育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。

苗半作~厳父と慈母~

先日、百姓コーディネーターからの研修の中で「苗半作」のお話をお聴きしました。この苗半作とは「御米の出来は苗育てで半分が決まる」ということだそうです。

そしてこれは御米に限らずすべての野菜や植物がその苗の育ちの善し悪し によってその後の作物の生育に大きく影響するということです。

自然農で野菜を育てていると、最初の苗の環境がどのようであるか、その苗にどれくらい配慮したかでその後の主体としてのいのちの育ち方もまた変わってくるのははっきりしています。

たとえ大きな気候変動にも耐え忍ぶことができ、病気や虫がつきにくくなり、健康でたくさんの実と種をつけることができます。

言い換えれば、健やかで逞しい一生を送ることができるのです。

この苗半作の時期は人間でいえば幼児期であり、如何に幼少期に健全に健康な環境があったかがその後の人生に大きな影響を与えてしまうということです。

できるならばすべての親ならばみんな子どもたちには自然のままに健康に強く逞しく元気に育ってほしいと思います。色々な困難があっても、それを前向きに乗り越えて立派な実と種をつけてほしいと願うものです。だからこそ私もこの「苗半作」が何よりも重要ではないかと思います。

来年は百姓コーディネーターのご協力のもと、この智慧を学び直せるのが愉しみです。

またこの苗半作を改めて考えてみると、今取り組んでいる自然養鶏の烏骨鶏の育雛につながってきます。烏骨鶏も季節の変わり目、春先と秋先に卵を温めはじめるのですが産まれた雛は食べ物はまだありますが気候はとても寒暖差が激しい時期に育まれます。

寒暖差が激しいということは、それだけ環境の変化を受けているということです。その環境の変化の中で周りに関わる暖かい真心を受けているということです。厳父と慈母のもと、子どもは健全に育つといわれますが何が厳父で何が慈母だったのかというのを今回のことで悟った気がします。

自然の智慧というものは、本には書かれませんが確かに存在します。その知恵をどう継承するかというのは本能で行います。その本能を喪失するような知識は果たして世の中を救う本当の智慧なのかというと私には大変疑問に思います。本能が減退していない人が持つ知識というものが本物の洗練された知識なのかもしれません。

引き続き、自然をお手本に先人の智慧を継承しつつ洗練された知識を形にし世の中に還元できるよう日々の実践を深めていきたいと思います。

 

損得勘定

物事のとらえ方というのはそれぞれですが、お金を優先した物質経済の価値観が強すぎるとある一定の感情と判断が世間に蔓延してくるように思います。簡単に言えばそれは損得勘定というものです。それは利害を一つ指標として自分にとって損か得かのモノサシでばかり物事を考えるということです。

自分が損をしたくないからと、自分が得をする方へと判断することで損か得かを常に自分を中心にして考えていることほど本当の損なことはありません。自我が強くなりすぎる理由も世の中に損得という物差しがあまりにも目に入ってくるからかもしれません。

沢山のお店が並んでいる前を通ると、如何に安いか得をするかということばかりが宣伝されます。他にも広告なども見ようとしなくても目に入ってきます。情報量が多く比較するものもたくさんありますから、損したとか得したとか利用した後までそれを話し合う始末です。

確かに損得もありますが、同じ呼び名でもそこに「尊徳」という捉え方がありません。徳という考え方は、損か得かではなく善いことが循環するかどうかということです。自分の存在が周りを善きものへと循環するような体験をしているか、思いやりや有難い感謝に換えているかというものです。

物事は決して損得勘定だけでは裁けず、メリットデメリットだけではない中庸ともいえる本質があります。「何のために」となると、行動すべては意味があるものでありそこに真実もあるからです。

本来、人生は有難いものですから目先の損得では裁けないものばかりです。現代人は、その損得勘定の刷り込みにやられてしまい、苦しんでいる人たちをたくさん見かけます。本来の仕合せのモノサシを持てるようになるには、生活を正していくことしかないのかもしれません。

最後に先日のダライラマ14世の言葉で締めくくります。人間について何が驚きますかという問いに対する返答です。

「人間は自分の健康を害してまでもお金を稼ごうとします。そして今度は、その害した健康を取り戻すためにお金を使うのです。さらに人間は将来のことを憂うばかりで、今この時を楽しむことをしません。結果として、人は今も未来も生きられないのです。人は、あたかも死ぬことなどないかのごとく生き、そして一度も本当の意味で生きることなく死ぬのです。」

