夢を与える~生き方~

先日、メンターから興味深い話をお聴ききすることができました。

それは小学校の道徳の授業で、講評で呼ばれた時のお話です。

その授業は、イチロー選手が努力して夢をかなえたというような話だったそうですが、先生が「イチロー選手がなんで夢がかなったと思いますか?」という質問に子どもが「努力したから叶いました」と答えました。それに対して先生もまたおおむね同じように努力したら夢がかなうのですよと言ったそうです。

それに対してメンターは講評を求められ、こういったそうです。

「イチロー選手は努力したから夢がかなったのでしょうか、そうではなく夢があったから努力できたのではないですか」と。世間では努力を優先して夢を持たせようとしますが、本来は夢が先で夢があるから努力もできるのではないかというお話でした。

これをお聴きしながら感じたのは今の時代は会社でも学校でも国家でも、頑張れば夢がかなうとか、一生懸命であれば救われるとか、真面目にやっていればいつかはよくなるとか、そういう理由で夢を諦めるなという励まし方が多いように思います。

よく見れば結果的に努力することばかりを強要しているような指導や教育ばかりです。本来、人は理念や目的があってそれに向かって努力する生き物です。あの進化論のダーウィンも、根気強く研究して発見をするのも夢があったからじっくりと待つことができたのです。

夢があるというのは、きっとこんな未来が来ると信じて待てるということです。そしてその夢がかなうと信じ切っているから努力することを厭わないのです。

努力する力ばかりを先に持たせようとすることも確かに善き習慣を身に着ける上においては大切かもしれませんが、人生において生きて観て実感するのは夢を持つことの方がもっと大切であることに気づけます。

その夢とは、企業が自社をアピールするために広告しているような願望ではなく、そもそもの本質である初心(理念)です。

人は「何のために」を自覚することで安心して夢を追いかけることができます。それがなくなってしまえば、夢から自分が逃げてしまうことになるのです。一体、何のために努力するのか、そこには自分を大切なもののために使って生きたいという人類の根底にある共通する夢があるからのように思います。

子どもたちが夢を観るのは、大人たちが夢中でいるからです。その夢中とは妄想ではなく、理念を真摯に実践しているという意味でしょう。

人生において子どもたちの身近にいる大人が苦しくても愉しそうに働くのは何よりの夢を与えるように思います。夢を創り与えるということは、生き方を示し生き方を与えるということです。

これからも理念を大切に日々に何のためにかということを忘れずに丹精を籠めて取り組んでいきたいと思います。

譲り合い~興譲と推譲~

上杉鷹山は学問を広めるために藩校を創設しました。その名前は「興譲館(こうじょうかん)」といいますが細井平洲が名付けたものです。「興譲」とは細井平洲の教えの根幹にあり、「譲(ゆずる)を興(おこ)す」と書いたものです。

 細井平洲も上杉鷹山も、学問を興すことで一体何を実現したかったのか、この二人が一緒に目指した社會が一体何によって実現すると信じたか、そこは「譲るを興す」のであると述べているのです。

細井平洲は人間にとって最も大切なことは「譲る」、つまり「相手を思いやる」ことであり反対に「思い上がり」、「相手のことを考えない自分中心の行い」が最も人の道に外れていると説いています。この「 思い上がり」とは、自分中心で「自分ほど物知りな者はいないなどと誇り、他人を見下す行い」のことで「人と人との交わりにあっては、この思い上がりの気持ちをなくして譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶ」からであるといいます。

 二宮尊徳は「奪うに益無く、譲るに益あり」と言い切ります。

 相手を思いやらない心に「奪う」があります。人間がみんな自分ばかりを意識し、自分のことばかりを考えていては周囲の人たちからあらゆるものを奪っていきます。本人が気づいていないだけで、生き方が奪うになっていると社會は殺伐としたものになります。もしも生き方が謙虚で譲る実践をするのならば社會は次第に穏かで和やかに平和になっていくのです。

 この「譲る」という本質は、謙譲ともいいますが感謝を忘れていない生き方をしているかということでもあります。

 結局は自分が在るのは何の御蔭様であるか、自分が居るのは何の御蔭様であるか、自分というものが大いなるものにいつも譲られていることに気づける精神を持っているということです。

