暮らしの豊かさ

もうずいぶん前から自然養鶏を通して烏骨鶏を飼育していますが、色々とあって雄が一羽になってしまいました。病気もあり、イタチやタヌキなどに襲われたこともあり、だいぶ減ってしまいました。病気の時の看護も大変で、一羽でも病気になると他の鶏たちがその鶏を追い出そうといじめていきます。なので別飼いをしては、お世話をするのですが食事の世話や健康管理は簡単ではありませんでした。

また天敵に狙われるのも、大雨の日や風の強い日、あるいは夜中などに偶然外に出てしまった鶏などが狙われました。一度、成功したら次を狙っていつも近づいてきます。それを防ぎ撃退しようにも、野生の方が上手でまさにイタチごっこです。

鶏はいつから人間と暮らしだしたのか、色々な説がありますがエジプトでは紀元前1500年くらいからともいわれます。日本では、弥生時代だといいますがきっとその前から飼育ははじまっていたはずです。

私たちの先祖は、日々に太陽を拝んでいました。太陽が出てくる前に起きてきてご挨拶をし、「お早うございます」とお互いの早起きを確認しました。そして太陽を観てはご機嫌よくなり、よい一日を過ごすように心を努めていきました。鶏は太陽を知らせる存在として太陽と深いつながりがあると信じられていました。

今では当たり前に食べている鶏肉や卵が江戸時代までは鶏は天照大御神の神使として尊重されたため、それを屠殺して、卵をとることも含め食べることは忌み嫌われて避けていたそうです。世界が闇に包まれた時、鶏がそれを明るくするとも信じられていました。

私も今は、毎朝、鶏の声で目覚めますがタイマーなどとは違ってとても清々しい音が周囲に響いてきます。鳴かないときは、それなりに理由があり心配になります。

一緒に暮らす家族の一員として、犬をはじめ鶏も豊かになる存在です。

時代が変わっても、大切な存在であることは変わりません。新たな命と共にまた鶏が増えていきますが、代々の暮らしの豊かさに感謝していきたいと思います。

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。

味と場

食べ物は熟成や発酵、あるいは組み合わせによって味が調い健康によいものになるものがたくさんあります。例えば、酵素玄米なども時間をかけて熟成することで酵素が働きより美味しく健康な食べ物になっていきます。

お漬物なども私は13年漬け続けている高菜を持っていますが、その味わいはまるで熟成されたウィスキーのような芳醇な味わいで食べるとやはり美味しく体も喜んでいる感じになります。

経年変化で劣化すると思われているものもあれば、先ほどの熟成や発酵など時間をかければかけるほどにさらに人間にとって善いものになることもあります。これらは何がそうなっているのかということです。

そもそもこの熟成や発酵というものは、よく観察すると科学的な効果とは別に関係性というものがあります。長い時間をかけて関係を持つことで生まれてくる信頼関係やお互いを必要としあう共生関係が結ばれていきます。

私たちは時間をかけることに由って信頼関係は強くそして深く結ばれていきます。そのことから安心し、喜びや豊かさも増えていきます。この関係性というものは、味の中に私は入っているものと感じています。

なぜなら、田んぼでのお米づくりや伝統在来種の高菜でも自らそのものの生産に深く関わりそのものが喜んでくれるようにと共に働き合っていると美味しく感じ、仕合せや豊かさが増えていくのを実感しているからです。

まだ科学では証明できなくても体感として間違いなくあるものは、存在すると私は信じています。それだけまだ科学が追いついてきていない世界が私たちが生きているこの場なのでしょう。

場の中に入っているものだからこそ、私はそれを場の中で顕現させていきます。これは味も同じことです。つまり味というのは、そういう意味で場を感じるための大切な感覚の一つです。

引き続き、味と場を探求して美味しいものや健康であることの意味を子孫へと伝承していきたいと思います。

味を深める

味というのは不思議なものです。私たちは生まれてきて、色々なものを食べてきました。その食べたものを美味しいと思う感覚はどこから来るのか。最初に食べるときはお母さんから母乳をいただきます。そして身近な信頼できる存在から与えられたものを食べていきます。気が付くと、自分で食べたいものがでてきてはそれを食べるようになります。