損得を超えたモノサシを持てることが本当の豊かさを持つことなのかもしれません。そして本当の豊かさというのは徳を尊ぶ中にあるのでしょう。損得ではなく、尊徳のモノサシを広げていきたいと思います。

 

 

遺徳遺産~生き方を守る~

世界遺産というものがあります。世界各地で世界遺産があり観光のメッカになっています。今年は国内の世界遺産をいくつか拝見する機会がありましたが、その都度その地の人の多さと雰囲気の荒廃ぶりに驚きました。

そもそも世界遺産とは何かといえば、1972年11月、第17回UNESCO総会で採択されました。条約の正式名は「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」といいこの条約のもと作成される「世界遺産リスト」に名を連ねた場所、それが「世界遺産」です。その条約の内容は「国や民族の枠にとらわれず、世界各地の自然や文化財を、人類共有の財産として守る」ことだと書かれています。

これは文化財や環境を人間の都合で破壊するのをやめてもらうためにとはじめたことでしょうが、どちらにしてもそれを創ったものも破壊するのも人間が行うものです。人間が創造したものを人間が破壊するのですが、破壊しないことを目的としているのはわかるのですが本当に大切にしたいものは残るのかということには疑問を思います。

本来、そこでの人々の文化や暮らしが世界遺産であるはずが見た目の建造物やその場所がそうだというだけになれば見た目さえ維持できればいいという話になってしまいます。観光客が来るからとどんどん観光収入が増えてくると本来の目的がすり替わり気が付けば元の文化や暮らしが喪失しまうことになりかねません。それは守るものが何かということがズレてくるからです。

例えば、生き方や働き方を守るのは、単に見た目の形だけを守ればいいというわけではありません。「大切」にするものそのものが異なるからです。本来、先人たちが人間が傲慢にならないようにと謙虚に守り続けてきた生き方が、何らかの形で喪失して滅ぶ、もしくは滅びそうだから世界遺産が必要になったのではないかと私は思うのです

本来、変えてはならないものを自分勝手に変えてしまい変えるべきものをいつまでも変えないことが自然の法理に逆らっているということの教えなのでしょう。これは時の流れに反しますから必ず滅亡の一途を辿るのは自明の理です。

すでに今の人類の欲望の拡張と拡大は限界に来ていますからこれからの私たちの時代と子孫はその歪に向き合うことになりますから本当に大変なことで心配です。

「今の時代を自分たちの代で消費しつくす」という思想は悪循環を産み出す大変危険な発想ですから論語の「遠慮なければ近憂あり」であるように必ず目先の快楽により未来がいよいよ危うくなっているのです。

世界遺産というならば、生き方そのものを遺産にすることだと私は思います。それは生き方遺産です。生き方遺産があれば人は本当の今に生き、今が仕合せである本質を理解できるように思います。そして生き方遺産とは遺徳のことです。

人が今に生きるというのは如何に今に生き切るかですから「今、此処」を大事にし味わい尽す中にこそ本来の人としての仕合せがあると私は信じています。

そうしていれば今、此処に満たされますから本当に遺していかなければならない遺産とは、先祖がここまで私たちに大切な環境といのちをつないで遺してくださった徳に由るものだと気付くのです。

そういう世界の遺徳を守る、つまり世界遺産を守るというのはその遺徳を守る謙虚な生き方を私たち自身が守ることです。だからこそその遺徳遺産は一人一人の生き方の中にあることを忘れずに今日も社業の実践を積み重ねていきたいと思います。

古い友人

久しぶりに古い外国の友人に会っていると色々なことを思い出します。こちらから連絡が取らないでいると疎遠になりますが、いつも連絡をくれて一緒に会いたいと思ってくれるのは本当に有難いと思います。

古い友人といえば以前、「ゆるす言葉」(出版イースト・プレス)というダライラマ14世の著書にこう書いてあったことを思い出しました。

「私は誰と会おうと、古い友人として迎えようとしています。このことが私を本当に幸せな気持ちにさせてくれるのです。これが、思いやりの実践です。」

どんな人に会おうとも、それは自分にとって大切な古い友人であるということ。ご縁を大切にする一期一会の真心の実践に生きる姿から敵も味方もなく愛するということの偉大さを感じます。

またこの本は「ゆるし」に関することばかり書かれていますがいくつか紹介します。

「ほんとうの意味の思いやりは、まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。まず自分自身に思いやりを持ち、それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、他者を思いやることなど不可能なことだからです。」