 そう考えてみると、自分の身体一つも両親をはじめ沢山の先祖の方々の譲りによっていただきました。また今の自分の大切な人たちのご縁も沢山の方々のつながりと譲り合いによっていただきました。他にも食べ物からお金から、時間から機会からすべては譲っていただいたものばかりなのに気づくのです。

 譲り合いが大切なのは、自分がいつも譲られていることに気づけるからです。いただいたものをまた譲っていく、その譲り合いの社會こと思いやりの社會そのものです。

 それがなくなるから自分の代だけですべてを搾取したり、自分たちの時代で奪い尽くそうとそれぞれが思い違いをするのです。人間の欲望は奪うにあり、欲望を超えるのは譲るにあるのです。

 人が人である以上、もっとも優先するのは「思いやり」であると孔子も説きます。

 人間愛とは思いやりのことですから、社會がどうやったら次第にそうなるのかを環境を通して子どもたちを見守るのが私たち大人の責任であり実践しモデルを示す義務なのでしょう。今こそ上杉鷹山と細井平洲に習い、「譲る」ということをもっと一人一人が日々の生活実践に於いて具体的な事例で学び直していく必要性を痛感します。

社業を通して、しかと足元を踏み固めて実践の質を高めていきたいと思います。

メンターとメンティ③~仲間の絆~

メンターとメンティという相互の関係についてもう少し深めてみます。

映画の三銃士を会社で見る機会がありました。先日からメンターとメンティの在り方を深めているのにちょうどよく、仲間を通してどのように人物が関わり合っているかを関係性の中から再認識することができました。

三銃士で有名な言葉は、「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」があります。映画ではこれを「一心同体」と訳していました。

アトス、ボルトス、アラミスという国王直属の精鋭部隊で近衛兵でもある銃士隊で名を馳せる人物が三銃士です。そこにダルタニアンといった銃士を夢見る新人が入ってくるという話です。

これは会社でも同じく、生き方や哲学、そして実践をしている先輩に対して後輩が入ってくるのに似ている関係です。三銃士は絶妙な見守りを通して、仲間との信頼、結束の強さ、守るものの価値、自立しているモデルを自分たちのありのままの生き様を通して見せてはやらせてみて志に信を入れていきます。

もっと簡単に言えば自分のありのままの生き様を見せて本人に考えさせ、そして本人なりにやることを認めて覚束ないところはフォローしてあげるというように寄り添い大切に見守っていきます。

何かこの通りやれと指示命令をしてやったことだけを評価するのではなく、自分たちの生き方や生き様で手本を見せてはやってみろと挑戦を促し、その上でできないところはいつでもフォローするという安心感を与えます。そのフォローは出来事だけに限らず、ダルタニアンの向こう見ずで気が強い性格の弱点なども見抜き、三銃士は陰ながらフォローしていきます。

その中でダルタニアンは次第に助け合いを学び、成長し、立派に銃士として自立していくのです。

そもそもメンターとメンティとは、互いに信頼し合っているから絆が結べます。それは言い換えれば「一心同体」の関係です。それを仲間とも言います。この三銃士の話が美しいのは、本質的な仲間意識を観るからです。それは単に強い集団といるから安心というわけではなく、「一心同体」だからこそ安心だということです。

家族や真の仲間といった心の絆の清らかさと美しさを大切にしている安心です。

メンターとメンティとは生き方を通して、同じ生き方に共感し、その生き方をできるように見守り合い育ち合う存在ではないかと私は感じます。この関係は志と共にする生涯の「友情」と呼んでもいいのかもしれないし、同じ理念を掲げて命を懸けて共に戦う「戦友」と呼んでもいいのかもしれません。

そういう「真の仲間」に自分自身の心が絆を結べ、廻り合えることは何よりも仕合せなことだと思います。孔子や仏陀、キリスト、吉田松陰、同じ師を持つ弟子たちもまた、メンターとメンティだったのでしょう。

最後に、ダルタニアンは国王や王妃を助けた褒美として銃士隊になることを認められます。その信条は、国王を守るということの本質として真実、勇気など大切な生き方を貫くように約束します。

