炭のチカラ②

昨日、無事に合計700キロの備長炭を床下に敷き終えることができました。すでに2日目になると、床下の空気や雰囲気も澄んできているのを感じます。炭の効能は科学的にわかってきている部分もありますが、未だに解明されていないものもあります。

先人たちは炭と共に暮らしていく中で、その効果を長い年月をかけて自得していたのでしょう。昔は傷ついた動物が炭焼き小屋で傷を癒したという民間伝承も遺っています。実際に、牛や犬なども胃腸を整えるときに炭を食べているそうです。炭には水を浄化するだけではなく体内を浄化するチカラもあり、いのちに関わる様々なところで昔は活かされたようです。

私の中で現在、発酵を通して気づいたことは炭には微生物が棲んでいるということです。炭の表面を拡大して観察するとミクロ単位の孔が無数にあるそうです。その孔は縦横無尽につながっていて全てが外気に触れています。

この炭の内部にある「多孔チューブ」の表面に水や空気が通ると有害物質が吸着され、孔内にすむ無数の微生物によって分解するという仕組みです。この内部に住む微生物こそ土壌をアルカリ性にする作用があり、木炭を撒いた畑の作物が良く育つ理由とも言われています。私たちが生活しやすいように微生物たちに活躍してもらうという方法なのです。

私たちの住まいが家であるように、微生物の家は炭になります。そして炭を愛する微生物たちが私たちの人間の暮らしに共生し、自然の相乗効果を発揮するのではないかと私は推察しています。

自然農や自然養鶏の中で、水の中に炭を入れていますが生き物たちはその炭の周囲を暮らしの中心にしていきます。不思議なことですが、その炭を置いた処から発酵場になり発酵が進むのです。多様な生き物を活性化するということが発酵ですから、炭の効果は甚大なのです。

今回の夏季実践休暇で気づいたことは、「炭こそ暮らしの家」であることです。炭がある暮らしというのは、そこは豊かな生態系が発生してきた家であったということです。私たちの親祖たちもずっと火をおこし炭を焼き暮らしてきました。そしてその周りに人間たちが共生した生き物たちが集まって豊かな生態系の中で一緒にいのちをつむいできたということなのでしょう。

炭の持つ、不思議なチカラを体験できる善い御縁をいただきました。さらに炭道の達人との新たな出会いもありましたから引き続き学び直しつつ深めていきたいと思います。

 

 

炭のチカラ①

今年は夏季実践休暇を用いて、「炭」について深めています。キッカケは、自然養鶏の発酵床や、漬物の発酵場にづくりに炭を用いたり、田畑や植物の発酵土壌づくり、最近では昆虫飼育、飼料にいたるまで炭を使ってみて効果があったことを実感したからです。また昨年から風土について深めていく中で、その土地特有の風土がその人物を醸成することを学び、私の故郷のことを考えていく中で発見があったことも要因の一つです。

私の故郷は、筑豊といい炭鉱が有名な場所です。地面には大量の石炭が埋まりその石炭が土深いところに埋まっているからです。私の育った風土が石炭に関係するのなら、「炭」に関することを学び直そうと思ったからです。何年も前から実践しようとは決めていましたが、今回の機縁に感謝しつつ取り組んでみようと思います。

そもそも炭の効果は先人たちは知っていました。中国や日本の遺跡でも大量の炭が出土しています。世界を驚かせた発掘の一つに1972年に中国で発見された2100年前の「馬王堆古墳」でその棺を開けると出てきたのはまるで数日前に死んだような貴婦人の遺体がでてきたそうです。まるで内臓もしっかりしていて胃の中にあったウリの種を土にまいたら発芽したそうです。世界の謎としてなぜミイラにもならず保存することができたのか波紋を呼びましたが棺の周囲には5トンもの炭が埋めつくされていたのが分かったそうです。発掘の際にも堀った小さな穴から有機物が分解してできたメタンガスに火をつけると青白い炎が三日三晩ずっと続けたそうです。

