思いやり

中国に陽明学というものがあります。

これは中国が机上の学問に偏ってきた際に、本来の実践こそが学問であると定義したものであろうと思います。

いつの時代も、教えというものが実践と分離して知識としてだけ先に詰め込めば現実離れしてしまうのでしょう。体験したものをより善い体験にしていくような精進が、本来の自分を学問によって立てるということなのかもしれません。

その陽明学の根本思想のひとつに「致良知」というものがあります。この良知とは人が本来持っている是非を知る心であり、この良知を遮られることなく発揮することを致良知といわれます。

自分というものには、色々な価値観による自我があります。その自我は、無意識に自分を正当化したり独善的になったり、また物事の判断を自分中心に行っていくものです。これは自己防衛本能のことで、自分を自分で守るために必要な機能の一つであろうと思います。

しかし本来、地球のつながりの中で生きているのだから周囲のためには何かのために自分を活かそうとするとき、もう一つ別の自我が存在していることに気づきます。よく人間が尊いと思っている、自己犠牲の話であったり、大義や思いやりで自分を捧げていくような生き方の時に語られるものです。

人間は、自分の小我を超えて大我に目覚める時、色々な境界線を越えて自由になると言われます。これは部分で生きるのではなく、全体によって活かされるということかもしれません。天を敬い、天と同じような真心を持ちたいと願うのが陽明学の本質なのでしょう。

だからこそ致良知は陽明学で唱えられる「事上磨練」と「知行合一」を尊いことにしています。

そして今の時代でいえば、この「致良知」は自他を思いやることで引き出されてくるように思います。自分中心の物事の見方を超えて、周りに配慮し思いやることができて修己即治人になるように思います。

日々に、真心や思いやりで生きるというのはいつも周りのことを思いやり生きる活き方、活かされ方を実践するということなのでしょう。中江藤樹の生き方から学び直していきたいと思います。

福自省

日々の実践をするということは、日々を怠らないということです。

これは日々というものは、大切な記憶に焼き付けていくものですがその焼きつけたものが必ず子孫たちの発展につながっていると自覚するからのように思います。自分だけでもという「私」に囚われてしまったならばまさに私欲にもっていかれたとなるように思います。

二宮尊徳に、このような話が残っています。

「天理と人道の区別をよくわきまえている人は少ない。身体があれば欲があるのは天理である。田畑に雑草が生ずるのと同じである。それゆえ、人道は私欲を制するのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とするのである。このように天理と人道はまったく別のものだから、天理は永遠に変わるものではなく、人道は一日怠ればたちまち廃れてしまう。それゆえ、人道は勤めることを尊しとし、自然にまかせるのを尊ばない。人道で勤めるべきは、己に打ち克つという教えなのである。己とは私欲のことだ。己に打ち克つとは、わが心の田畑に生ずる雑草を取り捨てて、わが心の米を繁茂させる勤めのことだ。これを人道という。『論語』に「己にうち克って礼の規則にたちかえる」とあるのはこの勤めのことである。」

つまりは、自然は日々に怠らずに流れていても、人間は私欲が出てくると怠ることになる。だからこそ「人道は一日怠れば、たちまちすたれる」という意味になる。

ここに如何に「実践」を徹底することが大切なのかということが自明しています。

人は私欲が入ってくると、その実践を自分の都合で置き換えていくものです。最初に決めた初心や何のために行うのかということを忘れて、気が付けば実践風のことを実践と呼んだりもするものです。しかし本来の実践とは、初心のままであることであり、最初に覚悟し決意したことを何度も何度も怠らず勤めていくことのようにも思います。

今のような誘惑の多い時代に、大切なものを守るというのは自然農の生き方ように真心や誠実さを優先する実践を行うことのように思います。

そして実践が独りよがりにならないためにはそれを福に転じていく精進がいるように私は思います。もちろん実践を徹底するとなれば、思い通りにいかない環境の中で上手くいかないようなことにも出会います。それをどれだけ乗り越えるかというのは、誠実にそれを受け止めたか、受け容れ改善したかということが問われるのです。