そしてダルタニアンがつい昔の癖で一人で何かを遣ろうとするときに、三銃士はその若者を引き留めこういいます。「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために(私たちは一心同体だ)」と、いつも仲間と一緒に闘うようにと促すのです。

三銃士はとても興味深い映画で、ここでは本当の強さというものは自分のみの力を頼り一人でやることではないと教えが入ります。真の強さとやさしさは、仲間の絆であるというストーリーです。

今の時代、なんでも一人でやることばかりを教育され刷り込まれてきましたが一人ひとりの真の自立において「仲間の絆」というものが如何に大切か、改めてメンターとメンティとの関係から観直してみたいと思います。

 

 

貝の年輪

昨日、久しぶりに貝磨きを体験してきました。

貝には不思議な魅力があり、貝のことを調べていたら樹木に共通するものがあります。一見、じっと動いていない静かな存在ですが杜と海の共通点も実感することができました。

ちょうど、7年前に「アイスランドガイ」(学名:Arctica islandica)という史上最長寿の動物が発見されました。なんとその寿命は400歳を超えるそうです。なぜ400歳まで生きられたのかは、いまだに謎のようで極寒の大西洋の厳しい環境の中で生きぬいてきた貝です。

その中身のいのちを守るのだから当然、貝殻もそれを守るのに相応しいものだったのでしょう。貝殻を観ていると年輪のようなものがあるのが分かります。これは樹木と同じく年輪をみて年齢を測定するのです。

昨日は、6000年前の地層から流れ出てくる貝殻を浜辺で拾い集めました。ちょうど前日が嵐だった御蔭で沢山の貝殻が浜辺に打ち上げられていました。その貝を拾ううちに、その貝の持つ歴史を感じたのです。

石でも樹木でも貝でも、一見死んでいるように見えるものですが実際は生きています。動物学的には死んでいても、時を刻むという観点からは死ぬことはありません。

これは心の世界の話になるかもしれませんが、生き死にとは単に活動しているかどうかだけではありません。歴史のように長い年月、悠久の時間をイキテイルという考え方があるように私には思うのです。

それは年輪に観てわかるように、太古の化石に触れると感じるように「重み」というものがあります。

この重みを味わうとき、そこにいつまでもなくならない存在に出会います。それが「時間」という存在です。時間という存在は、私たち個体が実感するような小さなものではなく丸ごと一体になっている偉大なものです。

その中の一部として存在し続けていること自体が「偉大な意志」ではないかと思えます。その偉大な意志が小さないのちを守っているのです。私たちも地球に守られるように、その大きな存在によって見守られています。

その見守られている存在に気づけるかどうかが、人生においてとても大切なことのように思うのです。貝磨きを通して、魂を如何に磨いていくか、なぜ磨くのかを考えるきっかけになりました。

改めてなぜ磨くのかについて年末年始の内省に深めてみたいと思います。

 

メンターとメンティ②~信の徳~

メンターとメンティ①のブログで紹介した上杉鷹山と細井平洲は、互いに見守り合う関係においてとても参考になります。

上杉鷹山は、第九代上杉藩主として立派に藩政を改革し立て直し、終生民の幸せに尽力した人物として今でも名君と慕われます。この上杉鷹山が十四歳のとき、二十三歳年長の細井平洲と邂逅しメンターとメンティとして互いに真心を通じ合わせてお互いの人生に多大な影響を与え合います。

その細井平洲は享保十三年(一七二八)に、尾張国知多郡平島村の農家の次男として生まれ、名古屋、京都、長崎で勉学を積み重ね、後に江戸で塾「嚶鳴館」を開き、諸国の人びとを指導していました。尾張藩校明倫堂の初代校長でもあります。
この細井平洲の教えは知行合一であり、これを鷹山は『学・思相須つ』、つまり「学問(学んだこと)と今日(現実)と二途にならざるように実践実行せよ」といつも話されたそうです。すなわち、学問をするということは、知識を得るためだけのものではなく、学んだことを生活に生かして実践しより善くしていくことだと断言していました。

いつの時代も知識と行動が分かれているのは、知識ばかりに偏り大量に詰め込んできた教育の弊害ということです。「知ることはできること、わかることは努力すること」と私もいつも話していても、どうしても現実が変わらないのはそれだけ教育が生き方に影響を与えたものだからです。生き方を変えるというのは、人生を変えるということですから知識だけで変わるはずもなく、どれだけ善き習慣を与えるかということなのでしょう。