私がここから推察するのは、そこには確実に「発酵場」があったと確信しています。2100年間保存ができるということは、必ず其処に発酵の智慧が入っていたはずです。

他にも日本では伊勢神宮をはじめ、法隆寺、京都にある神社仏閣などもその地下に大量の炭が使われています。他にも東北の古い蔵やかつての古民家などでも壁に炭を塗り込まれていたのが多数発見されています。炭には場を清める作用があり、これは「イヤシロチ」といって清浄で澄んだ場になるという意味で、この癒白地に炭を使って浄化作用を高めたということでしょう。逆に水や空気の抜けが悪く、ジメジメとした場は「ケガレチ」といいます。ここは発酵がないような穢レ地になり、人間の生活に合わない場になっているようです。

今回、夏季実践休暇を用いて床下に700キロの備長炭を敷き詰めることにしました。この備長炭とは樫や馬目樫の木を備長窯で焼いた非常に堅い炭のことです。備長窯で焼く製炭技術は弘法大師空海が中国からもたらしたといいます。備長炭を焼く窯の小さな排気口を今でも「コウボウ穴」「ダイシ穴」といい、中国伝来の技法を紀州や土佐に伝えたのは空海に間違いないと言われています。

昨日は半日をかけて約400キロほどの備長炭を敷き詰めました。この作業自体は床下に潜り大変苦労しましたが炭の敷き詰める際の炭の音や粉に癒されます。先人たちは、きっと悠久の時間をかけて炭と共に暮らし、自然の智慧と技術を磨いてきましたからこの炭の効用を知り尽くしていたのでしょう。

なぜ炭が人間の生活と相性がいいのか、そこには私たち人間の暮らしの性質に「土と木」が入っているからでしょう悠久の時間をかけて関わってきた暮らしの智慧の一端を実感します。

「稲」に続き、「炭」は私にとっては壮大ないのちのルーツを辿るミラクルジャーニーのひとつです。

引き続き、「炭」について深めて書いてみようと思います。

 

チカラの本質

以前、ある経営者と漫画について話すことがありました。その方は、京都大学を卒業後あらゆる本を読んできたけれど「NARUTO」ほど参考になるものはなかったと仰っていたことが印象的でした。この「NARUTO」というのは週刊少年ジャンプで連載していた岸本斉史原作の忍者漫画のことです。1999年43号から2014年50号迄掲載し全700話ある少年ジャンプの看板作品です。

私も幼い頃から、少年ジャンプや少年マガジンなど漫画を読んではキャラクターに共感し、夢を見ることの大切さや仲間を思いやることの素晴らしさ、また最後まで諦めないことの重要性など、様々なキャラクターに思いを寄せて共感しては人生の要所要所で勇気と励ましをいただいたように思います。

漫画は漫画家がそれぞれの人生観に従って描き記していくものです。これは詩や文と同じく、その人の生き方をはじめ思想や哲学が入っているものだと感じます。より具体的に読みやすく解りやすく多くの人たちに影響を与えるという意味では漫画というのは素晴らしい作品であるように思います。

この「NARUTO」ですが、25年連載していく中で作者もまた25年の歳月を様々な出来事を通して学んだことが漫画にも投影されています。毎週連載をしていくというのは、毎週人生を深め高めて実践していくことに似ていますからキャラクターの成長は漫画家自身の成長でもあるように思います。

あらすじとしては、木の葉の里の忍者アカデミーという若き忍者の育成機関の生徒「うずまきナルト」がいつか木の葉の首領「火影」になることを夢見る話です。実際は弱点ばかりの落ちこぼれ忍者が、数々の出会いを試練を乗り越えて見事立派な火影忍者になるまでが描かれています。そのライバルに「うちはサスケ」という忍者もいました。何でもできて完璧な忍者でしたが、同じように火影を目指します。その火影を目指すプロセスに哲学があり、それが作品を通してあらゆる場面でぶつかり葛藤します。

うちはサスケは、「人々に選ばれた者ではなく 躊躇いなく憎しみを受け入れる事が できる者こそ火影に相応しい人物だ。」と言います。それに対してうずまきナルトは「火影になった者が皆から認められるんじゃない、皆から認められた者が火影になるんだ仲間を忘れるな。」と学びます。