「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない。」

二宮尊徳の生き方として、実践の大元にはこの誠実という正直があるのです。転じるというのは、簡単なことではなくどれだけ誠実さの方に舵を切ったかが常に問われます。それは思いやりのことですが、思いやりを増やしていく、思いやりをより大事に育てていくといように実践を高めていくことが真の人格的成長、つまりは天を見ては自分を正すという実践になっていくようにも思います。

日々を怠らず勤めるというのは、日々の実践を積み上げていくということでしょう。

他人のことよりも自分の実践が高まっているか、誠実であるかを常に自省していきたいと思います。

全自働

古来から日本には八百万の神々というものの思想がありました。

これはよく宗教で比較される一神教か多神教かというものではなく、万物円満、言い換えれば自然そのものの教えであろうと思います。

自然には、和魂という寛容と荒魂という厳格が調和しています。陰陽で表現されることもありますが、常にバランスを保ちながら全体のはたらきを渾然一体と持続していくものです。

そもそも一神教や多神教という考え方は、人間の都合によるものです。時には厳格、時には寛容というのが自然でありそのどちらかだけが自然であるということはありません。どちらか片一方に偏ればその反対側の方に次第に作用していく、それは円であるように転じ続けていくことでバランスを保つのでしょう。

私たちはだからこそ、荒ぶるものと和やかなるものを共に祈り自然の見守りを実感しつつそこに自分たちを合わせて循環の一部になって永遠と共にして生きていたように思います。

今の時代は、教えというものだけが実践と分離してしまったように思います。

本来の教えというものは、教典がない神道のように具体的に実践によって背中を通して学び伝承してきたもののように思います。それが文書を残し、実践をせずとも真理に達するかのように語られることで余計に人々の苦しみを増やしてしまっているようにも思うのです。

真の教えというものは、その人の生き方で示すものであり、それは実践する中で一つ一つ丹誠を籠めて取り組んでいくことのように思います。何でも簡単便利に、速く効率的になどといった誤った考え方が蔓延ってから教えもまた変化してしまったのかもしれません。

自然というものの教えは、必ず実践とセットで存在しています。

自然を学ぶということも同じく、実践を確実にしつつ自ずから働くことで得られるのかもしれません。人間が作意的に自分の思い通りに何かをしようとするよりも、すべてを自然にお任せしつつ全自働で居る事の方が教えの中にいるのかもしれません。

生き方や働き方という言い方の背景には、常に「実践」の尊さ、活きる歓びが存在します。

我欲に負けて教えに囚われないように、丁寧に一つ一つの実践を積み重ねていこうと思います。

協働のはたらき(チームワーク)

人間の持つ一人の力は大したことはないものです。
しかし一人一人の持つ力は偉大なものです。

人は自分くらいと自分のことを過小評価しているものです。自分のつながりや絆を感じないときは、糸が結ばれているという感覚よりも単体で生きているような錯覚をするものです。

宇宙をはじめ自然界は連綿と続いている糸が複雑怪奇に絡み合って存在しています。何度も何度も日々を繰り返し、ご縁を重ねることで次第に鎖が強く結びつくように絆も強固になっていきます。

自然界というのは、一つが滅びればすべてが滅ぶというようにあらゆるものは有機的に折り重なっているものです。例えば、山や木々の土壌が気枯れによって植物などが喪失したならば、川が消え、川が消えればその水が海に流れ着くこともなく、竟には海の生きものがすべていなくなってしまうのです。

このように循環というのは、万物が繋がって存在することの証明でありそれが完全に共に活かし合うからこそ万物が機能するのです。

人間も等しく、自分の存在が周囲の力になっているものです。自分ひとりくらいと思って自分の世界で閉じこもっていても先祖代々から今にいたるまで、また今から子々孫々まで、そしてその時代の仲間や友、関わる方々に大きな影響を与えているのです。