自分を愛するように人を愛せて愛を循環することができるということなのでしょう。自分を素直に愛するには正直に生きる実践が思いやりを育てるのでしょう。

「ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。」

自分を自由にするというのは、一生懸命に真摯に生き切るということです。なぜなら人事を盡すのならばそこに悔いはありません。悔いがないということは、全力を出し切ったのだから後は天にお任せしますという謙虚な心になるからです。思いやりでいる、思いやりのままで居続けるというのが自分を自由にする最善の方法そのものだと私は思います。

最後に、経済のことや大義についても語られます。ここに今の社業の命題もありますし、世界が今、置かれている最重要課題について書き記されているので紹介します。

「経済は大切です。しかし、人間性はもっと大切です。人権や環境問題など、経済より大切なことはたくさんあります。利益を求めてビジネスの世界で関係を築いているときにも、大義を見失わないことが肝心です。」

平和を愛するということがどういうことか、子どもの周りにいる私たちだからこそ常に身を引き締めて実践を高めていきたいと思います。

報徳~真心返し~

万象具徳という言葉があります。すべてのものには徳があるということです。この徳とは何か、それを取り柄と呼んだ人もいればその人の天才と呼んだ人もいます。つまりは必ず何かの役に立つものを持っているということです。

世間では、役に立つとか立たないとか誰かのモノサシで判断されます。人間はみんな自分都合ですから自分にとって役立つかどうかで必要か不必要かを勝手に分別するのです。しかし捨てる神あれば拾う神ありではないですが時・場所・状況に応じてその役割というのは多様に変化していくのです。ある人に必要でもある人には不必要、しかし全体丸ごとで観ればそれはすべて必要不可欠ということです。

そしてそれを徳と呼びます。

二宮尊徳は、その徳に報いることを「報徳」と言いましたがこれはまず大前提にすべてのものには徳が備わっているということがあってはじめて行われるものです。

『論語』憲問篇36にこうあります。

「或(あ)る人曰く、徳を以(もっ)て怨みに報いば如何(いかん)と。子曰く、何を以てか徳に報いん。直を以て怨(うら)みに報い、徳を以て徳に報いんと。」

意訳すれば、(ある人が言う、徳をもって怨みを返すというのはどういうことでしょうかと、孔子は言う、何をもって徳に報いるとするか。それは怨みに対しては素直な真心でお返しし、徳に対してはさらに徳でお返しすればいいのです)と。

これは一言でいえば「酷いことをされてもやさしくしてあげなさい」ということです。つまりは徳に報いるということです。

人は自分が酷いことをされても他人にやさしくできるかといえば、人間はすぐに仕返ししてやろう復讐してやろうという気持ちを持ちますからこれが難しいことはすぐにわかります。しかし孔子も二宮尊徳もそれでは徳ではないといっているようなものです。

如何に自分が頂いたものを善いものへ転換して世の中に御恩返しをしていくか。結局は徳を実践していくとはこれに尽きるように思います。どんな徳を自分が天から与えられているかは天に由ります、しかしその徳をどう活かしていくかが大事であってその徳そのものが大事なわけではありません。そしてその徳は自分次第で如何様にもしていくことができるのです。

日々に生活していく中で、自分の徳をどう皆さんのお役に立てていくか、そして皆さんの徳をどう活かしていくかはその人の生き方が決めるものです。自分の徳を高めていくことと周りの徳を高めていくのは、周りの徳を認めていくことからだと私は思います。

善い方へと転じていく、一円融合してすべての徳を活かしていこうとする、その真心返しにかんながらの道の目的も存在します。いついかなる時も報徳の大切さを肝に命じて実践していきたいと思います。

 

禮と愛

昨日は、新しい仲間といっしょに百姓コーディネーターの就任式と研修会を行いました。子どもたちに譲っていきたい遺徳を昔の百姓という生き方を学び直しつつ研鑽と実践を積んでいきたいと思います。

自然農で収穫した野菜たちと、不耕起の玄米を酢飯にして手巻き寿司をみんなで握って食べましたが何よりいっしょに働く人たちがともに食卓を囲み団欒しながら語り合えることは本当に仕合せな時間だと思います。

人間は、自分にとって都合がいいことを便利といい、都合が悪く手間暇かかるのを不便だといいます。農業だけではなく日常の仕事にいたるまで、気が付けば一人でバラバラに仕事をした方が効率が良いということで便利さばかりを追求して忙しさで心を忙殺する人が増えてきたように思います。健康を害し、精神を病み、殺伐とした無機質な暮らしをする人も増えてきました。

本来、私たちの先祖たちは働く豊かさを持っていました。それは一見、手間暇がかかるものですし、それに精を出すことばかりでした。不便とも思えるものやメンドクサイと思われるものを大事に、時間をかけてみんなでいっしょに取り組んでいました。