自分のチカラだけを頼りに強さを求めてきたサスケに対して、周りのチカラ添えを頼りに強さを見出したナルト。本来の自立とは何か、チームワークと根性というものがナルトの強さの秘訣だと言いますがそこには仲間に対する信頼と、自分自身に負けない強さがあったように思います。

人は己に克つことをやめて強さを求めたらサスケのように孤独になります。しかし己に克ちその上で仲間を信頼することができるのなら協力できるようになります。本来、チカラを持ちたい動機は大切なものを守りたいからではありますがそのプロセスの中に自我欲に負けてしまうのか、それとも周りの役に立ちたいのかで「生き方」が出てきます。生き方が決まれば、次にその「やり方」がはっきりしてきます。そのやり方をこの「NARUTO」は皆に解りやすく伝えているように感じて共感することが多いです。

己に打ち克ち、周りを信じるということは本当の強さと優しさを兼ね備えた人としての思いやりの道です。「NARUTO」の随所では「忍道」という言い方をされますが、「道」を歩むものとしての心構えた志について描かれたシーンはどこも感動する物語ばかりです。

自分の生き方と照らしつつ、道を愉しみ道を味わい、真心や思いやりを反省しつつ子ども達と一緒に歩んでいきたいと思います。

永遠のいのち~ヤマトコトバ~

日本には全国各地にその信念で生き切った純粋な方々の余韻が史跡や行跡、言葉に遺っています。同じように生き方を習い、純粋な真心で生きようとしている方々はその場に遺る余韻に自らを重ね合わせて内省をしているものです。

ヤマトタケルの頃より、様々な大義を持って歩んだ志魂はのちのちの子々孫々へ受け継がれてその真心で生きた人たちによってこの風土は守られてきました。その真心はどのようにして知ることができるか、そこにはそれぞれに遺した詩があります。その詩を感じてみれば、その人の純粋な思いが息づいています。その純粋な思いに触れることで、私たちは何百年も前のいのちとも触れ合うことができるのです。

先日、ヤマトタケルのことを思っているとある方の詩に出会うことができました。

三井甲之という方の詩で、「ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」というものです。感謝の真心でヤマトのクニをいのり、勇気と大義によって己のいのちを賭してきた、その先祖たちの見守りの御蔭様で今の私たちがあるのを実感できる詩です。

詩を読む真心は純粋透明なものであり、その人の経歴がどうかではなく心のままに純粋自然の感覚が言霊になることで本来のヤマトコトバの美しさに出会うように思います。

ヤマトコトバには日本古来の先祖たちの真心が生きています。そこには感謝や御蔭様、あらゆる御縁を大切につむいできた生き方があり先人たちの願った暮らしがあります。今のように言葉が技術になり氾濫する時代において、真心そのままを言霊にした親祖に詩を通してその真心に通じ合えることは今の私たちのルーツを見つめ直すためにもとても重要なことだと感じます。

その三井甲之さんの『墓碑銘-石にしるすことば』というものの中に、「ヤマトコトバ」の本質が記されているように感じここに紹介します。

コノ石ハ
天地(アメツチ)ノアヒダニアリテ
天地ニツラナリテ
ココニアリ。
コノ石ニ
コトバヲシルス。
人ハ死スレドモ
コトバハ生キテ
イノチヲツナグ。
コノツナガリハ
地上ノサカヒヲコエテ
ヘダテナキ宇宙ニヒロゴル
コトバコソ
カギリナキ生命ノシルシナレ。
イマソノコトバヲシルス。
ワガイノチノシルシナリ
ココニシルスヤマトコトバハ。

日本古来のヤマトコトバには永遠のいのちが宿っています。その永遠のいのちはその言霊を語ることにより志が受け継がれていきます。子ども達には一つでも大切なヤマトコトバを語り記していきたいと思います。その魂が生きた証、その志が遺る理由を語り継いでいきたいと思います。