この二人のメンターとメンティのやり取りの中で、私がとても大好きな見守りのエピソードがあります。それは鷹山が、初めてのお国入りに当たって平洲に会って助言をいただいた時の話です。

鷹山は尋ねます「私は幼いままで藩の人々に藩主として臨むことになります。不安で心が落ち着かず、薄氷の上を歩むような気持ちで怖くて緊張しています。私は一体どうすればよいのか、ぜひ教えてください」と。

それに対して平洲は「藩主となるあなたに最も大切であると思うこと、お手本にしたほうが善いと思うことはもう全て教えています。あなたは、これからは「現実の政治」を実践していかなければなりません。藩の人々の暮らしを豊かにしていくためには、まず自らが身を正しく修めて、絶えず努力して、自分の信じるところを貫いていかなければなりません。」と語り掛けます。

そしてここからが大好きな名文「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」です。

意訳ですが「『自分を信じる』、これは勇気のある者だけができるのです。勇気ですよ!勇気なくして、どうして政治ができるでしょうか!いよいよその時が、やってきたのです。」と話すのです。

これに鷹山は「大事なことを教えていただきました。私は終生このことを帯に書いて忘れないようにします。」と答えたのです。

ここにメンターとメンティの生き方と働き方が合致したのを感じます。共に人生の中で、大事な局面において何よりも学び合っていたのは本気の覚悟です。知識として教えただけではなく実践も同時に教える。これがメンターの役割ではないかと私は思います。

知識だけでは人生は何一つ変わることはありません。人生とは、生き方が何よりも優先されそれに付随して知識が必要なのです。知識で先に刷り込まれてしまうと、その根本を見失ってしまうのかもしれません。実践の大切さが維持されるのは、メンターとの邂逅を求めるその人物の真摯な人生との向き合いがあるからでしょう。

今まで当たり前すぎて「勇気」というのをあまり考えてきませんでしたが、勇気とは人生の大事な局面において信じ合っているからこそ出てくるものなのかもしれないと考えるようになりました。信じているから勇気が出る、勇気が出るのは信じ合った証そのもの。

そしてその信の形として顕れる勇気こそ、「信の徳」なのかもしれません。

いつも勇気を与える存在になり、いつも勇気をいただいている存在であることを忘れないでいたいと思います。

樹の本質~The Giving Tree~

ギビングツリー(The Giving Tree)という物語があります。これは米国の作家のシェル・シルバースタインという作家が描いたお話です。この本はすでに30ヶ国語以上に翻訳され今でも世界中で読まれ続けています。

この話は、樹と少年のかかわりの物語です。少年が大好きな樹は、少年がほしいものを自分の身を削って与え続けます。すべてを与え続けてそれでも少年が大好きで、樹はいつまでも幸せだったというものです。もっている自分のすべてを大好きな少年に差し上げていく樹の姿に、言葉に表現できないぬくもりや見守りを感じます。そして少年もまたいつまでもその樹を忘れずに大切な節目にはいつも頼りにしながら自分の人生を自分で歩み切っていきます。

この樹と少年の関係の中には、お互いの絆を通して共に絆を深め合っていく尊いご縁と結びが観えます。この物語が深く共感され長く人々に読まれるのは、そこに確かな愛を感じるものがあるからかもしれません。

先日、ある森を歩いて樹を観察していたら樹はもともとその性質の中に「与える」という徳性があることに気づきました。なぜなら樹は存在し生えることで、周りの生き物たちをすべて活かすからです。

樹は1本から循環をはじめます、その樹は伸びていくことで水の流れを保ち、落葉しては土壌の微生物たちをはじめ様々な生き物の住処を用意し、木蔭で休憩する動物たちや、実や樹液は食べものになり、幹はあらゆる道具として活かされます。

地球上にいて歴史が古く、もっとも長く自然の篩にかけられても生き残っているのは樹木です。この樹木がなぜ選ばれるのかは、そこに「与える」という生き方があるからではないかと思います。