無理と無駄がない世界が自然ですが、それが何をもってそういうかといえばそれぞれが真摯に努力して生きている世界のことです。

西洋では労働という言葉の定義がかつての日本とは異なったようです。日本では働くというのは神様と一体の「はたらき」のことであり、西洋では作業のように捉えているようです。もちろん全ての人がそうとは言いませんが、業務や作業で切り分けて仕事を割り振るやり方をやってきたのだからそうなってしまうのです。

本来は宗教だの仕事だの生活だのと、自然を分解しそれを人間の都合で分けたところからズレてきたのかもしれません。自然は一切分かれることなく、万物は一体で仕事も生活もすべては生き活かされているということの実感であり、働けば働くほどに誰かの御役に立っていることを実感する素晴らしい「はたらき」を知ることになるのです。

共に生きることで人は安心するものです。そして共に生きようとすることで共に生きる者たちの勇気になりその共に生きるものたちとつながっていくのです。

発展というものは、そういう自然造化の法に従って、繁栄していくということをいうのでしょう。それを呼び込むのは、無駄がないということです。自然には一切の無駄がないからですが、これは私たちはどう考えればいいかといえば「一切を無駄にしない」ということです。

つまりは大切な「いのち」を無駄にしなかったからこそ、祖神達は一生懸命に与えられた自分の「いのち」を生き切ってきたのです。自分を生き切りは自分らしくあるがままを貫いたのです。

そしてせっかくいただいたこの「いのち」を誰かのために使い切ろう、周囲の皆様のために生かし切ろうと自他を大切に活かしてきたのです。

活かされているからこそ活かしたいと願う中にこそ、協働の「はたらき」が活きています。皆で一生懸命に真摯に遣り切ることが真のチームワーク(協働のはたらき)を産み出すのでしょう。

クルーの御蔭でまた新境地に出会いました、感謝と共に自然循環を楽しみたいと思います。

生命の価値のまま

人間は他を認めるということで共生するということを本能で自覚している生きものです。

自然界では、他を排斥するのではなく他の存在を認めることからそのものが自分とどのように関連するのか、そして繋がっているのかを確認しています。

例えば、植物から虫、動物にいたるまで自分との関係がどうなっているのかを自然に悟り自明するのです。あるものは食べ、あるものは食べられと交互に役割を交代しながらもそれぞれのいのちを全うしていくのです。

自然の中に生きているときは、文字通り生き残ることに必死ですから自ずからそれぞれが活きることを行えるのです。生きるというのは、活かされるということですから自然はその循環の中に住んでいるのです。

しかし人間は、今のように生きることが保障された中にいると本来の循環を忘れてしまうものです。何をもって認められているのかなども、分からなくなってしまうのかもしれません。競争して一番になることが認められると思っていたり、頑張ってさえいれば認められると思い込んで無理をしている人が増えたようにも思います。

本来の認めるというのは、その人の存在価値のことを言うように思います。

何かをしなければ認められるという意味ではなく、その人の存在そのものに価値があるという考え方です。これは、人が活かし合っている、一人では生きてはいない、一緒に生きているということを直観するからこそそう感じることができるのではないかと私は思います。

今の世の中は、如何に利用価値があるか使用価値があるかで物事を判断していきます。それは物であっても、他人であっても、ビジネスであるからと割り切って付き合っています。しかし短期的に見ればそうかもしれませんが、長期的に観ればそれは複雑怪奇に繋がっているご縁の中で生き活かされた共生の中の仲間ということになるのです。

広く大きな目線で物事を見つめれば、存在そのものの価値の偉大さに気づけます。

自分が活きるのも、誰かを活かすのもどうしているのか、それは自然に活かされているのです。何かをしなくても活かされる、無為自然なのです。自然の中に生き活かされている私たちはいくら都市の中で人間社会を切り取っても、地球の中であり宇宙の一部であることに他ならないのです。