人格を磨く

人間は人格を磨いていく中で、本来の自分の天分を活かしていくことができるといいます。素直になって謙虚になれば物事を受け容れありのままに自分の御縁を生きていくことができるからです。

実際に、どんな仕事でも自分以外の誰かと取り組む仕事は自他を合わせ鏡にして御互いを磨き合っていくものです。鏡の曇りがなく、美しい素直な鏡と合わさるなら自分の美しい素直な部分が投影してきます。もしも濁った鏡と合わせるならより自分が分からなくなります。御互いが合わせ鏡だからこそ、何を心に映していくかというのはその人の素直さに由るのです。そしてその心は生き方によって磨かれますから、人格を高めて自己修養によって鏡をいつも日々に洗い清めていくしかないように思います。

また仕事は同時に互いを磨き合うものです。どの砥石を用いて自分を磨いていくか、何をそぎ落として研ぎ澄まされたものにしていくかは自分の選択が決めるともいえます。砥石選びというものは、謙虚さが必要で素直な心でなければ誤った研ぎ方によりかえって自分を活かせなくなるかもしれません。そしてこの素直な心というのは、全ての基本になっているように思います。

松下幸之助さんに「素直な心の十か条」というものがあります。

1.私心にとらわれない
2.耳を傾ける
3.寛容
4.実相が見える
5.道理を知る
6.すべてに学ぶ心
7.融通無碍
8.平常心
9.価値を知る
10.広い愛の心

素直の実践の中で掴んだ感覚を、そのまま十か条にしているように思います。こういう状態の時は素直な心が働いていますということでしょう。そのどれもができそうでできないことであり、人格を磨くために大切な鏡であり砥石であることに気づきます。

例えば、私たちも「傾聴」というものをもっとも大切に実践しています。しかしそこに私心に囚われて「きっと何か理由があるのだろう」と考えず心の余裕をなくしていればすぐに傾聴できずに思い込み決めつけることになってしまいます。自らが聴き福にするか、自らが学んでいるか、自らが受け止めているか、自分に矢印が向いているかとしたとき、はじめて傾聴が始まってきます。

松下幸之助さんは傾聴のことを「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」といいます。それを黒田長政の「腹立てずの意見会」の実践を紹介し、会合を長政が最期まで続けたのは「一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと」と言っています。聴くということは自分自身の私心と向き合うことでもあります。自分が聴きたくないことを言われてもそれを素直に受け入れてみる。そのあとは何を行う必要があるかが自明してくるのが人間です。

あるがままに物事が観えるなら、あるがままに対処すればいいのですがあるがままに物事を観たくないからあるがままに対処できないのです。本来、素直さというものは私心を交えずに全体を観るチカラとも言えます。それは自然が自然の循環を邪魔しないことと似ています。素直な心を磨き、人生の最期には自分の天分を全うできたと思えることは本当に倖せなことだと思います。

畢竟、人間はどんな仕事であってもどんな出会いであっても御互いに人格を高めていくことでしか御互いを活かす道はないのかもしれません。しかしそういう切磋琢磨できる同志がいることは人格を磨きたいといった素直の心があるから出会えるのでしょう。御縁の中に「素直」であることを第一義に、常に子どもから学び直していきたいと思います。

貝殻~宿る美~

貝磨きの御縁から貝殻の美しさについて考える機会がありました。なぜ貝殻が美しいのか、その貝を磨くことが一体何かということをここで書いてみようと思います。

私の中での貝磨きというのは、魂磨きと同じ意味です。魂磨きとは「自分に宿っているものを発掘し発見していくもの」とも言えます。私たちもカラダを依代に宿る魂であり、すべてのいのちには等しく魂がありますからその魂を引き出していくことは自分の存在を確認していくことであり何のために生まれてきたのかを知る旅でもあります。

貝殻の美しさは、その本質に魂が宿っています。貝殻は貝の時、貝のいのちを守るために存在したものです。貝は一生を海で過ごし、長いものでは何百年も生きるものもいます。波に揺られ、海のリズムで壮大に生き使い古された貝殻にその生きたものの魂が宿っているからです。私にとっての貝殻は「宿」であり「故郷」です。