人間というものは、自分の思い通りにしたいというのは我欲がありますから誰しも思うことなのでしょうがその欲で満たせる喜びというのはほんの短い期間だけのように思います。たとえ思い通りにならなくても、心が満たされるような歓びというものは永遠に心に刻まれ忘れることもない豊かさがあるのです。

決して自分の都合では得られないものの豊かさというのは、何よりも心が安らぎ満たされるものです。人の愛も同じく、思いやりや真心もすべて人と人の間にあるものですからそういうものを優先していこう、尊重していこうとする心の強ささえあればだれでも持つことができるのです。

みんなでいっしょに取り組むことができるというのは、いっしょに暮らしている仲間がいるということです。その仲間といっしょに笑って泣いて、そしてまた出会い、別れて新たな道を愉しんでいくことが人生の道楽なのかもしれません。

かつての先祖たちは、自然を中心に丹精を籠めて生きることを私たちに残してくださいました。その残してくれた一遍をきちんと受け止めて、そして拾い、それを譲ることが今を生きる私たちの本当の使命かもしれません。

今の世代で、先祖の遺徳や遺恵を遣い切ってしまわないように自分たちの生き方を見つめ真摯に生き方と働き方を一致させていきたいと思います。新しい出会いに感謝します。

いっしょ

今の時代は、教育によって個人主義を指導されていきます。自分が周りと同じことをできるようになることが目標にされ集団というものはそのために使われます。競争もまた質を高めるものではなく、みんなが同じことをできるようになるために使われます。

みんなで一緒にといっても、その使う人の「いっしょ」がどの意味で用いられるかでその一緒の意味が変わっているのではないかとも思えます。

本来、この「いっしょ」という意味はどういうものだったのでしょうか、それを少し深めて観ます。

一般的には、一緒にはいろいろな解釈があります。辞書には、ひとまとまりになることや区別のないこと、同時に同じことをすることなどが書かれています。基本的には混ざっているという意味で用いられ、同じでなければならないという意味ではありません。

例えば、チューリップの花を一緒に育てたといっても同じチューリップを咲かせようとするのは一緒にの意味とは異なります。ここでは同じところで同じように育てたという意味でしょう。

しかし本来の「いっしょ」は、私には渾然と一体になっているという意味に感じます。つまりは、あらゆる多様なものたちが同じ場所に生きてそれが渾然と混ざり合いつつも調和しているという状態のことです。

その一緒は、前者の同じだという意味とは異なり、異なっているけれど同じ今に生きている仲間というイメージがあります。同じことをただ同じようにみんなでやることが一緒ではなく、異なるもの同士が同じ時代に生きてご縁を伴にさせていただけることが一緒なのでしょう。つながりの中に存在しているという意味です。

一緒という言葉一つであっても、謙虚な気持ちで感謝がなければその有難さに気づかなくなるのかもしれません。権力で同じように同じくさせようとしても、その一緒はともにいるわりにもの寂しく心もバラバラであることが多いように思います。英語のgroupもteamも、そして何をもってtogetherと定義しているかが根底で理解できていないと日本語のグループもチームも一緒もまたその意味が勘違いされていくのでしょう。

本来、私たちは大和の民族、渾然一体陰陽調和している民です。天皇を中心に家族として一族で和の尊び生き方と働き方を同時一体にしてきた暮らしを続けてきました。その先祖たちが実践してきた「いっしょ」を理解していくことが私たちの心を一緒につなげていくコツなのかもしれません。

常にいっしょの意味を個人的な価値観で狭めて歪んだ個人主義の枠組みに心が亡くならないように、丸ごと渾然一体になったご縁に感謝して今をいっしょに歩んでいきたいと思います。

 

思いを馳せる~暮~

私たちはかつてどのようなことをして暮らしてきたのか、そのことに思いを馳せることがあります。

古代から火をみて明かりを灯し、そのゆらぎを観てはいのちを見つめてきたのではないか。もしくは、石に絵を刻んでは魂の磨かれる様を見つめていたのではないか。またあるいは、風に揺れる木蔭に佇みながら心が透き通っていくものを見つめていたのではないか、そんな風に思うのです。

太古の記憶に遡ることで、今の自分の内観をしていくと目には見えないけれど確かに残っている感覚に巡り合うように思います。

子どもたちは、そういうかつての暮らしからとても大切なことを学んでいました。それは自然です。自然とは、決して今の知識や言葉で定義されているような都市と対極にあるものが自然というわけではないように思います。