点が線になり面になって形になるように、また人生も同じくそういう連綿としたご縁の糸でつながっています。存在価値に気づけるように、刷り込みを取り除き、人を活かし自分を活かし、生命の価値のままにを全うしていきたいと思います。

寿命を伸ばす

私達の祖先たちは「いのち」というものをどう捉えていたのは、かつての生き方や暮らしに遺されています。

そもそも私達日本人の心にある「いのち」というのは、使い捨てるものではなく遣い切るものという発想が原点にあったからこそ「もったいない」という考え方があるのです。

例えば、宮大工が使う式年遷宮や神社仏閣で使われる木材一つ、それはあらゆるところで再利用されています。今の住宅のように全てを破壊して廃棄するのではなく、昔の人は解体をして再利用します。他にも土壁一つであっても、それが崩れてまた補修し、補修が済めばまた土に戻して粘土にしまた他の土壁として甦生するのです。古人は「いのち」が観えたのでその智慧をもっていのちそのものを最期まで大切に遣い切ろうと工夫したのです。

今の時代は、何でも使い捨てようとします。

そのものの価値よりもその道具を単なる利用価値のある「モノ」として理解しているから使えなくなればいらないという発想です。しかし本来は、その道具は「いのち」としての存在価値で理解しているのだから最期まで大切に活かそうという発想が私たちの本質だったのです。

今の時代のように何でも目に見えるものしか信じないようにと「モノ」の価値に置き換えられてしまうと、目には観得ないものはこの世にはないものだと盲信させられていますがそれでは自分たちは一体何でできているのかということになるのです。モノではないのはすぐに分かります、そこに心があるからです。

自分を粗末にする人が増えるのは、いのちを粗末にしている環境の中に住まうからのようにも思います。それが孤独や孤立、心を閉ざすような関係を拡げてしまっているようにも思います。社會の仕組みとして大量にモノを粗末にしだせば、そのうち自分たちのことも粗末にしだすものです。

本来の循環型社會とは何か、それはいのちを粗末にしない社會のことなのです。

昔は、どんなものでもいのちがあるからこそ捨てようとはしませんでした。

江戸の300年の暮らしは、寿命を伸ばす仕組みだったのです。無駄というものをなくしていこうとするのは、決してそれが単に合理的だったからではなく、いのちを少しでも伸ばしたい、平和を少しでも永続させていきたいという時代の人々の心の願いだったのです。

戦国時代に、沢山の人達が死に、そしてそのことから少しでも長く平和を維持していこう、いのちを大切に皆で寿命を伸ばそう、つまりは「いのちを粗末にしない実践」を行ったのです。

寿命とは、いのちのことです。

大切にされることで寿命は伸びます、粗末にすれば寿命は短くなります。都市であってもそれは単に都市ではなく、先祖たちはその都市ですらモノではなくいのちだとしその寿命を伸ばす工夫をしたのでしょう。日本人の素晴らしさというのは、八百万の神々の思想があるようにすべてのものをいのちある神様の化身としていのちを見出したところにあるように思います。

そしてそれは家という発想の中にも、家訓があるように家をいのちだと捉えているから老舗や家が永続するのでしょう。そこにはどんないのちも粗末にしないという共通の理念が存在しているように私には実感します。

だからこそ家といういのちを伸ばすのもまた、その家に住まうものたちの心掛けと心構えがあってのことなのです。少しでも永続させたいのならば、いのちを大切に寿命を伸ばすことに意識を重ねていかねければなりません。せっかくこの世の楽園に産まれてきたのだからこそ、少しでも長くこの世に止まりたいと思うのがいのちの開花のように思います。