あのヤドカリ(宿借)も、宿主が死んだあとの宿を借りその魂を継承して活かしていきます。古語では「カミナ」という響きを持ち、宿に由るいのちではないかと私は思います。

この宿の美しさは『使い古された美』に由るものです。使い古されれば使い古されるほどに、次第に光り輝いていく美しさ。それは魂が磨かれて磨き貫かれた中にある「毘」とも言ってもいいかもしれません。これを「直毘霊」といい、古人はその直毘魂を引き出していくことが大義に生きることであるとも言いました。

貝殻の美しさは、その貝殻に宿された魂があることです。

魂が遣ったものは、どんな古いものでも素晴らしく光り輝きます。そしてご縁を観てそのご縁を大切に活かすものが顕れればそのいのちは新生していきます。まさしく温故知新に宿る美、「カミナ」するのです。かんながらの道の一つに、貝が顕れたのはその「カミナ」が道を導く存在だからかもしれません。

原始の海、原始の親祖たちは貝殻に魂が宿るのを知覚することができたからこそ装飾したのでしょう。海と共に美しく生きた貝殻に、自分の魂を重ね合わせて魂磨きを行っていたのかもしれません。

御縁の世界は、かつて使い古された中に生きた魂が宿る世界を知ることに似ています。目に見えない歴史をつむぐことは、目先の生だけを貪らない生き方を実践していくことに似ています。貝殻をカラダに纏うことは先祖代々から磨かれてきたいのちをそのままに譲っていくといった「かんながらの道」を体現することに似ています。

貝の御縁を大切に、その毘と美についてさらに深めていきたいと思います。

個性=人間性~助け合う社會のために~

個性というものについて昨日も書きましたが、個性は人間性を優先するためになによりも大切なものです。人間性が個性ですから個性を排除するというのは人間性を排除するということです。人間がロボットやゾンビのようになるのもまた、その個性を排除することで行われていきます。

個性とはその人そのままの姿ですから、それをみんなと同じにするというのは個性を否定するということです。人間は自分得意不得意がカラダにも出てきていますし、顔にも、性格にも、特長にも表れて出ています。それは観方によれば、それを活かして使ってほしいというアピールでもあるのです。それを長所ともいい、その長所を伸ばしてあげることで人はみんな役に立つ仕合わせに出会います。仕合わせとは助け合いの中で得られるものですから、自分の長所が皆に喜んでもらうことほど自己実現できることはありません。

そしてそれは周りが個性を発見、発掘することも大事ですがその本人が個性を出していかなければ周りに貢献していくことが難しくなります。長い時間をかけて個性を否定される教育を受けてきたり、自分自身で個性をなくしていくような生き方をしてきたら自分自身に気づかずに新しい自分にも出会えません。

それではどうやって個性を引き出すかということです。

それは「己に克つ」ということです。人は自我欲を乗り越えて、自分都合を度外視して私的な自分を手放して己の目的や信念、初心、理念を優先することで己に打ち克つことできます。そうやって己に打ち克ち続けることで次第に個性は磨かれて発揮されていくものです。個性が出てくれば、次第に周りがその個性に自分の個性を合わせて協力していくことができるようになります。

個性は己に克った集積により磨きだされていきます。世の中で活躍する人たちや、貢献していく人たちはみんな個性が突出しています。そしてその全ての人たちはみんな「己に克つ」ことができている人です。個性が人間性であり、個性を磨くことが人格を磨くということはそういうことです。

人間は生まれながらに唯一の個性をもって産まれてきます。それは指紋が一人として同じ物がないように、顔が同じ顔がないように個性を何よりも尊重します。その個性を尊重することが本来の「人権」であり、それは単になんでも私物化する自分の権利のことではないのです。

だからこそ人権を尊重するために、産まれてきたままの異なりを否定せずに認めることが子ども一人ひとりの発達を尊重するということになるのです。私たちの提案するミマモリングプラスというのはそういう哲学と思想、実践の中から開発されてきたものです。