本来の自然とは偉大な循環であり、その壮大な宇宙観のようなめぐりのことです。そういうものを感じるのに、如何に幼少期の体験が大切かということを物語ります。各国の神話にあるような話もそうですし、伝承文化も同じく、子どもたちが発達していくのに必要な環境というものがあるように思います。

それは暮らしなのでしょうが、暮らしとは私たちの風土でありその生き方のことです。そういうものを一つでも残していこうと先祖や祖神たちは大切な環境としての自然を遺してきました。

今の時代は、西洋から入ってきた教科するものばかりのノウハウやテクニック系の教材、所謂知識と学歴ばかりが優先されるようになり、本来の自然の環境が喪失してきているように思います。

身近に暮らしてきた仲間たちがいなくなっていくということが、自然が消失してきたといことです。私の思う自然を子どもたちの身近に置くというのは、単に植物や虫を単に飼育すればいいという意味ではなく、本来の自然環境ともいえる私たちの風土や文化、また伝承や暮らし方、生き方を遺していくということです。

世界の中で私たちが日本人であるのは、そういう先祖たちから連綿とつながってきたものを自分たちが守っているから日本人であるのです。それが日本人でなくなったのなら多様化して世界の一つの役割を果たして来た種が一つ滅んでしまうことになりかねません。

だからこそ私たちは魂を磨き続けなければならないし、心を高めて健やかな智慧を伝承し続けなければならないと思います。今の時代は自然というものの定義も、世界国家の枠組みの中で塗り替えられてしまいました。

もう一度、太古の記憶やかつての暮らしを思い出し、その生活を子どもたちの身近に置いてあげたいと願い祈ります。ご縁を活かして、あらゆるものの感覚に自分の意識を近づけ子ども第一主義の実践を昇華していきたいと思います。

禮の本質~真の豊かさ~

先日から礼について深めているとインスピレーションがありました。礼とは本来、禮と書きますがその意味に納得したのでそれを書いてみます。

そもそも禮の中にある豊かさについて考えてみると、如何にその豊かさというものの観点の違いがその人に影響を与えているかがわかります。

例えば、もので貧しい人はもので豊かになろうとします。なので常にものを得ては豊かさを感じますから常に自分が持っているかどうかによって豊かさを感じます。逆にものをたくさん持っていても豊かではない人も多い時代ですから、豊かさとはものではないことはわかります。そこには常に手に届かないようなものばかりをいつも望んでいますから次第に不平や不満ばかりを並べては傲慢になりますから余計に豊かさから遠ざかっていきます。

またもう一つ別の観点での豊かさには、持っているか持っていないかという自分にとって損か得かというものではなく真の豊かさというものがあります。それは御蔭様でたくさん見守られていることを感じたり、善いご縁をいただき人生が一期一会に導かれることに感激したり、当たり前ではない日常の些細なことの中に仕合せを味わったり、自分が今あることが如何に有難いことかということに感謝できたりしている中に存在します。それはものではとても買えないものばかりであり、すべては手に届く範囲内にあるものです。

ここから考えてみてもわかりますが、結局はその人の生き方、観点の違いで豊かさというのは変わっているのがわかります。真に豊かな人は、愉しむ力がありますしご恩返しをしていく歓びがあります。

禮というのは、豊かさを示すと書いていますが衣食足りて礼節を知るというものまずその真の豊かさに気づけてはじめて本来の禮が理解できるということかもしれません。

今の社會は物質経済ですから、持っている人と持っていない人で貧富の差はますます開いていきます。本来、日本という国は十分すぎるほど豊かになっているのにも関わらず自殺者は増えて貧困もまた広がっているというおかしなことが起きている国です。それは豊かさの質をはき違えているからであり、それは真の豊かさを重んじる社會ではなくなってきているということなのでしょう。

人は本来、何のために生きるのか、何のために働くのか、そういうことに立脚して見直してみると如何に真の豊かさを求めているのかがわかります。人を尊重すればするほどにその真の豊かさの御蔭様を皆で感謝して共有しながら幸福感を味わうことが大事なのかはすぐに自明します。

真の豊かさとは何か、そして真の貧しさとは何か、そこには観点を変える必要があり、観点が変わることで社會もまた変わっていくのでしょう。わざわざ、一番豊かさを感じられるものを忙しいという理由でつまらなくしたり、もっとも豊かさを得ている一緒に働けることをお座なりするというのでは真の豊かさは遠ざかるばかりです。

何を持っているか持っていないかではなく、何に恵まれ何を与えてくださっているか、感謝する心に豊かさが示されるのが禮の本質なのかもしれません。

禮が廃れている今の時代だからこそ、本物の禮儀を実践していきたいと思います。