美味しいと思うのは、自分のどの感覚が反応しているのか。これは一つは、身体が欲しているものということがあります。あとは、五感を含めて感じたものを美味しいと思います。味わいたいと思う感覚のものです。そのほかは、脳が知ってしまって自動化されたきっと美味しいだろうと思っているものを欲しがります。これは思い込みの部分が大半です。そうやって人間は、味を学びます。

他には、人生を味わいたいというように食べること以外にも味を感じようとします。つまりは、味とは体験の感覚のことで心や魂と繋がり得ている感覚ともいえます。さらに別のものでは妙味がわかるというように智慧とも結ばれます。自然や宇宙の真理とも味は関係しているともいえます。

私たちは味を人に伝えるとき、色々な伝え方をします。その表現の数は無数にあります。例えば、味わい一つにいっても食感や食音、複雑な風味や香り見た目や温度などニュアンスで人は味を伝えます。言葉にできないから味で伝えるのです。

味というのは、感覚を表現するもっとも私たちが直観し理解するそのものの本質であることがわかります。味を知り味がわかるというのは、奥深い真理がありそれが人生をどれだけ色鮮やかに豊かさを与えてくれるかと思うと偉大な感謝を感じます。

産まれてきて、味わえるという喜びは何よりも格別なものです。

その味を忘れてしまい、当たり前になったりあるいは忙しさのあまりに味わうのをやめて便利で時短のものにするのはとてももったいないことだなと改めて感じます。一期一会の味わい深いこの瞬間も、すべて味であるとし味を深めていきたいと思います。

発酵の妙味

発酵のことを学んでいると、色々と人類の固定概念が覆ってきた歴史を感じます。そもそもこの発酵というものの技術は人類を長い間支えてきたものです。日本でも、麹菌をはじめ納豆などの枯草菌や土を元氣にする土壌微生物は太古のむかしから共存していますしペニシリンなどのカビ菌も健康を下支えしてくれてきました。

この菌というものは最初は、無から誕生するといわれ信じられてきました。顕微鏡もなかった時代、物質の時間的変化を観てはそう思ったのも無理はありません。空間の中に突如として別のことが発生するというとき、人はそれを神掛かりとしたのでしょう。

その後、パスツールの実験によって変化は空間の微生物の仕業だと解明されます。しかし実際のところ、宇宙根源から観たらアリストテレスの言う「自然発生的に無から出てきた」というのは真理だということは直観できるものです。そもそも今の地球がどこから誕生したのか、宇宙が何から誕生したのか、未だに解明されていませんし解明することもありません。それはこの世はすべて目に見えるものだけしかないわけではなく、意識や念、魂というような目に見えないものも同時に渾然一体となっているからです。

しかし科学というものは、その中から解明できる部分だけを発見しそれを都合が善い部分だけ人工的に利用することで人類の思い通りに加工してきてそれを進歩や発展としてきたのでそれが真理のように取って換わってきたように思います。

この発酵というものは、実際のところはいのちの話ですからよく分からないところはまだまだたくさんあります。麹菌においても、日本人に合うように飼育されて変化して今に至りますし、田んぼの土なども真心を籠めて見守り関わっていると微生物との関係性ができて地力があがりよく作物が育つようになります。人間の腸内細菌もまた、同様に腸内フローラがよくなるような生き方や食べ物によって健康が保たれます。

まるで意志を持ち、人間と同じような個性や特性を持っている菌を果たしてどう捉えるか。ある人は、人間の正体は本当は菌であるという人もいます。確かに、腸内細菌が脳を支配し、全身の微生物の調和によってウイルスなどとも和合し自然の循環の中で自然と共生しているのも菌です。

またある人は、人間はミミズが変化したものともいいます。土を食べ、菌が食べてさらによい土にしていくという循環の仕組みは本来は人間と同じです。

現代は、人間が科学的なものや不自然ものを摂取して体内の微生物たちも色々と変化していますが本来は自然と共生する菌たちの相互扶助の仕組みで生命は循環しているのでしょう。