私にとっては、「tree=giving」であり、「与える=樹」であるとしています。樹はもともと与えるのが樹であるということです。今の樹があのようになっているのは、与えるのみの姿であるから私たち人間には気づきにくいのです。本来の樹は与える中に存在しているからこそ、自分の生き方がそうなったとき樹の生き方が観えるのでしょう。

そして自分への見返りを一切求めずに与えることは、それは失っているのではなく同時にサムシンググレートから偉大なものをいただいているということでもあります。自分が得ようとするよりも、与えることで得られるのが天恩であり天恵です。

つまり自分にとっての損得ではなく、自然そのものの尊徳を感じているのが樹ではないかと私には思えます。

樹から生き方を学んだ一年でしたが、少しだけ樹の持つ本質を学び直したように思います。

この「TheGivingTree」の物語のように、愛と見守りの仕合せの関係を生長の中で真の自立=人間愛を築き合っていきたいと思います。

 

自然の本能~足るを知る~

今の時代は古い暮らしをしていた先住民たちの文化が壊れている時代です。グローバリゼーションという名の波が、世界中のあちこちにまで蔓延し多様な暮らしを一つの暮らしになるように変えてしまいます。

隣国の中国でさえ、15年前と今ではまったく暮らしが変わってしまい都市部ではかつての中国の様子がほとんど感じられません。今ではあの広大な国の僻地にまで大規模工場や娯楽施設、西洋的な住宅が増えてはそれまでの悠久の暮らしはなくなってきています。

アフリカやブータンなどという古い暮らしも次第にその波に脅かされています。もともと持っていたものの価値を否定し、若い人をはじめ自分たちが西洋人と比べて持っていないことを不幸だと植えつけられ、その不幸を避けるためには勤勉になるしかないと教育し不幸を抜け出すために必死に経済のために働くのです。

みんなが持っているのに自分は持っていないという考え方は貧しい考え方だと言われます。しかし本当は貧しいのではなく、足るを知らなくなることで不幸であるという生き方になってしまうのです。

老子に「足るを知る者は富む」があります。「足ることを知らないと不幸になる。欲が多すぎても強すぎても不幸になる。足ることを知ることに満足できる人は常に幸せでいられる」(老子第46章より)があります。

そもそもの貧しさとは不幸のことであり、豊かさとは幸福のことです。真の豊かさというものは、持っているか持っていないかということではなくすべて持っている、「今の自分のあるものはもっとも今の自分に相応しい」と満足し、だからこそ感謝して、その上で御恩返しになるようにさらなる生活を向上し自助練磨、修身精進していくようなものです。

畢竟、自分は誰とも比較できない自分自身であり、自分自身は絶対的に自分であるという唯一無二の自分らしさよりも誰かや周りと比較しては自他を羨みそして競争し、集団に餌付けされ飼いならされ本能を忘れてはまるで自転車操業のように毎日只管走らされて止まることを恐れ不安にさせられています。そうやって視野狭窄にし追いつめられては周りを巻き込んでいくのが今のグローバリゼーションの手法です。

そこに自分自身が負けてしまうことで不幸は蔓延してより多くの人たちが物が溢れて裕福なはずなのに仕合せに生きられなくなってきています。

かつての暮らしは、自然を優先し人間を少し下げて調和を重んじてきました。

今は人間が何よりも最優先で、自然であるよりも人間社會の中での上下の差や貧富の差にばかりフォーカスされては幸不幸を語られます。一度、破壊され喪失してしまったかつての文化の中にもう戻ることはできず一度走り出したら自転車操業しかありません。

もう一度、真の仕合せとは何か、真の豊かさとは何か、「足るを知る」心から見つめ直して本来の本能を呼び覚ましていく必要があるように思います。

足るを知る心とは、自然界の本能だからです。
自然の本能の減退こそが、人間の不幸だということです。

自然界の本能を育てて磨いて、本来の人間の仕合せを働き方と生き方の一致で新しい時代の真の豊かさを次世代へとモデルを示し譲っていきたいと思います。

 

 

心の原点回帰~もののあはれ~

昔から日本には八百万の神々という思想があります。これは万物の全てには神様が宿っているという意味です。つまりすべては丸ごと神様であるという考え方です。

これは西洋のように人間と神とを分けて考えるのではなく、自然界の仕組みのように人間を中心にするのではなくすべて丸ごとを中心にするという考え方です。

しかしそれを感じる力を持つというのはモノやコトの中に真心を感じる感性がなければそれを実感することはできません。つまりは江戸時代の国文学者の本居宣長が言うように「もののあはれ」を直感できるかということによるのです。