子どもたちのことを思えば思うほどに、いのちを大切にすることを実践で示したいと感じます。
身近なところからの生活を一つずつ見直していきたいと思います。

心の感覚~直毘感の世界~

先日、祖母が亡くなり通夜の席で臨終のお話を叔母からお聴きしました。

祖母は最期は病院でしたので、呼吸器をつけてもらっていたので声が出せなかったようです。しかし、御縁のある沢山の方々や親族が駆けつけ声をかけると笑顔を浮かべていたようです。その笑顔で万感の言葉を発していたと、口々に語ってくださるのを聴いていると、改めて人と人のつながりの愛を感じました。

古来から人間が死ぬとき、最期まで残る感覚が聴覚であると言われます。最近の脳科学の研究でも脳波を計れば最後まで聴覚が反応することが分かってきているようです。

五感の中で最初に感覚が薄れるのが触覚、その後は視覚、そして味覚嗅覚、そして聴覚と言われます。本来は力が抜けていく中で、もっとも原始的な器官が残るのかもしれません。

しかし耳で声を聴き、それが心に届くというのはそれが対話をするということであるのは間違いありません。

人は耳を使って心を通じ合っていくように思います。話を聴くというのは、心を聴くということです。心を聴くには相手の声を受け止め、そして認め、聴き届けたよという合図があるのです。

言葉は言霊と呼ばれるように心に通じているから心に届くのです。

そう考えてみたら、耳が最期まで残るのではなく「心が残る」と祖母の生き方によって改めて教えられました。

人は人の真心をどんな状況になっても受け止めることができるのです。だからこそ、どんな時でも真心で行動すること真心で実践していくことが愛を通わせることのように思います。

現代の人は頭でっかちになりすぎて頭で考え過ぎる癖を持ってしまい何でも目に見える世界の感覚に置き換えすぎて、本来の五感が分からなくなってきています。しかし本来の六感とは「真心の世界の感覚」なのです。日々に直観を感じるというのは、真心で生きる時にこそはじめて互いに理解できる感覚なのかもしれません。

これを私自身は「直毘感」だと定義しています。

祖母は、あまり口数が多い方ではありませんでしたが美しく優しい瞳を持ち、忍耐強く思いやりのある方でした。大切に箪笥にしまい守ってくださったアルバムに祖母の素朴で純粋な人柄の余韻に今も触れています。

祖母や祖父たちはみんな他界してしまいましたが、いただいた真心、いただいたご縁は大切に御恩返しと自らの使命に活かしていきたいと思います。

 

ふるさと~自然父母の恩徳~

昨日は、古里について考える機会がありました。今年は里がテーマですが、里もまた自然そのものであることをご縁のたびに確信しています。

古里とは、辞書では「1  自分の生まれ育った土地。2  荒れ果てた古い土地。3 以前住んでいた土地。4 宮仕えや旅先に対しての自分の家、自宅。(goo辞書)とあります。

明治に入ってから、西洋からの新しい価値観を優先している中でかつての自然も次第に荒廃が進んでいます。開拓できるところはすべて開拓するという欧米的な発想が、かつての田舎までも都市化していきます。これらの都市化というのは、人間中心の社会のことであろうと思います。

私たちは古里を思う時、何かといえばかつてそこで生まれ育った場所ということです。言い換えれば、幼児期や幼少期に暮らした自然と両親の見守りです。そういう見守りの中で、私たちは将来を見据えて準備をしていきました。

動植物も同じく、幼少時は安全安心な中で大切に社會で自立していくための基礎を学びます。それは優しく温かい自然の恩恵を受けられる時機地場空間だったはずです。

そこで感じた慈愛を根っこにして、自分の存在を確かめ信を抱き巣立っていきます。そしていつの日にかまた帰ろうとするのです。これを帰巣本能ともいい、犬も鳥も魚も必ずどこで生まれ育ったのかをいつまでも忘れません。

私たちは古里というものを一体何で憶えているかということなのです。
古里と言えば、有名な日本の童謡作曲:岡野貞一作詞:髙野辰之の故郷があります。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