目には観えなくても、この手のひらにも空気中にも、そして水の中にも微生物たちで満たされています。最近は、殺菌ばかりしていますがこれも何だか本末転倒というかちぐはぐというか知的文明を語りながら刷り込みというのは滑稽なことだなと感じます。

もちろんどうしても滅菌している空間でないと難しい時は当然ですが、自分たちが微生物の親類であることを忘れるのは残念なことです。今でも私たちはお酒をはじめパン、みそ汁など日々は微生物の活躍に頼っています。

尊敬の気持ちを忘れずに、子孫たちへ発酵の妙味を伝承していきたいと思います。

伝統の魂

現在、英彦山の宿坊での暮らしを調えていくなかでかつてその場所で行われていたことを一つ一つを甦生させています。その中で、学び直すことが多く私たちの先人たちがどのような伝統を創造してきたかも気づき直しています。

知識というものは、先に持つこともできますが実際には後で持つ方がためになります。何のためになるかといえば、革新するときのためになるのです。先に伝統を学ぶのではなく、先に伝統に親しむ方が後から変化させることが容易くできます。

私の場合は、場から学び、そのものから理解する癖があり体験を重視し気づきを尊重するので知識が後になることがほとんどです。このブログも、後の知識であることがほとんとで先には親しむだけです。この親しむというものも、素直さが必要でありよくそのものに使われるような謙虚な気持ちがなければなかなかそうならないものです。

よく考えてみると、幼い子どもたちは先に知識がありません。そのものからよく使われているうちに次第に知識が集まり習熟していきます。発達というのは、そのものであるということでしょう。

また伝統というものは、誰かがそれをはじめに創造してそれが時間をかけて繰り返される中で育まれていくものです。しかし気が付くと、形ばかりに囚われて中身がないものがたくさん出てきます。この時の中身とは何か、それは魂ともいえるものです。

かつて柔道の父といわれる嘉納治五郎氏が「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」と仰っていました。まさに私も全く同感で伝統だけを保存することに何の意味があるのかと感じます。保存というのは、活かすことであり単にショーケースに居れたり形だけを保ち続けることではないのです。

そこには魂が宿るのですから、その魂を受け継ぐことが真に伝統を革新しているということになると私は思います。

また南方熊楠がこうもいいました。「森を破壊して、何の伝統ぞ。何の神道ぞ。何の日本ぞ。」と。そもそも伝統が最優先ではなく、子孫や自然を如何に守るかということでしょう。その手段としての伝統や神道などがあるということでしょう。

そもそも何のために伝統があるのかを考えれば、そこには守りたいものがあるからでありその守りたいものを守るところに魂があるということです。

伝統の魂を守ることを伝承ともいいます。伝承には純度が必要でそこには魂が宿っていることが最低であり絶対条件でしょう。周囲がどういおうと信念をもって実践できるかどうかが志の登竜門ということでしょう。

引き続き、子孫のためにも英彦山で伝統の革新を続けていきたいと思います。

墨の智慧

昨日は、英彦山の守静坊で8回目の仙人苦楽部を行いました。今回は山水画の仙人でしたが4時間ほどの知恵を共にしましたが深い体験ができました。参加した方々はみんな山水画ははじめてでしたが、そのどの画にもその人らしさをはじめ場で得た境地を拝見することができました。

最初は仙人からの山水画とは何かという話にはじまり墨の濃淡のこと、筆の持ち方、そして画き方などの基本についてのお話をいただきました。とても謙虚に、山水画の楽しみや喜び、画の持つ妙味を全身でお伝えいただきました。

そしてみんな画への苦手意識など全く気にならず、それぞれが没頭してテーマに対して楽しく集中して画き楽しみ喜びあいました。守静坊英彦山の場の力もあり美しい新緑の光や風に見守られ一期一会の山水画のお時間を過ごしました。

また仙人がライブでこの英彦山と守静坊と仙人を即興で画きあげてくださって、その雰囲気にみんな深く魅了されました。

私たちは画いてみるときはじめて深く観察します。ただ見ているのと観ているのとではまったく異なるということ。そして美しさや自然というものを感じるのは、相性がありその相性そのものを通して和合していく豊かさ。さらには、現実にこだわらず理想を自由に画くことの大切さなどの素晴らしさを学び直すことができました。