「もののあはれ」とは何か、本居宣長はこう言います。

「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心で味わい、そのあらゆるの事の心を自分の真心でありのままに知る。これが事の心を知るということであり物の心を知るをいうことである。物のあはれを知るということである。そしてさらに詳しく解釈するならば、ありのままに知るのは物の心、事の心であり、それらを明らかに知ってその事のあるがままのかたちに動かされるままに感じられるものが”もののあはれ”なのである。」

この「あはれ」というのは、哀しみのことを言うのではなくありとあらゆることを直感する感性のことであろうと思います。自他一体の時に実感する、繋がりや絆、そのご縁を尊重するときに自分が渾然一体になっているものの変化と同化しているときに味わっている感覚のことです。

なぜ「もったいない」という言葉があるのかは、そこには心があるからです。心があるからこそ粗末にしない、心があるからこそ大事にする、そのモノもコトにも、確かな心が関わりいのちが存在しているからこそ大切にしていこうとする思想です。

今の時代はありあまるほどに存在するモノやコトに囲まれています。一歩外に出れば、そのモノやコトの情報が氾濫し、内に戻ればそれを持ち帰ってしまいます。穢れを祓い清めるというのは、心を亡くしてしまったものを取り戻し、それをキチンと整理整頓し清潔にシンプルにしておくということなのでしょう。

自分の心と感情を澄ましていくというのは、「もののあはれ」を感じられる状態にいつも自分を維持していくことだと思います。それはモノやコトをどれだけ大切にしているかですし、内省によってどれだけ丁寧に暮らしていくかということでもあります。

何でも雑にしていたらそのうち心は亡くなって、モノだけではなくコト、そしてヒトやタカラまで失っていきます。沢山いただき恵まれているものに感謝の心がなくなってしまったら、それは何よりも悲しく不幸なことです。

常に「もののあはれ」を感じる心は、心が清く明るいままで維持されるようにその汚れをきれいに払しょくし洗い流すような実践が必要になるように思います。日々に穢れなくさっぱりとしている自分かどうかを確かめ、余計な雑念に大切な理念や初心を忘れないように平常心を磨いていきたいと思います。

あの美しい自然、今朝の綺麗な朝の光のようにいつも心の原点回帰をしていきたいと思います。

自然の営みに合わせる

昨日、自然農で育ち収穫し脱穀した稲を籾摺りして炊いた玄米を食べました。噛めば噛むほどに深い味がし、御米が育つ場・間・和を優先してじっくりと見守られ見守った御米は感慨も一入、また格別でした。

そしてその時、食べるというのは実は大変有難い丹精丸ごとを食べているのではないかと実感しました。

私たちは便利さを追求しているうちに食べるという行為でさえ、単なる空腹を満たすようなものになってしまっていますが本来は食べるという営みこそが、生き活かされている証拠であるのです。この「食が営み」という言葉を何度も聴いたつもりでいましたが、昨日一年間の御米の見守りを振り返りながらはじめて「ああ長い時間を経て得たこの出会いの瞬間こそが営みであった」と深く実感しました。

人生の目的は結果ではなく経過であることは誰もが分かっています。しかし、結果さえよければと結果だけを追い求めるのが人生の目的になれば暮らしそのものを味わったりするよりも悩み煩わしいことばかりに心を奪われ意識が囚われてしまうものです。

しかし丸ごとの今を受け容れ、時間をかけて丹精を籠めて全てを善いことにして楽しんでいく日々を過ごしていけば結果が自分の思い通りでなくても、自分の思っている以上の出来事が起きているのを知って感謝の心が育っていきます。

自分の思い通りにいくかどうかばかりを皆追い求めますが、本来追い求めるものは思っている以上の奇跡や感謝に新たに出会うことだと思います。

長い年月ずっと念じ続けて思い続けて信じていれば、たくさんの御縁に恵まれそのことから事が次第に為されていきます。素直に謙虚にさえ歩んでいけば、自ずから道が開けて周りの助けによって事は”なる”のです。