これは幼い頃に親しんだとても美しく澄んだ童謡の一つです。メロディーが流れれば、そこに懐かしい日本の原風景が顕われてきます。日本古来の原風景を如何に伝承するか、民俗学の本質もまたそこにあるのではないかとも思います。

この故郷とは何か、古里とは自然(かんながら)なのです。自分の生れ育った産まれたところの風土が赤ちゃんの初乳であり、お米で言うところの苗土なのです。いのちは自分が出てきた場所を忘れません。それはいのちが続いていることを本能が知覚するからです。

そのふるさとを守りたいという心は、人間社會で生きていくなかで信を忘れないようにと願う父母の恩徳を守りたいという真心と一体ということなのでしょう。私にとっての故郷は、神社の木々の中で澄んだ清らかな水の流れ、そして眩い透明な光と草の香りがするそよ風、小さな昆虫や動物の声の聴こえるところです。

古里を心に、自然恩徳を忘れず、日々を健やかに逞しくやわらかに生きていたいと思います。

子どもたちに一つでも多くのふるさとを遺してあげたいと不退転の決意を新たにしました。
有難うございます。

 

善転の行~天人合一~

昨日は、日田の広瀬淡窓の咸宜園を紹介しましたがこの私塾には目的がありました。

この咸宜園の咸宜は、「ことごとくみな善ろし」という意味であり、よくブログで書く二宮尊徳の一円観と同じです。他にも天人合一という言い方でもいいですが元々の思想の中に、「敬天」という考え方に根差しているように思います。

これは天の心と同じように天に仕える心を持って生きるという生き方のように思います。それが万物一体善という考え方であり、善い悪いではなく丸ごと善いことなのだという天の大きさで全てを捉える力を涵養するということなのでしょう。

本来の教育の意義を広瀬淡窓は、「人材を教育するのは、善の大なるものなり」と定義しています。まさに本来の教育の本質を捉えている言葉のように思います。全てを善いことにするという思想には、自然に生きるという本来のいのちの活かしかたが入っています。

この広瀬淡窓は、幼少期から病に苦しみ、様々な逆境を善いことへと転じて生涯を歩みました。特にご縁をいただいたキッカケとなったのが、咸宜園で拝見した「万善簿」というものです。これは今の私の日々の感謝日記にも取りいれていますが、意識をするだけで善いことに転じようとする実践も高まってくるから不思議です。

どういう仕組みかというと、1日の終わった段階で、その日に行った善行が白丸で○。悪行が黒丸で●というものを帳面につけて1万回の内省を続けました。約30年間をかけて、日々に●よりも○が勝ち越すようにと念じつつ実践した痕跡が帳簿に残っています。

そして善行と悪行の数を差し引いて、月ごとにいくつ善行を行ったのか集計しました。67歳で万行が達するまで、日々に自ら取り組み実践する後ろ姿から私淑を受けた塾生が沢山いたのではないのでしょうか。時を超えて今では教えを受ける私もその一人です。

志の高さが人材を引き寄せ、そしてその時代を活かす人財を育成していったのでしょう。

最後に、休道の詩を紹介します。これは咸宜園で共に道を学ぶ人たちに師が励ました詩であると言われます。何よりも同門同胞、師友との関係の中で大切なものが得られることを述べて戒めているようにも感じました。そこにはこうあります。

休道他郷多苦辛
道(い)うを休(や)めよ 他郷(たきょう)苦辛(くしん)多しと

同袍有友自相親
同袍(どうほう)友有り 自ら(おのずから)相親しむ

柴扉暁出霜如雪
柴扉(さいひ)暁(あかつき)に出づれば 霜雪(しもゆき)の如し

君汲川流我拾薪
君は川柳(せんりゅう)を汲め 我は薪を拾わん

意訳ですが、道を歩む学問をしながら其処で苦しい辛いと嘆き愚痴を言うのはやめましょう、一枚の衣服をを共に分かち合い一緒に使うくらい仲のよい生涯の同志や親友ができて、自然と仲よく親しくなるはずです。早朝のまだ暗い時間に玄関の扉をあけて外に出てみたら、真っ白な霜が雪のように広がっている。とても寒くても日々の炊事生活に励み、あなたは小川の流れに水を汲んで来てください、私は山の中で薪を拾ってきます。