私は炭大好きですが、この墨も同様に深く愛しています。この墨が画く濃淡には、火の心があります。この火は、消えているようでも墨に残存しているものです。その火を、水で濃淡を調整してそこにいのちを宿します。まさひ火水(カミ)の業です。墨はその神がかる力があるのを直感します。

この墨を用いて画くものは、私にはとても相性がよさそうです。これから少しずつ仙人から学んだ知恵を掘り下げて、場をさらに磨き上げていきたいと思います。

ありがとうございました。

暮らしフルネス 掃除の意味

暮らしフルネスの中では、よく掃除をします。掃除というよりもお手入れという言い方の方が多くしますが、これには色々な理由があります。また道具もむかしの日本の職人たちがつくった和帚を使います。現代は、箒も中国産や東南アジア産ですぐに壊れますが安いものがたくさんホームセンターで販売しています。便利ですがすぐに傷むのでどうしても使い捨てになります。さらには掃除機が普及したことで、余計にむかしの道具は消えています。日本で箒職人さんというのはほとんど見かけなくなりました。

手間暇かかる自然の道具は、時間も労力もそして技もいるので安い海外産が入ってくるとどうしても駆逐されていきます。畳なども同様です。しかし畳の時も同じで、伝統の和のものは本来は日本の風土を活かした風土と一体になった暮らしの中で循環する大切な暮らしそのものでした。

日本の暮らしを味わうためには、先人の生き方に倣いその先人の知恵を尊敬のままに活用することで感得できるものです。そういう意味で、掃除というものは知恵の宝庫です。

もともと掃除という言葉の由来を調べていると、中国からのものであることがわかります。この時の掃除は、廟の中を祓い清めるために行いました。もともと箒というという字も「ほうき」は「ははき」の音が変化したもので「ははき」は、古くは鳥の羽を用いたところから「羽掃き」となったとあります。その道具は棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けたものです。

これを「帚(そう)」と呼び、そこに酒をふりかけるなどして廟を神聖に保ちました。この字に竹を冠したものが「箒」でその異体字として「草」を冠した「菷」の字になりさらに「手」にとって廟の中を祓い清めたら「掃」となります。そして「掃除」の「除」は“あまねく”という意味で、神聖な場所を余すところなく掃き清めるということです。

特に禅宗では「一掃除二信心」というように掃除こそすべての修行の先であるともいわれます。和箒となると、神道ではもともと箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると信じられていました。古事記にも「玉箒(たまほうき)」や「帚持(ははきもち)」という言葉で表現され祭祀用の道具として用いられていました。

それだけ掃除や箒は、神聖なものということでしょう。仏教でも周利槃特といって掃除で悟りを開いた方がおられました。掃除という儀式や実践そのものが信仰の原点であるというのもよくわかります。

私も古民家甦生を通して、実際にやっているほとんどは掃除の実践です。本当に驚くほど、掃除とお手入れしかしていません。しかしそれが何よりも家が喜ぶことになり、自分も場も喜びます。

色々と情報化社会で便利でお金で何でも買える世の中になっていますが、掃除もメンテナンスや掃除屋さんに頼んでは強烈な薬品や業務用の掃除機やブロアーで吹き飛ばすようなことが盛んです。時短で効率優先というのは、掃除や和帚にそもそもの意味がなくなってしまえばそうなるのは当然です。

時代が変わっても、初心を忘れないこと、意味を場に留めることは伝統や伝承に関わる人たちの大切な責任と使命であろうとも私は思います。時代の流行や日々の喧騒に流されないように丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。

場の道場

私は徳積循環の経済を甦生するために様々な活動をしています。その中心には「場」があります。この場とは、徳の場のことです。この徳の場というのは、そもそも場には徳が宿るという意味です。そしてこの宿る場には何があるのかといえば「いのち」があるということです。

現代は、いのちが空洞化してすべて物や具になっています。本来は物にも具にもいのちがあります。それを証明する言葉が「道」です。この人の道が失われてきている時代だからこそ、私は徳を再解釈、再定義する必要を感じたのです。