本来、じっくりと時間をかけるのは自然が四季を循じるように自然が自浄していくように自然に任せて取り組んでいくものです。思い通りにいかないのは人間に合わせようとするからです。人間に合わせるのではなく、自然の流れに沿い従い応じて任せていきながらその中で精いっぱいの自分の丹精と真心を使うことではないかと思います。

地球上に於いては”いのち”はすべて等しいものであるということを自明します。人間だけが特別であるという傲慢な気持ちを少し我慢さえすればこの世はまるで楽園のようです。齢を経るとともに、人々の囚われている自我の刷り込みを何とかして取り除いてあげたい気持ちは減るどころか益々高まってきています。

今回、取り組んだ自然の実践ではまだまだ技術は未熟ですが自然の営みに合わせるその真理は少しだけ心身に染み込んできたように思います。じっくりとゆっくりとしたいのちに合わせて有難い機会と実践の恩恵に感謝しつつ、その気付きを子どもたちの未来の社會に還元していきたいと思います。

役割意識~人生の目的~

北米インディアンの諺に「7代先の人達のことを考えて生活しなさい」があります。ちょうどこれは200年から300年くらい先のことを考えて今を判断しなさいという教えです。

人は判断をするのにどれくらいの長さで物を観るかでその哲学が変わってきます。今が過去の集積によって存在していることの実感は、同じように先祖たちが考えてくださった未来を今を生きる自分たちが感謝し子孫へ譲っていく思想です。

例えば、食糧でも同じく自分たちの代で食べ尽してしまえば必然的に子どもたちの時には残っていません。子どもたちが貧困で苦しい思いをしてほしくないという思いは誰だって子どもが産まれたら願うものです。そして戦争でも同じく、自分たちの代で戦争をすれば子どもたちには戦禍を遺すことになってしまいます。子どもたちが悲劇に見舞われないようにという願いは同じように誰にでもあるのです。

しかし今の人たちは意図的に操作された自我優先の慾環境によって盲目に刷り込まれ自分たちの身の上のことばかりを思い煩い、先々のためにどう生きるかということを優先することができません。まるでそれは自転車操業のように、走り続けなければ倒れてしまうと思い込んでいるように働きに働きづくめで忙しさに心を取り戻せません。

空の悠久に流れる星々をみつめて今世の自分の役割を果たそうなどと考える時間もないほどです。

北米のインディアンたちは、太古の昔から「自分のいのちは役割を果たすためにある」といった哲学をもって生き抜いてきました。何よりも優先するのが使命や役割だったのです。「グレートスピリッツ」という全自然の偉大な大生霊の循環によって産み出された自分の存在を生き活かそうとするのです。

それは自分が男や女、またどの家系に紐づいているか、その今の自分そのものの全体の中の役割に生き切ろうとするのです。

その役割についても徹底してて、部族の役割の頂点にいるのが酋長です。この酋長は全ての物を全ての人に分け与える存在として選ばれます。従って酋長は一切資産資材を持たず、一族の中では最も質素な暮らしをしていて全体のために自分の役割を生き切るのです。

役割意識というものは、何よりも大事な意識です。

自分の人生を役割だと思えるか、その役割を果たそうと実感できるか、そこには謙虚な生き方があります。自分の生とその自分に与えられた役割に素直に感謝できるとき、今の自分が見守られていることを知ります。そして満たされている存在、足るを知ることによりその御蔭様に対して御恩返しをしたいという願いがでてきます。

その時、はじめて自分がどう生きたいか活かされている自分をどうしていきたいかという人生の目的に出会うのです。

どんな人もどんな動物草木昆虫菌類、無機質のものにいたるまで役割があるから一緒に暮らしているのです。お互いが違う役割を求めるとき、人は生きる意味を見失うように思います。

自分探しや自分の目的など色々と彷徨っている話を聴きますが、大切なのは与えられた役割に気づき役割を果たすことに専念することのように思います。

「自分のいのちは活かされている」という実感があって人は目的に出会うのでしょう。

役割を果たせるように今日も未来永劫に続き未来の子どもたちと、宇宙や世界全体のために今できることに専念していきたいと思います。

 

この酋長はもっとも