日々の修学修養は大変だけれどもそこに道を歩む道楽がある。苦しみの中に楽しみがあり、辛いことの中に歓びがある。学問を求道するのに必要な心得が入っているように思います。

今の時代は私塾ではないのでしょうが、日々に「道うを休めよ」という響きに心が揺さぶられました。そこに善転の行の鍵が入っているようにも思います。

日々に学びを楽しんでいきたいと思います。

 

最善最良のパートナー

人は自分の持っているものをどれだけ他人に与えているかで物事の成否が変わってくるものです。例えば、いつも他人に求めているだけの人、もしくは持っているものを出し惜しみしている人では与えるという感覚よりも奪ったり減らないことばかりを考えている思考に陥ってしまうものです。

与えるということは、持っているということを認識する力です。

与えることができる人というのは、自分が何を持っているか、それが他人にどのように喜んでもらえるかを知っています。自分の笑顔や親切であったり、自分の信じる力や声掛けであったり、もしくは物理的な資金や料理や裁縫などであったり、歌であったり真心であったりと自分の中にあるものを探してきては少しでも与えようとします。

実はこの与えるということは、共生の原理でありよりよく生きる仕組みであろうと思います。活かされているというものに立脚してこの世の中を見渡せば、如何に自分を活かしていくかということが幸せにつながるのは自明の理です。

その中で奪うことを求める人と、与えることを求める人では、その生き方において人生の意味づけの成果がまったく違ってくるように思うからです。人生の通り方が同じだとしても、前者は、同じことが起きてもいつも貧しく、後者は同じことでもいつも豊かであるのです。

与えるということは、与えるのが好きだということです。そしてそれは最初から豊かなままであるということです。お金があるかないかではなく、その人が豊かであるということです、豊かであるから困らないだけでお金がないから困らないわけではないということです。もしも御互いに与え続ける関係ができればそれが最善最良のパートナーなのかもしれません。

与えるには、まず求めなければならないように思います。何を求めるかといえば例えば営業でも同じことですが、いつも自分が持っている最善最良のものを与えようとします。すると、それは自分の真心や誠意であったり、自分が探求して掴んだ真理であったり、その人の不安を解消するものであったり、悩みや苦難を取り除くものであったりと自分から相手のために与えられるものを持っていなければ与えられません。

そしてそこには物質的なものから精神的なものまで、どれだけ自分から与えられたかがその後のつながりに顕われてくるのです。営業で言えば与えてもいないのに奪い続けていたらジリ貧になってきます。その逆に与え続けていれば種を蒔き続けるのですから豊かに実ってくるのです。

何か与えたい、何か御役に立ちたいと強く願うこと、そして万人に感謝しその一人として自分を有用に使ってくださいと学び続けることでその機会もまた得られるように思います。

自分を世の中に役立てたいと真に願うならその人に仕事がないということはありません。逆に、自分はこんなに優秀なのにといつも不平不満をもっていたら人も仕事も集まってくることはありません。

自分の都合でこのくらいとか、過去のパターンでこの辺でという出し惜しみはすでに与える喜びから離れてきている証拠です。どんなことにも一生懸命、何事にも誠心誠意全力で、自分の最良最善でと願い続け継続実践することこそが好循環を呼び込むコツだと思います。

毎日を遣い切る、自分を出し切るということは、言い換えれば毎日真剣に与え続けたということになります。

あの自然の草花に見習い、誰が見ていようが見まいが最善最良を出し切っていきたいと思います。