個性豊かな仲間たちを増やして、百花繚乱の美しい思いやりのある社會を子どもたちに譲っていきたいと思います。

協力ができて一人前~自立の本質~

人間だけではなくあらゆる生き物には個性があります。個性とは何か、そういうことをまともに考える機会も少なくなっているように思います。私にとっての個性とは障碍のことですが、いくらその障碍が個性だといっても今では誤解されることばかりです。障害と思っているのは一体誰のことなのか、そして誰にとってのかということに刷り込みを感じます。

先日、「一人前」について考える機会がありました。

人はみんな一人前になれとか、一人前になりなさいと言われて教育をされてきました。私も学校では、一人でできるようになるように周りと同じことができるようにと教育されてきました。ここでの一人前の定義は、「一人になる」ことです。何を持って一人か、それは全体と同じ中の一人という画一的なものになることです。

しかし実際の世の中に出てみると、もちろん大量生産大量消費の一部として自分が存在するのならいいのですが人間は人間の間で助け合い協力しあって生きていきますから、「一人前」になることの定義は他人を頼れるようになることです。つまりは本来人間は一人で生きていくことはないのだから実社會における一人前は周りの協力を得られるよう「一緒になる」ことなのです。そして一緒になるには個性が必要です、個性とはその人が持っている持ち味のことです。私はこれをユニークさと言い換えてもいいます。

ユニークとは何か、それは唯一つの個性、一人前であるという意味です。

個性を否定してユニークさをなくさせることで一人前と定義している社会と、個性を尊重してユニークさを発揮してもらうことで一人前だと定義している社會はまったくその目指すところが異なっています。自分自身であることを我慢して障害というレッテルを恐れてフツウの人でいようと頑張ってみんなと同じようにしていたら、ますます孤独になり一人ぼっちになってしまうかもしれません。それよりも自分自身のままでいいと、今の自分自身を認めて周りの得意不得意を受け容れ周りに頼り自分を活かすことができるならその人は仲間にめぐり会い一人前のハタラキを発揮していくのです。自然の摂理である共生もまた同じく、すべての生き物は一人前として一緒に暮らしていく中で周りと助け合っているのです。

もしもあなたが自分と違う人が気になって矯正させようと思っていたり、何かしらの偏りがあったり見た目がフツウではないと思う人を偏見で決めつけたり勝手に思い込むのは自分の中に歪んだ個人主義の「刷り込み」があるからかもしれません。それをすべて「個性」であると思い直す時、人間は本当の意味で肩の力が抜けて楽になり自他の個性を丸ごと認めることができるように思います。

自分を活かすのも他人を活かすのもまず、その人に具わっている個性がありのままに観えてはじめてできるものです。御互いが得意不得意があるからこそ、御互いに助け合う必要が出て来ます。独りで完璧なっても一人になるだけで、一人前になるわけではないのです。人間の仕合せの根源は、思いやり助け合うことですから協力するということができて一人前であるのは疑いの余地もありません。

子ども達が本来の個性に目覚め、自分らしく豊かに社會で活躍し仕合わせに暮らしていけるように「協力ができて一人前」であることを働き方の実践で示していきたいと思います。

 

本物の暮らし~魂の伝承~

昨日は石見銀山にある群言堂本店に訪問し、他郷阿部家を見学し松場登美様と御縁をいただくことができました。

ここの全てを見学しながらすぐに実感するのは、随所に心の風景のようなふるさとの懐かしさです。場所場所に配置されているものはすべて御縁から頂いたものしかなく、その一つ一つにはすべて物語があります。天から授かったものを大切に向き合っていく生き方が、その気配りの随所に顕れていて絶妙な安心感に包まれる空間がありました。

そして松場登美様のお話の中で何より感動したのは、「暮らしの基本」のお話です。

そもそも人間に与えられているものには宗教、哲学、芸術があるといいます。そしてそれは暮らしの中に存在しているものです。その基本として感謝する気持ちが宗教であり、哲学は学問ではなく美しく生きることであり、芸術は子どものようにアーティストであることだといいます。そして暮らしの中にある長い間の文化が如何に美しいかを思い出すことが大切であるといいそのモノサシは「正しいかどうかよりも美しいかどうか」だと仰っていました。