それを暮らしフルネスという思想の実践によって実現しているのが私の場です。しかし現代、この場というものへの認識は非常に希薄であることを感じます。その理由は、その場からもいのちが失われているからです。

そもそも「いのち」というものは何か、そして「徳」というものが何か、これもすんなり理解することが難しくなっています。そしてそれを実践するなかで「こころ」という存在もあります。私たちの日々に過ごす暮らしのなかには本来はこのこころ、いのち、いわゆる徳というものが循環しています。

それを単なる物や具として、いのちが宿らずに空洞化するとき場も単なる場のようなものになります。それを和風のように場風と呼んでもいいかもしれません。

有難いことに、聴福庵をはじめ私が実践する場にくると場を瞬時に感じられる人もいます。そういう人たちは、先ほどのいのちを場に感じています。

私が場の道場で実践するものは、言葉にしていませんが共に暮らしを通して学べる仕組みになっています。この価値は、今の物や具の社会では推し量る評価がまだありません。いのちの価値や徳の価値を一般的にどう量るのか、これは現代の一代限りの私的欲望を追及する歪んだ個人主義のなかでは滑稽にすら思われることです。

しかしそれは本物の「場」に入れば、そうはなりません。それだけ場には全てが宿るのです。単なる宿泊施設でもなく、単なる家でも社屋でもなく、場を感じることが大切なのです。

と、こうやって言葉にしても場は伝えられませんから場に来ていただくしかありません。ご縁に導かれつつ、子孫や場が必要な人たちにいのちや徳の循環を伝承していきたいと思います。

真心の道具

お金というものは改めて観察すると不思議なものです。お金そのものは交換する道具として発明され、それが信頼関係を築く道具になったり、戦争をする道具になったりします。これらの道具というのは、包丁やハサミなどと同じく使う人の使い方次第で武器にもなれば暮らしを助けるものにもなります。道具という意味では、どれも同じでしょう。

だからこそ、道具が問題ではなくそれを用いる人によります。しかし道具には発明することであまりにも危険なものがあります。原子力なども、原発の事故でも感じましたが平和利用といっても子孫に多大なツケを遺すようなものを用いるのは危険であることが分かります。

現在、経済戦争といって経済が戦争で使われることが当たり前になりました。本来の経済の意味は経世済民ですから経済戦争という言葉自体がおかしなものであることがあかります。これは別のものにすると、道徳戦争みたいな造語です。

そもそも大前提として道具はどういうものかということがズレてしまえば何を作って何を発明してもその道具はよくないことに使われます。道具を人間の欲望だけで便利に使えば使うほど、道具が世の中を住みにくくするということがあるように思います。

例えば、むかしの道具は自然物でつくられていました。お手入れをしてお世話をしないと壊れたり痛むものばかりでどれも大切に使っていました。同時に、むかしの道具は人間が心を労して疲れることが多いものばかりでした。しかしその方が、真心を入れられ、丁寧に丹誠を練りこめるために重宝されました。

つまりむかしの道具は、大前提として真心が必要なものばかりでした。むかしは心を交わして心を交換していたということでしょう。交換という言い方よりも、心を結び合わせていたという言い方の方がいいかもしれません。そういう時代のお金は、現代のようなブラックボックス化された基軸通貨でもなければ、金融資産でもありません。

金融資産で得たお金の交換というものは、果たしてどういうものでしょうか。真心を籠めて労を厭わずに取り組んだものが果たしてお互いに心を結び合わせることができるでしょうか。

自然とのつながりや結びつきが薄れるほどに心の結び合わせも失われてきました。人間というのは、どうしても人間同士だけになるとお互いの損得利害ばかりに道具が用いられるものです。自然物が自然を道具にしているように、私たちは本来の自然をどのように道具にするのかを考え直す必要を感じています。

大切な資源を真心の道具で結び合う、仕合せというものをどう豊かに味わっていくかが新しい経世済民、主義を超えたものになるように私は思います。色々と挑戦は時間も心も使いますが子孫のためにも丁寧に取り組んでいきたいと思います。