私たちが本来持っていた暮らしはどこからか分断され今では経済優先、効率優先、お金ばかりで「もったいない」の意味もすり替えられてしまいました。本来のもったいないという”御縁をつむぐ”ような考え方ではなく、単に貧乏性のような用いられ方になってしまっているように私は思います。

私たちの暮らしを後回しにしてきたツケは、必ずこれからの子ども達にまわってしまいます。どんな未来にもどんな事業にも暮らしは欠かせないものですから「本物の暮らし」を見つめ直す時代に入っているように思います。如何にこれからの日本にかつての「本物の暮らし」といった根のある生き方を遺していくか、それは古いものか新しいものかではないのですから子ども達にその根を譲っていくために私たちもしっかりと実践しなければと改めて気づき直すことができました。

文化が壊れていくなかで何を遺していけばいいか、時代の変遷の中で何を大切に譲っていけばいいか、それは「本物の暮らし」であり、「先祖たちの真心」、それは「美しい生き方」であると確認しました。そして悠久のもの、古いものの全てには”魂が宿っている”からこそその魂が慶ぶ生き方や使い方をしていきたいと思います。

そしてこれからもずっと子どもは私たちの未来であり、子どもたちは先祖から譲られてきたクニの宝です。その子どもたちに何が遺せるか、そういう視点からカグヤでも今回の御縁を活かし実践を根気強く発信していきたいと思います。

御蔭様の奇妙な御縁に心から感謝しております。次回は、一家総出でぜひお伺いしてお世話になります。ありがとうございました。

 

いのちとは何か~病の根源~

昨日、あうん健康庵の小松健治先生にお会いすることができました。「医者が学んだ祈りの力 自然治癒のパワーを細胞に取り込む生き方」(幻冬舎)が出版された時にすぐに手に取り拝読した際に、私と自然観が同じでしたのでずっとお会いしたいと思っていました。

治療の前に対話を通して教えてくださったのが「自然治癒は楽になる」ということです。この楽になるというのは、自然の生き方になると楽(素直)になるという意味を直感しました。素直ではないことがあれば、病気というものが天から与えられてカラダがそれを見せて気づかせてくださる。

そのことに対して、どれだけ自分が素直になって向き合い執着を手放し、心、魂、肉体、つまりはカラダを直していくかということではないかとお話を通して私は実感しました。かつて、常岡一郎さんが「病は天からの手紙」ということを仰っていました。そしてその人がその手紙を読んで如何に自ら「手放せるか」ということについてのやり取りをお聴きしたことがあります。

そのことと同じように、自らが長い年月でつくってきた執着や固執がカラダに沁み付いたものをどのように素直になって自然治癒していくかということを感じました。自然治癒には勇気が必要で、自然と向き合い、不自然を直す勇気が要ります。その勇気は希望になり、その人のカラダを原点回帰していくことができるように思います。私たちのカラダもまた自然の一部分でつながっていますから信じて手放すことによって元気に戻っていくのでしょう。

人が元気がなくなるのも病気になるのも、不自然なことを続けていくからです。不自然が分かるというのは、それまでの刷り込みが取り払わられるということです。まず自分の刷り込みに気付けるかどうかは、自分のカラダから出てきた兆しを素直に受け止めることができ、その上で素直に手放すことができるかによります。

古語にある「病は気から」というのは「元気ではなくなる」という意味なのでしょう。本来、私たちには元気があるのだから自然から与えられるチカラを存分に与えられるからカラダのままで御気楽極楽に生きていきたいと思います。

小松庵主と奥様にお会いできたことで、本来の人間の根本、そして病の根源とは何かを考え直す新たな機会になりました。いのちといのりによる自然治癒の生き方を体現し伝承しつつ、引き続き子どもたちが安心して暮らしていける世の中を譲っていくためにも、学びを深めて実践を高めていきたいと思います。

一期一会のご縁に深く感謝しております。